卒業試験

前編


「あ、おかえりウルフくん。早かったねー。すぐ晩ご飯にするから待ってて」
 こちらのハイラルに「帰ってきた」途端に笑顔を向けられ、ウルフは黙ってまばたきをする。
「……どうかした?」
 声の主――リンクは首をかしげる。金の長めの髪を後ろで一つにまとめ、晴れた空と同じ色の瞳をしている。そして彼は、エプロン代わりにお古の防寒着を着込んでいた。
『いや、なんか……なんだろな』
 ウルフはブツブツ言いながら木の床を踏む。ここはハテノ村、リンクの家だった。
 家主は下手くそな鼻歌をうたいながら、台所へ鍋をいじりにいった。炊事場が外にしかないのは不便だからと、サクラダに言ってつくってもらったらしい。
 帰ってきて、おかえりと言われて、あたりには食欲を刺激する晩ご飯の香りが漂っている。それは絵に描いたような平和な光景だった。
「じゃーん、上ケモノ肉丼! ちょっとお肉を奮発してみたんだー」
 ――これでリンクがウルフと同年代の男でなければ、完璧だったのだが。
 リンクは食卓に自分の皿を置いて、ウルフの分は床に置く。
「いただきます」
 食べやすいように細かく分けられた肉をご飯と一緒に咀嚼しながら、ウルフはしみじみとした。
『お前さ、米の炊き方上達したよなー』
「本当? きみがそう言うなら、マッツさんにも自慢できるかなあ」
 米粒はつやつやと輝いている。リンクは調子に乗るわけでもなく、案外冷静に自分の料理の腕を評価しているようだった。
「それよりもまずは、ウルフくんがちゃんと食べてくれるようになったことを報告しないとねっ」
「はいはい」と流しておく。
(そういうのは俺がいない時、適当にやっておいてくれないかな……)
 厄災が封じられ、かつての豊かなエネルギーを取り戻したハイラル。そのおかげで今や、ウルフは誰の目にも映る存在となっている。
 加えて会話もできるようになり、リンクは非常に喜んだ。が、その好事は「大きなオオカミが人里に頻繁に出入りする」ことにもつながった。カカリコ村ならまだインパから話を通してもらえるが、ハテノ村では門前払いを食らう可能性すらある。そこでリンクはウルフを連れて、一軒一軒挨拶をして回った。家を買ったにもかかわらず今までろくに寄り付かなかった彼が、いきなり物騒なケモノを連れてきた――当然村人たちは戸惑ったが、サクラダの強力な口添えもあり、なんとか受け入れてもらった形になる。あちこちで怖がられてきたウルフにとっては、「大人しくしているなら構わない」というだけでもありがたい。さすがに喋れることは伏せたのでおおっぴらに会話はできないけれど、二人はずいぶん気楽に外出できるようになった。
 食事を平らげ器を片付けたリンクは、シーカーストーンのマップを見つめた。
「明日はどこへ行こうか。まだ知らない場所はたくさんあるし、久々にウオトリー村に顔を見せたいような気も――」
 リンクは言葉を切り、不思議そうに中空を見つめる。
 ずしり、と空気が重くなったように感じた。
(なんだ)
 ウルフも視線を追う。天井があるだけだった――が、そこを突き抜けた場所から、いきなり「声」が降ってきた。
『選ばれし者……そなたの名はリンク』
 リンクが目を見開く。何故か、ウルフは同時に自分にも呼びかけられたように感じた。
『時は満ちた……大いなる試練をそなたに与えよう。マスターソードを抜いた場所――コログの森に赴き、デクの樹を訪ねるのだ。かの巨木がそなたを新たな試練へと導いてくれよう』
 ふっと重い気配が消えた。
 二人は知らず知らずのうちに緊張していた体をゆるめ、息を吐く。
『今の声は……?』
 リンクは真面目な顔で口の端の米粒を拭う。
「古代の祠にいる導師の声に似てた。でも、ウルフくんにも聞こえたってことだよね?」
 二人は顔を見合わせる。
 古代の祠はこのハイラルの勇者――すなわちリンクのためにつくられたものであり、ウルフは入ったことがなかった。試してはいないが、おそらく入り口で締め出されるだろう。どうやら内部では、宝珠を運んだりシーカーストーンを使ったりして道を切り開く仕掛けを解き、最奥の導師から何やらありがたい証をいただく試練が待っているらしい。要するに、古代のシーカー族が残した勇者の養成施設である。
『マスターソード、か』
 ウルフは部屋の隅に立てかけられた剣を見る。リンクは厄災との戦いを終えてなお、退魔の剣を所持していた。ウルフはその理由を知らなかった。
『さっきの声に従うなら、明日はコログの森か?』
「うーん……その前に一応ゼルダ姫に相談しようかな。明日の朝、ハテノ古代研究所に来るはずだから」
 ウルフはピンと耳を立てた。
(いつの間に連絡取り合ってたんだよ……)
 二人は基本的にゼルダ姫とは別行動である。リンクはかつてのように騎士として彼女の麾下におさまるつもりはないようだ。決して姫と仲が悪いわけではないはずなのだが……
 ゼルダについて語る時のリンクの顔は、奇妙に不透明であった。



「コログの森にある、大いなる試練……ですか?」
 活発なズボン姿のゼルダ姫は、きょとんとした。空色の私服はリンクの英傑の服とおそろいにも見える。
 翌朝ハテノ古代研究所で合流した三人は、話をするため外に出ていた。研究所内は書類で散らかっており、足の踏み場がないのだ。
「はい。いきなり僕とウルフくんの頭の中に声が響いて……それが、古代の祠にいる導師の声と似てたんです」
「なるほど。その剣が未だあなたの背にあることと、何か関係しているかもしれませんね」
 ウルフは首をかしげる。
『それってどういう意味だ?』
「実は、ウルフくんがいない時に森に剣を戻そうとしたんだけど、何故か台座が受け入れてくれなかったんだ」
『えっ』
 ウルフは自分があの剣を台座に返した時を思い出す。迷いの森の奥、時の神殿跡にひっそり佇む台座へ、マスターソードはまるで彼の手を導くようにすんなりとおさまった。
『まだこの剣を使ってやるべきことがあるのか……?』
「でも、厄災は封印したわけだし」
「理由はその導師にしか分からないでしょうね」
 ゼルダの言うとおり、直接尋ねるのが一番早いだろう。
『にしても、なんで俺にもあの声が聞こえたんだ? だってこれは勇者の――リンクの試練なんだろ』
 ゼルダは意味深に目を細める。
「そうですね……きっとこの試練は、ウルフさんにも関係があるのだと思います。声の主は二人を同時に呼んでいるのではないでしょうか」
 ウルフはどきりとした。こちらのハイラルでは「彼」はあくまで「ウルフ」である。一度本来の姿を晒しているし、あの容姿からほとんどバレているようなものだが、彼は自身の本当の名を明かしたことはない。
 何故なら、このハイラルの勇者は今隣にいる「リンク」だからだ。
『とにかく行ってみたら分かる……か』
「うん、デクの樹様に聞いてみるのがいいね。ありがとうございます、姫」
「いえ。お気をつけて……」
 ゼルダはリンクとまともに目を合わせ、「しまった」とばかりに振りかけた手をおろした。リンクもはっとしたように表情を引き締めてきびすを返す。
(なんだこの雰囲気……)
 何故この二人が気まずい空気を醸しているのだろう。ウルフがちょくちょく自分の国に帰っている間に、何かあったのかもしれない。
 ハテノ研究所の坂を下り、すたすた歩いていこうとするリンクへ、
『お前、そういえば馬は?』
 こうして位相のずれた世界を自由に行き来しているウルフであるが、さすがにエポナは連れてこられなかった。すでに彼は二度に渡って「万能の力」を使用している。これ以上リスクは増やしたくない。
 リンクは振り向き、満面の笑みを浮かべる。
「馬はいないよ。だって、ウルフくんと一緒に歩きたいから!」
『でも今回はワープの方がいいだろ。試練とやらの前に体力を消耗したくない』
「……分かったよ」
 リンクは不満げに唇をとがらせ、シーカーストーンを取り出した。
 プルア博士とゼルダ姫の働き、さらには古代エネルギーの潤沢な供給により、シーカーストーンは本来の力を取り戻している。一人と一匹が空間転移することなど造作もない。
 ウルフとリンクの体は青い光に包まれていく。かつて、一人しかワープできずウルフがゾーラの里に置いて行かれた事件があったが、あれがもはやずいぶん昔の出来事のように思い出された。
 視界が戻ると、むせかえるような緑の洪水が待っていた。昼のコログの森は、生命の気配に満ち満ちている。
 コログたちもすっかりウルフの姿に慣れたのか、すぐに木の間から出てきて「ゆうしゃサマ~」「ウルフサマだ!」などと嬉しそうに寄ってくる。
 リンクはしゃがんでコログと目線を合わせた。
「デクの樹様、元気?」
『ハイ! ゆうしゃサマのことを待ってるみたいでシタ』
 やはり。かの老木は何かを知っているのだ。
 森の奥へ進んでマスターソードをおさめるための空っぽの台座に立ち、二人は大樹を見上げる。
「こんにちは、デクの樹様」
『えーと、お世話になってます』
 木と会話する、ということに未だ慣れないウルフは、どうしても挙動不審になる。
 デクの樹は変わらずピンクの花咲く枝を揺らし、応えた。
『ワシに用があるのじゃろう』
「はい。昨日、不思議な声を聞きました。マスターソードの試練がどうとかって……」
『ならばわしは、その大いなる試練について知る限りを伝えるとしよう』 
 ゴクリと唾を飲むリンク。
『主がその手に取り戻した剣――マスターソードは、真の輝きを秘めておる』
「真の輝き……」
 リンクは剣を鞘から抜いた。どうやっても抜けなかった以前とは違い、すっと刀身が現れたのはいいものの、
『ガノンと戦った時は、確かにもっとぴかぴか光ってたな』
 ウルフの指摘のとおりだった。厄災が封じられたのだから、当然といえば当然だが。
『この試練は、その輝きを解き放つことができるか主の力を試すものじゃ』
「えっ。でももう厄災はいないんですよ?」
 これ以上剣の腕を鍛えてどうなるのか、とリンクは言いたいらしい。ウルフも同感だ。
『そうじゃな。何故今になって試練が解放されたのかは、わしにも分からぬ。わしにできるのは、詳細を伝えることだけじゃ』
「はあ……」
 リンクはうさんくさそうに返事した。
『この試練ではすでに手に入れた武器や防具は封印されるゆえ、あるがままの姿で敵に立ち向かわねばならぬ。これまで磨き抜いた知恵と勇気で剣の試練に打ち克ったその時こそ……マスターソードは初めて主の剣となる!』
『――ここまでやって、まだリンクの剣じゃなかったのかよ!?』
 ウルフは思わず叫んでいた。このマスターソード、リンクに厳しすぎではないだろうか。デクの樹は吠えるオオカミに構わず、太い眉を片方だけ上げた。
『……ふむ、その表情から察するに、試練に挑む気は充分のようだな』
 ウルフがびっくりして見上げると、リンクは見たことがないくらい凛々しい顔つきになっていた。美しい刃を誇る退魔の剣をじっと見下ろしている。
『マジで? お前が?』
「僕だって、できることならちゃんと剣に認められたいよ。ウルフくんや百年前の僕はちゃんと主になったんでしょ?」
 あれほど勇者を嫌がっていた彼に、そんなプライドが目覚めるなんて。いい傾向である。ウルフはちょっと感動してしまった。
『ならば主よ、その台座にマスターソードを挿し戻すのだ』
 リンクはうなずき、右手で退魔の剣を掲げる。太陽の光を反射し、刀身が燦然と輝いた。
 ウルフは厄災戦の土壇場で、自分があの剣を手にした時のことを思い出した。もはや勇者でない自分が剣に認められないのは分かる。でも何故、マスターソードはそこまでリンクに厳しいのか。ゼルダ姫が感じていた「内なる存在」が、何らかの意図で持ち主を選別しているのだろうか。
 この謎は、試練で確かめるしかない。
「それじゃ行くよ……」
 リンクはゆっくりと剣を台座に戻した。木漏れ日が強くなるような感覚とともに、目の前が真っ白に支配されていく。



『剣に選ばれし者よ。女神ハイリアの名におき剣の試練を与えよう』
 視界が回復した瞬間、例の声が降ってきた。
 青みがかった光が差し込む木立の中である。一瞬屋外かと思ったが遠くに壁が見えた。どうやら、光る天井が大きな部屋を覆っているようだ。
『真の輝きを開放せしマスターソードを操るには、そなたの力は未だ不十分……。この地に現る全ての妨げを退け、肉体と精神の向上を目指すが良い。
 ここは何が起きても不思議のない夢幻のごとき異空なれば……手に入れしものは現世に戻れば失われる』
 妨げを退ける――おそらく、現れる敵を倒せということだろう。
『マスターソードに選ばれし者よ、剣の試練を乗り越え、真の輝きを手に入れよ』
 声は消えた。いよいよ試練のはじまりだ。
 軽く息を吸って、リンクは隣を見やる。
「何が起きても不思議のない空間……って、こういうことなのか」
 そこには緑の衣をまとった青年がいた。自分の手をしげしげと見つめている。
 一気にリンクの顔が喜色に彩られた。
「ウルフくん……人間の方の!」
 と言うと、ウルフは軽くずっこけたようだった。
「いや、どっちも俺だって。ていうかなんだお前、どうしてパンツ一丁なんだ」
 リンクは自分の服装を見返した。見事に下着姿である。武器や防具は何もなく、かろうじて腰にシーカーストーンが残っているだけ。回生の祠で目覚めた時とまるで同じ状態――これが彼にとっての「あるがままの姿」というわけだ。
「裸なのも試練ってことなのかなあ」
「じゃあ俺はなんで服着て……いや、着てたほうがいいけど」
 ウルフはさっとリンクから視線をそらす。服を貸すことになったら少し面倒だと思ったのだ。幸い、この空間は寒くも暑くもない。
「ていうかこれってお前の試練なんだよな? このままだと俺が手伝うことになるけど、いいのか?」
 ちなみにウルフも丸腰である。リンクは首を振った。
「多分、二人で協力しないと抜けられない難易度なんじゃないかな」
「そっか。なら遠慮の必要はないな」
 ウルフが口角を上げてこぶしを握る様子を、リンクはじっと観察している。そして何も言わずに笑った。
「な、なんだよ?」
 少年の瞳はきらきらと輝いていた。
「いや、やっぱりこっちのウルフくんもかっこいいなと思って。それにそのピアス……つけてくれてるんだね」
 そう言うリンクの頬は少し赤い。珍しく照れているようだった。
「まあな。あっちでうちのお姫様にも自慢したんだぞ」
「な、なんで!?」リンクは耳まで火照らせた。反応が面白くて、ウルフはにやにやする。
「向こうから気づいてくれたんだよ。夜光石のピアスなんて珍しいだろ。それに人からこういうのもらったの、初めてだったし――」
 下がったウルフの目尻が、不意にきりりと引き締められた。前方へと鋭い視線を送る。
「わっ」
 リンクが慌ててバックステップする。飛んできた小石を避けるために。
 そう、のんきに会話している暇はない。とっくの昔に試練ははじまっているのだった。
 にじりよるのは三体のボコブリンである。あちらの武器は木の槍やこん棒で、歴戦をくぐり抜けてきた二人にはもはや大した脅威でないはずなのに、無手であるがゆえに妙に恐ろしく見える。
「何か武器がないと……!」
 リンクは小石に対抗してか、拾った木の枝をぽいぽいと投げつけている。ウルフは呆れた。
「お前いいもん持ってるだろ、シーカーストーンでなんとかしてくれよ!」
「あっそっか」
 リンクは腰の石版からピンを引き抜き、素早く青いバクダンを取り出した。十分に距離をとって爆発させて、うめいたボコブリンの手から木の槍を奪う。
 リンクはさらにもう一つ地面に落ちた武器を手に取り、ウルフの方へ放る。
「これ使って!」
 ボコこん棒だった。ウルフは思わず棒立ちになる。彼はリンクのように幅広い武器を扱えるわけではない。棒状の打撃武器などほぼ初めてだった。
「え、これどうやって使えば……」
「適当に叩けばいいから!」
 リンクは槍を華麗に使いこなし、リーチを活かして魔物の急所を突く。ウルフも奮起して棍棒を振るってはみたが、どこをどう当てれば効率よくダメージを与えられるのか、いまいち分からない。それでもなんとか一体のボコブリンを倒した。
 敵は掃討されたが、当然試練がこれで終わりのはずはない。ウォーミングアップが済んだというところだ。
 ウルフはため息をつき、こん棒を手の中で遊ばせた。
「お前、案外器用だよな……」
 チェーンハンマーも弓も、最初は扱うのに苦労したものだ。一方、リンクはどんな武器でもほとんど手に入れた瞬間から使いこなしている気がする。
 リンクはたすきがけにした肩ベルトに槍をくくりつけ、
「近衛騎士だった昔の僕は、一通りいろんな武器を使えるように訓練してたみたい。近衛シリーズっていう武器があったの覚えてる? 片手剣だけじゃなくて、両手剣や槍もあったんだよね、あれ」
「その話はゼルダ姫から聞いたのか?」
「……うん」
 リンクはうつむき、小さくうなずいた。
 どうやら、ウルフのいない間に少しずつ過去と向き合いはじめているらしい。
 部屋の中を探索すると、ボコブリンが囲んでいたであろうたき火と焼き肉の残りがあり、また部屋の中央付近には草に埋もれるようにして描かれた魔法陣があった。その上に立つと空間転移の術が発動するに違いない。
「ここから次の部屋に行けそうだな」
「この先どのくらいあるのかなあ……」
「何十階とあるかもな。試練ってそういうもんだから」
 似たような施設を知っているウルフが答えた。
「ええっ」
 驚いたリンクは、突然身を翻し魔法陣とは反対側に走って行く。
「お、おい!」
 ウルフも慌てて追いかけた。
 リンクは、ボコブリンたちが調理したであろう肉の丸焼きに向かって直進していた。
(なるほど、食料の確保か……)
 長期戦になるなら、腹ごしらえと回復のために食べ物は必須である。欲望優先に見えて妙に合理的な行動に、ウルフは納得したのだった。



 柔らかな光が降り注ぐ森。この試練の間にはどの部屋にも豊かな自然とともに危険な気配が満ちていたが、今回たどり着いた部屋は違った。魔物の姿が見当たらない。
 それでも警戒しながら木立の中を進んだリンクは、
「鍋がある!」
 相変わらず裸のままで歓声を上げた。
 ウルフがあたりを見回せば、木には果実が実っている。
「休憩所ってところかな。やれやれ」
 あれから何階層か突破した。難易度は徐々に上がっているように感じる。ここで休憩所が来たのは、試練をつくった者の計らいだろう。
 リンクは嬉々として鍋の前に手持ちの食材を並べだした。
「えっと、何つくろうかな。今あるのはトリのタマゴとー……」
 すでに最初のボコブリンから手に入れた焼肉は二人の腹に収まっている。慣れない武器で戦うため、意外とダメージをもらうことが多かった。
「せっかくだからメインディッシュになるような、お腹にたまるものがほしいよね」
 と呟いて周囲を確認したリンクは、ぱっと顔を明るくした。
 部屋の端は人工の池になっており、何匹かの魚が泳いでいた。よだれを垂らさんばかりの表情になり、彼はふらふらとシーカーストーンを操作してバクダンを取り出す。
「ちょ、ちょっと待った!」
 血相を変えたウルフが前に飛び出た。
「バクダンで吹っ飛ばす気か!? 身がばらばらになるだろっ」
「でも、こうするのが一番早くて確実だし……」
 空腹のせいか、思考が短絡的になっている。
 ウルフは盛大にため息をついた。
「ちょっと待ってろ、すぐ釣ってやるから」
「釣る……?」
 ウルフはにやりと笑うと、余ったボコ槍を手に取った。さらに使わない弓の弦を外し、槍の先端に取り付ける。それが終わると、ナイフを使って木の枝を削り、針のように尖らせて弦の先に結んだ。
 リンクは目を丸くした。
「それ、何?」
「釣り竿。即席だけどまあまあの出来だな」
 リンクは興味津々でウルフの手元を見つめている。
「よおく見てろよ」
「うん」
 ウルフは水辺に針を投げ入れた。くいくい、と手首を動かして糸を泳がせ、獲物を誘う。
「今だっ」
 おびき出された魚が食いついた瞬間、さっと水から引き上げた。
「ほら。どんなもんだ」
 ウルフの手には生き生きと跳ねるマスがおさまっていた。鮮やかな手並みだった、と彼は自負する。
「す……すごい! 魚ってこうやってとるものなんだね」
「ちょっとはこういう文明の利器を使えるようになれよ、野生児」
 ウルフが目配せすると、パンツ姿のリンクは照れ笑いした。
「その釣りってやつ、僕にも教えて!」
 二人は試練の最中であることを忘れ、しばし魚釣りに熱中した。果てには食べきれないほどの釣果を積み上げてしまい、リンクは嬉しい悲鳴を上げつつ調理方法を考えるのだった。
 十分に熱した鍋に、新鮮な魚をまるごと放り込む。香ばしい焼き目がついた。単なる焼き魚であるが、目一杯運動した後の食事は格別のものがある。残りは保存用として煮込んでおいた。
 リンクは歯で魚の身をはがしながら、ウルフのつくった即席の釣り竿に目をやる。
「今の釣りってやつも、もう一人の相棒の人とやってたの?」
 もう一人の相棒――ウルフがあらゆる手を尽くして追い求めている相手である。ついにその話題が出たか、と彼は胸のドキドキを隠しながら答えた。
「いや、釣りをしてたのは俺の方だな。あいつは見てるだけだった」
 ウルフはぼんやりと回想に浸る。故郷にいる弟分に作ってもらった釣り竿。嬉しくて、旅の間中ずっと持ち歩いていた。沢、湖、川、果てには精霊の泉など、良さげな釣りスポットを見つけるたびに糸を垂れていたら、しびれを切らした「彼女」が影から出てきて「早くしろ」と怒ったものだ――
「ミドナさんのこと、好きだったの?」
 リンクの唐突な発言が夢想を破った。
 ウルフの手から力が抜け、食べかけの魚が地面に落ちる。
「あーあ、もったいない」
「な。な、なに言って――!?」
 リンクにミドナの名前を教えた覚えはなかった。そもそも相棒が女性だったことすら、一度も言っていないのに!
 ぱくぱく口を動かすウルフを、リンクは不思議そうに見つめる。
「相棒さん、ミドナっていう名前なんだよね?」
「いやそうだけど……なんで!?」
「たまに寝言で呟いてたよ」
 間抜けな失態によって何もかもがバレていた。ウルフの秀麗な顔に血が集まる。
「べ、別に、ミドナとはそういうわけでは……」
 一体自分は何を弁解しているのだろう。平静にしているリンクとは対照的に、彼は大混乱に陥っていた。
「でも相棒なんでしょ。それに、ミドナさんとまた会いたいから旅に出たんだよね? それって結構――」
 ウルフは素早く口を挟む。
「お、お前の方こそどうなんだよ!? パーヤとかゼルダ姫とか、割といい感じだったろ!」
 無理やり話題を逸らそうとすると、リンクは首をひねった。
「うーん、僕は今のままでいいよ。ウルフくんもいるし」
(……どういう意味だ?)
 目が回りそうになったウルフに、リンクは微笑みかける。
「ミドナさんと早く会いたいよね。どんな人なのか、もっとくわしく教えてね」
「……メシ食い終わったなら、とっとと次行くぞ!」
 ウルフはあたたかい視線を振り払って立ち上がると、率先して魔法陣の上に乗った。
 苦笑したリンクは食事を片付け、その隣に立つ。彼はウルフより少し背が低い。
「にしても、剣の試練っていう割に全然剣を使う機会ないよね」
 今のリンクの武器は弓と槍だ。ウルフは「剣の方がいい」と主張したので、手に入った片手剣を優先的に使わせてもらっている。
「剣以外の武器の腕とそれを扱う精神を鍛えるんだろ、多分」
「精神かあ……鍛えられてるのかな?」
 青い光が拡散し、転移の魔法が発動した。「なんとなく納得できない」というリンクの表情が薄れてゆく。
(もしくは剣が――マスターソードが課した試練だから、なのかもな)
 ウルフは心の中で呟き、天を仰ぐ。
 どこかで「マスターソードの内側に宿るもの」がこちらを見守っているような気がした。



 暗く、冷たい空間である。
 気の遠くなるほど長い時間、「彼女」はそこに一人でいた。そして待ち続けていた。己を台座から解き放ち、主として仕え自在に力を振るうべき人物を。
 ついにその時は来た。重い音とともに一筋の光が差す。その部屋の入口が開いたのだ。
「彼女」の意識は覚醒し、主人にかけるべき言葉を紡ぐ。
『――おかえりなさい、マイマスター』



 一つ目の巨人が片足を踏み出すと、それだけで地面が揺れた。ウルフは衝撃で空中に浮き上がりそうになりながら、目玉を狙って矢を放つ。
「くそ、防がれた」
 命中の直前、敵の分厚い手のひらが矢を遮った。妙な知恵が働くものだ。
「僕が木の上から狙ってみる!」
 巨人ヒノックスの注意を引きつけていたリンクは叫び、ぱっと木の幹に飛びついた。代わりに魔物の相手をするのはウルフの役割だ。使い込んでボロくなってきた剣を抜き、構える。
 ヒノックスは大きな腕を伸ばしてきた。ウルフはステップで避けるが、
「あ、やべ」
 巨人の狙いはリンクのいる木だったのだ。片手で幹をわしづかみにし、そのまま怪力によって地面から引っこ抜く。
「わーわー!」
 かろうじて巨人の手から逃れたリンクは、叫びながら幹にしがみついている。
「早く飛び降りろ!」
「了解っ」
 リンクは急いでジャンプし、何故かパラセールも開かずにウルフに向かって落ちてきた。
 とっさに剣をしまって両手を差し出す。なんとか間に合い、ほとんどリンクをキャッチする格好になった。
「おい!?」
 素早く立たせてやりながら抗議の声を上げる。
「ごめん、でもきみなら受け止めてくれると思ったから」
 相変わらずの発言に文句を挟みたくなったウルフだが、「今はヒノックスの相手が先だ」と気持ちを切り替える。
 その判断は正解だった。すぐに横薙ぎに丸太が繰り出され、二人は地面を転がった。全く、巨人にふさわしいサイズの武器である。
 次のヒノックスの攻撃に身構えながら、リンクがつぶやく。
「今、チャンスじゃない?」
「はあ? どこがだよ」
「手が塞がってるから目玉を狙える!」
 リンクはウルフに目配せして前に出た。その手にはシーカーストーンが握られている。
「一瞬だけ動きを止めるから、あとはお願いっ」
 ビタロック――石版の持つ機能の中でも最大級の反則技だ。なんと、ほんの数秒間なら魔物の動きすら完全に止められる。古代エネルギーのチャージに時間がかかるので滅多に使わないけれど、強力な一手だった。
 リンクがビタロックを発動させたと同時に、ウルフは弓を引き絞った。中途半端な位置で止まった丸太をすり抜けるようにして、一条の矢が目玉を貫く。アイテムの効果が消え、たちまちうずくまったヒノックスにとどめを刺そうと、二人は駆け寄る。
 最後の一撃を加えた際にウルフの剣は折れ飛んだが、代わりにヒノックスが首飾りにしていた武器を大量にゲットできた。
「んー、これとか使いやすそうかな」
 ウルフはしっかり刃を検分すると、手首でクルクル回してから鞘にしまう。いつもの癖だ。
 なんだか静かだと思ったら、リンクが感動に堪えないといった様子でぷるぷる震えていた。
「か、カッコいい……!」
 いちいち大げさな――と思いつつも、ウルフは鼻高々である。
「だろ? すっげぇ練習したからな。戦いよりも曲芸ばっかり上手くなって、師匠に怒られたくらいだ」
「もっぺんやって、もっぺん!」
 ウルフは腕組みをする。
「今度カッコよく敵を倒したら、最大難易度の技をやってやるよ」
「やった!」
 リンクは手を叩いた。そのままにこにこしている。
「やっぱり君にまた会えて、良かった」
「……なんだよいきなり」
 首をかしげるウルフに、リンクは微笑みかける。
「今、幸せだなと思って!」



 ぎぎ、と木の扉が重い音を立てて開いた。しばらく動かしていなかったらしく、わずかに金具ががたついている。
 暗い室内に日が差し込んだ。中にいた一人の住民が、眩しそうに目を細める。
 訪問者は眼鏡の奥の瞳を鋭くすがめた。
「一体いつまでウジウジしてるつもりなのヨ、リンク!?」
 ぼんやりと食卓についていたリンクは顔を上げる。そこはハテノ村にある彼の家だった。
 訪問者――ハテノ研究所の所長プルア――はつかつかとリンクに歩み寄った。人目を避けるためかぶっていたフードを外しながら。
 何も言わないリンクを見上げ、彼女は強い視線を送る。
「姫様はそっとしておけって言うけど、もう我慢できない。たまたま近いところに住んでるからね、迎えにきてあげたのヨ」
 リンクは答えない。プルアはイライラを爆発させた。
「いい加減にしてよ。ウルフはもう、いないんだよ。いくら待っても戻ってこないの!」
「……!」
 リンクの瞳が揺れた。そこに映るいつかの空には、黄色い花びらが舞っている。
「ウルフはもともと別世界の存在だったんだ。そりゃあ最初はアタシだって応援した……あの時ウルフにいなくなられたら、リンクが絶対先に進めないと思ったから。でも、今はもう違うでしょ?」
 プルアは机の上にのぼる。無理やりリンクに肉薄し、目線を合わせた。
 彼の顔はほとんど虚無に支配されていた。抜け殻になってしまったのだろうか。
「アンタはちゃんと厄災を倒した。自分でも気づいてるはずヨ、今ならウルフがいなくてもやっていけるって。だから――」
 物言わぬリンクの瞳に閃光が走った。それは心の奥に燃える意思の炎だった。
 やはり、ウオトリー村に逃げ出した頃とは違う。今のリンクは、たとえ相棒がいなくとも自力で立ち直る力を持っている。それなのに、何故……とプルアは言いたいのだろう。
「子供みたいな真似はやめて、しっかり自分で立ちなさい、リンク!」
 小さなプルアは己の何倍もの背丈を持つ――しかし見た目よりずっと精神の幼い少年を叱咤した。
 そう、あまりにも真剣に説得していたので、彼女は部屋の空気が動いたことに気づかなかった。
 リンクはふと視線をずらし、玄関を見た。
「あら? 先客かしら」
 開けっ放しの扉から入ってきたのは、サクラダ工務店の社長である。
「や、ヤバッ」
 血相を変えたプルアは、フードをかぶって脱兎のごとく逃げ出した。あっという間に外の吊り橋を渡っていく子供を見送り、サクラダが目を丸くしている。
「今の子は誰なの?」
 リンクはため息をつき、やっと口を開いた。
「知り合いです。それよりも、工事お願いできますか」
「もっちろんよ。しばらくうるさくなるけど我慢してネ」
 サクラダは腕まくりをした。ちょうどいいタイミングで、弟子のカツラダが資材を運び込んでくる。
 リンクは少し前に工務店に内装工事の依頼をしていた。家の中に厨房を作ってほしいと頼んだのだ。
「アナタ、最近ずっとこっちにいるわよね。ってことは本格的に村で暮らすのかしら。誰かと一緒に住むの?」
 寸法を測っている最中のサクラダに尋ねられ、リンクの心臓が跳ねた。
「いや……別にそういうわけでは……」
「でも今、誰かの顔を思い浮かべたでしょ?」
 図星であった。
「住みたいというか、ただ一緒にいたい人がいたんです。でも――」
 言いかけたリンクを遮り、
「いいじゃない。その人が帰ってくる場所をつくってあげることは、きっとアナタにしかできないことよ」
 サクラダはウインクした。



 暗い。ただひたすらに暗い。
 自分の足元すら見えない濃厚な闇の中、リンクとウルフは背中合わせになって身を固くしていた。
「こ、ここで戦えってのか……!?」
 剣の試練を勝ち抜くためには、地形や相手の武器を利用することが重要となる。それを十分承知しているからこそ、この状況の恐ろしさがウルフには分かる。オオカミの姿ならセンスを研ぎ澄ませて敵を見つけることができたのに、と唇を噛んだ。火をおこす手段はないわけではないが、松明など使えばたちまち敵に発見される恐れがある。ここは慎重になるべきだ。
 リンクは腰を落とした。幾度目かに訪れた休憩所でハイリアのズボンを手に入れたため、裸ではない。彼はそっとウルフにささやく。
「僕が先に行って様子を確かめてくる」
「バラバラになったらまずくないか?」
「でも、固まってても同士討ちしちゃうかもしれない。邪魔にならない程度に離れてた方がいいんじゃないかな」
「分かった。気をつけろよ」
 リンクの気配が離れていく。ウルフは身を低くした。
 この暗さなら、魔物だってろくに目が効かないだろう。先に相手の位置を特定し、不意打ちを決めればよいのだ。
 前方にあった壁の向こうで、青い光と爆音が散る。リンクがバクダンを使ったらしい。ウルフはさっそくその方向に走り出した。
 ところどころに設置された燭台のおかげで、暗闇の中にうごめく敵影が見えた。音の方に向かう敵へ、後ろからジャンプ斬りで飛びかかる。
 一体仕留めたようだが、一斉にこちらに注意が向いたのを感じる。相手の数も姿も分からないけれど、やるしかない。
(ええい、なるようになれっ)
 味方を巻き込む心配がないとあらば、回転斬りだろう。軸足をしっかり踏み込み剣を振るうと、手応えがある。
 一体何合打ち込んだだろうか。気づけばあたりは静かになっていた。
「終わった……のか?」
 戦闘中に数発もらったせいで、体の節々が痛む。リンクと早く合流して、食料を分けてもらいたいところだ。
 物音どころか何の気配もない。その辺に転がっていた木片を拾い、燭台から火をもらって松明代わりにした。リンクがバクダンを使ったであろう場所を探すと、魔物の牙や角のかけらが散乱していた。
 この様子だと、リンクはウルフより大勢を相手したに違いない。怪我などしていなければ良いのだが。
(にしても、またあいつの作戦が成功したな)
 何かとウルフを褒めて上に置くリンクであるが、個人戦闘能力を除けばほとんどの技能においてあちらが上回っていると、ウルフはすでに察していた。でも、だからといって己の能力不足を負い目だとは感じない。なぜなら、リンク自身が誰よりもウルフの存在を肯定してくれるから。
 ――やっぱりきみがいないとやる気が出ないよ。これからもそばにいて、僕のことを見ていてほしい。
(ああ言われるのは、悪くない気分なんだよな)
 普段は照れくさくてとても口にできないけれど、ウルフはリンクが必要としてくれていることに心地よさを覚え、その好意に甘えていた。
 地面に注目していたら、ブーツのかかとが見えた。ウルフはほっとして視線をあげる。
「おい、リンク!」
 かすかに浮かび上がった背中へと声をかけた。
「……ウルフくん」
 リンクはゆっくりと振り返る。何故か生気が抜け落ちたような表情だ。薄明かりにも顔色が悪いことが分かる。
「ど、どうした。怪我でもしたのか」
 駆け寄ると、彼はうっすら微笑んだ。いつもと違い、ひどくぎこちなく。
「いいや。ウルフくん、ありがとう。本当に、今までずっと……。でも、もういいんだ」
 なんだか様子がおかしい。ウルフは眉をひそめる。
「はあ? 何だよいきなり」
 リンクは首を振った。
「やっぱりきみはきみの道を歩んでほしい。僕はもう大丈夫だから」
 驚くほどに真剣に放たれた台詞が、思いがけなくウルフの胸を貫いた。
 どういう意味なのだ、それは。
(あ、あれ……?)
「今更どういうことだよ」とか、「冗談言うな」とか、「やっぱり具合悪いんじゃないか」とか。舌まで上ってきた軽口は、すべて喉奥に飲み込んでしまった。ウルフはその言葉で傷つき、また「自分が傷ついている」ことを自覚して余計にショックを受けていた。
 今までずっと、ウルフはリンクが求める気持ちに応えてきた。だが、もしも彼に必要とされなくなったら――自分はどうすればいいのだろう。
 そんなこと、考えたこともなかった。……考えたくなかったから。



中編


「彼女」のマスターは大切な人を追い求めていた。
 常春の楽園である大空の故郷から、魔物はびこる大地へ降りて。その旅路の辛さは、常に傍にいた彼女ですら計り知れないほどであった。それでもマスターが前に進めたのは、「その人」の存在があったからだ。
 砂漠の端にある崩れかけの遺跡で、マスターはついに大切なその人を見つけた。
「ゼルダ!」
 巫女服を着た幼なじみを見て、彼は叫ぶ。二人の間は崖に阻まれており、一本の細い橋によってつながっていた。
 マスターは急いで足場を渡ろうとする。
 瞬間、その背にいた彼女は邪悪な魔力を感知する。彼女が警告を発するよりも早く、魔族の長が高笑いとともに出現した。そしてマスターが剣を抜くよりも早く、魔法の壁によって道を塞いでしまう。
「しまった……っ」彼は身動きが取れなくなる。
 その様子を一瞥した魔族長は、すぐさま巫女めがけて突進した。巫女の従者が前に出て、結界で猛攻を防ぐ。
「ゼルダ様! 早くその扉へっ」
 ゼルダと呼ばれた巫女はまなじりを決し、自分の竪琴に念を込めた。
「リンク、受け取って! きっとあなたの役に立つはずよ」
 マスターは腕の中に飛び込んできた竪琴をしっかり荷物に押し込むと、薄れかけてきた魔力の壁を打ち破り、剣を振るって魔族長と従者たちの間に割り込む。
 その勇敢な行為のおかげで、なんとか巫女と従者が逃げ出す隙ができた。
 しかし、ゼルダはマスターに竪琴を託し、異空間の向こうに消えてしまった。魔族長は怒りに満ちた瞳でそれを見送ると、姿を消した。
 一人きりになったマスターは神殿の片隅に力なく膝をついた。大切な人の危機に、自分はほとんど何もできなかった――強い後悔が彼の心を瞬く間に支配していく。それは、彼女には決して理解できない感情というもの。人を動かす強烈な力の源だ。
「……もっと、強くならないと」
 強くなるための道はある。それが、マスターにとって本当に必要な成長をもたらすのかは、彼女には分からないけれど。
 女神の筋書きによれば、これからマスターは肉体と精神を鍛えるための「試練」に挑むのだった。



 ――気がついた時、「彼」は自宅のベッドの上にいた。もはやオオカミの姿ではなく、当たり前のように四肢がある。
 帰ってきた。厄災を打ち倒したリンクとゼルダをあちらのハイラルに残し、一人だけで。
(なんで家にいるんだろ。行きはハイラル城からだったのに……まあ、いいや)
 目を閉じる。降り注ぐ花びらとリンクの呆然とした顔が、まぶたの裏に焼きついていた。
(置いてきちゃったな……)
 万能の力の効果時間は思ったよりも短かった。それほどに、同じ時空に勇者が二人存在することは厳しいのだろうか。あちらのゼルダがそのようなことを言っていた気がする。果たして、それを決めるのは誰なのだろう。
 彼は鎖帷子を着込んだままベッドに横たわっていた。起き上がる気がしないのでそのままだらだらしていると、玄関が叩かれる音がした。
 仕方なしに階下に降りて行く。扉を開ければ、そこには幼なじみがいた。
「イリア? なんか用か」
「リンク……。ねえ、一体ハイラル城で何をしたの?」
「えっ」
 イリアは見たこともないほど緊張した面持ちをしていた。何の話だ、と不安になる。
「お父さんに……トアル村の村長宛に、お城から速達が届いたの。これから、ゼルダ姫が、リンクを訪ねて村に来るんですって!」
「はあ!?」
 イリアの語尾が震えていた。彼も震撼した。
 ゼルダ姫はあの冒険――彼が別の勇者を助け、厄災と戦った旅――をこちらのハイラルで唯一知る人物である。そして少し前、彼はかろうじて復興したハイラル城の謁見の間にて、姫が見守る中あちらのハイラルへと送り出されたのだった。
(な、なんで俺が村にいるって知ってるんだ? もしかして、無断で戻ってきたことを問い詰められたりして……。
 いっそ村から逃げ出して――いや、村長たちに迷惑がかかるか)
 必死に考えて、イリアに指示した。
「とりあえず、俺が直接姫をこの家で迎えることにする。そう村長に言ってくれないか」
「わ、分かったわ……ねえ、本当に変なことしてないのよね?」
「してないってば!」
 全力で否定しつつも、彼は自宅で震えながら姫の到着を待つしかなかった。
 二階の窓からフィローネの森を眺めていたら、木々や動物がざわめくのを感じた。急いで外に出てハシゴを降り、姫を迎える体制を整える。
 このような辺境の地にふさわしくない、二頭立ての馬車だった。狭い道を器用にくぐりぬけ、リンクの家の前にやってくる。
「停めてください」客車の中から凛とした声が響き、御者が戸を開く。
 スカートの裾を持ち上げて優雅に馬車を降りたのは、大陸に誇るべきハイラルの花、美しき王女ゼルダであった。
(やばい、怒ってるよあの人……!)
 ほとんど人形のような造形美であるが、彼は分かってしまった。ゼルダ姫の背後に陽炎のような怒気が立ち上っている。
 彼はすでに逃げ出したくなっていた。
(よく分からないけど、これはやばい)
 それでも勇気を出して口を開く。
「お久しぶりです。お、お茶でも飲みますか……?」
「結構です。これが終わればすぐに城に帰らねばなりません」
 ゼルダはぴしゃりと言い放つ。ハイラルで高貴な色とされる紫がかった青の瞳が、鋭い光を放っていた。
「わ、わか、分かりました」
 彼はギクシャクと体を動かし、用意した椅子に姫を座らせた。さすがにロングスカートの彼女はハシゴを登れないと考えたためだ。ゼルダが護衛を下がらせたので、完全に二人きりだった。
「あの……どうして俺がここにいるって分かったんですか。ていうか、姫が自ら出向かれた理由は……?」
 おそるおそる尋ねる。ゼルダは長い睫毛を揺らした。
「夢を見ました。あなたがあちらのハイラルで魔王を倒し、この家に戻ってくるまでの夢です。
 私がトアル村に来たのは、あなたを城に呼ぶよりもこちらの方が早かったからです」
 そういえばあちらのゼルダ姫も彼の目を通してハイラルを見ていた、と言っていた。どうやら彼は姫たちにとって便利な望遠鏡代わりらしい。
 そして目の前にいるゼルダが、姫としての体面よりもとにかく早さを求めたということは、それほど急ぎの用事があるということだ。恐ろしくてとても尋ねられないけれど。
 言葉が切れて、居心地の悪い沈黙が降りる。
「どうして戻ってきたのですか」
 今度はゼルダが口を開いた。「ミドナともう一度会う方法を見つけるまで帰ってこない、とあなたは言いましたよね」
 彼は口をパクパクさせる。
(そ、そんな約束したか……?)
 確か「しっかり成果を上げてください」と言われた覚えはあるが、あれはそういう意味だったのか。
「いや、なんか時間切れみたいになって、強制送還されちゃって……」
 出来ることなら、彼だってもう少しあのハイラルにいたかった。リンクの旅の終わりを見届けたかった。
「万能の力の時間切れですか。おそらく、あちらに呼ばれていない状態で、こちらから無理に飛び込んだせいでしょうね」
 叡智で知られる姫はすぐさま真面目な表情で考えはじめる。
 どうしてそこまで熱心になれるのだろう、と疑問を抱き……彼は不意に悟った。
「姫も、ミドナに会いたいんですね」
 彼女ははっとして、月のような唇を引き結んだ。
「……ええ、そうです。私の心は長い間、彼女とともにありましたから」
 敵の奸計にはまり瀕死となったミドナを、ゼルダはその身に宿す力を心ごと託すことによって救った。そして、勇者の預かり知らぬところで冒険をともにしたのだという。
「心がともにある」ことがどういう状態だったのかは分からないけれど、彼が想像するよりもずっと、ミドナはゼルダにとって特別で、大切な存在のようだった。
 ゼルダは絹の手袋に覆われた指を膝の上で組み合わせた。
「あなたの事情は分かりました。それならばもう一度、黄金の力を使いましょう」
「へっ!?」
 彼は椅子の上で飛び上がった。
「あれってそう何度もほいほい使っていいもんなんですかね……?」
 黄金の力、万能の力、すなわちトライフォース――なんでも願いを叶えてしまうハイラルの至宝である。それを、こんなに個人的な事情で二度も使用していいとはとても思えない。
「そうですね……何らかのペナルティーが課される可能性はあるでしょう。あなたが強制送還されたこととも関わるような、何かが。
 ですが、世の理を飛び越えて願いを叶える手段がそこにあるのです。あなたはそう簡単に諦められるのですか?」
 ミドナも、もう一人のリンクも。
 こちらのハイラルにおいては唯一の理解者であるゼルダが、強い瞳で語りかける。
 根負けしたように彼は肩をすくめた。
「あの力を使って直接ミドナに会いに行け、とは言わないんですね」
 そうすれば、少なくともゼルダの悲願は叶えられるだろう。
「あなたの話によると、あちらのハイラルにあるのは、我々よりもはるかに発達した技術のようです。それならば、必ずや万能の力に頼らず世界を渡る術を見つけられるはず。……それに」
 ゼルダの唇がゆるく弧を描いた。
「会いたいのでしょう、向こうの勇者に」
「……はい」
 何故だか、この時の彼は照れることなくその気持ちを素直に受け入れられた。
「話が通じなくてもいい。オオカミどころか、もっと別の姿でもいい。俺は……リンクに会いたい」
 それこそが彼を突き動かす力。国を救うというような大それた願いではなく、彼がいつも抱き続けていたこと――身近な人の助けになりたいという願いだった。
(だってあいつ、俺がいないとすぐ他人に迷惑かけるからなあ)
「ならば、話は簡単ですよね」
 ゼルダの冷たい美貌が溶けて、花咲くような笑みになった。
 彼は体を緩め、耳元にきらめく夜光石のピアスを触った。
(前、魔王に『影が光に絆された』って言われた時はピンとこなかったけど……今なら分かるよ、ミドナ)
 そう、彼はすっかりあの勇者に絆されてしまったのだった。



 伸ばした指先も見えないほどの濃厚な闇の中、剣の試練。
「もういいよ」というリンクに対し、ウルフは首を振った。
「……いや。俺はお前が何と言おうと、ついていくよ」
 リンクが何か言いかけたが、その前に一歩踏み出す。その胸には、黄金の力に託したあの時の願いを抱いていた。
「俺はそのために戻ってきたんだ。ここまできたら、もうお前の意思とか関係ないんだからな。迷惑だろうが拒絶されようが、ついていくぞ」
 ウルフは口の端を吊り上げ、無言でいるリンクの鼻先に指を突きつける。
「あのな、お前が俺をこんなふうにしたんだぞ。向こうに帰ってる時だって、こっちのハイラルのことが気になってしょうがないんだよ。だから、ちゃんと最後まで責任をとれ! いいなっ」
 リンクはびっくりしたように目を丸くしていた。
「そっか……」
 とだけつぶやくと、いきなり身を翻して闇の中に消えていく。
「お、おい!」
 慌てて追いかけようとしたら、
「あ、ウルフくん! 探したんだよーどこ行ってたの、もう」
 頬をふくらませたリンクがやってきた。激しい戦いだったのだろう、服はどことなく煤けている。
 ウルフは首をかしげる。
「じゃあ、さっきのは……?」
「さっき?」
「いや……なんか……まあ、いいや」
 盛大に目をそらす。幸いにも、リンクは追及してこなかった。
(こいつに知られなくてよかった……)
 今更照れが襲ってきて頬が燃え上がる。部屋が暗闇で助かった。
 それでも、先ほどウルフが口にした言葉は、どれも本当の気持ちだった。



 部屋の中心に、朽ちた遺物が居座っていた。
 コップをひっくり返したような形。ただ一つの目は無機質に暗い影を落としている。てらてらと光るその素材が、牙なんてとても立てられないほどに硬いことを、ウルフは知っていた。おそらく、近づくとこちらを感知して動き出すタイプだろう。厄災はもういないはずなのに、あれは自分と敵対するものだ、と分かる。
 部屋の真ん中に朽ちたガーディアンの姿を認めた途端、リンクは棒立ちになった。すぐにウルフが前に出る。
「いいか、無理すんな。お前は待ってろ」
「や……やだよ。あれと戦う時にまたキミに助けられるのは、それだけは――無理だ」
 青い顔をしながらリンクはぎこちなく踏み出す。「でもそんな調子じゃ……」とウルフが無理にでもやめさせようとすると、リンクは真面目くさってこう言った。
「やる気が……やる気さえあれば、なんとかなる気がする。
 ね、ウルフくん、剣の試練をクリアしたら何かごほうびが欲しい!」
 また妙なことを言い出して――とウルフは肩をすくめた。
「はあ? マスターソードに認められるのが十分なごほうびだろ」
「それだけじゃなくて! なんか、こう、もっとテンションの上がるような……」
 要するに、リンクはウルフから直接報酬をもらいたいようだ。ウルフはため息をついた。
「分かった。じゃあ、俺が安定してこの姿に戻れるようになったら、お前の好きな料理を何でも作ってやる」
 リンクは驚喜して目を見開き、ウルフに詰め寄った。
「ほ……本当に? ならきみの家に行きたい! それで、いっつもきみが自慢してる山羊のチーズを食べてみたいっ」
 いきなり話が大きくなった。ウルフは「しまった」と顔をしかめつつ、
「無事に試練をクリアしたらだぞ? それに、うちに来るってことは、お前が向こうのハイラルに行けるようにならないと――」
「それでもいい。絶対、約束だよっ」
 リンクは満面の笑みでこぶしを振り上げた。
「やる気出てきた! 行ってきますっ」
 そのまま剣を抜き、ガーディアンの方向へ駆け出す。
「おい!?」反射的に伸ばしたウルフの手をすり抜けて。
 たちまち遺物が起動し、一つ目が赤く光る。リンクが構えた得物はガーディアンナイフだった。
「あ、危な――」
 リンクが左手で突き出した盾が、すかさず繰り出されたビームを反射した。見事それは目玉に当たり、ガーディアンは壊れた部品を撒き散らす。
 今だとばかりに肉薄したリンクが、急所にナイフを突き刺した。まるで今までの恨みを込めるかのように、何度も何度も。
 足のないガーディアンはろくに抵抗できず、やがて内側から光を放ち、ばらばらになる。それで終わりだった。
 ウルフは唖然としていた。最後の写し絵の記憶を見た時クロチェリー平原で見せた、あのトラウマっぷりはなんだったのだ。
 リンクはほおを上気させながら戻ってきた。
「ハイラル城で厄災と戦った時、マスターソードがあのビームを反射してくれたんだ。もしかしたら盾でもできるかと思って……」
 ウルフも盾アタックという奥義を習得しているが、あのような光線も跳ね返せるものなのか。試したこともなかったから知らなかった。
 ウルフは気の抜けた笑いを漏らした。
「なんにせよ、よくやったじゃないか。でも次からはもうちょっと慎重にやれよ」
「はーい」
 リンクは照れ笑いした。
 魔法陣に乗る前に、二人は少し休憩することにした。
「にしても、今のはいかにも精神の試練っぽかったよな」
「……ああいう嫌がらせが、精神を鍛えるための試練ってことなの?」
 リンクの表情は苦い。文句を言いたくなるのも道理だ。
「あれ。それなら、もしかすると最後に来るのは……?」
 何やらぶつぶつ言うリンクに、
「どうした、不安になったのか」
「不安っていうか……やな予感しかしないんだよね。この試練の最後の敵、分かっちゃったかもしれない」
 リンクは口を歪めて冷や汗をかいていた。
 何を考えたかは分からないが、きっと今は言いたくないのだろう。だからウルフは聞かないことにした。代わりにぽんと肩を叩く。
「まあなんとかなるだろ。俺もいるし、お前もいるし」
 リンクはぱっと顔を輝かせた。
「試練が終わったらウルフくんのおいしいご飯が待ってるしね!」
「メシで釣られるとかほんと単純だよな~お前」
 にやにやしてウルフが指摘すると、リンクはぼそりとつぶやく。
「……どんなご飯でもいいわけじゃないよ。きみがつくってくれる料理、だからだよ」
 そして彼は顔を上げ、ウルフに強い視線を注いだ。
「本当に戻ってきてくれてありがとう。……きみのこと、諦めなくてよかった」
 ウルフは口をつぐんだ。これはつまり、一度は諦めそうになった、ということだろうか。ウルフがいなかった時のことを、リンクはあまりしゃべらない。ウルフもなんとなく訊けないままでいる。
「手のかかる後輩だからな。なんか放っておけないんだよなー、お前」
 ウルフは取りなすようにへらへらと笑うが、リンクは遠くを見るような目で曖昧な笑みを浮かべていた。
 その瞳には、降り注ぐ鈍色の雨粒が映っている。



 ハテール地方の広い空を雨雲が覆っていた。エボニ山の麓にあるリンクの家にも無数の水滴が降り注ぎ、屋根がうるさく鳴った。
 厄災を倒し、ウルフと別れ、痺れを切らしたプルアが家を訪ねてきた――そのしばらく後のことである。
 リンクが洗濯物を取り込もうと玄関を開けたら、そこにずぶ濡れの娘が立っていた。
「パーヤさん!?」
 仰天する。薄暗い中にぼんやりと立っているので、一瞬幽霊かと勘違いした。
「な、なんでここに……というよりもいつから、えぇ?」
 慌てふためくリンクに対し、パーヤは濡れた前髪を払って、微笑んだ。
「大丈夫です。シーカー族の民族衣装は、雨や雷に強いので」
「そういう問題じゃないよね……?」
 リンクは急いで洗濯物と一緒に彼女を家の中に入れ、乾いた布を渡してやった。
 体を拭いたパーヤはちょこんとテーブルについている。リンクはその向かいに座った。
「インパさんから伝言でも?」
「いえ。私の意思で訪ねました。
 ゼルダ姫様に……私にしか出来ない方法でリンク様を元気づけてほしい、と言われまして」
 リンクは息を呑む。若い男と二人きりなのに、パーヤは照れ屋な面を完璧に封印したように、真剣な面持ちをしていた。
 プルアの次は、彼女か。シーカー族はつくづくリンクの世話を焼きたがるらしい。
 彼は椅子の上で膝を揃えた。同年代のパーヤが相手なら、プルアよりももう少し素直に心情を吐露できる。
「そっか……迷惑かけてごめん。
 ウルフくんのことをすっぱり諦めたら楽になる、ってことは分かるよ。いつまで引きずってるんだってプルア博士にも怒られた。でも僕は、それが……どうしてもできなくて……」
 こぶしを握る。彼はずっとその心と戦ってきた。パーヤは黙って聞いている。
「本当に弱いよね、僕。厄災を倒したのに、心は全然変わらなかった」
「そんなことはありません」
 パーヤはまっすぐに勇者を見る。
「リンク様は変わられました。初めて私と出会った頃とは、まるで違います。あの時のあなたは一人きりで、なんだか辛そうで……でも今はたくさんの人に囲まれています。私も、その一人です」
 ハイラル平原でウルフを失ったリンクがウオトリー村に逃げた時も、一人きりでハイラル城を攻略しようとした時も、いつだって誰かが救いの手を伸ばしてくれた。誰もリンクを一人にしてくれない。それは、彼が唯一厄災を倒せる勇者だからというわけではなく、ただ「リンク」だからだった。
「そして、あなたがここまで来られたのは……ウルフ様と出会えたからだと思います」
 リンクははっとした。ウルフと交流できた数少ない人物の一人が、パーヤであった。
 ――このハイラルの勇者が誰でもいいだなんて思ってるやつ、お前だけだよ。
 厄災戦のさなかにウルフが放った言葉を思い出す。あの少しぶっきらぼうな台詞が、悩み続けたリンクの心をあっさりと軽くしてくれた。
「そうだね、僕もそう思う」
 二人は交わる視線の先に、そっくり同じ気持ちを重ねていた。パーヤは決意に彩られた顔で身を乗り出す。
「果たして、大切なものを失うことは強さなのでしょうか。おばあさまもプルアおばさまも、ゼルダ姫様も……この百年でたくさん失ってきました。だからといって、リンク様までそれを手放す必要は、ありません」
 リンクは目の前が明るく開かれていくような感覚がしていた。
 大切な誰かと出会い、そして別れる。人はそれを繰り返すことで強くなっていく。
 ――だが、リンクはそれを選ばない。
「だって、ウルフくんがいたほうが楽しいから。もっともっとたくさんの場所を旅して、いろんな気持ちを共有したいから。諦めたくない……僕はウルフくんと――また会いたい!」
 それは決意であり、宣言であった。聞いていたのはパーヤだけだったけれど、リンクを取り巻く全てに向けて放った言葉だった。
 パーヤはただ黙ってにこにこしていた。
 己の手のひらを見つめ、ひとしきり余韻をかみしめたリンクは、先ほどのぼんやりした表情と打って変わって凛々しい眼差しをパーヤに向けた。
「ありがとうパーヤさん。……それと、ごめん」
「え?」
 リンクは頭を垂れる。長めの金髪が額に落ちた。
「きみの気持ちに応えるのは……とりあえず、今はできそうにない。『どちら』だとしても答えを出すことはできない。それなのに、いつも僕のことを助けてくれて……」
 はっ、としてパーヤは口元をおさえた。華奢な肩が震える。
 彼女の胸には祖母や周りの人間だけが知る、秘められた勇者への恋心があった。だがリンクは気づいていたのだ。そして、少なくとも現時点ではそれに応えられないことを謝った。
 分かっていた。リンクにとっての一番は、いつだってウルフだ。他の誰も助けることのできない勇者の旅路を、唯一ともにした相棒。記憶を失い寄る辺をなくしたリンクにとっては親兄弟にも等しい存在だった。どれだけ大切なのかは、パーヤもリンクとの短くない付き合いの中で分かっている。
 だから、今は自分を選んでくれないとしても、嬉しかった。何故ならパーヤはそんなリンクだからこそ好きになってしまったのだから。
「いいえ、リンク様……。そのお言葉だけで、パーヤは……!」
 感極まった彼女はそのままテーブルに突っ伏してしまった。何かまずいことを言ったか、とリンクは激しく動揺する。
「だ、大丈夫? あの……そっそうだ、せっかく来たんだからご飯でも食べていってよ。この前台所を新しくしたんだよ。パーヤさんは何食べたい?」
 パーヤは顔を上げ、笑った。リンクはほっとしたように肩を落とす。
 そこにいるだけで雰囲気が明るくなる。ウルフの存在がもたらした光を何倍にも強くして、周りを照らす――いつものリンクが戻ってきたのだった。



「……本当に、大丈夫なのか?」
 ウルフは心配そうに眉根を寄せた。目線の先で、リンクは左腕を押さえてうつむいている。
「うん。寒い方が痛くない気がするし」
 彼の前髪からはらりと雪が落ちた。廃墟の壁に背中を預け、二人はそれぞれ息を吐く。
 ここまでの試練を大した怪我なしで切り抜けてきた二人だが、ここにきてリンクが重めの打撲を負ってしまった。敵の武器の直撃を受け、吹っ飛ばされた拍子に壁に叩きつけられたのだ。血相を変えたウルフがなんとか魔物を全滅させ、この部屋で休むことにした。次の休憩所がどのタイミングで来るか分からないからだ。
 ただし、この部屋は一面の雪景色である。当然座っているだけで体力が奪われてしまう。敵から奪ったボルテージロッドでたき火を焚いて、なんとか暖をとった。残り少ない食料をほとんど全部リンクの腹におさめたので、休んでいたら少しは痛みもマシになるはずだ。
 あまりじっとしていると寒さが余計に身にしみるので、ウルフはわざと明るい声を出す。
「そろそろ終盤だと思うんだよな。敵の攻撃の容赦のなさといいさー」
「体が持たないよね。僕もう眠くて……」あくびをするリンク。
「おい、ここで寝たら死ぬぞ」
「試練で死んだらシーカー族は責任取ってくれるのかなあ」
 はは、とウルフは乾いた笑いを漏らした。
「そういえば、試練がはじまってからどれくらい経ったんだろうな。腹は減るけど眠くならないんだよなあ。案外コログの森に戻ったら全く時間が進んでないのかもしれないけど……何日も経ってたらゼルダ姫が心配してるかもな」
「うん……そうだね」
 リンクは眉を曇らせる。ゼルダ姫の話が出たからだろう、とウルフは検討をつけた。試練に出発する前のハテノ古代研究所でのやりとりでも、姫と勇者は微妙な距離感を保っていた。ともに厄災を封印した、紛れもない同志であるにもかかわらず。
(一度しっかり聞いておくべきだな、これは)
「ゼルダ姫とうまくいってないのか?」
 あえて単刀直入に問うと、リンクはもやのかかった表情で首を振った。
「そういうわけじゃないよ。ただ……僕はあまりあの人と一緒にいない方がいいんじゃないかと思って」
「理由を聞いてもいいか」
 リンクは膝を抱え、苦しそうにつぶやいた。
「僕を見ると、どうしてもあの人は百年前の近衛騎士を思い出す。自分のせいで彼を失ったことも。僕はそれをあまり受け入れられないし……ゼルダ姫がつらそうにしてるところを見たくない」
 リンクの目には、廃墟となったハイラル城に白と黄色の花びらが降り注ぐ景色が映っていた。
「厄災を倒して、ウルフくんがいなくなったすぐ後……ゼルダ姫、倒れちゃったんだよね。百年も戦い続けてたんだから当然だけど。それで僕がおんぶして帰ったら、寝ながら『リンク』ってつぶやいて。ごめんなさいとか、ちゃんと力は目覚めましたよとか、明らかに百年前の僕に話しかけている感じでさ……。
 その話は本人にはしてないけど、聡い人だから、自分が無意識に近衛騎士と僕を重ねてることに気づいてて、余計につらくなってる。だから……顔を合わせること自体、お互いにとって良くないんだよね」
 それは確かにやりきれないだろう。だが、だからといってせっかく出会えた二人がこのままでいいのだろうか。
(余計なおせっかいをするのも先輩の仕事、かな)
 ウルフは密かに決意を固める。
「そっか。でもさ、直接近くにいられなくても、ゼルダ姫の助けになりたいとは思うんだよな?」
「そりゃもちろんだよ」
「今みたいに中途半端に関わるから、そうなるんじゃないのか。むしろ、もっと姫の手助けをしたらいいんだよ」
 リンクははっとした。
「そんな……でも騎士には、もう……」
「騎士じゃなくても、いやいっそその方がお前にはできることがあるだろ?」
 ウルフはくるりと瞳を回した。
「このまま俺と一緒にふらふらしてていいのか? こっちの目的を手伝ってくれるのは嬉しいけど、それだけじゃダメだろ。ハイラルはこれから復興するんだ、誰も彼もが忙しくなる。イチカラ村をつくったみたいにさ、お前はそういうの向いてると思うんだよ」
 などと偉そうなことを言っているが、ウルフだって自分のハイラルの復興には今まで非協力的だった。「帰ったらもうちょっとゼルダ姫を手伝ってみよう」と反省しながらの弁である。
「本当に? 人の前に立って引っ張っていくみたいなことは、無理だよ」
 前に立つことはできないかもしれないが、人々とともに歩むことはできる、とウルフは確信している。
 リンクにはほとんど本能とも言える驚異的な人心掌握術がある。交渉の類にとことん強いのだ。柔和な笑顔で相手の懐に入り、協力を仰ぐ。厄災すらそうやって仲間を集めて攻略した、勇者らしからぬ勇者だった。
「そうだなー、じゃあ俺が考えてやる。ゼルダ姫を助けるためにお前が何をしたらいいか」
 リンクは不思議そうにまばたきしている。
「えっと……?」
「お前、得意なこととか、好きなことは何だ?」
「あちこち歩き回ることかな。それと、人と話すことは好きかも。あとはもちろん、料理することと食べること!」
 肩に降り積もった雪を払ってリンクはにこりと笑う。ウルフはあごに手をあてて考え込む。
「なるほど。それなら、観光案内人はどうだ」
「観光案内?」
「ハイラルには旅人がたくさんいるだろ。ハテノ砦や知恵の泉、ラブポンドを探してるやつもいたか。そういう人たちを案内して、目的地に連れて行くんだ。できるだけ安全な旅が出来るように護衛しながらな。それで、手間賃をもらう」
「イチカラ村にパウダさんを連れて行ったときみたいな感じかな」
「そうそう」
 結局、あのときは約束を果たせなかったのだが――旅をして知らない人と接することが好きなリンクに、これほど向いている職業はないだろうとウルフは思う。
 彼がそう考えたのは、自分のハイラルにおける体験が元にある。ラネール観光協会という、その名もずばりの組織に属している知り合いがいるのだ。
「いろんな場所に旅人を連れて行って交流を増やして、ハイラル自体を盛り上げていくんだ。これならゼルダ姫の助けになるだろ?」
「うん……うん、そうだね、それなら僕にもできそう!」
 リンクは笑顔の花を咲かせた。以前から考えていたことをすんなり受け入れてもらえて、ウルフはこっそりにやける。
「さて、怪我の調子はどうだ?」
「だいぶ良くなったかも。あ、ちょっとお腹すいてきたなあ……」
 リンクは腹を撫でる。こんなことを言うあたり、かなり回復してきたようだ。
 リンクは瞬きしてまつげの雪を落としながら、白っぽい林を見つめている。いかにも物欲しげに。
「あそこに食料はないと思うぞ?」
「ん、いや……煮たら食べられないかな、あれ」
 ウルフは飛び上がった。リンクの見つめる先には、林しかない。
「木を!? いくらなんでもやめとけ!」
「多少かたくてもいけそうな感じがしたんだけど……分かった」
 前言撤回、いよいよ肉体・精神ともに追い詰められてきたようだ。この先どんな試練が待っていようと、せめてリンクの人としての尊厳だけは守りきらなければ、とウルフはほぞを固める。
 左腕の調子を確かめたリンクはひとつうなずき、立ち上がった。
「うん、もう怪我はいいみたい。次の部屋に行こう、そして食料を見つけよう!」
「お前が薪を食べ出す前にな」
 ウルフは苦笑しながら魔法陣に向かった。
(精神の試練か……つまり、感情を揺さぶられるような試練っていうことだよな)
 リンクのトラウマの根源であるガーディアンも、ウルフの前に現れたリンクの偽物も、その一端なのだろう。
 こちらの様子を見て敵の調整をしているとしか思えない。その犯人は試練へ導いた導師か、それともマスターソードなのか。二人はこの試練の行く末を見守る者の存在を、ひしひしと感じていた。



 ただただ広い草原であった。試練の一番はじめの部屋を思い出すようだが、あそこと違って木がほとんどない。見晴らしのいい平原だ。しかし白っぽい霧に覆われている。
 身体の疲労度合いからか、漂う厳粛な空気からか。「ここが最後の部屋だ」とウルフは察した。リンクを見やると、彼も緊張の面持ちでうなずいた。
「行こう」「ああ」
 二人は用心しながら部屋の中心へと進んでいく。
 霧の向こうに影が現れ、二人は立ち止まった。人影らしきものはどんどんこちらに近づいてくる。
 ついに霧を破って姿を現したのは、空色の衣をまとい、金の髪を後ろで無造作に縛った――
「う、嘘だろ……」
 英傑の服を身にまとったリンクその人であった。しかも、右手には燦然と輝くマスターソードを持っている。
 ウルフは隣のリンクを見た。彼は試練で手に入れたハイリアの服を着ている。顔は青ざめているが、眼光は鋭い。
 目の前の「最終試練」は、ウルフが暗闇の部屋で対峙したリンクの偽物とも、また雰囲気が違った。明らかにこちらの方が危険度は上だ。
(リンクは最後にこいつが出てくるって分かってたのか……)
 リンクは一歩前に出た。相手の瞳には何の色も映っていない。
「あれは百年前の僕――だと思う」
 まさか、本物のはずがない。リンクはそもそもここにいる。
「正確には近衛騎士のリンクを再現したもの、って感じかな」
「なるほど、最終試練用のボスってわけか……。ってことは、めちゃくちゃ強いんだよな?」
「うん。ガーディアンに剣一本で立ち向かって、なぎ倒したんだから」
 ハテノ砦とクロチェリー平原。朽ちたガーディアンに埋め尽くされた、すさまじい戦いの跡地をウルフは知っている。
 冷たい視線を浴びせる近衛騎士に負けず、リンクはじっと前方を睨みつけている。
(そんなやつと一人で戦うつもりなのか)
 だが部外者のウルフが間に入ることは許されない。本当に、見守るしかないのだろうか。
 いつの間にか霧は晴れていた。そして、二人の背後にどしんと音を立てて巨大な質量を持つものが出現した。
 獣の荒い吐息が耳に入る。二人は驚愕して振り返った。
「ライネル!?」
 冗談のように大きな剣を持つ半人半獣の魔物だ。思い出深い雷獣山のライネルと違い、こちらは白銀色の毛並みをしていた。
 魔物は武器を構えながらじりじりと距離を詰めてくる。
「ウルフくん」
 最悪の相手に挟み撃ちにされ、リンクは切羽詰まった声を出した。
 ウルフは深呼吸した。
「できるだけ切れ味のいい剣と、消耗の少ない弓を融通してくれ」
「分かった」
 二人は素早く装備を交換する。
「俺がライネルの相手をする。その間にお前は……いいな?」
 ライネルと違って、近衛騎士はこちらの動きを待っているようだ。リンクはうなずく。
「やれるだけ、やってみようと思う」
 リンクは王家の剣を握った。このハイラルにおいて上位に入る切れ味を誇る業物だが、マスターソードには大分劣るだろう。
 緊張を隠しきれない様子で汗を拭うリンク。そんな彼に、ウルフは笑いかけた。
「大丈夫。俺の相棒は誰が相手だろうと絶対に負けないさ!」
 それを聞いたリンクは一瞬嬉しそうに唇を歪め、温和な顔に似合わない不敵な笑いを閃かせる。
「……僕の相棒だって、ライネルなんかよりずっとずっと強い!」
「当たり前だろっ」
 背中合わせになった二人は、笑ってそれぞれの相手へと駆け出した。
 剣を正眼に構えたウルフは巨大人馬と対峙する。
「こちとら、お前には恨みがあるんだからな」
 雷獣山で出くわした時、こちらはオオカミの姿だった。リンクの活躍がなければ到底勝てなかった相手だ。だが今は武器も潤沢にある。リンクのように空中で時を止めるような芸当は出来ないけれど、ウルフには師匠譲りの奥義と、先輩としての意地がある。
「かかってこい!」



 その時の「彼女」の台座は神殿ではなく、森にあった。老大木が見守る中、静かに悠久の時を過ごしていた。
 巡るのは遥か過ぎ去った思い出たち。幾人もの「資格を持つ者」が所有者となり、彼女の前を通り過ぎた。最後にマスターが現れたのはどれほど前になるのだろう。もはやその人の顔すら思い出せぬほど長い間、彼女が退魔の剣として使われることはなかった。だが、それこそがハイラルの平和の証なのだと、彼女は受け入れていた。
 時の止まったような森の中で、たくさんの思い出をひとつひとつ数えていく。他よりも飛び抜けて多く思い返すのは、一番最初のマスターのことだ。未熟な一振りの剣であった彼女と共に旅をし、一緒に成長して、最後には退魔の剣を振るう勇者として大成した、大空の称号を持つ者。
 その旅路に想いを馳せるたび、彼女の胸には女神に与えられなかったものが渦巻いた。それは決してあるはずのない「感情」であった。
 私は、もっと、マスターを――
(理解したかった)
 不意に木々がざわめいた。葉っぱで遊んでいたコログという森の精が、一斉に老木の陰に隠れた。
 いつの間にか、剣の台座のすぐそばに旅人がいた。長く伸ばした黄金色の髪がわずかな風に揺れている。晴れ渡った空を切り取ったような瞳が印象的だった。
「これが、マスターソード……」
 彼は感嘆の声をあげる。その指が柄に触れる前に、彼女には分かった。彼こそが当代の勇者なのだと。
 彼らは同じ魂を持っていても、その性格や「勇者らしさ」の度合いは毎回大きく異なる。だが、今回に限っては、ほとんど最初のマスターと同一の雰囲気を持っているように思えた。
 魔王を、厄災を討つという強い意志。誰かを守りたいという譲れない心。そっと伸ばされた指先から、ほとばしる感情が伝わってくる。
 ならば自分はその助けになろう。そのために女神から授かった力なのだから。
 そして「あの選択」の果てに形成された勇者の魂の行く末を見守ろう。



後編


 魔王の手により相棒の兜が砕けた瞬間、「彼」の中で何かが切れた。
 それは彼らしさを構成し、人としてつなぎ止めていた大事なもの。それがバラバラに壊された瞬間、黄昏時のハイラル平原に怒号が轟く。
「ガ……ガノンドロフっ!」
 血相を変えた彼はマスターソードを振り上げ、なりふり構わず突進しようとする。黒馬にまたがり棹立ちになる魔王に向かって。
「いけません!」
 ゼルダ姫の凛とした声が通り、細い手が危ういところで勇者の腕をつかまえた。そのまま彼女は詠唱をはじめる。
「現世の大地をあまねく照らす、大いなる力任されし光の精霊たちよ……」
 魔王の召喚した軍勢が二人の目前まで迫っていた。「離してくださいっ」と今にも飛び出しそうになる彼を、ゼルダ姫の魔力の宿った右手が押さえつけていた。
「今こそ退魔の光――我に与えよ!」
 その瞬間、決戦の地にいた二人は別空間に転移し、魔王の手を逃れた。
 まるで精霊の泉に潜ったような場所だった。明るいのに眩しくない。あたたかい光が二人を包み込む。
 姿を現した光の精霊たちが、矢となって姫の手に宿る。光の矢。魔王を滅するためのアイテムである。
 武器を手にした彼女は心配そうに勇者を見つめた。
「リンク……」
「ミドナが……ミドナがやられたんだ」
 彼の目は暗く燃えさかり、全身から怒りとも後悔ともつかない負の感情が立ち上っている。ゼルダはその痛々しさに目を伏せた。
「冒険の間、私の心は彼女とともにありました。あなたが彼女を思う気持ちは……痛いほどに伝わります」
 だがその声も彼には届かない。
「魔王を倒したい、殺してやりたい……っ!」
 彼の目は獣のごとく青く燃えている。
 冒険の途中でゼルダが幾度か見たことのある感情の暴走だった。だが、今回は今までで最大級のようだ。当然だ、相棒と呼んで親しくしていたミドナを失ったのだから。
 ゼルダは思い切って彼の左腕を取り、血がにじむほど強く握られていた退魔の剣を勇者の前に掲げてみせた。
「リンク……剣を、マスターソードを見てください」
 刀身が、勇者の心臓の鼓動と同じタイミングで明滅している。まるで逸る心をいさめるように。
 彼はぱちりと目を瞬いた。眉間のしわが浅くなり、徐々に冷静さが戻って来る。
「すみません……少し落ち着きました」
 申し訳なさそうに頭を下げる頃には、すっかりいつもの勇者に戻っていた。
 ゼルダはほころびかけた唇を引き結び、
「選ばれし勇者リンク。どうか、私たちに最後のお力をお貸しください」
 改めて深く礼をした。その目線の先に、すり切れたグローブに包まれた手のひらが差し伸べられる。
「そういうの、やめてください。一緒に戦うんだから」
 顔を上げれば、バツの悪そうな表情をした勇者がいる。
「……はい!」
 二人の手が重なった。
 ゼルダは確かにミドナの息吹を感じていた。彼女はまだ生きている。光の精霊が守ってくれたに違いない。
 だが勇者は、いずれ必ず来たるであろう、ミドナとの真の別れに耐えられるのだろうか。
 そして――その果てしない孤独から救い出せる人物が、いつか勇者の前に現れるのだろうか。



 しかと盾で防いだはずなのに、腕がじんじんしびれる。リンクは内心冷や汗をかいた。
(強い……あり得ないくらい強いっ!)
 近衛騎士の武器は剣一本。それなのにろくに攻撃を打ち込めない。毎回角度もタイミングも工夫して斬りかかっているのに、すぐに防がれてしまう。リンクが手にした時と違い、退魔の光を放つマスターソードは生き生きと騎士の手の中に収まっていた。
 あれを台座から抜くのにも苦労したし、鞘から取り出すのにもまた時間がかかった。明らかに自分の時と態度が違うではないか。
(やっぱり、マスターソードは僕のこと嫌いなのかな)
 ゼルダ姫が聞いた「内なる者」の声も、リンクは聞いたことがない。その点に関してはウルフも知らないと言っていたので、無闇に気にかけないようにしていたのだが――この落差には、少し落ち込んでしまう。
 スピードもパワーもテクニックも、すべてにおいて近衛騎士に劣る上、いい加減疲れがたまっていたリンクは相手の攻撃を受け流すだけで手一杯であった。それでも勝たなければならない。
(だってウルフくんが信じてくれてるんだからっ)
 どうにかして勝ち筋を探さなければ。そのために、自分にできることはなんだろう。バックステップで飛びすさった時、休憩中にウルフにされた質問が蘇った。
 お前の得意なことはなんだ?
(僕が得意なのは、人と話すこと――)
 無言で剣を振るう近衛騎士へ、リンクは意を決して口を開く。
「ねえ、きみはどうしてその剣を抜いたの」
 返ってきたのは重い斬撃。リンクは盾で受けてよろめく。治りきっていない打撲跡に響く一撃だ。そろそろ盾もバラバラになりそうな気がする。
「そうだよ、これはいい機会じゃないか。きみには訊きたいことがたくさんあったんだ」
 それでもリンクはめげずに話しかけ続ける。近衛騎士は顔色を変えずに剣を振るう。聴覚が存在しないかのように。
「僕なんかが厄災を倒して、悔しいって思ってる?」
 心なしか相手の動きが激しくなった気がする。リンクは顔をしかめた。
 この論法ではダメだ。彼が近衛騎士本人であるはずがない。ここはもともと、導師が作った試練だ。
 最終試練の相手は、リンクの心に映る近衛騎士の姿の具現なのだろうか。だが投げた質問によるわずかな感情の揺れは、また別の中身があることを示唆していた。
 リンクは叫ぶ。
「そんなに僕のことを認められないの……? ねえそうなんでしょう、マスターソード!」
 ほんの数瞬、近衛騎士の動きが止まった。リンクは鋭く雄叫びをあげて踏み込む。
 打ち込んだ渾身の一撃を、マスターソードが受け止めた。鍔迫り合いになり、彼は至近距離で近衛騎士をにらみつけた。
「この試練は精神を鍛えるものなんだよね。ウルフくんにも何かしたんだよね? そうやって、一体僕たちの何を試そうとしているの」
 近衛騎士がいきなり右手を突き出した。リンクの肩口が切り裂かれ、ぱっと鮮血が散る。
(っ……!)
 痛みに揺らぎつつもリンクは膝をつかず、近衛騎士と目線を合わせたまま、
「僕じゃ不満なの? 記憶を失って勇者の魂もなくしてしまったから、退魔の剣にふさわしくないって? だいたい魂って曖昧すぎてよく分からないけど――そんなものを信じてるの」
 また剣戟が飛んだ。リンクは防ぎ切れず、甘んじて受けた。今度は脇腹だ。
 赤くにじむ肩をかばって距離を取ろうとしたが、騎士の片足が飛んできて容赦なく蹴られ、地面に倒される。そのままではすぐに剣の錆にされてしまうので、転がって騎士の追い打ちを避けた。
 回転の勢いを利用してしゃがんだ状態まで立て直すと、唐突に剣を投げつける。不意打ちとしてはいいタイミングであったが、腕の痛みで狙いを外し、王家の剣は騎士の顔の脇をかすめただけだった。
 近衛騎士が回避の際にそれた視線を戻すと、リンクは空になった右手にシーカーストーンを構えていた。
「食らえビタロック!」
 はっとした近衛騎士が身を引くよりも早く、アイテムが発動する。騎士は凍りついた。
 リンクはなんなくその手からマスターソードを奪い取った。
 その時、近衛騎士は気づく。自分が喰らったのはビタロックではない、と――
「いい顔が撮れたよ」
 リンクはにやりと笑った。嫌がらせのように石版を見せてやりながら。彼が使ったのはウツシエだったのだ。
 ビタロックは邪悪なものを封じ込めるアイテムであるため、最終試練の相手には効かない可能性があると考えた。だから、あえて「ビタロック」とはったりをきかせてウツシエを使ったのだ。危うい賭けだったが、リンクは見事に制した。
 騎士は呆然としている。リンクは見せつけるように剣をくるくる手首で回した。ウルフの真似だ。
「確かにきみは強いけど、僕が勝てないわけじゃない。こっちの話を聞こうとしてたからね。その時点で、僕の方がちょっとだけ有利だったんだよ」
 リンクは疲れで青ざめながらも晴れやかに笑っていた。
「きみが僕を認めてくれなくても、僕は自分を認めたい。どれだけ近衛騎士より能力が足りなくても、厄災を封印した力は本物だって……僕の相棒ならそう言うに決まってる」
 マスターソードが手から消える。同時に近衛騎士も青い光となって空気に解けていった。
 リンクは安堵と疲労で膝から崩れ落ちた。



 キングブルブリンより力持ちで、魔獣ガノンよりも素早い――と言ったら語弊があるかもしれないけれど、白銀色のライネルの厄介さはその二体に匹敵した。ウルフは舌打ちする。
 リンクから借り受けた剣を何振りもだめにしたけれど、まだ魔物は死なない。厄介すぎる相手だった。
 ウルフは幾度目かの敵の突進をステップで避ける。逃げ遅れた髪が宙に散った。まともに受けたら盾ごと腕がちぎれてしまいそうな一撃だった。いい加減ウルフは疲れているのに、相手は相当体力を削ってもなお闘志を弱めない。
 ――ウルフくんは、直感どおりにガンガン攻める方が向いてるよ。僕は戦いながら余計なこと考えちゃうけど、きみはそうしない方が早く動けるし、ずっと強い。
 剣の試練の中盤ごろに、リンクがこんな発言をした。その時は無責任な言葉だと思ったが、妙に印象に残っている。
 そうだ、らしくもなく慎重になっていたのがいけなかったのだ。
 ウルフは不敵な笑みを浮かべた。
「行くぞっ」
 右手の盾を突き出して、盾アタックを発動する。ウルフの持つ奥義の一つである。振り下ろされた大剣を思い切り弾き返し、ライネルがよろめいた隙に相手に向かってジャンプする。奥義・兜割りならば頭部にも一撃加えていたところだが、今の目的は違う。ライネルの腕、肩と駆け上がり、反対に回って馬のような背中に乗り込んだ。
 暴れ馬を乗りこなすのは得意だ。ライネルは吠えて跳ね回ったが、ウルフは必死にしがみついて、思いっきり剣を突き刺してやった。体液が吹き出て服が汚れたがお構いなしだ。
「これで終わりだっ!」
 深々と背に突き刺した最後の剣が折れた。同時にライネルはついに武器を手放し、地面に倒れ伏した。ウルフの胸に達成感がこみ上げてくる。
 肩を上下させて呼吸を落ち着ける。気づけば、あたりは静かになっていた。
「そうだ、リンクは……」
 不安になって戦場を歩き回ると、リンクが地面にうずくまっていた。
「大丈夫か!?」急いで駆け寄る。
 どうやら無事に近衛騎士を倒したようだ。
「ウルフくん、僕……」
 リンクは放心状態でなんとか立ち上がり、一歩二歩踏み出したが、
「あっ」「うわ」
 足がもつれてウルフと一緒に草原に倒れ込んだ。
 リンクは立ち上がるのを諦め、仰向けで寝転がる。隣には同じく疲れた様子の相棒がいる。
 ウルフは汚れた顔をほころばせた。
「よくやったな。偉いよ、お前」
「ありがとう。ウルフくんも……お疲れさま」
 太陽とは違う光が二人を包んでいる。試練を克服した者たちを祝福するように。
「あとは、マスターソードに試練のことを訊くだけだね」
 ウルフは気遣わしげな視線を向けた。
(導師じゃなくてマスターソードに、なんだな)
 つまりリンクはこの試練のからくりに気づいたということになる。
 リンクはまっすぐ部屋の天井を向いていた。もう覚悟は決まっているようだった。
 そんな彼は硬い表情を崩し、唐突にわめいた。
「あーあ、二度とあんな強いのと戦いたくない。さすがにもう化けて出ないよね」
 ウルフは破顔した。
「どうかな。まだハイラルにはこういう試練が隠されていて、『二回目』があるかもしれないぞ」
「絶対勘弁っ。あの人、英傑たちと一緒に成仏したんじゃなかったの、もう」
 それでもまた会える、その可能性があるというのは悪いことではないだろう、とウルフは思う。近衛騎士は回生の眠りを経たリンクのコンプレックスの原因であるわけだし、それを乗り越えることで得られる新たな見地があるだろう。
 ウルフにはまた会いたい人がいる。だがその人のことを差し置いて、今こうしてリンクに付き合っている。その理由は分かりきっているけれど、改めて不思議な感じがした。ミドナと別れたばかりの頃、自分がこんな心持ちになれるとはとても思えなかった。
 遠いところまで来てしまった。それが嫌でないのは、ある思いがあるからだ。
 俺は成長している。このハイラルに来たことで前に進めている。いつかミドナの流した「涙」の理由も、きっと分かる日がくる――



「ま……またな……」
 砂漠にそびえる塔の上で、光の粒が拡散した。そのあとには影ひとつ残されていなかった。
 たった一人の相棒がいなくなった。世界をつなぐ鏡を破壊し、故郷である黄昏の世界に帰ってしまった。
 元勇者となった彼は、砂つぶくらいになってしまった鏡の破片を拾い上げる。
「ミドナはどうして泣いたんでしょうか」
 そんな彼を黙って見つめていたゼルダは首をかたむける。
「何故……とは?」
「だって、理由があって泣いたんでしょう」
 話が噛み合わない。ゼルダは不可解な表情をしたが、
「おそらく別離の悲しみではないでしょうか」
 と一応の所感を述べた。
「悲しいことがあったら、涙が出るんですか。俺も姫も泣いてないのに」
 確かにゼルダの頬は乾いている。だからといって、もちろん悲しくないわけではない。
「感情のあらわれ方は、人それぞれですから」
「やっぱり分からないな……」
 心底不思議そうにしている元勇者を見て、ゼルダは確信した。彼は泣いたことがないのだと。元勇者は何があっても泣くどころか、一定以上の悲しみの感情が切り取られてしまったかのように「存在しなかった」。度を越すと逆に怒りとしてマグマのように噴出する。本人はほとんど自覚できておらず、そのため当然コントロールできていなかった。
 ゼルダは長いまつ毛を伏せる。
「あなたは今、泣いているのですね。涙はなくとも……」
 彼の瞳は石のように何も映していない。やはりミドナとの別れに心が耐え切れなかったのだ、とゼルダは想像した。
 元勇者がここまでミドナに依存していたことは意外であった。明るくあっけらかんとした彼が、こんなに落ち込むだなんて……その様子はゼルダの予想を遥かに上回っていた。
 だが、彼の気持ちが分からないわけではない。オオカミの姿となってハイラルを救ったあの冒険の全貌を知るのはただ一人、ミドナだけなのだ。
「俺、ミドナに会いに行きます」
 鏡のかけらが風に吹かれて飛んでいく。影の国と光の世界をつなぐ唯一の入り口はなくなってしまった。それでも、ミドナを求めるというのか。彼女が望んでいるかどうかも分からないのに。
「それもいいでしょうね」
 しかしゼルダには無謀な冒険を否定することができなかった。それを止めるべきなのは自分ではないと分かっていたから。
 彼女は右手の甲をそっとさする。そこにあった黄金の力の証はなくなっていた。もしも、言い伝え通りに魔王から解放されたトライフォースが一つに戻ったのなら、ハイラル王国は何でも願いを叶える力を得たということだ。その力があれば、ミドナと再会することは容易いだろう。
 だが今のリンクにはそれを使わせたくない。また、ゼルダも黄金の力を扱い、国を栄えさせようとは思わない。ミドナとの再会はゼルダも望んでいるものであり、永遠の繁栄こそが姫としての究極の目標であるにも関わらず。
 あの力を使うことはただの近道にすぎない、とゼルダは思う。本当に我々とって不可能なことは、死者をよみがえらせたり、時間を巻き戻したりすること――すなわち世界の理を大きく飛び越えることである。ならば、いかに分厚い壁に阻まれていようと「誰かと再会する」ことくらいなら、自分にも手の届くような方法がどこかにあるのではないだろうか。
 その一方で、もしもリンクが今のような焦燥から解放されて、ミドナとの再会以外を願うことがあれば、力を貸したい。その時の彼は、おそらくたった一つだけではない「大事なこと」を見つけ、その上で不可能を覆したいと願うのだろう。
 夢見の力を持つゼルダ姫にも、そんな未来は不透明で不確かなものだったが、彼女は力持たぬ少女のように「そうなれば良いのに」と祈っていた。



 剣の試練における最後の魔方陣を抜け、たどり着いたのは巨大な円形のホールだった。ウルフとリンクが降り立った細い足場の外は、底なしの奈落である。ホールの壁には山や森や平原など――ハイラルの景色を模した青く光る壁画があった。
 足場から下を覗き込んで、ウルフは身震いした。
「ここ、落ちたら終わりだろ。怖っ」
「祠の中はいつもこんな感じだったよ? ハイラルの地下って広いんだね」
「えぇ……」
 ウルフはおっかなびっくり、目の前にあった階段を上っていく。消耗の激しいリンクに肩を貸しながら。
 階段の先には台座があり、そこには五体もの即身仏が並んでいた。ウルフはギョッとするが、リンクが平然としているあたり、どうやらこれも「いつものこと」らしい。
 即身仏に近づくと、ハテノ村の自宅で聞いたものと同じ声が聞こえてきた。
『よくぞここまで……』
『あなた様こそ、まごうことなき勇者』
『我ら女神ハイリアの啓示を受けこの試練の祠を作りし導師なり』
『剣の試練に打ち克ったものこそがマスターソードの使い手として相応しい』
『勇者よ。真の輝きを放つマスターソードとともに、ハイラルを護りたまえ……』
 五体は成仏するかのように青い光をまとって消えていく。
 ウルフの表情は苦々しい。
「あれだけ痛い目に合わせておいて、クリアしたらいきなり手のひら返したな」
「まあまあ」
 リンクは苦笑し、視線を前に向ける。
 即身仏たちの間を抜けた先、最後の祭壇にはマスターソードとその台座があった。
「さっきの導師たちは、厄災に対抗するためにこの祠を作ったと思うんだよね」
「それじゃ、なんで今になって解放されたんだ?」
「マスターソード自身が、何か思惑があって時期をずらしたんだと思う」
 その思惑をこれから剣に訊くのだ。
 二人は退魔の剣の前に立つ。
「抜くのか」
「うん。きみも一緒にね」
 ウルフは口を挟まず、うなずいた。
 リンクの右手の上にウルフの左手が重なる。二つの手はしっかり柄を握った。
「さあマスターソード、僕らをここへ呼んだ理由を教えて……!」
 二人の目の前に、ある光景が押し寄せてきた。



 黒剣を携え、全身からまがまがしい気を発する魔人がたたずんでいた。髪は劫火のように燃え盛り、同じ色の双眸がこちらを睥睨している。
 ただのひと睨みで凄まじい殺気が吹きつけてきた。ウルフはすくみ上がる。脳裏に刻みつけられた記憶が鮮烈によみがえってくる。
(厄災ガノン……ガノンドロフ……? いや、どっちでもない!)
 彼はわずかに後ずさりした。隣にはリンクがいて、魔人を食い入るように見つめている。リンクの姿は透けていた。ウルフの体と同様に。
 古代エネルギーによって百年前の記憶を覗き見た時と同じだ。ウルフたちは過去の光景を見ている。どれくらい昔なのかは現時点では分からなかった。
「命を惜しむならば逃げ出しても構わん。我が世を支配するまでのわずかな時を、人間らしく泣き暮らすがいい……」
 魔人は低い声を漏らす。その言葉が向けられたのは、一人の青年だった。
 緑の衣をまとった青年は膝をついた。魔人に気圧され、一言も発することができずに真っ青になっている。
「だが魔族の世に抗う意があるというのなら……我の後を追ってこい。少しであれば待っていてやろう」
 魔人は薄く笑って、魔法陣の向こうに消えた。
「うっ」と小さく呻き、青年はついにその場に崩れ落ちた。
 ウルフは思わず駆け寄るが、無論何かしてやれるわけではない。案外冷静なリンクは遅れてやってきて、
(この人の服装、ウルフくんと似てるね)
(ああ。こいつも多分――)
 古風な緑衣に、背中の豪華な鞘に収まるマスターソード。
 間違いない。彼もリンクやウルフと同じ「ハイラルの勇者」なのだ。
 固唾を呑んで見守る二人の前で、マスターソードが光を放ち、人に似た姿を形作る。
『マスター、一度戻られた方が良いのでは』
 全身を青く発光させた精霊が、女性の声を放つ。二人は顔を見合わせた。
「そうする。ごめんね、ファイ」
 青年は足を引きずりながら暗い坂道を上っていく。精霊は気遣わしげに後に続いた。
 二人には「彼女」の祈りのつぶやきが聞こえてきた。
『女神様……やはり、人間のマスターには……』
 その無表情な横顔から、ウルフは苦悩の色を読み取った。
(あれがマスターソードの精霊ってところか)
(ゼルダ姫が聞いた声の正体だ……)
 不意に、場面が切り替わる。二人は薄暗い神殿の中にいるようだ。
 神殿内の広間で、あの青年とシーカー族らしき女性が向かい合っていた。青年は相変わらず顔色が悪いので、あの魔人と邂逅した直後かもしれない。
 彼らは小さな声で会話している。
「――今のままの僕では、終焉の者には勝てないと思います」
 青年が正直に告白すると、女性ははっとした。
「その理由は?」
「怖いからです」
 彼は即答した。
 恐怖。ウルフがいまいち理解しきれず、リンクが散々振り回されたものだ。それを、青年は終焉の者という名の魔人に対して抱いているという。
「この大地の未来が、僕に全部かかっているなんて……。あれを倒さないとゼルダを助けられないことは、分かっているんです。それでも僕は……」
 女性は静かにまぶたを伏せた。
「恐怖を克服する方法、か。我らシーカー族にはある秘法がある。それは、術を施した人間の感情を封印するものだ」
「! それを僕にかけてくれませんか」
 青年はすがるような目を向けた。
「だが、この秘術はおいそれと解くことは出来ない。魂に刻まれるものだ。いくら輪廻しようと、術がそのままになるかもしれない。それでもいいのか、リンク」
 名前を呼ばれた青年は一も二もなく首肯した。
「ありがとうございます……」
 涙がひとすじ、ほおに流れ落ちた。
(……!)
 カッと目を見開くウルフの隣で、リンクが唾を飲んだ。
 黙って泣く青年を、剣の精霊は唇を結んでじっと見つめていた。
(なるほど、あの敵に勝つために魂を賭けたんだね。これは僕らの過去の出来事で、もしかしたらあの人が最初の勇者か。だから僕たちには『あれ』がないんだ)
 リンクは無理に感情を押し込めたように、平坦な口調で言う。
(そんなの、おかしくないか)
 ウルフの胸に疑問が芽吹く。
(いくら魔王に勝ちたいからって、勝手に魂を賭けて……そのせいで俺が、リンクがどれだけ――!)
 感情がふつふつと煮立つ。ウルフは涙を流す青年の前に行って、指を突きつけた。
(お前の勝手な行動のせいで、こっちがどれだけ迷惑こうむったと思ってるんだ)
 胸ぐらをつかもうとした手がすり抜ける。
(まわりもどうして止めないんだよ。どんな魂だって、すり減らされて使いつぶされていいはずがない!)
 だんだん過去の光景が遠くなっていくのにも構わず、ウルフは吠え続けた。
(俺がミドナの気持ちを理解できなかったのも、全部お前のせいなのかよ……!)
 赤ん坊ですら母を求めて泣くというのに、自分にはそれがない。自由に泣けない、どうやっても涙を流せないことが人として間違っているのだ、とウルフははっきり悟ってしまった。
 ミドナの涙を目撃した時だけでなく、泣き虫だった弟分を見る時の変な気分や、ハイラル平原でガーディアンに撃たれた時の奇妙な羨ましさ。今までぼんやり抱き続けていた違和感の正体が分かった。どんなに身近な人とも根っこのところで同じ感情を共有できていなかったのだ。それは、彼がその人たちとは違う心理構造をしており、「まっとうな人ではない」ことに等しかった。
「……ウルフくん、ウルフくん?」
 誰かの声がずきずきと頭に響く。彼は髪を振り乱した。
(俺はそんな名前じゃない。俺はっ)
「ウルフくん――いや、リンク!」
 ぷは、と彼は息を吐いた。
 目の前にはリンクの顔がある。なるほど女装も似合いそうな整った顔立ちが、少しほっとしたように緩む。
 ウルフは真正面に立つ彼の肩を強くつかんでいた。
「あっ……」
 慌てて手を離した。リンクは唇をゆがめてよろける。
 ウルフは彼の負傷した肩に思いっきり手をかけていたのだった。
「わ、悪い! ごめん、大丈夫か」
 急激に頭が冷えていく。二人はいつの間にか先ほどのマスターソードの台座の前に戻ってきていた。
 恐る恐る様子をうかがうと、リンクは珍しく不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「……約束」
「え?」
「約束の料理、二回ね。夕食二回分だからね」
 そんなことで許してくれるのか……力が抜けるウルフだった。
「分かったよ。もう何食分でもいいよ。ていうかお前、今俺の名前を――」
 リンクは神妙な顔になる。
「やっぱりきみも、それとさっきの夢に出てきた人も『リンク』なんだね?」
「あ、ああ……」
 あの青年も確かにリンクと呼ばれていた。おそらくは始まりの勇者にして、二人にとっては元凶でもある。あの光景を見ればウルフの名前など容易に予想がつくだろう。そもそも「ウルフ」というのはプルア博士がとっさに名付けたものだった。
 リンクは申し訳なさそうに眉を下げた。
「そうだよね、きみにも本当の名前があるよね。いつもちゃんとした名前で呼んでなくてごめん。えっと……リンク」
「別にいいって。こっちのハイラルじゃお前がリンク。その代わり、もしあっちに行ったら俺がリンクだからな!」
 傷口に響かない程度に胸元をとんと叩いてやると、リンクは破顔した。
「そっかー、なら僕も偽名を考えなくちゃね」
 のんきな顔を見てだんだん落ち着いてきたウルフは、盛大に息を吐いた。
「俺、さっき……なんかめちゃくちゃ腹が立って、全然周りが見えなくなってた……」
 それをリンクが正気に戻してくれたのだ。今までも、あちらのハイラルでは何度かこういう瞬間があった気がする。だが、こちらに来てからはほとんど発症したことはなかった。
(こいつの顔見てると怒る気にもなれないから、かな)
 ウルフの内心も知らず、リンクは穏やかに質問する。
「どうして腹が立ったの?」
「いや、だって、あの勇者のせいでお前や俺が苦労したんだろ」
「僕のために怒ってくれたの?」
 何かを期待するような様子のリンク。
「べ、別にそういうわけじゃないっ」
 否定されたにも関わらず、リンクはからりと笑った。
「でもちょっと嬉しい。ありがとう、ウルフくん」
 照れたウルフは視線をそらした。その先に、マスターソードは抜かれぬまま台座に刺さっていた。二人が触った時点で過去に意識が飛んだのだろう。リンクも剣を眺めながら、
「初めて迷いの森の奥でマスターソードに触れた時、僕は剣に拒絶されたんだ。だからずっとこの剣には嫌われてるのかと思ってた……でも違ったみたい。多分、剣の精霊は後悔してたんだよね」
「後悔?」
「百年前の僕があんなことになって、責任を感じたのかもしれない。それで、僕に同じものを背負わせたくなかったのかも。剣の精霊に感情があったらの話だけど」
 ゼルダ姫も「その剣を抜く以上は覚悟が必要になる」と言っていた。一度失敗した者を再び勇者として任命することに対し、マスターソードが負い目を感じていたというのか。
「それじゃあこの試練の目的は?」
「たまたまだけど、勇者がここに二人いるからじゃないかな。僕たちは二人だからこそ気づけることがある。ハイラルの勇者がどういうものなのか、お互いの立場を比較してより深く考えることができる。そんな僕らに、あの記憶を伝えたかったんだ」
「伝えたところで何がどう変わるんだよ」
「原因が分かれば対処法を考えられるでしょ。あの最初の勇者が施した魂の縛りによって、僕たちは恐怖を軽減されているんだ。その代わりにきみは怒りがコントロールできないっていうことも分かった。そして一番大事なことは、二人とも涙を流せないこと」
 ウルフの心臓がどきりと跳ねる。
「それが、僕らが勇者にふさわしい魂と引き換えに失ったものだ」
 雨上がりの空のように澄み渡った瞳で、リンクは言い放った。ウルフの胸に言葉が染み込んでいく。
(俺はあの時のミドナの気持ちを理解したい)
 陰りの鏡を割り、「またな」と言って別れたミドナは、最後に綺麗な涙を流していた。あの理由が本当に分かるようになりたい。
 自分たちは抱えた欠陥を取り戻すべきだ、とリンクは続ける。
「変だと思ったんだよね。どんなに痛くても悲しくても嬉しくても、その時当然あるべきものがないんだから」
「それじゃ、お前は泣き虫になりたいのかよ」
 ウルフが唇をとがらせると、リンクは軽く目を細める。
「違うよ。ミドナさんと再会して大泣きするきみが見たいだけ」
 ぴくりとウルフのこめかみが動く。
「ほお~それはどうかな。その時泣いてるのはお前かもしれないぞ」
「あはは、そうだね」
 二人はくすくす笑いあった。そして台座に向き直る。
 凪いだ表情でリンクは剣に手を差し出す。
「マスターソード……いや剣の精霊、ファイさんだったかな? いろいろ僕らに教えてくれてありがとう。もしきみが良ければ、これからも見守っていてほしいな。退魔の剣として使うことはないかもしれないけど、面白い景色を見せてあげられるかもしれない」
 けがれなき刀身に宿った光が、ちかちかと瞬く。
 剣が応えてくれた。言葉はないけれど、マスターソードは確かに二人と共に旅をしてきた仲間だった。
 静かにうなずきあって、二人は同時に剣を抜いた。



 眩しさが和らぎ、ゆっくりと視界が戻る。本物の陽光が降りそそぐコログの森に、試練を終えたリンクは帰還していた。
 コログたちが歓喜に笑いさざめく。台座を見守るデクの樹がその大きな枝を揺すって、ピンクの花びらを散らした。
『マスターソードの力を余さず使いこなせる肉体と精神力を主は手に入れた……実に見事な成長じゃ!』
 静かに発光する退魔の剣が彼の手におさまっている。成長を促すためか、それとも成長を確認するための試練か。そのどちらかは結局分からなかったけれど、彼の心には確かな充足感があった。
『これで主は晴れてその剣の主となった。剣が発する聖なる輝きがよく似合っておる。わしはここから主たちの道行を見守ろう……』
「ありがとうございます」
 リンクは優雅に一礼して剣を鞘におさめた。
 ずいぶん長い間戦っていた気がする。怪我も消え、服装も戻っているけれど、精神的な疲労は隠しきれなかった。時間の経過はなかったようで日は高いままだったが、もうすでに眠りたい。ペパパが用意した木の葉のベッドでムニャムニャゴロゴロしたい。
 でも……と、リンクは足元に目線をやった。安心感を与える黒い毛並みのケモノが、彼を見上げていた。
『これからやるべきこと、分かってるよな?』
 リンクは笑顔でうなずいた。
「うん。ゼルダ姫に報告、だよね!」
『昼寝の後でな』
「やっぱりウルフくんも眠たかったんだ」
 デクの樹のうろに向かう二人。使命を果たした勇者の背中で、マスターソードはほっと息を吐くように光を放つのだった。

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