結んで途切れて

「手伝っていただいてすみませんね、ウルフさん」
 短く切った髪を揺らし、野花の咲いた坂道を上りながら、ゼルダが少し沈んだ声色でつぶやく。その隣で膨れたカバンを持ったウルフはからりと笑った。
「気にしないでください。俺だってあの家に結構私物置いてたし、いい機会ですよ」
 二人が向かう先はハテノ村のリンクの家だ。本来なら村の入口からまっすぐ吊橋を渡ればいいのだが、訳あって今は山沿いを迂回していた。
 ゼルダはなおも憂うように眉をひそめる。
「ですが、リンクはどう思っているのでしょうか。突然引っ越しだなんて……」
「あれ、姫様には言ってなかったのか。あいつイチカラ村に土地を買ったらしいですよ」
「土地……ですか?」
 立ち止まって目を見開く彼女に、ウルフは伸びてきた前髪を払いながら言った。
「新しいマイホームを建てるって言ってました。ちょっと前にプルア博士への支払いが終わってから『お金を貯める目的がなくなった』って嘆いてたんで、そのせいかな。だから姫は遠慮なくこっちの家を使ってください」
 するとゼルダは表情を緩め、胸をなでおろす。
「そうだったのですね、安心しました。きっとウルフさんのお部屋も新しくそちらに作るのでしょうね」
 さらりと言われ、ウルフは目を泳がせてほおをかく。
「それは……どうでしょうかね」
 とはいえ、リンクのことだからあり得る話だ。ウルフとしても息吹のハイラルに拠点ができること自体はありがたいが、恥ずかしいのでせめて「客用寝室」ということにしてもらおう。
 ――厄災を封印してからあちこち忙しく動き回っていたゼルダは、ここハテノ村に拠点を築くことになった。それは、彼女自身が村につくった学校で教師をつとめることになったからだ。
「ハイラルに生きる人々の助けになりたい」という彼女をいつまでも宿に泊まらせるわけには……ということで、リンクは自分の家を譲ることにした。その背景には新たなマイホーム計画があったのだろう。
 今は引越し作業の途中だ。ウルフはゼルダの私物――学校の子どもたちのための教材が入っている――を持っていた。リンクの家の前の吊橋は最近渡る度に嫌な音がするので、今のように重い荷物がある時は避けることにしている。橋を直してもらおうにも、工務店が代替わりして拠点をイチカラ村に移したこともあり、なかなかタイミングがなかった。
「あら……あの花は?」
 坂の途中に、見たことのない花が咲いていた。気づいたゼルダがプルアパッドを持ってそちらに駆けていく。きっとウツシエ機能を使ってハイラル図鑑に登録するのだろう。あの調子で道を外れたら呼び戻さなくては、と思いながらウルフも後に従った。
 黄色い花弁をウツシエに収めたゼルダは岩壁の前で立ち止まる。彼女の見つめる先にはぽっかりと穴が空いていた。洞窟だ。内部は斜めに下っているようだが、暗くて底が見えない。
「ウルフさん、この洞窟に見覚えは?」
「うーん、ないなあ。最近あちこちで増えたって聞きますからね」
 そこらじゅうで崖崩れが起きて地形が変わっているらしい。「天変地異の前触れだ」とも言われているが、ウルフは息吹のハイラルを知り尽くしているわけではないので、「そういうこともあるのか」と考えていた。
 ゼルダはそわそわしながらウルフと洞窟を見比べる。
「あの……ちょっとだけ中を覗いてみてもいいでしょうか?」
「分かりました」
 ウルフはこっそり苦笑した。このお姫様は好奇心が旺盛なのだ。つくづく黄昏のゼルダ姫とはまるでタイプが違う。あちらは正対するだけで相手を緊張させるような美貌と威厳の持ち主だった。
 わくわくした様子のゼルダがそっと洞窟に踏み込む。その時、がらりと足元が崩れた。
「きゃあっ」
「ゼルダ姫!」
 ウルフはとっさに荷物を放り出し、宙を泳いだゼルダの手を取って引き寄せた。だが崩落は彼のいる足場まで及んだ。彼は穴に落ちる寸前、どうにかゼルダの体を外の草原に放り出した。
「やべっ」
 ウルフ自身はそのまま尻餅をついて、ずるずると岩肌を滑り落ちていく。擦過の熱と痛みが全身を襲った。ずいぶん長い距離を滑ったのち、底に到着して止まる。
 ゼルダが日の差し込む入り口から叫んだ。
「大丈夫ですか、ウルフさん!」
「痛ってぇ……な、なんとか」
 弱々しく返事をしてから咳き込んだ。足首が焼けるように痛い。ウルフは素直に申告した。
「すみません、自力で脱出はきついです。足をひねったみたいで」
「大変……リンクを呼んできます! 待っていてくださいっ」
 去り際、ゼルダが何かを投げた。キャッチするとアカリバナの種だった。ありがたく岩肌に叩きつけて咲かせ、光源を確保する。ゼルダの足音がぱたぱたと遠ざかっていった。
「うっ……げほっ」
 咳の衝動で断続的に肩を震わせながら、ウルフは洞窟の奥を見る。光の届かないそこは塗りつぶされたように真っ黒だ。目が慣れていないこともあるけれど、この暗さはおかしかった。それに、先ほどからうまく呼吸ができない。
(ガスでも溜まってたのか……?)
 坑道ではよくあることだから気をつけろ、と以前ゴロン族に忠告されたことがある。迂闊だった。慌てて口元を手で覆うが、だんだん意識が朦朧としてきた。
 まぶたを閉じないよう必死にこらえているうちに、それなりに時間が経ったのだろう。不意に目の前にロープが降りてくる。それを伝ってリンクが洞窟の底に降り立った。長く穴の底にいたので、日だまりのような髪の色が眩しかった。
 クライム装備を着た彼は顔色を失っていた。
「ウルフくん! どうしたの、具合が悪いの?」
「あ、ああ……」
 すぐさまリンクが肩を貸し、ウルフはなんとか立ち上がる。
「応援を呼んできたよ。上に待機してもらってるんだ。すぐに出られるからね」
 リンクは空いた右手でロープを掴んだ――その時、彼の腕に黒くまとわりつくものが見えて、ウルフはぎょっとした。
「り、リンク、腕が……」
「えっ何?」
 まばたきをしたら黒いもやは消えていた。何だったのだろう、一瞬リンクの右腕がなくなったのかと思ってしまった。
 動揺したウルフは「なんでもない」と返事することもできず、リンクのきょとんとした顔を見ながら意識を手放した。



 まぶたの裏に赤黒いもやが渦巻いている。
 逃れるように目を開ければ、ウルフはベッドの上に横たわっていた。この慣れた感触は、リンクの家で使っている寝具だろう。それを認識した途端に吐き気、めまい、頭痛といった症状が襲ってきて、一瞬気が遠のきかける。
「あ、目が覚めた! 良かったウルフくん……!」
 枕元にいたリンクがくしゃりと顔を歪めて近寄ってくる。それを制止したのは別の女性だった。
「待った、診察が先だよ。ウルフ、気分はどう?」
 きれいに整った顔にメガネをかけた妙齢の女は、ブーストエイジとやらで年齢を進めたプルアだった。いまだに慣れない姿で、見る度にびっくりしてしまうが、落ち着いた風貌は「やはりインパの姉なのだ」と思えた。外見に合わせてあのわざとらしい口調もやめたらしい。
「気分は……わ、悪い……」
 咳混じりに返事をする。まだぐるぐる頭が回っているようだった。プルアは肩をすくめた。
「うーん……完全に瘴気にあてられてるね。安静にするしかないよ」
 瘴気。あれがそうだったのか。洞窟と同時期に発見された、人体に有害な気体だ。地面からわいてくるとの噂なので、洞窟の底に溜まっていたのだろう。
 ウルフは喉を押さえながら部屋の中を見回す。リンクのそばには蒼白な顔のゼルダがいた。
「ごめんなさい、私のせいでこんなことに……」
 両手で顔を覆う彼女にかける言葉もない。代わりにリンクが「事故ですから」と慰めた。
「それよりもゼルダ姫、瘴気に効く薬か何かを知りませんか?」
 リンクの質問に、ゼルダはぱっと顔を上げる。
「瘴気の回復には日の光を浴びるのが効果的だと聞きました。他は……探してみますね!」
 彼女はすぐに身を翻して部屋を出ていく。よほど責任を感じているのだろう。それを見送ったリンクは、神妙な顔でプルアに向き直った。
「プルア博士、僕も多少は瘴気を吸ったと思うんです。でもウルフくんより平気なのはどうしてでしょう?」
「うーん。単純に吸った時間が短かったことと……あんたには耐性があるのかもしれないね」
「そうですか……」
 ひっくり返せば、ウルフは瘴気に弱いということか。リンクはかぶりを振る。
「僕、何か元気の出る料理をつくってくる。ウルフくんは休んでて」
「ああ……」
 か細く返事をするウルフにリンクは沈んだまなざしを投げ、席を外した。扉が閉まる音を聞いてから、ウルフは我慢していた分だけむせてしまう。
 咳が落ち着いた頃、プルアがそっと話しかけてきた。
「医者じゃなくて私があんたを診たのはね、その体が特殊だからだよ。あんたは多分、存在自体が不安定なんだと思う」
 その発言には心当たりがあった。彼は本来オオカミの姿で息吹のハイラルに顕現するところを、プルアの研究によりハイリア人の姿を保っていられるようになった。そのあたりが「存在の不安定さ」に関連しているのだろう。だから余計に瘴気の影響を受けたということか。
 ウルフは天井を向いたまま話す。
「俺……あの洞窟の中で、リンクの腕に変な黒いのがまとわりつくのを見たんだ。あれも瘴気だったのかもしれない」
「ふうん……それはちょっと分からないわね」
 プルアは首をかしげた。
 おそらくあれは「センス」――普通の人には見えないものを見通す力によるものだ。あの光景が何を示唆しているのかは分からなかったが、不吉な予感がした。
 そこでプルアは半眼になり、低い声で告げる。
「リンクのことも気になるだろうけど、まずは自分を優先しないと。あんたには、今の症状をすぐに治す手段がある。……故郷に帰ることだよ」
 薄々分かっていた。原因である瘴気から遠ざかれば、きっとこの状態は改善する。しかし、ウルフはあえてそれを選択肢に入れなかった。
「そんなの……俺だけ逃げるみたいだろ」
 今後、リンクたちは瘴気の原因究明のために動くことになるだろう。誰よりも国の行く末を考えているゼルダは率先してこの問題に取り組むはずだし、それをリンクが手伝わないわけがない。なら、ウルフがやるべきこと、手助けすべきことはいくらでもあった。
 プルアは首を横に振った。
「いいや、これは逃げじゃない。……まあ、今のあんたがすぐ故郷に帰るのも無理だろうから、ゆっくり考えたらいいよ」
 彼女は研究着を翻して部屋を去っていった。会話で疲労したウルフがまぶたを閉じると、とろとろと眠気が襲ってくる。
 ――暗闇の向こうから食器の触れ合う小さな音がする。ウルフの意識は浮上した。
 ちょうどリンクが扉を開けて入ってきた。ウルフは反射的にベッドから上半身を起こす。
「あ、ウルフくん具合はどう?」
 リンクはトレイを持って近づいてくる。
「ちょっとマシになったかも……」ぐっすり寝たためだろう、体の重さや熱っぽさは少し改善していた。
「待って。お水飲んだらいいよ」
 という台詞とともに差し出されたコップをありがたく受け取る。リンクが運んできたトレイの上には、柔らかそうなパンと、湯気を立てる深皿があった。
「ご飯は食べられそう? カボチャのシチューだよ」
「食べる」
 黄金色のシチューをさじですくって口に含むと、舌にまろやかな味が広がる。体の芯からぽかぽかとあたたまるようだった。思わずほおがほころぶ。
「うまい! でもこれ……ヨロイカボチャじゃないな?」
 リンクは自分のシチューを食べて、にっこりした。
「そうそう、ゼルダ姫が見つけてきてくれたんだ。村長のクサヨシさんが作りはじめた新種だって。まだ形が気に入らないから改良中らしいけど」
 そのカボチャはたくさん太陽光を浴びて育った品種らしく、ゼルダは「ウルフが食べたら元気になるのでは」と考えてリンクに渡したらしい。その後、姫は瘴気にくわしい人物がカカリコ村にいる、と言ってすっ飛んでいったそうだ。「姫にもシチューを食べてほしかったんだけどなあ」とリンクは苦笑する。
 カボチャのおかげか、なんだか呼吸まで楽になってきた。ウルフは付け合せのパンも含めて、いいスピードで皿を空にする。
「食べて寝たらなんとかなりそうだ。悪いけど、姫に会ったらお礼を言っておいてもらえないか」
「うん。あと何か足りないものはある? もうしばらくしたら体を拭く布を持ってくるつもりだけど」
 そういえばウルフは旅装のままベッドに入っていた。重たい装備は外されているが、汗くらいは拭きたい気分だ。リンクはなかなか配慮が行き届いていた。
 そこまで考えて、ウルフは軽くため息をつく。
「一方的に面倒見られるのって落ち着かないなあ……」
 リンクはぽかんとした。
「子どもの頃はどうしてたの? 育ての親に看病してもらってたんじゃないの」
「俺、あんまり風邪とか引かなかったんだよ」
 都合の悪いことは記憶から消えているだけかもしれないが。という無言の補足を悟ったのかリンクは笑いながら、
「頑丈なのはいいことだけど、たまには僕にも面倒見させてよ」
 はい、とトレイを差し出したので、ウルフは空の食器を載せた。「まあリンクが相手ならいいか」と思えるくらいには気を許していた。
 リンクは部屋を出ていく間際、ぼそりとつぶやく。
「ゼルダ姫がね……今度ハイラル城の地下の調査に行くっていうんだ」
 はっとした。リンクの視線は少し下を向いている。どうにも不安そうな横顔だった。
「もしかしたらそこから瘴気が出てる可能性があるんだって。今回ウルフくんが倒れちゃった件もあるから、引っ越しが終わったらすぐに行くことになるかも」
 ウルフは身を乗り出す。
「なら、なおさら早く治さないとな」
「うん……そうだね」
 リンクは小さく笑って扉を閉めた。



 翌日、ウルフは爽快な気分で目を覚ました。洞窟に落ちた時にひねった足もすっかり元通りになったので、立ち上がってカーテンを開けた。のどかなハテノ村は明るい朝の日差しに照らされている。
 部屋から出れば、湯気を立てる朝食が居間で出迎えた。
「あれ、もう体は良くなったの?」
 テーブルに食器を並べていたリンクが目を丸くする。ウルフはうなずき、卓についた。基本的にここの家具はそのままゼルダが使う予定だが、テーブルだけは少しがたが来ているので、引っ越し作業の最後に解体することに決めている。
「ああ。一日作業が遅れたし、今日こそ終わらせないとな」
「それじゃあ食べたら一緒にやろうか」
 ウルフがこぶしをつくってみせると、リンクは柔らかくほほえんだ。
 朝ごはんはカボチャがたっぷり入ったミルク粥だ。昨日のカボチャの残りと、ハテノ牧場から仕入れた新鮮なミルクが、子どもの頃に食べたような優しい味を生み出していた。
「ごちそうさま。お前、本当に料理うまくなったよなー」
 ぺろりとお粥を平らげたウルフは、目の前に座る料理人を素直に褒める。リンクは自慢げに胸を張った。
「そりゃあウルフくんに食べてもらいたかったもの。自分で食べるのも好きだしね。イチカラ村にはまた違う食材が待ってるんだろうなあ」
 彼は早くも引越し先の食事に思いを馳せている。それなりに長く住んだ村を離れることになったが――おまけにこの家はリンクにとって縁深い場所なのだ――この分なら精神状態を心配する必要はなさそうだ。
「そうだな。よし、ちょっと休んだら働くか!」
 水場で皿を洗った後、ウルフは精力的に働いた。処分する家具をリンクとともに外に運び出し、借りていた荷運び用の台車に乗せる。武器スタンドなどはゼルダが使わないため、売り払うことにしたのだ。
 台車で例の坂道に向かうリンクを見送ってから、木のモップで家の中を掃除した。そしてこっそり息を吐く。
(やっぱり、まだしんどいな……)
 いつもより息が上がるのが早い。瘴気が体に残っている気がした。
 なんとか自分の部屋と居間の掃除を終えた頃、リンクが家に戻ってきた。彼はりんごが満載に入ったかごを持っている。
「ゼルダ姫、まだカカリコ村から帰ってないみたい。で、よろず屋さんに武器スタンドを届けたら、おまけでりんごをくれたんだ。休憩にしない?」
 これまた新鮮そうな赤色だ。ウルフは諸手を挙げて賛成する。リンクは調理場でりんごを刻み、余っていた小麦粉を使って手早くクレープをつくった。こういうしゃれた料理もお手の物だ。
 二人は外に出て、家の前の焚き火スペースに座った。昔サクラダたちがたむろしていたあたりだ。二人で並んでおやつを食べる。
 甘いクレープにがっついたら、また咳がこみ上げてむせてしまった。リンクが横目でこちらを見る。
「あのさ、ウルフくん。あんまり無理しないでね……?」
「バレたか」
 舌を出すと、リンクは小さく笑った。
「見てたら分かるよ。もし悪化したらすぐに休んでね」
「この分なら明日には本調子だろ。心配するなって、ハイラル城の調査にもついていくさ」
 するとリンクは一瞬黙り込み、意を決したように表情を改める。
「ウルフくん……きみは、僕たちの帰りを待っててくれないかな」
 放たれたのは期待とは真反対の言葉だった。周囲の気温が下がった気がして、ウルフは口をつぐむ。
 リンクはうららかなハテノ村を眺めながら静かにつぶやいた。
「きみは体質的に瘴気の影響を受けやすいのかもしれない。危ないことはさせられないよ」
 ウルフはぐっと詰まった。リンクはプルアから話を聞いたわけではなく、自力でその推論にたどり着いたのだろう。こういう時だけいやに鋭いものだ。一拍おいて、ウルフは食い下がる。
「でもオオカミの姿だったら、瘴気を浴びてもまだマシかもしれない。とにかく、城の地下ってどんな場所かよく分かってないんだろ? 俺も――」
「ウルフくん」
 静かな声なのに、その呼びかけには反論を封じる雰囲気があった。リンクの青い瞳がまっすぐにウルフを貫く。
「僕はきみがいなくても大丈夫なわけじゃなくて、きみがいるからがんばれるんだよ」
 言葉がじんわりと心に染み込んでいく。リンクは切々と訴えるような口調で続けた。
「たとえきみが目の前にいたって、元気じゃなかったら意味がない。おまけに今回は瘴気なんて目に見えないものが相手で、できる対処は接触を避けることだけなんだ。だから、お願い」
 リンクは真剣に頭を下げた。
 たっぷりと沈黙が流れる。ウルフはよく考えた末に、リンクの肩を叩いて顔を上げさせた。
「悪い……俺、冷静じゃなかったな」
 本当は、リンクだって少し地下探索に怖気づいているのだろう。ウルフはそのことを知っている。分からないはずがない。
 だが、リンクの懸念も痛いほどに伝わった。体の不調は自分が一番よく分かっているつもりだ。心を決めたウルフは短く宣言した。
「俺がこっちのハイラルにいる理由は、お前の役に立ちたいからだ」
 リンクがはっと息を呑む。ウルフはうまく力の入らない手のひらを広げた。
「なのに今は何もできないし、むしろ迷惑をかけてる。だったらしっかり休んで、ちゃんと治した方がいいよな。
 ……やっぱり向こうのハイラルに帰るよ」
 こわばった顔をほぐしてそう言うと、リンクの顔がぱあっと明るくなる。
「うん、元気になったら戻ってきて。たくさん働いてもらうから! 今度のマイホームは『組み立て』が必要みたいでさ、一人じゃ厳しいんだよ」
 リンクは嬉々として説明した。そのマイホームは自由に間取りを選べる代わりに、家主が大工仕事をするそうだ。このハテノ村にもモデルハウスとして並んでいるような、コロコロした形状の家なのかもしれない。
 さて仕事に戻ろうか、とリンクは伸びをしてから立ち上がる。ウルフも腰を上げて、その横に並んだ。
「リンク」
 名を呼びながら、彼の右手を自分の両手ひらで包み込む。あの洞窟の中で黒いもやがまとわりついた手を。リンクは不思議そうに視線を返す。
「何?」
「離れてても、俺の心は一緒だからな」
 正面から青い瞳を見つめて言う。リンクは一瞬絶句した。
「え……きみ、そんな恥ずかしいこと言っちゃうんだね」
 おどけたような返事にウルフの顔はかっと熱くなる。思わず手を離した。
「お前に影響されたんだよ!」
 リンクは微笑する。
「ふふ、ごめんごめん。あんまりきみを心配させないようにするね。マスターソードも持っていくし、大丈夫だよ」
「仕方ないからエポナも貸しといてやる。丁重に扱えよ」
「うん、ありがとう」
 リンクはにこやかに笑う。その瞳は日差しを受けてきらきら光っていた。
 このハイラルから厄災を消すという偉業を成し遂げたリンクは、ウルフが思っていたよりもずっと成長していた。いつまでも後輩と侮ってはいられない。
 何よりもこの目の輝きがあれば、リンクはどんな場所に行っても大丈夫だろうと思えた。



 真っ暗な空間の中、マスターソードを持った右腕に赤黒いもやがまとわりつく。直後、引きちぎられるような痛みが全身を襲った。
「うわあああっ!?」
 ウルフは悲鳴とともに目覚める。まだ夜半だった。一瞬自分がどこにいるのか分からなくて混乱したが、ここは黄昏のハイラルの自宅だ。ウルフは一人、療養のために世界の壁を超えてここに戻ってきた。おかげで体は順調に回復に向かっている。
 それにしてもひどい夢だった。全身にびっしょりと冷や汗をかいている。ウルフは先ほど激痛が走った右腕を押さえた。
「あ……腕が、ある?」
 目の前に右手をかざす。指はどれも問題なく動かせた。夢の中ではほとんど腕がとれたような衝撃を受けた。今も痛みが残っている気がする。あの感覚は一体……。
 先ほどの夢で、ひとつ気になることがあった。ウルフは左利きなのに、夢の中の「彼」は右手でマスターソードを持っていた。そんな人物は一人しか思い当たらない。
「リンク……大丈夫だよな」
 つぶやきながら、枕元にあった端末を引っ張り出して触る。ウルフはプルア博士に持たされたこの石版でこちらのハイラルに戻ってきたのだ。だが、いくらいじっても画面が映らなかった。いつもならすぐに青い光を放つのに。
 じわじわと焦りが込み上げる。まぶたの裏に、幻のようにリンクの笑顔が蘇った。最後に右手を握った感触もはっきりと記憶に残っている。
 俺は、あの手を離すべきじゃなかったのかもしれない。
 その苦い後悔は、のちにリンクの無事が判明しても――同時に彼の右腕が別の人物の腕にすり替わった、と聞いてから――ずっとついて回ることになる。

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