連祷

「ごめんミファー、また……お願いできるかな」
 申し訳なさそうにリンクが頭を下げる。その言葉が示す意味を、ミファーはすぐに理解した。
「分かった。手が空いたら、東の貯水湖に来て」
 彼と同じく小声で返した。内緒話をする幼なじみたちの後ろで、ゼルダ姫が不思議そうにしていた。
 対厄災ガノンに向けて、ゾーラ族との調整をはかるために里にやってきた近衛騎士とその主。ミファーは英傑としてではなく、ゾーラの王女として二人を迎えたのだ。
 ゼルダは早速ドレファン王との協議に入る。彼女はいつものズボン姿ではなく、公務用のドレスを着ていて、少し動きづらそうにしていた。リンクが彼女とともに王宮に入るのを見届けて、ミファーは一足先に貯水湖へと向かった。
 里の東にある大きな湖には、水の神獣ヴァ・ルッタが静かに半身を浸けている。里でこの巨大遺物が発掘された時から、ミファーはずっと特別なつながりを感じていた。古代の賢者から名をもらった、生命を持たぬからくり――けれども彼女はこの神獣が大好きだった。
 桟橋で彼を待った。目に映るのは湖の青と空の青、そしてその境目を空色の衣が駆けてくる。
「乗って、リンク」
 ミファーが手で合図すると、ルッタの長い鼻が湖面まで下りてきた。リンクが目を丸くしている。
「すっかりルッタと仲良しになったね、ミファー」
「仲良しって……子どもみたいな言い方」
「え?」
 首をかしげているリンクに、くすりと笑うミファー。だが、この神獣との関係は、「仲良し」という表現がぴったりだと思った。
 リンクが先にルッタの鼻先にある足場に飛び乗り、続いてジャンプしてきたミファーを受け止めた。近衛騎士になってからというもの、彼はこうした動作を自然にするようになった――とミファーは思う。
 英傑の指示に従い、足場は水平を保ったまま上昇した。神獣の顔のあたりまで上がって、止まる。
 リンクはその場に腰を下ろし、篭手を外して右そでをまくりあげた。
 途端に、大きな裂傷がミファーの目に飛び込んでくる。血はもちろん止まっているけれど、このままではひどい痕になってしまうだろう。
「こんなになるまで、どうして放っておいたの」
 思わず詰問調になると、リンクは縮こまった。
「忙しくてつい……すぐミファーに会う予定だったし、治してもらえるかなって」
 ミファーはどきりとする。頼られている証拠であるが、喜んでばかりもいられない。
「リンクが怪我を隠さなくなったのは嬉しいけど……姫様を守る騎士なんだから、もうこんなことしちゃダメだよ」
 諌められ、リンクは「はい」と小さく返事をしてうつむいた。
 ミファーがため息とともに怪我に手をかざせば、そこに青い光が満ちた。治療がはじまる。ルッタを操る時と同じく、呼吸をするように自然に扱える、ミファーだけの特別な力だ。
「……こうしてると、出会った頃のことを思い出すね」
 幼なじみのつぶやきを聞き、リンクは顔を上げた。
「あなたはまだ子どもで、無茶してすぐに怪我をして。その度、私がこうして治してた」
 長寿命のゾーラ族であるミファーは、彼と出会った頃からほとんど姿が変わっていない。一方、ハイリア人のリンクは気がつけば彼女よりも背が伸びて、大人になっていた。そして見た目だけでなく精神の成長速度も、ゾーラよりはるかに上だったのだ。
「今も怪我してばっかりで、ごめん」
 リンクはしょんぼりする。ミファーはほほえんだ。
「いいの。私、あなたの傷を治してあげられるの、嬉しかった」
 癒やしの光がゆるやかに収束する。手をそっと引くと、傷は跡形もなく消え失せていた。リンクは軽く腕を動かして、顔をほころばす。
「いつもありがとうミファー。その、怪我を治して嬉しいっていうのは、もしかして今も……?」
「うん。今もだよ」
「そっか」
 リンクは照れくさそうにほおをゆるめた。騎士になり、特にゼルダ姫の近衛という大役を背負ってから仏頂面がはりついたようだった彼だが、今は珍しく穏やかであった。
 二人は寄り添ったままルッタを見つめる。子どもの頃から変わらない二人の距離感だ。
 ミファーの思考は、この神獣と自身に課せられた使命の方へと流れていく。
「復活するかもっていう厄災ガノンは、どんな相手なのか、どういう戦いになるのか、くわしいことはまだ分からない……。でもどんなに過酷な戦いになったとしても、みんなが――あなたが傷ついてしまった時は、私が治す」
 静かに言い切って、ミファーはまっすぐにリンクの目を見た。少し傾いた太陽の光が差し込み、衣と似た水色の瞳は見る者を安心させるような色をたたえていた。
「何度でも、どんな怪我でも……。私は、あなたを護りたいから」
「僕だって。ミファーの前に立って、きみを護ってみせるよ」
 その台詞のひとつひとつに、ミファーはどれだけ心を動かされてきたのだろう。彼への思いを込め、婚礼衣装であるゾーラの鎧をつくっていることは、まだ誰にも言い出せていない。きっとこの気持ちは届かないだろう、と思っている。それでも。
「リンク。厄災ガノンとの戦いが終わったら――そうしたら、子どもの頃みたいにまた、ここへ遊びに来てくれる?」
 彼はそっと唇を開いた。いつだってミファーの心を救ってくれた優しい言葉を口にするために。



 ――長らく無謀な放水を続け、ゾーラの里一帯を雨雲で閉ざしていた神獣ヴァ・ルッタが、突然沈黙した。
 ミファーの魂は驚いて、泣くのをやめた。
 神獣の隅々にまで感覚を飛ばす。誰かがルッタの内部に潜入しているようだ。やがて、その人を見つけた。
(リンク……!)
 厄災に汚染された神獣に、おっかなびっくり入ってくる幼なじみ。しかも、彼は水色のぴったりした鎧を身にまとっている。
(ど、どうしてその服を着ているの!?)
 それは完成してからついに日の目を見ず、ミファーが部屋の奥に眠らせておいたはずのゾーラの鎧であった。何が何だか分からない。ミファーの魂は大混乱に陥っていた。
 リンクはルッタの入口にあった勇導石に、腰から外した小さな石版をかざした。確か、ゼルダ姫がシーカーストーンと名付けて持ち歩いていた遺物だ。
 勇導石により、近くの足場に円形の青い光が宿る。空間転移のための起点をつくったのだろう。
 落ち着きを取り戻したミファーは、あふれる思いをおさえきれなくなった。
『無事だったんだね……』
 思わずこぼれ出た言葉はリンクにも届いたらしく、彼はびくりと肩を揺らした。
『私、思ってた……いつかあなたがここに来てくれるかもって。ガノンに乗っ取られたこのルッタを取り戻しに来たんだよね……?』
 リンクは声の方向を探してきょろきょろあたりを見回すと、天井のある一点に視点を定めて、
「そうだよ、ミファーちゃん! 僕がきみを助けに来たんだ!」
 と言い放った。
 ミファーはきょとんとしてしまう。
『リンク……? どうしたの、具合でも悪いの』
「え!? そんなことないよ、元気だよ元気。ミファーさん……ミファーちゃん……ミファーこそ、こんなところに長い間いて気持ち悪かったでしょう。今、助けるから」
 リンクの様子がおかしい。明らかに挙動不審である。それでも、声も表情も、確かに彼女のよく知る幼なじみのものであった。彼はただそこにいるだけで、涙を吹き飛ばしてくれた。
『そ、そう。それならまず、内部の構造を示したマップを手に入れて。マップの情報が入った勇導石が奥にあるから、そこまで行ってくれる……?』
「任せてよ!」
 と胸を叩いた割には、リンクは妙に肩を張って、緊張の面持ちである。
 彼は入口の坂を上った先で、いきなり悲鳴を上げた。
「うわ何この目玉!」
 ガノンの怨念が沼をつくり、道を塞いでいる。ちょうど沼の真ん中あたりに、ぎょろりと一つ目が生えていたのだ。
 リンクは薄気味悪そうにしながら、遠くからバクダンらしきものを投げて対処していた。目玉と沼はすぐに消える。
『マップはあの向こうだよ』
 ミファーが案内する先、ルッタ内部の浅瀬の奥には鉄格子が下りていた。
「ええと……」
 リンクは鉄格子に近寄り、下の枠に手をかけた。踏ん張って無理やり開けようとする。相当重いのか、ぴくりとも動かない。見かねてミファーが助け舟を出した。
『リンク、その……姫様の道具を持ってるなら、何かできそうなことはない?』
「そっかアイスメーカーか!」
 彼は石版を浅瀬にかざして氷のブロックを作り、鉄格子を押し上げた。
「さっき使ったばっかりだったのに忘れてた。ありがとうミファーさん」
 もはや素で「さん」づけしているようである。ミファーはこっそり苦笑した。
 鉄格子を抜け、リンクはマップの勇導石を起動させる。これでシーカーストーンに情報が読み込まれたらしい。リンクは小さな画面を凝視している。今やルッタと一体になってしまった魂のミファーには、そこに表示されたマップが手に取るように分かった。
『マップをよく見て。光っている印が神獣ヴァ・ルッタを制御する端末。ルッタを取り戻すためには、制御端末を全部起動させないといけないの。リンク、がんばって』
「全部で五つだね。分かった」
 さっそく次なる端末へ行こうとした彼の背へ、ミファーは声をかける。
『ところでリンク。もしかして私のこと、忘れてるの……?』
 リンクは地面から飛び上がり、ぎょっとしていた。
「ま、まさか! ほら、あのことだってちゃんと覚えてるよ。この神獣の上に座って、怪我を治してもらったでしょう。あの時は助かったよ~」
『それじゃあ、治療が終わった後に私が「またここへ遊びに来てくれる?」って訊いた時、リンクがなんて答えてくれたか、覚えてる?』
 リンクは唇を噛んで、顔をうつむける。
「……ごめん。昔のことは、ほんの少ししか覚えてないんだ」
『今まで、一体何があったの……?』
 リンクはしどろもどろに話しはじめた。厄災ガノンに敗北し、以後百年間、回生の祠という場所で眠っていたこと。そして、その間に過去の記憶が全て抜け落ちてしまったこと。ゼルダ姫が厄災をハイラル城で封印し続けているおかげで、今のハイラルがあること――
「あの日」から百年も経っていたなんて、ミファーは信じられなかった。それと同時に、ゼルダ姫がどうやら生きているらしいこと、さらに記憶を失っているとはいえ紛れもなくリンク本人が来てくれたことが、途方もない奇跡だと思えた。
 彼にこの感謝を伝えるべきなのだろう。だが、なんだかリンクが苦しそうなので、ミファーは何も言えなくなった。
「だから、その……昔の僕をミファーさんが好きだったってことも、全部聞いちゃって……ごめんなさいっ」
 彼はどこからともなく注がれる視線を振り切るように、勇導石に背を向けて走り出した。
「うわっ小型ガーディアン!?」
 すぐに魔物と遭遇してたたらを踏んでいたけれど。
 どうやら百年の眠りは、同時に著しい戦闘力の低下をもたらしたらしい。出会った頃の子どものリンクですら、魔物に対して戦慄することは一度もなかった。彼は勇敢で、いつもミファーの前に立ってくれていた。
 ――けれども、今までになく必死になって魔物と戦うリンクを見て、彼女の胸にわき上がってきた気持ちは、どこかほほえましいものであった。



 ルッタの内部には大きな水車が回っていた。理屈は分からないけれど、それが古代エネルギーによって動き、力が末端にまで伝わることによって大きな神獣を動かしているらしい。からくり仕掛けと言えばそれまでだが、ミファーにとっては神獣は生命が宿っているに等しい存在だ。
 ルッタは久々にリンクという英傑によって操られ、息を吹き返したようだった。シーカーストーンの操作に従い、意気揚々と鼻を伸ばしている。
 だがいくら制御端末を取り返しても、ルッタが本当に鎮まることはない。メイン制御装置に巣食うものこそが、諸悪の根源なのだ。
 ミファーは内部を探索するリンクを、祈るような気持ちで見守っていた。
 彼は一度ルッタの外へと飛び出し、鼻先や外壁を駆けているようだった。ミファーは神獣の外部まで意識を飛ばすことができない。いかなる厄災の呪いか、魂ごと神獣に縛り付けられているのだ。
 内部に戻ってきたリンクは、布のようなものを頭の上に広げて空を飛んでいた。百年前には見たこともない道具だけれど、見事に使いこなしている。器用なところは変わっていないようだった。
 ――リンクはミファーのことを覚えていない。それでも彼女を助けに来てくれた。今はそれだけで十分だ。
 二人は協力して制御端末までの道のりを探り当てていった。
「ミファーさんはこんなに何個もある制御端末を使って神獣を操ってたの?」
 マップをにらみながらリンクが問う。
『いいえ、神獣と対になる英傑たちは、制御端末やシーカーストーンなしでも神獣を操れるの。よく分からないけど、神獣と同調……しているからだ、って研究者の人たちは言ってた』
「そっか、なら英傑だからって内部の仕掛けが全部解けるわけじゃないんだね」
『ええ、ごめんなさい』
 それに、ゾーラとハイリア人の体とではあまりにも構造が違いすぎる。ゾーラの里で発掘されたヴァ・ルッタには、一万年前の戦いでもきっとゾーラ族が操縦者に選ばれたのだろう。内部には水を用いた仕掛けが多く、リンクでも抜けられる道を探すのは一苦労だった。
 それでもリンクはゾーラの鎧の力と己の身体能力を駆使して、最後の制御端末にたどり着いた。息を吐きながら石版をかざすと、青色の光が灯る。ミファーは声の調子を明るくした。
『制御端末はこれで全部だよ! メイン制御装置を立ち上げられるようになった』
「あ、このマップの印かな?」
『そうよ。だけど、気を緩めずにね……』
 ミファーはどうしても言葉を濁してしまう。これからリンクが向かうメイン制御装置には、「あれ」が取り付いているのだ。
 メイン制御装置が鎮座する大部屋は、リンクの足首くらいまで水に浸されていた。彼は花のつぼみのような形をした制御装置に近づき、おそるおそる勇導石にシーカーストーンを置いた。
 突如として、装置からどっと厄災の霧があふれ出す。リンクは顔をひきつらせて後ずさりした。霧は青い光球を生み出し、やがてある化け物の姿を形作る。
 物騒な長槍を持った、一つ目の魔物。その全身はどこか古代遺物を思わせる意匠に覆われていた。
「な、なにあれ……」
 青ざめるリンク。ミファーが叫ぶ。
『気をつけて! あれはガノンがつくった魔物、水のカースガノンだよ。百年前、私はあいつに――』
 はっとしたリンクは、銀色の美しい盾を構えた。里から持ってきたであろうゾーラの盾だ。
『でも……あなたなら勝てる。きっと勝てる!』
 英傑の激励を受けたリンクだが、ひとまず様子見をするつもりらしい。盾に隠れたままカースガノンと対峙する。
『あの槍に気をつけて! 射程がすごく長い』
 彼我の距離は十分にあいていた――が、無造作に放られた槍の穂がリンクの盾を突いた。彼は衝撃に耐えきれずよろめく。怪我はないようだが膝をついてしまった。
 長槍は床に突き刺さり、消えた。
「へ、へーんだ、武器がなくなったら楽勝じゃないか」
 とリンクが冷や汗を拭うと、カースガノンはあっさりと右手の中に槍を再生させる。
「……そういうのは反則だから!」
 続いて、魔物は槍で大きく横に薙いだ。リンクは地面に身を投げだしてギリギリで避ける。その拍子に水を飲んでしまったのか、むせていた。
『リンク!』
「へーきへーき。大丈夫、ミファーさんのことはすぐ助けてあげるから」
 リンクは弓矢を構える。矢じりが黄色い魔力を帯びた、電気の矢だ。
『リンク、無理しないで。私のことはいいから……』
「どうして? 僕が寝てた百年間、ずっとここにいたんでしょ。シド王子もドレファン王も心配してたよ。早く帰って、元気な顔見せてあげないと」
 ミファーはどきりとした。リンクは――彼女がまだ生きていると、信じているのだ。だが長命なゾーラといえど、百年前と同じ声を保ちつづけることは不可能である。長過ぎる眠りの中で過ごした彼は、百年という時の長さを理解していない。神獣に囚われていたミファーと同じように……。
 よく集中して槍の攻撃を見切り、リンクは隙を見てカースガノンの目に何発か矢を当てた。魔物は苦悶の声を上げる。
「よしっ」
 彼はぐっと力こぶをつくっていたが、なんだか体がこわばっているようだった。無理に四肢を動かしているような気がしてならない。
 リンクは目玉を押さえてうずくまる魔物に近づき、ゾーラの大剣で何度も切りつけた。
 一度ワープで離脱したカースガノンが合図をすると、ルッタが水を作り出す。ほんの少しの足場を残して、部屋のほとんどは足のつかない深さの水に覆われてしまった。
「うげっ」リンクは露骨に嫌そうな顔をする。
『足場が狭くなった……気をつけて!』
 一方のカースガノンは自在に宙を飛び回り、氷のブロックを作り出して発射してきた。
「これなら対処法は知ってる。ウルフくんに教えてもらったからね!」
 リンクは得意げに言った。ウルフ、というのは一体誰なのだろう。記憶を失ってからできた知り合いには違いないが。
 シーカーストーンを構え、絶え間なく襲ってくる氷のブロックを破壊し、弓に持ち替えて攻撃を加えながら、
「もうあと少しだよ、ミファーさん」
 弓を持つ手が震えている。無理をしてまでミファーを元気づけようとする彼を見ていられなくて、彼女は声を張った。
『リンク……昔のあなたの真似はしなくてもいいんだよ!』
 リンクが息を呑むのと同時に、電気の矢を喰らったカースガノンが足場に落ちた。
 彼は慌てて水に飛び込み、魔物にゾーラの大剣を思いきり突き刺す。
 カースガノンは悶え苦しんだあと、体から霧を大量に吹き出した。リンクが急いで離れたら、爆発して消えた。
 彼はしばらくその場でぼうっとしていた。やがて思い出したようにメイン制御装置に歩み寄る。シーカーストーンをかざして、装置に青い色が満ちた。これでやっと、神獣が本来の力を取り戻したのだ。
 魂となったミファーは、カースガノンが消滅したことにより、力が己のまわりに集まるのを感じた。一歩、足を踏み出す。部屋に満たされた水が波紋を刻んだ。
 しかし彼女の足は沈まない――リンクとは違って。
『ありがとう……。おかげで私の魂は解放されて、このルッタも取り戻せた』
 リンクが声の方へ振り向く。
『でも、昔のように遊ぶのは、もう無理みたい……』
 彼にも見えているのだろう、半分透けたミファーのほほえみが。リンクは驚愕の表情で固まっていた。
「え、だって、そんな――」
『治癒の力も、魂だけになった今の私には、もう使えない』
 ミファーはゆっくりと彼に近づいていく。立ち尽くすリンクの手に、真新しい傷があった。カースガノンの槍によってできたものだろう。だが、ミファーが手を重ねて以前のように集中してみても、癒やしの力は流れ込まなかった。
 彼女はそっと目を伏せた。
『あなたが百年前に受けた傷も、治してあげたかったんだけどな』
 リンクは口を開きかけ、結局閉じる。
『だから……あなたに託すね。私の力、ミファーの祈りを』
 ミファーは組んだ両手を前に突き出す。そこに光が生まれて、リンクに向かってまっすぐ飛んだ。胸のあたりに染み込んでいく。彼は自分の手のひらを凝視していた。
『私、昨日までずっと泣き続けてた……。魂だけになってここに囚われて、これから永遠に一人きりなんだって。だけど今日、あなたが救ってくれて――こうしてもう一度逢えた。そしてこれからは、私の力があなたの助けになれる。だから……もう大丈夫』
「でも、救えてないよ。これじゃあ、何も……」
 リンクはぼそりとつぶやく。肩が小刻みに震えていた。
「シド王子、すごく立派な人だった。ルッタに入るための手助けをしてくれたんだ。ドレファン王もゾーラの里やミファーさんをどうしたら救えるのかずっと考えてて、いきなりやってきた僕なんかを頼ってくれたんだ」
『そう、なんだ……』
 昔のことはほとんど何も覚えていないというリンクの口から語られる、ミファーの家族の今の姿。きっと変わらず元気にしているのだろう、と信じるしかない。
 リンクは自嘲の笑みを浮かべる。
「やっぱりここに来たのが、僕じゃなかったら良かったよね。何にも覚えてない僕じゃなくて、昔のリンクなら――」
『そんなことない』
 ミファーは傷ついた彼の手を握ろうとした。魂となった体はすり抜けてしまったけれど、その手にぴったり沿うように、リンクが手を差し出してくれた。
『嬉しかったのは本当だよ。今日、リンクと会って、久しぶりに笑えたの。子どもみたいに騒ぐあなたはほとんど見たことがなくて……ちょっと面白かったよ』
「え……もしかして、情けないって思った?」
『ううん。カースガノンと戦う時、あなたも本当は怖かったんだよね。それでも戦ってくれるリンクが……すごくかっこよかった』
 リンクは照れくさそうにほおを人差し指でかいている。
「ミファーさんは昔の真似しなくてもいいって言ってくれたけど、そうじゃないんだ。もっと身近な……友達というか仲間というか、とにかくさっきはそのひとの真似をしたつもりだった」
『それが、ウルフっていう人なの?』
 リンクは目を丸くする。
「よく分かったね。オオカミっていう動物なんだけど、いつも僕のこと助けてくれて、かっこいいんだよ。彼みたいなひとが来たら、ミファーさんも安心できるかなって思ったんだ」
 ウルフについて語る時のリンクは、ルッタに入ってから今までで一番、満たされた表情をしていた。
 近衛騎士として多くの仲間に囲まれていても、常にどこか孤独な生き方を選んでいた昔のリンク。飛び抜けた実力を持て余し、一人で剣を振るう彼を見るのが、ミファーは少しだけ不安だった。でも、今は違う。
『そっか……今のリンクは、一人じゃないんだね。良かった、本当に……。
 それとね、私のことはミファーでいいよ。リンクは百年経ってもリンクだって、分かったから』
「そうかなあ」
 リンクは首をひねっている。まだ、自分のことを認めきれていないようだった。
 まだまだたくさん話したいことはあった。だが、そろそろ時間だ。リンクの体に光の粒がまとわりついている。
「ミファー……?」
 ミファーはリンクから手を離した。
『じゃあ、行くね……。私とルッタの御役目を果たさなきゃ。あなたがあの城でガノンと戦う時の援護、今度は失敗しないから。リンクはあの人を――姫様を、助けてあげて』
 ゼルダもまた、ミファーと同じようにリンクのことを待っているはずだ。彼はどこか暗い面持ちでうなずく。
 リンクの姿が光に包まれ消えていく。どうしても別れが名残惜しくて、ミファーは思わずこう尋ねた。
『そうだ。もしも気が向いた時は……ここに遊びに来てくれる?』
 リンクは神獣の外へと転移していった。
 その直前、開かれた唇からは「あの言葉」が出ていた。



 制御を取り戻したヴァ・ルッタは貯水湖からダムを越え、水の道を伝ってゾーラの里を見下ろす山に一気にたどり着いた。
 百年ぶりに外に出て、ラネール地方の日差しを浴びながら、魂だけとなったミファーは目を細める。
 見つめるのは厄災の呪いに覆われたハイラル城だ。そこに、ルッタの口元から発せられた赤い照準を合わせる。
『ルッタ……貴女のおかげで私はリンクの役に立てる。あの人がハイラル城で厄災ガノンと戦う時、助けてあげて……。貴女の一撃でできるだけガノンの力を削って。それがリンクにしてあげられる、最後の助けだから』
 彼女はしゃがみこみ、そっとルッタの頭をなでた。
『ガノンを封印できたら、ハイラルに平和が戻る……貴女と私も役目を終えられる』
 そして立ち上がって、ゾーラの里に目線をやった。リンクの語った通りなら、そこに百年前に別れたミファーの家族がいるはずだった。
『御父様……お元気かしら? 私、わがままばっかりで、いっぱい心配かけて……。できればもう一度、会いたかったな……』
 英傑になりたい、ルッタを操りたいとミファーが言った時、快く受け入れてくれた父だったが、本当は危険に踏み込む娘に対して難色を示していた。それは、後からムズリに聞いたことだ。
 だが、会えるとしてもそれは役目を果たしてから。本当に最後の最後でいい。その時になったらひと目でいいから、家族の顔を見に行こうと誓う。
 ミファーはルッタの上に座り込む。ハイラル城を狙う神獣は、まだたったの一体きりだ。他の三体も同じように各地でカースガノンに乗っ取られているとしたら、きっとリンクがこれから取り戻していくのだろう。
 ふと貯水湖の方を見やると、小さな生き物が桟橋の上にいた。こちらを食い入る様に見つめている。黒灰色の体――もしかして、あれが「ウルフ」と呼ばれたオオカミだろうか。
 ミファーは彼にほほえみかけた。
(リンクのこと……よろしくね)
 勇者の行く手にはまだまだ苦難が待ち受けている。記憶が戻るにつれて、ますます昔の自分との乖離が気になるはず。それを彼がどう受け入れていくかは、きっとあのオオカミにかかっているのだ。
 それでもリンクなら大丈夫だろう、とミファーは思う。なぜなら。
(あの言葉をまた私に言ってくれた。たとえ昔のことを覚えてなくても、やっぱりリンクはリンクだったんだ……)
 ――いつだってまた会いに来るよ。これまでも、これからも、ミファーと僕はずっと一緒だから。

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