僕の前に道はない

「ついてこないでくださいっ」
 それはきっと、命令ではなく懇願だった。
 リンクの鼓膜をゼルダ姫の叫びが貫いた。だが「彼」は構わず歩を進めた。主君に追いつくために。
 ――今回の記憶はそこで終わりだった。
(はあ)
 リンクは心の中でため息をつく。石版におさめられた百年前の写し絵から顔を上げれば、先ほど覗き見た光景とほとんど変わらない古代石柱群がある。彼は、ゼルダ姫の残した写し絵を手がかりに「自分の思い出」を回想していたのだった。
(でも、また自分の背中が見えた)
 あれが真にリンク自身の思い出なら、当然過去の光景が「自分の目線を通して」見えるはずである。だが、シーカーストーンの写し絵によって蘇る記憶は、いつも俯瞰視点だった。リンクが写し絵の記憶に違和感を覚える理由のひとつだ。
(それにしても昔の僕、本当にゼルダ姫の気持ちが分からなかったんだなあ)
 もう一つは「これ」である。ついてくるなと顔を真っ赤にしていたゼルダ姫。どうやっても封印の力を手にすることができなかった彼女は、力持つ者である近衛騎士を遠ざけていた――肝心の騎士は何も分かっていなかったようだが。
 正直、リンクは昔の自分よりもゼルダ姫の方に感情移入してしまう。
「あれはダメだろーあれは……」
 ぼやきながらうつむけば、足元に寄り添う大きな影と目が合った。
 途端にぽっとリンクの胸があたたかくなる。黒灰色の毛皮を持つオオカミ、その名はウルフ。シーカーストーンの召喚に応じてやってきた、大切な相棒だった。
「残りの記憶も少なくなってきたし、がんばらないとね!」
 明るい顔で伸びをすると、ウルフはすんと鼻を鳴らした。
 古代石柱群の向こうにある祠を改めて見る。かつてゼルダ姫が中に入ろうと試行錯誤していたものだ。今はリンクの手によって起動し、静かな光を宿している。
(シーカーストーンの写し絵は、ゼルダ姫が僕のために残してくれた記憶の手がかりだった)
 だから、思い出した記憶にはいつもゼルダの姿がある。
(あの人は、これをきっかけにして他の記憶も取り戻してほしいのかな?)
 そうだとしたら、このハイラルのどこかに必ずあるはずだ。ゼルダはもちろん、他の誰も知らない「自分だけの記憶」が。
 それを手に入れた時、この寄る辺ない気持ちにも整理がつくのだろうか。
 記憶、思い出、経験――リンクは回生の眠りによりそれらが真っ白に塗りつぶされた。今の彼自身が抱く最も古い記憶は、ある場所で、ある人から投げかけられた、ただひとつの呼びかけだった。
(始まりの台地はあっちの方角かな)
 タバンタ地方の高台から、はるか南東を見晴るかす。幾重もの空気の層に阻まれた先にあるその場所こそ、彼が「生まれた」土地なのだった。


 
「……勇者?」
 その言葉を目の前の老人が発した、と気づくまでタイムラグがあった。「少年」は無意識にまばたきをした。
 目深に被ったフードの奥で、老人の瞳が驚きに見開かれている。
「そう、祠の中で言われたのか」
 祠。少年が振り返ると、青い光を放つ建造物があった。どうやら自分はそこから出てきたらしい。
 ぼんやりとあたりを見回す。祠と同じ色の光を宿す塔が一本、高く高くそびえ立ち、その足元にはのどかで豊かな自然が広がっていた。
 ――目を覚まして、リンク。
 夢うつつの中で、誰かに呼びかけられたことを思い出す。彼はやっと、自分の名前がリンクであると気づいた。
 黙ったままでいると、老人は肩をすくめた。
「……もしかして、おぬし今まで『気づいて』おらんかったのか? 思えば初めて会った時から完璧に無反応だったのう」
 リンクは明らかに話を聞いていないそぶりで、両手を動かし目の前に持ってくる。力を抜いてすとんと落とすと、腰のあたりでひんやりしたものに触れた。オレンジと青の光をまとった石版――確か、シーカーストーンだ。今度はするりと名前が出てきた。
 頭にどんどん思考があふれてくる。自分は何者なのか。どうしてここにいるのか。そもそもここはどこなのか。
 疑問は山ほどあったけれど、真っ先に浮かんだ言葉は――
「お腹、減った」
 リンクは初めて発した言葉で空腹を訴える。
 不意を突かれた老人は呵々大笑するのだった。



 古代石柱群を後にしたリンクとウルフは、北上してリトの村を目指した。
「ここのお店に欲しい服が売ってるんだけど、前来た時はお金がなくて諦めたんだよねー」
 ウルフはもの珍しそうにあちこち視線を向けている。「リトの止まり木」と呼ばれる大きな岩の柱がそびえ立ち、まわりに家々が取り付いていた。螺旋階段と踊り場の連続が織りなす不思議な村である。この形態は、天駆ける翼を持つリト族だからこその発想だろう。
 止まり木のてっぺんには、神獣ヴァ・メドーが鎮座している。ここしばらくリトの村を悩ませていた神獣は、リンクの活躍によってようやく落ち着いた。リト族たちは取り戻した平和を謳歌している――はずだったが。
 ウルフと一緒にゆっくり階段を上っていると、どたどたと足音を立てて一人のリト族がやってきた。
「ハーツさん」
「お、リンクか!」
 黒い翼を持つリト族は、弓職人の名の通り大きな弓を抱えている。神獣に挑んで負った怪我は完治したようだ。何やら急いでいる様子なので道を譲ろうとしたら、ハーツは立ち止まって破顔した。
「ちょうど良かった。これを渡そうと思ってな」
 軽く放られた弓を反射的に受け取った。全体に鮮やかな紫の塗料が塗られ、羽を模した飾りが付いている。華麗かつしなやかさが感じられる剛弓だった。
「百年前に英傑リーバル様の使っていた弓だ。お前が使ってくれ」
 思わず取り落としそうになる。
「え! そんなもの、僕が持っていってもいいんですか」
「長老がお前に渡せって。こっちはずっとお前が戻ってくるのを待っていたのに、全然来なかっただろ」
「あっ……」とリンクは赤面してウルフを見る。呆れたように見返すオオカミ。
 うっかりしていた。神獣を解放してから、彼は共闘したリト族にすら何も言わず、とある場所に直行したのだった。
「す、すみません。メドーも大人しくなったし、別の用事もあって、つい……」
「まあいいさ。メドーを落ち着かせてくれたお礼だ、受け取ってくれ」
 こうなると突き返すわけにもいかない。こうして、リンクが望んだわけではないのに、英傑たちの武器は順調に集まっていく。ミファーの光鱗の槍、ダルケルの巨岩砕き、そしてリーバルのオオワシの弓。託された思いがアイテムに宿っているようで、頼もしくもあるが少しだけ重い。
 リンクたちが話に花を咲かせていると、踊り場に別のリト族が降りてきた。
「それに、謝るくらいならリンクに手伝ってほしいことがある」
 会話に割り込んだのは、濡れ羽色のハーツとは対照的な純白の翼を持つリト族の戦士だ。
「テバさん!」
 リンクは破顔した。彼もメドーとの空中戦で怪我をしたはずだったが、元気そうだ。
「そうだな、メドーとやりあったリンクに手伝ってもらえば百人力だ」とハーツも頷いた。
「えっと、何かまた事件でも……?」
 ウルフが警戒を促すようにリンクの服の裾を引っ張った。なんだか知らないうちにまずいことに巻き込まれている気がする。
「詳細は上で話す。来てくれるか」
 テバはくちばしを螺旋の先へ向ける。
 ハーツは「依頼人を呼んでくる」と言って一旦別れた。二人とウルフはぐるりと止まり木を回り、リト村を構成する部屋の一つに入った。真ん中に鍋が据え置かれた、共用の煮炊きスペースである。そこには北のへブラ山から降りる寒風を押し返すようなあたたかさが満ちていた。
 用意のいいことに、鍋のそばにはできたての料理が準備されている。
「揚げバナナ。リト族のおやつだ」テバがこんがり色の付いた果物を差し出す。
 もしかしてテバが作ってくれたのだろうか、もしくは奥さんが……? なんとなく質問できずに、リンクは受け取る。
「これ、よろず屋さんのレシピに載ってましたね」
 自他共に認める食いしん坊は喜んでほおばった。こっそり相棒にも分け与える。ウルフはリンクのつくった料理は拒否するのに、こういうものは進んで食べるのだ。
 無言のテバと一緒におやつを楽しんでいると、ハーツが旅装のハイリア人を連れてきた。
「入ってくれ。改めて話を聞こう」
 リンクは慌ててバナナを嚥下する。
 黒い長髪を頭の高いところで結った旅人は、ゆっくり三人を見回して――ウルフの姿は普通の人には見えないのだ――口を開いた。
「おじさんの名前はヘチマル。雪原の馬宿を拠点にして、ヘブラ山で盾サーフィンを楽しんでいるんだ」
 そんなに歳を取っているようにも見えないのに、一人称が「おじさん」らしい。
 盾サーフィンといえば、ハイラルではポピュラーなスポーツである。その名の通り、防具である盾を足の下に置いてサーフボードにして斜面を滑る。あの盾は特別よく滑るとか、あの山の斜面が素晴らしいコースだとか……リンクは旅先で出会う人々から幾度もその魅力を聞かされていた。彼自身はたまに良さげな坂道を滑ってみるくらいだが、いつか思いっきり遊んでみようと考えている。
「だからおじさんは雪原の馬宿とリトの馬宿の間を通ることが多いんだが、その途中でタバンタ村を通るだろ? あそこが今、完全に魔物の巣になっているんだ。今回こっちに来た時も命からがらだったよ」
 タバンタ村。知らない名前だ。リンクは北上ルートでリトの村にたどり着いた。街道の伸びる方向から考えて、ここより東にあるのだろう。
 首をかしげていると、ハーツが説明する。
「あの村は十年くらい前に寒波と魔物の襲来で滅びたんだ。ああいう廃墟は魔物の巣窟になりやすいから、定期的にリトの戦士が見回りをしていた……だが、ここしばらく俺たちもメドーの関係でゴタゴタしていたから、安全を確認できていなかった」
「へえ、リト族が街道の警備をしてるんですか?」
「うちの村だって旅人向けの店があるんだ。街道が危険になったら生活に困る奴がいる。ある程度のことはするさ」
「今回は直訴があったわけだしな」
 テバが腕組みをしてうなずいた。ヘチマルが切羽詰った顔で身を乗り出す。
「おじさん、盾はサーフィンにしか使ったことなくて戦いはからきしなんだ。どうか、頼みます! お礼にできることなんて、盾サーフィンの魅力を教えることくらいしかできないけど……」
 テバは頷いた。
「別に礼の心配をする必要はない。とにかくこの件、リトの村で引き受けよう」
「ありがとうございますっ!」
 小躍りするヘチマルを宿屋に帰し、リトの戦士二人とリンクは鍋を囲んで向かい合う。
「というわけで、リンクにも手伝ってもらえないだろうか」
 ここまで聞いておいて今さら下りるとは言えない。揚げバナナをごちそうになった時点で、覚悟はできていた。
「分かりました。是非僕にも協力させてください。
 でも……魔物を追い払ったとしても、赤い月が来たらまた同じ場所に復活するんじゃないですか?」
 このハイラルでは、七日に一度ほどの周期で満月が真っ赤に染まる。ブラッディムーンといい、その夜は厄災ガノンの呪いが発動して、魔物はいくら倒しても蘇ってしまう。
 ハーツが答えた。
「そうだな。だが、奴らの住処を崩してしまえば、別の場所に行くんじゃないか。何度か繰り返せば、やがて街道から追い払える可能性が高いだろう」
「なるほど」
 どれだけ復活しようが、人に害のない場所まで移動してもらえばいい。要は魔物たちと住み分けができればよいのだ。
「さっそくだがタバンタ村の様子を見たい。今日、準備ができたらすぐにでも出発しよう。いいな?」テバが組んだ膝を叩いた。
「はい!」
 頼られるのは悪い気分ではない。ふとウルフに目線を向けると、「思うようにやれ」というように頷いてくれた。
(良かった。ウルフくんも同じこと考えてくれてたんだ)
 彼と意見が合うと、無条件に嬉しくなる。言葉がなくとも意思は通じている、とリンクは信じていた。
 リトの戦士たちは「先に麓の馬宿で待つ」と言って、手近な広場から翼を広げて飛び立っていった。この村はリト族たちがいつでもどこからでも空へ飛び出せるように、風が吹き抜けるつくりになっているのだ。
 リンクはまず当初の目的であった服屋に向かい、耐寒服を買った。リト族の子どもの羽毛を使った衣装で、へブラ山に向かうハイリア人を支援するためにつくられたものだ。
 余ったルピーで矢を揃えるためよろず屋に向かう途中、不意に視線を感じて振り返る。
「あっ」
 リンクの真後ろでぴくりと立ち止まったのは、真っ白な羽毛を持つ小さなリト族の子供だ。彼は目を丸くしてウルフを見つめていた。リンクはしゃがむ。
「こんにちは」
「こ、こんにちは。このオオカミ……兄ちゃんの?」
「僕の大事な友達なんだ」
 子どもはおそるおそる腕を伸ばす。
「触ってもいい?」
 ウルフは許可するように頭を低くした。わあ、と歓声が上がる。リンク以外でウルフを見ることができる人物は、比較的子どもに多い。この子もそのパターンだろう。
 新雪のような羽毛と、枕にしたいさわり心地の毛皮が触れ合っている。ウルフはくすぐったそうだ。
(気持ちよさそう……)とリンクは羨ましくなる。
 ひとしきりウルフの毛並みを堪能した子どもは、きっぱりと顔を上げた。
「あのさ。兄ちゃんって、父ちゃんたちと一緒に街道の魔物を退治しに行くんだよね」
「ってことは、もしかしてキミは――」
「チューリだよ。父ちゃんの名前はテバ」
 リンクは驚いた。確かに父親と同じ色の体毛だけれど、テバと違ってずいぶん可愛い目をしている。母親に似たのか、もしくはリト族は大人になると顔立ちが変わるのかもしれない。
「父ちゃんの怪我が治ったら、飛行訓練場で弓を教えてもらうはずだったんだ。でもまたお仕事があるって言われて……」
「そっか……残念だったね」
「うん。だから、兄ちゃんたちについていきたい!」
 いきなり話が飛躍した。子供らしくその欲求は無邪気で無鉄砲なものだ。リンクは返事に困り、
「お母さんとお父さんに許可もらわないと、そういうのはダメなんじゃないかな」と逃げた。
「ボクはまだ訓練の途中だからって反対されるに決まってるよ。父ちゃんの役に立ちたいのに!」
 まっすぐな言葉だ。雪原に陽が差したような眩しさを感じる。思わず尋ねた。
「そんなにお父さんのことが好き?」
 チューリはこっくり頭を縦に振った。
「もちろん。だって父ちゃんはリトの村で一番強いんだ。メドーとだって戦ったんだよ」
 確かにテバの飛行技術は素晴らしかった、と共闘相手のリンクは回想する。
 チューリのはやる気持ちも理解できるが、ここは年長者として教え諭すべきだろう。
「大丈夫、きみがお父さんの役に立てる日は絶対に来る。今よりもっと訓練して、自信がついた時にお父さんを助けてあげればいいよ」
 心の底からそう言ってやると、チューリは不満そうにしていたが、反論せずにくちばしを閉ざした。
 未来の戦士に別れを告げて、ウルフと一緒に階段を下りながら、リンクはつぶやく。
「家族かあ……なんかいいよね」
 ウルフが頭を上げた。胸に渦巻く憧れと寂しさを悟られてしまったかもしれない。あるいは、どこともしれない異世界からやってきたウルフにも、自分の世界に家族がいたのだろうか。
 何故だろう、脈絡もなくリンクの頭には始まりの台地の老人が浮かび上がる。



 視界の端で何かが跳ねた。リンクは肩をわずかに揺らして反応し、きょろりと目を瞬く。
 始まりの台地、大きな廃墟のそばにある池に、波紋が広がっている。
 彼は服のまま躊躇なくそこに飛び込んだ。水中で目を開け、全身を使って動くものを追いかける。夢中だったので、彼は意識が目覚めてから初めて「泳ぐ」動作をしていたことにも気づかなかった。
 つかみ獲った水棲の生き物は、リンクの手の中でびちびち跳ねた。ぐっと頭部を押さえ込むと、だんだん弱っていく。リンクはそれを黙って観察していた。
 ぐったりした獲物を持って池から上がっていくと、崖下で焚き火をする老人と遭遇した。
「それは魚――ハイラルバスじゃな」
 老人は顔をほころばせ、
「焼いてみるとうまいぞ」
 と問答無用で魚を奪った。
「!?」リンクは血相を変えて取り戻そうとする。
「こらこら焦るでない。いいか、こうして……」
 老人は魚を木の枝で貫き、焚き火のそばの地面に突き刺した。リンクは大人しく座るよう指示される。
「火で炙るとふっくらするのじゃ」
 すぐにでも伸びそうになる手をなんとか抑えて、リンクは食い入るように魚を見つめていた。
 やがて「ほれ」と渡された頃には、すっかり獲物は黒っぽく、表面が干からびたようになっていた。リンクは半信半疑で受け取り、それでも空腹には勝てずにかぶりつく。
 空色の目が見開かれた。咀嚼する顎が止まらない。
「……うまい」
 ぽつりと漏らせば、老人は顔をほころばせた。
「そうか。それはよかったのう」
 食べ続けるリンクを尻目に、老人は長話をはじめる。
「実はな、わしは焼き魚の上を行く究極の料理を思いついたのじゃ。その名もピリ辛山海焼きという」
 ほとんど独り言のようだった。
「あの料理のすごいところは、体力回復はもちろん、寒い雪山でもポカポカで動き回れるということじゃ。だが何としたことか、肝心のレシピを書き留めるのを忘れてしまった……ケモノ肉とポカポカ草の実を使ったのは覚えておるのじゃが。もし誰かがレシピを教えてくれたら、わしの防寒着を進呈してやっても良いのにのう……」
 リンクは相槌すら打たないまま完食すると、立ち上がった。
「待てい。ほれ、食べ終わったらすることがあるじゃろう?」
 指摘され、リンクは素直に両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
 そうしてまたふらふらと歩きだす。
 目覚めてから常にぼんやりしている彼だが、全く老人の話を聞いていなかったわけではなかった。
「ハイラルバス……焼き魚……ピリ辛山海焼き……?」
 老人の言葉と行動、その一つ一つが「記憶」に刻まれ、出口を探してぐるぐると巡っていく。
 何をすべきかはわからない。でも一つ確かなことは、老人に従っていれば、もっと世界を知ることができるということだった。



 リトの馬宿から東へ向かって坂を上り続けると、街道はついに雪まみれになる。リンクは荷物持ち係の愛馬を連れて歩いていた。もちろんウルフも一緒だ。
 リト族たちは一足先にタバンタ村の様子を確認するため、空路を行っている。
 リンクはまばたきして、まつげに落ちた雪を払った。空は真っ白だ。
「吹雪いてきちゃったけど、テバさんたち大丈夫かなあ……」
 リト族の羽毛は耐寒性能に優れていて、それはリンクの身につけた服にも存分に発揮されている。テバは極寒のメドー戦も耐え抜いたくらいだから気温の低下は平気だろうが、視界が悪くてはどうにもならない。
 返事を求めるように下に目をやると、ウルフは軽くかぶりを振った。現時点では心配しても仕方ない。ひとつうなずき、リンクは白い息を吐いて坂を登る。
(そういえば、昔の僕はこの道を通らなかったのかな)
 どこかにうっかり「自分だけの記憶」が落ちていないものか、ときょろきょろしてしまう。
 ――突然、がくりと視線が落ちた。足が地面を踏み抜いた。
「え!?」
 雪の下に隠れた深い溝へと転がり落ちそうになる。とっさにウルフが飛んできて服を引っ張ってくれた。なんとか体のバランスを取り戻し、リンクは急いで平坦な場所へよじ登る。危ないところだった。
「が、崖が近かったのかあ。雪で全然分からなかった……ありがとう、ウルフくん」
 相棒は呆れたように吠えた。まだこのあたりのシーカータワーを解放していないため、自分がどこにいるのか把握できていなかった。リンクはテバに借りた地図を凝視する。雲の向こうに薄ぼんやりと光る太陽から割り出した方角と、あたりの景色を照らし合せ、現在地を特定する。タバンタ村はそろそろのはずだった。
「あっあれかな?」
 純白に塗り込められた景色の中に、建物らしきものが見えた。思ったよりしっかり廃墟が残っている。そして、うごめく魔物の影も確認できた。
 リンクは上り坂に隠れるように身をかがめ、ウルフにもそうするよう指示した。
 シーカーストーンの望遠鏡を使って様子をうかがう。
「相手はモリブリン、アイスチュチュ、リザルフォスってところかな? 正確な数はここからだと分からないけど」
 それは斥候のテバたちが教えてくれるだろう。二人は少し後退し、タバンタ村から見て死角になる場所を見つけた。そこで仲間を待つことにする。
 やがて、テバたちが旋回しながら空から降りてきた。ミルク色の世界の中で、濃い色のリトの民族衣装がよく目立つ。
「酷い雪だな。この一帯はいつもそうだが……」
「空で戦うのは厳しいかもしれませんね。敵の数はわかりますか?」
「モリブリンが二体、リザルフォスが四体までは確認できたが、それ以上いるかもしれない」
 ハーツは悔しそうに首を振った。
 リンクは少し考え込む。ボコブリンたちがつくる砦と違い、タバンタ村にはやぐらは設置されていないらしい。
 徒党を組んでいる魔物たちは大抵見張り役と本隊とを分けている。見張りは角笛と弓矢を持ってやぐらに立ち、敵を見つけたらすかさず仲間に危険を知らせる役目を負う。やぐらがない場合は、足の早いリザルフォスが見張りをつとめていることが多い。潰すならまずそこからだ。
 肝心の攻め方はどうすべきだろう。空や高所から弓で狙えたら楽だったのだが、このあたりは平地でしかも視界が悪い。テバたちは弓の他にも風切羽の剣を持っていたが、体の作りからしてリト族は接近戦向きではなかった。
 よって、先鋒はリンクやウルフがつとめ、テバたちには後方からの支援に徹してもらったほうがいい、と結論づけた。
 二人にそれを伝えると、
「と言っても、あの数をリンク一人では無理だろう」テバは難色を示す。
「一匹ずつ釣りだして、仲間から離れたところをみんなで袋叩きにするのはどうでしょう」
 リンクは勇者の風上にも置けない戦法を提案する。ウルフはげんなりしたようだが、リト族は乗り気だった。
「確かに、乱戦になったら数の上では圧倒的に不利だからな」
「どうやって集団から一匹ずつ引き剥がせばいい?」
「えさで釣るとか」
「物音を立てるとか……」
 ああでもないこうでもないと相談していると、おとなしくしていたウルフが不意に四肢を突っ張って立ち上がった。
「どうしたのウルフくん」
 ただ事ではない反応である。ウルフは雪の向こうを睨んでいた。
 そして、弾かれたように走り出す。
「ま、待って!」
 確かにウルフは戦いとなると猪突猛進のきらいはあるが、それにしてもこれは極端だ。何を感じ取ったに違いない。血相を変えてタバンタ村へと駆け出すリンクに、面食らったリト族たちが追従した。
「リンク、何考えてるんだ!?」
「どうも村の方で何かあったみたいで……!」
 雪道を抜けると、ウルフが先を急いだ原因がリンクにもはっきりと分かった。
「チューリ!?」
 リトの村で留守番をしているはずのテバの息子が、廃墟で魔物たちに囲まれている!
 チューリはかろうじてモリブリンの頭よりも高い位置を飛んでいる。弓は持っているが、怖いのだろうか構える気配はない。飛行は不安定で、業を煮やして得物を振りかぶるモリブリンの間合いに今にも入ってしまいそうだ。さらには、弓を構えるリザルフォスが見えた。
(た、大変だっ)
 先行したウルフでも間に合うかどうかのタイミングである。「こうなったらビタロックで動きを封じてしまおう」と石版を取り出したリンクの両脇を、白と黒の風が吹き抜けた。
 超低空を駆け抜けたテバとハーツは、左右に分かれてぐんと上昇し、それぞれ弓を構えた。同時に放たれた二本の矢がモリブリンの両目に突き刺さる。魔物はたまらずうめいて武器を取り落とした。リトの戦士だからこそなせるコンビネーションだ。
 リンクも負けてはいられない。ビタロックでリザルフォスを無力化すると、背負っていた火炎の大剣を抜き放ちながらチューリに駆け寄る。
「大丈夫っ!?」
 チューリは一足先に辿り着いていたウルフにしがみついて震えていた。
「に、兄ちゃん……」
「きみは安全な場所に隠れてて。ウルフくん、頼んだよ」相棒は少し不満そうにしていたが、それでも怯えきった小鳥を背中に乗せて、戦場を離れていく。
(やっぱりお父さんのことが気になって、ついてきちゃったのかな……)
 リンクたちは街道から外れた場所に待機していた上、吹雪で視界も悪かったため、チューリは知らないうちに父親を追い抜いてしまったようだ。
 目の端でウルフたちを見送り、視線を戻すとビタロックの効果の解けたリザルフォスがじりじり近づいてきていた。リンクは剣を両手で振りかぶり、刀身から発せられた炎を浴びせてやった。じゅっと氷が溶けるような音がして青いリザルフォスは一瞬で絶命した。属性の相性を鑑みて武器を選んで正解だった。
 村の中心の方角からは、剣戟の音や咆哮が響いていた。リンクはそちらに急行した。案の定、魔物とリト族が入り乱れて戦っている。懸念していた乱戦になってしまった。
 リンクは剣と魔法の矢を駆使して何体か始末したが、残りはすべて炎に耐性を持つ種族だ。一匹と戦っていると横から矢を射かけられ、それを避けたら正面からジャンプ斬りが飛んで来るような有様で、攻撃をいなすだけで精一杯になってしまう。
 リト族たちも同じような状況らしく、一向に敵の数が減らない。ジリ貧である。
(このままじゃまずい。なんとかしないと――そうだ!)
 リンクは決意した。あちらで戦う仲間に叫ぶ。
「ほんの数分でいいので、二人だけで耐えられますか!?」
 テバは何かを察したらしい。風斬羽の剣を振り上げて敵の弓を両断しながら、よく通る声で応えた。
「任せろ。一晩でも持たせてやる!」
 バックステップしたリンクは思わず笑みをこぼした。
「ありがとう。必ず、頼もしい援軍を連れてきますっ」
 バクダンを使って無理やり敵の包囲網を突破し、向かった先は、ウルフとチューリが隠れているであろう廃墟だった。
 瓦礫の隙間から現れたリンクの顔を見て、ウルフの青い瞳が理知的に輝く。
「兄ちゃんごめん。ボク、どうしてもついてきたくて――」
 チューリが言いかけた謝罪を、リンクはしゃがんでその両肩に手を置くことで遮った。
「お父さんの役に立ちたいんだよね。これも訓練だと思って、きみにやってほしいことがあるんだ」
「え……?」
「きみにしかできない大事なこと。お願い、僕たちを助けてほしい」
 涙のたまった瞳が大きく見開かれる。リンクの真剣さが伝染したようだ。チューリはこっくりうなずいた。
「ボク……やってみるよ」
「良かった! じゃあさっそく、作戦の内容だけどね……」
 ――リンクが戦場を離れてから、十分ほどののち。背中合わせで戦っていたテバとハーツは、雛鳥の声を聞いた。
「こっちだよー!」
 乳白色の空に、逃げたはずのチューリがぽっかりと浮かんでいる。羽ばたきの加減を調整して宙の一点にとどまっているのだ。
 チューリは雪の中でもひときわ目立つ、真っ赤な布切れを腕に巻いている。それはリンクが貸したクライムバンダナだった。
 どれだけ追い込まれても一向に倒れない大人たちと比べて、その子どもはいかにも弱そうに見えたのだろう。魔物たちは身を翻してチューリへと殺到する。
「あいつ、何やってんだ……!?」
 渋面になったテバがすぐさま助けに向かおうとする。その前にリンクが立ちふさがった。
「弓兵は潰したから大丈夫です。テバさんたちは、魔物をチューリの方に追い詰めてください!」
 戸惑うテバよりも先に、ハーツが動いた。
「なんだか分からないが、信じてるからな!」
 さらにはウルフが魔物の先頭付近を走り、巧みに吠え声で誘導する。否が応でもモリブリンたちの興味はチューリへと向いた。
「きゃああ、怖いよおー」
 甲高い悲鳴とともに、戦士見習いはひらりと高く飛び上がる。
 獲物に突進していた魔物たちは、そこでやっと気づいた。自分の足が、地面を踏んでいないことに。
 ――タバンタ村の占拠者は、そのままはるか崖下へと墜落していく。
 作戦は見事成功に終わったのだ。
「……あそこが崖だなんて、いつ気づいたんだ」
 やや呆然とした様子のテバは、隣のリンクへ尋ねた。
「ここに来る途中、僕も足を踏み外しかけたんですよ。地図を見たら意外とこのあたり崖が近いなと思って。でも、リト族だからああいう戦い方ができるんですよね。空が飛べるのって強いなあ」
 笑うリンクと対照的に、テバは何故か深く考え込むような素振りをしていた。
「父ちゃん!」
 大仕事を終えたチューリが明るい顔で駆け寄るが、
「お前、自分がどれだけ危ないことをしたのか、分かっているのか」
 テバは静かに迎え撃った。その様子を見たハーツが肩をすくめる。
「おいテバ、あんまり怒るなよ。俺たちはチューリのおかげで助かったんだから」
「いいや。リンクがいなかったら、お前はあそこで魔物にやられてたんだぞ」
 テバはあくまで息子に向かって話しかけていた。チューリの全身がびくりと震える。
「ごめんなさい。でも、ボク……」
「帰ったら、飛行訓練場でみっちり特訓だ。あんな無様な飛び方じゃとても実戦には使えない」
 テバはくるりときびすを返した。まるで照れ隠しのように。
「父ちゃん……!」
 ほっとして緊張を解くハーツとリンク。ウルフまでも目を細めていた。
「それじゃ、あとは魔物がまた棲みつかないように、後片付けしないとですね」
 廃墟は屋根がところどころに残っており、魔物のすみかに使われていた形跡がある。
「ああ。この村には悪いが全部壊した方がいいだろうな……」
 リンクはあたりを見回す。
「その前に、ちょっと休憩しませんか」
「休憩か。それもいいな。テバを呼んでこないとな」
「そこに鍋が転がってたので、今度は僕が料理をごちそうしますよ! 揚げバナナのお礼です」
 おまけに、魔物の使っていた焚き火まで残っている。これは料理をするしかないシチュエーションだ、とリンクは力説した。
 慣れた手つきで鍋を用意し、呼び寄せた愛馬の荷物から食材を取り出す。チューリは興味津々だ。
「一体何をつくってくれるの?」
 リンクは笑みを深くした。
「ある人から教えてもらった、『究極の料理』なんてどうかな」



 始まりの台地にいくつかある古代の祠――その最深部には、カラカラに乾いた皮膚を持つ「導師」とやらが待っていた。
『試練を克服され、よくぞここまで……貴方様こそ紛うことなき勇者』
 導師は唇を動かすことなく、リンクに話しかける。
(勇者……ああ、僕のことか)
 そしてリンクは唐突に思い出した。自分の意識の目覚めは、その単語を聞いた瞬間だったのだと。
 全くの白紙からはじまった「意識」――自分という存在そのものは、台地をめぐり祠を解放していく中で、徐々に形作られていった。どこに行って何をすればいいのかも分からなかったが、向かう先々にはいつもあの老人がいた。まるで道標のように。
 魚をとる。食材を焼く。獣を狩る。斧で木を切り、薪にする。鍋を使って料理をする(これがリンクはまだ苦手で、いつもどろどろした物体になった)。老人から教わるひとつひとつを、リンクは貪欲に吸収していった。魔物への対処法だけはあまり教えてくれなかったけれど、自分なりに知恵を働かせて逃げたり撃退したりしていた。
 克服の証をさずかると、導師とやらは光とともに消える。これで四つ目――最後の祠だ。
(ようやくパラセールがもらえるんだ)
 リンクの胸に火が灯る。老人がこれ見よがしに使っていた便利そうなアイテムだ。あれで風を切って飛ぶのはなんとも気持ちよさそうだった。
 わくわくしながら祠を出ると、すぐ目の前に老人がいた。
「これで、この台地にある全ての祠で克服の証を手に入れたことになるのう……」
 リンクはぱちりとまばたきした。
(この人は祠に入っていないのに、どうして知っているんだろう)
 だが老人はリンクの知らないことをなんでも知っているのが常だった。だから別段おかしくはないだろうと合点する。
「ふぉっふぉっふぉっ。時が来たな。リンク……お主にすべてを話す時が。四つの祠が交わる場所を訪れるのじゃ。わしは……そこで待っておるぞ。よいか……」
 声が遠ざかっていく。徐々に体が薄らいでいき、やがて老人の姿は掻き消えた。まるで祠の導師のように。
(……?)
 そういえば、自分の名前が「リンク」であると、老人に伝えただろうか。
 リンクはぶんぶん頭を振った。それよりも、重要な事がある。
「お腹減った」
 リンクはいつもの台詞をつぶやいて、狩り場である精霊の森へと向かうのだった。
 薄暗い木立の間を、イノシシが歩いている。リンクは静かに歩きながら弓を構え、動く獲物を狙った。
「!」
 弦を弾いた瞬間、うまくいったと確信した。放物線を描いて飛んだ矢は見事イノシシの脳天に突き刺さる。弓矢の扱いも、何度も練習してやっと形になってきた。
 あとは仕留めた獣を食材にするだけだ。以前老人がやっていた方法を思い出しながら、剣を使って見よう見まねで解体してみる。時間はかかったが、血の滴るケモノ肉を手に入れた。いかにも腹が膨れそうなボリュームである。
 喜びに沸き立つリンクの頭に、ふと何かが閃く。
(ケモノ肉……)
 その単語は記憶を刺激した。そして荷物入れに手を突っ込み、ポカポカ草の実を探り当てる。
 ピリ辛山海焼き。老人がどうしてもレシピを思い出せないと言っていた料理だ。
 ――さらに、リンクは別の機会にもヒントをもらっていた。
「さすがにここから海は見えんのう」
 始まりの台地で最高峰のハイリア山に上ったときのことだ。その頂上にも当然のように老人がいて、はるか遠くを眺めていた。
「海」
「そうじゃ。おぬしの好きな魚がいっぱい泳いでおる」
 老人は朝日を受けて目を細めながら、ふぉふぉっふぉっ、と笑った――
(魚。ハイラルバス?)
 ちょうど、祠に入る前に捕まえていたものがあった。リンクは肉と魚と実を全部いっぺんに鍋に放り込む。強火のままでじっと待つ。以前、調子に乗って料理をかき混ぜたらぐちゃぐちゃになったので、ひたすら待つ。
 鍋から煙が上がってきた。もういいだろうと火から外す。食材を焼いただけの料理は、少し……いやかなり焦げついていた。が、味見してみると、ぴりりと舌の上で香ばしく弾けた。
 もしかすると、これがピリ辛山海焼きかもしれない! リンクは興奮気味に食べ進めた。自分が作った料理の中でも、今までで一番良い出来であった。
 あっという間に半分ほど平らげてしまってから気づく。老人は「またあの料理を食べたい」と言っていた。レシピを教えてくれたら防寒着を渡す、とも。
 そうだ。老人が焼き魚を与えてくれたように、今度はこちらから料理を渡してやるのはどうだろう。
 リンクはすぐさま行動に移した。前に老人からもらった袋に残りの料理を入れて、のんびり台地を歩いて行った。走るとせっかくの料理が台無しになってしまいそうだったから。
「四つの祠が交わるところ」というのが、地図のある一点を示していることはなんとなく分かっていた。前から、あの場所には何かあると思っていた。
 時の神殿は、始まりの台地における唯一の巨大建造物――の成れの果てである。リンクは神殿の中をあちこち探検したが、老人は見つからなかった。「もしかして……」と意を決して外壁を登ってみる。
 いた。屋根の上に小さな部屋があり、そこで老人がじっとこちらを見つめていた。
「あ……」
 リンクはかけるべき言葉を見失った。老人の名前を知らないことに、今はじめて気がついたのだった。
 老人は部屋にリンクを招き入れ、破顔した。
「さすがさすが。では……わしの本当の姿を見せるとするかのう」
 がらりと声の雰囲気が変わる。空気までもが鋭く尖り、リンクの頬を刺すように感じられた。
「我が名はローム・ボスフォレームス・ハイラル。かつてこの地にあった国ハイラル……その最後の王だ」
 リンクはぽかんと口を開けた。老人が何を言っているのか理解が追いつかなかった。
(僕はただ、料理を――)
 腰に下げた袋の中で、静かに料理が冷えていく。



「本当にリトの村に戻らなくていいのかよ」
「一家で歓迎するぞ」「そうだよ兄ちゃん!」
 リト族たちの熱い申し出だったが、リンクは首を振る。
「ごめんなさい。ちょっと寄るところがあるので」
 思い出の料理で体も心もポカポカになると、後始末はずいぶん捗った。チューリが単身魔物たちに囲まれた時はどうなるかと思ったが、終わってみればタバンタ村の魔物討伐は日が暮れる前に完了したのだった。
 彼らの晴れ晴れとした気分を象徴するかのように吹雪は止み、青空が覗く。ヘブラ地方じゃ珍しい好天だ、とテバが言った。
「兄ちゃん、今度会う時はボクもっと強くなってるから!」
「楽しみにしてるよ。お父さんと仲良くね」
 リト族と別れ、リンクとウルフ、それに愛馬はさらに東に向かう。何故ならば、晴れた視界の先に未知のシーカータワーが見つかったからだ。
 タワーはちょうど上り坂の頂点に位置していた。
「うわあ……何これ」
 各地のタワー攻略には何かと妨害があるものだが、今回は分かりやすい足止めである。タワーの足元はびっしりと分厚い氷に覆われていた。
「焚き火で溶かせるかな?」
 持ち歩いている薪に火炎の大剣で火をつけた。しばらくすると、じわじわ氷の表面が潤んでくる。
 リンクは待つついでに、タワーの周辺を散策する。
 崖の先端に行くと、背筋がぞくりとした。いくつもの山を越えた先に、禍々しい霧に包まれたハイラル城があった。
「そっか、ここからも見えるんだ」
 あの城をはじめて見たのは、始まりの台地だった。かつての勤務地といえど、あまりいい印象はない。いつかあそこに行くのだと思うと、正直暗澹とした心地になる。
 だが、老人は――ハイラル王はきっと別の気持ちで見つめていた。時の神殿の鐘楼に上ったときはもちろん、もしかするとハイリア山の頂上でも、朝日ではなく城を眺めていたのかもしれない。己がかつて治めていた城、娘が厄災と戦い続けている城。リンク以上に思い出と未練の残る地のはずだ。
(それでも僕にとっては、ハイラル王じゃなくてただの『おじいさん』だった……)
 食料を分かち合ったり、小屋に泊めてもらったり。広いようで狭い台地で一緒に生きて、暮らした。
 リンクはテバたち親子にどこか共感と憧れを感じていた。その理由に今、やっと思い当たる。何故ならリンクもあの老人の役に立ちたかったし、自分の成長を一緒に喜んでほしかった。
(そっか。僕はあの人のこと、父親みたいだって思ってたんだ)
 血縁などなくても老人は父に等しい存在だった。
 納得したリンクは、なんとなく後ろを振り返った。雪道の上に二人分の足跡が残っている。
「結局、僕だけの思い出なんてどこにもないのかもね」
 そっと足元に寄り添うウルフに聞かせるように、リンクはつぶやく。脈絡がない話だし、意味が分からなくてもいい。今は聞いてくれるだけでありがたい。
「でもお前は誰だって聞かれたら、ウルフくんの相棒だって答えられる。物心ついてからは親切なおじいさんに育てられましたって言える。それは……近衛騎士のリンクにはなかったものだよね。
 今、僕の後ろに残ってる足跡は全部、僕だけの記憶なんだよね」
 リンクがかつての使命など忘れ去ってしまったと知っていながら、それでも全てを託したハイラル王。
 今、父にも等しい存在はどこにもいない。だが代わりに大切な相棒ができた。リンクはその出会いと共に歩んだ旅路を、何よりも貴重なものだと思っている。
「ウルフくん」
 オオカミは「なんだ」とでも言いたげに頭を傾けた。
「これからも、いろんなところに行こうね。たくさん思い出を作って、それで……」
 いつか、誰にでも胸を張って言えるようになりたい。
「近衛騎士もすごかったけど、僕だってなかなかでしょう」と。
 リンクは紅色の頬でハイラル城を見つめる。その隣に立つウルフとの間に、生命の息吹に満ちた風が吹き抜けた。

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