ホワイトアウト

 その明かりが見えた瞬間、リンクは真っ先に走り出した。
 ウルフもすぐに後を追う。二人が駆けるそばから、街道に降り積もった雪が巻き上がる。リンクのブーツの中には冷たいものが大量に侵入していたが、彼はまるで気にした様子もなく、最後の雪道を抜けた。
「やっと着いたーっ!」
 針葉樹林を横目に南タバンタ雪原を越え、二人が目指したのは旅人の止まり木である馬宿だ。その軒先にあるあたたかな明かり――雪よけの囲いがされた焚き火のもとへと駆け込む。
「あら、旅人さん。いらっしゃいませ」
 火のそばにいた馬宿の女性従業員は、真っ赤な顔をして息を切らせているリンクを見て笑い、手の中のものを差し出した。
「サービスのホットミルクです。あたたまりますよ」
「やったあ! ありがとうございますっ」
 リンクはありがたくカップを受け取り、かじかむ指先をじっくりあたためてから、しゃがんだ。
「ほら、ウルフくん」
(な、なんだよいきなり)
 見えざるケモノの頬にカップがそっとあてられた。そうしてリンクは少し冷めたミルクを口に含んだ。
「おいしい。でも、味が……辛い?」
「実は、ポカポカ草の実をすりつぶした粉を少し混ぜてるんですよ。そうすると、あたたかさが持続しますから」
「へええ」
 二人の会話を聞き流しながら、ウルフは凍りついた全身に熱を浴びていた。
 今朝、シーカータワーを探すために南のマリッタ馬宿を出発し、街道を北上した。穏やかな日差しを浴びてのんびり二人で歩いていたら、いきなり地面に薄く雪が積もりはじめた。当然ながら気温も急激に下がりはじめ、気づけばあたりは吹雪になっていた。このハイラルでは――ウルフの知るスノーピークのように明確に区域が分かれていなくても、突然気候が変わるのだった。
 焚き火にあたるうちに緊張がゆるみ、彼は体の疲れを自覚する。ケモノの体はハイリア人のものよりいくらか気候変化に強いようで、デスマウンテンの高熱にも、砂漠の照りつける日差しにもウルフはよく耐えた。今回も慌てて防寒着を着込むリンクを尻目に気楽に構えていたが、寒さに対しては思ったよりもダメージを受けていたようだ。
(今日はもうここで休みたいなあ……)
 ちらりとリンクを見上げる。彼は雑談に興じていて、馬宿の受付カウンターには行こうとしない。
 じわじわ嫌な予感がしてきた。寒気が背中を駆け上がったのは、低温のせいだけではない。
「あっ」
 突然、リンクが顔を上げる。目線の先、雪原の上には黒っぽい毛むくじゃらのものが佇んでいた。
 そいつは「ワン」と一声吠える。濃茶と白の二色の毛並みをもつハイリア犬が、こちらへ駆けてきた。喜色満面になったリンクはしゃがんで犬を抱きとめ、慣れた様子で頭をなでる。
「わあ、こんな寒い場所にもいるんだ。可愛いなあ」
「こういう変化のない場所だから、一匹でもいてくれると癒やされるんですよね~」
 二人は笑顔をこぼして犬にかまう。犬はちぎれんばかりにしっぽを振り、また軽く吠えた。
「この子、旅人さんに遊んでほしいみたいですよ」
「遊ぶって、どうしたらいいんですか?」
「こういうのを使うんです」
 女性がどこからともなく取り出したのは、手のひらサイズの白く長細いもの。ウルフはすぐにピンときた。
「極上ケモノ肉の骨です。これをこうやって……」
 ぽーんと雪の中に投げる。目印に赤い紐が結ばれているため、どこに落ちたのかは一目瞭然だ。ハイリア犬はさながら矢のように駆け出すと、骨をくわえて戻ってきた。
(本当に犬だなあ。リンクはこういうの好きそうだけど)
 ウルフは同じ四足動物として呆れ、「あれと同じにはなりたくない」と思ってしまう。
 案の定、リンクは目を輝かせていた。
「おおっかしこい! よし、僕もやってみよ」
 雪でべちゃべちゃになった防寒着のまま、彼は骨を持って安寧の場所から離れていく。
(おいおい)
「うふふ、助かるわあ~」
 体よくリンクに犬の世話を押し付けた女性は、火のそばで満足そうにほほえんでいた。なかなかの策士かもしれない。リンクはちらちら雪が降る中、元気すぎる様子で犬と戯れている。
(あの程度でかしこいとか、俺のほうがよっぽど……あ)
 ウルフははっとする。正真正銘の犬と張り合っていることに気づいたのだった。
 いつしか体がぽかぽかしてきた。焚き火であたたまった毛皮だけでなく、心にたまった不穏なドロドロが熱を発している。なのに、原因を特定できない。ウルフは黙ってまぶたをおろし、耳を伏せる。
 そうして心をできるだけ無にしていたら、女性はいつの間にか馬宿のテントに帰り、風もやんであたりは静かになっていた。
 さくさくと新雪を踏みしめる音が近づいてくる。
「いやー、疲れた。運動したら寒さに慣れてきたみたい。ウルフくん、お昼ごはん食べたらもうちょっと先に進んでみようか。シーカータワーもぼんやり見えてるし」
 犬と別れたリンクは、白い息を吐きながらも活力にあふれた目をしている。ウルフは答えずにそっぽを向いて、あたたまった体を持て余していた。
「……ウルフくん?」
 何故かは分からないけど、どうも面白くない気分だった。
 ありもので昼食を手早く済ませ、二人は馬宿を発った。
 雪原の上に湿った足音が断続的に響く。ウルフの耳のそばを風の切る音が流れていく。馬宿からはずいぶん離れたはずなのに、なんだかまだ体があたたかい。
「うっ、一段と寒い……やっぱり一泊したほうが良かったかなあ」
 一方のリンクは、両腕をかき抱いて鼻をすする。隣を歩きながら、ウルフはぼうっと前を見ていた。
 いつも屈託のないこのハイラルの勇者と、共有できないことはたくさんある。ウルフが言葉を持たないからだ。思えばかなりの時間一緒にいるのに、時々彼は一人で旅しているかのような気すらしてしまう。
 ウルフは徐々にペースを落としていった。
(なんだこれ……足が重い)
 体がうまく動かなかった。雪から足が引き抜けない。
「ウルフくん!?」
 悲鳴のようなリンクの声とともに、ウルフの視界はぐらりと揺れて、真っ暗になった。



『オイ、こんな場所で寝てどうする!?』
 切羽詰まった台詞が耳元で響き、彼は慌てて体を起こした。
 毛皮の上から雪が落ちる。清潔な白に覆われた原っぱ、雲の隙間からちらりと青空が覗く昼下がり。だが、南タバンタ雪原の地面はこれほど傾斜していただろうか?
『頼むぞ。ここで行き倒れたらワタシだって道連れなんだから』
 再び聞き覚えのある声がして、彼の心臓が跳ねた。この声は――名前を思い出せない、けれども誰よりも濃密な時間を過ごした相棒の――
 彼は影に向かって問いかけた。
「あのさ……一回、元の姿に戻れないかな」
『はあ!? 何言ってんだ、スノーピークのど真ん中だぞ。ろくな防寒着のないハイリア人に戻ったら……』
「頼むよ」
 呆れたようなため息がひとつ、影からこぼれる。それでもまばたきをする間に、彼は本来の姿を取り戻していた。
 古くさい緑の服に使い込んだ手甲、視界の端にはくすんだ色の金髪が見えた。何よりも、彼は二本の足で立っている。
 感動に目を見開くのと同時に、氷のトゲが頬を刺した。
「げえ、寒っ!?」
『バカなことやってないで、さっさと戻るぞ』
 今にも相棒は影の魔力を使いそうになる。彼は慌てて口を挟み、
「お、お前のさ……顔を見たいんだけど」
 どきどきしながら言った。だが影からは一言、
『やだ。寒いから出たくない』
 とのたまった。
 一瞬彼は絶句したが、やがてからりと笑った。相棒だ、間違いなく。笑っていたら盛大にくしゃみが出たので、慌ててケモノの姿に戻る。
 これは一体どういうことなのだろう。やはり夢なのか。それとも、先ほどまで別のハイラルにいたこと自体が、長い長い夢だったのか。
(それなら……相棒と別れたことも、全部夢だった?)
 影の中にいる彼女本人ならばその答えを知っているのかもしれない。だが、彼はどうしてもその問いを口にすることができなかった。
 二人は記憶にあるとおりの道筋をたどり、スノーピークをのぼっていった。こんなにも鮮烈に寒さを感じるのだ、もう夢とは思えない。それなのに、彼はこの先の旅で起こることを何もかも知っている。おかしな気分だ。
 頂上へ向かう途中、雪の中に隠された通路から洞窟に突入した。内部ではかろうじて気温が保たれていたので、一度元の姿に戻り、焚き火をする。
(火打ち石使うの、あっちのリンクは下手くそだったな)
 彼はなんなく火をつけることができた。相棒が影の中から乾いた薪を取り出してくれたので、点火する。
 なんでもいい、彼はどうしても相棒と話がしたかった。地べたに腰を下ろし、口を開く。
「……ずっと、旅が続いたらいいのになあ」
 思わず本音がこぼれていた。
『残念だけど、それは無理だ。ワタシたちにはザントを倒すっていう目的があるからな』
 相棒はずばりと現実的な指摘をしてくる。
「それでも俺は……」
 夢でもいい。今しかぶつけられない気持ちが彼にはある。唇が勝手に動き、普段なら心にしまっておくであろうことを、口に出していた。
「お前が隣にいないのが……嫌なんだ。嫌だったんだ、とても」
 相棒はしばらく沈黙していた。焚き火が彼女の宿る影を揺らめかせる。
『誰だって、どんな二人だって、いつかは別れる。そして多分ワタシとお前の別れは、他と比べて早いんだろうな』
「そんな――」
 悟ったような口調。もしや相棒も彼と同じように、この先の別れを知っているのだろうか。
『でもな、その時はきっと、別の誰かがお前のそばにいる』
 軽く閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、太陽の光を集めたような明るい金髪、天真爛漫な瞳。
『だから、ワタシがいなくて寂しがって泣いたりするんじゃないぞ?』
「……んなことするかよ」
 彼は地面に目を落とした。
「やっぱり俺はお前以外の相棒なんて認められない。『あいつ』とは……対等なんかじゃないんだ」
 彼はやっと気づいた。自分は、リンクと対等でいられないことが嫌だったのだと。言葉をかわすことができない、不満を抱いても態度で示すしかない、結局はいつも助けられてばかりの、ケモノの自分が。
『対等じゃなかったら相棒じゃないのか? だいたい対等ってなんだよ。迷惑かけるのもかけられるのも、どっちもあるから旅の仲間なんだろ』
 相棒はまるでリンクの存在を知っているかのようだった。だが、彼はそのことにあまり違和感を覚えなかった。
 どうして彼女を相棒と呼ぶようになったのだろう。長い時間を共有したから、互いに助け合ったから。
 それはリンクの場合と何が違うのだろう。
『さあて、もう十分休んだろ? さっさと山頂に行こうぜ。獣人のニオイだってそのあたりまで続いてるんだろ』
「うん……」
 反射的に立ち上がろうとして、彼はよろけた。急激に眠気が襲ってきた。
「あれっ」尻もちをつき、彼はまぶたを閉じた。



 体があたたかい――というか、熱い?
(うわ!?)
 目を覚ました途端、ウルフはごぼりと泡を吐いた。全身に温度の高いお湯がまとわりつき、毛皮がぐっしょり濡れている。
 彼は、溺れかけていた。
(な、なんだ、温泉か……!?)
 慌てて水面に顔を出すと、冷たい風が鼻先をかすめた。視界は相変わらず白いが、夕空がぽっかり頭上に抜けている。体勢が落ち着いてからやっと気づいたが、彼はごく浅瀬にいた。
「大丈夫? でも良かった、起きたんだね」
 駆け寄ってきたのは、防寒着を身にまとった金髪の男――リンクだった。ウルフは少し目を細める。
 ……戻ってきてしまった。
「ほら、秘湯だよ秘湯。へブラ山の絶景スポット、隠れた名所の温泉だってさ!」
 リンクはシーカーストーンをウルフに向けてぱしゃりと撮影した。きっと間抜け面がアルバムに残ったことだろう。
 以前訪れたデスマウンテンにも温泉はあったが、ウルフは観光客を気遣って湯に入らなかった。だが、ここなら思う存分楽しめるというわけだ。
 リンクの眼前で、ウルフは視線を振り切るように軽く温泉の中を泳ぐ。乳白色の秘湯はなるほどハイラルの名泉らしく、治癒効果を持っているようだった。
 湯が体に染み渡るのと同時に、思考が流れていく。あのスノーピークでの出来事は、実際にあったことなのだろうか。いやそんなはずはない、とすぐに否定する。彼は「今のウルフ」の記憶をそのまま引き継いで、過去の世界にいたのだから。
(あれは夢だったのか)
 あんなに鮮明だったのに、相棒と会話だってできたのに。彼の心にはじわりと冷たいものが広がっていった。
 所在なさげに泳ぎ回るウルフを眺め、リンクは言う。
「きみ、街道で倒れたんだよ。風邪引いてたの、気づいてあげられなくてごめんね。もう雪原の馬宿は遠かったし、通りがかったタバンタ村は魔物の巣窟だったし、いっそヘブラ山になら山小屋があるかと思ってうろついてたら、たまたまこの温泉を見つけて。……湯加減はどう?」
 一息に喋り切って、リンクは赤い頬をほころばせた。いくら熱源が近くにあるといえど、寒さが限界に近いのだろう。彼はウルフを抱えたまま雪山を歩き回り、さらにはケモノだけを湯に浸からせて、自分は魔物が来ないか見張りをしていたのだ。日がかたむくまで、ずっと。
『その時はきっと、別の誰かがお前のそばにいる』
 夢で聞いた相棒の言葉を思い出す。たとえウルフの頭が考え出した台詞だとしても、あれは「彼女」の口から発せられたものと同等であると思えた。
(そうか)と彼は納得する。馬宿で犬に対して抱いたのは――恥ずかしいことに、嫉妬だったのかもしれない。
 そばにいるからといって、誰とでも相棒になれるわけではない。でも、リンクと過ごした時間はどれも本物だった。
 岸に上がり、ぶるぶると水分を飛ばした。そうしてウルフは口を開く。ゆっくりと動かす。声にならない声を出すために。
「どうしたの」
 リンクは乾いた布を取り出しながら、きょとんとしていた。
 やはりもどかしい。文句も感謝も、自分の口で、言葉で伝えたかった。
(そばにいてくれて、ありがとう)と。

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