「神隠し?」
耳慣れぬ単語だったので、リンクはおうむ返しに尋ねた。
とっておきのウワサを用意してきたミツバは、彼の反応を見て水を得た魚のように話しはじめる。
「せやで。ここから西に行ったところにサトリ山ってあるやろ? たまーにあそこの山頂が光るんやって。で、その時だけ山のヌシが現れる」
「ヌシですか」
「それだけやない。動物なんかがわーっと出てきて狩り放題、食材もそこらにぎょうさん生えてて取り放題ってウワサや。
ウチが話を聞いたのは、ちょうど山頂が光ってる時に迷い込んだ人でな。その人は喜んで狩りしてたら青い馬みたいな動物――ヌシに見つかって、踏み潰されそうになったんやって。たまたまそばにいた子犬が助けてくれて、すぐに下山したそうやけど、そのまま山におったら確実に神隠しにあっとったやろな。実際、戻って来ない人も結構おるみたいやで」
リンクはいかにも興味津々といった様子で相槌を打つ。
「なるほど。それで神隠し、ですか」
ミツバは満足そうにうなずいた。
平原はずれの馬宿で久々に再会した二人は、情報交換という名目でウワサのやりとりをしていた。
サトリ山はちょうどこの馬宿の西にある。リンクは地図で名称だけ確認していたが、登ったことはなかった。
「サトリ山って、光ってない時はただの山なんですか?」
「そうみたいやな。もちろん普通の日に山に入って、何事もなく帰ってきた例もある。でも、ヌシ目当てとか、お金欲しさで行く人はこの宿に戻ってこないそうや。
で、リンクはどうする?」
リンクはあごに手を当てる。
「ちょっと覗いてみようかな。どんな場所か気になります」
山となれば登らずにはいられない。リンクは相棒と共にすべての山を登ると決めたのだ。それに、サトリ山のような秘境には古代の祠があるかもしれない。行かない手はない。
リンクの足元で、相棒のオオカミが呆れたように息を吐いていた。これは許可とみていいだろう。
別れ際、ミツバは思い出したように付け加えた。
「サトリ山なら朝から行くべきやで。夕方までいるのが一番危ないらしい。なにせ、黄昏時はあの世とこの世が繋がる時って言われてるんや。気いつけて行きや」
「ありがとうございます」
わう、と突然ウルフが吠えてリンクは驚いた。相棒は目を丸くしてミツバを見つめている。今の発言に、何か引っかかることでもあったのだろうか。
*
その日は朝から少し曇り気味だった。
二人が訪れたサトリ山は、普通の山とどうも雰囲気が違った。禿山というわけではないが樹が少ない。というより、植生が偏っているのだ。場所によって生えている草木がまるで違う。熱帯のフィローネ地方にしかないはずのドリアンの樹を見つけた時は、地図を見間違えたかと思った。
一方で、ウワサとは違い、目に入る動物といえばカラスだけだった。少し肌寒い風に黒い羽が舞い散っている。カァカァと鳴き声が響く不気味な雰囲気の中、リンクは探索を続けた。
斜面を乗り越え少し平坦な場所を歩いていたところ、くすんだ緑の視界の中に人工的な黄色が飛び込んできた。
「あれ……テントだ」
近づいて調べてみる。分厚い布は風雨にさらされかなり古びていて、人の気配はない。周辺には錆びた剣や盾が転がっていた。
(もしかして、テントの主が神隠しにあったってことかな……)
同じことを考えたのだろう、錆びた武器の匂いを嗅いだウルフがどことなく不安そうに見上げてくるので、リンクは笑って山頂を指さした。
「大丈夫だよウルフくん、今日は全然光ってないみたいだし」
テントを後にしたリンクは探索を続けた。山の雰囲気に慣れるに従って徐々にミツバの忠告も忘れ、山の幸に夢中になっていった。
「すごい、リンゴの木がこんなにいっぱい!」
「マックスラディッシュだ……ニンジンもある!」
「キノコの大収穫祭りだよ。最高、もう夢みたい」
料理人見習いの血が騒いだのだろう、リンクは幸せそうに笑いながら食材を抱きしめる。できるだけたくさんのお土産を持って、麓にいる愛馬のもとへと戻らなければ、と足が弾んだ。
ホクホクしながら山頂付近へ上り詰めたら、首尾よく古代の祠まで見つかった。少なくとも昔のシーカー族はここを訪れたことがあるらしい。
シーカーストーンを台座にあてて入り口の解放だけを行い、中を覗くのはまた今度ということにした。
いつの間にか、太陽がずいぶん傾いていた。黄昏時はあの世とこの世が繋がる時――ミツバの忠告が脳裏に蘇る。ウルフの気遣わしげな視線を感じた。そろそろ下山しようか、とリンクは山頂からの景色を目に焼き付けた。ハイラル南西部をぐるりと見渡して視線を戻すと、祠の近くにあった巨岩の割れ目の向こうがぼんやりと光っているように見えた。
「なんだろう……?」
リンクは導かれるように岩をくぐり抜けた。その先には小さな池があった。水面が穏やかに夕日を反射している。ほとりに生えた木の枝にはピンクの花が満開で、あるかなしかの風に吹かれてちらちらと舞い散る。池におだやかな波紋がいくつも刻まれた。
「うわあ……」
リンクは言葉を失った。今までいたサトリ山の殺伐とした様子とはまるで別世界で、夢を見ているような心地だった。
彼は池へと吸い寄せられていった。ぱしゃり、ブーツが水に浸る。
「ねえ、ウルフくん――」
振り返るが、誰もいなかった。
それどころか青っぽい霧が夕日を覆い隠している。
(あれ?)
不意に、近くに気配を感じた。慌てて視線を戻すと、池の真ん中――水面の上に大きなケモノが佇んでいる。青白い体躯の見たこともない姿だ。馬かシカのような体、頭には繊細なつくりの角が生えており、左右に二つずつ並んだ合計四つの眼がリンクを見つめていた。
(山のヌシだ……!)
リンクの足はビタロックを喰らったかのように動かなくなった。凍りついた彼の視界をまっすぐ割るように、山のヌシは悠々と近づいてくる。
リンクは最後の抵抗とばかりにまぶたを閉じた。
*
(……うわっ!?)
突然、がくりと体が下に引っ張られる。池の底が抜けた――まさか? まとわりつくのは冷たい水だ。リンクは水中に放り出されていた。
上も下も分からないまま、必死にもがいた。水の抵抗に阻まれながら小さな何かを掴む。
このままでは溺れると思った瞬間、水面から差し伸べられた誰かの手が、力強くリンクの腕を掴んで引き上げた。
「おーい、大丈夫か?」
岸に上がってぜえぜえと息をついていると、妙にのんきな男の声が降ってきた。
「あんな場所に沈んでるなんて物好きな奴だなあ」
濡れた前髪を払ったリンクは、自分を助けてくれた男を見上げた。
ちょうど同年代くらいの青年である。古風な緑の衣を着て、揃いの帽子をかぶっている。流線型の眉と切れ長の瞳がなかなか整っていて、男前だった。
(この人……どこかで見たことがあるような)
既視感を覚えながらリンクは頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございました」
「いいって別に。それよりお前の持ってるそれ、くれよ」
青年はにこやかに手のひらを差し出した。「それ?」とリンクは自分の手を持ち上げる。水の中でもがいた時に掴み、そのままだったらしい。「それ」は透明なガラスでてきていた。
「って、普通のビンだけど。こんなものでいいの」
「むしろこれがほしかったんだよ!」
受け取った青年は大喜びである。ビンに頬ずりしかねない勢いだ。
「そのビンが何かの役に立つの?」
リンクの素朴な疑問に対し、青年は血相を変える。
「何かって……ビンさえあれば何でもできるだろ!?」
そ、そこまでかな? とリンクは首をかしげた。
それにしてもここは何処なのだろう。謎の青年の勢いに押されて確認もままならない。周りは山に囲まれ、リンクが落ちた水たまりとは別に、すぐそばに大きめの池があった。明らかにサトリ山の山頂ではない。そもそも太陽の位置が少し巻き戻り、昼間になっていた。
どうやら青年はビンのことをリンクにレクチャーしたくてたまらないらしい。
「お前、さては空きビンの便利さを知らないな。よーし俺がみっちり教えてやる!」
「あ、えっと、それも是非聞きたいんだけど……その前に、ここがどこなのか教えてくれないかな」
池のほとりで大きな木が花びらを散らしている。サトリ山といくつか共通点はあるが、ここはどちらかというと盆地だった。
「ここか? 釣り堀だけど」
「釣り堀……?」
「ラネール地方でも有数の観光地だぞ」
ラネール地方にこんな場所があっただろうか。ハイラルは広く、あちこち旅をして回ったリンクですらまだ知らない場所があってもおかしくはない。それならば、とシーカーストーンを起動させたが、マップは砂嵐状態だった。
青年はいぶかしげにリンクの顔を覗き込んだ。
「もしかして、空きビンの素晴らしさどころか、釣りも知らないってことか」
「うん、それは知らない。釣りって何?」
青年は足元に置いていた長い棒を持ち上げ、ぶんと振る。よくしなる材質でできているようだ。
「これが釣り竿。これを使って魚を釣るんだ」
棒の先端には長い糸がついている。それが魚をとることにどう繋がるのか、リンクにはよく分からない。
「もしかして、きみはさっきそれを使って空きビンを釣ろうとしてたの……?」
「そうそう。そこの池がゴミ捨て場になってたから、中にビンがあるんじゃないかと踏んでたんだ」
はっとしてリンクはびしょ濡れの体を確認した。なんだか変な匂いがする。げっ、と思った途端に、
「っくしゅん!」くしゃみが出た。
「そういやお前ずぶ濡れだったな」
青年は他人事とばかりにからからと笑っている。
リンクは慌てて濡れた上着を脱いだ。
「ちょ、ちょっとそこで焚き火するね……」
彼は荷物にあった火打ち石――幸い耐水性の袋に入れていたため濡れていなかった――を使い火を焚く。青年は何も言わず、その様子を興味深そうに見つめていた。
炎にあたってやっと体があたたまってきたところで、リンクは顔を上げる。
「そうだ、まだ名乗ってなかった。僕はリンク。きみの名前は?」
すると、青年は妙な表情になった。
「俺か? 俺は……バッタとでも呼んでくれ」
「バッタって、虫の?」
いくらなんでもひどい名付けだ。まともな親がそんな名前をつけるはずがないから、偽名か何かだろう。
バッタと名乗った青年は何故か誇らしげに、
「色がそれっぽいだろ」
確かに服は緑だが、むしろ髪は綺麗な麦穂色だ。
バッタはどっかりとリンクの隣に座り込む。
「それで、リンクはなんであんなところに沈んでたんだよ」
痛いところを突かれた。リンクの胸に、苦い思い出が蘇る。
「サトリ山ってところで山のヌシに会って、気づいたらここにいたんだ」
簡潔に事実を述べると、バッタは頬杖をついて意地の悪い笑みを浮かべる。
「ほー、サトリ山。それにヌシねえ。おおかた、その山で動物やら植物を乱獲したんだろ」
そのままズバリ真実であったので、リンクはがくりとうなだれる。
「おっしゃるとおりです……」
「そりゃーヌシも怒るって。
で、お前、帰りたいか?」
「うん。相棒に心配されてると思うし」
すっとバッタの目が細くなる。リンクはどきりとした。また、よく知っている表情のような気がした。
「じゃあ俺が手伝ってやるよ」
「いいの?」
「空きビンくれたお礼だ」
と言ってバッタはリンクに釣り竿を握らせる。
「お前がサトリ山に帰るためには、まず釣りを覚えてもらわないとな」
*
二人乗りのボートがすうっと水面を滑ると、釣り堀の池に多数生息する魚たちが波に押されて逃げていった。
この「ボート」にもリンクは初めて乗った。以前ウオトリー村で似たような形状の漁船は見かけていたが、乗る機会はなかったのだ。実際に乗り込んでみると、イカダよりも高度な技術で作られたものだと分かった。コログのうちわで帆を押して無理やり進めていたイカダとは違い、ボートはオールで漕いで水の上を進む。きちんと二人分の座席があって、実に快適な乗り心地だった。
バッタ(何度聞いても違和感のある名前だ)は後部座席でボートの操縦を担当する。前の席にいるリンクが釣り担当だ。
サトリ山に帰ることと釣りがどう結びつくのかは、説明がないので分からないままだった。
リンクは持たされた釣竿をしげしげと見る。
「この竿、きみが持ってたのと違うよね」
「よく気づいたな。さっきのは浮き釣り用、こっちはルアー釣り用だ」
「ルアー……?」
知らない単語がどんどん出てくる。
池の真ん中で、バッタは釣り糸の先に何かをつける。
「ようするに、魚がえさと勘違いするようなおもちゃを泳がせて、獲物を誘うんだ。ルアーにはクルクルタイプとポコポコタイプ、あとはカエルタイプってのもあるけど、今回の目当てはハイラルバスだからこれでいいだろ」
リンクが話の内容を半分も理解できないままセットが完了する。まずはバッタが手本を見せてくれた。
ぶんと竿を振ってルアーを池に投げ込む。思いのほか遠くまで飛んでいった。
「左右に動かして魚を誘い込むのがコツだ」
手首をくいくいと回し、ルアーを泳がせる。リンクが注視する先で、ルアーがぐんと沈み込んだ。素早くバッタが竿を立てる。魚が食いついたのだ。思いっきりリールを回しながら引き寄せる。
「網、そこにあるやつで魚とってくれ!」
「わかったっ」
ボートに置いてあった網を持ち、リンクはバッタが釣り上げた胴の長い魚をすくい上げた。
「じゃーん、トアルナマズ!」
「おおー!」
バクダンや電気で捕まえるよりも迂遠な方法に思えたが、リンクの知る漁と違って魚が生き生きしたまま手に入る。これは素晴らしい利点だった。
なんておいしそうな魚だろう、と食いしん坊のリンクが舌なめずりする目の前で、あろうことかバッタはナマズを池に放してしまった。
「え! な、なんで?」
「ここは遊びのために釣りをする場所だから、キャッチアンドリリースが基本なんだよ」
「そうなんだ……」
つまり、娯楽としての魚釣りに特化した施設が釣り堀ということらしい。リンクの知らないハイラルのあり方がそこにあった。
「基本ってだけで、別に食べちゃいけないわけじゃない。でもさっきのナマズはまだ小さかったしな、もっと成長してもらわないと。
さ、お前もやってみろよ」
バッタの指導の下で、もともと飲み込みの早いリンクはすぐにコツをつかみ、釣り独特の楽しさに夢中になった。もはやサトリ山に帰るという目的も忘れてしまうくらいに。時間はあっという間に流れ、いつしか太陽が山の端近くまで迫る。
バッタは何匹かキープしておいた魚たちを見て、
「ちょっと腹ごしらえするか」
「やった!」とリンクは待ち望んだ言葉を聞いて喜んだが、
「いや、お前はやめとけ。ここのメシ食ったら帰れなくなるぞ」
「え? なんで」
「……うますぎて向こうのメシが食えなくなる」
バッタは真顔で言った。そこまで言われたら逆に気になる、と食い下がっても「ダメだ」と強く断られてしまう。
結局バッタはこれ見よがしにリンクの前で焼き魚つくって食べはじめた。
リンクが恨めしげに食事風景を眺めていると、バッタがビンを取り出した。昼間の空きビンと同じくらいの大きさだが、中で揺れるのは黄金色の液体だ。
「それは?」
「極上のスープ。とっておいて正解だったなー」
フタを開けると、ふんわりいい香りが漂う。いい加減刺激され続けたリンクの腹の虫は限界の悲鳴を上げたが、ぐっと腹筋に力を入れて我慢した。
(この人が単なる意地悪でこんなことするとは思えないし……ウルフくんはごはんも食べずに向こうで待ってるかもしれない)
スープを飲み干したバッタは口元をぬぐい、自信満々で、
「ほら便利だろ、空きビン」
「確かにそうだけど……ビンくらいその辺で売ってないの? ミルクとか買ったらついてくるでしょ」
「ミルクも油もビンがないと売ってくれないぞ。でもビンは店売りしてないんだ」
「え!? 僕の知ってる商人なんて使用済みのビンの回収までしてるんだけど」
「格差社会か……いや、おかげでリンクが空きビンの重要性に気づけたんだ、良かったことにしよう」
そこまで言うほどのものなのか、とリンクの頭に疑問が浮かぶ。確かにバッタの言うように空きビンが極端に貴重なものだとすると、旅人たちにとっては特別な価値が生じるのかもしれないが――
のんきに会話する間にも、赤い夕焼けと青黒い闇が空の端から広がりはじめている。池のほとりに座り込んだ二人の影が、何倍にも伸びていく。バッタが目を細めた。
「黄昏時は、あの世とこの世が繋がる時だ」
「それ、僕も聞いたことがある」
「日が落ちる直前になると、いつも釣り堀の真ん中に青い馬みたいな動物がやってくる」
リンクはまばたきした。
「サトリ山のヌシだ……!」
「で、そいつの背に乗っていけばお前は帰れるはずだ」
空きビンの話をしていた時とは打って変わって真剣な瞳が、池に視線を投げている。何故バッタはそんなことを知っているのだろう。
「背に乗る……それと釣りにどういう関係が?」
「それはヌシが現れてからのお楽しみかな」
口の端を上げたバッタは余裕そのものである。
何故きみはここにいるのか、どうして協力してくれるのか、ここは一体どこなのか。リンクは湧いてきた疑問を飲み込む。
夕日が水面を照らし上げた。白い霧がどこからともなく降りてくる。
「これは……」サトリ山と同じ現象だった。やがて、冷たい空気とともに山のヌシが姿を現す。青白い獣はわずかな波紋を立てて水面の上に佇んでいた。
「やっと登場、だな」
バッタが腰を上げる。捧げ持つ釣り竿の先には、先ほど釣った魚がいつの間にかぶら下がっていた。
「これであいつの気を引くぞ」
「ん……魚で!?」
「あいつが司るのは生と死。生き物の長みたいな存在だろ。てことは、魚が宙を浮いてるのを見たらびびるはずだ。その隙にお前はあれの背中に乗れ」
いささか無茶な理論ではなかろうか。だが、バッタの有無を言わせぬ口調と「魚がいきなり目の前に来たら誰だって驚くだろうな」という判断により、リンクはうなずいた。
「わ、分かったよ」
「じゃあ行くぞ!」
二人はゆっくり水面を歩くヌシを尻目に、こっそり池を回り込む。バッタが待機場所に選んだのは、池の真ん中にあるアーチ状の岩の上だ。なるべく静かに泳ぎ、苔むした岩に登った。
バッタは下を覗き込んでヌシの位置を確認し、釣り糸を垂らす。その隣でリンクはパラセールを広げた。
ぶん、と振られた釣り糸は狙い過たずヌシの目の前を通過する。ヌシが動きを止め、顔を上げた。
「今だ、行け!」
弾かれたようにリンクは岩から飛び出した。
パラセールで滑空し、がら空きのヌシの背中にダイレクトに着地する。
「よし」と思った途端に背中が大きく跳ねた。ヌシが暴れまわり、リンクを振り落とそうとしている。慌ててヌシの首に腕を回し、必死に力を込めた。
激流のただ中に放り出されたような感覚だった。リンクはなんとか腕を伸ばしてヌシをなだめようとする。みるみる体力の限界が近づいてくるのが分かる。
「も、もう無理――」
弱音を吐いた瞬間、上から声が降ってきた。
「諦めるな。相棒が待ってるんだろ。お前ならできるさ」
バッタの落ち着いた言葉がすっと心に入ってくる。最後の力を振り絞り、リンクはヌシにしがみついた。
(お願い、おとなしくなって……!)
振り回されすぎて一瞬意識が飛んでいたらしい。ふと目を開けると、ヌシは一転して静かになり、首を傾けるようにして、複眼の一つでじいっとリンクを見つめている。
リンクは背に乗ったままこうべを垂れた。
「あの、山を荒らしてごめんなさい。反省してます。どうかサトリ山に戻してくれませんか……?」
首が前を向いた。受け入れられた、とリンクは感じた。その瞬間、発光するヌシの体がリンクごと池に沈みはじめる。
安堵を感じたのもつかの間、リンクは焦りながら岩の方を振り返る。
「きみは……来ないの!?」
「悪い、俺は無理なんだ」
薄闇が迫る岩の上で、バッタがへらへら笑っている。
どうしてここの魚を食べてはいけないのか。なぜバッタはサトリ山に帰る方法を知っているのか、それなのにリンクとともに来ようとしないのか。そう、黄昏時はあの世とこの世が繋がる時。サトリ山がこの世とすると、この釣り堀は――
バッタは穏やかに微笑んでいる。麦穂色の髪が、夕焼けを受けて黄金に輝く。
「お前の相棒とやらによろしくな。ちょっと面倒なやつかもしれないけど、助けてやってくれよ」
「分かった」
力強くうなずき、リンクはバッタに向かって手を伸ばす。彼との思い出を脳裏に刻もう、と目を見開いた。
「でも、助けたいのはウルフくんのことだけじゃない――きみのこともだ!」
体はほとんど池に沈み、釣り堀が遠ざかっていく。リンクの視界の真ん中で、バッタは驚いているようだった。
「こんなに世話になったんだ。釣りも楽しかったよ。だから、いつか必ず――」
口まで水が侵入し、それ以上の叫びは心の中にしまい込まれた。
視界が黒に塗りつぶされる直前。最後に目にしたバッタは困ったような、だが満足げな表情を浮かべていた。
*
夕焼けの残り火が遠くの山を燃やしている。
ぼんやりまぶたを開けたリンクは、己の手のひらに焦点を合わせた。だんだん頭が冴え渡ってくる。
彼は全身ずぶ濡れ状態で浅い池に座り込んでいた。あたりに広がるのは見慣れた景色、空に浮かぶのは知っている星座。無事にサトリ山に戻ってきたのだ。
近くに山のヌシの姿はない。だが、代わりに――
「ウルフくん!」
こちらへ駆けてくるかけがえのない相棒を見つけ、リンクは立ち上がって満面の笑みを浮かべた。
思わず濡れたままウルフの体をぎゅっとしてしまう。ウルフは嫌がるように身をよじった。
ごめんごめんと謝りつつ、彼は相棒の少し冷えた色の瞳を覗き込んだ。
「正直、何があったのかよく覚えてないんだけど……」
あれだけ膨らんでいた荷物はいつの間にか空になっていた。きっとヌシが回収していったのだろう。荷物袋をあさり、中から体力回復の薬が詰まったビンを取り出す。
一気に飲み干して、リンクは空いたビンに目線を合わせた。
「何かの役に立つかもしれないし、使い終わったビンも大切にしなくちゃね」