プロローグ 水よりも優しく

「私、今年でキャラバンをやめる」
 親友は優しく微笑んだ。大地色のロングヘアーが、星の光を受けて天の川のようにきらめいている。
 告げられた言葉は、サンダーを喰らったような衝撃をペネ・ロペに走らせた。
 レベナ・テ・ラ——滅んだ都で迎えた、静かな夜。種族の違いを越えて友情を結んだ二人は、並んで瓦礫に腰を下ろしていた。
 ペネ・ロペは、震える喉から声を絞り出した。
「どうして……?」
 たった今、彼女を打ちのめすような告白をした親友——クラリスは心を痛めた様子もなく、何故だか満足げな表情を浮かべていた。
「そうだなあ。一番は、自分がキャラバンに向かないと思うから、かな」
 嘘だ。とペネ・ロペは思った。
 確かに普通の「温の民」クラヴァット族ならば、戦いが嫌で逃げ出したくなることもあるだろう。しかし、クラリスは違う。暇さえあれば素振りに励む。「武の民」リルティ族だけで構成された、アルフィタリア城のキャラバンに模擬戦を挑んで、打ち負かしたこともある。とにかく好戦的な性格で、「剣聖」とも呼ばれ恐れられる彼女が、キャラバンに向いていないわけがない。
 翻ってみれば、ペネ・ロペの方が旅には不向きな性格だろう。彼女たち「我の民」セルキー族は身体能力に優れ、武器のラケットから変幻自在の必殺技を繰り出す。しかし彼女はヒットアンドアウェイの戦い方が苦手で、同じキャラバン仲間「智の民」ユーク族のユリシーズと一緒に、後衛をつとめていた。よくドジを踏んでは仲間に迷惑をかけ、貴重な道具を無駄にし、買い出しに行けば数量を間違える。そういった数々の欠点は、彼女も自覚していた。
 眉を寄せたペネ・ロペを見て察したのだろう。クラリスは首を横に振った。
「そうじゃない。戦いじゃなくて、キャラバンに向かないんだ。……いつか、お前にも分かるよ」
 こうなったらペネ・ロペに出来るのは、未練がましく食い下がることだけだ。
「本当に、やめちゃうの」
「ああ。代わりと言ってはアレだが、来年からは——弟のハルトをキャラバンに入れて欲しい」
 泣き虫なペネ・ロペは鼻をすすりはじめていたが、その台詞を聞いて呆れてしまった。
「分かった。そっちが本当の理由でしょ」
「バレたか」
 クラリスはにやりと笑った。
 ハルト。その名は、彼女たちの故郷ティパの村では少しだけ有名だった。直接の関わりがなくても、知っている者は多い。控えめに表現したとしても、クラリスが「溺愛」している弟のことだ。
 ペネ・ロペも何度か会ったことがある。姉とは違って、物静かな子供だった。いや、静かというよりも——
「もしかして、ハルトくんが声を取り戻すきっかけになるから……?」
 彼は、幼い頃にある事故に遭って以来、声を失ってしまった。もう十年近く、ただの一言も発していないという。
 神妙な顔でクラリスは頷いた。
「そういう考えもある。あの子には旅が、外の世界が必要なんだよ。
 きっと、私よりもキャラバンにふさわしいだろうし、な」
 一人で納得している彼女に、ペネ・ロペは小さな声で反論した。
「分かんないよ、そんなの。クラリスがいてくれた方が、ずっといいのに」
 こみ上げてきたものを誤魔化すために、目元を乱暴にこする。クラリスはふっと笑い、俯く親友の頭に手を伸ばして、その金髪をぐしゃぐしゃにした。
「わ! 何すんのよっ」
「……私はさ、キャラバンをやったこの四年間で、たくさんのものをもらったんだ。もう十分だよ。
 実際旅は楽しい。でも、それじゃダメなんだ。ここで引き継がないと、もうハルトは外に出る機会を失う」
 クラリスは朝が近づき白みはじめた空を、廃都の底から見上げた。
「十四年前、空いっぱいに星の降る夜に、あの子は生まれてきた。私たち家族の希望を背負って、父さんとの約束を果たすために」
 彼女たちの父親は、ハルトが生まれる前に病で亡くなったと聞く。
「そしてあの子は必ず——を晴らす」小さく呟き、彼女は苦しげに胸元を掴んだ。
 長い沈黙があった。クラリスの目を見たペネ・ロペは、彼女の決意はもう揺らがないということを、やっと理解した。
「……どうしてもって、いうんだね」
「うん」
 ついに、ペネ・ロペの翡翠の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
 瞬く間に顔をくしゃくしゃにする親友を、クラリスはそっと抱きしめた。
「今のうちに、いくらでも罵ってくれ」
「そうよ、この裏切り者ぉ」ペネ・ロペは正直な気持ちをぶつけた。
「ははは。弟のこと、よろしく頼むよ」
 頼まれたくなんか、なかった。これまで親友と仲良く続けてきた旅が、終わってしまうのだ。
 だいたい、一切喋らないような人と、どうやってコミュニケーションをとればいいのだろう。クラリスが実質的につとめていたキャラバンリーダーは、来年からは誰が引き継ぐのだろう。未来は憂鬱なことばかりだ。
 本格的に泣き出してしまったペネ・ロペを慰めるため、クラリスはゆっくりと唇を動かした。
「月がない夜でも、星が光れば私たちの進む道は明るくなる。希望っていうのはたったひとつじゃないはずだ。それに、私の代わりにはほら、クリスタルが見守ってくれる」
 そう言って、クリスタルケージ——キャラバンにとっては生命線である器を抱え上げた。
「クリスタルが……?」
「村の広場にあるのも、ケージについているのも。全ては大昔に砕けてしまった大クリスタルの欠片じゃないか。きっと、どこかで繋がっているんだよ」
 ペネ・ロペは涙の向こうに、小さなクリスタルを見た。結晶を包む淡い光は、誰かの優しいまなざしに似ていた。
 満杯になったケージの水面には、じっとのぞき込む二人の顔が映っている。
「そういえば、父さんが言ってたな。……私たちは消えたりしない。目には見えなくても、いなくなったりしないって。
 だからかな。キャラバンの旅の間、ずっと父さんがそばにいた気がするんだ。クリスタルだけじゃない。私もそうやって、ペネ・ロペと一緒に歩いていくよ」
 ついに、太陽が山の端から顔を出した。日差しが廃都の淀んだ空気を浄化していく。
「さ、みんなのところに帰ろうか」
 ひとつ大あくびをして、クラリスは微笑んだ。

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