クロスロード

前編

 身の丈よりも大きいキノコのかさの下で、セリムは慎重にあたりの様子をうかがった。
 キノコの向こう側では、黄色い一つ目の魔物アーリマンに、小型芋虫プチワーム二体が闊歩している。
 改めて自分の手数を確認した。まずはアーリマンに合成済みの魔石でグラビデをぶつけ、プチワームには間髪入れずにファイアを浴びせる。そしてまとめて剣で切り刻む。
(——よし)
 方針は定まった。セリムはアーリマンの目線があちらを向いた瞬間、キノコの陰から飛び出した。最速の詠唱でグラビデを放ち、魔物を地に縛りつける。いい滑り出しだ。続いて盾を構えて牽制しながらプチワームを炎の餌食にする。そこに叩きつけた刀身は、火をまとった芋虫の体を易々と通った。最後にアーリマンの目玉を一突きすれば、戦闘は終了だ。
「やっぱり、師匠の言うことは正しかったな」
 満足げに呟き、彼は一度剣を鞘にしまった。
 冷静に対処したつもりだったが、手元に汗をかいていた。拭うついでに、濃い茶髪の上で滑り落ちそうになっていたずきんをかぶり直す。
「とにかく敵の数を減らせ」と、師匠は口を酸っぱくして言ったものだ。こちらは一人、相手は複数。セリムは一人旅のため、それが戦いの基本になる。お前にはケージを持ってくれるモーグリもいないのだから、ひたすら慎重にやれ——というのが師匠の言葉だ。
 私たちは皆キノコの森で生まれたのだと、大陸に住まう子供たちは親から聞かされるのが通例だ。だが、セリムはそれを信じたことはなかった。面白みのない性格だと自分でも思っている。だから、巨大キノコが林立する光景は村では決して見られないものとはいえ、彼にとってはただのダンジョンである。淡々と攻略するのみだ。
 今回は師匠のまとめた魔物情報をもとに、自分で戦略を組み立てた。彼は師匠から離れて初めて一人きりでダンジョンを攻略していた。
 抱えたクリスタルケージは、三分の二ほどがミルラの雫で満たされている。二回分は師匠と協力して集めた。今回彼は一人きりでここを攻略し、今年最後の雫を手に入れるのだ。そうすれば、セリムの初めての旅が終わる。
(大丈夫、できる。早く村に帰らないと)
 彼は決意を新たにし、再び歩みはじめた。
 ——と。
「あれっ、キミもキノコ狩りに来たの?」
 何の気配も感じなかった。誰もいなかったはずなのに、いきなり背後から話しかけられた。彼はぎょっとして振り向く。
 セルキーの少女だった。クラヴァットのセリムとは同じくらいの年齢だろう。明るい黄緑の髪を肩の上で切りそろえ、露出度の高い服装をしている。背中には何やらカゴを背負い、布に包まれた長物を所持していた。
 セリムは思いっきり眉をひそめた。
「違います」
 そのまま肩を怒らせて立ち去ろうとする。少女は慌てて追いすがった。
「ちょっと! キャラバンでしょキミ! さっきのは冗談だってば」
「不審者には近づくなと師匠に言われてますので」冷たい目線をぶつける。
「あたしは本当にキノコ狩りに来ただけだよー?」
 しつこく会話を続けようとするセルキーに、セリムは仕方なく足を止めた。そんなわけあるか、と内心つぶやく。相手は我の民だ、絶対何か裏があるに違いない。そもそもキャラバンでもないのに自前のクリスタルを所持しているらしいこと自体が怪しい。そうでなければ、瘴気のど真ん中であるこんな場所まで来られないのだから。
「あたし、商人の娘なの。だからここまで仕入れに来たのよ」
「こんな場所に食用キノコなんてないでしょうに」
「それが、あるんだよ。ほらこれとか」
 少女がカゴから取り出して見せたのは、土色をした立派なものだった。確かにセリムも村で何度か食べたことがある種類だ。彼は渋々納得してみせた。
「それはいいとして……なんで僕にいちいちつっかかるんです」
「こんなところで出会ったのも何かの縁でしょ。お願い、この先のモルボル倒して! 奥にいいキノコの群生地があるのよ!」
 やっぱり面倒なことになった、とセリムは茶色の目を閉じた。我の民と呼ばれるセルキーと関わるとろくなことがない。
「嫌です」
「でもミルラの雫とるんでしょ? 後ろからついてくだけだから、ね?」
 痛いところを突かれた。森の主たるモルボルを倒した先にミルラの木がある、と彼は師匠から聞いていた。
「なら、勝手にしてください」
 その代わり、彼女の身を守る責務は負わないという宣言をしたつもりだった。セルキーはパッと顔を明るくした。
「ありがとう! そういえばキミ、名前は? どこのキャラバンなの」
「……ティパの、セリムと申します」
「ティパ、か。へえ」
 面白がるような視線を受けて、セリムは確信した。この少女はティパの先代キャラバンを知っているのだ。
 今までに、セリムは幾度もこのような視線を浴びてきた。何せ彼の先代といえば——
 彼は厄介な思考を振り払って、挑むようにセルキーを睨みつけた。
「あなたこそ、名前くらい名乗ったらどうなんです」
「そうね。名前、名前。マ・リィ、かな!」
 彼女の目は盛大に泳いでいた。確実に偽名だと見抜くが、そんなことはどうでも良かった。
 セリムは無言できびすを返す。師匠にもらった地図によれば、そろそろモルボルとの決戦も近かった。



 はじめは小さな緑の塊だった。
(なんだ、弱そうじゃないか)なんて気を抜いていたら、あっという間にあたりのキノコの胞子を吸い込み、どういうわけか五倍以上の大きさに膨れ上がった。地に根を生やす植物の魔物・モルボルが、ぞろりと生えそろった牙を剥いた。
「それじゃあお願いね、セリムくん!」
 調子よく後ろに引っこんだマ・リィは無視して、彼は即座に戦術を組み立てはじめる。
 キノコの間からは、のそりと花の魔物プラントまでもが現れた。しかも複数体。
 モルボルが吹きかけてきたくさい息が、戦闘開始の合図となった。
「……っ!」
 無言で気合いを入れる。セリムはまっすぐに走ってプラントの種攻撃の猛攻と毒の息をかいくぐり、モルボルの足元までたどり着いた。モルボルが根っこを地に潜らせたら要注意、また瀕死状態におけるブリザド系魔法に警戒——師匠の助言は全て頭に叩き込んでいる。マ・リィがどこで身を守っているかなど全く気にせず、彼はごく冷静にモルボルと相対した。
 根がしなって地面に叩きつけられた。モルボルの側面へ回り込むようにして攻撃を避ける。プラントは移動せず、種を飛ばしてくるのみである。魔法の効果範囲外かつ種の射線に飛び込まなければ無視しても構わないだろう。
 三回目のダンジョン攻略にしてやっと手に馴染んできた剣をモルボルの体に突き刺すが、植物の根はかたく、あまり効いているそぶりはなかった。それでも攻撃し続ければいつかは倒せると信じて剣を振るうしかない。今までのキャラバンだって——先代だって、きっとそうしてきた。
 モルボルが口を大きく開け、あたりの空気を吸い込んでいく。足を踏ん張って耐える。地面に置いたクリスタルケージが引き寄せられるが、大して問題はない。敵は何故このような行動を——?
「くっ」
 不意に殺気を感じ、セリムは身をひねった。プラントの種攻撃がすぐそばをすり抜けていく。
 モルボルは吸引により、動けないプラントを引き寄せたのだ。
(囲まれた……!)
 しかもいつの間にかモルボルはどす黒い魔力をまとっていた。今度の詠唱はカーズラ——まともに喰らえば後はない。セリムは剣を構え、必殺技パワーソードでプラントの一匹を仕留めた。そのまま突っ切って、なんとかカーズラの効果範囲と敵の包囲網から脱出する。
 だが、先ほどの攻撃でこちらの調子を崩されたことは分かっていた。間合いに踏み込んでいたマジックプラントの魔法が炸裂し、足元が凍りつく。力を込めて氷を引き剥がそうとしたその時、彼はモルボルの放ったスロウガの直下にいた。
「……!?」
 ゆっくりと自分の体勢が崩れていくのが分かる。恐ろしくすばやく動く根っこに弾き飛ばされたが、痛みも何もかもが遅れてやってきた。地面に叩きつけられた彼は、意識が薄れるのもスロウになるんだな、と間の抜けたことを考えていた。
 のろのろと落ちていくまぶた、それが閉じきる寸前に、幅の広い黒剣を持ってモルボルに向かっていくセルキーの姿が見えた。
(なんだ、戦えるんじゃないか……)



 意識を取り戻したセリムが上体を起こすと、体から何かがひらりと落ちた。横目で見る。それは一枚の紙といくつかのキノコだった。
 全身がひりひり痛んだ。機械的にケアルをかけて、セリムはあたりを見回す。そこは先ほど戦闘を繰り広げた広場と同じ場所であったが、モルボルもプラントもいなかった。
 ぼんやりしつつ、彼は残された紙を拾い上げる。
「目的を果たしたので帰ります。短い間だったけど楽しかったよ。マ・リィ」
 紙には走り書きでそう書かれていた。キノコは餞別のつもりだろうか。
(やれやれ……)
 クリスタルケージを抱え、モルボルが塞いでいた道の奥にあるミルラの木を目指す。セルキーの助けを借りたのは癪だが、それでも彼はここまでたどり着いたのだ。万感の思いを抱えて美しい木を見上げ、その前にある台座にケージを置いた。
「あれ」
 いつまで経っても雫が落ちてこない。今まではこんなことはなかった。師匠もこのような現象があるなんて言っていなかったのに。
 直近にキノコの森を訪れたキャラバンはいないはずだった。ここに来る前、師匠と二人でアルフィタリアの公式情報を確認したのだから間違いない。
 ミルラの雫が再生成されるには、最低でも一ヶ月はかかるらしい。だから、近い時期に別のキャラバンが同じダンジョンに挑むことがないよう、今年に入ってアルフィタリアが全集落の旅程の調整に乗り出していた。おかげでキャラバン同士の情報交換は活発になりつつある。
 だから、雫が取れないはずがないのだ。何かがおかしいとセリムは考え続け、やがて一つの結論に行き着く。
「まさか!」
 マ・リィの背中にあった重そうなカゴ——あそこにクリスタルケージが入っていたとしたら。セルキーに、雫を取られた!?
 セリムは持っていた手紙を握りつぶした。
「こんなキノコで釣り合うとでも思ってんのかよ……」
 やっと村に帰れると思ったのに、思わぬ妨害を受けてしまった。
 彼はこぶしに力を込め、キッとミルラの木を睨みつけた。
 クリスタルケージを持ったセルキーというと、ルダ村のキャラバンだろうか。キャラバンの風上にも置けない奴だ。彼はこの由々しき事態を師匠に報告すべく、ミルラの木に背を向けた。



「それじゃあお前が行けばいいだろ」
 と、その元シングルキャラバンは軽く言ってのけた。
 いきなり指名されたジ・ルヴェは机についていた肘を大きくずらした。
「……何だって?」
「ジ・ルヴェ、ちゃんと話聞いてたのー?」とヴィ・レが笑い、「お前なあ」と幼なじみのエンジュは呆れたように腕組みした。
 ティパ村のローランの家には、家主とエンジュ、ジ・ルヴェ、それに漁師の家に居候しているヴィ・レが勢ぞろいしていた。
 それらの人物の共通点は、全員キャラバン経験があるということだった。彼らは来年のティパキャラバンの体制について話し合っていた。
「ジ・ルヴェを旅に出すってなると、ヴィ・レには悪いことしちゃうけどさ」
「いーよいーよ、離れてる期間が愛を深めるって言うし?」
「ジ・ルヴェは、それでいいのかな」
 ローランに念を押されても、ジ・ルヴェは無言を貫いた。まさか俺が一人で行くことになっているのだろうか、ともやもや考えながら。
「セリムと行くのは嫌とか言うなよ。お前、オレとだって旅してたんだから」
 そのエンジュの発言で、やっと思い出した。目下のところ、来年旅立つ予定になっている粉ひきの家の三男坊のことを。
 目の前にいるエンジュという男は、ティパの村でシングルプレイヤーとして十年近く勤め上げた。そのくせ後継者の育成もろくにせず、去年の暮れにあっさりと引退してしまったのだ。
 泡を食ったのは村長ローランである。もちろん内々で人選は進めていたが、エンジュの引退理由が「体が瘴気に蝕まれており長生きできない」というものだったため、旅に同行させて新人たちの面倒を見させるわけにもいかず——予定が大幅に狂ったのだ。
 その迷惑な男は、
「オレがセリムについていってもいいけど、みんな怒るだろ?」と言ってのける。
 これに対してはジ・ルヴェも即座に反応する。
「当たり前だ」
「そーだよ。エンジュは一分一秒でも長くミントちゃんのそばにいてあげなくちゃダメ」
 ヴィ・レも常ならぬ怖い顔をして、ローランは重々しくうなずいた。
 ミントは、エンジュを支えるためにマール峠からわざわざ引っ越してきた女性だった。今やエンジュと契りを交わし、一つ屋根の下に暮らしている。
 それに、エンジュをティパ村から引き離したくない、というのが全員の共通した願いだった。ようやく帰ってきた故郷なのだから。
 そこで、セリムだ。ジ・ルヴェは順番に思い出していく。その少年こそ、エンジュの後継としてキャラバンに自ら立候補したただ一人の人物だった。そしてジ・ルヴェは、セリムの手伝いを打診されているのだ。
「ジ・ルヴェは何度かキャラバン経験もあるし、こういう役にはぴったりだと思うんだ」
 エンジュが珍しくストレートに自分を褒めている。ジ・ルヴェはそっぽを向いた。
「……セリムっていうのは、変わった奴なのか」
 話をそらすと、ローランが苦笑する。
「いい子だと思うよ。ぼくらが困っているのを分かっていて、立候補してくれたんだ」
「でも、普通エンジュの後にキャラバンになりたいって思う?」ヴィ・レが首をかしげ、
「思わないだろ」とジ・ルヴェが即答した。「それは、そうかもね……」とローランまでも同意する。
「えー、なんでだよ!」エンジュが頬をふくらませる。子供っぽい仕草だ。
「ハードル上げすぎなんだよお前」
「しかもキャラバンがしんどいってみんなに知れ渡っちゃったしね……」
「だから一人しか集まらなかったのかな」
 おそらくそうだろう。壮絶なティダ村攻略戦は、あれから数カ月たった今でも語り草になっている。しかしそれは、ひっくり返せば「キャラバンに入ればあれだけ大変な目に遭う」という印象を村人全員に植え付けた、ということでもある。何もかも規格外のエンジュだからなんとかなったが、常人なら十回は死んでいたというのがもっぱらの評だ。
 そんな中、セリムはキャラバンに立候補した。十五歳——エンジュが正式にキャラバンへ入隊したのと同じ年齢だ。少し若すぎるくらいだが、エンジュが十年近くつとめていたせいで、本来のキャラバン適齢期の青年たちが軒並み家を継いでしまったのだ。これも長期シングルプレイヤーの弊害である。
 セリムは、ジ・ルヴェたちの世代との関わりはほとんどない。ただ、文句なしに生真面目な性格である、という噂だけは誰もが知っていた。
「まあ、エンジュよりマシだったら何でもいい」
 とジ・ルヴェは結論づけた。
「おい! ……でも、引き受けてくれるんだな?」
 エンジュが念を押すと、ジ・ルヴェはすっと目を背けた。
 すると椅子から立ち上がったヴィ・レに回り込まれる。
「ジ・ルヴェの悪い癖だよ」
 うっと唸った彼は、諦めたように顔を上げた。
「……行く」
 こうして、アンバランスな二人旅が実現したのだった。



 ジ・ルヴェが不可抗力で面倒を見ることになったクラヴァットの少年は、見るからに機嫌の悪そうな表情でこう訴えた。
「セルキーに雫を奪われました」
 確かにキノコの森で満タンになるはずだったクリスタルケージは、出かけた時と同じ水位を保っている。
 マール峠で吉報を待っていたジ・ルヴェは、思わぬ報告を聞いて眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「キノコ狩りとか嘘をついて、僕の横から雫をかっさらったんです。緑の髪の女でした。セルキーのキャラバンというと、ルダですよね」
 と言われても、ジ・ルヴェは今年のルダキャラバンを知らない。旧知の隊員の中にはそのような者はいなかったはずだが、今年入ったばかりの新メンバーがいるのか否か、把握していない。
「見たのはそいつ一人か」
「はい。モルボルにやられて僕が気絶してるうちに、ボスを倒して雫も奪っていったみたいです」
 ある程度セリムが弱らせていたとはいえ、モルボルを一人で倒すとはなかなかの実力者といえる。
 しかし、いくら我の民でも、ジ・ルヴェにはルダキャラバンがそのような妨害行為をするとは考えられなかった。
「そいつの情報、他には?」
 セリムは軽く考え込む。
「マ・リィとか名乗ってました。偽名だと思いますけど。それと……黒い大きな剣を持ってましたね」
 ジ・ルヴェは数度目を瞬く。
「もしかして、剣の先が二股に分かれたやつか」
「あまり覚えてませんが、そうかもしれません」
 もしや、ラグナロク? あれはエンジュが持っていたはずだ——否、ティダの村から帰ってきた時、彼の背中にその剣はなかったような気がする。
 これは一度エンジュに確認する必要があるだろう。
「もー、本当に我の民って最悪ですよね!」
 セリムは憤りを隠せない様子でこぶしを振り上げる。ジ・ルヴェはドキッとした。
(俺も我の民なんだが……)
「今度会ったらこの落とし前をつけさせてもらいますよ。絶対に」
 未だに苛立つセリムをどうにかなだめ、ひとまず宿に向かうことにして、ジ・ルヴェは次に目指すべきダンジョンを吟味するのだった。



 ケージ属性と村からの距離を考慮して、ジ・ルヴェはメタルマイン丘陵にあるもう一つのダンジョン、カトゥリゲス鉱山を目指すことに決めた。セリムは文句も言わずに従った。どうもセルキーに対する印象が良くない彼であるが、何故かジ・ルヴェのことだけは「師匠」と呼んで慕っている。ジ・ルヴェは今までこんな好待遇を受けたことがなかったので、正直微妙に居心地が悪い二人旅だ。
 ジ・ルヴェがパパオパマスのムチをとり、セリムが馬車の横を歩いて有事に備えるといういつもの体制で街道を北に向かっていると、道の横のなだらかな草原で休憩をとっている旅人たちと出くわした。
「あなたたち、もしかしてティパのキャラバン?」
 旅装束のセルキー、ルダ村キャラバンだ。メンバーは三人、声をかけてきたのはリーダーの女性である。
 相手を認めた瞬間、反射的に前に出ようとしたセリムを制し、ジ・ルヴェが軽く頭を下げる。
「そうだ。正式なメンバーはこのセリムで、俺は付き添いだ」
「へえー、よろしくセリムくん。そうだ、ヴィ・レはティパ村で元気にしてる?」
「いつも好き勝手なことを言ってうるさいくらいだ」
 このリーダーとは、ジ・ルヴェが過去に何度かキャラバンに参加した際に出会った。ヴィ・レは昨年ルダキャラバンを抜けて、そのままティパ村に居着いた変わり者の名だ。共通の知り合いを思い出し、リーダーはからからと笑った。
 その時、セリムが割り込んだ。
「あの! この前、キノコの森に行きませんでしたか」
 ジ・ルヴェが「おい」と止める言葉も聞こえないようだ。リーダーはきょとんとする。
「キノコの森? あたしたち、川を渡ってこっちにまっすぐ来たから、今年は寄ってないわよ」
 セリムはがっくり肩を落とす。ジ・ルヴェは彼女の発言を聞いてまた別のことに気を取られた。
「もしかしてこれから鉱山へ行くのか?」
「ううん、ティダの村に行くわよ。新しいミルラの木、見に行こうと思って」
 去年、ティパの先代キャラバンによって発見された木のことだ。ティダの村が滅びてから二十数年、誰一人として到達し得なかった最深部にその木は神々しく生えていたのだという。
「そうか。少し道を綺麗にしてくれると助かる」
「任せてよ」
 セルキーたちの会話を聞きながら、セリムは「いずれ自分もそこに向かうのだろうか」と思った。
 ルダのリーダーはふっと表情を緩めて新人キャラバンを見る。
「本当にあなたの先代はすごかったんだよ。キャラバンみんなの憧れだったんだから」
「それは……よく知っています」
「あの人の引退はもったいないけど、こうやって引き継がれていくのがキャラバンだものね。あの人の思いまでしっかり引き継いでね」
 セリムは黙っていた。ジ・ルヴェは何かを言いかけて諦め、唇を結ぶ。
 無邪気な期待も当人にとっては重くなることもあるのだ。先代が偉大であるほどその重圧は増すだろう。
 だがその時セリムが思い浮かべていたのは、故郷の村で待つある人のことだった。



 セリムがその人を初めて見た場所は、数年前のクリスタル広場だった。
「みなさん、どうぞよろしくお願いします!」
 ミントと言う名の黒髪のクラヴァットはローランの家の親戚であり、肉親を亡くしてマール峠から引っ越してくることになったらしい。そういう説明がなされ、広場での挨拶があって、彼女は新たにティパの村の仲間になった。
 セリムより五つ六つほど年上で、本来ならばあまり深い関わりは生じないはずだった。少なくとも、その翌年になるまでは。
 ミントがやってきてから一年以上経って、セリムの両親は——
「いやあ、まさか彼女が農家を継いでくれるなんてな!」
「小麦も育ててくれるのかしら?」
「なんとしてでも育ててもらおう。タネも技術も提供するんだ。ああ本当に助かるなあ」
 毎晩そんな話で盛り上がっていた。
 セリムの家は粉ひきだった。つまり、小麦がないと粉がひけないし、仕事ができない。だがティパの村には肝心の小麦を育てる農家が存在しなかった。農家はエンジュの実家であり、相次ぐ不幸により事実上機能しなくなっていたのだ。
 需要と供給のバランスが崩壊してから、すでに二十年近く経過していた。その間、彼らは小麦をファム大農場から仕入れたり、自分で育てたりしてほそぼそと仕事を続けていたが、当然往時の生産量には届かなかった。
 そんな中、ミントの働きによってティパ農家が復活する兆しがあるらしい。年齢の近い牛飼いの家のリーゼロッテや漁師の家のジ・ルヴェと協力して、毎日畑を耕し家屋を直しているというのだ。セリムの両親は互いに顔を合わせるたび、興奮気味にミントのことを話していた。
 そして、「その日」が来た。
「ごめんください。どなたかいませんか」
 鈴を転がすような声が粉ひきの家の玄関を叩いた。たまたまその日は他の家族が出払っていため、唯一留守番していた三男坊のセリムが玄関を開けた。
 噂の主、ミントがそこに立っていた。
 眩しい日差しに負けないほどの強い瞳を持った女性だった。衣の裾には湿った土がついているのに、クリスタルのごとく清らかな佇まいだと彼は思った。
 つまりは——ほとんど一目惚れだったのだ。
 ぼんやり彼女へ見惚れるセリムへ、ミントは微笑みかける。
「あなた、セリムくんよね」
「え?」名乗ってもいないのにどうして知っているんだろう、と目を見開く。ミントはふっと表情を崩した。
「早く村に馴染もうと思って、みんなの顔と名前を覚えたのよ。粉ひきと農家だもの、これから仲良くしないとね。よろしく」
「はい……よろしく、お願いします」
 差し伸べられたのは、日にあたためられたやさしい手のひらだった。
 その日以降、セリムは農家へのお使いがあると積極的に引き受けるようになった。ミントはどれだけ忙しくしていても、彼が赴くといつも明るく応対してくれた。その年のシーズンの終わりにほんの少しの小麦が収穫できた時は、セリムも自分のことのように喜んだものだ。
 やがて手紙でキャラバンの帰る時期が知らされると、水かけ祭りの準備がはじまる。セリムはミントと協力していなかパンを焼いた。初めての経験だったが、料理上手のミントの助けもあって満足の行く出来になった。だから、その年の水かけ祭りはとても楽しみにしていたのだ。
 ティパの村ではほとんど英雄のような扱いを受けているシングルキャラバン、エンジュが帰ってきた。彼はいつものように儀式の主役だった。だが宴になればそうではない。機会さえあればミントを踊りに誘えないだろうか、とセリムは淡い期待すら抱いていた。
 そんな夢想はあっさりと打ち砕かれる。彼は、宴のはじまりが村長から宣言された途端、華やかな笑みを浮かべたミントが一目散にエンジュに駆け寄る姿を見てしまった。
「エンジュさん、このパン食べてみて」
「え、これってきみがつくったの……?」
「もとの小麦はね。粉を引いたのも、焼くのを手伝ってくれたのも粉ひきのお家よ」
「それでも十分すごいよ。今すぐ食べる! いただきます!」
 幸せそうに笑い合う二人を見て、さすがのセリムも悟った。あそこに割り込める余地はないと。そもそもミントはエンジュのことが好きで引っ越してきた、という噂を友人である裁縫屋のリルティ、キルス=クックから聞いたのは後日談だ。
 つぼみをつける前に枯れてしまったような恋は、セリムの持つほろ苦い思い出だった。そのわだかまる思いが、数年後エンジュが引退する段になって、セリムをキャラバンの立候補へ動かしたことは間違いない。



「気をつけろよ、セリム」
「はい。今度こそ雫をとってきます」
 セリムはカトゥリゲス鉱山の入り口で師匠のジ・ルヴェと別れた。クリスタルケージはもちろんセリムが持っていき、ジ・ルヴェはここで待機する。この前のような不測の事態があった際に対応しやすいだろう、とマール峠にいたエンジュの知り合いからクリスタルの欠片を借りたのだ。ジ・ルヴェはケージとは別の小さな聖域に守られて、馬車とともにキャラバンの帰りを待つことになった。
 結局、例のセルキーの正体は不明なままだった。ジ・ルヴェはすぐに手紙でエンジュに連絡をとったのだが、エンジュの返事は「ラグナロクなあ。あんまり疲れたから帰りにティダの村に置いてきちゃったのかも」などと曖昧なものだった。
 それに、ジ・ルヴェは気になっていることがある。例のセルキーがショートクリスタルではなく、ミルラの雫を溜めるためのケージを持っていたということだ。誰もその存在を知らないケージがあるとしたら——すなわちこの大陸のどこかには、地図に乗らない村があるということだ。
「行ってきます!」
 セリムは胸を張ってダンジョンに突入した。ジ・ルヴェの抱く疑問には当然彼も思い当たっていたが、いちいち悩むことなく前に進んでいった。まだ余裕があるといえどクリスタルの期限が刻一刻と迫りくる中、ある意味ではクリスタルキャラバンとして正しい姿勢である。
 暗い鉱山の中には、光源として炎の魔物ボムを模したランタンがところどころに揺れていた。セリムは師匠の助言を思い出す。ここはオークの巣窟だ。盾と様々な武器を使いこなし、ゴブリンよりも体が大きく厄介な魔物である。
 縦横無尽に掘られた坑道の中を、かつてリルティの鉱夫が通った足場に沿って進んでいく。旅に出てから気づいたことだが、セリムは地形の把握能力に優れており、その点では一人旅でも問題はなかった。
 襲いくるオークを退け、トロッコを押して道を切り開き、足元に転がるミスリルを拾っては新たな武器防具に思いを馳せる。自分はきっと来年もキャラバンを続けるだろうと思った。そう、意地でも。
 不意に、他より少し明るい部屋にたどりついた。中央にケージ属性を変えるためのホットスポットがあり、光源となっていたのだ。魔物もいなかったので休憩していると、ホットスポットの魔法陣の色が少しだけ薄く見えることに気づく。
(誰かがケージ属性を変えたんだ)
 セリムははっとした。もちろん、鉱山に来る前にもキノコの森の時のようにあらかじめ情報を確認した。直近一ヶ月にここを訪れたキャラバンはおらず、また攻略を計画している隊もなかった。それなのに、何故かごく最近クリスタルケージがここに置かれた形跡がある。
 それが意味するところを知って、彼は不敵な笑みを浮かべた。
(ちょうどいい……もしもあいつがいたら、この前のリベンジだ!)
 うねる坑道の最奥には、かつての鉱夫たちの休憩所がある。そこがダンジョンのボスの居所であり、ミルラの木への最後の障害だ。
 持っていた見取り図から現在地を割り出すと、そろそろたどり着くはずだ。油断なくコウモリを退けつつ歩いていると、道の先から金属音、そして魔物の咆哮が聞こえてきた。セリムは反射的に駆け出した。
 休憩所にたどり着く。一気に天井が高くなる。そこには小山のように大きな体のオーク、そして闇色の大剣を振り回すセルキーが戦いを繰り広げていた。
「ようやく見つけたぞ、盗人!」
 セリムはオークキングを完璧に無視して剣を抜いた。



後編

「もう逃さないぞ!」
 叫ぶと同時にセリムは問答無用で切りかかった。マ・リィはきっちり避けながら悲鳴を上げた。
「ちょ、か弱い女の子にそれはないんじゃない?」
「か弱い女の子は単騎でモルボル倒したりしないだろ!」
「あー、確かにそれはそうね」
 愉快げに笑う彼女に、セリムはまた剣を振り下ろす。マ・リィがのけぞってかわす。小競り合いをしながらも二人は器用にオークキングの間合いから離れた。
「そう怒んないでよ。おみやげにキノコあげたじゃないの」
「ふざけるな。あんな騙し討ちみたいなことしやがって」
「ま、騙したことは否定しないよ。でもね、キミがあそこでモルボルを倒してくれたら、雫は諦めるつもりだったよ? それなのにキミってば途中で倒れちゃったじゃない。むしろあたしは命の恩人だよ」
 セリムは反論できずに一瞬黙る。が、すぐに気を取り直して、
「……今度こそ、ここの雫は僕がとる!」
「その前にオークキング倒してからね!」
 タイミングよく二人の間に巨大な槌が振り下ろされ、セリムは転がって避ける。マ・リィはセルキーの身体能力を駆使し飛び跳ねて回避したようで、ついでにオークキングの腕を切りつけていた。
「その剣、セルキーに全然似合ってないぞ!」
「分かってるけど、人からもらったものなんだよねーこれ」
「うちの先代からだろ?」
「なんだ知ってたんだ」
 二人はオークキングを挟んで対角線上に位置取る。今魔物の注意を惹きつけているのはセルキーの少女だ。
 マ・リィが掲げた黒剣ラグナロクが、ぼうっと赤い光を宿す。
「この剣持ってると、すごく強くなれる気がするんだ。やっぱりあの人のおかげかなあ」
 彼女は薄明かりの下でほくそ笑んだ。表情にも口調にも、どうも雰囲気にそぐわない危険な成分が含まれていた。セリムは違和感を覚える。
「お前、その剣——」
 中途で途切れた声は届かず、黒い魔力をまとった剣がセルキーの手から勢いよく突き出された。暗黒剣と呼ばれる必殺技だ、とセリムは後に知ることになる。使い手の命を削る奥義だとも。
 マ・リィの一撃によって深く傷ついたオークキングはうずくまり、白くまばゆい光を体内に溜め込みはじめる。
「自爆する気だっ」セリムは慌ててケージを拾い上げ、壁に向かって体を反転させたが、
「そんなことさせないよ」マ・リィは逆にオークキングへ剣を振り上げた。
 自爆する前に仕留める気なのだ。万事安全をとるセリムとは対照的な行動である。
 だが、オークの王の方が一足早かった。奮闘むなしく視界がほとんど白に支配される。
(間に合わない——!)
 とっさに引き返してマ・リィの腰を引き寄せた。「ちょっと!?」という抗議の叫びを無視し、反対の腕を前に出して盾を構える。
 休憩所の中を爆風が吹き抜けた。セリムの頭からずきんが脱げてどこかへ飛んでいった。衝撃に対してあらかじめ備えていた彼はなんとか膝をつくだけで済んだが、盾でかばったはずのマ・リィが地面に伏せてしまい、そのまま起き上がらない。剣を握ったまま意識を飛ばしたらしい。
 一応彼女に息があることだけ確かめて、セリムは立ち上がった。
「……今回は僕の勝ちってことでいいよな」
 完全に漁夫の利だけれど。キノコの森で騙された仕返しだ。
 ケージを拾い上げて休憩所の奥へと歩いていく。
 壁で隔てられた小部屋にミルラの木が生えていた。薄暗い洞窟の中でも、青空を思わせる木を見ると心が癒やされる。無事にティパのケージはミルラの雫で満たされた。正真正銘の満杯だ。これで水かけ祭りが行える。はじめての旅が終わる。
「あれ」
 一仕事終えたセリムが休憩所に戻ってくると、マ・リィはいなかった。あちこち探し回って、代わりに母に縫ってもらったずきんを見つけて拾い上げる。ぼろぼろだが、直せば使えるだろう。
 今回のセリムは落ち着いていた。鉱山の入り口では師匠ジ・ルヴェが控えている。マ・リィが通ればさすがに分かるはずだ。彼女の特徴は伝えてあり、エンジュの剣も持っているとなれば見間違えようがない。
 セリムが疲れた足を労ってのんびり入り口へ戻ってくると、待っていたジ・ルヴェは満杯になったケージを見て表情を緩めた。
「よくやったな」
 ぽんと肩を叩かれる。ねぎらいの言葉はそれだけで十分だった。セリムはにこりともせずに奏上した。
「また、あのセルキーに会いました。ここを通りませんでしたか」
 ジ・ルヴェは柳眉を急角度に跳ね上げた。
「何? いや、見ていない。——そうか、俺も確認不足だったが、もしかしてテレポで脱出したんじゃないのか」
 テレポの出口である魔法陣はここから少し離れた場所にあるのだ。それなら目撃されていなくても仕方ない。別の脱出経路があることなんてすっかり頭から抜け落ちていた。セリムはため息をついた。
「ああ、そうだ。やつの持っていた剣、やはり先代からもらったラグナロクだそうです」
 ジ・ルヴェは唇を噛む。
「そうなのか。エンジュの野郎、適当に話を濁しやがって……」
 眉根を寄せたジ・ルヴェはまた先代キャラバンに抗議の手紙を送りつけるのだろう。
「となると、アルフィタリアにも連絡すべきだな。謎のキャラバンがいるってこと」
「すみませんが、お願いします」
 あくまで生真面目に頭を下げるセリムを眺め、ジ・ルヴェは頭を掻く。
「だが、まあ……面倒な話は村に帰ってからでいいだろう。帰ったら、お前のための祭りだ」
「はい」
 セリムはここでやっと、はにかんだ笑みをこぼした。
 ジ・ルヴェも珍しくくつろいだ表情を見せる。この年の離れた後輩には、自然といつもより甘く接してしまうことに気づいていた。



 ひとたび柄を握ればどす黒い殺意がわき、さらには一振りで使用者の生命力すら削る。今までに幾人もの犠牲者を出したという、本物の魔剣。その銘はラグナロク。
「にしても物騒な剣ですよね。なんで先代はそんなものを振り回しても平気だったのでしょうか」
 瘴気ストリームを超え、二人はティパ半島まで帰ってきた。街道にも懐かしい故郷の風が吹いているようだ。いつものように馬車の横を歩くセリムは、唐突にそんな疑問を口にした。
 しかし、頑なにエンジュの名前を呼ぼうとしないあたり、先代キャラバンへの恨みは根深いのかもしれないなとジ・ルヴェは思う。
「理由を聞いたことはないが……あの剣とエンジュは妙に馴染んでいる感じがしたな。そこまで危険な雰囲気はなかった。もちろん、恐ろしく強い剣だとは思ったが」
「そうそう、鉱山で会った時、あの女もなんか様子が変だったんですよね」
「そうなのか」
 もともと口数が多いわけではない男二人の会話は自然と途切れる。しばらくはそれぞれに内容を咀嚼し、セリムはまた別の話題に移った。
「魔物はどうして増えたり減ったりするのでしょうか。ティダの村を攻略するまで、大陸全土で増加傾向にあったと聞きましたが」
「そうだな。去年までは、群れからあぶれたやつが村の近くまで来ることもあった。確かに今年はおとなしい。お前の旅も無事に済んだくらいだから」
「去年までは数が多くて、いきなり減った。それってどういうことなんだろう」
「さあ。繁殖のルールでもあるのかもしれないな」
 魔物の生態など、ジ・ルヴェは真面目に考察する気にはなれない。そういうことはシェラの里の長老にでも任せればいいと思っている。
「そうだ。そもそもティダの村が滅亡したのは、キャラバンがクリスタルの期限に間に合わなかったからですよね。それは……何故なのでしょう」
 ジ・ルヴェはとっさに口を閉ざした。セリムが知っているのかは不明だが、ティダ村の滅亡はエンジュの原点でもある。そこからはじまった様々な悲劇について考えれば、彼自身の兄の最期にも思いを馳せることになる。
 前を見つめたままセリムはとうとうと語る。
「瘴気が発生してからこの長い歴史の中で、村が滅びたことなんて他になかったんです。大きな戦いでキャラバンが一人二人仲間を失うことはあっても、全滅ということはなかった。それはもちろん、何かあった時に誰か一人でも助かるよう、それぞれのキャラバンが戦略を練っていたからですが……まるで、わざと生かされているような気が」
 彼はふと息を呑んで言葉を区切る。
 パパオの行く先——街道の上に、黒い影が見えた。ゴブリンだ。近くのダンジョンからのはみ出し者か。その程度ならたまに遭遇するが、近づくに連れてその全貌が明らかになる。
 魔物は一体だけではなかった。街道上にたむろしているゴブリンが、少なくとも十はいる。足元には黄色い体のプリンもいるようだ。魔物は列をなしてずらりと並び、下手をすれば村の方角へとずっと続いているように見えた。
「……セリム」顔色を変えたジ・ルヴェは馬車を止めた。
「はい」
 新人は緊張した面持ちで腰に下げた剣を抜く。まるでキャラバンの帰りを妨害するかのような魔物の出現。嫌な想像が止められない。
 二人は同時に考えた。ティダの村のキャラバンも、こういう目にあったのかもしれない——と。



 回復の魔石もなく、おまけにパパオパマスを守りながら戦うことは困難を極めた。
 ティパキャラバンは魔物の死体を積み上げながら南進した。もはや何匹倒したのか数えるのは二人とも諦めている。唯一頼りになるのは先代から譲り受けたサンダーリングだが、いかな永久魔石といえど酷使し続ければいつかは壊れるだろう。最初はセリムが景気良く雷を放っていたが、師匠にその危険を指摘され、使う頻度を落とした。
 今しもゴブリンをぶちのめしラケットを振り抜いたジ・ルヴェは、分かれ道の看板を発見した。南は故郷ティパ村、東は——
「リバーベル街道だ。あそこで魔石をとる!」
「了解しましたっ」
 返事するセリムもすでに息が上がっていた。街道にあふれた魔物は小さく弱い種類ばかりだったが、立て続けに相手をすれば当然こちらの体力はみるみる減っていく。魔石の助けがなければなおさらだ。一匹倒せば新たに三匹が目の前に沸いて出るような有様で、二人はほとんど攻撃を避けることに専念している状況である。
 ダンジョンに逃げ込むのは新たなリスクを背負うことでもあった。街道上よりも広い戦場が確保できるが、隠れてやり過ごすことは難しくなる。それでもやはり、魔石だ。ケアルでは消費した体力の回復はできないが、細かな傷を治すことができればまだ命をつなげる。
 それに、この魔物たちは明らかにキャラバンを標的にしていた。これを引き連れたままティパ村に帰ることは憚られる。街道でこの状況となると、当然村のことも心配すべきだが、
(村にはあの先代がいるしどうにでもなるだろ)
 という気持ちがセリムにはあったし、きっとジ・ルヴェもそう思っている。二人きり、補給なしで戦うこちらの方がよほど苦境を迎えているだろう。
 なんとかリバーベル街道の入口までたどり着き、まわりの魔物を蹴散らした。新手が沸いてこないうちに急いでパパオを木立の中に隠した二人は、今年最初の雫をとったダンジョンに再び駆け込んだ。
 ここにも普段より魔物が多くひしめいていた。街道で散々武器を交えたゴブリンに加え、間合いのとり方が鬱陶しいヘッジホッグパイ、ちょこまか動いて攻撃を加えてくるムーという新たな種類が加わった。いつもはピクニックでも楽しめるような穏やかな川沿いの小道であるが、今回ばかりは厄介なダンジョンとして二人の前に立ちふさがる。
 それでもセリムがゴブリンメイジを叩き斬り、ふところから転がり落ちた緑色の魔石を拾い上げた。
「よし、ケアルを頼む!」
「はい!」
 息を整え、魔法を扱うため意識を集中したセリムは、薄目の向こうに視界を真横に突っ切る影を見た。一瞬何かを考えた彼は自分でも師匠でもなく、明後日の方向へと回復魔法を飛ばす。
「!? おいっ」
 さすがにジ・ルヴェが抗議の声を上げた時、彼の前を俊敏な影が通り抜ける。
 なびく明るい緑の髪。クリスタルケージを抱え、見覚えのある黒い剣を携えたセルキーの少女だった。ジ・ルヴェは驚きに目を見開く。キノコの森、カトゥリゲス鉱山、そしてこのリバーベル街道と、一年で何回鉢合わせるのだ。
「あれが例の女か」
 セリムは続けて仲間の身体を癒やしながらうなずく。
「はい。でも、様子がなんだか——」
 こちらに全く気づいていない時点で、明らかにおかしかった。ティパの二人がやや呆然として見守る中、マ・リィは立ちふさがったグリフォン相手に剣を振るう。「暗黒剣……」呟くジ・ルヴェの目の前で、むき出しの彼女の腕に黒い魔力がまとわりつき、ぴしりと血の線が走った。
「おい! マ・リィ!」
 セリムは叫んでケアルを飛ばす。続いてジ・ルヴェが拾った魔石でファイアを放ち、翼を燃やしたグリフォンは悶えた。
 マ・リィは援護するティパの二人など見えていないかのようにふるまっていた。瀕死のグリフォンだけを見据えて深々と剣を突き刺し、絶命させる。
 そのままどこかへ走っていきそうになった彼女へ、セリムがすっ飛んでいき、
「お前、挨拶もなしか!?」すんでのところで腕をつかまえた。
 マ・リィはぼんやりと顔を上げた。浮かべる表情には「キノコ狩りだ」と名乗った時のにこやかさはなく、硬いままで固定されている。
「離して。あたしは行かなくちゃ」
「どこへだよ」
「ミルラの雫、集めないと」
 確かに彼女が持つケージは満杯でない。それは分かっていたが、セリムは語気を強める。
「この状況で奥に行くのか。街道にも魔物がいっぱいなのに、戻れなくなるぞ」
「いや……待て、セリム」ジ・ルヴェが口を挟んだ。
 街道で魔物と戦っていた時から、彼はずっと考えていた。もしや、この異常発生は去年のティダの村における現象と同じなのかもしれない、と。ならば、リバーベル街道のボスを倒せばこの状態が解消する可能性がある。
「ですが……確証はありません」
「少なくとも、ミルラの木にたどり着けば魔物は近寄ってこない。そこで体勢を立て直すことだってできる」
 二人は討論に集中したかったが、またもや魔物が現れ、包囲網を狭めてきた。セリムは思わず叫ぶ。
「もう、一体誰がこんな嫌がらせしてくるんだよっ」
 ジ・ルヴェもまったく同意見だった。
 話を聞いているのかいないのか、マ・リィがすぐさま飛び出して、大剣の一振りで道を切り開いた。そのまま矢のように駆けて壊れた橋を渡り、ダンジョンを奥へ奥へと向かう。男二人は顔を見合わせ、仕方なく追っていった。
 ラグナロクは凄まじい切れ味を存分に発揮し続けていた。だが、もはやセリムは不穏さしか感じない。先行するマ・リィに時折ケアルをかけてやりながら、ボスが潜む滝壺直前にある岩のアーチをくぐり抜けた。
 一足先に決戦の地に到着していたマ・リィの前に、滝から飛び出してきた巨大蟹が地響きを立てて着地した。
「ジャイアントクラブ……!」
 セリムは息を呑む。数ヶ月前に確かに倒したはずのに、こんなにすぐ復活するなんて。魔物などいくら倒しても無駄なのでは、と考えてしまう。
 だいたい、力技でなんとかなる問題ならば、魔物などエンジュが一人で根絶させているはずだ。それができないということは、何か理由が、もしくは原因があるに違いない。魔物の数も、強さも、誰かに調節されているような気すらしてしまう。
 黙りこくってボスを見上げるセリムに、
「これを使え」
 ジ・ルヴェは雷の耐性を持ったアクセサリを放る。ジャイアントクラブは体内に溜め込んだ電気を利用した攻撃が最も厄介である。
「助かります。僕は——前で戦います」
 すでにマ・リィはジャイアントクラブと交戦しはじめていた。
 後輩にうなずいてやりながら、ジ・ルヴェは背後を確認した。だいぶ片付けたとはいえまだまだ街道にもダンジョンにも魔物はあふれていたが——やはり、ここにも迫っている。地中からムーがわき出し、ゴブリンチーフがナイフを掲げて小鬼たちに号令をかける。ジャイアントクラブは年下の二人に任せ、ジ・ルヴェは一人で退路を塞ぐ敵に向き合った。
 敵に有利な氷属性であるブリザドでまとめて相手をしようとするが、その瞬間青い魔石は手の中で砕けた。魔力を消費しすぎてしまったようだ。ラケットの攻撃だけでは殲滅力が低い——
「くっ……」
 マ・リィとセリムは善戦している。だが、このままではボスを倒したとしても、いずれ数で押し切られてしまうだろう。
 いよいよ進退窮まったか、と冷や汗をかく彼は、不意に懐かしい声を聞いた。
「苦戦してるみたいだな、ジ・ルヴェ」
 流星のようなきらめきが入口のアーチの上から降ってくる。否、それは陽の光を受けた剣の輝きだ。
 今しもアーチの下を通り抜けようとしたゴブリンチーフが、脳天から真っ二つに切り下される。
「お前は——」
 信じられない、とジ・ルヴェは目を見開く。
 魔物を一刀の下に屠った「彼」は、慣れた動作で剣を振って魔物の体液を払う。ヘアバンドで留めた赤茶の前髪、その下から覗く瞳が強い光を宿している。
「オレが来たからにはもう大丈夫!」
 彼はいつもの笑顔で明るく言い放った。
 思わぬ助っ人は、ティパ村の先代キャラバンことエンジュであった。



「……あれ、こっちに来るかなあ」
 愛用のラケットを握ったヴィ・レがおっかなびっくり街道の向こうを眺める。
「来ても来なくてもまずいことに違いはないな」
 一昔前に使っていた剣を持ち出してきたエンジュは、軽く屈伸して体の調子を確かめた。
 ティパの村の入り口にある渡し橋から北の方角に、小さな魔物の姿が確認されたのは今朝のことだ。見張りを立てて警戒を続けるうちに、どんどんその数は増えていった。折しも、数日前に「雫を集め終えたキャラバンが帰還中」と連絡が入り、村全体で水かけ祭りの準備に浮き立っている最中だった。
 村人の中でほぼ唯一戦えるメンバーであるエンジュとヴィ・レは、久々にキャラバン時代の服に袖を通していた。村の中にはたまたま滞在していたファム大農場キャラバンもいて、何かあった際に備えて待機してもらっている。
 街道に陣取った魔物たちはしかし、一向に動こうとしない。村に背を向け、キャラバンの到着を待っているようですらある。
 渡し橋の上で遠目にゴブリンを眺めながら、ヴィ・レはうそ寒そうに腕を掻き抱く。
「やな感じだよね、もう……ティダの村を解放したら、あいつら減るんじゃなかったの?」
「さあな。分かんないことだらけだけど、オレはキャラバンを迎えに行かないといけない」
 指ぬきグローブをはめて、エンジュはまっすぐに街道の向こうを見つめる。ヴィ・レはびくりと肩を震わせた。
「ほ、本当に行くの? だってエンジュ……」
「ミントさんにも許可はもらった。体のことは……今は大丈夫だから」
 軽く微笑み、村の方に視線をやる。ちょうど、妻のミントと友人のリーゼロッテが橋までやってきた。他のほとんどの村人は自宅で身の安全を確保している状況だ。村は閑散として、嫌な緊張感で満ちている。
「エンジュさん……気をつけて」
 彼の病気を知っていて、しかし村のためにこうして送り出すしかないミントの心は、今にも張り裂けそうになっていることだろう。しかし彼女は気丈にも不安を表に出さず、微笑すら浮かべて夫の手を握る。
「あなたのことだから大丈夫だとは思いますが、無理は禁物ですよ」
 牛飼いの家のリーゼロッテも珍しく素直に心配そうな声をかけた。
「二人ともありがとう。セリムもジ・ルヴェも無事に連れてくるよ!」
 エンジュはファム大農場キャラバンのケージを借り受けていた。いかに緊急事態とはいえ、本来ならばこのような許可は下りないだろう。しかし、他でもない大陸最高戦力の彼が攻めに転じると知り、ファムキャラバンが預けてくれたのだ。
 二人に別れを告げると、エンジュはゆっくりと聖域の外へ歩いていった。
 ヴィ・レはミントたちと共にその背を最後まで見送って、ラケットを握り直す。万が一に備え、彼女はしばらくここに詰めることになる。ミントは持っていたバスケットを開け、サンドイッチを取り出した。
「これ、ごはんね。怪我だけはしないでね」
「ありがとー。もうめちゃくちゃ憂鬱だけどがんばるよ、ワタシ。ジ・ルヴェもエンジュも、もちろんセリムだってきっとがんばってるものね」
「みんな無事に帰ってきてくれるわ。大丈夫」
 ミントの茶色の瞳がきらりと輝く。いつでもキャラバンの帰りを待ち続けた人の言葉は心強かった。
 ヴィ・レとしてはもうしばらく二人に留まってほしかったが、今のこの場所はあまり非戦闘員が長居できる場所ではない。
「それでは、申し訳ありませんが私たちはこのくらいで」
「何かあったらファムの人たちをすぐ呼ぶから安心してね、ヴィ・レさん」
 ミントたちもそれを分かっていて、何か起きる前にと家に帰っていった。
 サンドイッチを頬張りながら警戒を続けるヴィ・レの後ろ、すなわち村の方向から、再び足音が近づいてくる。また友人が来てくれたのかと思って振り返り——彼女は目を丸くした。
「あれ、きみは……」



「エンジュ!」「エンジュくんっ」「……」
 リバーベル街道最奥に集ったキャラバンたちは、それぞれに助っ人の名を叫んだ。セリムだけは唇を噛んで黙っていたが。
「お前、どうしてここが……」
 ジ・ルヴェがムーの追撃を警戒しながらエンジュのそばに行く。
「やっぱりここであってたんだな。実は村の近くまで魔物が出たんだ。あ、幸い攻め込んでは来なかったよ。それでオレがキャラバンを迎えに来たんだけど、魔物たちが街道からこっちに流れていくみたいに見えてさ、追いかけたら正解だった」
 一言ごとに一体のペースで相手を屠る。見る間に魔物は壊滅状態に追い込まれていく。軽く剣を薙いで最後のゴブリンを打ち倒せば、殲滅完了である。
 かつてジ・ルヴェは二回ほどエンジュとキャラバンを組んだことがあるが、彼の現在の実力を初めて目の当たりにした。昔よりもさらに強くなり、もはや手のつけようがないレベルだった。
 大して疲れた様子もないエンジュはざっと戦場を見渡し、予想外の人物を見つけて驚く。
「ていうかこれ、どういう状況? なんでマ・リラがここに」
 ジ・ルヴェはむっと眉根を寄せる。
「あのセルキー、そんな名前なのか。ラグナロクをあいつに渡したのお前だろ」
 エンジュは図星を指されてへらりと笑う。
「あはは、それは——」
 のんきなやりとりを遮るように、前線を支えるセリムが叫んだ。
「とにかく! 今はジャイアントクラブを倒すのが先です!」
 エンジュは剣を構えて意識を切り替えた。
「セリムの言う通りだ。ジ・ルヴェ、援護よろしく!」
「仕方ないな」と口の端を持ち上げ、ジ・ルヴェは残っていたファイアの魔石を構えた。
 エンジュがジャイアントクラブに向かって走り出した。スピードを保ったままセルキー並みのジャンプ力で跳躍すると、すかさずジ・ルヴェが放った炎が刀身にまとわりついて、魔法剣となる。ファイア剣が大上段から振り下ろされ、ジャイアントクラブの硬い甲羅に深々と傷をつけた。量産レシピの剣なのにラグナロクよりも切れ味があるのでは、と思えてしまう一撃だ。
 黒剣を携えたマ・リラが、着地したエンジュに駆け寄る。
「エンジュくん、あの……」
「マ・リラ、いつの間にかキャラバンになってたんだな。その剣の使い心地はどう?」
「この剣、なんか変なの。魔物もいっぱい寄ってくる気がする」
「え、それって」
「のんきに会話してる場合ですか!?」
 セリムは盾を構えてとっさに二人の前に出た。ジャイアントクラブのハサミが今にも振り下ろされんとされていたのだ。
 だが、セリムの身の丈よりも大きなハサミの一撃だ。まともに盾で受けてしまった瞬間、腕が取れるかと思った。衝撃を受け流すこともできず、彼は球遊びのボールのように弾き飛ばされた。
 全身に広がる鮮烈な痛みを感じながら、(別にわざわざ僕が出なくても、先代がどうにかしてくれたのでは?)と考えてしまった。
 セリムは勢いのままに地面を転がり、聖域の外に出てしまう。四人の戦闘員に対して三つもクリスタルケージがあるという状況なのに、瘴気に放り出される己の不運さを呪った。
「セリム!」
 少年の苦境に対し一番最初に動いたのはマ・リラだった。すぐさま移動して聖域を広げる。
 清浄な空気のもとで深呼吸したセリムは、自分でケアルをかけながら、
(……今、初めて名前呼ばれたのか)
 などと飛びかけた意識の中で考えていた。
「大丈夫?」マ・リラが何故だか妙に心配そうに覗き込んでくる。セリムはのろのろと顔を上げ、
「お、お前、後ろ——」
 マ・リラが振り向く。焦点の定まらぬ魔物の目が二人を貫いた。彼我の距離をジャンプで一気に詰めたジャイアントクラブが、すぐ後ろまで迫っていたのだ。
 振りかぶられるハサミが視界いっぱいに映し出される。セリムはとっさに目をつむった。マ・リラが体を屈めて「ひっ」と息を呑む。
 予期していた衝撃は——ない。代わりに、凄まじい金属音がした。
「エンジュ!」
 今までになく必死なジ・ルヴェの声が響いた。セリムは恐る恐るまぶたを開く。
 二人の目の前には広い背中があった。一瞬だけ安堵するが、オレンジ色の旅装はゆっくりと横倒しになって崩れ落ちた。生命の源である緋色がじわりと流れ、地面に広がっていく。
「……エンジュさん」
 セリムが機械的にその人の名を呼ぶ。
「二人とも、大丈夫だった?」
 力を振り絞って上体を起こしたエンジュは笑顔を浮かべたが、それはすぐに苦痛に歪み、唇の端から血がこぼれた。年若い二人はおののきながらもその光景に釘付けになる。
 エンジュが握ったままの剣は半ばから折れていた。代わりに、ジャイアントクラブの片方のハサミが切り落とされている。相打ち——ではない。戦力的にはこちらのほうがはるかにダメージが大きい。
 血相を変えたジ・ルヴェが敵にファイアを浴びせながら駆け寄り、
「俺が回復する」
 と言って呆然とするセリムから半ば無理やりケアルを受け取った。
「悪いが二人とも、前を支えてくれるか」
 今のジ・ルヴェには反論を許さぬ雰囲気があった。「は、はい」と条件反射で返事しながら、セリムはいい加減ぼろぼろになってきた体に鞭打って立ち上がった。
 マ・リラも剣を手に下げたまま、真っ青な顔でセリムと並び立つ。
「エンジュくん、あたしのせいで……。どうしようセリム」
 彼は苛立ちまぎれに叫ぶ。
「知るか。なんでもいいから僕たちがあの蟹を倒したら終わり、全部解決するんだよっ!」
 乱暴な理論だったが、マ・リラを従わせるには十分だった。
「分かった。やろう!」
 二人でジャイアントクラブに向き直る。マ・リラがラグナロクを正眼に構えた。
「あたしがこの剣でなんとかしてみる」
「……やれるのか?」
 セリムは懸念をにじませる。先ほどまでは剣に操られているようにも見えたのだが。
「今は大丈夫」
 マ・リラは確かにうなずいた。セリムは軽く息を吐く。
「なら、信じるからな。僕が切り込む。後は任せたっ」
 宣言と同時に駆け出す。ジャイアントクラブは口元から雷を放ってキャラバンを迎え撃った。サンダラと同レベルの電撃だ。しかし、クリスタルケージの属性とジ・ルヴェから借り受けた耐性防具のおかげで、セリムはしびれを気にすることなく走り抜けることができる。
「いっくよぉ!」
 続いてマ・リラが飛び出した。あろうことか、敵の攻撃をかわすためにしゃがんだセリムの背中を踏み台にしてジャンプする。「あっこのっ」という文句も聞き流し、高く高く飛び上がって黒剣を振りかぶった。高所から落ちる勢いを利用して刀身を叩きつけ、足りない腕力を補強しようというのだ。ジャイアントクラブは攻撃をガードするかのように、残ったハサミを前にかざす。マ・リラのラグナロクはそこに突き刺さった。
 このハサミさえ貫通できれば、相手の弱点部である本体の甲羅の継ぎ目はすぐそこだった。マ・リラは錆びた武器が多数突き刺さったハサミの上に踏ん張り、渾身の力を込める。
「僕も手伝うっ」
 セリムもハサミに這い上がり、マ・リラの手の上からラグナロクの柄を掴んだ。無我夢中で押し込む。ここからはジャイアントクラブとの純粋な力比べだ。
 その時、彼は初めて触れたラグナロクから引き込まれるような「力」を感じた。なるほどこれがマ・リラをおかしくしていたのか、と即座に納得できるほどに強力な力だった。
 呪いというよりも、この剣の根本にあるのは絶対的な強さだ。持っているだけで自分が大幅にステップアップしたような万能感が得られる。エンジュと相性が良いのは、彼が剣の強さと釣り合う実力を持っていたからだろう。半端な使い手では、逆に剣に「使われて」しまう。使い手を選ぶというのはそういうことだ。
(なら僕は別にこんな剣、いらないな)
 セリムがそう結論づけた時、二人分の体重をかけられたラグナロクがハサミを貫き、その奥の本体に突き刺さった——
「やった!」「きゃあっ」
 喜んだ瞬間、暴れだしたジャイアントクラブに跳ね飛ばされる。二人はラグナロクを手放し、なんとか地面に着地した。
 倒れたエンジュをかばうジ・ルヴェに、剣を失ったマ・リラ、疲労でボロボロのセリム。これ以上戦闘は継続できそうになかった。
 はらはらしながら三対の目が見守る中、ジャイアントクラブは滝壺に退散していく。突き刺さったラグナロクとともに。
「あ、剣が……」名残惜しそうにするマ・リラに、
「もういいだろあんな物騒な剣」
 とセリムは吐き捨てた。あのまま水にさらされ続ければ、いつか錆びて使えなくなるだろう。溜め込んだ呪いとやらも雲散霧消してもらいたいものだ。セリムはぐったりして地面に座り込む。
 反対にマ・リラはぴょこんと立ち上がると、
「そうだ、エンジュくん!」
 跳ねるように駆けていった。
(僕だって手伝ったり助けたりしたのに、何もないのかよ)とセリムはむすっとした。
 マ・リラはジ・ルヴェが介抱するエンジュのそばにかがみ込む。エンジュはまぶたを閉ざしたままだ。
「エンジュくん、大丈夫……?」
 ジ・ルヴェは怪我の具合を確認しながら、
「傷は塞いだ。まあ、あとはなんとかなるだろう。こいつ阿呆みたいに頑丈だし」
「誰が阿呆だって」
 タイミングよく目覚めたエンジュが「いてて」とつぶやきつつ体を起こす。
 背中を支えるジ・ルヴェと、心配そうなマ・リラ、そしてゆっくり近寄ってくるセリムを、エンジュは順番に見やる。
「助けに来たのに結局心配させちゃったな。マルチは慣れてないからなーオレ。そうだ、他の魔物は?」
「とりあえず、近くには見当たらないけど……」
 マ・リラの言うとおりだった。ジ・ルヴェの立てた仮説——ボスを撃破すれば魔物は退く——が当たったのだろうか。
 もしかすると、各ダンジョンのボスを定期的に倒しておかないと、無限に魔物が増え続けるのかもしれないとセリムは考える。だが、リバーベル街道は今年一番最初に彼と師匠が訪れた場所だったのに……
「さて。この女とどういう関係なのか聞いておこうか、エンジュ」
 ジ・ルヴェの冷たい声が思考を遮った。彼は近くにいたマ・リラの首根っこを捕まえ、エンジュの前に突き出していた。
 セリムも白い眼差しを渦中の二人に向ける。エンジュは観念したように肩をすくめた。
「あのこと、話してもいいかな?」
「いや、あたしから話すよ」
 マ・リラが口を開いた。そして語られた真実は、ジ・ルヴェたちに衝撃を広げていった。
 この大陸には、ほとんどの人々が存在すら知らない村がある。数年前にエンジュが街道で魔物に襲われた際、たまたまマ・リラが通りかかって助け、一時その村で過ごした。二人はその時に知り合ったのだ。
「本当にそんな村があるのか……?」
 ジ・ルヴェは懐疑的だった。食料も物資も、基本的に一つの村では供給が追いつかないものだ。それに、いくら村内で自給自足していても、必ず誰かがキャラバンに出なければならない。街道を歩くなら他の旅人と顔を合わせるリスクは高く、存在を秘匿するにも限度があるのではないか。
 一方で、セリムの感想はずいぶん異なっていた。
「その話が嘘でもなんでもいいけど、頼むから他のキャラバンの迷惑にならない旅程を立ててくれないか? 今年はお前のおかげで雫を取る予定がぐちゃぐちゃだったんだよ」
 マ・リラはびっくりしたように目を丸くする。
「え? あ、そうだね、ごめん。悪かったよ」
 どうやらセリムは名も無き村の存否など本気で興味が無いらしい。エンジュとジ・ルヴェは顔を見合わせた。
 マ・リラは立ち上がり、衣の埃をはたいた。
「あたし、雫とって村に帰る。本当はティパの村の人にも謝りたいけど、ちょっとそれはできなくて……」
 エンジュが首を振る。
「いいよ別に。早く自分の村に帰って、水かけ祭りをやるんだ。帰り道は気をつけて」
 そう言いながら少女の頭を軽く撫でると、
「うん!」
 マ・リラは笑顔でうなずいた。
 そして彼女は、どこか居心地悪そうにしていたセリムへと近寄る。
「あのね、あたし本当はマ・リラっていうの」
 セリムはうさんくさそうな顔をした。
「偽名と大して変わらないじゃないか」
「とっさにそれしか思いつかなかったんだもの。ま、今年はいろいろ迷惑かけたかも。ごめんね?」
「もういいよ」
 邪険に手をふりかけて、セリムはふと思い立ったように尋ねる。
「そうだ、僕は来年もキャラバンを続ける。お前は?」
 マ・リラはぱっと顔を輝かせた。
「……あたしもやるよ。それで、もうちょっとマシなキャラバンになる」
「そうか」
「うん。それじゃあね、ティパの皆様。ばいばーい!」
 マ・リラは跳ねるように駆けてミルラの木の方角へと向かっていく。恐ろしく元気だ。
 ティパの一行は、のんびりリバーベル街道を戻っていった。あれだけあふれていた魔物もすべて消え失せ、平和そのものだ。
 先輩であるエンジュとジ・ルヴェが前を歩き、今後の予定をぼそぼそと話し合っている。セリムは疲れた体を引きずるようにして後ろからついていったが、不意にエンジュが振り向いた。
「そうそう、前から聞きたかったんだけど、セリムはどうしてキャラバンに入ったんだ」
 セリムの視線は地面に落ちかける。
「それは……」
 が、数瞬ののちにキッと顔を上げた。
「それは、キャラバンが辛いだけのものじゃないって、証明したかったんです。自分で体験してみたかったんです」
 エンジュが打ち立てたシングルキャラバンの栄光。それは素晴らしいものだけれど、セリムは「キャラバンとはそういうものじゃないだろう」とずっと思っていた。例えば、時折村にやってくる他のキャラバンは、歴戦の戦士であろうと必ず複数で行動していた。彼らはエンジュとは違う論理によって動いているように見えたのだ。
 とてつもない才能を持った人物でなくても、仲間がいるからこそ助け合って、旅ができる。彼の信じるキャラバンはそういうものだった。だいたい、数十年に一度レベルの才能があの狭いティパ村に連続で生まれてくるはずなどないのだ。今までだって、キャラバンは英雄ばかりを構成員として続いてきたわけではなかった。自分のような凡人であろうと、クリスタルクロニクルに名前を残すことができる。村の人にもそれが知れ渡っていけば、きっと人が、仲間が戻ってくるはずだ、と考えた。
 そして何よりも、キャラバンはミントを苦しめるだけのものではないと思いたかったのだ。エンジュが引退するまでの最後の数年間、彼女はつらそうな顔ばかりしていた。だから、安心して送り出せて、帰りを素直に信じられるような、そういうキャラバンになりたかった。
 セリムはそこまで語ったわけではない。だが思いの一端は伝わったのだろう、エンジュは足を止めて微笑んだ。
「そっか。偉いなあ。セリムはオレの立派な後輩だよ」
 彼はそっと後輩の頭に手を置いた。
「!」
 セリムは慌てて身を離す。エンジュはさすがにショックを受けた様子で、
「あ、あれ、えーと」ともごもごつぶやいている。
「そういうのは、もっと他の人にやってあげてください」
「他の人って?」
「例えば……あなたの家族とかですよ」
 頭をなでられそうになったその刹那、セリムは悟ったのだ。自分がこうやってエンジュと親しく接していることを、いつか彼の家族に羨ましがられる日が来るのだと。エンジュの限られた残りの時間を共に過ごすべき人は決まっていて、それは自分ではない。
 きょとんとしていたエンジュは「家族」という言葉を自分で繰り返してから、破顔した。ジ・ルヴェはその横で「仕方ない後輩だ」と言わんばかりの苦笑を浮かべている。
「それもそうだな。でもありがとう、セリム!」
 どういたしまして、と小さくつぶやくその横顔は、暮れてきた日差しに照らされほんのり暖色に染まっていた。



「エンジュさん!」
 渡し橋を越えてティパの村に帰ってきたキャラバンを見つけ、出迎えの人々の輪から抜け出したミントが真っ先に駆け寄っていく。農家の夫婦は人目もはばからず抱きしめあった。
「ミントさん、そこ怪我したところ……」エンジュが顔をしかめると、
「えっ怪我したの? もう、ジ・ルヴェが不甲斐ないからでしょ」
「おい」
 不本意な扱いを受けたジ・ルヴェがむくれていると、ヴィ・レがやってきた。
「村の方はなんともなかったよ。いきなり魔物が退きはじめたから何事かと思った」
「リバーベル街道でジャイアントクラブを倒したら魔物が消えた。多分、去年のティダの村と同じ現象だろう。
 お前は一人で見張りしてたのか?」
「いいや、この子も一緒だったよ」
 ヴィ・レの後ろから出てきたのはリルティの男の子だ。彼は今年唯一のキャラバン正式メンバーへと突進する。
「セリム、お前やったなあ!」
「あっキルス! 来るのが遅い」
 セリムは相好を崩し、リルティとこぶしをぶつけ合う。そうすると、背伸びした生真面目さが抜けてぐっと年相応に見えた。
「なんだよ。来てやっただけでもありがたいと思え」裁縫屋のキルス=クックは頬をふくらませた。
「今年家の調整がつかなくてキャラバンに入れなかったのは誰なんだよ」
「年中暇人の粉ひきの家とは違うからなー」
「お前、うちの兄貴の前でそれ言ってみろよ?」
 同年代の二人は歯切れのよいやりとりをしている。ヴィ・レはその様子を見てにこりとした。
「来年のキャラバンはもう心配ないね」
「そうかもな」
 ジ・ルヴェは少しだけ口の端を持ち上げた。
 続いて、セリムは自分の家族に囲まれた。両親は街道で魔物に襲われた彼のことを大いに心配していたようで、セリムはもみくちゃにされた。無事に満杯にしたケージを見せてやると二人の兄が唸る。少しいい気分だった。
 そして、最後に——セリムの前に、ミントがやってくる。ショートヘアの黒髪も、優しい茶色の瞳も、初めて会った頃と少しも変わっていない。セリムの鼓動は早まった。
「おかえりなさい、セリムくん。お祭りの準備もすぐに整うわ。うちで焼いたパン、たくさん食べてね」
「……はい!」
 セリムはこの年で一番の笑顔を浮かべた。
 一年前、彼の目の前には二つの道が伸びていた。一つは、困り果てる村長ローランなど見て見ぬふりをして実家の手伝いに専念する道。もう一つは、最強のシングルプレイヤーの後を引き継ぐという、困難であることが分かりきっている道。彼が他の誰もやりたがらないであろう後者を選んだのは、もちろんミントの存在があったからだが、何よりも彼自身が自分の可能性を見極めたかったからかもしれない——セリムはそう考えながら、集めたミルラの雫がクリスタルを浄化していく例年通りの儀式を、主役の立場で眺めた。その胸には密やかな達成感が満ちていた。
 だから、選んだ道の途中で突然謎のセルキーに出会うことも、今となっては悪くない思い出だろう。
 ——やがて彼の所属するキャラバンは、ティパ村の歴史の中でも最大級の人数を集めた。彼はリーダーとして誰一人脱落させることなく無事に務めを終えた。
 彼の代は、ティパの村に安定と平穏をもたらしたと人々の記憶に刻まれている。いつも連絡を絶やさず旅を進めて、必ず期限内に雫を持ち帰った。エンジュが毎年何らかの騒動を起こして村人を振り回したのとは大違いの、穏やかな旅路だった。そもそも一年目を除いて大きなイレギュラーなど発生しなかった。
 しかし、祭りの場でも決して読み上げられないクリスタルクロニクルの一部には、街道やダンジョンで時たま出くわしては衝突を繰り返す身軽なセルキーの娘がいて、キャラバンの旅に小さな波紋を広げたと記されていた。

inserted by FC2 system