The Day Will Come



 ほの白い花びらが舞っていた。
 暮れ行く太陽に向かって、歩いていく四人組がいる。金の髪のセルキーの女、青い衣のユークの男、赤いマスクを頭に締めたリルティの女、そして——白いクリスタルケージを持った、クラヴァットの男だ。
 ブレンダはすれ違いざま、彼の持つケージをちらりと見た。何だろう、あの色は。見たことのない属性を宿しているようだが。
 そこから徐々に目線を上げていく。すれ違ったのは一瞬の出来事だったけれど、記憶の中ならいくらでも時間を引き伸ばせる。
 吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳が、夕焼けの茜色を反射していた。静かで希望に満ちた目だ。
 夢の輪郭はどこか曖昧で、印象的なその双眸ばかりが思い出される。おまけに、あの日見なかったはずの無数の花びらが降り注ぎ、遠ざかる彼を隠した。
「——」
 ブレンダは唇を動かし、ファム大農場ですれ違った時は知らなかった、その人の名前を呟いた。世界で一番憎たらしいオトコの名前を。
「……ブレンダ! そろそろ起きなさい!」
 馬車のカーテンの向こうから、相棒ウィチ・カの声が届いて、ブレンダはもぞもぞと体を動かした。
 荷台の床には、カーテンの隙間から入り込んだ花びらが散っている。夢に出てきたのはこれだったのか。道すがら何度も目撃した、木の枝を飾って満開に咲いたあの花だろう。
 瘴気が晴れてから、しばらく寒い日が続いた。今までにない気温の低下に、故郷の村に帰っていたブレンダたちは、服の上に毛布を重ねて耐えていた。だが、村を出発してからしばらくすると、急に暖かくなった。草の芽が膨らみ、あたりは穏やかな緑に支配されていった。
 もう意味をなさなくなった瘴気ストリームを通り抜けた先、ティパの村へと向かう街道は、花盛りだった。来る日も来る日も木に咲く白い花を見かけた。大歓迎を受けてるみたいね、とウィチ・カがうきうきしていたのを思い出す。
 寝転んだままでいると、馬車の振動が止まった。御者台と荷台を仕切るカーテンが、シャッと音を立ててめくられた。
「ちょっと。いくら億劫だからって、いい加減にしてよね。そもそもティパに行くって決めたのは、あんたじゃないの!」
 ウィチ・カの叱責を受け、仕方なく起き上がる。そのまま不機嫌に押し黙っていると、
「……そんなにその人に会うのが怖いの?」からかうような台詞が投げられた。
「怖くなんかないよ。ただ、ムカつくの。あの間抜け面を殴ってやりたい。謝らせたい、土下座させたい」
「冗談を言う余裕はあるのね。ならさっさと起きる。もうすぐ村に着くよ」
 ぼんやりと手ぐしで整えられたブレンダの暗い色の髪に、花びらが貼りついた。
 季節は春を迎えようとしていた。



「それじゃ……行ってくるね」
 ティパ村の入り口でブレンダは馬車から降り、相棒を振り返った。両肩を張り、全身には決意が充ち満ちている。
 ウィチ・カは大きく頷いた。
「うん。わたしのことはいいから、存分に話し込んで来なさい」
 それを聞いたブレンダは微笑み、ゆっくりと去って行った。
 彼女と別れたウィチ・カは、パパオをそのあたりに繋いで、村の中をぶらぶら散歩しはじめた。
 ここはなんて豊かな土地なのだろう。ゆるやかな坂道、水はけの良さそうな土。どこからともなくベル川のせせらぎが聞こえ、あたり一面に緑がすくすくと育っている。
(うちの村とは大違いだな)
 ウィチ・カは苦い気分になった。少し前、ティパ村への強いコンプレックスに悩まされていた頃なら、「この場所こそブレンダにふさわしい」と確信を深めていただろう。
 何軒か立ち並ぶ商店を通り過ぎた先に、クリスタルを見つける。そのまわりは広場になっていた。きっとここで、毎年水かけ祭りが行われていたのだろう。クリスタルの表面では、陽光が幾千もの粒に砕けて、きらきらと輝いていた。
 ウィチ・カは神聖な結晶に近寄った。故郷のものよりふた周りほど大きい。アルフィタリアのクリスタルを見た時も驚いたが、今回はなんだか別の感慨が湧いてきた。
 様々な種族がひとところに暮らす村——そのくくりは同じはずなのに、ティパと故郷とで、どうしてこんなにも差がついてしまったのだろう。
「こんにちは」
 不意打ちで、声をかけられた。びくっとして振り返ると、亜麻色の髪を肩の長さで切りそろえたクラヴァットの少女がいた。
「キャラバンさんですか? ……あ、違った。旅人さんですか」
 彼女は可愛らしい笑い声を立てた。瘴気が晴れてクリスタルキャラバン自体が必要なくなったが、そんな新たな世界に慣れていないのはウィチ・カも同じだ。
「元キャラバンの、旅人かな」ウィチ・カもつられて微笑む。「あなたはティパの人よね」
「はい。粉ひきの娘のアリシアです。旅人さんは——」
「ウィチ・カ。メタルマイン丘陵の方から来たの。友だちの付き添いでね」
 今頃ブレンダは、例のオトコに会うために農家を訪ねているはずだ。
 アリシアは彼女の前を横切って、クリスタルの台座に座った。なんとなく、ウィチ・カも隣に腰掛ける。
「お話ししていきませんか、ウィチ・カさん」
「いいわよ。でも、何を話そうかしら」
 アリシアは目元を柔らげる。
「こんな世界になったでしょう。私、一度は村の外に出てみたいんです。キャラバンという形じゃなくて、ごく普通に旅をしてみたい。親にはきっと心配されるから、まだ言い出せてないけど……。だから参考として、いろんな人の話を聞きたくて」
 なるほど。こうやって徐々に、人々の考えは変わって行くのだ。ミルラの雫を目的としない旅行など、今まではほとんどあり得なかった。
 これも全て、ティパのキャラバンが成し遂げた変革だ。「瘴気が消えた」と聞いた時の、目の前が明るく開けていくような感覚を、ウィチ・カは一生忘れないだろう。やがて瘴気のない世界が当たり前になったとしても——
「そもそも、ウィチ・カさんはどうして旅に出たんですか」
 アリシアが質問する。
「うちの村は若者が少なかったから、ほとんど強制的にキャラバンになったの。あ、でも、友だちを誘ったのはわたしだった……」
 彼女はふうっと過去に意識を飛ばした。
 ——何年も前の話だ。故郷の村で先代のキャラバンが引退した時、後継者としてふさわしい年齢かつ未婚であったのは、ウィチ・カたちだけだった。当然のように、彼女は率先して手を挙げた。
「ウィチ・カちゃん、本当にキャラバンになるの?」
 当時のブレンダは、旅に出ようとする彼女に対して、明らかに不満を抱いていた。
「当たり前よ。わたしも早くみんなみたいに外に出て、旦那様を見つけないと」
 あの頃のウィチ・カは必要以上に村の使命に囚われていた。極端に人口の少ない村において、配偶者を外で見つけることは、雫の次に大事なキャラバンの目的となる。それにプラスしても、新たな出会いは魅力的だった。
 しかし彼女がいくら熱心に説いても、ブレンダは微妙な顔をしている。
「もうちょっと後でもいいんじゃない? 私たち、まだまだ子供なんだよ。外はきっと危ないよ」
「それでも行くの。わたし、外の世界を見てみたいのよ!」
 ウィチ・カは一歩も村の外に出たことがなく、おまけに年がら年中畑ばかり耕していたため、聖域外への憧れが人一倍強かった。初めてブレンダという同年代の友だちを得て、より一層その思いは強くなった。
 ブレンダは胸の前で指を組んだ。
「……分かった。だったら私も一緒に行く」
 ウィチ・カは目を見開いた。
「あんたが?」
「うん」
 ブレンダは苛烈な性格のくせに、虫ですら潰すことを厭う。生き物の命を奪いたくないのだ。今思えば、ティパ時代の医者の勉強が関係しているのだろう。……そんな彼女が、キャラバンに入って魔物を屠ることを決意するなんて。
 さらに村の外では、昔の知り合いに出くわす可能性だってある。それはブレンダにとって避けたいことだったに違いない。それでも彼女はあえて、外に出ることを選んだ。
 ウィチ・カは腕組みして、やっと唇を開いた。
「……勝手にしなよ」
 その言葉を聞き、ブレンダは安心したように息を吐いていた。
 今ならはっきりと分かる。相棒をキャラバンに巻き込んで運命を変えてしまったのは、ウィチ・カだった。
 いつか、ブレンダはウィチ・カのそばから離れて、自分自身の道を歩めるのだろうか——
「あ」
 ウィチ・カが一人で回想にのめり込んでいると、突然アリシアがパッと顔を上げた。そのまま何も言わず、走って行く。
 あっけにとられて見送れば、温の民の少女は広場の向こうで立ち止まり、友だちと話し始めたようだ。
「どうしたの、こんなところで」「ああ、ユリシーズさんのお家に行ってたの」
 会話が漏れ聞こえる。相手の声はあまり届かなかったが、アリシアは嬉しそうだ。
「それじゃあね、ハルト」
 最後に彼女はそう結んだ。相手は立ち去ったらしい。ウィチ・カはゆっくりとアリシアに近づく。
「さっきの人、友だち?」
「うん……」
 彼女は頬を染めている。どうやら相手は男性のようだ。それにしても「ハルト」とは、どこかで聞いた覚えのある名前だ。
「あ!」
 雷のように閃くものがあって、ウィチ・カは声を上げた。アリシアがぽかんと口を開けている。
 ハルトは——まさしくブレンダの探している人だ! でも、どうして外を歩いていたのだろう。
(もしかしてブレンダ……すれ違った?)



「えぇ? 留守なんですか」
 ブレンダは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「ごめんな。お客さんが来るって分かってたら、おつかいには出さなかったんだけど」
 訪問先の農家から出てきたのは、ラケタという青年だった。この前ティパに来た時に会話を交わした母ミントや姉クラリスではなく、見知らぬオトコが顔を出したので、ブレンダはムカムカしている。
 ちなみにウィチ・カにも「どうしてあらかじめ手紙を書かないのか」「突然訪問したら失礼ではないか」と問い詰められたが、「いきなり行って、相手を死ぬほど驚かせたくて」とブレンダは弁明していた。
 ラケタは見るからにつっけんどんな態度の彼女にも、マイペースに対応する。
「あいつはユリスの家——ええと、牛飼いの家に行ってるよ。場所、分かるか?」
「それくらい分かります。それじゃっ」
 きっぱり言い切ると、彼女はその場から足早に立ち去った。ラケタはかすかに首をかしげて、華奢な背中を見送る。
 緑陰の中をずんずん進みながら、ブレンダは我知らず息を吐いていた。肩透かしを食らったことで、緊張がとけたらしい。憎たらしいオトコと会う——ただそれだけで体がガチガチになっていた。うんざりするような事実だった。
 ラケタの前では見栄を張ったけれど、実を言うと牛飼いの家なんて全く知らない。とりあえず、村の中でも行ったことのない方角に足を向けた。
 そういえば以前、相棒にこう尋ねられたことがあった……と思い出す。
「ブレンダはその人——ハルトのこと、結局どう思ってるのよ?」
 その時自分は何と答えたのだったか。世界で一番ムカつく奴。いつか報復すべきオトコ。そんな言葉で表現できているのだろうか。もしかしたら、もっと違う——
 ブレンダはいつしか立ち止まり、うるさく鳴り続ける胸の鼓動に耳を澄ませていた。



「それじゃ、またな」
 ユリシーズはそう言って、ぺこりと頭を下げる少年を見送った。風が吹き、遠ざかる大地色の髪を何枚かの花びらが追い越していく。
 振っていた手を仮面まで持って行き、そのままなでる。ユークの青年は何やら考え込んでいるようだった。
 錬金術士の家の方角から、金の髪のセルキーが歩いてきた。
「ユリス。ハルトくんとお話してたの?」
 ペネ・ロペだった。
「ああ。軽く相談事をな。……なかなか重症らしい」
 ユリシーズは薄緑のスカーフを触り、ため息をついた。
「あいつの悩みは、仲間の俺たちでも解決できないのかもな……」
 ペネ・ロペは、がっくりと落ちた彼の肩をさすった。
「そうねえ……。でも、ハルトくんが前に進むためのお手伝いなら、きっとあたしたちにもできるよ」
 彼女は人差し指を唇にあてて、天空のキャンバスに何かのアイデアを描いていた。
 そこに、暗い色の髪の毛をなびかせた温の民の少女が近寄ってきた。ブレンダだ。
 彼女は佇む二人に強い視線を送った。
「あの。牛飼いの家って、ここですか」
「そうだけど」
 ユリシーズが簡潔に答えると、ブレンダは唇を歪めてペネ・ロペの方を見た。例えユークであろうと、オトコはオトコだ。あまり会話したくない。
「ハルトって人が、ここに来ませんでしたか」
 ペネ・ロペは一瞬恋人を確認してから、
「さっきまでいたけど、また用事があるって行っちゃったわ」
 それを聞いて、ブレンダは明らかに落胆した。よくよく見れば、この二人はファム大農場ですれ違った四人の中にいた気がする。ということは、元キャラバンか。誰がリーダーだったのだろう。
 いかにも穏やかで、一見リーダーとは思えない元リーダーのペネ・ロペは、にこやかに質問した。
「ハルトくんに、何か用?」
「はい。私は、あいつに正義の鉄槌を下しに来たんです」
 物騒なことを言い放つと、ブレンダはさっと身を翻した。
「せ、正義の」「鉄槌……?」
 後には呆然とする二人が取り残された。



 あてどもなくティパの道を歩いて行くブレンダは、その途中でたまたま知り合いの少女に出会った。
「あ、ブレンダだ」
 アリシアだった。以前この村を訪れた時、身の上話を聞いてもらった子だ。ブレンダが探していたオトコの名前も、彼女に教えてもらった。
 温厚な少女は屈託なく笑う。
「もしかして、ウィチ・カの友だちってブレンダのこと?」
「ウィチ・カちゃんに会ったの!」
「うん。しばらくお話ししたよ。そのあたりを見てくるって、どこかに行っちゃったけど」
 うっかり気持ちがウィチ・カに傾きかけたが、ブレンダは首を振った。それよりも今は、例のオトコの方だ。
「ねえ、ハルト見なかった?」
「ハルトは商人の家に行くって言ってたよ」
「商人の家か」
 その場所なら知っている。村の入り口からまっすぐ行った、ヒルデガルドの実家だ。即行で足を向けようとしたところで、彼女ははたと気づく。
「……これ、またすれ違っちゃう奴だ」
 二度同じ間違いは繰り返さない。これ以上あのオトコに振り回されてたまるか。ブレンダはUターンし、確実に彼が帰ってくる場所——農家へとって返す。
 アリシアは去りかけた背中に声をかけた。
「ブレンダは、ハルトに文句を言いに来たんだよね」
「……そうだけど」
 足を止め、不機嫌そうに振り返るブレンダ。花びらの吹雪に包まれて、アリシアは不思議な笑みを浮かべていた。日差しが眩しいような、泣きそうな顔だ。
「なんだか新鮮な気分。今まで、ハルトに真正面からそういうことを言ってあげられる人がいなかったから」
 ブレンダは数度瞬きする。
「甘やかされて育ったってこと?」
「そうじゃないけど……ハルト自身を見てあげられる人が、いなかったの」
 言っている意味がよく分からない。首をひねっていると、アリシアはとんとん彼女の肩を叩いた。
「ふふ。ハルトと仲良くしてあげてね」
「それは、無理かなあ……」
 ブレンダは肩をすくめた。
「だって約束を破ったのはあいつの方だもん」
 今でもあの時の屈辱ははっきりと思い出せる。みるみる眉毛を釣り上げる彼女の前で、アリシアはしばらく何かを考え込むようにうつむいていたが、やがて頭を上げた。
「ハルトが崖から落ちたのは、本当に偶然だったのかな」
「え?」
 一体何を言い出すのだろう。とっさに二の句が継げない彼女へ、アリシアは続ける。
「私もあの日、あの場所にいたの。ハルトとカム・ラと一緒に、魔石転がしをしてたんだ。でも急に風が吹いて、魔石が転がって行って……拾おうとしたハルトが足を滑らせて、崖から落ちちゃったの。
 そうだ。あそこで魔石転がしをしようって言ったのは、ハルトだった。いくら子供でも、あんな崖っぷちで遊ぶのは危ないって分かったはずなのに……どうしてあの日に限ってあそこを選んだんだろう。
 それは、もしかして——」
 ブレンダは、飲み込まれた台詞の続きを察してしまった。
 あの事故が偶然じゃないとすれば、ハルトは故意に落ちたことになる。
 それはすなわち、ブレンダとの約束を自ら放棄したことに他ならない。



 ブレンダは農家の入り口で、後ろ向きの看板とにらめっこしていた。
 文字を読みたいわけではない。彼女はここでハルトを待ち構えるつもりだった。それなら胸を張って待っていればいいのに、目線は看板に注がれたまま。異様に全身が緊張していた。
「こんにちは」
 後ろから声をかけられた。ブレンダはぎょっとして肩を揺らし、振り返る。
 真っ黒な瞳と目があった。心臓を鷲掴みにされたように、胸のあたりが苦しくなる。ずっと昔、闇の中で差し伸べられた手を思い出した。あの手を取った感覚も。
 声だって大人のものに変わったはずなのに、柔らかさはそのままだ。どきりとするほど鮮やかに、あの夜の記憶が蘇る。
 それと同時に、「本当は自ら海に落ちたのではないか」という疑問がわき上がってきた。
「うちに、何か用?」
 にこやかに笑うその少年へ、ブレンダは混乱しきった頭が命じるままに、体を動かした。
 すかさず繰り出された強烈なパンチが、彼の腹をえぐった。少年は「うっ」と呻いて崩れ落ちた。
 ——最悪の対面だった。





「ははは。女に殴られて気を失うなんて、ハルトもまだまだだなあ」
 事情を聞いた農家の長女クラリスは、からりと笑った。
「本当に、うちのブレンダがご迷惑をおかけしました……」
 そんな彼女へ、ウィチ・カはぺこぺこ平謝りしている。
 地面に転がったハルトと、その前で呆然としていたブレンダを見つけたのは、ウィチ・カだった。彼女はしどろもどろのブレンダから事情を聴きだすと、自らハルトを背負って農家に駆け込んだ。
 ウィチ・カはキッとまなじりを決して、
「ほら、あんたも謝るの!」
「……ごめんなさい」
 ハルトを昏倒させた張本人は、あまり誠意の感じられない態度で頭を下げた。
 身を焼くような羞恥心のせいで、ウィチ・カの舌はなめらかに動く。
「どうも、ブレンダはお宅の息子さんに因縁を感じているみたいで。自分でここに来るって決めたくせに、直前になって嫌がってました。要するに、彼のことを意識してるんです」
「してないよ、あんな奴どうでもいいし!」
 ブレンダは即座に否定した。腹の立つ笑顔を浮かべていたハルトを思い出す。あっさり意識を飛ばした彼は今、義兄のラケタに隣の部屋で診られているらしい。医者の卵のブレンダからすれば、力も角度も当てどころも完璧にコントロールしたパンチを食らわせたつもりなので、後遺症なんて残るはずもないのだが。
 彼女はむすっと眉間にしわを寄せて黙り込んだ。
「ふんふん。因縁ねえ」
 クラリスは面白そうにやりとりを聞いている。弟さんが大変な目に遭ったというのに、ずいぶん余裕そうだなあ、とウィチ・カは不思議に思ったが、改めて頭を下げる。
「本っ当にごめんなさい。あの、お詫びと言っては何ですが、お仕事手伝います。わたしの家も農家なんです」
「へえ、セルキーが農業をやってるんだ。そうね……じゃあ、ちょっとこっちに来てくれないかな」
「はいっ」
 クラリスとウィチ・カは同時に立ち上がり、部屋を後にした。一人残されたブレンダは、相棒に「そこでしっかり反省してなさい」と言われ、椅子の上で縮こまっていた。
 一人きりになった客間は、がらんと広い。窓はかすかに開いており、そこから時折春の風と花びらが吹き込んできた。
「あら。お客さん、減っちゃったのね」
 扉のノック音と共に、農家の主であるミントがやってきた。お盆の上には三つのコップがある。クラリスとウィチ・カの分だったのだろう。
 ミントは仕方なしに残りの一人へコップを渡しながら、
「あなたは、ブレンダちゃんだったかしら」
「……はい」
「アベルさんの娘さんよね」
「! どうして、それを」
 不意に父の名前を出されて、ブレンダの顔色が変わった。
「うちのハルトと同じ年に生まれたもの。よく覚えているわ」
 ミントはうっすら笑う。思わずブレンダは姿勢を正していた。アベルは村の中では没交渉で、ろくな友人がいなかったと母から聞いていたのだが。
「アベルさんはね、いつもあなたのことを『自慢の娘』だって言ってたのよ」
「はっ、誰が——」
 ふつふつと怒りが湧いてくる。父はいつもそうだった。事あるごとにブレンダを紹介し、「将来医者になる自慢の娘だ」と言いふらしていた。勝手な価値観を押し付けられたようで、たまったものではなかった。
 眉をひそめる少女を見て、ミントは声を沈ませる。
「ごめんなさいね、ハルトが友だちになってあげられなくて。あなたに勉強ばかりさせていたのも、アベルさんなりの教育だと思って、口出ししなかったの」
 父アベルは娘に対して極端に厳しく接していた。あの環境さえ違っていれば、ブレンダは今でもティパ村に住み、ハルトと友だちになっていた可能性すらあるということだ。彼女は新鮮な驚きを感じた。
 ——だが。ブレンダはふん、と鼻から息を吐いた。
「別に、あいつと友だちになんて、なりたくなかったです」
「そう? アベルさんはハルトのお父さん——エンジュさんと、すごく仲が良かったのに」
 彼女は眉を跳ね上げると同時に、思いっきり唇を歪めるという、器用なことをやってのけた。
「本当にぃ〜? あいつに友だちがいたなんて、信じられないっ」
 実の娘の知る限り、アベルは常に仏頂面で、誰にも気を許すことがなかった。家族の前ですら笑顔を見せなかったのだ。
 ミントは明るい日の差し込む窓の外に、視線を飛ばした。
「本当よ。エンジュさんの前でだけ、アベルさんは違う顔を見せていたわ」
「……っ」
 たじろぐブレンダの前で、彼女は静かに語り始めた。



 三十年ほど前。ティパ村でシングルプレイヤーをつとめていたエンジュは、病気を患いキャラバンをやめることになった。そんな彼を追いかけるように、アベルは妻を連れてティパ村にやってきた。
 こんな大陸の端の田舎村に、シェラの里で正式な学問をおさめた偉いお医者様が移り住む! ということで、村は大騒ぎになった。
 一体どんな堅物が来るのだろう、と村人たちは噂した。だが、アベルは誰に対しても礼儀正しく接し、偉ぶる部分は微塵もなかった。評判は上々だった。
 だがそれは、彼が村人との間に見えない線を引いていることの裏返しでもあった。皆も次第に、彼の築いた心理的な壁を理解していった。
 その一方で、他人を寄せ付けないアベルが、ただ一人に対しては親しげに接していることを、ミントは知っていた。
 村人への挨拶回りを済ませた後、アベルは一人で農家にやってきた。
「エンジュ。この私が、わざわざ面倒を見に来てやったぞ」
 ざっくばらんな物言いに、持ち上がるほお。エンジュにだけ向けられた、この上なく優しい眼差し——
「お前さー、絶対オレに野菜食わせるために引っ越してきただろ!」
 と言って偏食のエンジュは嫌がっていた。それでも本心では、アベルが越してきたことを嬉しく思っていたに違いない。
 アベルは医者としてだけではなく、友人としても、病魔に侵されていたエンジュが心配だったのだろう。表向きには「エンジュの特殊な体質が気になる」と言っていたが、引っ越しの理由がそれだけであるはずがなかった。
「ふふん、その通りだ。これからは食事に関しても制限をかけるぞ。覚悟しておけよ」
 彼の唇は三日月を描いていた。
 その後もアベルは個人的に農家と関わりを持ち続けた。ミントと協力して食事メニューを練ったり、体力が落ちないような体操を考えたりもした。
 エンジュと喋っている時だけは、いつもほおが緩んでいた。その友誼はエンジュが亡くなるまで、ずっと続いた。



 これほどの敗北感を覚えたのは初めてだった。
「……」
 話を聞くうちに、ブレンダの顔から血の気が引いていった。ミントが語ったのは自分の知らない父の姿だ。自分と母は、その友人とやらに——負けたのだろうか。
「ブレンダちゃん」
 ミントは真っ青になった彼女に気づき、声をかけた。
「……ずるいよ」
 彼女はぽつりと呟く。
「オトコはいつもそうだ。みんなそうやって私を置いていく」
 きっと眉を吊り上げて、ミントに視線を突き刺した。
「……!」息を呑むミントの顔に、「うちに、何か用?」と笑っていた少年の姿が重なった。
 ブレンダの期待と努力を裏切るオトコは、父親だけではないのだ。
「私、アリシアに聞いたんです。十一年前、ハルトはわざわざ危ない場所を選んで、魔石転がしをした——つまり、自分から海に飛び込んだかもしれないって。それは本当なんですか」
 ミントはぐ、と詰まり、唇を噛んだ。
「そうね。そうかも知れない。わたしのせいで、あの子は海に落ちたのかも」
 少しだけ開いた窓から風が吹き込んで、室内に花びらを散らした。ミントは薄眼を開けて、その一枚を手のひらで受ける。
「あの日、わたしがハルトに酷いことを言って、追い詰めちゃったの。そのせいで、あの子は自分から身を投げたのかもしれない」
 まさか、アリシアの危惧は当たっていたのだろうか。
「ふうん……」
 ブレンダの目つきが鋭くなる。そういう時の表情は、誰が見てもアベルと似ていた。たとえ面と向かって指摘されても、彼女は決して認めないだろうが。
 しかし外面の冷静さに反して、ブレンダの頭は混乱するばかりだった。無理やり思考を回し、心を落ち着けようと努力する。ひとまず事実を整理すべきだ。
 父アベルには、家族よりも大切な友人がいた。ハルトはブレンダのことを置きざりにして海に落ちた——かもしれない。
 やはり、オトコというのはろくでもない奴らだ。そう結論づけると同時に、ブレンダの腹の底はカッカと燃え上がってきた。彼女は眉間にしわを寄せ、
「それはあくまで、あなたの主観ですよね。本当に『そう』だったのか、確かめてみる必要がある」
「え……でも、どうやって?」
「十一年前の暦はありますか」
 唐突な提案だった。ミントはぱちぱち瞬きする。
「暦? ええと、多分村長さんの家にはあると思うけど……」
 事故の日まで暦を遡るということだろうか。ミントには、目の前の利発そうな少女の心づもりが読めなかった。
「じゃあ、ちょっと調べ物をしてきます」
 ブレンダはそう宣言すると、颯爽と身を翻した。
 クラリスの案内で畑を見学していたウィチ・カは、突然玄関から出てきた相棒の姿に仰天する。
「ちょっとブレンダ、どこ行くのよ!?」
「大事な用を思い出したの」
 ブレンダは問答無用で目的地に向かおうとしたが、すたすた戻ってくると、畑に佇むクラリスに尋ねる。
「……あの、村長さんの家ってどこですか」
 威勢良く出て行ったのに、土地勘はないらしい。クラリスはこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、
「そこ出て左にずっと行って、クリスタル広場の後ろにあるよ」
「どうも」
 ブレンダは軽く会釈して、胸を張って歩いて行く。
 クラリスはふう、と息を吐いた。
「……ハルトも、あんな風に前を向けたらなあ」
「え?」
 思わずウィチ・カが聞き返すと、クラリスは少し寂しそうに笑った。



 ブレンダが村道をずんずん進んでいる頃、目的地である村長ローラン宅には別の客が来ていた。
 客間でローランと向かい合うのは、プラチナブロンドのセルキーの女性だ。
「きっとあの子なら、彼を見つけてくれると思います」
「そうじゃな……ワシももう長くない。そろそろ、放蕩息子には戻って欲しい頃合いじゃな」しみじみとローランが整えられた髭をなでると、
「彼にとっては久々の里帰りですね」
 客人のペネ・ロペはにっこり微笑んだ。
 その時、玄関のベルが鳴り、ぱたぱたと村長夫人マレードが廊下を駆ける音が聞こえた。
「あらあら、またお客さんですか」
 訪問者は当然ブレンダだ。肩肘張った少女はマレードを見て少し態度を改め、
「ここに過去の暦が保管してあると聞きました。見せてもらえませんか」
「ありますよ。ええと、どこだったかしら……」
「あたし、場所分かります」
 玄関先の会話を聞きつけて、ペネ・ロペが顔を出した。
 ブレンダと彼女は、先ほど牛飼いの家で鉢合わせている。二人の女は素早く目線を交わした。
「あたしが案内するわ」
「……どうも」
 ペネ・ロペの浮かべた朗らかな笑みに、ブレンダは軽く一礼した。
 二人は天井まで本が並んだ書斎を訪れる。ペネ・ロペは無数にある本棚のうち、一段を示した。
「村の暦は全部ここにあるわ」
 ブレンダは黙って十一年前のものを探し、棚から引き出した。表紙の埃をぱたぱた払う。ペネ・ロペも適当な本を確保して、近くのソファに腰を下ろした。
「……あなたは、元ティパキャラバンですよね」
 ブレンダは暦から目を上げずに尋ねた。ペネ・ロペはにこりとして、
「そう。あたしがリーダーのペネ・ロペよ」
「セルキーが、リーダー?」
「そんなに変かしら」
「いや、別に」
 真っ先に想像したのが、ウィチ・カのリーダー姿だった。いくら人材の限られたうちの村でも、それはあり得ない状況だろう——とブレンダはひどいことを考えていた。
 ペネ・ロペは「よくリーダーらしくないって言われるの」と苦笑いした。
「それにね。あたしがキャラバンリーダーなんて大層なものをやれたのは、ユリスやタバサやハルトくん——仲間たちのおかげだから」
 因縁の名前を聞いて、暦を持つブレンダの手に力が入る。
「ハルト……っ!」
 ただならぬ雰囲気の変化だった。ペネ・ロペは牛飼いの家での会話を思い出した。
「ハルトくんと知り合いなの?」
「だいたいそんな感じです。あっちは覚えてないらしいけど。——あいつは昔、私との大事な約束を破ったんです」
 ぎり、と歯をくいしばるブレンダ。
「そうなの。ハルトくんは、とても約束を大切にする子なんだけどね……」
 ペネ・ロペは、かつてレベナ・テ・ラで親友クラリスに告げられたことを思い出す。亡き父の代わりに瘴気を晴らすため、ハルトは旅に出た。余人が一生かかっても成し遂げられないような約束を、彼は二十歳にも満たない歳で果たしてしまった——その結果としてもたらされた平和な日々は、本人に良い影響を与えるだけではなかった、と思う。
 ブレンダはいつしか顔を上げ、セルキーにまっすぐ視線を合わせていた。
「あなたから見て、ハルトは約束をろくに守れないくらい、意志の弱い奴ですか」
「そんなことないわ。優しいけど、ちゃんと自己主張はするわよ」
「それじゃあ——」ごくりと唾を飲み込んで、「あいつは、生きることを諦めたりしますか」
「しないよ」
 ペネ・ロペはきっぱり否定した。
 腕に入っていた力が、不意に抜けた。ブレンダはぱたんと暦を閉じた。
 自分は一体、ハルトをどうしたいのか。その答えはいつまで経っても出ない。しかし、「ハルトが自ら進んで約束を破ったのではないか」という疑いだけは、晴らしておきたいと思った。そうしないと、一瞬でもハルトの言葉に希望を見いだした過去の自分を、許せなかったのだ。
 彼女は強い意志の滲んだ瞳をペネ・ロペに向けた。
「この暦、借りてもいいですか」
「いいわ。あたしから村長に言っておく。でもそれ、どうするの?」
 純粋な疑問を呈したペネ・ロペに対して、ブレンダは初めて表情を和らげた。眉間のしわがほぐれ、生まれ持った可憐さが花開く。
「材料は揃いました。あとは……本人に訊きます」



 ハルトは最近、よく夢を見る。どことなくふわふわした、曖昧な夢を。それはどうやら、自分の記憶を元にしたものらしい。ブレンダに殴られて意識をなくした短い間にも、彼は過去の夢を見た。
「あんた、いつまでこの村にいるつもり?」
 タバサに下の方から睨まれて、ハルトはきょとんとした。
 少し前のことだ。ティパからマール峠にお嫁に行くことになった彼女との、お別れの日のことである。後ろに控える馬車の中では、夫となる男性・ロルフ=ウッドが待っていた。
 ハルトは一つ年上のキャラバンの仲間へ、ぼそぼそと答える。
「いつまでって……ずっとだよ。ぼくの家があるのはここだもの」
 物分りの悪い、という風にタバサは肩をすくめた。
「家があったら、永遠にここにいなくちゃいけないわけ? 私だってこうして家を出るのに」
「……」
 ハルトは首をかしげる。彼女の台詞に含まれた意味が、分からなかった。
 タバサは彼に歩み寄り、ちょいちょいと手を動かして、身をかがめるよう指示した。そうしてしゃがんだ彼の耳元に囁く。
「あんたがいるべき場所はここじゃない。もっと別のところでやるべきことがある。クラリスさんだって、そう思ってるはずよ」
 ハルトは困ったように眉を下げた。
「……そうかな」
 タバサはふっと笑った。その顔に見慣れた赤いマスクはもうないけれど、彼女はいつまでもハルトの仲間だった。
「いつか分かるわ。また、マール峠に会いに来てね」
「うん」
 最後に二人は握手を交わした。小手を外したリルティの手は、存外に小さかった。
 タバサは一度も振り返らずにマール峠の馬車に乗りこんで、故郷の村を去っていった。
 それからというもの、ハルトは事あるごとにぼんやりと考え込むようになった。自分のいるべき場所、やるべきこと。そんなものが、本当に存在するのだろうか……。
 ちょうど今日、同じくキャラバンの先輩・ユリシーズに相談する機会があった。
「お前、最近何か悩んでないか?」
 ユリシーズは察しが良かった。ただラケタの言いつけで借り物をしに来ただけの少年に、わずかな動揺を見たらしい。
「いや、別に……ただ、ちょっと気になることがあって」
 ハルトは一旦言葉を区切って、唇を舐めた。
「タバサに言われたんです。ぼくがいるべき場所はここじゃない、って」
 少し前にこの村を去った共通の仲間を思い出し、ユリシーズは首をゆるく傾ける。後輩はじっと自分の足元を眺めていた。
「姉さんもきっと、それを望んでるんだって……」
「クラリスが——ああ、そういうことか」
 ユリシーズは優しいため息をついた。そして唐突に、
「お前、家族のことが大好きだもんな」
「!」
 ハルトはぽっと顔を赤く染めた。どうやら図星らしい。ユリシーズは微笑ましい気分になりながら、
「前にレベナ・テ・ラで、俺がクラリスに言ったことを覚えてるか。『お前は父親好きをこじらせて弟好きになったんだろ』って」
「はい」
 話の行く先が分からずとも、ハルトは素直に頷く。そのまっすぐな性格が時に命取りにもなることを、四年間共に旅をしたユリシーズはよく知っていた。
「お前が想像してる以上に、コンプレックスは深いんだよ」
「……」
「クラリスとの約束を果たしたから、もう自分はいらないんじゃないかって思ってるんだろ。あいつがお前に求めていた『父親の代わり』には、どうやってもなれないもんな」
 辛辣とも言える発言に、ハルトは苦しそうに顔を歪めた。
「ガーディに関わる因縁が、やっと解消された。瘴気だって晴らしてしまった。もう自分のやるべきことはなくなった……そう考えてるんだろ?」
 ハルトは、誰かに必要とされないと生きていけなかった。まっさらな自分には何も価値がないのだ——そう思い込むようになったのは、おそらく海に落ちてからだろう。極端に自意識が小さくなって、姉との約束に自分のアイデンティティを求めるようになった。
 ユリシーズはそんな彼の内面を、正確に見抜いたようだ。
「確かに、お前はティパ村を出た方がいいかもな」
「……そうでしょうか」
「やっと、面倒くさい約束や因縁から解放されたんだ。お前はもっと好き勝手に生きるべきなんだよ。俺ならそうする」
「少し、考えてみます」
 どことなく暗い返事をし、ハルトは牛飼いの家を出た。背中に注がれるユリシーズの心配そうな視線を感じながら。
 ハルトは、なんとなく分かっていた。海に落ちたあの日から、自分はいつまでも同じ場所で足踏みしている。皆の背中を追いかけたくても、ちっとも前に進めないでいるのだと——



 ブレンダは借りた暦を小脇に携えて、農家に舞い戻ってきた。まっすぐに向かうのはハルトの自室だ。もはや勝手知ったる場所のように、廊下を直進していく。
 部屋の中ではラケタに出迎えられた。
「お、ハルトの見舞いか?」
「……」
 彼女はその質問を堂々と無視した。ラケタの目の前を横切り、ベッドのそばに行く。
 目の前にはすやすやと眠るハルトがいる。十一年前、彼のせいでブレンダの運命は大きく変わってしまったのだ。思い出す度に憤りを感じてしまう。
 彼女はかぶりを振って動揺を飛ばした。無言で彼に手を伸ばし、胸ぐらを掴む。
「っ!?」
 身の危険を感じたのか、ハルトはぱちりと目を開けた。
 寝起きで異性に掴みかかられたハルトと、それを見守るラケタ、そしてブレンダの来訪を察して部屋に入ってきたミントは、揃って動きを止めた。目だけをぱちくりさせている。
 ブレンダは自分から手を出したにも関わらず、何を話せばいいか分からなくなったらしい。沈黙したまま、じっとハルトを睨みつけている。
 彼はおどおどと口を開いた。
「あの、ブレンダ……だよね。姉さんたちから話を聞いたよ。ごめんね、あの日迎えに行けなくて……」
 ずっと待ち望んでいた謝罪のはずだった。しかし、ブレンダの胸にこみ上げてきたのは、怒りとよく似た煮えたぎる感情だ。
「そんなこと、どうでもいいんだよ」
 恐ろしく低い声が流れる。
「あの日、あんたに何があったのか……きちんと考えてみたいの」
 感情の抑えられた言葉は、ごく静かだった。
 ハルトは目を上げて、ブレンダを見た。彼女もこちらを見つめていた。
 その時、二人は初めてまともにお互いを確認したのだろう。
 一瞬の後、ブレンダは目をそらして彼の胸元から手を離した。
「だから、あんたが落ちたとかいう崖に案内してよ」
 ハルトは乱れた服を直しながら、
「……うん」と応じた。
 からんと涼やかな音を立てて、玄関扉が閉じる。
 二人のいなくなった部屋には。
「いわゆる修羅場ですかね?」「あの二人、前途多難すぎるわ……」
 ため息をつく婿と母だけが残された。





 風が吹いた。またどこからか、花びらが飛んでくる。ティパの岬——まさしく大陸の南端だった。幼少期をティパ村で過ごしたはずのブレンダだが、ここに来た記憶は全く無い。外で遊ぶことを覚えたのは、引っ越してウィチ・カと出会ってからだった。
「ここに来るのも、久々だなあ」
 ハルトは明るい色の下生えを踏みしめ、うっすら微笑んだ。自分が死にかけた場所でどうしてへらへらしていられるのか、ブレンダには分からない。
「あんたとアリシアたちが、ここで魔石転がしをしてたんだよね。……私は一回もやったことなかったのに」
 低い声で指摘すると、ハルトは露骨に狼狽えて、
「え、ええと、魔石転がしする?」
「誰が今やるって言ったのよ!」
 彼女は明らかにピリピリしていた。ハルトは正直、怖いと思った。殴られたお腹がまだ鈍く痛む。そういえば自分はここでアリシアに刺されたのだった……と思い出し、彼は苦笑いした。
「足の下に魔石が滑り込んできて、それにつまずいて、海に落ちたんだ」
 眼下に広がる海は、何ものにも遮られることのない青空の色を写し、静かにたゆたっている。
 ブレンダの眼光が鋭くなる。
「あんたのお母さんは……自分のせいであんたが海に落ちたんじゃないかって、疑ってた」
「母さんが?」
「そう」
 ハルトは眉根を寄せた。海に落ちる前のことを、彼はほとんど思い出せない。当時、声が出なくなった原因について思い悩みすぎたせいだろうか。自分の人生は、ある意味ではその時点から始まったような気がする。だから、声を失う前については「ただ幸せな日々を過ごしていた」というぼんやりした記憶だけがあった。
 ブレンダは考え込む彼から視線を外して、
「エンジュさんとあんたを重ねて——彼の記憶を上書きするな、って言っちゃったんだって」
 どくんと心臓が脈打った。ハルトは唇を開いて、閉じて、噛み締めた。
「……そっか」
 それきり沈黙している彼を横目で見やり、ブレンダはこれ見よがしに嘆息した。辛気臭いったらありゃしない。さっさと本題に入ろう。
「魔石転がしの時にこの場所を選んだのは、あんたなんだってね。アリシアから聞いた」
「そう、みたいだね。あんまりよく覚えてないけど」
「どうしてわざわざ、こんな危ない場所を選んだの」
 彼女が挑むように尋ねると、
「もしかして、それは、ぼくが死にたがっていたから……?」
 察したハルトが後を引き継いだ。
 不穏すぎる台詞を発したにもかかわらず、漆黒の瞳は奇妙に薙いでいた。自らの生死すら突き放すかのような態度。ペネ・ロペは彼に対し、「生きることを諦めたりしない」と請け負っていたが——。
 ブレンダはそんな彼を強く睨みつけた。
「昔、心理学をかじったことがあるの。人は、慢性的に強いストレスがかかっている状態で、何らかのきっかけがあると、自死という行動に走ることがある。確か、そうだった」
「じゃあ、母さんの言葉が『きっかけ』だった……のかな」
 目を伏せるハルト。そのあまりの薄暗さに、彼女は苛立ちを募らせた。
「本当にそう思ってる?」
「きみの話じゃ、そういうことなんでしょ」
 瞬間、雷鳴のような声が轟いた。
「それを今から確かめるって言ってるのよ!」
 ブレンダの激しい眼差しが彼を貫いた。驚いて身を強ばらせるハルト。
 彼女は草をさくさく踏んで、岬の端へと歩いた。
「この崖っぷち、前からこうだったの」
 指差す先には申し訳程度の柵がある。ハルトが事故に遭ってからも、これといって安全策は取られなかった。眺望を優先した結果だが、そもそもあの事故以来、あまり人が寄り付かなかったということもある。
「うん。多分、十一年前から変わってないよ」
 ブレンダは体の後ろで手を組んだ。子供っぽい動作とは反対に、その目には理性の光が宿る。
「私はあんたより何倍も頭が良くて、記憶力もいい。だから、実はこれを読まなくてもちゃんと覚えてたんだ」
「え……っと、何?」
 戸惑うハルトの前に古い暦をばさっと広げ、彼女は得意げに鼻を鳴らした。
「これを見て」ある部分を示す。「潮の満ち引きは、月の満ち欠けと関係があるの。ざっと暦に目を通して、周期も計算してみたけど、あの日は確かに大潮だった。そしてあんたが海に落ちたのは、日暮れの前。ほとんど満潮の時刻だったんだよ」
 大きく目を見開くハルト。ブレンダは滑らかに説明を始めた。
「大潮だと、干潮時と満潮時の水位の差が一番激しい。つまり、満潮の時間帯になれば今よりもっともっと水面は高くなるはず——
 あのねえ、そもそもここから落ちたくらいじゃ、早々死ねないんだよ。高さが足りないもの。子供でも、そのくらいは見たら分かるでしょ。
 ただ危ないのは、潮に流されて聖域の外に出てしまうこと。でも大潮と満潮が重なって水位が高くなっていたとしたら、その確率も格段に下がる。そうでしょ?」
 その長台詞はにわかには信じがたい内容だったが、不思議な説得力があった。
「でも……あの時のぼくは、ほんの子供だった。だから、考えなしに行動したのかも知れない。本当に死にたくて、自分から身を投げたのかも……」
 ハルトは苦々しく思い出す。事故現場に偶然居合わせて、崖っぷちから身を乗り出して自分の手を掴み、助けてくれたあの人のことを。自分勝手で死を求めた結果、彼を巻き込んでしまったとしたら——最低だ。
 視線はどんよりと足元をさまよっている。それを見て、ブレンダは目の前が真っ赤に染まるような感覚に陥った。
 私がここまで言葉を尽くしてるっていうのに、なんでこいつはずうっと後ろ向きなのよ!?
 彼女は歯を食いしばった。巻き込まれた下唇が痛むほどに。
「そんなわけ、ない」
 ブレンダの声は震えていた。
「死にたくなるほど強いストレスを感じてたような奴が、前の日に私を『迎えに来る』だなんて、約束するわけないでしょ!」
「……っ!」
 ひゅっと息を呑んだハルトは、少女の瞳の奥に、何かにすがるような弱々しい光を見た。思い出せない記憶の向こう側で、少しだけ懐かしい気配が蘇る。
 ——『ほんとうに……?』迎えに来ると約束したあの日の、震えるような、可憐な少女の声が。
 かつて闇の中でお互いの姿も知らずに向き合っていた二人は今、太陽の下で言葉を交わす。
 怒りに任せて叫んだブレンダは、はあはあと肩を上下させた。興奮しすぎたのか、目尻に涙が滲んでいた。ハルトは申し訳なさそうに様子を見守る。
 その時風が吹いて、彼女の長い髪を揺らした。
「——!」
 涙の粒が空へとさらわれる。遮蔽物のない岬は、風が強かった。もしかして、昔からこうだったのだろうか。
 乾いた頬に手をやったブレンダは、いつしか十一年前のハルトと心を重ねていた。
 彼女はゆっくりと頭を動かし、海を見る。
「ここ、風が強いね。きっと——涙もすぐに乾くんじゃない?」
「っ!」
 ハルトは息を呑んだ。唐突に、記憶が蘇ってきたのだ。
 あの日。自分は母に「エンジュの記憶を上書きするな」と言われ、我知らず泣き出してしまった。濡れた両目を誤魔化すため、小さな彼が走った先は——いつも強い潮風の吹く、この場所だった。
 子供の彼は黙って海を眺め、その大きな水面に、会ったことのない家族の姿を重ねた。姉は「父さんはお空の星になった」なんて言っていたけど……本当は知っていた。死んだ人は海に帰るのだと。ティパの村では、遺骨の一部を海に撒く。だから、ハルトは海に向かって呼びかけた。
 お父さん、早く帰ってきて。お母さんが悲しんでるよ。
 何度か鼻を鳴らし、嗚咽をこらえる。そうするうちに涙は乾いた。
 背中の方から、いくつかの足音がする。彼を捜して集まってきた友だちだろう。
 さあ、もう、泣き止まなくちゃ。
 すっかり涙のあとを拭ったハルトは、いつもの笑顔で振り返った。
「……思い出した」
 十一年後のハルトは呟く。
「そっか。だからあの日、ぼくはここにいたんだ」
 そのまま崖で遊び始めたせいで、関係のない「彼」を巻き込む羽目になった。けれどもハルトは、決して自ら死を選んだわけではなかった……。
 岬を渡る風が、心の雨雲を払ったようだった。みるみる顔を明るくしていく彼を目の当たりにし、ブレンダは肩の力を抜いた。
 わざわざ暦まで用意したのに、結局は反則すれすれのような——情に訴えるという方法で、彼に「自死ではなかった」と認めさせてしまった。けれども、何故だか悪い気分ではなかった。
 ブレンダは、くすりと笑い声を立てる。
「ほらね。私の言った通りでしょ?」
 ハルトはほおをほころばせた。
「なんか、そういう言い方懐かしいな。きみの父さんみたい」
 直後、ブレンダはものすごい剣幕で彼に詰め寄った。
「はあ!? 私のどこがあいつに似てるっていうのよ!」
 再び胸ぐらを掴まれそうになって、ハルトは慌てて後ずさりした。
「で、でも、親子なんだから似てるよ。ぼく、アベルさんには親切にしてもらったんだ。崖から落ちて、ぼくの体が問題なく動くようになったのは、全部あの人のおかげだよ」
「……っ」
 悔しげに唇を噛み、ブレンダはうつむく。
「そんなの、医者として見栄を張りたかっただけじゃない。それにあんた、エンジュさんの子供なんでしょ。あいつは家族よりも友だちの方が——あんたのお父さんの方が、大事だったんだ」
「えっ」
「ミントさんが、さっきそう言ってた……」
 ハルトは真剣な表情になって、彼女の両手をとった。ブレンダはぎょっとして身を固くする。
「そんなことないよ! ぼく、聞いたことあるもの。母さんとアベルさんが喋ってるところ。そうだ、アベルさんはあの時、ブレンダの話をしてた——」
 ハルトはぽつりぽつりと話し始める。漆黒の瞳の中に、生きていた頃のアベルの姿が鮮やかに蘇るようだった。



「目が覚めたようで、良かった。どこか痛いところはあるかい?」
 彼の声は、朝の日差しのように柔らかく降り注いだ。
 十一年前の事故で海に落ちてから、数日後。ティパの港で見つかったハルトは、一命をとりとめた代わりに声を失ってしまった——平和な村を揺るがす大事件に、本人どころか周りの誰もが混乱していた頃の話だ。
 農家まで往診に来たアベルの前でも、ハルトは返事が出来ずに口元を引き結ぶ。アベルは賢そうな瞳を細めた。
「声が出ないのは心因性だろうな。無理に喋ろうとしなくていいよ。きっと、皆は喋って欲しいと言うだろうが」
「……」
 ハルトは驚いた。この時期、誰もが「どうして声が出ないの」と尋ねてきた中で、「無理をするな」と言ってくれる医者の存在は、ありがたいものだった。
 何度も瞬きする少年を見て、
「やはりな。私の言ったとおりだったんだろう?」
 彼はにやりと笑った。
 しかし、アベルはハルトが事故に遭ったその日に、妻子を手放していたはず。それなのに、何故あそこまであたたかく接してくれたのだろう……。
 母も同意見だったようだ。ある日の診察が終わった後、ハルトが何をする気も湧かず、布団の中でじっと目を閉じていると。寝静まったと見たのか、二人はベッドサイドで静かに話しはじめた。
「ねえ、アベルさん……。うちの子を診てくれるのは嬉しいんだけど、自分の家族の方はいいの?」
 アベルはそっと息を吐いたようだ。
「今はこっちを優先したい。……今度こそ、と思ってな。エンジュの時はダメだったから」
 深い沈黙が降りる。まんじりともせずに聞いていたハルトは、どきりとした。父親エンジュの不在は、実に多くの人々に影響を及ぼしている。
「それに、ブレンダは私から離れたほうが幸せなんだ」
「え……?」
 ミントが聞き返す。アベルは自嘲の笑みを浮かべた。
「私も彼女と同じように親から医術を教わり、シェラの里に留学した。故郷でも秀才としてもてはやされていた——それでも、エンジュは助けられなかった。
 娘に似たような教育を施したのは、いつか友人の危機に直面した時、後悔しないようにと考えてのことだった。私が果たせなかった願いを託したつもりだったんだ。
 だが、娘は私よりも頭がいい。だからこそ私の教育の馬鹿馬鹿しさに気づいたんだろう。私だって、ひたすら医学の道を進む人生から逃げたくなった時はある……ブレンダは、私にできなかったことをしただけだ」
 かすかな衣擦れの音がする。ミントがぎゅうっと胸元を握りしめたようだ。
「で、でも、家族のこと、心配じゃないの……?」
 次に放たれたアベルの独り言は、ハルトの胸に爽やかな風をもたらした。
「心配はしていない。どこにいて何をしていても、ブレンダはうちの自慢の娘だからな」



「アベルさんは、家族だって大事にしてたんだよ……」
 ブレンダの心を凍らせていたものが、春の日差しを受けてじわじわと溶けていくようだった。ティパの岬には、新たな季節を象徴するように花びらが降り注ぐ。
 彼女はハルトと繋がったままの手を、強く握った。
「そんなこと、なんで直接言ってくれなかったのよ——あっ」
 いや、何度も聞いていた。「自慢の娘」は、父が彼女を紹介する時の決まり文句だった。親の所有物として扱われているようで嫌だったけれど、あれは本心からの言葉だったのだ。
 本当に心を閉ざしていたのは、自分だったのか。
 ハルトが心配そうに見つめている。ブレンダは手を振り払って、少し距離を取った。
 烈火のような瞳がハルトを射抜いた。目の奥で燃えさかるのは怒りの炎か、それとも。
「あんたはさ、お父さんと……エンジュさんと自分を比べられるの、嫌だった?」
 唐突にそう尋ねる。ハルトはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……」
 返ってきた沈黙は、ほとんど肯定を示していた。ブレンダはぶんぶんかぶりを振る。
「私は嫌だった。シェラの里では何をやっても親の七光りみたいに思われて、最悪だったよ」
 過去を通した色眼鏡で見られることがどれほど屈辱的なのか、彼女は嫌というほど知っている。
 ブレンダは空を見上げた。ほんわりと色の薄い、のどかな春の空だ。
「私はあんたが嫌い。性格暗いし、どうみても頼りないし、オトコだし」
 そうきっぱりと宣言してから、ハルトに向き直った。
「でもね……私だけは、あんたの過去を忘れてあげる。約束を破ったことも、なかったことにしてあげる。
 今のハルトだけを見て、聞いて、嫌いになってあげるよ」
 自分ばかりが彼の過去を知っているのは、フェアじゃないから。彼女は、何も知らなかった頃の——無邪気で明るかった過去のハルトと今の彼を、決して重ねない、という誓いを立てた。
 アリシアの「ハルト自身を見てあげられる人が、いなかったの」という発言の意味が、分かった気がする。村人たちはどうしても、過去からの延長線上にいるものとして、彼を認識してしまう。それがますますハルトの足を止めることになる、と知っていても。
 結局。こうして直接対決をしても、彼をどうしたいのか、結論は出なかった。殴りたいのか、謝罪させたいのか——それとも泣きつきたいのか。
 ハルトは唇の端を持ち上げた。
「ブレンダ……ありがとう」
 初めてまともに名前を呼ばれた。彼女ははっとして目を背ける。
「嫌いになるって言ったのに、感謝するなんて……変だよ」
 少し声が震えてしまった。謝罪よりもずっと待ち望んでいた言葉が、胸の中にしみこんでいく。
「そうかな。でも、嬉しかったんだ」
 照れ笑いするハルト。ブレンダはなんともこそばゆい気分になっていた。漆黒の瞳をまともに覗き込んでしまって、どくんどくん、胸が高鳴る。
 その時、大勢の足音がばらばらと近づいてきた。
「ブレンダー!」「ハルトくん!」
 叫んだのは、先頭のウィチ・カとペネ・ロペだ。さらにその後を、ラケタとユリシーズにクラリス、何故かアリシアまで走ってくる。
 岬にいた二人は互いに一歩ずつ離れると、揃って首をかしげた。
「ウィチ・カちゃん、一体どうしたの」
「えーっとね……実は、提案があるんだけど」
 ブレンダが尋ねれば、相棒は目を泳がせて頬を掻いた。



 農家の手伝いを、と外に出たウィチ・カは、村長宅へ向かうブレンダの後ろ姿を見送った後、クラリスに「実は、あなたと話がしたかったの」と告げられた。
 二人は、庭の休憩スペースに置いてあるベンチに座り込んだ。
「ウィチ・カは、ブレンダの付き添いでティパに来たんだよね」
「はい」
「何のために旅をしているの」
「えっと、それは……だ、旦那様を探すため、です……」
 照れてぼそぼそ喋る彼女に対し、クラリスは破顔した。
「いいなあ。ハルトもそのくらい、開き直ってくれたらいいのに」
「弟さんが……?」
 クラリスは少し寂しげに笑った。
「あいつ、無理して家に残ってるから。もうどこへでも歩いて行けるようになったのに、勝手に家族に気を遣って、村にいるの。そんなの、おかしいでしょう」
 なるほど、とウィチ・カは思った。彼女の身の上と照らし合わせても、頷ける話だ。瘴気が晴れて自由になった彼女たちは、もはや故郷にとどまる必要は無い。
「そうですね」
「まあ、私のせいでもあるんだけどね。あの子は優しいから、私たちが少しでも必要としたら、その気持ちを察してしまう。いい加減、弟離れしなくちゃいけないのになあ……」
 彼女ははあ、とため息をつく。「弟離れ」という単語を聞いて、ウィチ・カの胸にはもくもくと暗雲が漂ってきた。
(わたしもいつか、ブレンダと離れる時が来るのかな……)
 彼女は知っていた。本当に相棒を必要としているのは、ブレンダではなく自分なのだと。意識がどうしても内向きになりがちなウィチ・カには、狭い故郷から引っ張り出してくれる、翼を持った人が必要だったのだ。何年も前に「キャラバンに入る」と自分から言い出せたのも、ブレンダと知り合ったからこそだった。
 クラリスは土にまみれた両手を、祈るように組み合わせた。
「ハルトはずっと家族にかかりっきりだったから。これからは自分のために生きて欲しいの」
 ずっと相棒にかかりっきりだったブレンダ。これからは、彼女自身のために生きて欲しい……
 ウィチ・カは迷いを振り切って、宣言した。
「ハルトをわたしたちの旅に誘います」
「えっ?」
 クラリスは素っ頓狂な声を出す。当然、すんなり受け入れられるような提案ではない。相手の反応を見て、いつものウィチ・カなら少し萎縮してしまっただろう。けれども彼女の意志は固かった。
「わたしたちも、故郷から抜け出すために旅をしているんです。だったら目的は同じはず」
「そうかもしれないけど……いいの? 女同士、友だち同士の旅なんでしょ」
 気づけばクラリスも、前向きに検討しはじめているようだった。
「うーん、多分ブレンダは怒りますね……。ま、がんばって説得します。だって、このまま離れたんじゃ意味が無い。ブレンダはずっと、今日という日を待ってたんだから」
「どういうこと?」
 ウィチ・カは手を空にかざした。視界の隅を白い花びらが流れていく。
「ブレンダは父親とハルトに裏切られたせいで、極度のオトコ嫌いになりました。でもそれって、親らしく甘やかしてくれることや、約束通りに迎えに来てくれることを、心のどこかで期待してたからでしょう?」
 クラリスは真剣な顔で相槌を打つ。
「今、あの子はハルトに向き合おうとしている。口先では殴りたいだとか、謝らせたいだとか言ってるけど——実際に殴っちゃったわけですけど。心の底では、ずっとハルトのことを待ってるんです」
 ウィチ・カはエメラルドのような瞳を細め、微笑んだ。
「今でもきっと、待ってるんです。だから私は、彼を旅に誘いたい。彼ならブレンダのオトコ嫌いを治せるかもしれない……!」
 それが、ウィチ・カがブレンダから離れるための、第一歩だ。
 クラリスは決意を固めた彼女を、まぶしそうに見つめていた。
「……そうね。難しいとは思うけど、ブレンダとも仲良く出来たらいいよね。ハルトだけがブレンダのオトコ嫌いを治せることと同じように、ハルトを前に進ませることができるのは多分、ブレンダなんだ。私じゃない」
 クラリスは悔しそうに唇を噛みしめた。
 その時、話し込む二人に向かって、背の高いユークが駆けてきた。
「おいクラリス、知ってるか」
 ユリシーズだった。何やら焦っているようである。クラリスはきょとんとしてベンチから腰を上げた。
「いいや。何かあったの?」
「旅人のクラヴァットの女が、ハルトを岬に連れて行ったらしい」
 ウィチ・カはさっと青ざめる。
「ブレンダだ……」
 殴って昏倒させたばかりだというのに、その上何をしでかす気なのだろう。
 一方ユリシーズとクラリスは、意味ありげに顔を見合わせていた。
「まさかとは思うが、なあ」「一応行ってみようか」
 三人の間に花びらが吹き込んだ。ウィチ・カは瞬きする。
 風が吹いてくる方向に、ブレンダがいる気がした。いつも彼女の人生に新しい風を吹かせるのは、どこまでも強く激しく、そして優しい、あの相棒だった。



「みんな……どうしたの?」
 ウィチ・カから事情を伺うブレンダの隣で、ハルトは近くにいたラケタへと目線を飛ばした。義兄は申し訳なさそうに頭を掻く。
「いやー。おれが、うっかり『ハルトが女の子に岬へ連れて行かれた』って、ユリスに言っちゃって」
「すわ、修羅場かと思ったんだよ。それでクラリスに話したら、あっという間に話が広がって、みんな怖いもの見たさでついてきちゃって」
 ユリシーズが愉快げに顎のあたりをなでる。
「それくらいでどうして修羅場になるのよ?」
 ウィチ・カが首をひねれば、
「あはは。ちょっと、前科があるからね」
 さらりとアリシアが言い放ち、その場を凍り付かせた。事情を知らない名も無き村の二人組だけが、ぽかんとしている。
 ペネ・ロペは気まずい空気をなんとかしようと、口を開いた。
「あのねハルトくん、きみにお願いがあるの。大陸のどこかにいるはずの、ハーディさんを探しに行ってくれないかしら」
 唐突な依頼に、ハルトは目を大きく見開いた。
「ハーディさんを……?」
「そう。瘴気が晴れてから結構時間が経ったけど、ちっともティパに姿を見せないじゃない。ローランさんもマレードさんも、帰ってきて欲しいと思ってる。きみもお世話になったんだし、会いたいでしょ」
「それは、そうですけど。手紙は届かないんですか」
「うん……モーグリ便でもつかまらなくて。だから、ね?」
 ペネ・ロペは頭を低くし、両手をすりあわせた。
 ティパには旅慣れた者が幾人もいるが、ハルト以外の皆には大切な家業がある。ここは、宙ぶらりんの立ち場にある自分が行くべきだろう、と結論づけた。
「……分かりました」
 あっさりと首肯するハルトの方へ、ウィチ・カが身を乗り出した。
「じゃあその旅、わたしたちと一緒に行かない?」
「え」「へっ」「はああ!?」
 多種多様の反応が返ってきた。特に最後の一人・ブレンダは色めき立つ。
「ちょ、ちょっとウィチ・カちゃん、正気なの!?」
「もちろんよ。自由になる馬車もあるし、ちょうどいいじゃない」
 さらりと受け流そうとする彼女に対し、ブレンダはほとんど髪の毛を逆立てんばかりだ。
「ちょうどいいって……私は嫌だよ! なんでオトコと、しかもこいつなんかとっ。ティパ村だって馬車くらい持ってるでしょ、勝手に行きなよ!」
「あ、ティパの馬車は今、ヒルダが使っているの。だからここにはないよ」
 アリシアが口を挟む。商人の娘であるヒルデガルドは「瘴気の晴れた大陸を旅して見聞を深めたい」と言って、馬車を借りて行ったのだ。今頃は、どこかの村で情報収集に励んでいるのだろう。
 ウィチ・カは色気たっぷりに髪をかきあげ、冷たく相棒を見下ろした。
「じゃ、あんたはここに残って。わたしとハルトの二人で行くから」
 彼女はぱちりとハルトに目配せした。ほぼ初対面の男性にここまで大胆なことを仕掛けられるなんて、自分でも不思議だった。ハルトはブレンダの剣幕に驚くばかりで、ほとんどウィチ・カに注目していなかったが。
 ブレンダは押し黙った。
「……本気なの?」
「本気よ」
 ウィチ・カの目が鋭い光を放つ。この挑発に、相手が乗ってくるかどうか。ギリギリの賭けだった。
「……分かった。ウィチ・カちゃんがそこまで言うなら」
 そうしてブレンダは威嚇するようにハルトを睨みつけた。彼はびくっと肩を震わせ、助けを求めるように姉を見たが、
「行ってきなよ」
 クラリスには言葉少なに肯定されてしまった。こういう時、いかにも騒ぎそうな彼女が大人しくしていることで、ペネ・ロペたちは何かを察したようだ。
 ハルトは口を閉じて眉を寄せた。その仕草はどことなく、言葉を失っていた頃の彼を思い出させた。じいっと悩む彼を、皆は固唾を飲んで見守る。
 やがて、その肩から力が抜けた。ハルトの心は決まったようだ。
「よろしくお願いします」
 名も無き村の二人組へ、しっかりと頭を下げる。
 ハルトの胸の中には、タバサとユリシーズの言葉がこだましていた。
 ——あんた、いつまでこの村にいるつもり?
 ——確かに、お前はティパ村を出た方がいいかもな。
 タバサはマール峠へ嫁ぎ、ユリシーズとペネ・ロペは二人で食堂を始めようとしているらしい。仲間たちはどんどん先へ進んでいく。自分は——どうすればいいのだろう。
 少なくともハルトは、ずっと求めていた「自分のやるべきこと」を与えられたわけだ。無事にハーディが見つかった時は、また道を見失ってしまうだろうけど……新たな仲間との出会いが、何らかの変化を持たらすかもしれない、と考えることにした。ずっと見送るだけだった皆の背中に、少しでも近づきたいと思ったから。
 春の風は、希望と予感に満ちた花びらを運んできた。



「ハルト、今年のりんごだ」
 ラケタは旅立つ義弟へ、袋に入ったいつもの食料を手渡した。
「そんなに持ってくの……!?」
 どっさり一抱えはある。驚いているウィチ・カへ、ハルトは笑いかけた。
「ウィチ・カたちもいっぱい食べてね」
「私はいらないよ」
 ブレンダは冷たく言い放つ。途端に、ハルトはおびえたように縮こまった。
 馬車に荷物を積み込みながら、三人はわいわい話をしている。今日、ティパ村を発つのだ。その様子を見て、クラリスは少し離れた場所で何度も頷いていた。
「あの調子ならうまくやっていけそうかな」
「ハルトのこと、心配なんですか?」
 いつの間にか横にいたアリシアが、にこにこしながら話しかけた。クラリスは分かりやすく動揺する。
「ま、まあな。女性二人と旅をするわけだし。何か迷惑をかけたら大変だろっ!」
「クラリスさん、口調口調」
「あ! ……もう、女言葉って難しいよ」
 クラリスは照れ笑いした。
 アリシアと仲良く喋る姉を視界に入れて、ハルトはふっと頬をゆるめた。強さにこだわり剣を振っていたあのクラリスも、瘴気が晴れてからずいぶんと穏やかになった。
 そんな彼へ、村人たちの輪から抜け出した母が、ゆっくりと歩み寄った。
「ハルト」
 ミントは穏やかに呼びかける。
「今までわたしたちは、あなたに余計なものばかり押し付けてきたわね」
 ハルトは首を横に振るが、今のミントはどんな反論も封じる雰囲気があった。
「いいの、事実だから。でも覚えておいてね。あなたの家はいつもここにある。好きな時に帰ってきていいのよ」
「うん」
 二十年近くにもなる付き合いを経て、やっと、この母子は真正面から向き合えるようになったのかも知れない。
 いよいよ出発するという時になって、弟を見つめるクラリスは何か伝えたそうに口をモゴモゴさせていたが、
「いってらっしゃい」
 とだけ言った。ハルトはにこっとして手を振り返した。
 永遠の別れではないと誰もが分かっているからこそ、挨拶はごくあっさりとしたものだった。
 三人は馬車に乗り込んだ。名も無き村の老パパオが荷台を引き、穏やかで優しい故郷が離れていく。
 ぼんやりと荷台で膝を抱えるハルトに、ウィチ・カは御者台から振り返って、提案してみた。
「そうだ。ハーディって人を見つけるついでに、わたしたちの村に来てみる?」
 ハルトが何か答える前に、
「何言ってるの。うちの村は、外の人を入れちゃいけない決まりだよ」
 口を挟んだのはブレンダだ。ウィチ・カは手綱を持ったまま、腰に手をあてた。
「これからは時代が変わるんだって、長老言ってたでしょ。うちの村ももっと開放的になるべきなのよ!」
「だからって、何でよりによってこいつを」
 なおも食い下がる彼女に、ウィチ・カは「埒があかない」というように肩をすくめた。
「ハルトはどうなの? うちの村、興味あるかしら」
「……」
 肝心の彼はどこか上の空で、幌の隙間から村の方角を眺めていた。家族のことでも考えているのかも知れない。ブレンダがキッと眉を釣り上げた。
「なあにうじうじしてるの! 自分の意志で故郷から出てきたんでしょ。私はもう十年以上も前に、同じことやってるんだよ!
 それに。女の子の馬車に乗り込むからには、あんたもそれなりの覚悟をしてよねっ」
「わ、分かってるよ……」
 そのやりとりは、何故だかウィチ・カの微笑みを誘うものだった。
 憤慨した様子のブレンダも、不満げに答えるハルトも。今は戸惑いしかないけれど、いつの日かきっと、分かり合える時が来るのだろう。
 ウィチ・カはたっぷりと腕組みをして、
「仕方ないから、見守ってやりますか」
 三人を乗せた馬車は、人々の往来で賑やかになった本街道を堂々と進んでいく。その後ろには、春を告げる白い花びらが風に散っていた。

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