persona

 昨晩、数年に一度の大風が吹いて、ティパ村の家々は軒並み甚大な被害を受けた。
 漁師の家も例外ではなかったが、ジ・ルヴェにはもっと気になることがあった。
「うわ……こりゃひどいな」
 隣に立つ兄のマ・ルセルが頭を掻いた。
 夜が明けて、漁師の一家は元農家を確認しに来た。そこは、家族同然に暮らしているクラヴァットの子供、エンジュの生家であったのだ。
 マ・ルセルの嘆きも当然だった。元農家は風によって屋根が半ば剥がれ、ほとんど廃墟と化していた。もともと空き家だったが、ここまでひどくはなかったのに。
 エンジュはジ・ルヴェの隣で、ぼろぼろの家屋を見上げていた。
「大丈夫よエンジュ。みんなに頼めば直してもらえると思うわ」
 母が元気付けるように言葉をかける。エンジュはそっと茜色の目を伏せた。
「いや。もう、いいです」
「え」
「ここはオレの家じゃない。直しても、結局誰も住まないから」
 どきりとするほど乾いた台詞だった。ジ・ルヴェは驚いて彼を見た。
 エンジュはよく笑う子供だ。明るくて、天真爛漫で、そこにいるだけで周りに安心感を与える。しかし、今——朗らかな微笑みを浮かべるはずの顔は、抜け殻のようになっていて——口の端にだけ、無意味な笑いの残滓が貼り付いていた。
「……!」
 ジ・ルヴェはごくりと唾を飲んだ。
 ずっと一緒に育ってきたエンジュ。何から何まで分かっているつもりだったのに、彼の中にはまだまだ底知れぬものがあるようだった。親兄弟に恵まれた自分とは、決定的に異なる何かが。
 ジ・ルヴェの胸には、ぐるぐると一つの思いが渦巻いていた。
 エンジュのあんな表情は、もう二度と見たくない。



「エンジュ、ここまで来てみろよ!」
 兄のマ・ルセルが、向こうの木の枝にいる弟分を挑発していた。ジ・ルヴェも同じように枝の上に立ち、視線をあちらに投げた。
 彼らセルキー兄弟は、よくエンジュをからかって遊ぶ。エンジュはすぐ挑発に乗るし、それが予想外の結果を生むから面白いのだ。今回の題目は木登りである。
 兄弟はエンジュのいる木からぴょーんと跳んで、こちらの木に移った。子供五人分くらいの距離はあったが、この程度のジャンプはセルキーならお手の物だ。負けず嫌いのエンジュも木登りまではあっという間だった。けれども、こちらまで跳んでくるなんて芸当がクラヴァットの彼に出来るわけがない。少なくともジ・ルヴェはそう思っていた。
 エンジュは一人、枝を足場にして立ち上がった。茜色の目が不機嫌そうにすがめられている。
「むー。見てろよ。今そっちに行くからな。それっ!」
 大きく枝がしなる。彼は空中へと足を踏み出した。
 え、とマ・ルセルが呟いた。そのジャンプは、勢いも高さも十分すぎるほどだった。
 エンジュは羽が生えたように宙を跳ぶと、こちらの枝にひらりと着地した。
「どんなもんだ」
 頬を紅潮させて、得意げに胸を反らす。マ・ルセルはぽかんと口を開けていたが、すぐに我に返って弟分の髪をぐしゃぐしゃにした。
「うわ」
「やるじゃねえか、エンジュ! 見直したぞ」
「へっへーん。ジャンプだったらジ・ルヴェにも負けないもんね!」
 大威張りでエンジュは幼なじみを見やるが、
「……」
 当人は答えず、木の下に注意を向けていた。
「何だよ、無視すんなって——あっ」
 ジ・ルヴェの目線の先には、彼らの母親がいた。
 セルキーの彼女は目を丸くしていた。
「え、エンジュ……今のあれ、どうやったの?」
 どうやら目撃されていたらしい。エンジュは堂々と胸を叩いた。
「すごいでしょ! オレ、あそこからここまで跳んだんだよっ」
「まあ、そうなの。お、おめでとう……。
 木登りもいいけど、みんな降りてらっしゃい。夕飯の時間よ」
 母に言われて、三人はマ・ルセルから順番に木の幹を滑り降りた。
「エンジュ、家まで競走な。よーいスタート!」「あっずるいぞマ・ルセル!」
 地面に降り立つが否や、走り出す二人。ジ・ルヴェは競走には参加しなかったが、少しだけ早足になってその後を追った。母を抜かした時、ぶつぶつ小さな声が聞こえた。
「これは——まずいことになったわね」
 何故か、嫌な予感がした。



 その夜、寝入る間際。たまたま喉の渇きを覚えたジ・ルヴェは、汲み置きの水がある台所へ、足音を忍ばせて向かった。
 隣の居間が明るかった。彼は足を止め、耳を澄ませる。聞こえてきたのは、両親の悩める声だった。
「——エンジュが、木の間を跳んだ? それは本当か」
「ええ……我の民でもありえないくらい高く跳んでいたの。あの子、セルキージャンプも得意だったわよね。このままウチで育てたら、いつか立派なセルキーになっちゃうわ……!」
 母は大きなため息をついた。父は声のトーンを落とす。
「そうなれば、あいつの両親に顔向けできないな……。
 なあ、粉ひきの家に相談してみようか。短い間だけでも、エンジュを引き取ってもらえるように」
 盗み聞きしていたジ・ルヴェはどきりとした。粉ひきの家にはクラヴァットの家族がいる。エンジュは亡くなった両親が漁師一家と仲が良かったため、生まれた時からこの家に住んでいるが、順当に考えればクラヴァットの家庭で育つべきなのだ。粉ひきの家に行けば、本来あるべき形に戻るわけである。
 しかしそれはつまり、エンジュがこの家から出てしまうということ。これまでずっと、本物の家族のように接してきた弟分が、いなくなってしまうのだろうか。
 なんだか胸がもやもやした。頭が鈍く痛む。結局、水を飲まずに部屋に帰った。ベッドの上には、本物のエンジュがいた。
「……」
 明日の自分に降りかかる運命も知らぬまま、すうすう眠っている。それでも脳天気な彼のことだから、「別の家に行け」と命じられても、笑顔で受け入れるのだろう。
 ジ・ルヴェは自分の布団に潜り込んで、まぶたが重くなるまでじいっと何かを考え込んでいた。



 翌日の晩御飯は焼いたさかなだった。漁師の親子と居候、合わせて五人が白いほくほくの身をつついていると、
「マ・ルセル、ジ・ルヴェ、話があるんだ」
 父親が切り出した。ジ・ルヴェは身構えた。思い当たる話題は一つしかない。
「実はな。エンジュが、明日から牛飼いの家にお世話になることになった」
 兄はしばらくきょとんとしてから、
「ええー! マジかよっ」
 と悲鳴を上げた。
「お、おいエンジュ、お前それでいいのか」
 エンジュはへらりと笑って応じる。
「あんまりこの家に迷惑かけるわけにもいかないだろー。オレ、リズん家でいっぱいニク食べてくるよ!」
 昨日の時点では「粉ひきの家に相談する」という話だったが、断られたのだろうか。牛飼いの家なら、彼と仲のいいリーゼロッテもいるからちょうどいい。エンジュの甚だしいセルキー化にも歯止めがかかるわけだ——とジ・ルヴェは推測する。
 エンジュは始終にこにこしており、まるで寂しくなさそうだった。彼は沈黙を保つジ・ルヴェに目をやって、
「じゃーな、ジ・ルヴェ。またいつか帰ってくるかも知れないけど、オレがいなくなってせいせいするだろ」
 彼らは同じ部屋を二人で使っていた。これからは居場所が広くなるぞ、と言いたいらしい。
「……」
 ジ・ルヴェはすっとエンジュから視線を外す。
「なんだよ、お別れの言葉もないのかよ」
「おいおいジ・ルヴェ〜」
 兄のマ・ルセルがにやにしながらこちらを見た。言外に「すねてるのか」と訊いているようである。答えるのも面倒だった。
「エンジュ、寂しくなったらいつでも戻ってきてね」
 などと、母親は勝手なことを言っている。ジ・ルヴェは夕飯をかきこむと、「ごちそうさま」手を合わせてとっとと席を立った。
「……この、薄情者」
 エンジュの言葉が背中に当たった。それでもジ・ルヴェは振り返らなかった。
 翌朝、居候だった子供は少ない荷物をまとめて、牛飼いの家に行った。



「こんにちは! ……ってなんだ、お前かよ」
 牛飼いの家から出てきたエンジュは、落胆したように肩を落とした。訪問者がジ・ルヴェだったことに対して、不満を抱いているらしい。
「リズに用? 今あいつ忙しいよ」
「いや……。お前、誰かを待ってるのか」
 ジ・ルヴェはエンジュの肩越しに牛飼いの家を覗き込んだ。
「うん。今日は行商人が来る予定なんだ。牛の取引するんだって。だから、みんなそわそわしてる」
「ふうん」
 これと言って用があるわけではなかった。ただ何となく、エンジュがどうやって牛飼いの家で暮らしているのか、気になっただけだ。「それじゃ、別にいいか」ときびすを返そうとした足が、止まった。
 真後ろに人がいた。
「こんにちは」
 セルキーの美女だった。背負った荷物から察するに、どうやら行商人らしい。エンジュの話から勝手に男性だと予想していたので、ジ・ルヴェは驚いた。彼女は長いまつげといい腰のラインといい、大人の魅力にあふれていたので、子供たちは少し圧倒された。
「キミがここのうちの子?」彼女はジ・ルヴェに向かって話しかける。
「い、いや」
「なかなか綺麗な子ね」
 ジ・ルヴェの返事が聞こえなかったらしい。行商人の、白くほっそりとした手が彼のほおに伸びた。彼は思わず身を固くする。
 と、エンジュが間に入った。
「違います。そいつは漁師の息子で、牛飼いはユークです!」
 語気が荒かった。眉もつりあがっている。どうも憤りを感じているらしい。行商人は余裕たっぷりに笑った。
「うふふ、もちろん手紙で知ってるわよ。それじゃ、お邪魔するわね」
 彼女は子供たちに完璧な流し目を使いながら、牛飼いの家に入っていった。
 エンジュは腰に手を当てて、じろりとジ・ルヴェを睨む。
「お前さー、顔だけはいいんだから、あんまり女の人に色目使うなよ」
 ジ・ルヴェは瞬きした。自分は「顔がいい」という評価をもらっていたのか。
 それに、一つ気になることがあった。今のエンジュはいつになく不機嫌そうだ。
「な、なんだよ。オレの顔になんかついてる?」
 いつしかまじまじと見つめていたらしい。ジ・ルヴェはふっと背を向けた。
「……帰る」
 エンジュの呆れたような嘆息が聞こえてきた。
 あの美人の行商人は、村長の家に間借りして、しばらく村に滞在していた。交渉にはそれなりの時間がかかるらしい。
 ジ・ルヴェはなんとなく彼女のことが気になり、ことあるごとに部屋を訪ねていった。そのうち彼女も、熱心な子供に対して特別に時間を割いてくれるようになった。
 今日は、村長の家のしましまりんごの木の下でおしゃべりをした。ジ・ルヴェはするすると木を上り、りんごをとると、彼女に手渡した。
「ん」
「まあ。ありがとう」
 行商人ははにかんで、
「キミ、悪い大人になるわね。きっといっぱい女の子を泣かせるわよ」
 ジ・ルヴェは片頬を持ち上げる。
「そうかな。むしろ、その方法を知りたいんだけど」
「積極的ねえ。いいわよ〜何でも教えちゃうわよ。……でも、いいの?」
「何が」
「またエンジュくんが来るんじゃない」
 ジ・ルヴェは堂に入った仕草で肩をすくめた。
「そうかもな」
 彼が行商人と会話していると、何故か必ずエンジュが駆けつけてくる。毎回場所を変えているにもかかわらず……。
 行商人は綺麗な水色の目で子供の顔をのぞき込んだ。
「キミは、彼の気を引きたいのね」
「……はあ?」
 失礼な返事をしてしまった。彼女の唇が弧を描いた。
「だって、私に惚れてるから、おしゃべりしに来てるわけじゃないんでしょ?」
 その発言は的を射ていた。ジ・ルヴェはうつむいた。
「べ、別に……。ただ、あいつの顔が」
「顔が?」不思議そうにする行商人。
 口下手な彼は、じっくりと言葉を探し始める。
 行商人は考え込むジ・ルヴェを見ながらにこにこ微笑んでいたが、不意に耳に手を当てた。
「……ああ、お待ちかねの彼が来たわよ」
 どかどか乱暴な靴音がする。
「ジ・ルヴェ!」
 怒った顔のエンジュが、雑草を踏み荒らしながらやってきた。
 ジ・ルヴェの翡翠の瞳に、うんざりしたような色が浮かぶ。
「お前、なんで毎回来るんだよ」
 エンジュはうっと言葉に詰まった。
「なんでって……ジ・ルヴェがこの人に変なことしたら、村の印象が悪くなるだろ」
「変なことって、例えば?」
 わざと意地悪な質問をしてみれば、
「そ、それは知らないけど」彼は顔を赤らめた。行商人がくすりと笑った。
「——とにかく、お前が女の人に声をかけるのは、嫌なんだよっ!」
 頬を上気させて不快感をあらわにする彼の顔は、滅多に見られないようなものだった。廃墟となった農家を見た時とは全く異なり、はるかに生気に満ちあふれている。その表情は、ジ・ルヴェの目に強く焼き付いた。
 彼は実に邪悪な笑いを浮かべた。
「へえ、俺が女性と話してたら、お前は嫌がるのか……」
 この日から、彼の飽くなき漁色が始まった。エンジュに多少嫌われようと、あの無表情を見るよりは、よほどマシだと思えたから。



 それから何年も経った。ジ・ルヴェとエンジュの生きる道は、ある決定的な出来事によって、分かたれてしまったようだった。
「くそ、なんで気づかなかったんだ……!」
 先ほどからエンジュはぶつくさ文句を言っている。一方ジ・ルヴェは「してやったり」という気分で腕を組んでいた。
 エンジュのキャラバン三年目の旅立ちに、ジ・ルヴェは馬車に潜り込んで、無理矢理同行した。馬車の奥の奥、食料の詰まった木箱の後ろで、五日間も隠れていたのだ。
「村に連れ戻す、なんて言うなよ」
「言わないよ。今から戻ったら時間のロスが大きすぎる……」
 がっくりと肩を落とすエンジュ。頭痛がするのか、ヘアバンドのあたりを押さえていた。じろりと半眼になってジ・ルヴェを睨む。
「お前さー、一体何しに来たんだよ」
「村の外で俺を待ってる美女に会うためだ」
「……。勝手にしろ。とにかくついてきたからには、役に立ってもらうからな!」
「何の?」
「そりゃ、戦闘とか」
「面倒くさい。お前がやれ」
「〜!」
 それっきりエンジュは口を利かなくなり、御者台に座って黙々とパパオを走らせた。
 ジ・ルヴェはかすかに息を吐いて、荷台で思いっきり足を伸ばした。五日間も窮屈な姿勢でいたため、さすがに体全体が凝り固まっていた。
 夜になって、馬車が止まった。いつしか眠っていたジ・ルヴェはその振動で目覚めたが、特にエンジュが呼びに来なかったので、そのまま寝転んでいた。しばらくすると、なんだか焦げ臭い香りが漂ってきた。
 幌から顔を出す。外では火が焚かれ、そのそばにエンジュが座っていた。
「……晩メシか、それ」
 黒焦げの物体が彼の持つ皿の上に乗っていた。エンジュは不機嫌そうに顔を背ける。
「失敗した」
「食材の無駄遣いだな。もったいない」
「〜っ、なんだよお前、文句ばっかり言ってさー! 自分の分は自分で作れっ」
 という発言を、エンジュはすぐに後悔することになる。ジ・ルヴェはあり合わせの食材で、さっさとエンジュの命令を実行してしまった。
「いただきます」
 手を合わせる彼を、エンジュは恨めしそうな目で見ていた。さじを口に含み、ジ・ルヴェは得意げに唇の端を持ち上げた。
「次から俺が作ってやろうか?」
「やーだね」
 彼はぶんぶん首を振る。今年で十七になるというのに子供じみた動作だった。「どこで育て方を間違ったんだろう」と、何故かジ・ルヴェは保護者の視点になってしまう。
 とにもかくにも、夕飯は無事に二人の胃に収まった。エンジュは自分の剣を取って、言う。
「じゃ、お前は馬車で寝てろよ。オレはここにいるから」
「ここに、って……」
 ジ・ルヴェはあたりを見回した。野営地は街道のすぐ脇、木立の中だ。エンジュのいる場所も当然、野ざらしである。
「今までどうやって寝てたんだ?」
「こんな感じで、座ったまま。いいよ、お前に期待なんかしてないから。ゆっくり休んでろ」
 エンジュは興味なさげにひらひら手を振る。
 ジ・ルヴェは彼につかつかと歩み寄ると、突如として殴りかかった。
「わっ!?」慌てて避けるエンジュ。
「どっちが馬車で寝るか、こぶしで決めよう」
「なんでだよ!」
 反論しつつも、エンジュも気分が乗ってきたようである。
「だったら負けないぞ」茜色の目が鋭く光った。
 殴る、蹴る。手も足も使い放題の、ルールなんてほぼ存在しないような取っ組み合いだ。焚き火明かりに照らされた死闘の末、勝ったのはジ・ルヴェだった。
「くっそー、魔物相手だったら負けないのに……」
 エンジュは痛めた腕をさする。ジ・ルヴェは知っていた。彼は喧嘩の時、無意識に手加減している。でなければ自分は一瞬でのされていただろう。ティダ村での話を漏れ聞いた限りだと、魔物に相対した時の彼は一切の容赦をしないはずだった。人を相手にすると本気を出せないのだ。
 彼はエンジュに近寄り、真正面から茜色の目を見つめた。エンジュはびくっとした。
「お前は、俺についてきて欲しくなかったんだよな」
 エンジュはふっと瞳を暗く沈ませる。廃墟となった実家を前にした時の、あの表情が蘇った。
「そうだよ。ジ・ルヴェに何かあったら……オレはマ・ルセルに顔向けできない」
 三年前に亡くなった兄の名前を出されて、ジ・ルヴェは顔を歪めた。何よりも、エンジュがからっぽの表情を浮かべるのが、嫌だった。
 一体どこで間違ってしまったんだろう。三年前、キャラバンの旅に同行したエンジュを、無理矢理にでも引き戻していれば良かったのだろうか。それとも、自分がもっと彼の内面を気にかけていれば良かったのだろうか。くよくよ悩んでも仕方ないのに、その考えを止められなかった。
 ジ・ルヴェは幌の方を指さす。
「じゃ、馬車で寝てろ。後で起こすから」
「……おやすみ」
 エンジュはふて腐れた顔で馬車に帰った。
 傍らにラケットを置き、あぐらをかいて焚き火を見つめながら、ジ・ルヴェはぼんやり物思いにふけっていた。
 エンジュはこうして夜を過ごしてきた。何百回も、ひとりきりで……。
 じきに夜が白んできたので、彼はエンジュを呼びに行った。馬車の中でエンジュはふとんにくるまっていた。ヘアバンドをとり、長めの髪が毛布の上に広がっている。なんとも無防備な姿なのに、それでも剣は手放していなかった。たったひとつの希望にすがっているようにも見えた。
 ふと、昔を思い出した。「エンジュが漁師の家を出てしまう」と知った夜のことだ。眠っている時の顔は、あの頃からちっとも変わっていないのに——ずっと一緒に育ってきたのに。いつの間にかエンジュは、ジ・ルヴェから遠く離れた場所に行ってしまった。もう引き返せないほど遠くに。
「……」
 今日は起こすのはやめよう、と思う。後で怒られてしまっても……それくらいの休息は、エンジュにも許されるはずだった。
 次に向かうは、マール峠。そこにはエンジュの新たな友人とやらがいるらしい。彼は幼なじみのリーゼロッテの言葉を思い出していた。
「マール峠に行ったら、ミントという方に例の忠告をしてくれませんか」
 相手はおそらくクラヴァットの娘。「彼女」がどんな影響を与えているのか、エンジュにとってそれがいいことなのか——ジ・ルヴェは自分の目ではっきりと見極めるつもりだった。
 それに。個人的にも、彼女の存在は気にくわなかった。「マール峠に友だちが出来たんだ」と語るエンジュの浮かべた朗らかな笑みは、絶対にジ・ルヴェには向けられないものだったから。




幸せの閾値

「ミントちゃん、デートしない?」
 と、いきなりヴィ・レさんに提案されて、わたしはびっくりした。
「えっと、デート?」
「もちろんワタシじゃなくて、エンジュとよ。ここにきてしばらく経つけど、二人とも働いてばっかりじゃないの!」
 彼女はルダ村の出身だが、今はティパの農家に滞在している。「エンジュがティダの村に旅立つまでここにいる」と言うので泊めることにしたのだ。家事は手伝ってくれるし、ちょっとした力仕事は請け負ってくれるし、お話は面白いしで、なかなか得難い同居人だった。まあ、彼女にとっては、そんな雑用の合間に漁師の家に遊びに行くことが目当てみたいだけど——
 いやいや、そうじゃない。今はデートがどうとかいう話だ。
「あの、ヴィ・レさん、そんなに気を使わなくていいのよ。わたし、今のままで十分幸せだから」
 本心からそう言うと、ヴィ・レさんの綺麗な眉毛がつり上がった。
「それよ、それ。ミントちゃんとエンジュって、『幸せだ』って感じる基準値が低すぎるのよ」
 ぐさっと言葉が矢になって胸に刺さる。彼女と一緒に暮らしていると、ふとした時になかなか鋭い指摘をされてしまう。
 思えば昔、マール峠にいたころは「エンジュさんのことをもっと知りたい」という気持ちだけが先走って、どこか焦っていた気がする。手紙が来るか否かで一喜一憂したり、言葉の端々から相手の気持ちを読み取ろうとしたり、必死に行動していた。
 でも今は、彼の隣にいられるだけで幸せだった。満足していた。いつの間に考えが変わってしまったのだろう。もう少しだけなら、何かを望んでもいいのかな……?
「だからミントちゃん、エンジュとデートしよ。それがいいわ」
「う、うん、分かった。でも——どうやって誘えばいいのかしら。それにデートっていっても村の中よ」
 わたしが乗り気になったのを感じたらしい。ヴィ・レさんはにっこりした。
「二人っきりになれるスポットがあればいいんだけどねえ……ワタシもいろいろ考えてみるわ!」
 ばしばし背中を叩かれた。わたしはちょっとだけ愉快な気持ちになっていた。



 夕飯の片付けをしていた時、頬のあたりに視線を感じた。エンジュさんがこっちを見ている。わたしに何か言いたいことがあるときは、いつもこうやってじいっと目を向けてくるのだ。意地悪で知らないふりをすることもあるけど、今日はすぐに気づいてあげた。
 案の定、彼はぱっと顔を明るくした。
「ミントさん、明日ヒマ?」
「え……ヒマじゃあないけど、一日くらいなら仕事を休めるかな」
 ちょうど今日、麦の刈り取りが終わった。強いてやるべきことといえば、粉ひきの家で今年最初のいなかパンが出来上がるのを待つことくらいである。
 エンジュさんはぴんと人差し指をたてた。
「じゃあ、日帰りで聖域の外に行こう」
「え」
 わたしは目を丸くした。彼の不思議な発言は今に始まったことじゃないけれど、一体どういう風の吹き回しだろう。
「ミントさんは海を見るのが好きなんだよね。オレ、水平線までよく見えるいい場所を知ってるんだ。馬車を出して、一緒に行こうよ」
「う、うーん……」
 なんというか、突然すぎて話題についていけなかった。助けを求めるようにヴィ・レさんを見る。
「ワタシはやることがあるから遠慮しとく。二人で行って来なよ〜」
 デートの話をした矢先にこの申し出だ。彼女が何か策を弄したのではないか、と思ってしまう。セルキーの美人さんは曖昧な笑みを浮かべていた。
 エンジュさんがわたしの顔をのぞきこんだ。
「ミントさん。……いいよね?」
 頷かない、なんて選択肢はない。わたしは彼の笑顔に弱いのだ。



 翌日、わたしは数年ぶりに聖域の外に出た。パパオの先導する馬車に乗って、新街道を北上していく。前回はマール峠の馬車だったけれど、今回はもちろんティパキャラバンの馬車だ。
 一緒に暮らしていて、エンジュさんの部屋の内装までよく知っているというのに、なんだか相手のプライベートに踏み込んだみたいだった。胸がどきどきしている。
「この道を脇に入るんだ」
 三叉路に差し掛かって、御者台からエンジュさんが振り返った。「ミントさんが村に来た時は、多分あっちの本街道を通ったと思うんだけど」
「ちょっと覚えてないわ」
 幌から顔を出して答えると、エンジュさんは首をかしげた。
「ミントさん、なんか嬉しそうだね」
「え、そうかしら」
 とぼけつつも、頬がほころんでいるのを感じる。エンジュさんと二人っきりでおしゃべりできて、旅の様子まで垣間見ることが出来るなんて——嬉しくないわけがない。
「そろそろだよ」
 エンジュさんが前方を指さした。すると木立が左右に割れて、視界が開けた。崖っぷちの向こうには絶景が広がっていた。
「うわあ!」
 目の前には青いキャンバスがあって、水平線がちょうど真ん中を走っている。光を受けて輝く海は、信じられないほど大きくて深かった。
 エンジュさんとわたしは馬車を降りて、海を眺めた。
 崖にぶつかって波が砕ける音がする。潮風がエンジュさんの赤茶の髪を揺らす。わたしたちは五感の全てで海を感じていた。
「あの雲のあたりを東に進むと、キランダ諸島。真ん中の大きな島には火山があって、てっぺんにミルラの木が生えてる。そこへは船に乗って行くんだ。ジ・ルヴェの家の船よりずっと大きいんだよ」
 彼は大空を抱くように腕を広げた。
「へええ……」
 まぶたの裏に彼の語る情景を描き、はるかなる秘境へと思いを馳せた。でも。
「わたしはそこに行けないのね」
 胸の前で組んだ指に、力が入った。同じ景色を見て感動したからこそ、どうやっても共有できないものがあると、気づいてしまった。
 わたしの大好きな茜色の瞳が、こちらに向けられた。肩に手が置かれた。
「オレが代わりに行くよ。キミの目になって、耳になって、たくさん思い出を持って帰る。……それでどうかな?」
 わたしは微笑んで首を縦に振った。その言葉を聞けただけで、満足だった。
 それからわたしたちはお昼ご飯にした。もちろん、お弁当をつくって持ってきていたのだ。
 エンジュさんは草の上に広げた包みを見て、微妙な顔になった。
「今『野菜が多いな』って思ったでしょ」
「うっ」
「あーあ、前はあんなにおいしそうに食べてたのにな〜」
 思いっきり嫌味を言ってあげると、エンジュさんは困ったように頬を掻いた。
「ごめん。オレ、ミントさんに甘えてるよね」
 バスケットに入れたサンドイッチのあたりで、視線がさまよっている。
「実はさ、村だと『野菜が嫌い』ってはっきり言ったこと、なかったんだよ。多分顔には出てたし、みんな知ってたと思う……けど、どうしても言えなかった。ただでさえ迷惑かけてるのに、世話してくれたジ・ルヴェの両親の手間を増やしちゃうのは、嫌だったから。
 その分ミントさんの前ではちゃんと主張できて、嬉しいんだ」
 はっとした。家族がいないことによる影響は、こんな所にもあらわれていたのだ。
 わたしはほおを膨らませた。
「……あなたがいくら甘えようと、わたしは甘やかさないからね」
「うん。これからもよろしく」エンジュさんはなぜか楽しそうに笑っていた。
 その後、どちらが野菜を食べるか軽い言い争いがあって、お弁当を平らげるまで、かなり時間がかかってしまった。
 わたしたちはいっぱいになったお腹を抱えて、しばらくぼうっと海を見ていた。
「ところでエンジュさん。今日はどうして誘ってくれたのかしら」
 気になっていたことを質問してみると、彼は何度か瞬きする。
「えっと……楽しくなかった?」
「ううん、とっても楽しかったけど。急にこんなことをした理由が知りたくてね」
 ふいっとエンジュさんは顔を背けた。耳が赤くなっている。
「お、オレとしては、デートのつもりだったんだけど……」
 どきんと心臓が跳ねた。わたしは思わず身を乗り出した。
「——!? ま、まさか、ヴィ・レさんに何か言われたの」
「え、ヴィ・レ? いや別に」
 彼は面食らったようだ。紅潮したほおに手をやって、なんとか冷やそうと努力している。それはわたしも同じだった。
 エンジュさんは座ったまま、陽光を受けて絶妙に色彩を変え続ける海へと視線を投げる。
「キミと一緒に海が見たかった。それだけじゃ、ダメかな」
 わたしは彼の肩にそっと寄りかかった。「いいわよ」と言う代わりに。
 どれだけ幸せの基準値が低くても、構わない。今この瞬間の喜びは、誰にも負けないものだって信じているから。




祝祭の準備

「えーっ! ジ・ルヴェってば、まだミントちゃんたちに『おめでとう』って言ってないの!?」
 ヴィ・レがすぐそばで大声を上げたので、ジ・ルヴェは眉をしかめて耳を塞ぐ素振りをした。
「あり得ないでしょ。結婚式はもう明後日だよ! 今すぐにでもおうちに行って、お祝い言ってきなよ」
 彼女は居候のくせに偉そうだった。そう、居候である。さすがに結婚を控えた農家に居座ることはやめたのだが、今度は漁師の家に居着いてしまった。その上、家事の手伝いから漁の補佐までこなして着々と信用を積み上げていき、もはや漁師の家での扱いも、ほぼ血の繋がった家族と同等になっていた。ジ・ルヴェには納得のいかない展開である。
 そんな彼女に「お祝いを言ってこい」と命じられても、にわかには承諾しづらい。
「なんで俺が……」
「だって、ジ・ルヴェはエンジュと兄弟みたいにして育ったんでしょ? エンジュの方も、あなたがどう考えてるか、結構気にしてるだろうし」
「別にあいつとは関係ない」
 きっぱり言い切ると、ヴィ・レは大げさにため息をついた。
「じゃ、せめてミントちゃんにはおめでとうを言ってあげようよ。ついでにこれ、届けてくれる? 漁師の家からのお祝いの品だって」
 彼女に渡されたバスケットに入っていたのは、綺麗に飾り付けられたペアのマグカップだった。いつの間にこんなものを用意していたのだろう。しかも、両親は実の息子ではなく、ただの居候にお祝いの品を託したということか……。
 ジ・ルヴェはまた「なんで俺が」と思ったが、今度は口に出さなかった。黙ってバスケットを受け取る。
「いってらっしゃーい」
 ヴィ・レはいずれ自分と結ばれる(と勝手に確信している)相手へ、ぶんぶん手を振った。



 ジ・ルヴェはしばらく農家の看板の前をウロウロしていた。
 今、農家は大忙しだ。明後日の結婚式の準備で、礼服の調整やら備品の用意やら、するべきことはいくらでもあった。ただ、それらは主にミントが手配しているらしい。エンジュはこういう時役立たずだ。
 やがて、意を決して戸を叩いた。予想に反してドアから出てきたのは、忙しいはずのミントだった。
「あれ、ジ・ルヴェだ」
 明らかに疲れているのに、その瞳には気合いがみなぎっている。エンジュがティダ村から帰ってきたあの日、「自分は死に至る病に冒されている」と告白されたあの時の衝撃から、彼女はひとまず立ち直ったか——もしくは一時的に忘れているのだろう。わざわざ指摘することでもない。いずれ来たるべき「その日」は、まだずっと先なのだから。
 ジ・ルヴェは、
「これ、ヴィ・レから」
 と言ってバスケットを差し出した。
「ああ、お祝いかしら? 悪いわね、ありがとう」
 彼女はすぐに扉の奥へひっこみそうになる。
「ミント」慌てて声をかけた。
「なあに?」
「時間、あるか」
 どことなく必死そうな彼の様子から何かを察したのだろう、ミントは少しだけ思案顔になってから、
「いいわよ。お茶淹れるわね」
 農家に招き入れてくれた。
 ここはジ・ルヴェが自らの手で修復した家だった。なので間取りは完璧に覚えている。しかし家具が入り、住人たちによって彩られた家は、あのボロ家からは想像もつかないような心地の良い空間になっていた。
 客間に通され、てきぱきとお茶が用意される。ミントはよくリーゼロッテやヴィ・レと一緒にお茶の時間を楽しんでおり、茶葉やお菓子のたぐいはふんだんに用意されていた。
「エンジュさんはローランさんと段取りの調整中。このくらいは役に立ってもらわないとね」
 ミントは明後日には夫となる男を、ばっさり評価した。家庭内ではずいぶんと彼女が優勢らしい。
 彼女はほおづえをついて、お菓子をつまむ。今日のお茶請けはさくさくしたクッキーだ。どうも残り物のくず野菜を混ぜ込んでいるらしく、ほのかににんじんやら青菜の味がする。野菜嫌いのエンジュに食べさせるための工夫かもしれない。
「ジ・ルヴェと二人でこうして話すのは、珍しいわね。今までこんなことあったかしら」
「一度くらいはあったんじゃないか」
「でも、こんなにのんびりしてるのは初めてじゃない? 最初に会った時は、二人とももっと殺伐としてたし」
 最初に会った時——ジ・ルヴェはふうっと過去に思いをはせた。
 彼がミントの存在を知ったのは、今から十年ほど前、エンジュがキャラバン一年目の旅から帰ってきた時だった。エンジュは、皆の予想に反してとても生き生きとしていた。旅先の話はあまりしなかったが、それでも旅を楽しんでいることは明白だった。あんな凄惨な事件の後で、しかも一人きりのキャラバンなんて大変に決まっている、と村人たちは皆ヒヤヒヤしていたというのに……。一体彼に何が起こったのだろうと、リーゼロッテと二人で勘ぐったものだ。
 その手紙を最初に見つけたのはジ・ルヴェだった。というよりエンジュ宛てに届いたものを、彼が受け取ったのだ。キャラバンの休養中、二人は同じ家に住んでいたから。
 手紙はミントという人物からだった。さすがに封を開けることはためらわれたが、差出人を見た瞬間、自分の心にわき上がった黒い雲の形を、ジ・ルヴェははっきりと覚えている。
 手紙を見つけてから、リーゼロッテとジ・ルヴェはいつもの通りベル川のほとりで会議を開いた。彼らの姉と兄がこの世を去ってから、二人はそうしてよく集まっていた。
「ミントという方は、女性……なのでしょうね。エンジュの心を、射止めたのかもしれません」
「……」
 それから一年経って、エンジュのキャラバン三年目の旅に、ジ・ルヴェは馬車に忍び込んで無理やりついていった。
 一年間様子を見た結果、やはりミントとエンジュの仲は深まるばかりだった。リーゼロッテたちは、取り返しのつかなくなる前にミントを牽制しようと結論づけたのだ。ジ・ルヴェは「あまり深入りするな」と忠告する役割を与えられた。
 エンジュだってあんな悲惨な過去は知られたくないだろう。自分たちは彼のために行動しているのだ——というのは建前だった。あの時のリーゼロッテとジ・ルヴェは、確かにミントに嫉妬していた。ただでさえ不透明なエンジュの心に、よりにもよって部外者が近づくなど、ありえないと思っていた……
 それが今や、ミントはティパ村になくてはならない人物になっている。一人で立派にティパの農家を支え、今やエンジュとの結婚にまでこぎ着けたのだ。ティダ村でミルラの木を発見したエンジュよりも、彼女はある意味ずっとティパ村に貢献していた。
 ジ・ルヴェは唇のあたりに苦いものを感じた。
「あの時は、悪かった」
 いきなり謝られたので、ミントはものすごく驚いた様子だった。
「ジ・ルヴェが頭を下げるなんて……! どうしたの、熱でもあるの?」
 その発言はいくらなんでも失礼すぎるだろう。彼はムッとしたが、それでも目をそらすだけにとどめた。
「いや。初対面の時は、お前には訳の分からないことを言ったからな」
 ミントはくすりと笑って、大きくのびをする。
「そうねえ。とりつくしまもないって感じだったわ。ジ・ルヴェったら顔だけは綺麗なんだもの、威圧感がすごかったわよ。でもおかげでわたしの闘志に火がついて、ますますエンジュさんのことが気になったんだけどね」
 つまり、ジ・ルヴェやリーゼロッテの行動は逆効果だったわけだ。しかし今にして思うと、それも悪い結果ではなかった。リーゼロッテも同じことを考えているに違いない。
 ミントがティパ村に来てくれて、良かった。
「最終的には、みんな友だちになれたじゃない。最初の印象なんて大したことないわよ」
 笑顔をこぼすミントは、まさに幸せの絶頂という雰囲気で——この後に必ず訪れる別れの日が、ジ・ルヴェは恐ろしくなってしまった。
 最初は、エンジュだけだった。エンジュがいれば自分の世界はほとんど完結するのだと思っていた。でも今は、ミントもかけがえのない、余人をもって代えがたい存在だと思っている。彼女はエンジュをひとりにしないでくれた。それだけでなく、ジ・ルヴェやリーゼロッテにとっての良い友人になってくれた。
「おめでとうミント」
 ジ・ルヴェは万感の思いを込めて祝福した。彼女は目を丸くした後、はにかんで、
「……ありがとう」
 と言った。
 今までの彼女と過ごした年月よりも、これから同じ村で生きていく年月の方が、ずっと長くなるのだとしたら。やはりその門出にふさわしい言葉はこれしかないだろう、とジ・ルヴェは思った。
 そうやって真面目くさっている友人を見て、ミントはにやりとする。
「エンジュさんにも言ってあげてね、その言葉」
「それは……どうしようかな」
 ジ・ルヴェが眉間にしわを寄せると、ミントは彼の方に手を伸ばし、その蜜色の長い髪を軽くひっぱった。友人同士の戯れだが、ジ・ルヴェはどきっとしてしまう。
「今しか言えない言葉もあるのよ。他でもないあなたの口から出るべき言葉がある。だから、ね」
 それは、すぐに言葉を自分の内側にしまいこんでしまうジ・ルヴェへの、厳しくも優しい指摘だった。
「……努力する」
 ミントはパッと手を離すと、明るい笑顔になる。
「そうだ。今度はあなたとヴィ・レさんの結婚式に、わたしが『おめでとう』って言ってあげるね」
「そんな日は一生こない」
 断言しつつ、ジ・ルヴェはミントに伴われて玄関を出た。
 ミントはごく普通の、小柄なクラヴァットの女性だ。だが彼女は目には見えないけれど、両手に抱えきれないほど大きなものをジ・ルヴェやエンジュにもたらしてくれた。
 明後日の結婚式では、二人の晴れ姿をしっかりと目に焼き付けたいと思った。




暁はまだ遠い

「ふうん、なるほどね。それでアタシは、この手紙を然るべきタイミングでモーグリ便に出せばいいのね?」
 メモリ=ノードは受け取った封筒を見下ろし、あっさりと了承した。
 目線の先には、ベッドの上に半身を起こしたエンジュがいる。メモリは彼に呼び出されて、ティパの村を訪れていた。彼女にとってはこれが初訪問だ。
「お願いできるかな」
 エンジュが控えめに言うと、メモリは目を細めてひらひらと片手を振った。
「いいわよ。この手紙がきっと、ミントのためになるんでしょ」
「うん」
 エンジュはへらりと笑った。あの手紙は、リバーベル街道のモグへと宛てた手紙だ。モグはそれを受け取った後、さらに「最後の一人」へ二通の手紙を出すことになる。ひとつはミント宛で、もう一つは——元気に生まれてくるはずの子供へ向けた手紙だった。
「オレがいなくなった後も、ミントさんが寂しくならないように……こうするのが一番いいって思ったんだ」
 現在死を招く病に臥せっている彼は、優しく目を閉じた。その仕草には未来への希望がありありと表れていた。
 メモリはエンジュと数年ぶりに再会したわけだが、元気に大陸を駆けまわっていた頃とほとんど変わらぬ彼の姿に、大きな安心感を抱いていた。
「あなたがそう思うなら、それでいいのよ。さすがはアタシが認めたミントの相手ね!」
「か、買いかぶりすぎじゃないかな……」
 エンジュは照れくさそうに頬を掻いた。メモリは、彼の妻ミントの唯一無二の親友だった。マール峠にミントが住んでいた頃は、よく顔を合わせたものだ。
「あら。アタシはね、エンジュさんがろくでもない男だったら、すぐにでもミントから遠ざけるつもりだったわよ」
「えっ」エンジュの背筋を寒気が駆け抜けた。彼女はマール峠商工会を束ねる、やり手の事業主なのだ。「遠ざける」という言葉にも自然と重みが出る。
 メモリは茶目っ気たっぷりに、しかし厳しい発言をする。
「あの子はあなたと出会うまで、ろくに男の人と触れあったことがなかったからね。エンジュさんが、あなたの友だちのセルキーみたいな性格だったら、アタシは持てる限りの力で引き離してたわね」
「あはは……」
 自分がジ・ルヴェのような女たらしでなくて良かった、と思ってしまうエンジュだった。
 しばらくして笑いの波動が引き、彼は布団の上で指を組む。
「でもさ。オレはミントさんに迷惑ばっかりかけてるよ」
 一つ屋根の下で暮らすようになってからも、何年も待たせてしまった。やっと思いが通じあったかと思えば、この病気だ。メモリに対しても申し訳なさが募る。
 メモリは姿勢を低くして、うつむく彼と目線を合わせた。
「そうかもね。だけど、どんな形であれ、あなたはそれ以上のものをあの子に与えてるのよ。あなたたちはお互いに必要としあってる。アタシ、二人が羨ましいわ」
「羨ましい?」
「ええ。——そうそう、アタシね、あなたに相談があるのよ!」
 メモリは珍しく満面の笑みを浮かべた。身を乗り出して、ぱん、と両手を叩く。エンジュは気圧されたように体をベッドに沈ませ、目を丸くした。
「相談って……まさか、そのために遠路はるばるティパの村まで来たの?」
 そもそもエンジュは、仕事で忙しいメモリをここに呼び出すつもりはなかった。なのに連絡を取った際、彼女の方からわざわざ出向くと言ってくれたのだ。その行動の裏に、このような目的があったとは。
「そうよ。しかもこれは、エンジュさんにしか出来ない相談なの!」
 メモリは綺麗な青目をくりくりさせた。
「アタシって他人にプライベートの相談をしないのよね。弱みを見せるみたいで嫌だから。でもエンジュさんにならいいかなって思って。今回ばかりは深刻なのよ……」
 饒舌に語るメモリを初めて見たので、エンジュは目を白黒させていた。
「オレでよければ聞くよ。どうしたの」
 すると、突然メモリは真剣な顔になって、
「老後が不安なの」
 エンジュはぱちりと瞬きした。
「……オレたち、まだ三十そこそこだよね?」
 しかも彼女はエンジュよりいくつか年下だ。老後について考えるには、いくらなんでも早いのではないか。
「いいえ、今だからこそ人生について考えるべきなのよ。アタシってば仕事人間だから、趣味も何も持ってなくてね。その状態で引退したらって思うと、今から不安になっちゃうの……」
「そ、そっか」
「エンジュさんは十年もキャラバンを続けてて、いきなりやめちゃったでしょう。それでも今、こんなに楽しそうにしてるじゃない。そういう人生を歩むコツを聞きたいのよ」
 なるほど、とエンジュは思った。確かに彼は、青春をほとんどキャラバンの旅につぎ込んだ。今でもよくあの頃のことを思い出す。周りの人間としても、キャラバン時代の印象が強いだろう。
 彼はゆっくり言葉を区切って答えた。
「そうだなあ。旅をして、体を動かすのも好きだったけど……ミントさんとなら何をしても楽しいし、娘のクラリスは可愛いし、村にいれば友だちが何かと構ってくれるし。今の生活にも満足してるよ」
 メモリはむーんと考えこむ。
「なるほど。趣味というよりは何でも楽しむ精神と、家族や友だちの存在が重要なのね。メンタル面と家族はともかく、友だちかあ……アタシ、周りは商売敵ばっかりよ」
 あまり真面目に考察されると恥ずかしくなる。エンジュは赤くなる顔を隠しながら、
「み、味方はいないの?」
「部下と、夫がいるかな。でも相棒みたいなものよ。エンジュさんたちみたいに、愛し合って結婚したわけじゃないもの……」
 良家のお嬢様となると、結婚すら自由にできないらしい。だが、エンジュは強く諭した。
「そうかもしれないけど、一緒に過ごした時間は絶対に裏切らないよ。メモリにはメモリにふさわしい仲間がまわりにきっといるはず。
 それに、キミのそばには、オレだっているから」
「……!」
 メモリは驚いたように口を半開きにした。エンジュはにっこりと笑う。
「そりゃあ、マール峠とティパは少し遠いけど。メモリの仕事がうまくいくように、キミが楽しく暮らせるように、オレはいつでもここで応援してるよ」
 彼は明るく言葉を結んだ。刻一刻と寿命が近づいているはずなのに、言葉も仕草も、それを感じさせない。メモリは「永遠」を信じないが、もし彼の命が失われてしまっても、確かにエンジュは自分のそばにいてくれるのだろう、と信じられた。
「……そっか。そうなのね」
 メモリは破顔した。腰に手を当て、ふうっと息を吐く。
「全くもう。アタシのハートまで掴みに来るなんて。だから色んな人に狙われるのよ、エンジュさん。あなたが一番大事なのはミントなの、そこは曲げちゃダメよ」
「え、ああ、うん」
 ハートを掴むだの、狙われるだの、「オレ何か変なこと言ったかな」と戸惑うエンジュだった。
 メモリは柔らかく頬を持ち上げ、エンジュの少し骨ばった手をとった。
「でも、嬉しい。おかげで老後もやっていける気がしてきたわ。エンジュさんが応援してくれる代わりに、アタシはあなたの大好きな世界を守っていく。あなたの子供たちにも不自由はさせない。だから、安心しなさい」
「……ありがとう」
 ただの口約束ではない。メモリの発言には、必ず生涯を通してこの誓いを守り抜く、という決意が感じられた。
 エンジュの部屋に降り注ぐあたたかい光を浴びながら、メモリは「ここに来て良かった」と心底思った。やがてエンジュの手を離し、軽く肩をすくめる。
「そういえば、もう一人誰か呼んでるって言ってたわよね?」
「あ、うん。覚えてるかな、モーグリのモグ。あいつも来るはずなんだけど……」
 すると、部屋の扉が何者かによって元気に叩かれた。
「クポ〜!」
 メモリは笑みをこぼした。
「いいタイミングね」
 ——そうしてモグを仲間に加えた三人は、たくさんの話をした。ミント宛の手紙のこと、近況報告、それから数え切れないほどの思い出話を。
 差し込んだ日差しが、部屋の中を夕焼け色に染め上げる頃、控えめなノック音がした。開いたドアから顔を出したのはミントだ。
「メモリ……」
「あらミント、どうしたのよ」
 彼女は少し心細そうな声で、
「やっぱり、うちに泊まっていかない? せめて夕飯だけでも食べていってよ」
 メモリは「残してきた仕事があるから今日中に帰る」と宣言していた。しかし、エンジュと話し込むうちに随分時間が経ってしまった。彼女の送り迎えを担当するマールキャラバンにも休息が必要だろう、と考え直す。ミントとの気兼ねない会話だって久々なのだ。もっと堪能したい。
「うーん、仕方ないなあ。その代わり、今夜は寝かさないわよ」
「……ありがとう、メモリ」
 ミントは力なく微笑んだ。一児の母になったというのに、数年前よりも明らかに元気がない。今、誰よりも心の危機を迎えているのは、間違いなく彼女だろう。だからこそメモリとモグが呼び出されたのだ。
 エンジュの見据える未来と、ミントに見えている未来は、大きく違っている。だが、エンジュに託された手紙が届いた時、彼女にもきっと分かるのだろう。
 二人の出会いは、まわりの人々をも幸福にするものであったと。
 エンジュは黙ってメモリと目を合わせた。二人の間には今、そっくり同じ思いが共有されていた。




揺らがぬ水面

(一年目)

 我の民たるセルキーは己を第一とする種族である。
 他人よりも自分を優先する——そんな性質を持つ者のみで構成されたルダ村のキャラバンは、当然他キャラバンと比べて団結力が弱い。戦いにおいても、各々の好き勝手な行動がうまく噛み合って、なんとか成果を上げているような状態だ。
 だから、今代のルダキャラバンのリーダーはある方針を打ち出した。そんな我の民でもある程度の団結を養える、特別な方法を考案したのだ。
 今年ルダキャラバンに入隊した新人のヴィ・レは、地面に広げた敷布の上に並べられていく酒瓶を眺めていた。
「今日は何から飲もうかなあ」
 まだ太陽が中天高く上っている時刻に、いささか不釣り合いな光景だ。
「ヴィ・レは酒精に強いからなあ。最初からガツンと度数の高いやつでも問題ないだろ」
 リーダーが笑って空の杯を手渡した。
 馬車を街道の脇に止め、キャラバンはこれから原っぱで酒盛りをしようというのだ。
 リーダーが考案したのはこのイベントだった。村では貴重な酒だが、キャラバンに入ると途端に飲み放題になる。現金なもので、仲間たちは「酒を飲むために頑張ろう」と一致団結するようになった。
 乾杯の準備が整うまで少し時間がある。ヴィ・レが杯を手のひらの中で遊ばせていると、セルキー特有の鋭い聴覚がある音を拾った。馬車の車輪が石畳の上を転がる硬い音だ。
 彼らの休憩場所に、別の馬車が通りがかる。
「こんにちは」
 御者台に座るクラヴァットの少年が穏やかに挨拶をした。ヴィ・レはまだ見たことのない顔だ。赤茶の長めの髪をヘアバンドでまとめ、温の民らしからぬ涼し気な目元をしている。そして、幌の中から何故かモーグリが顔を出した。
 それ以外、馬車からは誰も出てこなかった。
「おー、エンジュじゃないか。久しぶりだな」
 リーダーは両手を広げて少年に駆け寄り、親しげに絡んでいる。ヴィ・レも腰を上げた。
「リーダー、その人は?」
「こいつはティパのシングルキャラバン。エンジュって言うんだ」
「よろしく!」
 少年は笑顔で手を差し出した。握手したヴィ・レもつられてにっこりし、
「よろしくー。ワタシはヴィ・レよ。今年からの新人なの」
 正面に立つと、身長の関係でヴィ・レは軽くエンジュを見下ろす形になる。
「えっと、エンジュは一人旅なの?」
「まあね。今はモグがいるけど」モーグリはクポ、と鳴いてエンジュに頭を撫でられている。どういう経緯で行動を共にしているのだろう。
「エンジュはなあ、一人でもう四年は旅してるよな? こう見えてヴィ・レより先輩なんだぞ」
「えーっ!」
 ヴィ・レは目を丸くした。正直、顔立ちといい背丈といい年下にしか見えなかった。クラヴァットは皆このくらいの成長速度なのだろうか?
「うそ、何歳?」
「今年で十八かな」
「ワタシより二つ上じゃない! じゃあ十五からキャラバンやってるんだ、へええ……」
 ヴィ・レは戸惑うエンジュをまじまじと見つめた。子ども一人に何年もキャラバンを任せるなんて、ティパにはまともな人材がいないのかと疑ってしまう。何よりも、そんな若輩者がきちんと成果を出して五体満足で旅を続けているのが脅威的だ。
 エンジュの事情をどこまで知っているのか、リーダーはにやりとして、
「そうだエンジュ、これから飲んで行かないか」
「飲む? 何を」
「お酒に決まってるじゃない!」
 気を取り直したヴィ・レは、酒瓶を持ってエンジュに迫る。
「昼間からお酒飲むのか……?」彼は目をぱちくりさせていた。
「うちのキャラバンじゃ、よくやってることなんだよ。ファム大農場で仕入れたとっておきもあるぞお」
 うっとりと目を細め、リーダーは飲む前から夢見心地である。彼は根っからの酒好きであった。
 しかしエンジュは首を横に振った。
「オレ、お酒なんて飲んだことないよ」
「え!? 水かけ祭りでも?」
「そうだけど」
 途端にリーダーが少年の肩をがっちりつかんだ。エンジュは「うわ」と軽く悲鳴を上げる。
「なんてもったいない。よおし、俺たちが酒の味を教えてやるっ!」
「え、いや、オレ今日はもうちょっと進みたくて」
「移動なんていつでもできるけど、このお酒は今日しか飲めないんだよ!? しかもセルキーのおごりってレアにも程があるわ」
「な、なるほど。それもそうか!」
 勢いに負けたのかあっさり押し切られたエンジュに、
「クポー……」隣のモーグリが呆れたように息を吐いた。
 エンジュはルダの仲間たち——リーダーとヴィ・レを入れて総勢四人——の輪に招かれる。敷布の上に座り、ずらりと並べられた酒瓶を眺めた。
「へえ、いろんな種類があるんだな」
「エンジュの飲めそうなやつ、ワタシが選んであげるよ」
「本当? 助かるなあ」
 ヴィ・レの実家は商人であり、昔から父が珍しい酒を入手してくる度にこっそり分けてもらっていた。酒の良し悪しについてはすでに一家言持っているレベルだ。
 酒の本質といえばやはり一定以上度数が高いものになるのだろうが、あまり最初から飛ばしすぎてエンジュに苦手意識を抱かせても問題だ。だから、軽めで果実のような味わいのある醸造酒を選んだ。
 皆に酒が行き渡ったのを確認し、リーダーが杯を高く掲げる。
「ではでは、ルダとティパ、両キャラバンの今年の無事を祈って、乾杯!」
 ヴィ・レはこの瞬間が大好きだった。杯同士が澄んだ音を立て、皆が笑い合い、一斉に口をつける。どんなに偏屈な者でも、この瞬間だけは幸せそうな顔になる。彼女は唇を湿らせた液体が喉をするりと落ちていく感触を存分に味わった。
 エンジュはおそるおそる杯を覗き込んでいたが、一気に半分ほどを口に含んだ。
「お。おー、喉が熱い……」
 目を白黒させながら、酒精が通り過ぎていった喉のあたりをさすっている。
「大丈夫、すぐに全身熱くなるから喉の熱さとかよく分かんなくなるよ」
「それって思いっきり酔ってるだろ」
 指摘を受けて、ヴィ・レはからりと笑った。
 エンジュは最初ペースが掴めなかったようだが、ルダの仲間がつくったつまみ(ソーセージを軽く炙って焦げ目をつけたもの)を食べたあたりで緊張がほぐれてきたらしい。
「このモーグリ、モグと出会ったのは今年のリバーベル街道なんだ。ふつーにダンジョンの真ん中を横切ってくもんだから、はじめは新種の魔物かなんかかと思って——」
 エンジュは自分の冒険譚を楽しげに語った。一種の語りの才能があるらしく、ルダキャラバンは肩を揺らして笑った。
 彼の話が一段落したところで、騒ぐ仲間たちの輪から外れ、ヴィ・レはエンジュに話しかける。
「なんかおかしいね、温の民のエンジュが一人旅で、我の民のワタシたちが仲間とつるんでるなんてさ」
 すでに三杯目に突入したエンジュはぼーっとした目つきになり、首をゆらゆら傾けている。酔うと眠気に襲われるタイプらしい。
「そうだなあ……オレ、温の民ってよく分かんないんだよな」
「え? どういうこと」
「オレって両親いなくてさあ。友達のセルキーとかユークの家で育ったから、クラヴァットの生活ってどんなのか知らないんだ」
 なんだか重そうな事情をこぼす。ヴィ・レはきょとんとした。
「親がいない」というのは、文脈的に亡くなっているということだろう。しかもごく幼い頃に。彼は親の顔を知らない可能性すらある。
 気の利いた言葉をかけるべきだったのかもしれないが、すでにふわふわ楽しい気分になって難しいことを考えられなくなっていたヴィ・レは、
「へえー。そりゃーそんな事情があれば、クラヴァットのことなんてよく分かんないよね」
 と毒にも薬にもならない相づちを打った。
 だいぶ酔いが回った様子のエンジュはこてんと首をかしげ、「うん」とうなずく。
「それならさ、エンジュはどうして一人旅なんかやって……あれ、おーい。寝てる?」
 一瞬だった。彼は立てた膝に顔を埋めるようにして、すうすう寝息を立てはじめていた。全身に酒精が回って耳まで赤い。この時間に昼寝をすると夜に眠れなくなりそうだ。
 向こうで仲間たちと盛り上がっていたモーグリが戻ってきた。
「あれ、エンジュおやすみしてるクポ?」
「よっぽど寝不足だったのかな。ねえモグくん」
 モグは可愛らしい顔を少し曇らせる。
「うん……エンジュ、あんまり寝てないみたいだったクポ」
「なんか心配事でもあったのかも。最近の話?」
「多分、ずっとクポ。寝るときも横にならないし、ボクより長く起きてるクポ」
 ヴィ・レは目を丸くした。
「それって一人旅だから……?」
 街道では常に魔物を警戒しているのかもしれない。一人しかいないので、夜警すら立てられないのだ。
 下手をすれば、エンジュは四年前からずっとそんな生活を続けていることになる。
(なんか大変そうだなあ)とヴィ・レは他人事のように思った。
 試しにエンジュの頬をつついてみるが、何も反応がない。相当深い眠りに落ちているようだ。
「んー、真面目なのはいいけど、たまには息抜きしないとねえ」
 ヴィ・レはにこりとして、自分の杯を飲み干した。

(二年目)

 ルダキャラバンはしばしば旅の途中で村に帰って休息を取る。それはクリスタルの期限を度外視した旅程であるが、「最終的に間に合えばいいだろ」という方針をリーダーが貫き、村をまとめるおかしらのル・ティパも賛同している。おかげでヴィ・レは、ケージ聖域が窮屈になると実家で足を伸ばせる、という理想的なキャラバン生活を送っていた。
 そして、ちょうど今年の休息期間、ライナリー砂漠の雫を求めてティパキャラバンがルダの村にやってきた。驚くべきことに、エンジュはセルキーの仲間を引き連れていた。彼は何故かかたくなに「仲間じゃない」と言い張っていたけれど、誰がどう見ても立派な仲間だ。
 その仲間、ジ・ルヴェという青年は砂漠から帰ってきたエンジュに肩を貸していた。後ろから心配そうにモーグリがついてきている。
「ちょ、大丈夫? アントリオンに苦戦でもしたの」
 あてもなく村をぶらついていて、目立つ二人組とモーグリを見つけたヴィ・レが思わず駆け寄ると、
「大丈夫だ。なあエンジュ」
 ジ・ルヴェはぱっと仲間を支えていた手を離す。いきなりバランスを失ったエンジュは危うく転倒しかけた。
「お前なー!」
 即座に体勢を戻してジ・ルヴェに詰め寄る。そのやりとりはいかにも気安い関係という感じで、「なんだエンジュも友だちいるんじゃないの」とヴィ・レは安心していた。
 それだけ気力が有り余っていれば、きっと誘っても構わないだろう。
「まあまあ。確かに元気そうで良かった。ところでみんな、今晩予定ある?」
「いや、特に」
「ならワタシに付き合って! 旅先で買ったいい果実酒があるんだー」
 片手で杯を持ち上げるような仕草をすると、ジ・ルヴェがじろりと睨んできた。
「自分が飲みたいだけだろ。……まさか、お前がエンジュに酒の味を覚えさせたのか」
「そう怖い顔しないでよ。お酒飲ませたのはうちのリーダーだってば。で、どう? いい息抜きになるわよきっと」
「それじゃあお邪魔しようかなあ」
 エンジュは明らかにわくわくした様子だ。なんだかんだで酒の味を気に入ったらしい。モーグリのモグだけは「お酒あんまり好きじゃないし、ボクは遠慮するクポ」と言ったが。
 宿に荷物を置いたらここに集合ね、とお願いして、ヴィ・レは自宅にとって返して準備をはじめた。
 静かに夜が迫ってくる。ルダの村では、風も光も何もかもが海からやってくる。そんな村の中で酒盛りをするのに最もふさわしい場所を、彼女はよく知っていた。
 三人はしばらくして再び集まった。ヴィ・レは、
「はいこれ持って」
 と持ってきたボトルをジ・ルヴェに渡す。「なんで俺が荷物持ちなんだ」とぶつくさ言いつつも、彼は運んでくれた。押しに弱いあたりがいかにもティパのセルキーだ。
 ヴィ・レが延々崖側に沿って歩いていくので、エンジュが質問する。
「もしかして外で飲むのか?」
「今日は瘴気も薄いし星空なんだよ。せっかくだから海見ながら飲もうよ」
「いいね、それ!」
 三人は海辺にある焚き火のもとへ向かった。村の共用のもので、火種が欲しい時はここからもらうのだ。
 焚き火を囲んで座った彼らは、それぞれの杯に液体を満たした。夜闇で本来の色はわからないけれど、杯の中は黒い空の色と炎の照り返しを写し取ってきらめいていた。
 ヴィ・レが杯を高く掲げ、乾杯の音頭をとる。
「ティパは雫集めお疲れさま。ワタシたちはこれからがんばります。それじゃ、かんぱーい」
 冷たいものが喉を落ちる。一息で彼女の酒はほぼ全部なくなった。
 エンジュが酒精の感触を確かめるように喉をさわる。
「あ、おいしい。去年のやつより飲みやすいなこれ」
 予想通りの反応をもらって、ヴィ・レはにへらと笑った。
「エンジュが好きそうな味のやつ選んできたんだよ、褒めて褒めて」
「それは、ありがとう」
 焚き火に照らされたエンジュの頬はすでにぽうっと赤い。
「ジ・ルヴェはどう? おいしいでしょこれ」
「少し味が軽すぎる」秀麗な顔立ちのセルキーは渋面で返事した。
「ほー。ってことは割といける口なわけ?」
「勝負してみるか」
 ジ・ルヴェの瞳が光った。「望むところよ」とヴィ・レは対抗するように身を乗り出す。エンジュは一人おののいて、
「お、オレは遠慮しておく」
「何言ってんの! もちろんエンジュも参加するんだよ」
「怖気付いたとは言わせないぞ」
 たちまち我の民たちから非難の声が飛んだ。エンジュはぶんぶん頭を振る。
「そうじゃなくて……ああもういいよ、付き合ってやるよ!」
 それぞれの杯を一度干してから満杯まで注いだ。今度は一杯目よりも数段度数が高い銘柄だ。なんの準備もなしに口に含むと頭がくらりとするレベルの蒸留酒である。
「ギブアップせずに最後まで飲んでいられた人が勝ち、でどうかしら」
「分かった。負けたら罰ゲームはあり?」
「勝ったやつの言うことをなんでも一つ聞くこと」
 涼しい顔でジ・ルヴェは宣言した。真顔になったエンジュは背筋を伸ばす。「絶対負けないからな……」
「それじゃあまず一杯目ね、乾杯」
 ヴィ・レは微笑んだままするりと酒を飲み込んだ。
 ——「絶対負けない」と言っていたエンジュが、当たり前のように真っ先に寝落ちた。脱落者が出た後も杯を重ねていき、もはやセルキー二人は彼に言うことを聞かせる権利を争っている状態だ。
 しばらく無言で瓶を空けつつ、エンジュの寝息と潮騒を聞いていた二人だが、不意にヴィ・レが口を開いた。
「ジ・ルヴェさあ、これからずっとキャラバンやるわけ?」
「いや……今年で終わりだ。もうこいつにはついていかない」
 彼はふっと表情を沈ませる。
「なんで? 飽きたの?」
「キャラバンの旅で俺にやれることはもうないからな」
 ふーん、とヴィ・レは絶妙に興味なさげな返事をする。
「ジ・ルヴェってなんか温の民っぽいよね」
「はあ? どこがだ」
「だって他人のことばっかり考えてるじゃない」
 ヴィ・レは意味ありげに横目でエンジュを見る。本格的に横になって眠る彼に手を伸ばし、ヘアバンドからはみ出た髪をいじってやった。
「そんなことはない!」
 立ち上がった拍子に、ジ・ルヴェの足元が揺れた。そして彼は大声を出したことに気づき、はっとしてエンジュを確認した。起きる気配はない。
 ヴィ・レはにやにやしながらしっかりした足取りで立ち上がる。
「ワタシの勝ちでいいかしら?」
 ジ・ルヴェはふてくされたようにどっかり腰を下ろした。
 彼女は敗れた男たちを見比べ、笑みを深めた。
「セルキーっぽいクラヴァットと、クラヴァットっぽいセルキーかあ……ティパの村って行ったことないけど、面白そうよね」
 ちなみにヴィ・レは翌日、敗者のエンジュに「今度機会があったらあなたのおごりで飲みたいな」と持ちかけていた。

(三年目)

 アルフィタリア城下町。ルダキャラバンにとってはあまり長期滞在したくない場所だ。かつての大戦を経て種族宥和の世の中になってから数百年経過しても、未だリルティたちのセルキーへの偏見は根深い。歩いているだけで物取りだと疑われたり、立ち入りを禁止される地区もある。
 が、ヴィ・レはどれだけ疑いの視線を向けられてもいちいち反応するような繊細な性格ではなかったので、肩で風を切って街中を歩いていた。そんな彼女をリルティたちは不思議そうに見つめている。
 本日ヴィ・レが無駄に注目を集める理由は、隣にいる人物にもある。
「この路地の奥だよ。おすすめの酒場」
 彼女は隣を歩くエンジュの腕に体を沿わせるような格好で道案内していた。エンジュは「ち、近いよヴィ・レ」と照れていた。
 そう、たまたま大都会でエンジュと再会した彼女は、去年の敗者に約束を果たしてもらおうとしていた。モグはこの街のモーグリの巣に入り浸って何やら話し込んでいるらしく、不在だ。
 メインの道から一本入り、右に曲って、さらに奥……と進んでいく道も、セルキーの勘と感覚に任せれば迷うことなく突破できる。
 そうしてたどり着いた目的地は、一見すると民家とも思える場所だった。看板も出ていない。
「いかにもなお店でしょ? リーダーに教えてもらったんだ」
「そういえばリーダーさん元気?」
「元気も元気、元気すぎて引退してもキャラバンにお酒提供してくれるよ」
「あれ、引退されてたのか。今度ルダに行ったら挨拶しよう」
 雑談しながら扉を開ける。中は、カウンターと椅子しかないこぢんまりとした空間だ。内装の木材全てが飴色に塗り込められていて大人の雰囲気を漂わせている。
「ここ、オレが入って大丈夫なやつ……?」
「うん。ここはリルティ専用じゃないしね」
 アルフィタリアでは、酒場もリルティとそれ以外で分かれているのだ。ヴィ・レの案内したこの場所は、特に入店制限は設けていない。
 やたらと背の高い丸椅子に、膝を揃えて行儀よく座るエンジュを差し置いて、彼女はさっさと二人分の注文を済ませる。
 カウンターの奥に控える酒場の主人はセルキーであった。なるほど穴場になるはずだ。他に客は一人、それもユークである。アルフィタリアのど真ん中にあるとは思えない、なんともいえない雰囲気だ。
 主人は酒瓶から液体を注ぐ。エンジュは首をかしげた。
「これ……本当にお酒か?」
 杯を満たす液体はどろりとした赤紫色をしていた。少しエンジュの髪色と似ているだろうか。
「これもワインよ」
「えーっ嘘だ、なんでワインに色ついてるんだよ」
 正確には、彼の知るワインは薄黄色だった。こんなに濃い色の液体は見たことがない。
「ワインがにじいろぶどうから作られてるのは知ってるでしょ。普段は皮を剥いで中身だけでお酒にしてるんだけど、これは皮も入れてるんだって。その分ちょっと癖が強いけどね」
「へええ……ぶどうって色たくさんあるのに、紫になるのか」
「そうだねえ、混ぜたらこの色になるのかもね。あ、皮の一部だけ取り出したら青いお酒もできるのかも?」
 ヴィ・レがゆらゆら杯を傾ける。エンジュはキラキラした瞳で、
「すごいなヴィ・レ、温の民のオレよりよっぽど農業にくわしい」
「まあね、お酒に関することだけね!」
 それでも褒められると気分かいい。ヴィ・レはにこやかに杯を掲げる。
「今日はおごってくれてありがとう。じゃあ乾杯!」
 杯同士をぶつけると、ちいんといい音が鳴る。紫色のワインは渋く深い味わいながらも飲みやすかった。二人の杯はどんどん進んだが、今日のエンジュはどうも話のテンポが悪い。酔いが回って気がほぐれていくのと反対に、どんどん口は重くなっていくようだ。
「どしたの、なんか悩みでもあるの?」
 話の流れを遮って、ヴィ・レが水を向ける。エンジュは図星だったようで下を向いた。
「うん……悩みっていうか、まあ。
 知り合いがさ、親御さんを亡くされてて。その上、今一緒に住んでるおばあさんまで調子が悪いみたいで、落ち込んでるんだ」
 エンジュは茜色の瞳に憂いを宿す。この場合の「知り合い」は、多分もっと近しい存在だろうとヴィ・レは見当をつけながら聞いていた。
「それともう一つ……何年か前にその知り合いが住んでる村に行った時、たまたま親御さんの命日だったんだ。それで、オレはその人と会わなかった。会う勇気がなかった。オレが来たことも言わないまま、また旅立った」
「えっと……なんで?」
「親御さんのことを思い出して悲しんでる人に、どう対応したらいいか分からなくて。ああいう時って何をしたら正解なんだろう。ヴィ・レならどうしてた?」
 なんだかおかしなことを訊くものだ。エンジュは悲しむ間もなく両親を亡くしたようだから、そのせいかもしれない。
 ヴィ・レは眉間にしわを寄せて、
「えー? そういう時に正解なんてないと思うけど。ワタシなら多分、お悔やみの言葉をかけるかなあ」
「具体的にはどういう言葉を?」エンジュは身を乗り出す。
「そこまでぱっと思いつかないよ。自分で考えなよ」
 エンジュは丸椅子に体重を戻した。
「そうだよなあ。でもオレ、ああいう雰囲気苦手なんだよなあ」
 葬式だのなんだのは、誰だって得意ではないだろう。
「ま、ちょっとそれは分かるかも」
「分かる? どうしても悲しい雰囲気になるのがなあ。もっとこう……笑って見送るとかできないのかな。
 ——そうだ、オレが死んだらみんなに笑ってて欲しいな!」
 突然エンジュは元気よく言い放った。ヴィ・レは軽く目を見開く。彼がこんなにも明るく、しかも平然として死の概念を持ち出すことに違和感を覚える。
 彼女はワインを干した。新たに甘めの酒のミルク割りを注文する。
「うーん。そういうにぎやかなお葬式って、ユークの長老なんかがめちゃくちゃ長生きして、親族一同『これでやっと面倒みなくて済む』って思うような場合くらいじゃないの?」
「そうかなあ。別に短い人生でも十分やりきったならそうなる気がするんだけど。
 ヴィ・レはさ、例えばオレが死んでも、笑って見送ってくれる?」
「いいよー別に」
 なんだか重要な問いかけだった気はするが、酒の勢いも手伝ってヴィ・レはごくあっさりうなずいた。
「ま、ワタシを笑わせるためにはとにかく長生きしないと、ね?」
「へへ……ありがとうヴィ・レ」
 エンジュは安心したのか、やがて吸い込まれるように眠りに落ちていった。
 去年の宣言通り、今年のティパの馬車にジ・ルヴェは乗っていなかった。眠りこけたエンジュをどうやって宿まで連れ帰ろうか、と彼女は思案する。
 それにしても、何年も旅をしている強豪シングルキャラバンにいきなり死なれたら、ティパ村は笑うどころではないだろう。ヴィ・レは彼の背をぽんぽんと叩いた。
「頼むから、ちゃんと笑えるような死に方してよね」

(四年目)

 泥に汚れたエンジュの体は馬車の板張りの床に横たえられていた。その脇には闇色の大剣がある。
 ヴィ・レが見守る前で、彼は薄くまぶたを開く。茜色の瞳がぼんやりと焦点を結んだ。
「おはよう、エンジュ」
「あ、あれ、ヴィ・レ? オレなんで寝て……」
 体を起こそうとしてエンジュは軽く息を呑み、断念した。全身に痛みが走ったのだろう。
「ワタシたちがミルラの雫をとった後、あなた倒れちゃったんだよ」
 その年のコナル・クルハ湿原に、珍しく三つものキャラバンが揃った。ルダ、ティパ、そしてアルフィタリアだ。クリスタルケージは三つ、ミルラの木は一本。アルフィタリアは別の目的があったため退いたが、ルダとティパの二隊で雫を争うことになった。といっても血で血を洗うような闘争ではもちろんなく、他愛もない競争だった。
 人数の多さも手伝ってティパよりも一足先にミルラの木に近づいたルダキャラバンは、ドラゴンゾンビとキングベヒーモスに挟み撃ちにされ、苦戦を強いられる。そこにエンジュがやってきて、アルフィタリアから借り受けた魔剣ラグナロクを使い戦局を切り開いてくれた。しかし、無理がたたったのか、彼は馬車まで帰ると同時に気絶したのだ。
「そうだったのか。馬車の中まで運んでもらって……ごめん、助かった」
 だらりと力を抜くエンジュへ、モグが寄り添う。このモーグリは、先ほどエンジュから旅の終わりを言い渡されたばかりであった。
「やっぱりボク、まだいた方が——」
「大丈夫だって! こんなことにはもうならないからさ」
 ぽんと胸を叩くが、モグの顔は晴れない。ヴィ・レは正直「エンジュは誰も見てないところで、山ほどこういう無茶を繰り返してるんだろうな」と確信していた。あの容赦のない、自分を捨てるような戦い方を見ていたら分かる。
 ごろりと寝返りを打ったエンジュが、ふと枕元のセルキーを見上げて何かに気づく。
「……ていうかヴィ・レ、その手にあるのは」
 彼女はにっこり微笑んで片手を持ち上げた。
「お酒!」
「だと思った……」
「だってエンジュの顔見たら飲みたくなったんだもん!」
 もはや脳内でそんな関連性が出来上がるほど、二人はとにかく会う度に酒を飲んでいた。エンジュは呆れ返る。
「オレはさすがに付き合わないよ?」
「いいってー、ワタシだけで楽しむから。エンジュはそこで見てて」
 眠る彼のそばに控えている時から、モグの白眼視を受けつつもすでに飲んでいた彼女だ。愛用の杯を傾け、ごくごく喉を鳴らすさまは堂に入っている。
 一方安心した様子のモグはエンジュのすぐ脇に降り立って、大きなもふもふの塊と化していた。そうするうちに寝てしまったらしい。
 エンジュは苦笑しながら、一人で酒盛りを敢行するヴィ・レを言われたとおりに眺めやる。
「あれ、ルダの仲間たちは呼ばなくてもいいのか?」
「みんなとはいつでも飲めるからね。それに今日は、エンジュに聞きたいことがあるんだ」
 ヴィ・レは一口液体をすすり、
「あのさ、ミントちゃんのことくわしく教えてよ」
 途端にエンジュは分かりやすく動揺した。
「えっ!? な、なに? なんで?」
「だって気になるじゃない! あのエンジュにいい人だなんてさー。もちろんクラヴァットよね? やっぱり村の幼なじみとか?」
 畳み掛けるように追及すると、エンジュは恥ずかしそうに耳を染め、体ごと横を向いた。
「マール峠の雑貨屋の子だったんだ。でも……唯一の家族だったおばあさんを亡くされて、つい最近うちの村に来た」
「え! それってもしかして去年の」
「うん」
 自分の預かり知らぬところで一つの命が失われた——当たり前といえば当たり前だが、過ぎ去った時の重さに彼女は口を閉じる。
 だが一瞬後には気を取り直して喉に酒を流し込んだ。
「そっか、引っ越してきたのかー。急接近じゃないのエンジュ。もう告白とかしたの?」
「そういうのじゃないんだよ……」
 困ったような声だった。照れているのとは少し違う反応だ。
 エンジュは急に体をひっくり返すと、仕返しとばかりに意地の悪い顔をする。
「そうだ、オレも聞きたいことがあるんだよ。ずばり、ヴィ・レはジ・ルヴェのこと好きなのか?」
「あ、うん。そうだよ」
 ヴィ・レはあっさりうなずいた。エンジュは拍子抜けしたようだ。
「一応聞くけど、どのあたりが……?」
「彼、見てたら面白いじゃない」
「そういうのって好きっていうのかなあ」
「人それぞれ想いの形は違うよ」
「じゃあ、ずっとあいつと一緒にいたいって思うの?」
「思う。絶対一生楽しく過ごせそうだもの」
「なんか微妙に参考にならないんだけど……」
 互いに理解の範疇の外で会話をしていることに気づいたのだろう、エンジュはそれ以上質問を重ねなかった。
 代わりに、
「でもさ、ジ・ルヴェのこと好きになってくれてありがとう。あいつなんか人に嫌われることばっかりしてるし、ちょっと安心したかも」
 ヴィ・レは曖昧に笑う。ジ・ルヴェのあの面倒な態度は、おそらくエンジュの気を引こうとしてやっていることだ。彼女はこういう時の勘を外したことがない。
「どういたしまして。エンジュはジ・ルヴェのこと好き?」
 返す刀で不意打ちを喰らい、エンジュは狼狽えた。
「は、はあ? ……友達だとは思ってるよ」
 ヴィ・レはにこりとする。
「そっか。友だちとか好きな子とか、エンジュのまわりにはいろんな人がいていいね。ワタシそんなに知り合い多くないからなー」
「なに言ってんだよ。ヴィ・レも友だちだろ?」
 ストレートなセリフを受け、常に酒精でも色の変わらぬヴィ・レのほおに赤みがさした。
「……そうだよね!」
 二人はどちらともなしに手を差し出し、握り合った。

(六年目)

「あのねミントちゃん、ワタシ今日は酒盛りがしたい!」
 目下、ティパ村の農家に居候中のヴィ・レは、家主のミントにそう提案した。
 まさか噂に聞くエンジュの彼女と一つ屋根の下に暮らすことになるとは、二年前には思いもしなかったことだ。だが、ヴィ・レは自ら選んでこの村にやってきた。ミントと同じように。
「水かけ祭りでもないのに、お酒飲むの……?」
 ミントは不審そうな顔をしている。同じく共に暮らしているエンジュがにやにやして、
「ヴィ・レはお酒好きなんだよ。キャラバンの時もしょっちゅう飲んでたよなー」
「ええ……仕事の最中に?」
「前のリーダーがそういう方針だったんだよ。あ、さすがに戦ってる時は飲んでないよ」
「それ以外はだいたい飲んでたな」
 ミントは呆れた、と言わんばかりに肩をすくめる。
「お酒好きなのはわかったけど、うちにはないわよ」
「ふふふ、こんなこともあろうかと自前があるから大丈夫! それに商人の家に頼んだら何か仕入れてくれるかも……あ、エンジュはもちろん参加だからね!」
「分かってるよ」
 苦笑するエンジュを引き入れ、ヴィ・レは「やった」とガッツポーズをする。
 ミントは、自宅で行う酒盛りというものが、いまいちぴんとこないらしい。
「お酒って夕飯と一緒に飲むの? それともご飯食べた後に飲むのかしら」
「今日はご飯の後にしようかな」
「分かった。それじゃあ今晩はあんまりお腹の膨れないメニューにするわね」
 ありがとう! とヴィ・レは勢い余ってミントに抱きつく。「ついでと言ったらあれだけど、ジ・ルヴェも誘ってもいいかな? 久々に一緒に飲みたいの!」
 ぎゅうぎゅう抱きしめられたミントは困ったように笑った。
「もー。晩御飯の後ならね。エンジュさん、いい?」
「構わないよ。リズは……一応誘ってみるけど多分来ないだろうな」
 エンジュはヴィ・レが今まで見たこともないほどくつろいだ様子で笑っていた。
 果たしてミントは軽めの夕飯と、さらにはおつまみまで用意してくれた。おつまみは、牛飼いの家でつくられたハムを分厚くスライスして上にチーズをのせ、天火で焼いたものである。リーゼロッテは酒盛りに参加しない代わりに食材を提供してくれたのだ。
 夕飯が終わり、万事手際のいいミントによってみるみるうちに酒盛りの準備が整っていく光景を見て、なんだか実家よりいい待遇だ、とヴィ・レはうっとりした。
 ちょうど乾杯をはじめる頃合いに、ジ・ルヴェが農家へやってきた。テーブルの上を完璧にセッティングしたミントも席に着く。
「お、ミントちゃんも飲むの?」
「あんまり得意じゃないから、一杯だけね」
 するとジ・ルヴェが口の端に笑いを閃かせる。
「そうか? 前に水かけ祭りの宴でやけになって一気飲みしてただろ」
 ミントは顔を真っ赤に燃やした。
「それは忘れて!」
 エンジュは「本当なの?」と首をかしげ、ヴィ・レは忍び笑いを漏らす。
「まあまあ、酒の席のことは後になって言うもんじゃないよ。
 それじゃあ気を取り直して……エンジュの壮行会代わりに、かんぱいっ!」
 ヴィ・レはにこにこしながら自前の酒を飲んだ。ミントは皆に遅れること数瞬、おっかなびっくり杯に口をつける。
「あ、おいしい……」
 エンジュは相変わらず顔を火照らせながら、
「味音痴な割にお酒の見立てだけはうまいよなーヴィ・レ」
「もしかしてヴィ・レさんの舌がおかしいのって、お酒の飲み過ぎだからじゃないの?」
「あららー言われたい放題ねワタシ」
 それでもミントちゃんよりお酒の味分かるもんね、と負け惜しみを言いつつチーズをつまむ。
「そういえばヴィ・レって本当にキャラバンやめたのか?」
 唐突にエンジュが尋ねるので、彼女はきょとんとした。
「あ、うん。村からおかしらの物資を運んできて、そこでキャラバンとも村ともお別れって約束だった」
 ジ・ルヴェは暗い顔になる。
「本気で引越してきたのか……お前、実家はいいのかよ」
「ワタシあんまり家に寄り付かないタイプだったし、好きにしろって言われた」
「ということは本格的にティパの村に住むのね! うちで良ければ好きなだけ使ってよ」
 目を輝かせるミントへ、ヴィ・レは手をひらひら泳がせる。
「いやー、そんなまさか。早々に邪魔者は退散するから安心して」
 恋人たちの暮らしに強引に割り込んだのだ、今は好意に甘えているけれど、あまり長居はできない。
「っていってもうちの村、宿なんてないぞ」
「もう一箇所居候するあてがあるから大丈夫!」
 親指を立てるヴィ・レに、クラヴァットの二人は同時にジ・ルヴェを見つめた。彼は頭を抱えて突っ伏す。
「お前、本当に我の民らしいよな……」
「そりゃあそうよ。相手の都合よりワタシの都合が最優先なんだから」
「うーん、確かに湿原でオレが倒れてた時も隣でがぶがぶ酒飲んでたよな」
「ヴィ・レさん……」
 恨めしげなミントの目線が突き刺さる。さりげなくジ・ルヴェも白い目をしていた。ヴィ・レはそんな雰囲気を吹き飛ばすようにからからと笑った。
「怪我した本人でもないのに辛気くさい顔しててもしょうがないでしょ。楽しくいこうよみんな!」
 ジト目が苦笑に変わり、宴が進んでいく。
 一杯だけ、と言いつつ結局三杯目まではミントもがんばって付き合っていたが、
「ごめんなさい、頭痛くなってきたからもう寝るわ」
 眉間にしわを寄せて言う。続いてジ・ルヴェも立ち上がった。
「俺も帰る。これ以上は明日の漁に響く」
「はあ!? つまんない男になったねジ・ルヴェ!」
「うるさい」
 本当は、ふらついているミントが心配だったのだろう。まったく分かりやすいものだ。一方、エンジュはこういう時に気を回せない男である。
「おやすみミントちゃん。片付けはやっておくよ!」
「おやすみなさい……」
 ほおを染めてよろよろ歩いていくミントと、何かあったら支えられるように脇に控えるジ・ルヴェ。酔いの回ったミントを見ていると、昔のエンジュを思い出す。そう思えば、彼もそれなりに酒精に強くなったものだ。
 二人きり、すなわちいつものメンバーになると、ぐっと雰囲気が気安くなる。リラックスした様子のエンジュが杯を傾けながら、
「ヴィ・レはなんでキャラバンやめるんだ? オレほどじゃないけど、結構長く続けてただろ」
 問いかけられたヴィ・レは空になった杯を差し出し、エンジュに酒を注いでもらう。
「えーと、なんかもういいかなって。エンジュもやめるんでしょ、それに合わせてワタシもやめるの」
 そう言うとエンジュは奇妙な表情をした。
「……なんでオレがやめるって分かったの?」
「もう続ける理由がないでしょ。だからねー、ティダ村から帰ったら、いっぱいミントちゃんと一緒にいてあげるんだよ」
「うん……」
 エンジュはくすぐったそうに笑った。
「にしてもエンジュってすごいよねー。ワタシといいミントちゃんといい、あちこちの村からティパに人材引き抜いてるじゃん」
「人材……? そんなつもりはないんだけどなあ」
 ここでヴィ・レはテーブルを軽く叩いて主張する。
「あのね、世界中でも限られた数しかいない人の中から自分の村に二人も呼び込んでるって、ある意味でキャラバンよりもずっとティパに貢献してるってことだよ!」
「そっか……そうなのかな」
 エンジュはキャラバンをずっと続けてきた。だから、もしもそれ以外に生きる道がないなんて彼が思い込んでいたら嫌だと思ったのだ。それはヴィ・レなりの励ましの言葉だった。
 もう少しすれば、エンジュはティダの村に旅立つ。かつての彼の仲間が眠る地へと。皆が彼の帰りを信じているし、ヴィ・レもそうだ。自ら選んでティパの村に来た彼女の心は、彼の旅の終わりを見届けたいという気持ちであふれていた。
 そして、たとえキャラバンのつとめを終えても、いつまでも笑って杯を交わす仲でいたいものだと思った。

(それから八年後 前編)

 ヴィ・レは静かに部屋をノックした。
「お邪魔するよ、エンジュ」
「やあ、ヴィ・レ。来てくれて嬉しいよ」
 自室で横になっていたエンジュは上体を起こそうとした。ヴィ・レは駆け寄り、手伝ってやる。クラヴァット特有の長袖から覗く腕は随分と細くなっていた。
 ティダの村でミルラの木を発見し、ティパに帰ってきて、ミントに正式にプロポーズして。ティパ農家夫妻として女の子を一人授かり、また新たな生命がミントに宿ったその矢先に、彼は倒れたのだった。そう、ずいぶん前から彼の体は病魔に蝕まれていた。もうエンジュは旅に出ることはない。あとはベッドの上で命が尽きるのを待つだけだった。
「なんだかこうして二人で会うのも久しぶりだな」
 エンジュは、命の炎が細っていくことへの恐怖などまるで感じさせないような穏やかさを保っていた。人の親になったというのに、いつまでも若く幼い印象が抜けきらない。子供っぽい性格だと言われがちなヴィ・レだって、それは似たようなものかもしれないけれど、エンジュに関してはより「まだ旅立つには早い」という思いが強くなる。
 ヴィ・レは後ろ手にあるものを隠しながら、
「今日はエンジュにお土産があります」
「……酒だろ?」
「正解!」
 酒瓶を取り出した彼女は、エンジュの部屋のサイドテーブルを借りて当たり前のように自分だけで飲みはじめた。エンジュも文句を言うことなく楽しげに眺めている。
「最近あんまりやってなかったな、酒盛り」
「ミントちゃんがお酒苦手だからねー。ティータイムも楽しいけど、ワタシはやっぱりこっちだなあ」
「一口飲ませて」
「いーよ」
 杯を口元に持って行ってやると、エンジュは少しだけ傾けて唇を湿らせた。
「うまい。相変わらずヴィ・レの見立ては完璧だなあ」
「へへへ」
 ——結局、彼の息抜きになればと思ってはじめた酒盛りに、意味はあったのだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、不意にエンジュが口を開いた。
「あのさ、ヴィ・レ……オレが昔アルフィタリアで言ったこと、覚えてる?」
「え? なんだっけ」
 とぼけてみせたが、本当は心当たりがあった。
「ほら、オレの葬式の時には笑っててほしいってやつだよ」
 エンジュはあの時と同じようにさらりと告げる。当時はあまりにも現実感のない話だったが、今はそうも言っていられない。死も葬式もごく近くにあるのだ。思えばあの時すでに、エンジュは無自覚に「死」に取り憑かれていたのだろう。
「あー、あれね……うん、覚えてるよ」彼女にしては珍しく歯切れの悪い返事だった。
「オレって、死んだ後に笑ってもらえるような生き方ができたのかなあ」
 ヴィ・レは少し目をそらす。
「普通の人の三回分くらいの密度のある人生だよ。ちょっと早すぎる気もするけど、ワタシは笑顔で見送ってあげる。あ、ミントちゃんやジ・ルヴェには見つからないように気をつけるけどね」
 その返答を聞いて、エンジュは肩の力を抜いた。
「よかったあ。ヴィ・レってオレのこと嫌いなんじゃないかって思ってたから」
「へ!?」
 あまりに驚いた彼女は、農家全体に響くような大声を出してしまう。
「いや、それはないでしょ!」
「嫌いって言い方は間違いだったな、ごめん。でもヴィ・レってこう、なんか外側からオレやみんなのこと見てる感じがしてたから。本心を言わないっていうかさ」
 彼女は予想外に鋭く切り込まれ、どきりとする。
 まさかエンジュに気づかれていたとは。思えばルダキャラバンの仲間を除いて、ヴィ・レが今までで一番多く酒を飲み交わしてきた相手は彼だった。知らず知らずのうちに、エンジュの琴線に触れる何かをこぼしていたのかもしれない。
「ワタシさあ……基本的に精神が安定してるんだよね。子どもの頃からあんまり怒ったり泣いたりしなかった。それで、自分の心があまりにも平坦だから、関心が外に向いたの」
 彼女は笑みを崩さず答える。それでエンジュは納得したようだ。
「ああ、だからキャラバンに入ったんだ。外への関心って、例えばジ・ルヴェみたいなやつに?」
「そうそう。でもねエンジュ、キャラバンに入って最初に気になったのは、あなたのことだよ」
 エンジュは何度か目を瞬く。
「オレのことが……?」
「一人旅なんて、訳ありじゃなきゃやるわけないでしょ。絶対変人だなって思ったし、事実予想通りだった」
「反論できないなあ」
 さまざまな思い出が胸に去来したのだろう。目を閉じて肩をすくめるエンジュに、ヴィ・レはくすりと笑う。
「でもね、キャラバンをはじめて、この村に来て、こんなに楽しい時間が過ごせたのはあなたのおかげだよ。ワタシの人生を面白くしてくれて本当にありがとう!」
 彼女はベッドの上に身を乗り出して、エンジュを抱きしめた。
「……こちらこそ」
 背中に回って抱き返す手は弱くもあたたかい。ヴィ・レは少しだけ体を離し、至近距離のまま彼と目を合わせる。
「にしてもエンジュ、結構酔った時の記憶あったんだね。あんなにしょっちゅう寝てたのに」
「失礼な。寝てる間はさすがに覚えてないけど、ヴィ・レとの記憶で大事じゃないものなんてひとつもないから、全部ちゃんと持っていくよ」
 彼女は一瞬ぽかんとして、
「やだ、口説くのはミントちゃんだけにしてよ」
「え? オレ今口説いたの?」
 二人は顔を見合わせ——笑った。
 笑いながら、ヴィ・レは「ミントちゃんもジ・ルヴェも、本当にこの人の魅力から逃れられなかったんだな」と思った。必死に距離をとって外側から観察しようとしても、エンジュはどんどん心の奥まで踏み込んできて、大きな存在になっていく。
「ホント危ないやつだなあ」
 思わずポロリとこぼすと、エンジュは不思議そうな顔をした。ヴィ・レは軽く首を振った。
「なんでもない。約束のこと、任せてね」
「ああ。ヴィ・レにしかできないことだと思う。頼むよ」
 少し前、彼はジ・ルヴェになんだかおかしな手紙を託していた。自分の死後に必要になるものだと言い含めて。けれどもヴィ・レにそれは必要ない。そのことをエンジュはよく分かっている。
 きっと己が旅立つ日にも、ヴィ・レの心が揺るがないことを信じているのだ。

(後編)

 漁師の家のテーブルに空の酒瓶が転がっている。
 深夜に帰宅したジ・ルヴェ——セルキーらしからぬモノクロで統一された服装をしている——は居間の惨状を一瞥し、犯人であるヴィ・レを見つめた。
「……飲んでたのか」
「うん。ジ・ルヴェもどう?」
「もらう」
 向かいの席に着いた彼のために、杯を用意して注いでやる。今日は久々にガツンときつい琥珀色の酒だ。ミネやミルクで割るのが普通だが、原液のままジ・ルヴェの前に出す。彼は文句も言わず、喪を示す黒い布を胸から外した。
「それじゃ、乾杯」
 力なく杯が交わされた。二人の間に言葉はなかった。それぞれ、昨日旅立ったばかりの友人——農家のエンジュのことを考えている。ジ・ルヴェは昼間の葬儀から今までずっと喪主のミントについて、こまごまとした作業を手伝っていた。ヴィ・レは先に帰宅し、娘のペネ・ロペを寝かしつけて今に至る。
 彼が飲み干したので、二杯目を注いでやろうとヴィ・レが腰を浮かせる。その目の前で、ころん、と杯がジ・ルヴェの手から落ちてテーブルに転がった。
「……っ」
 彼は片手で顔を覆った。唇が震える。
 ヴィ・レは立ち上がって彼をそっと抱きしめる。
「ペネ・ロペも寝てるし、大丈夫だよ。他に誰もいない」
 あたたかい水がどんどん彼女の胸元に染み込んでいく。それなりに長い付き合いになるが、彼が泣くのを見たのは初めてだった。
 ヴィ・レは彼を抱いたまま手を伸ばして、自分の杯をとる。
 口の中に苦い味が満ちた。ふ、と力を抜いて口角を上げる。
 ——エンジュ。この村に生まれてきて、いろんな人と会えて、本当に良かったよね。
 笑顔を作ると本当に笑いの衝動がこみ上げてきた。ジ・ルヴェと密着したまま肩を震わせる。
(笑って見送るのはワタシにしかできないこと……そうだよね)
 我の民は自分が一番であるはずなのに、今、彼女の心は杯に注がれた液体のように、最高に揺れていた。子どもの頃からほとんど動かなかった水面が、自分以外の誰かのために揺れ、縁からこぼれそうになっている。
 仲間ではなく、恋人ではもちろんなく、友だちというには少し近すぎたクラヴァットの彼を悼み、ヴィ・レはいつものように笑って杯を傾ける。
 飲み込んだ液体は妙に塩辛かった。




道は開ける

「ミントちゃん、これ晩ごはんで作りすぎちゃったから、おすそ分けだよ〜」
 農家の玄関先で、ヴィ・レはにこにこ笑いながらバスケットを差し出す。中身はひょうたんいもを混ぜてふっくら焼いたオムレツだ。多少焦げ目がついているのはご愛嬌である。
 ミントはかすかに唇を持ち上げ、
「どうもありがとう。助かるわ」と乾いた声で感謝した。
 ヴィ・レの胸がズキリと痛む。ミントの言葉には全く力がこもっていなかった。ヴィ・レは心配に傾く気持ちを押し隠し、つとめて明るく振舞う。
「いいって。一人で畑と子供の面倒見るのも大変でしょ?」
「そうね、ひとり、だものね」
 しまった。完全にアウトの単語を使ってしまった。
 凍りつくヴィ・レにもミントは全く注意を向けず、受け取ったバスケットを軽く叩いた。
「リズさんもしょっちゅう畑の方を手伝ってくれるし……本当にわたし、みんながいないとだめね」
「そ、そんなことないよ」
 慌ててヴィ・レは否定するが、ミントは貼り付けたような笑みを浮かべた。
「おすそわけ、ありがとう。大切に食べるわ」
 そのままぱたんと扉が閉まってしまう。それ以上の関わりを拒絶するように。
 ——これは、早々に何とかしないとまずい。
「ヴィ・レ、また農家に行ってたのか」
 家に帰る途中で、たまたま通りがかったのは彼女の夫のジ・ルヴェだ。漁帰りらしく、網を片手に持っている。ヴィ・レは腰に手を当てた。
「だって、ミントちゃんのこと心配なんだもん」
「放っておいたらいいんじゃないか。あいつ、これでつぶれるほど弱くはないだろ」
 ジ・ルヴェは冷たく切り捨てた。ヴィ・レは彼を睨む。
「何も分かってないなあ、今にも折れそうじゃないの。どうしたらいいんだろ——あ、思いついた!」
 いきなり彼女がずいと顔を近づけてきたので、ジ・ルヴェは軽くのけぞる。
「ミントちゃんの親友が、マール峠にいたでしょ。あの子に聞けばいいのよ。きっと良い解決法を知ってるわ! リズにも話してみよっと」
 彼女は一人で合点して、牛飼いの家に走って行った。一人残されたジ・ルヴェはその場から農家の方角へ視線をやり、そっと目を伏せた。



 最近、友だちがそろいもそろって妙に冷たくなった。
 前は頼めばいくらでも家事を手伝ってくれたのに、今では逆にミントに何でも押しつけてくる有様だ。しかも、「夫婦水入らずで遊びたいから子供を預かって」だの「各家庭でのいなかパンの味比べをしたいから大急ぎでパンを焼いて」だの、なかなか理不尽な依頼ばかりだった。主に突飛な発言をするのはヴィ・レだったが、リーゼロッテやジ・ルヴェも「牛の飼料にふさわしい穀物の開発に付き合って欲しい」「ミントは裁縫が得意だから破れた網を繕え」など、示し合わせたようにハードな要求をしてくる。
 この間まではミントが一方的に迷惑をかけてばかりだったから、用事を請け負うこと自体は問題ない。だが、いきなり皆が変貌したのはどういうことなのか……。
 おかげでミントはてんてこ舞いで、悩む暇もなく狭い村の中を駆け回っている。
(今日は夕方まで種の選別、それから漁師の家にクラリスを迎えに行って、あ、その前に晩ごはんをつくらなきゃ)
 考えていると、背中の赤ん坊——ハルトがむずがった。優しく揺すってあやしながら、(そうそう、牛飼いの家にミルクを貰いに行かないと)と思う。
 ハルトを背中から胸の前に移し、ゆらゆらさせて眠気を誘っていたら、扉が叩かれた。
「あら、アベルさん」
 玄関口に立っていたのはかばんを手に提げた医者だ。エンジュの体を診るためにシェラの里から越してきた彼も、今やすっかり村に居着いている。
「往診に来た」
「え? わたし、病気なんてしてないわよ」
「……そうだな。元気そうだ」
 アベルは許可を得て農家に上がり込み、母子の様子を確認してうなずく。
「忙しくて倒れそうだけどね。アベルさんこそ顔色が悪いわよ。医者に診てもらったら?」
 くすりと笑ったミントに対し、アベルは目を丸くした。
「余計なお世話だ」
 彼は唇を尖らせてから、ふと思いついたようにハルトの頭を撫でる。乳児はすっかり眠りについていた。彼はその後母子の体調について二、三ほど質問をし、帰っていった。
 農家の敷地から出ようとしたところで、アベルはばったりジ・ルヴェと出くわす。
「……こんにちは」
 医者は礼儀正しく挨拶したが、ジ・ルヴェは無言だった。アベルも眉を吊り上げ、足早に横を抜けようとする。その直前、思い出したように尋ねた。
「彼女、ずいぶん立ち直ったようだが。お前たちが何かしたのか」
 ジ・ルヴェは思いっきり目線をそらしながら答える。
「ある筋からアドバイスを貰って、実行しただけだ」
 ほう、というようにアベルは鼻を鳴らした。二人の間にはピリピリした緊張感すら漂っている。アベルは、それ以上何も言わないジ・ルヴェをひと睨みすると、さっさと農家の敷地から出て行った。会話したことを後悔しているようでもあった。
 ジ・ルヴェは張っていた肩を緩め、胸に溜まった空気を吐き出した。医者と入れ替わりで、農家の門扉を叩く。
「はーいただいま。あ、ジ・ルヴェ。残念だけどあなたとお茶してる時間なんてないわよ、わたし忙しいんだから」
 玄関先にセルキーの友人の姿を認めて、ミントはぴしゃりと言う。
「……」
 ジ・ルヴェは何故だか気まずそうに左右を見回してから、
「手伝おうか?」と頭を掻いた。
 ミントはまぶたをきっちり二度またたく。一方的に用事を押し付けておきながら、不可解な態度である。
「ありがたいけど、別にいいわ。みんながわたしを頼ってくれたんだから、これは全部わたしがやるの」
 そうして彼女はにこっと笑った。ジ・ルヴェは「そうか」とだけ答えた。
 何やら逡巡している様子の彼に、ミントの中で疑惑が浮上したらしい。
「まさか、最近こんなにわたしが忙しくなったのって、全部あなたのせい?」ジト目になった。
 ジ・ルヴェは、精神的な部分でこの女性に全く勝てないことを自覚していた。あの茶色の瞳で睨まれると、もう隠し事はできないと悟った。
「違う。ヴィ・レが、マール峠にいるお前の親友に手紙を書いて、アドバイスを貰ったんだ」
「メモリに手紙を……?」
 ミントはティパの村ではあまりメモリの話をしたことはなかったが、いつの間にか存在を知られていたらしい。たまにミント宛に手紙が届くので、そこから知れ渡ったのだろうか。
 ジ・ルヴェはあごを引く。
「そうしたら、ミントに考える暇を与えるな、ひたすら忙しくさせろっていう返事が来た」
「ああ……なるほどね」
 ミントはほうっと息を吐いた。さすがはメモリ、よく親友のことを分かっている。
 一方ジ・ルヴェは、その手紙が届いた夜のことを回想する。



 子どもたちが寝静まった夜中、大人たちはこっそり漁師の家に集まった。ジ・ルヴェとヴィ・レが、牛飼いのリーゼロッテを居間に迎え入れる。
 三人がそろうと、ヴィ・レは待ちかねたようにすぐさま真新しい手紙の封を破った。
「メモリさんからお返事が届いたわ。読むね。えーと、『近頃暑い日が続きますが——』って、これは挨拶だから飛ばすとして」
 読み進めるうちに、彼女の心は驚きに支配されていく。
 ——ミントのことをかまってくれてるのは嬉しいけど、完全に逆効果よ。今すぐやめなさい。
 その代わりにね、あの子にありとあらゆる雑事を押し付けるの。しょうもない手伝いとかお使いとかを頼んで、忙しさで何も考えられなくするのよ。
 大丈夫、ミントは弱い子じゃないから。ほんの少しの助けがあれば、あの子はちゃんと立ち直れるわ。
「……結構厳しいこと書くんだね」
 ほら見ろ、というふうにジ・ルヴェは頬杖をつく。
「まあ、ここまで言われたら……従ってみようか?」
「そうですね、あまり気が進みませんが」
 リーゼロッテもうなずく。無言でいる夫に、ヴィ・レが視線を刺した。
「ジ・ルヴェ、こういうわけだから、ミントちゃんのこと甘やかさないでね」
「なんで俺に注意するんだ」
「我々の中であなたが一番ミントに甘いからですよ」
 幼少期からの付き合いのリーゼロッテの言葉は説得力にあふれていた。ジ・ルヴェが不機嫌そうに眉根を寄せたのを見てヴィ・レはくすっと笑ってから、こぶしを握った。
「じゃ、とにかくミントちゃんを思いっきりこきつかって疲れさせる作戦でいくよ。いい?」
「可哀想ですが……仕方ありません」
「おい。リズこそ甘やかすなよ」
「も、もちろんですよ」
 三人は各々に作戦を反芻する。種族や性別は違えど、抱えた気持ちはそっくり同じだった。
 皆、どうしてもミントに立ち直ってほしいのだ。エンジュの次に彼女まで失うことになるという、最悪のシナリオを回避するために。



 ジ・ルヴェから話を聞いたミントは、こくこく首を縦に振る。
「その通りね。つまらないことでもいいから何か用事をこなしている方が、よっぽど気が紛れたわ」
 やっぱりこの女性は強い、とジ・ルヴェは確信する。どれだけ辛いことがあっても、打ちひしがれても、いつかは立ち直ることのできる芯の強さを持っている。きっと、そこにエンジュも惹かれたのだろう。
 黙っている彼に目を合わせ、ミントは破顔した。
「ごめんねジ・ルヴェ。わたしばっかり悲しんで。あなただって同じ気持ちなのにね」
「いや……」
 思わず亡友のことをまともに思い出しそうになり、彼は慌てて頭を振った。
 ミントは、腕の中で寝息を立てるハルトにあたたかい眼差しを向けた。まだ生え揃わない髪の毛は、いかにも温の民らしい大地色だ。ちょうどエンジュとミントの髪色を重ね合わせたようである。
「まだ、ちゃんと立ち直れたわけじゃない。けどね、とりあえず今日一日だけは、前を向こうって決めたの。それが毎日毎日続いていけば……なんとかやっていけるかなって」
 ミントは今、持ち前の明るさを少し取り戻したように見える。けれどそれは一時的なことだろう。エンジュの不在という大きすぎる痛みは、これから何度も彼女を底なしの淵に引きずり込むはずだ。
 だが、どんな悲しみも月日が経てば薄れていく。そしてミントはその瞬間まで、たとえギリギリでも生き続ける力を自ら生み出せたのだ。
「偉いな、お前」
 気づけばジ・ルヴェは自然にそう口に出していた。
「今さら気づいたの?」
 おかしそうに肩を揺らし、ミントは片手を振って彼の横を通り過ぎる。外に出て、畑の世話をするのだろう。
 歩き出す背中を見つめるジ・ルヴェの頬は、自然と緩んでいた。

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