予感

 昔から、何を考えているのかよく分からない奴だった。
 姉のクラリスはご近所でも有名なおてんば娘で、しょっちゅうチャンバラごっこをしては男の子を負かしていた。魔石転がしでは全戦全勝、木登りでもセルキーのペネ・ロペが唯一肩を並べているくらいだ。
 しかし弟のハルトはごくおとなしく、あまり外で遊んでいるところを見たことがない。同い年だというのに、カム・ラとはほとんど接点がなかった。
 だから、彼は驚いた。大きな木の上にハルトがいるのを見かけた時は。
「お、おーい……? 大丈夫かー」
 枝からぶらさがる生白い足に向かって、遠慮がちに声をかける。カム・ラの知る限り、ハルトはちっとも活発な性格ではなかったので、「降りられなくなったのかな」と思ったのだ。
 村長の家の庭に生えた、大きなりんごの木。彼はカム・ラに気づかず、薄紅と黄色のしましまの実に手を伸ばした——途端に、くらりとバランスを崩す。
「あ、危ないっ!」
 カム・ラは慌てて駆け寄った。勢い余って、落っこちてきたハルトの下敷きになってしまう。
「……ごめん」ハルトは黒い瞳を申し訳なさそうに瞬かせた。カム・ラは彼の下から這い出しながら、無理に笑う。
「い、いいって。りんごは?」
「無事だよ」
 ハルトはにっこりした。嬉しそうにしている彼を見たのは初めてだったので、カム・ラは思わず釘付けになった。
「どうしたの」ハルトは不思議そうにしている。
「いや、別に。お前さあ、何やってたの」
「りんごを——その、届けようと思って」
 少し言葉を濁す。つややかなりんごを見つめ、ハルトはしばし何かを考えていた。
「……カム・ラも、来る?」
 控えめに首をかしげた。彼に名前を呼ばれて、カム・ラの胸に喜びがこみ上げてきた。
「行く!」
 ハルトともっと仲良くなれるかも知れない……! その予感に、彼はわくわくしていた。
 大地色の髪の子供に手を引かれ、たどり着いたのはクリスタルの台座の裏側だった。
「ここは……?」
 よくよく見れば、小さな扉がしつらえてある。ハルトは戸惑うことなくノックした。
「どうぞクポー!」
 可愛らしい返事があった。カム・ラは「あっ」と声を上げて、ドキドキしながら中に入った。
 凝った模様のラグにれんが造りの暖炉、ミニサイズの家具たち——そこはモーグリの巣だった。郵便配達や水かけ祭りではよく見かけるけれど、あの白い生物がこんなところで暮らしていたなんて、カム・ラは全く知らなかった。主人のモーグリはロッキングチェアの上にふんぞり返っている。
 そして、巣の中にいたのはモーグリだけではなかった。
「おかえりなさい、ハルト!」
 クッションに腰掛けていた、亜麻色の髪のクラヴァットが微笑んだ。
「りんご持ってきたよ」
 と、果実を差し出したハルト。少女は飛びつくようにして受け取る。
 カム・ラは目を白黒させていた。
「えーと、お前、アリシアだっけ?」
「あ。カム・ラ……?」
 アリシアの顔が強ばった。急におどおどしはじめたところを見ると、相当人見知りするらしい。カム・ラは彼女とあまり親しくはなかった。控えめな女の子、という印象だけを持っている。
 彼女は不安そうに友だちを見やり、
「ハルトが連れてきたの?」
「うん」
「……ここ、私とハルトだけの秘密の隠れ家だったのに」
 アリシアはぶうっとほおを膨らませる。今までカム・ラが彼女に抱いていたイメージとは、大きく違った反応だった。彼は大きく身を乗り出す。
「えー、いいだろ別に。俺も混ぜてくれよ!」
「こ、声が大きいよ、カム・ラ! 他の人にばれちゃうでしょ!」
「二人とも、どっちもどっちだクポ」
 騒ぐ子供たちを見咎めて、主人のモーグリがやってきた。
「あ、ごめん、勝手に入ってきて」
 カム・ラは頭を下げた。一方アリシアは「私は悪くないもん」と言わんばかりに堂々と腕を組んでいる。
「そうクポ。あんまり聞き分けのない子には、出てってもらうクポ」
「えーっ」「そんなあ」
 動揺する子供たち。ハルトはにこっとして、
「大丈夫、二人ともいい子だよ。ね?」
 カム・ラはこくこく頷いた。自分と同い年とは思えないほど、ハルトは落ち着き払っていた。どこまでも透明な笑顔を浮かべているにもかかわらず、何を考えているのか、いまいち分からない。心の奥深くには、きっと彼だけの確固たる意志がある——そんな気がした。
「ハルトが言うならきっとそうクポ!」
「あはは」
 なんとも仲よさげな二人を見て、カム・ラは疑問を抱く。
「ハルトとモーグリはどんな関係なんだ?」
「ボクはハルトの友だち……の友だちだったけど、今は正真正銘の友だちクポ」
 モーグリの説明は少し分かりづらかったが、カム・ラは感心したように何度も頷く。
「へええ。ハルトって、いっぱい友だちがいたんだな」
「うん?」
 ハルトは真正面からカム・ラを見つめた。二つの黒い目に吸い込まれそうになって、カム・ラはいささかどぎまぎしてしまう。
「い、いや。お前がどこで遊んでるか、知らなかったから。そっか、ここにいたんだなー」
「……言いふらさないでよ、カム・ラ」
 相変わらず、アリシアはどこか刺々しい物言いだ。カム・ラはちょっとムッとした。
「お前、さっきからなんだよ。俺はそんなことしないよ!」
「だって、だって……。もう、なんでハルトはこの子を連れてきたのよ!」
 少し涙目になっているアリシアにもお構いなしに、
「カム・ラはぼくのことを助けてくれたの。アリシアも、新しい友だちができて良かったよね?」
 あのきらきらする瞳で見つめられると、アリシアは何も言えなくなるらしい。「うん……」と顔を赤らめていた。
「俺の時と反応が違う」カム・ラは文句を言いたくなったが、その気持ちをぐっと我慢して、代わりに質問した。
「ハルトたちって、いつもここで何してんの?」
「おしゃべりをしたり、アリシアのお裁縫の練習を見たりしてるよ」
「……それ、楽しいのか?」
 まるで女の子の遊びだ。ただそこに座っているだけで完結するではないか。
 アリシアは頬を上気させて、
「た、楽しいよ。かけっこしたり、木に登ったりするよりも、よっぽど!」
 意気込んで答える彼女を、カム・ラは横目でじろりと見やった。
「そーかなー。ハルト、こいつに合わせて無理してるんじゃないの」
「ぼくが? そんなことないよ。でも……アリシアも、もっとみんなと遊んだ方がいいと思う。ぼくだけじゃなくて、ね」
 どうやら彼女の人見知りは、ハルトの悩みの種らしい。アリシアは顔をくしゃっと歪めた。
「だろー?」とカム・ラは勢いに乗る。「俺さ俺さ、大きくなったらキャラバンに入りたいんだ。ハーディさんみたいな活躍をしてみたい! ハルトはどうなんだよ、キャラバン」
 アリシアは眉をひそめる。
「ええ、危ないよ。ハルトは入らないよね?」
「戦いは怖いけど……旅は、してみたいな。いろんな場所を見てみたい。海の向こうとか」
「お、話が分かるじゃん!」
 それからハルトはクスッと笑って、なめらかに語り始める。
 火山の洞窟の奥深くに眠る、巨大クリスタルが守る幻の都。大洋の果てにミルラの泉が湧き出る楽園の島。どうやら、クリスタル・グースやらおとぎ話やら、様々な物語から影響を受けているらしい。
「火山ってよく知らないけど、山が火を噴くんでしょ。きっと、実際に見たらすごいんだろうね」
 夢見る瞳のハルトを見て、カム・ラはぱちぱち瞬きしていた。
「なんか、意外だった。ハルトってもっとインドア派なのかと思ってたよ」
「そうかな……? ああ、この夢はね、お姉ちゃんと一緒なんだ」
「お姉さんと?」
「うん」
 ハルトは恥ずかしそうにほおを染めた。
「ぼくは旅をして、見つけなくちゃいけないものがあるの。そうしたら、お姉ちゃんが褒めてくれるんだ。会ったことはないけど、お父さんもきっと喜んでくれるだろうって」
 カム・ラは大きく目を見開いた。彼にも一人姉がいるが、ハルトの語る家族像は、自分の知るものとはまるで違うようだった。
 その時カム・ラは予感した。ハルトはきっとキャラバンになる。そして宣言通り、夢を叶えるだろう——。それは何の根拠もない見通しだったけれど、彼にとっては絶対的な真実に等しかった。
 気づけば、カム・ラは手を差し出していた。
「いつか一緒にキャラバンに入ろうぜ、ハルト!」
「うんっ」
 二人はしっかり握手した。
 ハルトは無言でにっこりし、アリシアの方に目線をやる。彼女は「う」と詰まったが、おそるおそる二人の上に手のひらを重ねた。
 それは、彼ら三人が友情を結んだ瞬間だった。
 おとなしいかと思えば活発で、他人に適度に踏み込んでくる。何を考えているのかよく分からない、それでも同じ夢を見たいと思わせてしまう。ハルトは不思議な子供だった。
 カム・ラはこの先何度も思い返すであろう、輝かしい一瞬の中にいた。




恋人よりも特別な

「あんた、頭おかしいんじゃない?」
 無遠慮な言葉が投げられた。
 ルイス=バークは困惑したように、被ったなべをぼりぼり掻いた。
「そーかな?」
 相手はベッドの上に半身を起こし、彼を睨みつける。
「そうよ。あんなことがあってまだ旅を続ける、なんて……。あたしなら耐えられない」
 セルキーの女はぎゅうっと布団を握る。手が白くなるほどに。ルイスは気遣わしげに彼女を見やる。
「シャ・ルルはキャラバンをやめるんだよな?」
「当たり前でしょ! もう……戦うのは嫌なのよ。家族にも散々迷惑かけちゃった。弟のカム・ラだって、キャラバンに入りたいってあれほど言ってたのに、家を継がなきゃいけなくなった。全部、あたしのせいでね」
「……」
 ルイスはなべの向こうで目を伏せていたが、やがてきびすを返した。
「足、早く良くなるといいな」
 かけられる言葉はそれだけだった。



「シャ・ルルさん、キャラバンやめるんだって」
「ふうん……」
 クラリスは親友ペネ・ロペの隣で、水かけ祭りの儀式を眺めていた。
 視線の先に立つキャラバンは三人。旅立ちの時は例年通り四人だったが、魔物との戦いでセルキーのシャ・ルルが足に怪我を負ったのだ。今、彼女は自宅で静養中だった。
(あと二年早く生まれていれば、私もあそこにいたのかな)
 クラリスは、儀式に主役として参加する自分の姿を思い描いた。未だ彼女は、ティパ村のキャラバン最低年齢とされる十五歳に届かない。のろのろ進む年月に心だけが焦ってしまい、毎年毎年、悔しい思いで儀式を見つめている。
「にしてもルイスさん、どうしてなべなんて被ってるんだろう」
 ペネ・ロペが首をかしげていた。そういえばあの青年は、旅立ちの時は普通に頭を露出していたはずだ。兜の代わりだとしても、儀式の間も被っている必要はないだろう。誰もがペネ・ロペと同じように疑問を抱いていたが、いくら年代記の読み上げに耳を澄ませても、その理由について言及されることはなかった。
 クリスタル浄化の儀式が終わると、クラリスはすぐに腰を上げた。
「あ、クラリス!」
 友人の制止を無視して、彼女はキャラバンに歩み寄る。お目当てはただ一人だ。
「ルイスさん!」
 なべを被った青年は振り向いた。
「えっと、お前は……クラリスだっけ?」
「はい。突然ですが、お願いがあります。私に稽古をつけてくれませんかっ」
 クラリスは勢いよく腰を直角に折った。ルイスはなべの向こうで瞬きしたようだ。
「えっと、理由は? それに、どうして俺を選んだのかな」
「リルティと言えば武の民、腕っぷしが強いことで有名じゃないですか。私、とにかく強くなりたいんです」
 茶色の瞳の奥に、激しい炎が燃えさかっていた。
 二年前、クラリスはラッド=キーツという少年と出会い、剣を交わした。しかし、当時は全く歯が立たなかった。あの時感じた悔しさが今の彼女を動かしている、と言っても過言ではない。武の民に教えを請うのも、彼女としては順当な結果だった。
「一人で鍛えるにも限界がありました。だからルイスさんに教えてもらいたいんです!」
「まあ、俺は構わないよ。ということは、クラリスはキャラバンに入りたいんだな」
「はい!」
 彼女は力強く返事した。そこでルイスは少し脅すような口調になって、
「今回、シャ・ルルが足を怪我したのは知ってるよな。お望みの通りキャラバンになれたとしても、そんなことがあるんだぞ。女の子には厳しいんじゃないのか」
「覚悟はしてます。それでも、私はやらなくちゃいけないんです」
 うーむ、とルイスはあごを撫でた。意気込みは申し分ない。だが、この熱意はのちのち空回りするのではないか、という危惧があった。
 ルイスはぽん、と膝を打った。
「あのさ、もしかしてお前、全部一人でやろうとしてるんじゃないのか?」
「え」
「キャラバンはな、仲間がいないとどうしようもないんだぞ。ケージを持つ人、マジックパイルを合わせる人、背中を守ってくれる人。一人だけがいくら強くてもダメなんだ。クラリスには、仲間はいるのか?」
「仲間……」
 クラリスは下唇に手をあてた。
 キャラバンとして、一緒に戦ってくれる仲間。彼女は友人たちの顔を思い浮かべる。ペネ・ロペはダメだ、気が弱すぎる。ユリシーズは——
「あんな奴が仲間なんて」
 クラリスは吐き捨てるように言った。その様子を見て、ルイスは肩をすくめる。
「稽古をつけるのは問題ないよ。暇ができたら呼んでくれ。でもな、キャラバンに入りたいなら、そういうこともしっかり考えておけよ」
 先輩らしく助言しておいて、ルイスはなべをこつんと叩いた。



 錬金術師の家の長男なのに、ルイスは錬金術が下手だ。レシピを考える才能に欠けている、と自分でも思う。親もそんな彼を見かねたのだろう、「さまざまな素材に触れればインスピレーションがわくのではないか」と考え、キャラバンの旅に送り出した。結局、素材には詳しくなったが、肝心の錬金術はからっきしだった。
 彼は今日も工房で、旅先で集めた素材を前にしてぼうっとしていた——否、それなりに熱心にレシピを考え込んでいた。
「こんにちはー」
 牛飼いの家のユリシーズが訪ねてきた。彼は珍しい物に目がなく、キャラバンの旅から持ち帰った素材を拝見するために、時たまここに来る。
「何か掘り出し物はありませんか」
「あるぞあるぞ。これなんかどうだ。あくまのつめっていうんだけど」
「おお……!」
 黒っぽい素材を見せてやると、ユリシーズの仮面に嬉しそうな色が宿った。彼は大きな手でつめを持ち上げ、ためつすがめつする。
「俺、キャラバンに入ろうかなあ。家は窮屈だし、こんなものがいろいろ見られるなら、行ってみてもいいかも」
「そういえばクラリスも同じこと言ってたぞ。ちょうどいいんじゃないか、一緒に入れば。仲いいんだろ」
 指摘すると、ユリシーズは苦笑を返した。
「ああ……今、あいつとはもめてるんですよ」
「え? そうだったのか」
 思えば、昨日の時点で「仲間」という単語に対して、クラリスは妙な反応をしていた。
 ユリシーズは机にことりと素材を置き、少し遠くを見る。
「俺……自分がなよなよしてるのが嫌だったんですよね。覚えてますか、前に一度、瘴気の中に踏み出したことがあったんですけど」
「三年くらい前だっけ」
「はい。あの時、助けてくれたペネ・ロペを泣かせちゃって。あいつのあんな顔はもう見たくない。自分を鍛えるためにも、最近厳しくなってきた兄貴にも対抗するためにも、男友だちと遊ぶようにしたんです。でも、クラリスはそこが気にくわないみたいで」
 ユリシーズは視線を下げた。
「あいつも……弟が海に落ちてから、変な方向に行ったよなあ。やたらめったら強さにこだわりだした。
 まあそんなわけで、お互いに変な意地を張っちゃってるんです」
 ずいぶん客観的なまとめだった。そこまで分かっていながらも、彼は自分の行動を改める気はないらしい。
 ルイスは頬杖をつく。
「ふうん。お前らも大変なんだな」
 一年のほとんどを旅の空で過ごしているため、ティパ村の仲良し三人組にそんな試練が訪れているなんて知りもしなかった。とはいえ、ユリシーズもクラリスも、抱えた悩みは似たもののように思われたが。
 そんな時、工房の扉が開かれた。
「ルイスさーん! 稽古つけてもらいに来ましたっ」
 ぱたぱたと軽やかに駆けてきたのはクラリスだった。
「うわ」短く悲鳴を上げるルイス。嫌なタイミングでの登場だった。
 彼女は当然、凍り付いたように足を止めた。
「ユリス……っ!」次いで眉を跳ね上げる。手に持った木剣を、今にも幼なじみに突きつけそうな勢いだ。
 ユリシーズは余裕しゃくしゃくで腕組みをした。
「お前、ルイスさんに剣を教えてもらうつもりなのか」
「そ、そうだよ。なんか悪いか!?」
 ほとんどけんか腰である。ルイスは口を挟むことも出来ず、突如として始まった修羅場を見守るだけだ。
 ユリシーズはため息をついた。
「そうやって一人で突っ走って、ペネ・ロペを置いていくんだな」
 クラリスはかちんときたらしい。顔が真っ赤に染まる。
「お前だって、私たちのことを置いていったじゃないか! 勝手に聖域の外に飛び出して、最近は男友だちとつるみ始めてっ」
「それは全部、ペネ・ロペのためだ」
 しれっと言うユリシーズ。
 この台詞を聞いて、今にも爆発しそうだったクラリスが、突然しぼんだ。
「……お前はいっつもそうだ。ペネ・ロペ、ペネ・ロペってばっかり」
 彼女はくしゃりと顔を歪める。
「わ、私のことは、どうでもいいの……っ!?」
 ぎょっとしたユリシーズを涙目で睨みつけて、クラリスは開いたままの扉から去って行った。
 ルイスはふう、と息を吐く。ユリシーズは頭を下げた。
「すみません、お騒がせしました」
「こっちは気にするな。それより、追いかけなくていいのか」
 彼は首を横に振った。
「余計に怒らせるだけです。
 ……俺、あいつのこと、ちゃんと考えてなかったのかな」
 仲のいい三人組だとばかり思っていた。けれどもふたを開けてみれば、なかなか込み入った事情がありそうだ。種族もバラバラで男一人に女二人。何の隔てもなく付き合えるという方が、おかしいのかも知れない。
 ルイスは考え考え、言葉を紡いだ。
「今までは、それでも良かったのかもな。でも、これからきっと、お前たちはキャラバンの仲間同士になる。そんな気がするんだ。だったらユリシーズも、もっとあいつのことを考えなくちゃダメだろうな」
「仲間になる……俺と、クラリスが……?」
「もしかするとその隣には、ペネ・ロペもいるのかもな。
 とりあえず俺、クラリスを捜しに行くよ」
 ルイスは工房にユリシーズを置いて、村中を訪ね歩いた。得られた目撃証言を総合した結果、ベル川のほとりに向かうことにする。
 小石だらけの川べりで、クラリスは膝を抱えて座っていた。
「……ルイスさん」
「今、ちょっといいか」
「はい」
 ルイスは隣に腰を下ろした。
「情けないところを見せちゃいましたね」
 クラリスはぼそぼそと喋る。いつもの強気な態度はどうしたのだろう。しかし、ルイスは何となく親近感がわいていた。年下の彼女たちと接するうちに、次々と新たな一面が明らかになっていく。その過程には心躍るものがあった。
「別にいいって。仲間にはいろんな顔を見せるもんなんだよ」
「仲間、か」
 クラリスは顔を上げ、虚空に向かって呟く。
「ひとりで全部やれるなら、その方がずっといいのに」
 ルイスは首をひねった。
「どうだろう。残念ながら俺たちは一緒にならないと、信じられないほど弱いんだ。
 そうだ、クラリスには話しておこうか」
 彼はおもむろに頭のなべを脱いだ。クラリスははっと息を呑んだ。
「——っ!」
 頭頂部から額にかけて、大きな傷跡が走っていた。思わず目を背けたくなってしまう。
「この前、シャ・ルルが怪我した時に、な。あんまり他人に見せるもんでもないから、とりあえず馬車にあったなべを被ってたんだけど、案外気に入っちゃってー」
「だ、大丈夫なんですか……!?」
「うーん、結構血は出たけど、足をやられたあいつよりはマシだと思うよ」
 ルイスはからりと笑う。一方クラリスは胸がどきどきしていた。これが、キャラバンの現実なのだ——。
「俺は、魔物の攻撃からあいつをかばった。でも助けることは出来なかった。むしろあいつの方がずっとひどい怪我をした……。
 シャ・ルルは戦うのが怖くなったらしい。キャラバンは続けたくないって言ってた。だから、あいつには『どうしてあんたは旅を続けるの』って訊かれちゃったよ」
 クラリスは目を瞬く。
「どうしてなんですか?」
 ルイスは腰に手を当てて、うーんとのびをした。
「俺は多分、人が好きなんだ。もっともっと色んな人と話がしたい。冗談を言って笑わせてみたい。仲間になって一緒に戦いたい。
 それまで友だちだった人と仲間同士になると、村では知りようもなかったことが分かるんだ。ほら、ちょうど最近クラリスと稽古するようになって、ユリスとの関係とかお前の癖とか、いろいろ知ることが出来たみたいにな。
 背中を預ける相手がいるのは、いいことなんだぞ」
 ルイスはいたずらっぽく笑った。
「友だちとはちょっと違う。キャラバンに入らなくちゃ、一生出会うことが出来ない。そんな仲間、欲しいと思わないか?」
 クラリスはその演説中、ずっと目を見開いていた。自分の中で、新たな世界が開けていくようだった。
 彼女は唇を強く噛む。
「ユリスがペネ・ロペ一筋だってことくらい、ずっと分かってたのに……変なこと言っちゃった。でも、私はあいつと仲間になれるかも知れないんですよね」
「そうだよ。ある意味で、恋人よりも特別な存在だぞ!」
 クラリスはにっこり笑って立ち上がった。
「私、ユリスと話してみます。これまでのことと、これからのことを、たくさん! それが終わったら、また稽古をつけてくださいっ」
「おう、任せろ!」
 ルイスは胸を張って請け負った。
 遠ざかるクラリスの影を見つめて、なべをかぶり直す。鍛冶屋の煙突から立ち上る白い蒸気が、木立の間にちらりと見えた。
「また、シャ・ルルの見舞いにでも行くか」
 クラリスにはクラリスの仲間が、またルイスには彼だけの仲間がいるのだ。



 二年後。ルイスの仲間たちは皆家業が忙しくなり、キャラバンをやめることになった。
「お前は残るのか……?」と仲間に質問されて、
「うん。俺が家にいても逆に追い出されるからな!」
 自虐気味の冗談を飛ばし、ルイスはひらひら手を振る。
「それに、俺の新しい仲間はもう決まってるんだ」
 ちょうど、待ち人がやってきた。村長の家で旅立ちの許可をもらってきた三人組。でこぼこした背丈の、クラヴァットとセルキーとユーク。
「よろしくお願いします!」
 目を輝かせるクラリスと、おどおどしたペネ・ロペと、堂々と背筋を伸ばしたユリシーズ。三人はそれぞれ挨拶をして、頭を下げた。
「ルイスさん——いや、リーダー!」
 彼はなべの下から覗いた唇に、大きな笑みを浮かべた。
「ところでルイスさん、どうしてなべを被ってるんですかー?」
 ペネ・ロペが訊ねた。ルイスは愉快そうに答える。
「これは実は希代の名工がつくった兜でな、装備者を魔法から守ってくれるんだ」
「えっ本当ですか!」
 素直すぎる反応を示した乙女に、苦笑いする幼なじみたち。これだけ冗談の通じる仲間がいてくれるなら、きっと楽しい旅になるだろう。
 今日は、クリスタル広場で新たなキャラバンの就任が披露される日だ。後輩たちに続いて会場に向かおうとしたところで、背後に誰かの気配を感じた。ルイスは振り返る。
 セルキーのすらりとしたシルエットが目に入った。
「というわけで、今年も行ってくるよ」
 シャ・ルルは少しだけ足を引きずりながら、ルイスに向かって頷いた。
「いってらっしゃい」
 ルイスは明るく笑いながら、胸の中ではっきりと確信していた。
 一度仲間と繋がった心は、何があっても途切れないのだと。




キリエ

 たん、ぐるん、ぐるん、たん、ぐるん、たん、たん。
 小気味良いリズムは街道の向こうから聞こえてきた。
 ペネ・ロペは御者台に座ってパパオを操りながら、耳を澄ませていた。
(どこかで聞いたことがあるような……)
 果たして。丘を越えて目に入った光景は、とても瘴気の中とは思えないようなものだった。
 木の間に張り巡らされた網の上で、一人の青年がぴょんぴょん跳ねていた。跳躍する度に体を捻り、アクロバティックな技を次々と決めていく。
 ペネ・ロペは閃いた。
「セルキージャンプだー!」
 突然の大声に驚き、我の民の青年がバランスを崩した。危ういところで、なんとか網の上に着地する。
「あっすみません!」
 馬車を止め、ペネ・ロペは彼に駆け寄った。荷台の反応がないところを見ると、仲間たちは寝ているようだ。
 ペネ・ロペが助ける前に、青年は全身のバネを使って起き上がった。
 中途半端に差し出した手を引っ込め、彼女は慌てて頭を下げる。
「えっと、私はペネ・ロペって言います。ティパのキャラバンなんです」
 深緑色の瞳をすっと細めた青年は、触れれば切れそうな雰囲気を醸していた。ペネ・ロペは少しドキッとした。
 彼は案外、明るい声で答えた。
「ティパっていうと、南の端の村か。俺はノ・ディ。旅芸人なんだ」
 浅瀬のような緑色の髪が横に流れた。ジャンプしても崩れない独特の髪型だ。
 ペネ・ロペは瞳を輝かせた。
「だからあんなに身のこなしが軽いんですね!」
 と言うと、彼は少し意外そうな顔になった。
「どうしたんですか」
「……俺の目、怖くないの?」
 確かにノ・ディの目つきは鋭い。少しびびってしまったのも事実だ。けれど、ペネ・ロペは首を振った。
「髪の毛とよく合ってますよ」
 ノ・ディは、見る者の心に日が差し込むような笑顔を浮かべた。先ほどの物騒な印象は消え去り、なかなかの好青年が現れる。
「へへ、そっかあ。ルダの村じゃ『鮫の目』とか呼ばれて、結構コンプレックスだったんだよ。
 それじゃあティパの村にもセルキージャンプがあるのか?」
「うち、お母さんがルダの出身なんですよ〜」
 子供の頃は、よく家から投網を持ち出して遊んだものだ。幼なじみのクラリスやユリシーズが徐々についてこられなくなり、やめたのだが。
 そこでノ・ディは思案するような表情になった。
「ティパのキャラバンは、これから川越えか?」
「はい。ファム大農場へ向かう予定です」
「だったら俺も連れて行ってくれないか。実は、仲間たちに置いて行かれたんだ」
「えっ」
 びっくりするペネ・ロペの前で、彼はショートクリスタルを取り出した。なるほど、瘴気の中でも平気でセルキージャンプが出来るわけだ。貴重なものなので、滅多なことでは入手できないはずだが。
「ルダ村のおかしらからクリスタルを借りたんだけど。これがあるからって、マール峠で寝坊したら、置き去りにされちゃった。他のみんなはキャラバンに同乗して行ったんだ」
「あらら……」
「仕方なく徒歩で追いかけてたんだけど——いい木を見つけてさ。つい、ジャンプの練習がしたくなった」実にあっけらかんと言う。
「魔物に襲われたりしませんでしたか?」
 街道整備隊が目を光らせているとはいえ、まだまだ聖域の外は危険でいっぱいだ。
「これでも、腕っぷしには自信があるからな〜」
 ノ・ディは力こぶを作った。よく見れば、彼の荷物には武器のラケットがある。
「へええ……!」
 ペネ・ロペの目はきらきらしていた。ティパ出身の彼女にとって、「自立しているルダ村の生粋セルキー」は半ば憧れだった。
「で、一緒に行ってもいいかな?」
「えっと……仲間に相談してみますね」
 彼女は同乗希望者を連れて馬車に帰った。
 とっくの昔に仲間たちは起き出していたようだ。ペネ・ロペがノ・ディについて説明している間、彼を胡散臭そうに眺めていた。
「——ってことなんですけど、どうでしょう」
 彼女は主に、キャラバンリーダーのルイスに向けて尋ねる。
「そうだなあ。ひとまず、こっちで話し合わせてくれ」
 リルティの青年は被ったなべを叩く。キャラバンは輪になってボソボソ議論を始めた。
「しましまの奴らとは別だろうけど、ノ・ディが盗賊だって可能性はないのか?」
 ルイスが真っ先に疑問を呈した。いくらのほほんとしたティパキャラバンといえど、この程度の警戒はする。
「その点はあたしがしっかり見張るので大丈夫です!」
 ペネ・ロペは胸を叩いた。「いや、だから心配なんだけど……」とルイスは言いかけて、口を閉じた。
「でもあいつ、目つき悪くないですか。危ない雰囲気があるっていうかさ」
 眉をひそめて、クラリスも追従した。ノ・ディの「鮫の目」は、初対面ではなかなか警戒されやすいらしい。口々に不安を訴える仲間を安心させるように、ペネ・ロペは笑った。
「見た目はともかく根はいい人よ。ね、ユリスはどう思う?」
「……」
 智の民のユリシーズは黙考していた。
「ユリス〜。どうしたのよ」
 不審そうに彼女が仮面を覗き込むと同時に、ノ・ディが近づいてきた。
「そろそろ結論出ましたー?」
 痺れを切らしたらしい。ルイスは反応のないユリシーズにちらりと目線をやってから、
「ルダのおかしらさんに手紙で確認をとってみる。返事が届くまでは警戒を続けるけど、いいな?」
「ああ。ファム大農場まで行けるなら何でもいいよ。ってことで、よろしく!」
 ノ・ディは明るく挨拶した。我の民に対するある種の偏見にも、気分を害した風はない。
「おう」「こちらこそ」「よろしくね、ノ・ディさん!」
 ルイスとクラリス、そしてペネ・ロペが順番に握手をしたが。
「……」
 ユリシーズだけは不機嫌そうに座り込んだままだ。
「おいユリス、その態度はまずいだろ」
 クラリスに小突かれ、彼はしぶしぶ手を差し出す。ノ・ディはかすかに首をひねって、その大きな手のひらを握った。
「ノ・ディさん、またいろんな技を見せてくださいねっ」
 ペネ・ロペは青年に好奇心でいっぱいの眼差しを向けた。まんざらでもないらしく、ノ・ディも「時間と場所があればな」と請け負っている。
「——!」
 ユリシーズはそれを見て、ますます不吉な影を濃くした。
 クリスタルケージの聖域内に、いびつな三角形が出来上がったようだ。ルイスとクラリスは顔を見合わせた。
「強敵出現だな」
「これは面白くなってきたぞ〜」
 どちらともなく、にやにやしながら。



「ユリス〜。お前、あれでいいのかよ」
 クラリスは幼なじみへ肩を寄せた。ノ・ディと出会った日の夜、焚き火を囲んで夕食を取っていた時のことだ。
「何が?」
 絶対零度の声を出すユリシーズ。まだ昼間の不機嫌を引きずっているようだ。
「あのままじゃ、ペネ・ロペをとられちゃうぞ」とルイスが率直に告げた。
 ユリシーズの肩がびくっと揺れた。
「……なんのことだか」
 だが、彼はかたくなだった。
 ペネ・ロペ本人は、旅芸人ノ・ディと話しながら食事を平らげている。なかなか絵になる光景だ。
 ルイスはため息をついて、なべをかぶり直した。
「ほら、どんどん近づいてる。何せ同じ我の民だもんな」
 同じ種族——改めて、その真実はグサリとユリシーズの心に刺さった。
 食器を持った己の手を見る。ふさふさしていて、紛れもない智の民のものだ。
「私としては、どこのチョコボの骨とも知れないやつに親友をとられるより、ユリスとくっついてくれたほうが、よっぽどいいんだけど」
 クラリスは勝手なことをほざいている。チョコボとは、大昔にいた生物のことだ。瘴気の到来とともに絶滅したらしいが、固有名詞だけは今も残っている。
 ユリシーズは肩をすくめた。
「驚いた。そんなことわざ知ってたのか」
「お、お前なぁ……!」
 取りつく島もない態度に、いよいよ持ってクラリスが苛立ってきたころ、
「ぶほっ」
 のんびり談笑していたノ・ディが吹き出した。
「こ、このスープ辛くないか」
「あら、こんなに大っきな唐辛子が入ってるわ」
 ペネ・ロペは慌ててミネを渡した。クラリスは思わずユリシーズを見やった。
「ふっふっふ……」
 本日の料理当番は陰湿に笑った。



 明日にはジェゴン川東岸にたどり着くだろう。今夜は早めに休むことにして、日のあるうちから木の枝を集めたり、夕食の準備を進めたりしている。ルイスとクラリスは作戦タイムを設けるため、揃って薪集めに出かけた。
 相変わらず煮え切らない態度を続けるユリシーズに、クラリスは不満が募っていた。とはいえ、当然ペネ・ロペには相談できない。となると唯一のはけ口は、リーダーだ。
「やっぱり私としては、ユリスを応援したいんですよ」
「だろうな」
「でもあいつは何故か諦め気味で……黙って待ってりゃ、ペネ・ロペが来るとでも思ってるんですかね」
「うーん、どうだろうなあ」
 ルイスは文句ひとつ言わず、真面目に相槌を打っている。
 クラリスたち三人組がキャラバンに入ったのは、一昨年だった。その時点では、ルイスはユリシーズの恋心を知らなかった。旅の途中、ところどころで「もしかして……」という出来事があり、クラリスに尋ねてみると、予想は見事に的中していたわけだ。
 リーダーは懐から手紙を取り出す。
「そういえば、ルダ村のル・ティパさんに確認が取れたぞ。ノ・ディは間違いなくあそこの村出身の旅芸人だ」
 セルキーの首領から直々に至宝ショートクリスタルを託されたということは、それなりに信頼が置ける人物なのだ。悪事を企んでいそうな顔つきに反して。旅芸人で稼いだお金も、いくらか村に寄与しているのだろう。
 クラリスはあごに手を当てた。
「となると、ますますマズイですね。とにかく私はユリスを応援したい。かくなるうえは、ノ・ディに突撃です!」
 クラリスは無駄な行動力を発揮した。ちょうどノ・ディが火起こしの担当だったので、彼女は拾った薪を抱えて行った。
「乾いた枝、持ってきました!」
 ノ・ディは相好を崩した。
「助かるよ。これだけあれば十分だ」
 各地を回る芸人というだけあって、ずいぶん旅慣れている。同乗者としても優秀な青年だった。
「あのう……」
 しゃがみこんで薪を組んでいた彼は、ん? というように顔を上げる。
「ノ・ディさんって、彼女とかいるんですか」
 クラリスは果敢にも慣れない話題を振った。頬が燃えている。全ては親友のためだ。
 彼はあっさりと答えた。
「いないよ。君こそどうなの?」
「えっ」
 返事なんて用意していない。クラリスはすっかりあがってしまった。
「か、彼女はいませんっ!」
「そりゃそうだろう」苦笑するノ・ディ。
 このままでは目的が果たせない。クラリスは必死に食い下がった。
「だったら……そうだ、趣味は何ですか」
「賭け事かな。ファム大農場には牛レースがあるだろ? 今からアレが楽しみでさ」
 競走する八頭の牛のどれかにギルを賭けて、一着を当てるゲームだ。当然牛たちはノロノロしているので、レースもクラヴァットらしくのんびりしたものだが、意外と観客は盛り上がるらしい。
 会話がなめらかになり始めている。いい調子だ。クラリスは言葉を重ねた。
「じゃあ、気になる人とか……」
「君だって言ったら、どうする?」
「斬ります。あ、ごめんなさい嘘です」
 慌てふためくクラリス。相手はからりと笑った。
「冗談だってー。実はさ、ペネ・ロペのこと、ちょっと気になってるんだ」
「……!」
 なんと、向こうから本題に入ってきた。クラリスの肩に力が入る。
「どっ、どういう部分が?」
「一生懸命なところかなー。自分に足りてない部分を自覚して、努力を重ねてるのがいい」
 それはクラリスにもよく分かる。親友は努力家なのだ。しばしば、そのがんばりは空回ってしまうけれど……。
「俺の目を見ても、怖くないって言ってくれた。あれは嬉しかったなあ」
 ノ・ディはうっとりとまぶたを閉じる。話せば話すほど、第一印象とかけ離れた人物像が浮かび上がる。発言通り、自身の容貌にはコンプレックスがあったのだろう。
「そんなわけで、彼女とぜひお近づきになりたい。大農場に着いたら告白しちゃおっかな」
「え!」
 クラリスの持っていた枝がぽきりと折れた。
「そうしたら牛レースでも一緒に見物してさ。うんうん、いい計画だ」
 彼は一人で頷いている。クラリスは次に「冗談だよ」という台詞を期待したが、
「ちょっとノ・ディさん、こっち来てくれますー?」
 折しも意中の人ペネ・ロペに呼ばれ、「分かったすぐ行く!」彼はあちらに行ってしまった。
 クラリスは半泣きでルイスのもとに帰った。
「やばいです。あいつ、本気でペネ・ロペを狙ってるみたいです。今にも行動に移そうとしてます!」
「だったら、とっととユリシーズをその気にさせないとな。どうすればいいだろう」
 そっち方面に関しては、二人とも完全な経験不足だった。
「ううっ……で、でも、作戦としては単純ですよ。ノ・ディがこれ以上接近するのを阻止しつつ、ユリスに先に告白させるしかない」
「それが一番難しいんだけどなあ」
 今回ばかりはルイスも冗談を言えない。クラリスは頭を抱えた。
「あーもう、決闘でも牛レースでも何でもいいから、ぱしっと勝負が決まればいいのに!」
 けれども現実はそう甘くないのだ。



 ジェゴン川を越えると、いよいよファム大農場が近づいてきた。そんなある日の野営地で、ユリシーズは夜警をしながら、ぼうっと膝を抱えて考え込んでいた。
「ペネ・ロペ……」
 日が経つにつれてノ・ディはどんどんキャラバンに溶け込んだ。そして彼女に接近していった。
 自分と同じ我の民と一緒にいる時の彼女は、いつになく安心した表情を見せていた。
「はあ……」
 ため息が出てしまう。なんとも女々しいものだ。
 そもそもユリシーズがペネ・ロペに惚れたのは、いつだったろう。聖域の外を見るため瘴気の中に飛び込んだあの日には、すでに意識していたと思う。
 幼なじみだから。一緒にいるのが当たり前だったから。彼女といる時が、一番のびのびと振舞えたから。堅苦しい家から抜け出せたように感じたから……。
 理由はいくらでも思いついた。自分はこんなにも彼女を必要としている。だが、ペネ・ロペの方はどうなのだろう。
「ユリス」
 夜の向こうから、クラリスの声が届いた。いつの間にか起き出していたらしい。彼女はユリシーズの隣に座って、
「こんな遅くまで考え事か?」
「まあな」
「ペネ・ロペのことだろ」
「……」
 炎に照らされたユリシーズの仮面には、複雑な影が落ちている。クラリスはそっと息を吐いた。
「私はずうっと前から、二人のことを知ってる。だからこそ、お前がペネ・ロペを——私の親友を幸せにしてやってほしいと思ってる」
 もはや茶化す要素は一切ない、真摯な声だ。
 相変わらずユリシーズは答えない。彼女は茶色の目をすがめた。
「——お前、自分はペネ・ロペに必要とされてない、って考えてるんじゃないか」
 はっと息を呑む気配がした。クラリスは眉間のしわを深くする。
「そんなわけあるかよ。ペネ・ロペのこと、信じてないのか? ユリスの気持ちがどれだけ強いのか、私はよく知ってる。きちんと正面からぶつかれば、あいつだって気づくはずだ。
 家族でもない、おまけに別の種族の人を、ここまで愛せるなんてな。正直言って羨ましいよ」
 確かにそうだ。どれだけ近くにいても、ユリシーズは体も心も何もかも、ペネ・ロペとは違う。……だからこそ、愛しい。
 彼はぼそりと呟いた。
「他種族と恋愛して、辛い未来が待っていても?」
「ペネ・ロペはそんなことでへこたれるような奴じゃないよ」
 ユリシーズはやっと頷いた。仮面の奥に強い光を宿して。
 幼なじみがその気になったようで、クラリスも肩の荷が下りた気分だ。少しはしゃいだように、
「よおし、次は作戦を練ろうじゃないか。ノ・ディは賭け事が得意らしいぞ。牛レースで負かしてやったらどうだ」
「別にあいつを出し抜いたからって、ペネ・ロペがこっちになびくわけじゃないだろ……」
「えー、妙案があるのにぃ」
 ユリシーズとしては苦笑するしかない。そんな時、新たな足音がした。
「ユリス、そろそろ交代の時間だよ——ってあれ、クラリスもいるの?」
 クラリスは慌てて立ち上がる。振り返らなくても分かる、ペネ・ロペが起き出してきたのだ。そういえば、次の見張り番は彼女だった。
「じゃ、じゃあユリス、そういうことで。おやすみっ!」
 逃げようとしたが、ペネ・ロペにぐいっと肩を掴まれる。
「ちょうどいいわ。クラリスも聞いてよ」
「? 何をだ」
 すー、はー。ペネ・ロペは一呼吸置いた。焚き火明かりに浮かび上がるのは、真剣な表情だった。
「あたしたち、ずっと一緒よね?」
 クラリスは目を瞬いた。こちらを見つめる翡翠の瞳が、かすかに燃えている。
「あたし……二人がいないと不安で仕方ないの」
 ペネ・ロペは俯いた。
 それを聞いた二人は、同時に思い出した。セルキーの彼女は自ら進んでキャラバンに入ったわけではなかった。
 そもそも、入隊条件である十五歳になった途端「旅に出る」と言い出したのは、クラリスだった。彼女は当然のごとく、幼なじみのユリシーズとペネ・ロペを旅に誘った。
「俺は構わないよ。楽しそうだし、前から村の外に行ってみたかったんだ」
 なにせ、クリスタルも持たずに瘴気の中に飛び出した経験があるくらいだ。ユリシーズはあっさり承諾した。
 しかし。
「……あたし、怖い」
 ペネ・ロペは腕をかき抱いた。無理もない、と二人は思う。
 彼女の性格は長年の付き合いで重々承知している。魔物相手に生死のやりとりが出来るような、剛胆さは持ち合わせていないだろう。
「それでも、私はお前に来て欲しいんだ」
 クラリスは必死に説いた。まだ見ぬ外の世界を歩くのだ、仲良しの二人と一緒にいられたら、これほど心強いことはない。旅の楽しさも倍増するはずだった。
 ペネ・ロペは不安そうに幼なじみの仮面を見上げる。
「ユリスは、どうなの。あたしがいた方がいい?」
 彼の心臓が大きく跳ねた。クラリスは期待するような視線を向ける。ここが正念場だ。
「……うん。俺はペネ・ロペがいないと嫌だよ」
 言った! クラリスの心は歓喜で沸いた。今のはなかなかいい台詞だったぞ、と心の中でユリシーズを褒める。
 ペネ・ロペは目をつむって、しばらく胸の裡に何かを問いかけていた。やがてぱちりとまぶたを開ける。
「やっぱり行くわ。あたしも、二人と一緒がいい」
 ——そうして幼なじみたちは、新人としてキャラバンに入った。それが二年前のことになる。
 旅に出たからこそ、新たな悩みが生まれることもある。ペネ・ロペの表情が曇った。
「あたしが我の民だから……いつか、みんなと一緒にいられなくなる日が来るんじゃないかって、思っちゃうのよ」
 セルキーが盗賊稼業にいそしんでいたのは何百年も前の話だが、未だに大陸では我の民に対する差別意識が根強い。だからといって、彼女がそんな疎外感を感じていたとは、知らなかった。
(ペネ・ロペ……)クラリスは突然の告白に絶句していたが、
「そんな日は来ないさ」
 ユリシーズが力強く言った。二人の女性ははっとした。
「そう、ユリスの言うとおりだ。私たちの進む道は、いつだって一緒だよ」
 やっと立ち直ったクラリスも、拳を振り上げた。
「……だよね」ペネ・ロペは安心したように、ふうっと目元を和らげた。
 三人は同じ炎を見つめながら、それぞれに異なる考えを抱いていた。



 パパオの往く道が、徐々にみずみずしい緑に彩られるようになってきたころ。ついにファム大農場の入口が見えた。
 農場の聖域に入ったところで、ノ・ディは馬車を降りた。
「今までありがとな。一緒に旅できて、楽しかったよ」
「うん、またね……」
 ペネ・ロペは寂しそうに片手を差し出した。握手をしようと思ったのだ。
 にっこり笑ってノ・ディが前に出る。二人の距離がぐっと近づいた。
 彼は、「ペネ・ロペ。話があるんだ」と真剣な口調で切り出した。
「な、なに?」
 戸惑う彼女の肩に、後ろから大きな手が置かれた。
「悪いがそうは行くか。話の続きはまた今度、な」
 言いつつ、ユリシーズは彼女を抱き寄せた。ノ・ディから引き剥がす格好になる。
「ちょっとユリスっ!」
 ペネ・ロペは恥ずかしそうに顔を赤らめる。なんとか腕の中から脱出しようとしたが、意外に強い力だった。
 ノ・ディはおや、という風に首をかしげた。
「前から気になってたんだけどさ。ユリシーズとペネ・ロペは、どういう関係なんだ?」
「単なる幼なじみだ」
 ユリシーズは即答した。ノ・ディは口の端を持ち上げる。
 突然発生した修羅場を、クラリスとルイスははらはらしながら見物していた。ペネ・ロペは話を理解しているのかいないのか、呆然としている。
 自分の言葉が行き渡ったことを確認してから、ユリシーズは胸を張って、
「でも俺は、彼女が好きだ。できれば嫁に欲しいと思ってる」
 一瞬、時が止まった。
「え、ゆ、ユリス、冗談……だよね?」
 ペネ・ロペは仰天して彼を見た。しかし本人はどこまでも真面目だった。クラリスたちも口を挟まない。
 ノ・ディの「鮫の目」が剣呑な光を放っていた。
「そうなのか。こんな素敵な女性、放っておくにはもったいないと思ってたぜ」
「ははは。全く同感だよ」
 男たちが冷ややかなやり取りを交わす中で、渦中の人はひとり、混乱していた。
「あ、あの、あたし——よく分かりません!」
 彼女はユリシーズの腕を振り切って駆け出した。戦いで鍛えた脚力をフルに使い、あっという間にファム大農場の中に消える。
「ペネ・ロペっ」クラリスがすぐに身を翻した。リーダーに意味深な目線を投げながら。
「私、追いかけます。しばらく誰も来るなよ!?」
 水を差された格好になった男たちに、ルイスが声をかけた。
「ちょっと提案があるんだ。ここの牛レースで賭けをして、勝ったほうが先にペネ・ロペの元に行くってのはどうだ? こういうことには運も必要だろ」
 唐突な提案だったが、なかなか面白そうだった。何よりノ・ディは賭け事が好きだ。
「ふうん。乗った!」
「俺も、それでいいです」
 ユリシーズとノ・ディは視線をぶつけ合う。ファム大農場の緑の上に、ばちばちと火花が散った。



 その場から逃げ出したペネ・ロペは走り疲れて、小高い丘に座り込んだ。そこからは農場全体が見渡せた。下界は牛レースで賑わっているようだ。
 遅れてやってきたクラリスが、黙ってそばに腰を下ろした。ペネ・ロペは矢も楯もたまらず、
「ねえ……さっきのあれって本当なの? ユリスがあたしのことを、その」
「本当だよ」
 ペネ・ロペはほうっと息を吐いた。クラリスは、そんな彼女にチケットを渡した。
「ほら、牛レースの券買ってきた。せっかくだから、観戦しながら話そう」
「う、うん」
 ちょうど牛がスタートする頃合いだ。走者がラインに並ぶ様を眺めながら、クラリスは訊ねる。
「ユリスの気持ち、気づいてなかったのか?」
 ペネ・ロペはかぶりを振った。
「ううん。本当は、なんとなく知ってた。ちょっと期待もしてたし。
 でもあたし、今の関係を崩すのが嫌だったの。このままずっと三人でいられたらいいって思ってた。もしあたしがユリスを受け入れたら、クラリスだけ仲間はずれになっちゃうでしょ」
 相変わらずよく気が回るセルキーだ。クラリスは大きくため息をついた。
「私のことなんか気にするな。疎外感を覚えた時は、無理にでも絡んでいくよ。
 それよりもさ。ユリスのこと、どう思ってるんだ」
 ペネ・ロペはぼっと頬を染めた。そこには隠しようのない喜びが滲んでいる。
「びっくりしたけど、正直嬉しかったわ。だから怖い……その先に進むのが、すごく怖いの。我の民なんかと一緒になったら絶対、ユリスは同じ種族の仲間や家族から、つまはじきにされちゃう」
 二人とも、どうして相手のことばかり考えてるのだろう。どちらも「自分とくっつけば相手は幸せになれない」と信じているようだ。
 それに——彼女は分かっていない。種族の寿命からいって、置いて行かれるのはユリシーズの方なのだ。
(でもユリスは間違いなく……最後まで、お前と一緒にいることを選ぶだろう)
 確信を通り越して、それは不変の真実だった。
 そこまで愛されていることに、ペネ・ロペは気づかない。ユリシーズもそうと分かっていて、ひたむきな思いを向けているのだ。
 クラリスはひたすら牛レースを注視しながら、言った。
「それでも、乗り越える価値はあるんじゃないかな」
 ペネ・ロペが賭けた七番の牛が、急に速くなった。「あれ?」驚く彼女を無視して、クラリスは続ける。
「二人がもしも種族の壁を越えられたら——ティパの村は、単に四種族が住んでいるだけじゃなく、真の意味で垣根の存在しない場所になるんだ。二人がそんな風にみんなを引っ張ってくれるなら、友達としてこれほど嬉しいことはないよ」
 珍しい長台詞だ。ペネ・ロペはじいっと聞き入っている。我の民の長いまつげがかすかに震えていた。
「今は逆風しか吹かないかもしれない。それでも、二人なら追い風に変えられるはずだ」
 わあっという歓声が風に運ばれてきた。見事に七番の牛がゴールしたのだ。大穴中の大穴、倍率は八倍だ。
「あたしも、そんな世界を見てみたい。みんなと……ユリスと一緒に」
 ペネ・ロペの顔には決意があふれていた。クラリスは笑みをこぼすと、幼なじみの肩を叩いた。
「ほら、迎えが来たぞ」
 草を踏みしめるのは金属製の靴。
「……あ」
 ペネ・ロペは顔を上げた。そこに、同じく七番の札を持ったユリシーズが立っていた。
「ユリス!」
 二つの影が一つになる。……やっと、あるべき場所にピースがはまったのだ。
 クラリスは二人を邪魔しないよう、こっそり丘を下りた。中腹のあたりで、ルイスが唇をほころばせて待っていた。
「やったなあ」「やりましたねえ」
 満足気にうなずき合う二人。何とも長い三年間だった。
 しばらく経って、ノ・ディが牛レース並の速度でやってきた。彼は、仲睦まじい様子の二人を見て、ため息をつく。
「……なんで、あの牛が一番を取るって分かったんだ?」
 クラリスはにやりとする。
「前にシェラの里で知り合った奴に、手紙で教えてもらったんです。牛のコンディションを見るコツとか、いろいろ」
 ラケタという名の青年を思い出す。彼はファム大農場の出身だった。文通を続けるうちに、話題に困ったのか、牛の特徴を微に入り細に入り語りつくす手紙を送ってきたことがあった。
「へんてこな内容だったから、ユリスにもあの手紙を見せたんだ。ちゃんと覚えてたんだな」
 鬱陶しい文面を思い出し、うんざりしつつも心が浮き立つクラリスだった。
 ノ・ディは残念そうに「鮫の目」を伏せる。
「俺、二人の邪魔したかなあ」
「そんなことないですって。おかげでユリスが危機感を持ってくれたんだから。ノ・ディさんがいなかったら、あいつら一生くっつかないところでした」
「……そっか!」
 落ち込むかと思われた彼だったが、切り替えの早いタイプらしい。ぱあっと表情を明るくした。
「種族を越えて恋愛できるなんて、すごいよなあ。俺には無理だよ」
「なにせ、うちの自慢の二人ですからねっ」
 一方ルイスは苦言を呈する。
「種族はともかく。ノ・ディはさ、その軽い性格を直したほうがいいんじゃないか?」
「そーだそーだ。せっかく見た目と中身のギャップがあるのに、もったいないぞ」
「それは、クラリスだってそうじゃん」
 ノ・ディはすぐにその発言を後悔することになる。
「言ったなーッ!」
 間髪入れず、クラリスが思いっきり彼の膝の裏を蹴った。声にならない悲鳴を上げてしゃがみ込む旅芸人。うわあ……とルイスは顔を背ける。
「……わ、悪かった。明日、俺の一座でショーがあるんだ。せっかくだから、ティパの四人も来てくれよ」
「もちろん!」
 眼下では、それぞれの券を持ったペネ・ロペとユリシーズが、仲良く牛レースの賞金を受け取っていた。




グローリア

「勝負あり!」
 そのセリフを聞くのが、クラリスは好きだった。なぜなら、それはすなわち自分の勝利を告げるものだから。
 彼女はぱちんと剣を鞘に収め、不敵な笑みを浮かべた。
「いててて……」
 対戦相手だったマールキャラバンのリーダー・ロルフ=ウッドが、お尻をさすりながら立ち上がる。
 街道でたまたま出会ったマール峠のキャラバンに、クラリスは模擬試合を挑んだ。槍を操るリルティは手強かったが、彼女に軍配が上がったわけだ。
「ふふん。さ、マールの槍を渡してもらおうか」
「別に勝負なんてしなくても、タダであげたのに……」
 ロルフは不貞腐れていた。
 キャラバン新人のタバサが進み出て、彼から槍を受け取る。
「ありがとう。大事にするわね」
「お、おう」間近で微笑まれ、ロルフはどきっとした。
 そのやりとりを遠巻きに見ていたルッツ=ロイスは、ティパキャラバンの仲間に言った。
「聞いたわよ。最近のクラリス、ああやっていろんなキャラバンに勝負を仕掛けてるんだって?」
「そうなんですよ」と隣のペネ・ロペが応じる。「なんか、近頃特に熱心で。もう十分強いのになあ」
 彼女たちはすでにキャラバン四年目を迎えていた。今年になって、先輩でありリーダーだったルイス=バークが引退し、初めての後輩ができたところだ。そろそろ中堅といっても差し支えないし、そこらの魔物には負けない自信がある。
 なのに、クラリスは際限なく強くなろうとしているようだった。そこがどうにも、ペネ・ロペには理解できない。
「武の民が自分を鍛えるのなら分かるけど……クラリスの目指すものの先には、何があるのかしら」
 ルッツの呟きが、ペネ・ロペの耳に残った。



 その張り紙を見つけたのは偶然だった。
 補給と武器整備のために立ち寄ったアルフィタリアは、町全体が賑やかなムードに包まれていた。通りは人であふれ、あちこちで屋台の骨組みが出来上がっている。
 ペネ・ロペはユリシーズと顔を見合わせた。
「お祭りかな?」
「いや、水かけ祭りにはまだ早いだろう」
 大都会アルフィタリアの広い道が、大勢のリルティでごった返している。二人は物珍しそうにあたりを見回した。
「お祭りねえ……」
 クラリスはその後ろを、あくびをしながら歩いていた。
「おーいみんな、これよこれ」
 タバサが商店の壁を指さす。三人の先輩は駆け寄った。そこには張り紙がある。
「なになに……」
「『第四十二回アルフィタリア武術大会』?」
「お城で腕試しの大会があるのか!」
 クラリスの瞳がきらりと輝いた。眠気もどこかに吹っ飛んだらしい。好戦的な彼女には、うってつけの大会だろう。
 でも——とユリシーズが首をかしげた。
「こういう大会の参加者って、リルティ限定だったりしないのか?」
「え」
 クラリスは慌てて紙面を見返した。
「そんなこと書いてないぞ」
「でもキャッチコピーが『集え! 武の民』よ」
 ペネ・ロペの指摘に、混乱しはじめるクラリス。
「そ、そんな……。なあ、大会の本部ってどこだ?」
「城じゃないのか。兵士もエントリーするだろうし」
「直談判に行ってくるっ」
 張り紙をひっぺがし、クラリスは脱兎のごとく駆け出した。
「く、クラリス〜!」ペネ・ロペの声が虚しく響く。
 ユリシーズは肩をすくめた。「よほど大会に出たいんだなあ」
 タバサも呆れ顔だ。そこで、ペネ・ロペはルッツの指摘を思い出した。
「大会に出て、もし一番になったとして……クラリスはそれで満足なのかな」
 彼女は、その向こうに何を探しているのだろう。



 一方、城の前にたどり着いたクラリスは、門番ともめていた。
「どうしてもこの大会に出たいんです!」
 突然やってきた挑戦者に、門番は迷惑そうだ。
「お嬢さん、キャラバンかい? いくらなんでも、君みたいな女の子が——温の民が出場するのは、ちょっとねえ。ほら、体格的にも問題があるし」
 クラリスはよく見えるように剣の柄に手をかける。
「だったら、ここで実力を見てください。私、アルフィタリアキャラバンのソール=ラクトさんとも戦った経験があります!」
 必死に食い下がるクラリスだが、門番は頑として首を振った。
「四十年以上も続いてきた伝統ある大会だ。ここで規律を崩すわけにはいかない」
 クラリスは舌打ちしそうだった。規律、歴史。リルティの重視するものは、時に他種族の邪魔をする。
 その時、城門が開いて、中から人が出てきた。
「なんだ、こんなところでもめて。不審者でもあったのか」
 クラリスは顔を上げた。
 小柄なリルティがそこにいた。武の民としても特に小さい。けれど鎧は人一倍立派で、きらきらした装飾があった。
「隊長。このお嬢さんが、武術大会に出たいって言うんです」
 門番が口を尖らす。隊長と呼ばれた青年の、兜をつけた顔が下からずいっとクラリスへ近づいた。
「な、なんですか……?」思わず身を引く。
「お前まさか、クラリスか」
 ビクリと肩が跳ねる。どこかで聞いたことのある声だった。
 隊長は兜を脱いだ。精悍なリルティの青年が現れる。
 クラリスは目を見開いた。
「ラッド……!」
 青年はにやりとした。
「久しぶりだな。田舎者がこんな大都会にいるってことは、キャラバンにでも入ったのか?」
 この嫌味な物言い。そうだ、こういう奴だった。驚愕が転じて、クラリスの腹の底にもやもやが溜まる。
「……そうだよ。なんか悪いか」
「別に。相変わらず、無駄に強くなろうとしてるんだなって」
「っ!」
 クラリスははっきりと彼を睨みつけた。対するラッドは余裕そのものの顔だ。
「おうおう。威勢がいいな。だったら大会に参加しろ。俺も出るんだ、優勝候補としてな」
「なんだって」クラリスは色めき立った。
 そこで門番が割って入る。
「ですが隊長、大会に温の民が参加するのは——」
 ラッドは横目で門番を見やる。
「お前の槍が飾りじゃないなら、クラリスと打ち合ってみろ。一太刀でいい、勝負がつく」
 目配せされて、クラリスは剣を抜いた。門番も渋々武器を構える。
 城の入り口で起こった揉め事に、野次馬が集まってきた。中にはティパキャラバンの仲間たちもいる。
「ク、クラリスってば……こんな町中で何しようとしてるのよっ」
「落ち着けペネ・ロペ。今は黙って観察しよう」
 ユリシーズに肩を押さえられ、セルキーの少女は立ちすくんだ。眼前では粛々と決闘がはじまる。
「二人とも、準備はいいな。では、はじめ!」
 ラッドの合図とほぼ同時に、白光が走った。
 それだけで片がついた。槍を押しのけ、門番の兜すれすれに剣先が来ていた。
「ひええ……」
 ぺたんと尻餅をつく門番。観衆は声もなく驚いている。
 ラッドはそれとなくあたりを見回し、言った。
「これで実力は分かったろ。それに温の民といえば、うちの姫様のこともある」
 クラリスは思い出す。アルフィタリアのお姫様は、リルティとクラヴァットのハーフだ。彼女の母親であり妃であったクラヴァットは、去年亡くなったと聞く。
「今回の大会だって、姫様のおかげで復活したんだ。クラヴァットの挑戦者は目玉になるぞ」
 ラッドはクラリスへ歩み寄ると、うやうやしく張り紙を差し出した。
「大会で戦えるの、楽しみにしてるよ」
 クラリスは素早く紙を奪った。
「こっちこそ。負けてから後悔したって遅いんだぞ!」



 クラリスは無事、明後日の大会に出場できるようになった。彼女は仲間にそれだけ伝えると、以来お堀の外で練習に励んでいる。そろそろ日暮れも近い。
「情報収集してきたぞ〜」
「こっちも完了よ」
 ティパキャラバンの他の三人は宿の一室に集まっていた。アルフィタリアにはリルティ用とそれ以外の種族用で酒場が二種類あり、ユリシーズとタバサはそれぞれ町に繰り出して大会に関する情報を集めてきた。
 先にユリシーズが報告する。
「優勝すると賞金と副賞が出るそうだ。もっぱら優勝候補は昼間のあいつ——ラッド=キーツという噂だった」
 ラッドは城の兵士で、街道整備隊の長をしている。キャラバンではないが、豊富な実戦経験があるらしい。
 タバサが相槌を打った。
「キーツって姓、知ってるわ。代々優秀な兵士を輩出している名門よ」
 二十歳という若さで危険な任務の責任者になったことからも、その実力は伺える。
「しかし、街道整備隊って確か、出世街道からは外れてたよな」ユリシーズがあごをなでた。
「え、そうなの?」
 目を丸くするペネ・ロペに、タバサが説明した。
「お城や王族に近い場所にいる方が、出世しやすいに決まってるじゃない。実力としてはキャラバン隊とほとんど同じくらい、って言われてるけどね。キーツ家なのに街道整備隊に入ってるってことは、よほどの理由があるのかも」
 あちらの事情も気になるが、今はそこまで考えている余裕はない。
「目下の所、一番厄介なのはその人かあ」
 ペネ・ロペは腕組みした。出場するからには、クラリスが優勝して欲しいものだ。たとえそれが、強さに固執した結果だとしても。
 ユリシーズは自分でまとめた大会要項を読みながら、
「っていうか、タバサは出なくてもいいのかよ。武の民だろ」
「あのねえ、私があんな汗臭い大会に出ると思う?」
 愚問だったようだ。
「それに、相当ハイレベルな大会みたい。ちょっと調べたんだけどね、あの大会はティダの村が滅んでから、兵を団結させるために開かれるようになったんだって。去年は王妃様の喪に服して中止されたけど、その分今年は気合が入ってる」
 タバサはやれやれというように肩をすくめた。
 大会に温の民がエントリーしたという噂は、もう街中に広がっていた。酒場ではどこもその話題で持ちきりだ。
 そして、優勝候補のラッドと挑戦者クラリスが、何やら話をしていたことも……。
「ただいまー」
 汗を拭きながら帰ってきた話題の人に、ペネ・ロペが質問をぶつける。
「クラリスはさ、ラッドさんって人と知り合いなの?」
 ぎくりとするクラリス。
「う。ま、まあな……」
「どんな関係なんだよ」ユリシーズが訊ねた。
「そうだな。言うなれば、唯一無二のライバルかな」
 三人はそれぞれ驚いた。
 リルティの中のリルティを好敵手と言い張るのはクラリスらしいが、そもそも二人にどんなつながりがあるというのか。
「だから、私はあいつに絶対勝たなくちゃいけない」
 クラリスは剣を握りしめ、ぼそっと意味深な言葉を残した。



 もう十年ほども前になる。そのリルティの少年は親に連れられて、行商のために村にやってきた。
「こんにちは、ティパの村の皆さん。短い間ですがよろしくお願いします」
 礼儀正しい子供だった。大人からの評判は上々だった。
 彼の親は連日村長の家に通いつめて何やら話をしており、子供はほったらかしにされていた。暇をもてあました彼は、あちこち探検するようになった。
 というわけで、たまたま農家の庭にいたクラリスと出会ったのだ。
「……誰?」
 少女は知らないリルティの子供を見つけて、棒立ちになった。小柄だが、落ち着いた雰囲気を持った男の子だ。クラリスよりも何歳か年上だろう。
 青空のような瞳を細め、少年は口を開いた。
「俺はラッドっていうんだ。親と一緒に行商で来た。よろしくな」
「わ、私はクラリス。農家の子供なの。……よろしく」
 初対面の相手にも、ハキハキとした口調を崩さない。きっと都会から来たのだろう。クラリスはどきどきしながら頷いた。
 ——と。
「ハルト!」
 玄関が開いて、弟が出てきた。訪問者が気になったのだろうか。クラリスはハルトに駆け寄り、初対面のリルティへ引き合わせた。
「この子は弟のハルト。で、こっちの人はラッドって言うんだって」
「……」
 ハルトは唇を結んだまま、真っ黒な瞳を訪問者へ向けた。
「なんだよ。どうかしたのか」首をかしげるラッド。
「弟は——声が、出ないの」
 クラリスは俯いて言った。
 折しも、弟が声を失った直後のことだ。彼女の本来明るかった性格には、暗い影が落ちていた。
 ラッドは一瞬絶句したが、
「それでお前は、姉さんに頼り切ってるのか?」
 責めるような調子だった。ハルトの肩が不安げに揺れる。姉はきっと眉を吊り上げた。
「ちょっと、悪く言わないで。これには理由があるの。しょうがないんだよっ」
「へえ、どんな理由が?」
「それは——」
 答えられなかった。海に落ちてからハルトの心にどんな変化があったのか、こちらが教えて欲しいくらいだ。
 困惑する姉と弟に対して、ラッドは辛辣だった。
「俺には、そいつが甘えてるように見える」
「——っ」
 一瞬、クラリスの目の前が真っ赤になる。反射的に伸ばした手が、ぱしんとラッドの頬を張っていた。
「出てって!」
「……分かったよ」
 ラッドは言われたとおりにした。去り際に、相変わらず表情の薄いハルトへ鋭い一瞥を投げかけて。
 クラリスは正面から弟の肩を抱いた。
「気にすることないよ。何にも知らない奴が、勝手なこと言ってるだけなんだから」
 自分に言い聞かせるような台詞だった。
「……」ハルトは感情の欠片すら見せず、ラッドが消えた方向を気にしているようだった。
 翌日。
「また来たの?」
 クラリスは農家の庭に姿を現したラッドに気づき、呆れ返った。
「帰って。話すことなんて何もないよ」
 すぐ家にとって返そうとする。ラッドはそんな彼女の前に回り込み、
「お前、どうして木の棒なんて持ってるんだ」
 確かに、その手には女の子らしくない持ち物がある。
「私はね、強くなりたいの。弟を守れるくらい。だから、剣を扱えるようになって、キャラバンに入るんだ」
 クラリスの瞳には強い意志が宿っていた。
 もうクリスタルに頼らないと決めた以上、彼女は自力で夢を叶えるつもりだった。そのために一番手っ取り早いのは、クリスタルキャラバンに入ることだ。隊員の資格を得るにはまだ数年かかる。そこで彼女は、まず体を鍛えることにした。
 ラッドは「へえ」と面白がるような声を出した。そして草むらにしゃがみ込んだかと思うと、自分も木の枝を見つけてきて、構える。
「何のつもり?」
「鍛えるなら、相手がいた方がいいだろ」
 変な男の子だと思った。クラリスは眉をひそめる。
「手加減しないからね!」
 この際、チャンバラで昨日の仕返しをすることにした。
 彼女も見よう見まねで棒を構えた。敵と対峙すると、まるで真剣を扱っているような気分になる。
「行くぞっ」
 言うが否や、ラッドの棒がぶんと風を切った。「わっ」クラリスは体をのけぞらせてなんとか避ける。彼の動きは子供とは思えないほど、卓越していた。
 負けっぱなしは癪だ。クラリスは闘志を燃やす。
「やあ!」
 力任せの叩きつけを、ラッドは堂に行った構えで受け止めた。そのままつばぜり合いに発展する。
 相手は武の民なのに、防御まで完璧だった。どうやっても打ち崩せない。
「く、このっ」無理な体勢から力を込めると、クラリスの棒はぼきっと折れてしまった。
「あ……」
 真剣がただの枝に戻る。
 彼女は爪が食い込むほど手を強く握った。悔しさで胸がいっぱいだった。どれだけ自分が未熟だったのか、分かってしまった。
「偉そうなこと言ったわりに、こんなもんか。いくら鍛えても温の民だしなあ」
 完全に勝者の発言だった。哀れむようですらある。
「……」
 その時、クラリスの目からぽろっと涙がこぼれた。「!」ラッドはぎょっとしたようだ。
 彼女は自分の肩を抱きしめ、
「こんなのじゃダメだ。ハルトを守れないよ……っ」
 弟の進むべき道を切り開かなければならないのに。強すぎる意思に反して、彼女はどうしようもなく弱かった。
「クラリス……」
 何か言いかけたラッドを、彼女は涙目で睨みつけた。
「行商人のくせに。何でそんなに強いんだよ!」
「行商人か」
 わずかに声色が曇る。ラッドはつまらなそうに棒を捨てた。
「俺が本当になりたいものは——」



 クラリスがラッドと七年ぶりに再会した翌々日、第四十二回アルフィタリア武術大会が開催された。
 試合はトーナメント形式で進んでいく。クラリスはここ一番の集中力を見せて、順調に勝ち上がっていた。
 クリスタル広場の特設ステージに集まった観客は、剣を振るう彼女の姿を固唾をのんで見守っていた。王女フィオナの「ただ慣習に従うのは愚かというものでしょう」という通達により、特例で認められた参加だった。中には不満の募る者もいたが、客観的に見てリルティとクラヴァットのどちらが有利ということはなかった。むしろ力で勝る男たちを次々とのしていく彼女の戦いぶりは、圧巻だった。
 ペネ・ロペは試合を終えた彼女にタオルを届けに行った。
「お疲れ、クラリス」
 息は上がっているが、体力はまだまだ余っているらしい。挑戦者は喉に冷たいミネを流し込み、訊ねた。
「ラッドの方はどうだ?」
「あっちも大丈夫そうだよ。さすがは優勝候補ね」
 ラッドは別のブロックにいた。戦うとすれば決勝だ。
「よおし。かならず勝ち上がってみせるぞ」
 クラリスは鼻息荒くガッツポーズする。モチベーションも十分のようだ。
「……ね、ラッドさんのこと、あたしたちには教えてくれないの」
 ペネ・ロペが不満そうに呟く。
「んー、試合が終わったらな。っていうか覚えてないのかよ。お前たちだって面識はあるはずだぞ」
「え?」
「つまり、ラッドさんはティパ村に来たことがあるのか」
 近くにいたユリシーズが口を挟んだ。クラリスは額に乗せた濡れタオルを払い落とす。
「内緒。さあ、次だ!」
 ティパキャラバンが、屋台で買ったしましまりんご飴を食べ尽くしてしまった頃。いよいよ決勝が始まろうとしていた。
 円形の舞台に上り、クラリスは強いまなざしを前方に向ける。当然のごとく対戦相手はラッドだ。彼は平然と見返してきた。
 絶対に勝ってやる——彼女はもう一度剣の柄を握り直した。
「はじめ!」
 合図と同時に、クラリスは駆け出そうとした、が……できなかった。
(な、何だ?)
 全身がプレッシャーを感じている。地面に足が縫い付けられたようだ。こめかみに脂汗が流れる。
 ラッドと睨み合ううちに、その理由がわかった。相手に隙がなさすぎるのだ。どこから打ち込めばいいか、皆目見当がつかない。
 クラリスの戸惑いを察知して、ラッドは口の端に微笑みの欠片を閃かせ、鋭く打ちかかってきた。
 ガァン! 金属音と、飛び散る火花。クラリスは歯を食いしばった。
「弟は元気にしてるか?」
 ラッドは槍を振り回しながら尋ねた。それだけで、彼女の大地色の髪が数本宙を舞う。
「無駄話をしている場合かッ」
「名前はハルトだったか。まだあんな奴に依存してるのか」
 かあっとクラリスの頭に血が上った。
「うるさい!」
 思いっきり剣を薙ぐ。ラッドは飛び離れた。
 いきなり太刀筋が荒くなったクラリスに、ユリシーズたちが観客席から声を上げる。
「あーっ何やってんだよ!」
「相手に変なことでも言われたのかしら」タバサもはらはらしていた。
 居ても立ってもいられなくなったペネ・ロペが、その場に起立して叫ぶ。
「クラリスー! ハルトくんに、お土産話を持って帰るんでしょっ」
 その声援を聞いて、クラリスの背筋がぴんと伸びた。
(そうだ……今度こそ、私はこいつを越えるんだっ!)
 待っている弟のためにも、自分のためにも。彼女は大きく一歩踏み出し、脳天から剣を振り下ろす。
「うおっ」
 勢いと力でリルティの青年に押し勝った! そのまま彼女は攻勢に転じる。
「いけいけーっ」「やっちゃえクラリスさん!」
 ティパキャラバンだけでなく、観客全体が白熱していた。
 澄んだ音が連続して鳴る。息もつかせぬ連続攻撃の合間に、一瞬だけ空白ができた。クラリスは力を溜めるように身を引いた。
(必殺技か!?)
 そうはさせまいとラッドが突進する。クラリスの唇が小さな三日月になった。
 切っ先が伸びやかな曲線を描いた。完璧に計算された軌道に沿って、クラリスの剣は見事にラッドの槍をはじき飛ばしていた。
「——!」
 リルティの空色の目が大きく見開かれた。
「勝負ありッ」
 わあっとクリスタル広場は大歓声に包まれる。
「やった……!」
 剣を持った手のひらがじんわり熱い。クラリスは静かに喜びに浸った。
 ラッドはしばらく放心していたが、やがて彼女の前に行って右手を差し出した。
「ん」
「……」
 クラリスは黙って見下ろす。不意に、記憶が蘇ってきた。



「俺の家では、子供はみんな優秀な兵士になるように教育を受けるんだ」
 七年前のあの日。木の棒による手合わせを終えた後、幼いラッドはそう告白した。
 クラリスは涙を拭ってから質問した。
「でも、お父さんは行商人だって……」
 リルティの少年は遠くを見るような目つきになった。
「お家騒動って奴かな。アルフィタリアのごたごたから逃げてきたんだ。俺は三男で、上に兄貴が二人いる。みんな母親が違ってさ。誰が家を継ぐかでずっともめてるんだ」
 今一緒にいるのは父親じゃなくて叔父さんなんだ、と彼は言った。クラリスにはなじみのない話だったけれど、ラッドが先ほどまでと違って、瞳に憂いを浮かべていたことが気になった。
「そうなんだ……」
 子供といえど、それぞれ抱えたものがある。ラッドもクラリスも、そしてハルトも。言葉を失った弟は、もちろん姉以上に辛い思いをしているはずだ。
 強くなりたい——と反射的に思う。
 ラッドは大人びた調子で続けた。
「家を継ぐかどうかは、正直どうでもいい。俺は街道整備隊に入りたいんだ。行商人やキャラバンが歩く道を、守っていきたい」
「だから武術を習ってるの?」年齢に似合わずしっかりした剣技は、激しい訓練に裏打ちされたものだろう。
 ラッドは拳を握る。
「そうだよ。でも、強くなりたいのは腕っ節だけじゃない。『心』もなんだ」
 クラリスははっと息を呑んだ。
 弟を守れる力が欲しい。ただひたすらにそう考えて、彼女は一人で体を鍛え始めた。だが……それ以上に、もう傷つきたくなかったのだ。父を失い弟が離れていく度に、身を引き裂くような悲しみに襲われた。もうあんな思いをしたくない。泣きたくなんかない。
 やっと気づいた。自分が求めるものは、心の強さだ。



「……ありがとう」
 すらりと背の伸びたクラリスは、ラッドの小手に覆われた手を握りかえした。
「私もようやく、望んだ強さが手に入れられた気がする」
「そうか」
 ラッドはにやりとして、言った。
「てかお前、随分口調が変わったじゃないか。どうしたんだよ」
「それは——」クラリスは言葉を切ってきびすを返し、
「ラッドのまねをしたんだ」
 耳が赤くなっていた。ラッドはからかうこともなく、眩しそうに目を細めていた。
 クリスタル広場に特別にしつらえられた貴賓席で。王女フィオナはすとんと椅子に腰を下ろした。試合に熱中しすぎて、いつしか身を乗り出していたのだ。
「姫様、そろそろお時間が」
 従者の声を聞いて我に返る。
「も、もう少しだけ。あの優勝者を表彰したいのです」
「姫様……」
 今日という日に限って、大事な面会の予定が入っていた。フィオナは俯く。
「分かりました。副賞の方は、昨日決めたように取りはからってください」
 城に戻る前にもう一度、名残惜しそうに大会の舞台を見やる。
「私も、剣をはじめてみようかしら」
 王女の唇は弧を描いていた。
 白熱した決勝戦に続く表彰式は、盛大なものになった。
 クラリスは王女代理の大臣から、炎をかたどったように優美な剣・エクスカリバーを賜った。
「こんなものを——いいんですか?」
 キャラバンを経験して肥えた目にも、十分な業物に映った。オリハルコンのきらめきが陽光を反射している。
 大臣は重々しく頷き、書状を読み上げた。
「そして、大会の優勝者クラリスに『剣聖』の称号を授ける」
「え」
 当の本人は有り難みが分からず、間抜けな声を上げてしまう。
 仲間たちを振り返ると、ユリシーズが必死に「受け取っておけ!」という身振りをしていた。周りの熱の高まりからも、なんとなく理解する。
「姫様が、そなたの戦いぶりにいたく感動なされたのだ。どうか受け取って欲しい」
 クラリスは頬を上気させて首肯した。
 アルフィタリアの武術大会は、満場の拍手で幕を閉じた。
「みんな、やったぞ!」
 剣聖は大手を振って仲間たちの元に帰った。「お疲れ」「いいもの見せて貰ったわよ!」などなど、口々に褒め称える仲間たち。
「『剣聖』ってのは、アルフィタリアで受け継がれてきた伝統ある称号だな。古くは戦乱の時代、多くの武勲をたてた者に与えられたとか。さすがにクラヴァットが授かったのは初めてだろうな」
 というユリシーズの説明に、「へえ……まあ、ありがたいよ」クラリスは恥ずかしそうに頭を掻いた。
 ペネ・ロペはそんな親友に軽く肩をぶつける。
「ねえねえ、試合の後にラッドさんと話してたでしょ。いい加減詳しいこと教えてよ〜」
「うーん……やっぱり内緒!」「ええ、ずるいっ」
 ふざけ合う温の民と我の民。
 くすりと笑い声を漏らしたユリシーズは、ぼうっと一人で立ち尽くすラッドへと駆け寄った。本人に突撃した方が早いと踏んだのだ。
「ラッドさん、お疲れ様です」
「ああ、お前は——ティパのキャラバンか?」
 察しがいい。ユリシーズが改めて名乗ると、彼は天を仰いで、
「俺、七年くらい前にティパの村に行ったことがあるんだ」
 と告白した。予想通りだった。
「クラリスとはその時に……?」
「そうだよ。一度手合わせもした。あの時は俺に負けて泣いてたのに、まさかここまで強くなったとはなあ」
 完全に油断してたぜ、と言って彼は笑った。伸びしろがあったにしろ、確かに誰が見てもすさまじい成長だった。
「でも、な。あれは、だいぶ無茶した結果だろ」
 ラッドがかすかにため息をついた。ユリシーズはどきりとする。
「やっぱり……そうなんですかね」
「勘だけどな。ま、その点は仲間のお前たちが、ちゃんと気にかけてくれよ」
 軽い口調とは裏腹に、彼はクラリスを本気で心配しているようだ。武器を交えた際に、伝わってくるものがあったのだろう。
「腕っ節が強いからって、心も強くなったわけじゃないってのは、あいつも分かってるはずなんだけどな」
 ラッドはぽつり、そう言い残して立ち去った。
 なんとなく彼の背中を眺めていたユリシーズへ、タバサとペネ・ロペが近寄ってきた。
「ラッドさんってさ、多分クラリスさんのことが……それなりに、気になってたんじゃないの」
 おませな後輩はにやにやしながら言う。
「ああ……確かにそうかもな」
 あの冷ややかな態度。クラリスの神経をわざと逆なでするような言葉。そして、試合後の意外と素直な表情。
 気になる異性に冷たく当たるなんて、子供と同レベルではないか。ユリシーズは含み笑いした。
「クラリスにはもっとストレートにいかないと、通じないだろ」
「たとえばラケタくんみたいに?」ペネ・ロペが小声で言う。
「いたなーそんな奴」
 恋人たちは笑い合った。
 一方クラリスは、いずれ愛剣になるであろうエクスカリバーを鞘から抜いて、青空にかざしてみた。刀身は輝くようなオレンジだ。いつかティパの村で見た夕焼けの色が重なる。
(ハルト、喜んでくれるかなあ……)
 彼女は懐にしまった弟の手紙に思いをはせた。
 今年の旅を終えた後、クラリスは引退するつもりだった。そして弟にキャラバンの座を譲る。まだ誰にも打ち明けていないけれど、もう心に決めていた。
 だから彼女は、キャラバン生活四年間の集大成として、自身の存在を皆の思い出に焼き付けたかった。剣聖の称号はまた、ハルトの歩むべき道を照らしてくれるはずだった。
(そう、私は強くなったんだ。あのラッドにだって勝てた。もう絶対、泣いたりなんかしない!)
 やっと手に入れたはずの心のもろさにも気づかず、彼女は無邪気に前に進む。

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