見えない未来図

 とんでもないことになった、と思った。
 否、この展開自体はずいぶん前から予測していた。それこそ姉クラリスが村のキャラバンに入隊した四年前から、この日が来ることははっきりと決まっていた。
 だからといって、こんな開幕の仕方は予想だにしていなかったのに……。
「私は今年限りでキャラバンを引退します。代わりに、弟のハルトを入隊させます!」
 姉はめでたい水かけ祭りの場で、神聖な雫の儀式が終わると同時にいきなりこう宣言した。当然、村人たちは騒然となった。引退の話は仲間はおろか、村長にも告げていなかったのだ。そして弟本人も、まさかこのタイミングで言い出すとは夢にも思わず目を白黒させていた。
 姉に引きずられるようにして、祭りの輪の中心に無理やり連れて行かれる。まわりから突き刺さる驚愕の視線が痛かった。必死に平静を装ったけれど失敗していたに違いない。目を丸くする友人たちと、頭を抱える母が視界の端に見えて、もういたたまれなくなる。
 何よりも、姉のキャラバンの仲間たちの反応が怖かった。姉の親友であるセルキーのペネ・ロペさんはどうも唯一事情を知っていたらしく暗い顔をしていたけれど、ユークのユリシーズさんは仮面の上からでも分かるほどびっくりしていて、リルティのタバサ=クックは赤いマスクの奥の瞳を吊り上げて苛立っているようだった。
「やっとこの日が来たんだな。私は嬉しいよ」
 横にいる姉は己の発言のもたらした衝撃が人々を打ちのめしていく光景を、きらきらした顔で眺めている。一体どういう神経をしているのだ。
 皆が驚きから覚めたその瞬間、あちこちから詰問の声が上がるに違いない。実際に旅に出るはるかに前段階から、ものすごく気が重くなってしまった。



 ティパ村唯一の農家たる我が家では、水かけ祭りの翌日でも朝から働き出すのが定例だ。姉がどれだけ文句を言おうと、それは四年間変わることがなかった。
 祭りの翌朝、寝ぼけ眼で居間に行くと、母はすでに朝食の準備を終えていた。
「おはよう」
 いつものとおり、沈黙とかすかな会釈を返す。それに気分を害した様子もなく、母は卓についてミルクを飲んだ。
「昨日の晩の話だけど……ハルトあなた、クラリスから何も聞いてなかったみたいね」
 そのままずばりだったので、思わず目を伏せた。
 母は盛大にため息をついた。
「ああいう場でいきなり大事なこと言い出すあたりが本当にお父さんそっくりよ。ちゃんと皆に自分から話を通してくれるならいいけど……」
 たぶん、こちらに丸投げしてくる可能性が高い。
「とにかくハルト、悪いけどクラリス起こしてきて。お説教がてら朝から働かせるから」
 その提案には大賛成だ。いなかパンをお腹におさめると、すぐに姉の部屋に向かった。
 昨夜、自分は友人たちからの追及を避けるため、あの後すぐ帰宅した。つまりは逃げたのだ。家にはすでに母がいて、仲良しの漁師のご夫婦(ペネ・ロペさんのご両親)や牛飼いの奥さん(ユリシーズさんの母親)と集まってなにやら愚痴っていた。明らかに姉のキャラバン引退の話で盛り上がっている。問い詰められるのが怖かったので、その喧騒を聴きながら自室に逃げ込み、空っぽの胃袋を抱えて眠りについた。鋼の精神を持つ姉はあのまま宴に参加したのか、深夜に帰宅したらしい。
 姉の部屋に向かう途中、玄関の呼び鈴が鳴らされた。足をその方向に動かす。
「おはよう、ハルトくん」
 扉の外にいたのはペネ・ロペさんだった。昨晩よく眠れなかったのか目の下に隈ができていた。挨拶代わりに軽く頭を下げ、黙って見返す。彼女は困ったような笑顔を作っていた。
「分かってると思うけど、昨日のことで話があって来たの。村長の家で会議を開きたいから、お昼ご飯が終わった頃に来てくれる?」
 うなずいた。見た目だけは冷静に。でも心の中は「どうしよう」と焦る気持ちでいっぱいだった。
 ついに、呼び出しを食らってしまった。姉と違って、村長の説教を受けるような悪さだけは絶対にしてこなかったのに。こんな歳になって、こんな……。
「あ……あのね、クラリス抜きで話がしたいの。きみだけで来てね」
 大きく首肯する。ペネ・ロペさんはほっとしたように肩の力を抜き、帰っていく。
 こちらも緊張が解けてその場にへたりこみたいくらいだった。そんな時、背後から足音がする。振り返れば起き出したばかりの姉が立っていた。
「おはようハルト。今日もいい天気みたいだな。二人で仕事がんばろうな!」
 どこまでも能天気な姉が恨めしかった。



 昼食時からすでに緊張をみなぎらせていた自分を見て、母は何かを察したらしい。「午後の作業は私とクラリスでやっておくから」とありがたい申し出をしてくれた。
 味のしない昼食をそれでも平らげ、物言いたげな姉の視線を振り切って外出した。村長の家は自宅からそう遠くない。
 ペネ・ロペさんは「会議」と言っていた。というからには複数人で行われるはず。つまり、村長だけでなくキャラバンの仲間たちがそろっている可能性が高い。
 話し合いの場において、言葉という手段を持たない自分にできることはごく少ない。だから、姑息な策を弄することに決めた。
 村長の家を訪ねると、奥さんのマレードさんが出てきて案内してくれた。村長宅には広めの客間があり、いつもそこでキャラバンの会議を行うと姉から聞いたことがある。
 マレードさんにお願いして「ある準備」を済ませてから客間に向かった。そこにはすでに先客がいた。
「あ、ハルトくん」
 真面目なペネ・ロペさんが一番乗りだ。こちらが両手に持っているお盆を見て、不思議そうにしている。
 お盆の上にあるのはティーセットだ。沸かしてもらったお湯はちょうどいい温度だった。家から選んできたとっておきの茶葉を取り出す。
 入ってくるなりお茶の支度をはじめた温の民を、ペネ・ロペさんはじいっと眺めていた。恥ずかしいのでもっとくつろいで待っていてくれないものだろうか……。
 手順を間違えないように注意しながら、やっとのことでお茶を淹れて、彼女の前に出す。マール峠の知り合いから母がもらったという茶葉だ。心を落ち着ける効果とやらを期待したのだが、果たして。
「あ……ありがとう」
 ペネ・ロペさんは優しい笑顔を浮かべて喉を潤していた。まったく、どうしてこの人が姉の親友などやっているのかよく分からない。親同士の仲がいいから逃げきれなかったのか。「姉弟だから」という理由でどこにも逃げ場のない身からすると、なんとなく想像できる。
 しばし無言で二人でいると、「悪い遅れた」と言いながらユリシーズさんが入ってきた。彼の席の前にもカップを置く。続いてやって来たタバサにも同様にお茶を淹れたが、彼女は「どうも」と軽く礼を言って口をつけたきり、特に感想は述べなかった。一方ユリシーズさんはペネ・ロペさんに何やら耳打ちしていた。「やだ」と彼女は頬を染める。二人は思ったよりも親密で、幼なじみの適正距離を少しだけ超えているように思えた。気のせいだろうか。
 ごほん、と咳払いしてペネ・ロペさんが口を開く。
「みんな、いきなりだけど集まってくれてありがとう」
 村長が見当たらないが、これで全員なのか。つまり、自分はこれから直接キャラバンの仲間たちに吊し上げられるということだ。そう思った瞬間、もう全身に緊張が走っていくのを感じる。
 そういえば、今代のキャラバンでは姉が実質的なリーダーを果たしていたと聞く。実質的、というのは先代のリーダーであるルイス=バークさんが引退されて姉たちが後を引き継いだ際、「リーダーを決めずに三人による合議制にしよう」という方針を打ち出したかららしい。仲良し三人組らしい発想だ。そして、対外的な交渉などは積極的な性格の姉がこなしていた。(あの姉が交渉? と疑問を抱いたが、実家に文句がこない程度には役割を果たしていたらしい)
 姉が辞めた後は、どうやらペネ・ロペさんがリーダーになるようだ。今回の会議も彼女が発案者らしく、議長として話を進めていく。
「議題についてはもう分かってるわよね。昨日クラリスが言ったことについてだけど——あれはもう、どうやってもひっくり返せないと思うのよ」
 タバサが相槌を打つ。
「それができたらペネ・ロペさんが真っ先にクラリスさんを止めてるはずだものね」
 ペネ・ロペさんは苦笑した。そして、こちらに視線を向けた。
「うん。でも……あのねハルトくん、よく考えてほしいのよ。お姉さんに言われたからキャラバンに入る、じゃあダメだと思うの。だって賭けるのはクラリスじゃなくてあなたの命なのよ」
 どきりとした。戦いに赴くことの意味を理解していなかったわけではないが、他人の口から聞くとより重みがある。
 畳み掛けるようにユリシーズさんが言う。
「それに、他の仲間——俺たちの命、それに村全体の命を賭けることもなる。お前、そんな覚悟ちゃんと持ってるのか?」
「そうよ。クラリスさんの言いなりになってるんじゃないのー?」
 どんどんうつむいていく視線を止められない。ペネ・ロペさんはきっぱり断言した。
「やめられるのは今しかないわ。ちゃんと考えて、あなたの意思でキャラバンに入りたいっていうなら……そのときは仲間として迎えるから」
 それは精一杯の譲歩だろう。キャラバンをほとんど私物化している姉の意向を、ここまで汲んでくれるとは思わなかった。怒って入隊自体をはねのけてもいいというのに、とてもありがたいことだ。ただし、その譲歩が意味をなすのはこちらがきちんと「自分の意思」を示せたらの話だ。
 皆の言うとおりだった。自分は「そうするしかない」と思ったから姉に従うのだ。そこに自らの意思など介在しない。
 要するに、他者と共有できる目的がないのだ。村の助けになりたいわけではなく、体を鍛えるためでもなく、「そうするしかないから」行く。そんな志も何もないやつを、誰が仲間として受け入れてくれるというのか。
 せっかく淹れたお茶は、テーブルの上ですっかり温んでいた。



「ハルト、今日もやるぞ」
 家で待っていた姉は外出の理由を聞きもせず、こちらの姿を認めると同時に持っていた木剣を放った。
 受け取りながら、姉の顔を観察する。普段通りだ。弟がキャラバンに迎えられることを微塵も疑っていないらしい。
 ティパ農場の一角に、置石で円形に囲われた場があった。その中に立ち、木剣を持った姉と向き合う。
 この模擬試合——という名の一方的にこちらが痛めつけられる場は、姉がキャラバンに入ってからはじまった。キャラバンの休息期間中も体を鈍らせないためか、はたまたいずれ自分に代わって入隊する弟を鍛えるためか。模擬試合なのにいつもヘトヘトになるまで戦わされるので、実戦の方が仲間がいる分いくらかマシなのではと思えるくらいだ。
 昔から乱暴者だった姉は、キャラバンが天職だったのか入隊と同時にみるみる腕を上げていった。当然、普段農作業しかしていない弟が追いつけるはずがない。右肩上がりに実力差は開いていった。
「準備はいいか。こちらから行くぞ!」
 果たして、四年目の旅を終えた姉は鬼のように強くなっていた。それもそのはず、今年はアルフィタリアから剣の腕を認められ、何やらありがたい称号と特別な剣を賜ったと聞く。もはやお話にならないレベルの差だ。
 上から振り下ろされた攻撃をまともに受けてしまい、右手首に衝撃が走った。肺から息が漏れ、剣をとり落す。
「どうした、拾わないのか?」
 余裕そうな顔でもう一試合を希望する姉を、少し反抗心を込めて睨んだ。姉はからりと笑う。
「ははあ、もしかしてペネ・ロペたちに何か言われたのか。気にするな、お前ならキャラバンなんて問題なくできるさ」
 この調子である。ペネ・ロペさんが言外に「クラリスの説得は不可能」と言っていた意味がよく分かった。
 それにしても、姉の引退自体はごくあっさりしたものだった。あれほど旅にはまり込んでいたのに、キャラバンの地位が惜しくなかったのだろうか。
 姉は微笑みをたたえたまま続けた。
「だってハルトは私たちの夢を——あの約束を叶えてくれるんだろう?」
 それを言われると、うなずくしかなくなる。
 キャラバンの仲間をどうにかして納得させなければならないこの状況も、姉との理不尽な修行も、ひいてはその約束を叶えるための前段階なのだ。自分にはその道しかなく、これも試練と割り切らなければいけない。それは身にしみて知っている。
 でも、事実をそのまま伝えてもペネ・ロペさんたちが理解してくれるとは到底思えない。この約束のことは誰にも言えないし、言っても仕方ないのだから。
 手首をさすってそれでも剣を拾わないでいると、姉は少し眉をひそめて近づいてきた。
「あのな、このくらいの試練を乗り越えられなくてどうする? これから外に出たら初対面の人といっぱい出会うんだぞ。それこそ、村の外はお前が声を出せないことを知らないやつばっかりだ。まずはキャラバンの仲間に、自分の気持ちを伝えてみろ!」
 その「自分の気持ち」が抜け落ちているから、これほど参っているのに……。
 仕方なしに剣を拾い上げてもう一試合したが、気が抜けたのか簡単に負けてしまった。姉は「なんだ、つまらん」と呆れていた。
 一人で鍛錬に励みはじめた姉をその場に置いて、家に帰った。心も体も疲れきっていた。
「おかえり、ハルト」
 仕事を終えた母が、居間のソファで裁縫をしていた。夕飯の支度の前の小休止だろう。最近は新しいテーブルクロスをこしらえているらしい。この細やかな性質を全く受け継がない姉が生まれたのは惜しいことだ。
 母の隣の空いている場所に、ぐったりしながら腰掛けた。
 思えば、姉はこの母にも相談しないまま引退を決めた。母は姉に続いて弟までもが旅に出ることに対して、賛成とも反対とも表明していない。姉がキャラバンに友達二人を連れて入隊した時も、「止めても無駄」と言って見送っていた。どうやら亡き我が父も姉と似たような性格だったらしく、もう完全に諦めているのだろう。
 ぼんやり裁縫する指の動きを眺めていたら、突然母が顔を上げた。
「あなた、本当にキャラバンに行きたいの?」
 行きたい、行きたくないで決められる問題ではない。自分たち姉弟にとっては、もう「行くしかない」という次元の話だ。他の皆とはそもそも違うステージに立っているのだから、論争にもならない。妥協点など見つかりようがない。
 肯定も否定もしないままでいた。きっと暗い顔になっていたに違いない。
 母ミントは肩をすくめた。
「あなたのことだから、クラリスに行けって言われて旅に出るのかもしれないけど……本当にそれだけでいいのかしらね。
 わたしは旅に出たことはないけれど、少しだけキャラバンのことがうらやましかったのよね。なんだかみんな、楽しそうで」
 母の瞳は縫い目の先の、もっと遠くを見据えている。
「キャラバンの旅って、向いている人とそうでない人がいると思うの。わたしには向いていなかった。別に村の聖域の中で生きていくことに疑問なんて一つもなかった。でも……ハルトはまだ、その『向いているかどうか』すら分かってないじゃない」
 静かに首を動かした母と、目線が合う。
「一度、試しに行ってみたら。嫌になったら帰ってきたらいいのよ。一年で引退っていうキャラバンが今までいなかったわけじゃないし……むしろみんなあなたに同情的だし、そうしても誰も怒らないんじゃない?」
 行く先に立ち込めていた暗雲が割れ、小さな光条が差し込んだ——という感覚だった。
 そうか。そんな軽い気持ちで旅立ってもいいのか。
 母の言葉のおかげで、背負ったものが少し軽くなった。
「姉から立場を引き継いだものの、旅に向いているかどうか分からないので、とりあえずキャラバンに入ってみる」というシナリオは、相変わらず消極的かもしれないけれど、いかにも自分らしい理由づけではあった。そもそも、ただでさえ低い己の評価がさらに下がることもないのだ。情けない、意気地なしだと思われても構わない。ユリシーズさんやタバサはそれでも認めてくれない可能性があるが、あの雰囲気だとペネ・ロペさんさえ説得できればなんとかなる気がする。
 それに——母がキャラバンを「楽しそう」と評していたことが気になった。ほんの少しだけなら、強制された旅の中にも楽しみを見つけてもいいのかもしれない。
 立ち上がって廊下に出ようとしたら、汗をかいて戻ってきた姉と行き合った。
「お、ハルト。なんだかやる気みたいだな」
 にやにやしているのがなんとなく癪に触ったので、無視してすれ違った。
「行ってらっしゃい」
 姉が背中の向こうに消えるその瞬間、小さな呟きが鼓膜を叩いた。
「気をつけてね」母の労わりの声が追いかけてくる。
 生まれてこのかた住み続けたこの家を、長く留守にする日も近いのかもしれない。
 玄関を出て、そのまま漁師の家に向かうつもりだった。まずはペネ・ロペさんに、きちんと自分の気持ちを伝えよう。身振り手振りでどうにもならなかったら、苦手だが筆談を使ってもいい。
 不穏すぎる成り行きではじまった不透明な旅立ちも、少し霧が晴れてきたようだ。
 ——「ダメだったら帰ればいい」と自分に言い聞かせていたのに、一年後にはすっかり旅の空から離れがたくなっているだなんて、この時点ではさすがに想像できなかった。




光明

 珍しいことに、深夜になってもティパ農家の明かりが二つも灯っている。
 一つ目は長女クラリスの部屋だ。彼女は机に何枚かの便せんを広げてうんうんうなっていたかと思うと、やがてきりりと眉を吊り上げ、廊下に出ていく。
 二つ目の明かり——居間では、母ミントが小さなランプをつけて縫い物をしていた。クラリスの気配を悟り、顔を上げる。
「母さん……相談があるんだけど」
 意を決して娘が切り出せば、ミントはあっさりと返した。
「ラケタって人のことでしょ」
 娘はぎょっとしてのけぞる。
「ど、どうしてそれを!?」
「今日モーグリ便から手紙を受け取ったの、わたしだったじゃない。差出人の名前くらい確認するわよ」
 そういえば、と思い当たって、クラリスはうろたえた。
「母さんにラケタの話なんてしたことないのに……」
「そうね、全然話してくれなかったわよね。わたしは何度も手紙で同じ名前を見て、ずうっと前からものすごく気になってたんだけど?」
 ミントは不満げに唇をとがらせる。
 その手紙は数年前、まだクラリスがキャラバンに入っていた頃からしばしば届いていた。村での休息期間に合わせ、毎回同じラケタという人物から。消印のモーグリスタンプはシェラの里のものだった。間違いなく旅先で出会った男性だろう。クラリスは村の外の知り合いを多く持つが、このような文通が長続きすることは他になかったので、ミントはずいぶんと気にかけていた。送られてくる手紙にも何やら熱い念がこもっているように思えた。
「やっとわたしに相談する気になったのね、クラリス」
「ま、まあ」
「まさか、ラケタくんに結婚の申し込みでもされたの?」
 ミントが冗談めかして問うと、クラリスは顔を真っ赤にして黙り込んだ。母は絶句した。
「……本当に?」
「求婚らしきものは、何年も前にされていたんだ。出会った日に、いきなり……」
 正確に言えば、お互いに存在を認識して名乗りあった日に、だ。あの雨の日の出来事はクラリスの心に強く焼きついている。
「その様子だと、返事はしてないみたいね」
「だ、だって、あんまり突然だったから」
 当時は「突然」だったかもしれないが、それから何年過ぎたのだ。いくらでも返事を考える時間はあっただろうに、とミントは肩をすくめた。
「こういうところは、完璧にあの人の子供なのねえ……」
 今は亡き夫の姿をまぶたの裏に思い浮かべる。彼も相当、恋愛に関しては奥手だった。おかげでミントがどれだけ苦労したことか。
「それでラケタくんは、一刻も早くお嫁に来て欲しい、みたいなことでも手紙に書いてきたの?」
「いや。あいつ、留学先のシェラの里から故郷のファム大農場に戻ったらしい」
 ミントは黙って続きを促す。
「でさ、昨日ハルトから手紙がきただろ。『ユリスが変な風に思い詰めてるから、今すぐ助けに来てほしい』って書いてあった。あいつがあそこまで言うんだから相当だ。もちろん瘴気に突っ込んででも向かうつもりだが——ハルトたちもちょうど今、ファム大農場にいるんだ」
 つまり、弟を助けに行けば、ラケタとも顔を合わせる可能性が高いということだ。
 すでにクラリスは、タイミングよく村に滞在していたマールキャラバンと交渉し、マール峠まで連れて行ってもらう手筈を整えていた。出発は明日だ。
「確かに文通はしてたけど、ラケタと会うのは久々——というかほとんど二回目なんだよ。どうしよう。いい加減返事しなくちゃまずいよなあ……」
 クラリスは落ち着かない様子でリビングをぐるぐる歩き回った。ミントはため息をつき、彼女に自分の隣に座るよう指示する。柔らかいソファに包み込まれて、クラリスは縮こまった。
 こんな子が、本当にアルフィタリアから剣聖の称号をいただいたのかしら。ミントはおかしな気分になる。
「あなたはラケタくんのこと、どう思ってるの? ずっと文通してるってことは、悪くは思ってないのよね」
「……自分でも分からないんだ」
 クラリスは顔をしかめ、うつむく。
「ちょっと変わってるけど、悪い奴じゃないとは思う。そもそも、なんであいつが私のことを気に入ったのかも、よく知らないし」
「求婚された時に理由は聞かなかったの?」
「確か、私が本当はいい奴だとかなんとか、って言ってた……」
 ミントは天を仰ぐ。なんとなくラケタの側にも問題があることは察した。
「そうね。それなら、今度の機会に確かめてきたらどう? 自分の気持ちと相手の気持ち、両方をね」
「そう……だな。うん、そうしてみる」
 やっと心を決めたクラリスは、はにかんだ。
「ありがとう、母さん。なんだか落ち着いたよ。裁縫、邪魔して悪かった。おやすみ」
「おやすみなさい」
 娘はふっと笑って、自室に引き返した。薄闇に大地色の髪が踊る。意外にもよく手入れされた髪はつややかで、性格に似合わず女らしさを感じさせた。
 恋愛沙汰に疎かった娘の成長に、ミントは感慨にふけるのだった。



 ひとまずの決心をし、マールキャラバンとともにマール峠まで歩を進めたクラリスは、しかしそこで立ち往生を余儀なくされた。
 西にあるジェゴン川からその先へ向かう移動手段がないのだ。マールキャラバンはちょうど雫を集め終えたため、村に帰って水かけ祭りを行った。一年の疲れを故郷で癒しているキャラバンに「今から川越えをしてほしい」なんて無理強いはできない。
「もうどこも水かけ祭りの時期ですからね。ここに立ち寄るキャラバンも少なくて……。シェラキャラバンがこっちに向かっているようですが、まだ四日はかかるらしいですよ」
 宿屋の主ヒュー=ミッドが、朝食の皿を片付けながら言う。昨晩の唯一の客だったクラリスは、焦りを隠しきれない様子でミルクを飲み干した。
「一刻も早くファム大農場に向かいたいのに……」
 最愛の弟ハルトが助けを求めているにもかかわらず、分厚い瘴気の壁を突破する方法がない。彼女は歯がゆい思いを抱えていた。
「うわっ、やられた!」
 皿を持って厨房に行ったヒューが、いきなり悲鳴を上げた。
(どうしたんだ?)
 ヒューは食堂に戻ってきて、頭を下げる。
「すみません。デザートに用意していたしましまりんごがなくなってしまって。どうも最近、しましま盗賊団がマール峠にいるみたいなんです」
「へえ。まあ、どろぼうにやられたなら仕方ないだろう。構わないさ」
 それにしても、かの盗賊団が村を襲うとは珍しい。普段は瘴気の中を歩く旅人を狙う輩だが、水かけ祭りの時期ということもあって街道の往来は減る一方だ。そのせいでよほど飢えているのだろう。
 瘴気の世界を駆け回る、神出鬼没の盗賊団。
「……これは、使えるかもしれない」
 クラリスはとびっきり意地の悪い笑みを浮かべた。いい作戦を思いついたのだ。
 デザート抜きの朝食を平らげてから部屋に帰り、荷物からりんごを取り出し机に並べた。りんごは弟の大の好物だ。会いに行くついでに届けてあげようと、実家の木から多めに確保してきていた。中でもとりわけツヤツヤしたものを選んでから、彼女は宿を出てマール峠の井戸端へと向かう。
 今日は風が強いため瘴気が薄く、いつもより強い太陽の光が降り注いでりんごの赤を際立たせた。彼女はふうっと果実の表面に息を吐きかけると、そのまま井戸のふちに置いた。
「おっと、いけない」
 そこで何かを思い出したように、その場を離れる——ふりをして、さっと近くの木の裏に隠れた。
 朝の水くみが終われば、昼間はあまり人気のない井戸だ。果たして予想は的中した。
 紫のしましま服がどこからともなくやってくる。セルキーのバル・ダットだ。彼の目的はもちろん、クラリスが「置き忘れた」りんごだった。
 すかさずクラリスは木の陰から飛び出した。
「動くな」
 神速でエクスカリバーを抜き放つと、賊の喉元にピタリとあてる。バル・ダットは手からりんごを落とし、冷や汗を流した。
「罠だったのかよ……」
「こんなものに引っかかる方が悪い」
 と悪辣極まりない元キャラバンは言い放つ。バル・ダットはふてくされたように目を閉じた。
 彼女はニヤリとしてから、盗賊を罠にはめた目的を思い出した。エクスカリバーを微動だにさせないまま、セルキーのバンダナにくくりつけられていた結晶を無造作に奪い取る。
「ふうん。これがショートクリスタルか」
「あッ何すんだよ!?」
 勝ち誇るようにクリスタルを掲げ、クラリスは宣告する。
「今の私はある重大な使命を抱えている。どうしてもファム大農場に行かなくちゃいけないんだ。だからしばらく貸してもらう。用事が終わればすぐに返すさ」
「そんな勝手な——」
「文句を言える立場なのか、よく考えるんだな」
「くっそぉ……」
 瘴気の世界を渡るための命綱であるクリスタルを盾に取られれば、どんなに理不尽なことにも黙って従うしかない。歯ぎしりするバル・ダット。
 クラリスは悪人のように高笑いする。
「わーっははは。私についてくるなら、村人たちにお前の身柄を引き渡すのはやめにしよう。嫌ならずっとマール峠にいてもいいんだぞ〜?」
 まったく不公平な取引だった。相変わらずバル・ダットの喉元には鋭い刃物があてられているのだから。
「ちっ。ついてくよ、ついていけばいいんだろ! アルテミシオン呼んでくるッ」
 エクスカリバーが引いたことを確認して跳びすさり、肩を怒らせて立ち去るバル・ダット。クラリスは鋭い笑みを閃かせた。
「そうだな……まずは、渡し守なしで川を渡るすべでも教えてもらおうか」



 蛇行するジェゴン川の中州にあるクリスタルから数時間ほど北に向かって歩くと、少しだけ川底が浅くなっている場所がある。そのあたりは川の流れも遅いので、ひざまで水につかりながらもなんとか自力で渡りきれるというわけだ。
「なるほどなあ……盗賊には盗賊なりのルートがあるのか」
 クラリスは感心した。その間にも、服の裾をたくし上げて全力で水を跳ね上げ、川の中を猛進している。後ろからは必死にしましま盗賊団がついてくる。空を飛ぶアルテミシオンはともかく、バル・ダットは案外体力がないのかぜえぜえ息を吐いていた。
 クラリスの知る盗賊団は三人組だったが、今ここにいるのは二人だけだ。かつてメンバーであったメ・ガジの不在に関しては、ペネ・ロペから手紙で知らせを受けている。クラリスも盗賊団も、あえてその話題を出すことはなかった。
 川を渡りきった時点で既に日が傾きはじめていた。しかし、このペースで走り続ければ夜にはファム大農場にたどりつけそうだ。クラリスは濡れた足元を雑にぬぐうと、休息も取らずにまた駆け出す。
 背後でバル・ダットが必死に叫びを上げた。
「お前、こんなに急いでどうしたいんだよ……!?」
「私の大事な大事な弟が助けを求めているんだ。行かないわけにはいかないさっ」
 大地色の髪が風にあおられてばさりと広がった。バル・ダットはスピードを上げて、クラリスの横に並んだ。
「弟って……ティパキャラバンのあいつだろ、一言も喋らない奴」
「ほう、よく覚えていたな」
 特に名乗った覚えはないが、バル・ダットはクラリスの顔と名前も把握していた。記憶力は悪くないらしい。キャラバンはしましま盗賊団にとって貴重なカモだから自然に覚えるのだろう。
 今度はアルテミシオンが追いついてきた。
「ボクはてっきり、恋人のために急いでるんだと思ってたクポ」
「な!? だ、だ、誰が誰の恋人だっ!」
 冗談に対してクラリスが思いっきり動揺したので、盗賊団二人は顔を見合わせた。
「あーあ。結局そういうことかよ」
「断じて違う。違うったら違う! あんまり変なことを言うと、用事が終わってもクリスタル返してやらないぞ!?」
 まったく、ラケタと会った時に一体どんな顔をすればいいんだ。クラリスはファム大農場に向かって走りながら、疲れとは別の理由で頬が燃えるのを感じていた。



 ——ハルトがいない。
 夜になってファム大農場に辿り着いたクラリスは、弟の要請通りに行動した。瘴気の中に踏み出しそうになったユリシーズを間一髪で阻止し、ペネ・ロペに後始末を託した。我ながら完璧な仕事ぶりだった、と自画自賛する。そして報告がてら肝心の弟を探したのだが、何故か彼は宿にもどこにもいなかった。なんだか嫌な予感がした。
 熱に浮かされたような足取りで、もう一度クラリスは広い農場を駆けずり回った。今日は走ってばかりだが、焦りに支配されていて疲れは感じない。
 ……と。松明の光を受けて、闇に浮かび上がるようにクラヴァットの男性が現れた。
 ふわふわの茶色の髪の毛、同じ色の瞳。その内側に秘められた底なしの優しさを、彼女は知っていた。何年も会っていなかったが、記憶の中の姿とまるで変わらない——ラケタ。
 どきりとして立ち止まった。声が出ない。
「クラリス!?」
 気づいたラケタがこちらを見る。驚愕の表情で。クラリスが大農場に来るなんて教えていなかったのだから、無理もない。
 彼女は自分の顔がくしゃりと歪むのを感じた。
「ハルトがいないんだ……」
 挨拶をするとか再会を喜ぶとか、もっと他にすることがあるだろうに、クラリスは真っ先に助けを求めていた。よろよろ歩み寄ると、ラケタの顔色が変わった。
「えっ。あいつが?」
「宿にもいなかったし、捜しても捜しても見つからないんだよ。ど……どうしよう」
 話しはじめると止まらなかった。弱音を垂れ流してしまう。こんなはずじゃなかったという気持ちと、不安を受け止めて欲しい気持ちがせめぎ合う。
 ラケタは少しかがみこみ、うつむき加減の彼女と目線を合わせた。
「しっかりしろ。おれも一緒に探すから」
「ラ、ラケタ……」
 今はその冷静さがこの上なく頼もしかった。
 ラケタのおかげで、幸いにもハルトはすぐに見つかった。外で熱を出して昏倒していたのだ。ラケタはたまたま近くにいた盗賊団に(そうとは知らずに)医者を呼ぶよう依頼し、ハルトを宿まで運んでいった。その間、クラリスはおろおろするばかりでほとんど役立たずだった。
 ぐったりした少年を背負いながら、ラケタは完全に動転してしまっている彼女に向けて言う。
「クラリス。狼狽えるのもいいけど、ハルトが起きた時は堂々としてろよ。弟に余計な心配かけたくないだろ」
 何故だかその声を聞いているだけで、クラリスの心はだんだん静まっていった。
「あ……ああ。そうだよな、私がしっかりしないと」
 彼女はふっとほおを緩めた。
「ありがとうラケタ」
「どういたしまして」
 温の民たちの笑顔が重なった。こうして、数年ぶりのラケタとの再会は、弟の一大事のもとにあっさりと流れたのだった。



「ハルトくん、倒れたんだって? 大丈夫なの」
「悪い、俺たちが目を離したから……」
 深夜、ファム大農場の小さくもあたたかな宿に、クラリスの幼なじみであるペネ・ロペとユリシーズが帰ってきた。ユリシーズの無茶な行動のせいでこじれかけた二人だが、どうやらあるべき場所に落ち着いたようだ。
 ハルトの眠る部屋の外で、クラリスは人差し指を唇にあてた。
「大丈夫だ。もう寝付いてる」
 呼んできた医者は水かけ祭りの宴で酔っ払っていたが、なんとか頼み込んで診察してもらった。その結果、どうやら単なる風邪らしいと判明した。
「ただ……免疫が弱まっている可能性が高いですね。いきなり発熱して倒れたということは、もともと肉体的もしくは精神的に疲れていた状態で、さらによほどショックなことが起こったのではないでしょうか」
 と医者は分析した。「精神的に疲れていた」というのはメ・ガジや黒騎士の死によるものだろう。そして、ショックな出来事とは——ハルトが一番弱いのは、「記憶」に関することだ。
「大丈夫だ」と言いつつ医者の発言を思い出したクラリスが顔を曇らせたので、ペネ・ロペは取りなすように、
「とりあえず、今はゆっくり休んでもらいましょう」
 続けて、ユリシーズが何かを期待するように言う。
「それはそうとクラリス。お前、ラケタとは久しぶりに再会できたわけだな」
「あー……そうだが」
 で、それが何か? とでも言いたげなクラリスの態度に、ペネ・ロペは慌てた。
「ちょっと。久々に会って、何もなかったの?」
 クラリスはきょとんとする。
「……別に、何も。あいつはいい奴だな。ハルトのことも助けてくれた」
 常に弟を優先するクラリスに対し、親友はむっと眉間にしわを寄せる。
「ふうん。ラケタは確かに優しいやつだよなあ」ユリシーズはどことなくトゲのある台詞を吐いた。
「まあな。あれは誰にでもそうなんじゃないか」気の無い返事をすると、
「他の誰でもない、クラリスが困ってたから助けてくれたんだと思うわ」
 ペネ・ロペは力説した。
 そうだろうか。ラケタは自分から求婚してきたくせに、そんな事実などなかったかのように振る舞った——ようにクラリスは感じた。無事にハルトを見つけて宿に運び込んでからも、ラケタはあまりに普通の距離感を保っていた。意識しすぎてわざとクラリスから離れるなんてことはなく、もちろん熱烈に愛を囁くわけでもない。ハルトが眠りに落ちた後は、医者を伴ってすぐ家に帰った。
 思い返せば、長く続けた手紙のやりとりだって内容はごく普通だった。天候の話だとかシェラの里での勉強の進み具合だとかファム大農場の今年の収穫状況だとか。時にはハルトの話題で盛り上がることもあった。
 だが、それだけだ。
 かつては「好きだ」と言ってくれた。だが本当に、今でも同じ気持ちを抱いてくれているのだろうか……?
(結局、母さんの言うように実際に会ってみても、変わらなかったな)
 クラリスは自分の気持ちも相手の気持ちも分からず、どんどん迷宮に入り込んでいくような心地になっていた。
 ユリシーズは迷い続ける彼女の心を見透かしたように、
「あいつ、まだお前のことが好きみたいだぞ」
 と言う。クラリスは分かりやすく動揺した。
「何を根拠に?」
「見たら分かるさ。俺だって似たような気持ちを味わってたわけだし。
 クラリスは、どうなんだよ」
 彼女は恋心というものがよく分からない。だから、自分にもっとも身近な感情に置き換えて、考えてみる。
「そうだな。会ってみて分かったが、あいつが隣にいることに違和感はなかった。思った以上に心地よかった。今回ラケタには迷惑をかけてしまったから、その分を取り返したい——と思っている」
「ほらみろ。お前がそんなことを考える男なんて、貴重すぎるぞ」
「そうか? いや、確かに……」
 あごに手を当てて考え込む。
「クラリス、ラケタくんには素直に頼れたんでしょ。しかもハルトくんのことで。あなたは気づいてないかもしれないけど、それって心の底ではとても彼を信頼してるってことよ」
 ペネ・ロペは知っている。竹を割ったような性格のクラリスは、一方で排他的な心理も併せ持っていた。彼女は家族、幼なじみ、仲間、それ以外、ときっちり線を引いて接している部分が確かにあるのだ。
 しかしラケタはあっさりとその境界線を飛び越えた。彼なら、クラリスの高いプライドからくる気恥ずかしさや、心の奥底に抱えた弱ささえも受け入れてくれるのではないか。少なくともクラリス自身がそう考えたからこそ、ああしていちばん大事な弟のことを頼めたのだ。
「ああ……そうかもしれないな」
 クラリスはペネ・ロペの言葉に含まれた意味を正確に受け取った。
 彼女にとって、真の意味で寄りかかることができる存在——心の支えとは、すなわち父だった。クラリスは、たくさんの思い出を残してこの世を去った彼のことを未だに毎日思い出す。エンジュこそが彼女に生きる指標を与えてくれた。それは真っ暗な夜道を照らすただ一つの月明かりだった。年月が流れだんだん弱くなるそれを必死にたどることで、クラリスはひたすら前に進んできた。
 だが、キャラバンを弟に引き継いでふと立ち止まった時、後ろにも小さな明かりが灯っていることに気づいた。実家とは別の、歩き疲れたクラリスを自然に迎えてくれる場所がそこにあった。どうやらラケタは父とはまた違う形で、クラリスを支えてくれていたようだ。いつの間にか、もしかすると出会った頃からずっと——
 彼になら、ハルトのことだって託せるかもしれない。今まで姉弟二人きりで抱えていたあの望みについても、打ち明けられるかもしれない。
 そこまで考えてから、クラリスは首を振った。
「これじゃ、私がラケタを利用してるみたいだ。相手の好意につけこんで、自分の好きなことに協力させようとしている……」
 ああまたクラリスが面倒な溝にはまった、と言わんばかりにユリシーズが肩をすくめる。
「あいつがそうしたいんだから、好きにさせとけばいいだろ」
「でも!」
 口論になりかけた幼なじみたちに、ペネ・ロペが慌てて割って入る。
「えーとね、ラケタくんはクラリスの役に立てること自体が嬉しいのよ。それはもう、絶対っ」
 と念を押してもクラリスはまだ不満そうな顔をしている。ペネ・ロペは苦笑した。
「やっぱり、本人とちゃんと話し合わないきゃいけないわね」
「うっ。そうなるのか……」
 クラリスは肩から力を抜いて、大きく息を吐く。
「ならいっそ、一晩中、二人だけで話し合う場がほしいな。そうすれば少しは理解できる気がする」
 ペネ・ロペたちは顔を見合わせた。
「案外大胆なのねクラリス……」
「それ、本人に伝えろよ。多分大喜びすると思うぞ」
 ユリシーズのこの声色は、仮面の下でニヤニヤ笑いを浮かべている時のものだ。
「ふ、ふん。機会があればなっ」
 どうやら恥ずかしい発言だったらしい、と気づき、クラリスは顔を真っ赤にしてうつむいた。



 翌日のこと。宿まで見舞いにやってきたラケタは、ティパキャラバンとともに眠り続けるハルトを囲んでいた。ペネ・ロペ、ユリシーズ、タバサの三人は和やかに談笑し、その横でクラリスとラケタはひたすらハルトを注視している。
 切実な面持ちのクラリスが、ふとんからはみ出た弟の右手を握った。すると、ハルトのまぶたが動いた。
「あっ」「ハルト!」
 クラリスは笑顔で身を乗り出したが、弟はあまりにも近くにいる彼女を見て驚いたようだ。「あ、悪い」彼女は舌を出して手を離した。
「体は大丈夫か?」
 姉の問いには答えず、彼はぼんやりと視線を落とした。ペネ・ロペが心配そうなまなざしを向ける。
「無理しないで。キミ、風邪引いちゃったのよ」
「言っておくけど、私がうつしたわけじゃないからね!?」
 タバサはハルトの前に風邪を引き、昨晩の水かけ祭りも欠席していたのだ。ふくれっ面の彼女を見て、ハルトはやっと表情を崩した。
 ラケタはにっこり笑い、腰を浮かせた。
「とにかくゆっくり休めよ。おれ、医者呼んでくるな」
 と言って部屋から出ていく。
 ふと、ペネ・ロペが思い出したように中空に向けて呟いた。
「あ、ラケタさんってば、お財布忘れてるわ。届けてあげないと。ほらクラリス」
 どこからともなく取り出した革袋を親友へと放る。
「そうか」とクラリスは頷き、「……なんで、私が行くんだ?」首をかしげた。
「いいじゃない。今ならまだ間に合うわ、ほらほら」
 ペネ・ロペの笑顔はどうも作り物くさい。ああ、何かはかりごとをしているな、とクラリスは察した。長い付き合いだからバレバレだ。
 だが、これはチャンスだった。ペネ・ロペは「ラケタくんにちゃんと自分の気持ちを伝えなさい」と暗に言っているのだろう。ありがたく機会を活かすことにした。
「そうだな。ちゃんとラケタに渡してくるよ」
 クラリスは頬を持ち上げ、何かを期待するようなティパキャラバン一同に背を向けた。ハルトも苦笑するように目を細めていた。
 宿を出た。中天へ向かって上がり始めた陽が、大地に光を投げかける。大農場の緑は一層濃くなり、故郷の村ともまた違う陰影を作り上げていた。
(あ……)
 並木道の向こう側から、待ち人がやってくる。茶色のくせ毛がクラリスを見つけてぴょこんと跳ねた。
 胸のドキドキは心地よいリズムを刻んでいた。
 なんだ。ややこしい理由をつける必要なんてなかった。自然と頬が緩むような高揚感が身を包む。それが何よりも彼女の本心をあらわしていた。
 この感情はきっと、ペネ・ロペとユリシーズがお互いに抱いているような、燃え上がるような思いとは違う。だが、それでもいいのだ。愛しい気持ちの発露など、人それぞれなのだから。
 クラリスは軽く胸に手を当ててから、イエスを伝えるべき相手に歩み寄った。




灯火

「おれ、結婚してティパの村に行くことにした。だからもう、ファム大農場には戻らないかもしれない」
 というラケタの唐突すぎる告白を、友人グインプはあんぐり口を開けて拝聴していた。
 水かけ祭りの翌日のことだ。本来ならば、数年に渡る留学から帰ってきたラケタを祝うため、昨夜のうちに仲間内でささやかなパーティを開くはずだった。しかし本人が忙しそうに駆け回っていてちっとも捕まらず、あくる日の夜になってグインプだけが呼び出されたと思ったら、これだ。
「結婚って……例の彼女と?」
「そう。クラリスっていうんだ。ティパ出身の」
 話だけなら、耳にたこができるほど聞いている。さらには何度も手紙で読んでいる。ラケタの執着たるや相当なものだった。おかげでグインプは、見たこともない彼女の顔をまぶたの裏に描けるようになってしまった。クラリスというのは、切れ長の瞳が印象的な、冷たい感じの美人らしい。
 だんだん驚愕が覚めてくると、グインプは唇をほころばせた。
「へえ。やったじゃないか」
 思いっきり友人の肩を叩いてやる。「へへっ」とラケタは嬉しそうに笑った。
「お前、昨日まで完全に諦めムードだったのに。どうしたんだよ」
「たまたま彼女がこっちに来てて、話をする機会があったんだ。いやあ、恋の駆け引きはストレート過ぎるのも良くないよな。押した分だけ引いてみるのが重要なんだ!」
「何を偉そうに……」
 現在恋人のいないグインプは、ひそかにむっとした。
 一方ラケタは無邪気そのものの顔で人差し指を立て、提案する。
「だからさ。おれの門出を祝うってことで、あれをやってほしい」
「……あれか!」
 二人はにやりとして目配せしあった。
 ファム大農場の夜は早い。昼間は農作業に励み、日が沈めばゆっくり休むのがクラヴァット流の暮らし方だ。だが若者たちはたぎる情熱を持て余し、時に夜中でも些細な悪事をはたらく。ラケタとグインプは昔からその筆頭だった。
「確かシューラさんの家に、いい感じに乾いた薪があったはずだ」
「よし、ラケタはそっちを頼んだ。俺は火種を探してくる」
 しばらくして、二人は再集合した。グインプの手には、赤色の小さな石がある。
「ファイアのクズ魔石があったんだけど……ラケタ、頼めるか」
「任された!」
 ラケタが軽く集中すると、小さな火が灯った。質が悪いので、一度使っただけで魔石は崩れ去る。グインプの組んだ薪と木の葉の上に炎が投じられ、じわじわとくすぶった。
 グインプはどれだけ湿った薪でも焚き火ができる、という地味な特技を持っていた。今回も最初は煙が出るだけだったが、のちにオレンジ色の大きな炎が立ち上がる。
「おおー、これこれっ」ラケタは茶色の瞳に炎を映し、興奮している。「前に一回、シェラの里でも焚き火やって、リュクレール先生に大目玉食らったよなあ」
 ラケタの昔話に、グインプは苦笑いする。二人はかつて、同じ時期にかの地に留学していた。
 グインプは薪をいじりながら、しみじみと呟いた。
「お前、本当にすげーよ。五年もあんな辺鄙な場所にいてさ。俺なんか、帰りたくて仕方なかったのに」
「うん……そういえば、なんでだろうな」
 ラケタは頬杖をつく。オレンジの光が、彼の顔に不思議な影を落としている。
「多分、おれはおれ以外の誰かになりたかったんだ」
 グインプは顔を上げた。
「自分以外の、誰か……?」
「そう。おれはどこにでもいるような、ただの果樹園の次男坊だから。本当はそんな生活から抜け出したかったんだと思う」
 冷めた物言いだった。グインプは意外に感じた。友人が、自身をそのように評価していたとは。
「ふうん。留学生の募集があったとき、ラケタが一番に立候補したのはそういうわけだったのか」
 当時のラケタは、特別勉学に抜きん出ていたわけではなかった。だから、彼が率先してシェラの里を目指した時、誰もが驚いた。
 ラケタは唇の端に笑みを閃かせる。
「今思えば、だけどな。あの時は正直、自分でもどうして立候補したのか分からなかった」
 調和を重視するクラヴァットばかりの村では、とにかく「みんな」と一緒であることが重要だった。ラケタはそれを当たり前だと思って、農場の人間としてごくごく標準的な振る舞いをしていた。村の三つのクリスタルの間を友だちと走り回って遊び、キャラバンの話に耳を傾け、適度に親の手伝いをする。その生活に、何の疑問も持たなかった。
「他の誰かになりたいっていう願望に気づいたのも、クラリスに出会ったからだと思う」
 シェラの里で偶然知り合った彼女は、今まで出会った人々の中でも、群を抜いて変わった性格をしていた。学問の世界では権威であるリュクレール先生の授業で爆睡したり、雨季でも傘を持たずに歩いたりと、温の民とは思えないほど規範から外れた行動をしていた。気の赴くまま、どこまでも自分らしく振舞っていた。ラケタはそこに強く惹かれたのだ。
 そして、クラリスは語った。自分に勇気をくれる、ある人物のことを——
 物思いに沈む友人を見て、グインプはため息を付いた。
「……お前が焚き火が好きなのも、それと同じなんだな」
「え?」
「それは、こういうことだろ」
 彼は火のついた薪を一本引き抜くと、ラケタの目の前に突きつけた。
「……!」
 熱源がすぐそこにある。ぱちぱちと木がはぜる音がした。燃え盛る炎は生命の象徴であり、危険をも宿す存在だ。ラケタは息を呑んだ。
「炎の近くにいたいんだろ。自分もそんな風になりたいから。それは……お前自身がいつか燃え尽きるかもしれないってことだ」
 なるほど、確かにクラリスは炎と似ている。彼女の胸の中では、常に強い意志の炎がめらめらと燃え上がっているかのようだ。
 このグインプの辛辣とも言える指摘を、ラケタはごく冷静に捉えていた。
「燃え尽きてもいい。それでもおれは、彼女のそばにいたいんだ」
 ラケタは全く譲る気がなかった。もはや、どんな説得も届きそうにない。グインプは諦めてかぶりを振った。
「はあ……案外、お前って頑固だよな。だったら、これでも持っていけ」
 差し出したのは、黄金色のとろりとした液体が詰まったビンだ。
「……蜂蜜酒?」
 ラベルを読んで、ラケタは何度か瞬きする。
「そうさ。お前が帰ってきたお祝いにしようかと思ったけど、やめた。クラリスさんと一緒に飲め。しっかりやれよっ!」
 どしんとラケタの背中を叩き、グインプは意味ありげに笑った。



 ラケタはクラリスを伴って実家への挨拶を済ませた後、共にティパ村に赴くためティパキャラバンの馬車に乗った。
 彼ら同行者を含めて総勢六人が乗り込んだ馬車は、賑やかに故郷へ行進した。馬車の中からは絶えず笑い声が漏れて、すれ違った他のキャラバンまでエネルギーをもらえるようだった。——その実、ラケタたちを除いた四人はとある事情により、ほとんど空元気だったのだが。
 そうして馬車はティパ半島にたどり着いた。半島を縦断する新街道の中ほどまでやってきたある日、ペネ・ロペが地図を見ながら首をかしげた。
「どうしよう。このまま飛ばして一気に村まで帰る?」
 馬車は分かれ道にさしかかっていた。脇道に逸れれば、ティパの港がある。少し窮屈な思いをながら旅をしている現在、あそこに寄り道してクリスタルの聖域に入るのも、悪くない考えだと思えた。
「ちょっと疲れたわね。ラケタさんたちもいることだし、のんびり行きたいわ」
 タバサの提案に、リーダーは頷いた。
「なら、港に寄りましょう。ラケタさんも、それでいい?」
「おれはもちろん構わないよ」
 港は崖下にある。昔は栄えたらしいが、今はろくに訪れる者もおらず、閑散としていた。たまたまトリスタンの船も出払っており、誰もいない港にはただ波音だけが響き渡っていた。
 六人は崖の上で暗い海を眺めながら夕食をとった。月の光で海面がきらきらしている。なかなか乙な光景だった。
 食後、ユリシーズは皿の片付けをしながらこっそりラケタに近づき、とある提案をした。
「ラケタ、いい蜂蜜酒を持ってただろ。砂浜に下りて、クラリスと一緒に飲んで来いよ」
「え……それは願ったり叶ったりだけど。なんで?」
 いささか唐突な提案だった。ユリシーズは少し真剣になり、
「村の外で二人っきりになれる機会なんて、もうないかもしれないだろ」
 ラケタは「なるほど」と頷いた。
「それもそうだな。誘ってみるよ」
 彼はビンを片手に胸を張って歩いた。ユリシーズはペネ・ロペとアイコンタクトをとり、してやったりとほくそ笑む。
 ラケタの未来の妻は、かすかに眉をひそめて海を見つめていた。
「なあクラリス。一緒に下の砂浜に行かないか」
「うん……ん?」
 ラケタと一緒に、砂浜へ。何度も反芻してやっと理解した彼女は、
「えっ。まさか——二人で!?」ボッと頬を燃やした。
「そうだけど。だめかなあ」
「い、いや、だめじゃない。けど……」
 クラリスは助けを求めるように友人たちを見やったが、その全員に見て見ぬ振りをされた。
 逡巡する間も、ラケタがじいっと目線を向けてくる。ますます顔が熱くなった。
 そうして長い間思案した末、彼女は予想の斜め上を行く結論を出した。
「ハルトも来てくれるなら、いいよ」
 皿洗いをしていたハルトは、唐突に耳に飛び込んできた台詞に驚いて固まった。
 頼むから断ってくれ、と彼はラケタに念を送ったが、
「いいよ」
 あっさり頷かれてしまった。
「……」
 がっくり肩を落とす。仲間たちから注がれる哀れみの眼差しが辛い。
 夫婦水入らずの場に思わぬ邪魔が入ったというのに、何故かラケタは満面に笑みを浮かべていた。
「じゃ、行こうぜ二人とも!」
 それぞれの思いを抱えながら、三人はランプを持って、砂浜に繰り出した。ユリシーズが手土産につまみを渡してくれた。かりかりのバゲットだ。ただバターを塗って焼いただけだが、なんとも食欲をそそる香りを漂わせている。
 ハルトは道中、隣を歩く姉を恨めしげに睨んだが、
「仕方ないだろ……は、恥ずかしかったんだよ」
 と弁明された。こんなことで照れるくらいなら、求婚を受け入れなければいいのに。
 海にほど近い砂浜にたどり着いた。右からハルト、ラケタ、クラリスの順に並び、腰を下ろす。柔らかい砂がくるぶしを埋めた。ちょうど真ん中には蜂蜜酒とつまみが置かれ、全員が杯を手に取る。
「とりあえず乾杯!」
 グラスがぶつかり合い、ちいん、と澄んだ音が鳴った。
 このメンバーで、これから一体どんな話をするのだろう……。ハルトが戦々恐々としていると、ラケタは静かに切り出した。
「どうしてそんなに二人の仲がいいのか、聞いてもいいかな」
 感情が抑えられた声だった。ハルトは少し、胸が苦しくなった。——やはりラケタは、義弟の存在を邪魔だと思っているのではないか。
 クラリスは台詞に秘められた意味をまるで推測しようともせず、あっさりと答える。
「私たちはある約束をしたんだ。大切な約束を。それについてはまだ、お前に話すことは出来ない……。でも、ハルトが言葉を失ってもあの約束を覚えていてくれたことが、すごく嬉しかったんだ」
 彼女はご機嫌そのものの表情で酒をあおる。ラケタは破顔した。
「そんなの、いつか話してくれればいいよ。思った通り、ハルトってばいい奴なんだな」
「……」
 ハルトは立てた膝に顔を押し付けた。なぜこの夫婦は自分の話ばかりしているのだろう。もっと他に語ることはないのだろうか?
 恥ずかしさをごまかすために、彼は蜂蜜酒をがぶ飲みした。クラリスの杯の進みもずいぶん早い。ラケタがちびちび飲んでいる両脇で、姉弟はみるみるうちに酔っ払っていった。
 まわりの惨状を知ってか知らずか。ラケタは首を左に向けて、
「それでさ、クラリス——」
 二人の距離が近づいたことを確認し、ハルトはこっそり立ち上がった。ばれないようにその場を離れる。あとはお好きにどうぞ、という気分である。
 仲間たちのいる崖上に戻ろうとしたところで、ふと足を止めた。
 ばさばさという羽の音が聞こえる。小鳥——ではない。
「?」
 顔を上げる。月の輝く夜空から、目の前に大きな影が降りてきた。
「……!」
 それは大型の鳥獣グリフォンだった。



「何か、気配を感じる」
 酔いが回ってずいぶん怪しい目つきになったクラリスが、唐突に腰を上げた。
「へ?」ラケタの話——ティパキャラバンの仲間たちの噂——は容赦なく中断される。
 戸惑う彼にはおかまいなしで、クラリスはあたりを睥睨した。
「ハルトがいない!」
 途端に走り出した彼女を、「クラリス!」ラケタは追いかけた。前をゆく彼女よりも幾分落ち着いて、ポケットの中身を確認しながら。
 ごうごうという異音が、静かな波音をかき乱した。不自然な暴風が吹いてラケタの前髪を揺らす。
「私の後ろで待て」
 クラリスは足を止め、ラケタを手で制した。どちらともなくつばを飲む。前足を持ち上げて二人を威嚇しているのは、大鷲に似た姿を持つグリフォン。ヴェオ・ル水門にも生息するという魔物だ。
(本物の魔物——!)彼は反射的に後ずさった。
 グリフォンはぶん、と強烈な尾の一振りを繰り出した。狙いはこちらではない。二人よりも先に魔物と対峙していた、
「ハルト!」
 クラリスは体ごと弟にぶつかった。砂の上に押し倒す形で攻撃を回避する。
「無事かっ」「……!」頷き合う姉弟。
 隙を見てラケタも移動し、なんとか三人は合流した。
 どうしてハルトは助けを求めなかったのか——理由は分かっている。親密な空気を漂わせ始めたラケタたちを、邪魔したくなかったのだ。おまけに少年の足取りはどうもふらふらしていた。席を外した時点であれだけ飲酒していたせいだろう。
 男二人をかばうように前に出て、クラリスは胸を叩いた。
「ふっ。私が来たからには、もう安心だ!」
 大言壮語して腰に手をやったが、
「——剣がない」
 当たり前だ。そもそも砂浜にはおしゃべりをしに来たのだ。魔物と戦う事態なんて想定していない。
「ど、どうしよう」たちまちパニックになるクラリス。ハルトは棒立ちなった彼女の服を掴み、迫りくるグリフォンの翼をぎりぎりで避けた。
 そこでラケタは思い当たって、ポケットの中のものを二人に渡した。
「これ、使えないか?」
 二つのファイアの魔石だ。ただし村でよく見るような粗雑なものである。グインプの話が耳に残って、なんとなく大農場から持ってきていた。まさか、こんな場面で役に立つとは。
 ハルトは首肯し、すぐに構えた。しかし。
「わ、私——マジックパイルなんて、したことないよ!」
 クラリスは潤んだ瞳でそう叫んだ。ハルトは一瞬、頭が真っ白になった。
 四年もキャラバンをやっていたのに、マジックパイルの経験がない!? そういえば、彼女のそばには必ずペネ・ロペとユリシーズがいた。合体攻撃の得意な仲間に、任せきりにしていたのだ。
 わなわな震えるクラリスを、ラケタは辛抱強く励ました。
「とりあえずやってみろ。きっとハルトが合わせてくれるさ」
「う、うん」
 グリフォンの攻撃の合間に、クラリスはのろのろと詠唱を完了させた。ハルトも細心の注意を払ってファイアを解き放つ。たちまち炎が巻き起こった——が、それは魔物の羽の表面を焦がすだけの、小さなものだった。
「!?」
 ハルトは驚愕した。ユリシーズと合わせる時は難なく成功するのに。姉が最後の最後で集中を切らしたことが原因だろうか。魔法がきちんと発動しなかったのだ。
 当然、グリフォンは二人の中途半端な抵抗に猛り狂った。大きく羽ばたいて鋭い風を発生させる。
「うわっ」まともに風を受けてしまい、ラケタがよろめいた。
 クラリスは彼の体を支えると、どこか弱々しく「無理はするな……下がっててくれ」と懇願した。
 せっかくの気遣いだったが、彼は逆に一歩前に出た。
「おれが囮になるから、二人は魔法に集中してくれ」
 クラリスは泣き出しそうになっていた。手の中の魔石はぼろぼろで、後一回でも使えば崩れてしまうだろう。
「そんな……無理だよお」
 普段の様子からは考えられないほど、弱気な発言だった。明らかに酒のせいである。ラケタはそんな彼女の肩に手を置いて、
「ハルトを信じろ」
 義弟に強い目線を向けた。ハルトははっとして何度も首を縦に振る。
「行くぞ!」
 こうしてラケタは威勢よく飛び出したわけだが、翼の一振りで吹き飛ばされてしまった。砂浜といえど、叩きつけられたら痛い。キャラバン経験のない彼は痛みに慣れていないため、なかなか立ち上がれなかった。
「ラケタっ」
 叫ぶクラリス。その手のひらを、ハルトがしっかりと握った。ラケタの様子は気になるけれど、とにかくグリフォンを片付けなければ、ケアルリングも使えない。
 繋がった手がじんわりあたたかい。クラリスの心臓がどきんと跳ねる。手のひらから流れこんでくるのは、ハルトが開放した魔力だ。
「……!」
 吸い込まれそうな黒い瞳がそこにある。クラリスは自分の心が静まっていくのを感じた。ごく自然に詠唱が終わり、完璧なタイミングでマジックパイル・ファイガを発動させる。夜空に浮かんだ雲を真っ赤な炎が照らし出した。
 ラケタは痛む首を無理やり持ち上げて、燃え盛る炎を目に入れた。心地よい熱気を感じていた。手をつないだ二人の後ろ姿は——彼がずっと追い求めていたものだった。
 あそこに混ざりたいわけではない。ただ、そばにいたい。二人を見守っていたい。
 クラリスという名の炎が激しく燃え上がるのは、弟ハルトが隣にいるから。ラケタにとって、二人はどちらも欠けてはならない存在だ。あの姉弟こそ、シェラの里まで行った彼がたったひとつ見つけた、自分が燃え尽きても構わないと思える炎だった。
 ファイガの火炎が消えると、グリフォンは黒焦げになって、どうと倒れた。
「ハルト……」
 クラリスは火照った頬を片手でおさえて、弟を見つめた。
「手、離してよ」
 すぐにハルトは手のひらを開き、姉から距離を取る。反射的にラケタの方を向いた黒い目には、後ろめたさが浮かんでいた。
(そんな顔、しなくていいのに)
 ラケタは心が痛んだ。
 しゃがみ込みんでケアルを施そうとした義弟に、「いいよ。大丈夫だから」と告げる。ハルトはどことなく不安そうに離れた。
 そして、ラケタは明るく感想を述べる。
「二人とも、すごいよ。めちゃくちゃ格好よかった!」
 クラリスはみるみる顔をくしゃくしゃにした。やがて我慢しきれず、彼に抱きつく。
「おっと」
「良かった。本当に、良かった……」
 これは役得というものだろう。ラケタは嬉しくて仕方がなかったので、彼女の背中に手を回し、ぎゅうっと抱きしめ返した。
 その時、視界の隅にハルトが見えた。
「……っ」唇を歪め、踵を返そうとしている。
 ラケタはひとつ息を吐くと、一旦クラリスのそばを離れた。
 明らかにこちらに向かってくる義兄に気づいて、彼は逃げ出そうとする。
「待て」大きく足を踏み出し、その手首を捕まえた。
「……」
 ハルトはうつむき、その場に佇んだ。二人のやりとりの意味合いが分からず、クラリスはきょとんとしている。
 愛しさと切なさが渾然一体となってこみ上げてきた。ラケタは姉弟を一緒に腕の中におさめた。
「わ、ちょっ」「!」
 驚きつつも、幸せそうにしているクラリス。一方ハルトの体はこわばり、かすかに震えていた。
「おれ、クラリスのこともハルトのことも、大好きだよ。だから……邪魔者なんて、どこにもいないんだ」
 ハルトははっとしたように肩の力を抜いた。
 二人の巻き起こす炎のそばにいたい。たとえこの身が焼きつくされても——最後の瞬間までこの二人を支えていたい、と心から思えた。




王女出立

 母が死んだ。
 最後の日々はずっとベッドの中にいた。意識が覚めることもなく、病に命を吸い取られるようにして、永遠の眠りに落ちた。
 一人娘のフィオナはしかし、泣くことができなかった。母を看取ったその瞬間も、国葬が行われた時も……一滴として涙を流すことができなかった。
 慣れ親しんだ王宮が、急に真っ暗になってしまったようだった。前は目をつむってもどこにいるのかわかったのに。自分だけが世界からはみ出してしまった……そういう風に感じた。
 そうしてフィオナは己の居場所を求めるように、政務に打ち込み続けた。
「今の姫様は、悲しくて何も手につかないというお顔をなさっております」
 母の死から四年が経ったある日、フィオナはじいやにそう指摘された。つかの間の休息にと、彼が暖かいお茶を持ってきてくれた時のことだ。
「何を言っているのですか。私が悲しんでいる? ありえませんよ」
 彼女は一笑に付した。今日だって、大きな仕事を片付けたばかりだ。
 気晴らしに騎士団長へ剣術の教えを請う以外、起きている時間はほとんど仕事につぎ込んでいる。事実、十代も後半になった彼女は、父親の補佐として動くことも増えていた。
 じいやは軽く息を吐いて、言った。
「ならば、ある方々に会ってもらいましょう。実は面会を申し込まれておるのです」
 フィオナは脳裏に今日の予定を思い浮かべ、「構いませんよ」と応じた。
 応接室で待っていたのは、セルキーの男女だ。我の民をここまで近くで見たのは初めてだった。なんとなく親近感を覚えたのは、フィオナの体つきがほとんどクラヴァットのものであるからだろうか。
 大胆に腹部を露出した女性は、テーブルに身を乗り出した。
「へー、あんたがフィオナ姫?」
 フィオナのこめかみがぴくりと動く。名乗りもせずにこの発言とは、不躾にもほどがあるだろう。
「そうです」
 自然、答える声は硬いものになった。だが女性はフィオナの反応など全く気にせず、うんうん頷く。
「じゃ、あたしたちはあんたを連れ出せばいいのね」
 ……? どういうことだろう。なんだか雲行きが怪しい。じいやは何故この二人を呼んだのだろうか。
「だって、それがあのじいさんの依頼だからな」
 男性の方が楽しそうに腕を組む。答えになっているようで、なっていない。王女はじわじわ理解してきた。……じいやに、騙されたのだ。
「ちょっと待ってください、私は」
 慌てて勘違いを正そうとするが、バンダナの青年はのんきに自己紹介した。
「俺はルダキャラバンのダ・イース、こっちはハナ・コール。しばらくの間、よろしくな」
「わ、私はフィオナです」
 名乗られたからにはこちらも名乗らなければならない。妙に生真面目なフィオナだった。その性格が災いして、どんどんあちらのペースに乗せられているのだが、彼女は気づかない。
 ハナ・コールは小首を傾げた。
「お姫様、ハーフだったよねー。名前はクラヴァットっぽいんだ?」
「ええ、まあ」
「体型もいい感じだし、いけそうだね」
 何がいけるというのだろう。疑問だらけのフィオナを置き去りにして、ハナ・コールは相棒に向けてひらひら手を振った。
「ほら、ダ・イースはあっち行って。着替えるから」
「へいへーい」あっという間に退出するダ・イース。
 なんだか嫌な予感がして、フィオナは恐る恐る尋ねた。
「き、着替えとは……?」
「だってこれから旅に出るのに、そんな格好のままじゃだめでしょ」
 ぽかんと王女の唇が開いた。ああ、他人の前でこんなはしたない表情を……という全く関係のない後悔が頭の隅に浮かんだ。
「私が旅に——」
 思いもよらない提案だった。すぐさま否定する。自分が王女の責務を投げ出してしまうなんて、ありえないことだ。
 だが……存外に彼女はその提案に惹きつけられていた。フィオナは動揺した。大きくかぶりを振って、魅力的な考えを追い出す。
「それはじいやが勝手に決めたことです。私が許可した覚えはありません」
 と、厳しい台詞を放ったつもりだったが、
「じゃあこれ着てね」
 問答無用で服を渡される。毛皮でつくられているらしく、リルティの好む鉄と比べていかにも頼りない生地だ。
 明らかに話を聞いていないハナ・コールの態度にフィオナはむっとしたが、渡された服をよく観察して怒りが吹っ飛んだ。
「これが服ですか……!?」
 ほとんど肌を覆う場所がないではないか。びっくりして固まっているうちに、ハナ・コールの手が伸びてきた。
「え、え、あっ」
「この服どうやって脱ぐのよ?」
 セルキーは素早い手つきで、容赦なく王女の服を剥いでいく。
「じ、自分でやりますから!」「本当に一人で脱げるのー?」などと一悶着あったが、とにかくフィオナはいつものかっちりした礼服を脱ぎ、セルキーの旅装に身を包んだ。完全に不可抗力であった。他人に命令することはあれど、他人から何かを強要された覚えはなかったので、なんだか新鮮だった。決して我の弱いわけではない自分が、まさかここまで流されてしまうとは。
「お姫様、いいスタイルしてるわね」
 ハナ・コールは感心したように言った。フィオナの頬が熱くなる。「姫様は本当にお美しい」——侍女たちはそう口々に褒めるけれど、ここまで率直な感想を耳にしたのは初めてだった。
「でも、その小手は外した方がいいんじゃない?」
「これは……すみません、母の形見なので」
 フィオナの顔が暗くなる。ハナ・コールはそれに気づいたのか否か、ただ「そっか」と返事しただけだった。
「うおっ、思ったよりセルキーだな!」
 戻ってきたダ・イースにもお墨付きをもらえた。
「でしょー? あたしの見立てに間違いはないのよ。じゃ、フィオナ姫、行こっか」
 ぐい、とハナ・コールは王女の手を引いた。
「待ってください。私はまだ旅に出るなんて、一言も」
 慌ててその場に踏ん張ったフィオナ。ダ・イースとハナ・コールは顔を見合わせ、やがてにたーっと笑った。王女の背中はぞくぞくする。
「ちょっとだけだから。外の空気を吸うだけ! 何にも問題なんてないだろっ」
「そーそー、飽きたら帰ってきたらいいよ。こんな大きな家があるんだし!」
 ……どうやら、自分の願いは聞き届けられないらしい。
 ここで、フィオナの脳裏に打算が働いた。ルダキャラバンをここに呼んだのはじいやだ。つまり、彼が王女を旅に出そうと画策している。——もしや、じいやはすでに城内で許可を取っているのでは? 例えば父王や、口がうるさいクノックフィエルナ侍従長のような人物にも、許しをもらっているのではないか。
 だとすると、彼女は正当な理由のもとに旅立つことになる。フィオナはそう考えて無理やり自分を納得させた。
「分かりました……」
「そう気を落とさないで。旅は楽しいわよ。いろんな人に出会えるんだから」
 出会い。もしかして、自分にも友人ができたりするのだろうか。現時点では単なる夢想だ。けれども、その未来像は胸をときめかせるようなものだった。
 それなりに期待を抱きながら、フィオナは応接室を出た。
 ——その後、ダ・イースに従って門を無理やり正面突破した挙句、まさか自国の兵士に追いかけられる羽目になるとは、思いもしなかったフィオナだった。




味覚のヒミツ

「ユリス、酒飲まないか?」
 水かけ祭りの宴で、踊り疲れたユリシーズを待っていたのはティパ農家の婿養子ラケタだった。片手に酒瓶を持っている。ラケタは珍しく一人きりだった。
「クラリスはどうした?」
「あっちでペネ・ロペと話しこんでるよ。さっきまではハルトといたみたいだけどな」
「ああ、なるほど。それで手持ち無沙汰な俺を呼んだわけか」
「そういうこと」
 いつもは踊りが終わるとペネ・ロペが迎えに来るのに……と思ったらそういうわけだ。あの親友たちも久々に顔を合わせて、何か話すべきことがあるのだろう。
 ユリシーズはラケタから杯を受け取って酒を注いでもらう。二人は乾杯した。
 そのままの流れで手近な椅子に腰掛けて休んでいると、
「うわ、珍しい組み合わせね」
 たまたま通りかかったタバサが首をかしげる。今年も宴に合わせておろした可愛らしい衣装を着ていた。
「そうか? 仲良いよなーおれたち」
 ラケタはわざとらしくユークと肩を組んだ。ユリシーズは苦笑した。
「まあ、そこそこ気が合うのは確かだな」
「えー? 性格なんて正反対じゃない」
「いや共通点はあるぞ?」ラケタはとっておきの話をするように胸を張り、「だって、二人とも愛に生きる男だから!」
 ユリシーズは嘘寒そうに腕をかき抱いた。
「気持ち悪っ」「あっひどいぞユリス」
「変人同士仲が良いだけじゃないの?」
 タバサは冷たい視線を残し、「じゃあね」と去っていく。
「なんだあいつ、言いたいこと言っただけかよ」
 リルティの少女は再び踊りの輪に入っていったらしい。ラケタは気を取り直して、近くのテーブルにあった皿を持ってきた。
「そーだユリス、これ食ってくれよ。おれがミントさんと一緒に作った料理!」
 差し出したのはミートパイだ。薄明かりの下でもつやつやと輝いて見える。牛飼いの家のバターをたっぷり使っているらしく、かなり手が込んでいる。
 ユリシーズは一切れつまんで仮面の口元に近づけ、パイを手で隠すようにする。それで「食事」完了だ。
「うん、うまい。ラケタもなかなかやるな、さすがは生粋の農家」
「ありがと。ほとんどミントさんがやってくれたんだけどな。あの人、おおよそ村の中でできる仕事については本当に万能なんだよ」
「それはラケタだってそうだろ?」
「いやーまだまだ。少なくとも料理はユリスには敵わないさ。
 そういえば……お前が料理好きになったきっかけとかあるのか?」
「あるぞ」
 ユリシーズが話そうとすると、ラケタは手を上げてそれを制止した。
「あ、待って。おれが当てるから。……さてはペネ・ロペ関係だろ」
「よく分かったなあ」ユリシーズは大げさに驚く。
「ユリスの場合、最早それしかないって」
 二人はからから笑った。
 幼い頃、ユリシーズは漁師の家へおすそ分けを持って行ったことがある。自分が手渡したニクやらチーズやらを食べるペネ・ロペは本当に幸せそうで、そこから彼は加工食品や料理に凝りだしたのだ。
 杯が進み、パイが皿から消えていく。ラケタは酔いを感じさせない目でじいっとユリシーズの食事風景を見つめていた。
「にしても不思議だよなー、その食べ方」
「ユークの秘密だからな。教えてやらないぞ」
「それはもちろんだけどさ」とラケタはうなずき、
「ユリスって変わったユークだよな。食事が好きで料理も好きってさ。シェラの里にはそんなユークいなかったぞ」
 ラケタは数年間ユークの集落に留学していたのだ。人並み以上に智の民にはくわしいだろう。
「しかもユリスの料理って、みんなの好みに合わせて微妙に味付けを変えてるって話だろ? 確かにおれが食べた時もうまかった。味の好みが分かるのは、観察力がずば抜けてるってことだよな」
 そこまで褒められるとユリシーズも悪い気はしない。
「何か秘訣とかあんの?」
「そうだな……」
 興が乗ったユリシーズはくすり、と仮面の奥で笑い声を立てた。
「これは酒の席の話だ。俺が言うことは話半分に聞いてくれ」
 と前置きして、ユリシーズは途端に小声になる。ラケタは興味津々の様子で耳を寄せた。
「実はな」「うんうん」「俺たちユークは、ああやって食物を手で包んで、中に含まれる成分を分析しているんだ」
 ラケタは目を丸くした。
「成分? って、栄養分みたいなものか」
「まあそんなところだな。どの成分がどれだけ含まれているかを分析する。で、料理するときはそれが全て適正な値に近づくように工夫するんだ」
「え……。じゃあ、ユークっておれたちと同じように『おいしい』って感じるわけじゃないってこと?」
「そうさ」
 ラケタははーっとため息を吐いた。
「なんか夢壊れるなあ」
 ユリシーズはむっとして、ラケタの空になった杯になみなみと酒を注いでやる。
「おいおい、うまく料理して適正値に近づけるのは大変なんだぞ?」
 ラケタはなかなか酒に強く、平然として飲み続けている。
「そうは言ってもさ……。なんか味気ないと言うか。まあいいや、どんな秘密があっても、お前の料理がうまいことに変わりはないから」
「ペネ・ロペたちには内緒だぞ」
「分かってるって」
 だったらもっといろんな料理を分析して、おいしさを理解してもらわないとな、とラケタは小走りで料理を取りに行く。
 こんな妙な話を出しても素直に受け入れるのが彼のいいところだ。全く、クラリスにはもったいないくらい器の大きな男だった。
 ラケタの背中を見送りながら、ユリシーズは心の中で「それに……」と付け足す。
(さっきの話、本当はちょっと違うんだよな)
 確かにユークは他の種族と同じように「おいしさ」を感じているわけではない。だが、料理を食べる彼らを見ていればそれがどんなものかは分かる。ユリシーズが分析しているのは成分ではなく、人々の表情だ。
 それに案外、彼は他人のそういう顔を見るのが好きなのだった。




クレド

「だったら明日、ぼくが迎えに来るよ」
 と言った子供の声を、ブレンダは今でもはっきりと思い出せる。
 夜だった。二人の間には黒々とした闇が横たわっていて、相手の顔は見えない。ただ、差し出された白っぽい手と優しい声は、強く印象に残った。
「ほんとうに……?」
 思わず、ブレンダはすがるような返事をしてしまった。誰だっていい、今すぐここから連れだして欲しかった。もうこの家にいるのは苦しくて仕方がないのだ。
 男の子は闇の中でにっこり笑ったようだ。
「絶対!」
 きっぱりした断言に、希望を抱いた。来たるべき「その瞬間」が待ち遠しくなってしまった。
 だが……翌日、彼は来なかった。待てど暮らせど、彼女を迎えに来てくれなかった。
「辛いなら、逃げればいいのよ。あたしと一緒に行きましょう」
 代わりに現れたのは、颯爽とした女性だ。ブレンダは迷わずその手を取った。
 もうオトコは信じない、と胸に誓いながら。



 ファムキャラバンの馬車に別れを告げて、ブレンダは地面に降り立った。
 ゆっくり息を吸い込む。あたりの緑はみずみずしく、空では小鳥がピーチクさえずる。近くのリバーベル街道から流れる川の上には、いくつもの太陽の欠片が散っていた。
 ティパの村の第一印象は、とても良かった。だからブレンダは胸がむかむかした。
(ウィチ・カちゃん、何してるかなあ)
 別れてきた相棒を思い出す。十年以上、ほとんどずっと一緒にいた。ひとりになって、お互いに寂しくないはずがない。だが、彼女はブレンダのことを思って送り出してくれた。自分の過去と向き合う覚悟は、もう決めていた。
 軽く胸を張って、彼女は歩き始めた。
 橋を渡ってすぐの所に、商店があった。意外と立派な店構えだ。大陸の隅にある村で、立ち寄るキャラバンも少ないだろうに、儲かるのかしら。
「こんにちは」
 ブレンダは店先に行って、出来るだけ人の良さそうな笑顔を浮かべた。
 自身の容貌が人目を引くことは承知している。ウィチ・カと一緒にいると特に目立つらしく、今まで幾度もくだらないオトコに声をかけられてきた。護身のためにも、いつでも短剣を抜けるよう準備はしている。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってくれよ」
 愛想のいい声と共に、店主と思われるユークの男性が出てきた。ああ、奥さんとか娘さんとか、誰でもいいから女の子はいないのかな……とブレンダは思った。
「お客さんですか」
 ちょうどいいタイミングで、頭頂部にリボンを巻き付けたユークが顔を出す。待望の女の子だ。
 彼女は積極的にブレンダに話しかけてきた。
「あなた、どこの村の出身ですか?」
「メタルマイン丘陵の方から来ました」
 方便である。こう言えば、マール峠から来たと勘違いしてくれるからだ。
 これ以上質問されると都合が悪いので、素早く品物に目を走らせた。驚くべきことに、一般に流通するような金属だけでなく、ひんやりゼリーやマグマいわなど、魔物から採れる素材まで揃っている。一体どこから仕入れるのだろう。
「これください」
 思わず、手持ちのレシピに必要なものを買い求めてしまった。
「毎度!」と店主。ブレンダはその仮面をじっと見つめ、
「それで、その……つかぬ事をお尋ねしますが」
 本題を切り出した。
「この村にお医者さんはいますか? クラヴァットの男性なんですけど」
 かすかに緊張しながら相手の顔色をうかがう。どうもユークは表情が読めない。
「医者ですか。私は、残念ながら存じ上げておりません」
 女の子が答えた。ブレンダはそれでも言葉を重ねる。
「もういないかもしれません。私も十年くらい前に会ったきりなので」
「十年前——ああ、いた。確かにうちの村には医者がいたよ」
 身を乗り出した店主と対照的に、ブレンダはわずかに体を引いた。
「それで、その人は今……?」
「七年ほど前に、亡くなられたんだ」
 唇を噛む。予想はしていたが、なんともあっけない結末だった。
「そうですか」
 ——もう、面と向かって文句も言えないのか。
 黒くてどろどろしたものが心の底に溜まっていくようだった。
 店主はのんきに回想に浸っている。
「いいお医者さんだった。本当に、患者のことを第一に考えていたよ。しかし働き過ぎで体が弱っていたんだろうね。つまらない風邪で、命を落としてしまったんだ。あの時はみんな悲しんだな……」
 確かに患者にとってはいい医者だったかも知れない。しかし、その一方で彼は家族を犠牲にしていた。ブレンダはよおく知っている。
「そうだ、彼には奥さんと娘さんがいたんだけどね、ある日突然、いなくなってしまったんだ。表向きには実家に帰ったことになっていたけど——夜逃げだ、っていう噂もあった。そんなに仲が悪い家族には見えなかったのに」
 眉間にしわを寄せ、表情を眩ませるブレンダ。
「あなた、何故こんなことを訊ねるんです」
 女の子が問う。ブレンダはせいぜい悲劇的に見えるように、目を伏せた。
「彼は……私の父なんです」
 驚愕がユークたちの間に広がった。
 十年ほど前、彼女は父を捨てた。家の雰囲気に耐えきれず、ティパの村から逃げ出した。
 ブレンダは目線を上げて、
「うちを見に行ってきます。多分空き家になってますよね」
「そうですが……場所、分かりますか?」
「だいたい覚えてますから」
 と答えたのに、女の子は何故かついてきた。
「……あのう」
「ヒルデガルドと申します。ヒルダと呼んでください」
「私はブレンダ——って、そうじゃなくて!」
「こちらのことはお気にせず。野次馬的な興味があるだけですから」
 ヒルダはしれっと言う。
 ユークの長い名前に愛称があるのは、ティパ村の特徴だろうか。他の種族に合わせるため、あえて使っているのかもしれない、と予想を立てた。
 説得は諦めて、背の高いユークと一緒に道を歩く。
 記憶の底に埋もれていた昔の家。玄関までの道には草がぼうぼう、木でできた家屋は朽ちかけていた。
「人がいない家は、ぼろぼろになっちゃうんだね」
 つい、そんな言葉が口をついて出た。幼少期を過ごした家の末路にも、何の感慨も湧かない。
「そうですね……新しい人が引っ越してこない限り、使われることはないでしょう」
 ブレンダは意を決して隣の仮面に視線をぶつけた。
「あの、ヒルダさん。もう一つ教えて欲しいことがあります」
「何ですか?」
「この村に、私と同じくらいの年の……セルキーかクラヴァットのオトコはいますか。私はその人に会いに来たんです」
「へえ」とヒルダは怪しく仮面を光らせた。
 案内された先は、鍛冶屋だった。
 ハンマーの金属音が止んだ。汗を拭き拭き、セルキーのオトコが出てくる。ああ汗くさい、やっぱりオトコは嫌だなあ、と不快感がこみ上げてきた。
 しかも——
(髪の色がウィチ・カちゃんそっくりだ)
 雨に濡れたすみれの色。次いで、理不尽な怒りがわいてくる。私の相棒と同じ髪色だなんてどういうことよ、と。
 ブレンダは心の中で彼をにらみつけた。
「で、ヒルダ。こいつが俺を呼んだのか?」
 しかもかなり失礼な奴だ。「ええ、カム・ラ。こちらの方は——」紹介しようとするヒルダを制し、ブレンダはずいっと前に出た。
「そうだよ。忘れもしない、十一年前……あんたが私をたぶらかしたんだ」
「へ」
「とぼけないで。医者の家の庭にきて、私と話したでしょ」
 目を白黒させるカム・ラへ、ヒルダが「ブレンダさんは、ティパ村の出身らしいですよ」と補足する。
「医者? 覚えてないなあ。お前とも初めて会った気がするし……」
 ブレンダは今にも噴火しそうな怒りをかろうじて抑えた。なんて無責任な奴だ。
「そうですね、確かにおかしい。私もあなたの記憶なんてありません。これが例の物忘れ病でしょうか」
 ついに彼女の中でかちり、と何かのスイッチが入った。
「もういいよ。あんたなんか、一生忘れてればいいんだッ」
「あっ!」
 ブレンダは一目散に走り去った。
 残された二人は当惑する。
「なんなんだよアイツ……」
「どうも、複雑な家庭事情があるようです。気になりますねえ」
 ヒルダが仮面を爛々と輝かせるのを見て、カム・ラは「また始まった」とげんなりした。



 ブレンダがベル川のほとりで膝を抱えていると、誰かがやってくる気配がした。
「こんにちは」
 すぐに顔を上げた。聞こえたのが女の子の声だったからだ。
 そこにいたのは、クラヴァットの少女だった。亜麻色の髪、優しい双眸。もやもやした気分が引っ込むくらい、ブレンダ好みの顔だ。
「旅人さんですか?」
 彼女は穏やかに問う。見た目だけでなく中身まで完璧だ。思わず頬が緩む。
「うん、まあ、そんなところ。……私はブレンダ」
「アリシアって言います。よろしくね」
 彼女は朗らかに笑い、ごく自然に隣を陣取った。
「こんなところで、どうしたんですか?」適度に踏み込んでくる。心地よい距離感だ。
 おかげでブレンダは素直に心情を吐露することができた。
「ちょっと、嫌なこと思い出しちゃって。……私、友だちがいないの。いや、いなかったの」
「え?」
「親がね、自分の娘には友だちなんかいらない、っていう人だったの」
 医者の家はひどく窮屈だった。
 ブレンダは幼い頃から医術の勉強を強要された。それでも最初は唯々諾々と従っていたのだ。それが当たり前だったから。頑張ればその分だけ褒めてもらえるから。友達がいなくたって、大したことはなかった。むしろ同世代に対する優越感すらあった。今はこんな田舎にいるけど、いつかは偉ーいお医者さんになる。その時になってびっくりしても遅いんだぞ、と。
 変化があったのは、たった一人でシェラの里に留学した時だ。当時彼女は七歳だった。三日月型のクリスタルやシェラ湖の冷たい水面は、ブレンダの記憶と感覚にしっかり刻まれている。
「昔は私、結構エリートだったんだよね」
 彼女はアリシアへ語りかけながら、徐々に思い出の泉に浸っていった。
 ——シェラの里の資料室で書物を紐解いていた小さなブレンダは、いつの間にか窓の外が真っ暗になっていることに気づき、学び舎を後にした。日が落ちるまで勉強するのが、もはや習慣になっていた。
 けれど、その日の帰り道はいつもと違った。出てきた建物の屋根の上に、おかしな影を見つけたのだ。屋根に取り付けられた望遠鏡のそばに、人がいる。
「あ……」
 星の光にはっきりと浮かび上がる細い影。学び舎の先生たちには「危ないから子供は上ってはいけないよ」と言われていた。ブレンダはこれまで、ちゃんと言いつけを守ってきた。
 しかしその夜、彼女はなんとも寂しい心地になっていた。夜空に月がなかったからだろうか。とにかく、ぱあっと気分を晴らしたい。いつもは出来ないようなことをしたい。だから好奇心に突き動かされて、はしごを上った。
 屋根の上では風がびゅうびゅう吹いており、そのまっただ中で我の民の女性が望遠鏡をのぞき込んでいた。かがんだ腰がなまめかしい曲線を描いている。魅力的なセルキーの肢体というものを、彼女は初めて目の当たりにした。
 気配を悟り、女性が振り返る。お姉さんと呼んでも差し支えない歳に見えた。綺麗な色の髪だ。
「あら、こんばんは」
「こんばんは……」
 ブレンダは消え入りそうな声で答えた。いくら若く見えても相手は大人だ。怒られるかもしれない、と今更思いあたり、身が縮こまった。
 幸い予想は外れた。女性は艶然と微笑んだ。
「あたしはマ・リラ。今はねえ、星を見てたの」
「それは分かりますけど」
「望遠鏡ってスゴイのね。あんな小さい粒つぶが、ここまで大きく映るなんて」
「星座もはっきり見えますか」
「星座? なにそれ」
 ブレンダは言葉に詰まった。
「し、知らないんですか」
「うん。知らなくても、こうして生きてるわよ」
 なんともあっけらかんとした人だった。悪く言えば、いい加減すぎる。厳粛な家に生まれ、智の民に囲まれて育ってきたブレンダは、なんだかめまいがした。
 でも、不思議と嫌悪感はなかった。自らの無知をあっさり認めるその態度は、爽快ですらあった。
「あなたも覗く?」
「あ、はい」
 子供はこっくり頷いた。
 おそるおそる覗き込んだレンズの中では、無数の光が瞬いていた。ブレンダは息を呑む。星々の鮮やかな赤や緑が目に飛び込んできた。あれが天の川……。
 ユークたちには星見の慣習がないらしいが、なんともったいないことだろう。
「月がない夜も、星が輝けば道は明るくなる。……これ、昔知り合った人が言ってたんだけど。本当にそうだったわ」
 マ・リラの独り言は、ブレンダの胸の奥にまで響いた。
 やがて彼女はすっかり満足し、望遠鏡から離れた。それを見て女性は首をかしげる。
「あなた、ずいぶんちっちゃいけど、どうしてこんな時間に外を歩いてるの」
「勉強してたんです。学び舎の部屋を貸してもらって」
 ブレンダの答えには、少しだけ得意な気持ちが入っていた。学び舎の一室を丸々占領できるなんて、大人でもなかなかないことだ。
 とはいえ、マ・リラはその価値にピンときていないらしい。
「ふうん、何の勉強?」
「医術です」
「へええー。将来はお医者さんになるのが夢なのね」
「……」
 何故か、頷けなかった。黙りこくるブレンダにマ・リラは続ける。
「いくら夢でも、あたしだったらこんな夜遅くまでがんばれないなあ」
 咎められている気がした。彼女の言葉には「大人たちは何をやってるの」というニュアンスがあった。
「ユークの人たちもお父さんも、みんな私のことを偉いって言ってくれます」ムキになって反論する。
「褒めてくれるからがんばれるのかー。それなら分かるかな。
 でもね……あなた、友だちはいるの」
 マ・リラはいつしか真剣な顔でこちらを見つめている。
「か、家族がいます。私が一生懸命勉強したら、お父さんが喜んでくれるんです!」
 だからこそ、ブレンダは親元を離れ、たった一人でシェラの里にやってきた。なのに……声が震えてしまうのは何故だろう。
 子供の動揺を、マ・リラはしっかりと受け止める。
「そっかあ。でもね、家族が言うことだって、あなたが従う必要はないのよ。嫌なら逃げちゃえばいい。
 実は、うちにあなたと同じくらいの娘がいるんだけど、村には気の合う子がいなくてね。いつも寂しそうなんだ。あなたが友だちになってくれたらなあ……」
 友だち。ブレンダに足りないもの。絵本の中にだけ出てくる——自分には縁のないもの。
 ブレンダは首を振った。
「……私、ティパの村に帰らないと」
 マ・リラは柔らかく声色を変化させた。
「そうよね。親と一緒にいるのが一番いいものね。
 あたしはキャラバンなの。もし辛くなったら、いつでも呼んで。迎えに行くから」
 その日は絶対に来ないと思っていた。家から逃げ出して、マ・リラの娘と友だちになる日なんて——。



 ブレンダはいつしか隣のアリシアの存在も忘れたように、虚空に向かって話し続ける。
「ティパの村に帰ってきたら、ずっと信じてきた父親の言葉が、もう心に響かなくなっていた。相変わらず勉強漬けで、友だちは出来なかったしね。
 そして、あの日が来た」
 ブレンダは時々家をこっそり抜け出して、外の空気を吸うようになった。と言っても、行く先は自宅の小さな庭の中だ。遊び道具も何もなく、母が育てた薬草がぽつぽつ生えているだけ。けれど、そこは唯一、彼女がほっと一息つける場所だった。
「その日」もブレンダは風に吹かれていた。夜空を見上げて、マ・リラとあの望遠鏡を思い浮かべる。そうやってシェラの里で味わった感覚を取り戻すと、ほんの一瞬だけ、しがらみから解放された気分になれるのだ。
 がさ、と葉擦れの音がする。背筋が凍った。——親に見つかった?
「そこに誰かいるの」
 子供の声だった。闇の中でよく見えない。男の子のようだ。
「……」
 ブレンダの心臓は早鐘のように鳴り始めた。誰だろう。同じ村にいるのに、自分は同世代の住人をろくに知らない。
 男の子は重ねて問うた。
「きみ、もしかしてここの……お医者さんの子供なの?」
 ブレンダは観念して、唇を開いた。
「そうだけど、何よ」
 とげとげしい調子になってしまった。彼女はひどく緊張していた。薬の名前や体の構造はよく分かるのに、頭の回転は決してユークにも劣らないと自負しているのに、自分と同じ子供とどう接すればいいのか、分からない。
 彼女は口をつぐんだ。ただただ「嫌われてしまったらどうしよう」という気持ちに支配されていた。
 しかし、返ってきたのは明るい声だった。
「だったら友だちになろうよ!」
 耳の奥で血液がどくどく流れる。心拍数が跳ね上がるのを感じた。
「友だち……?」
「そうだよ。一緒に木登りしたり、魔石転がししたり。きっと楽しいよ」
 木になんか登ったことがない。魔石を転がして何が楽しいのだろう。それでも彼の誘いは、ひどく魅力的に感じられた。
「け、けど私、昼間は忙しくて」
 とっさの方便だ。毎日の予定はびっしり勉強で埋め尽くされている。一歩でも外に出れば、親にばれてしまうだろう。
「お家のお手伝いか。黙って抜け出せないかな?」
「無理だよ、そんなの……」
 いつの間にか彼女は後ずさっていた。もうこれ以上話したくない。マ・リラが入れたひびが広がって、自分の世界が壊れそうになっている。
「だったら明日、ぼくが迎えに来るよ」
 同時に、白っぽい手のひらが差し出された。
「だめだ」と叫ぶ心と反対に、体が動いた。気づけばその手を取っていた。
 ——回想から現実へ戻ってくる。
 悔しいことに、今でもあの手の感覚はよく思い出せた。大きくなったブレンダは顔をしかめた。
「全部嘘だったんだよ。だってあいつは——あのオトコは、私を迎えに来てくれなかった」
 だからマ・リラに手紙を書いて、母親と一緒にティパ村を出た。
「……」
 アリシアは眉を曇らせ、沈黙している。
 そんなとき、彼女たちの背後でがさごそ音がした。カム・ラとヒルダの登場だ。
 ブレンダは鋭く睨みつけた。
「盗み聞きしてたね、キミたち」
「ごめん……」カム・ラが頭を下げる。
「そういう事情があったのですか。道理であなたの記憶がないはずです」
 ヒルダは何度も頭を上下させた。やはり、自分の存在はほとんど認識されていなかったらしい。ブレンダは盛大に息を吐いた。
 カム・ラはというと、難しい顔をして考え込んでいた。
「にしても、その男の子ってのは多分……。なあ、ブレンダがここから引っ越したのはいつだ?」
「ちょうど十一年前だよ」
「十一年前か……」
 彼らは意味ありげに視線を交わす。なんだろう。
 やがて切り出したのはヒルダだった。
「あのですね、ブレンダさん。『彼』には、あなたの元に行きたくても行けない事情があったんです」
「事情?」
 カム・ラが引き継ぐ。
「そうだ。あいつはその日、事故に遭った。村の岬から海に落ちたんだ」
 一瞬、ブレンダの顔が空白になる。
「……死んだの?」
「いや、生きてる。今もぴんぴんしてるよ」
 なあんだ、と肩の力を抜いた。ほんのちょっぴりでも心配して損をした。ブレンダは彼らに詰め寄る。
「もったいぶらないで、そいつに会わせてよ。どこにいるの」
「キャラバンで旅に出てる。……あいつ、瘴気を晴らしに行くんだ」
 三人とも誇らしげな表情だった。ブレンダの目が大きく見開かれる。
「瘴気を晴らす? そうか。だからティパキャラバンは、あんな変な色のケージを——」
 ファム大農場で見た光景、それに金色の瘴気ストリーム。脳内でさまざまな断片が繋がって、ひとつの真実を描き出していく。もともと彼女は頭がいいのだ。
 ブレンダは腕組みした。
「じゃ、そいつに文句を言うには、帰ってくるまで待たないといけないんだね」
「許してあげないの?」アリシアはおかしそうに肩を揺らす。
「どんな理由があったって、あの時来てくれなかった事実は変わらないよ。おかげで私は、立派なオトコ嫌いになったんだから」一応、なりたくてなったわけではないのだ。
 アリシアは、もしかすると幼なじみになっていたかもしれない人に歩み寄った。
「あのね、この村にはブレンダが探してる人の、お姉さんがいるの。会って話を聞いてみたら?」
「な、なんでよ」
「お姉さんはハルトのことをよく分かってるから。ね?」
 心の芯までクラヴァットらしさにあふれたアリシアは、にっこりした。ブレンダはそういう笑顔に弱い。
 思わず「……行ってみる」と首肯してしまった。



 例の大馬鹿野郎——ハルトの家は農家だった。
(ウィチ・カちゃん家と同じ職業! ますます許せないわっ)
 もはやブレンダは見境なく腹を立てている。
 農場の入り口に、何故か裏向きの看板があった。回り込んでみる。書いてあるのは単なる歓迎の言葉だ。拍子抜けな上、なんだか術中にハマったようで悔しい。
 怒りを押し殺して玄関を叩き、事情を話すと、母親だという黒髪の美人が案内してくれた。
「やあ、お前がブレンダか」
 そして部屋では、ベッドの上の病人に明るく出迎えられた。
 ハルトの姉のクラリスだ。抜けるように白い肌といい、袖から覗いた細い手首といい、まるで薄幸の美女のような印象だ。しかし彼女が本来持った美しさは、もっと別のものだという予感がした。瞳が生気にあふれているからだろうか。
「うちの弟が迷惑をかけたらしいな。悪い悪い」
 ……というか、こんなにざっくばらんな物言いをする薄幸の美女は嫌だ。
「迷惑なんてものじゃないんですけど」
 ブレンダは低い声で応じた。ハルトには、人生を狂わされたも同然だ。責任取れよ、と言いたい。
 不穏な空気を感じ取ったのか、クラリスは苦笑した。
「よっぽどの事がない限り、あいつは約束を忘れたりしないけど……あの時はいろいろあったからな。お前には悪いけど、それどころじゃなかったんだ」
 まるで「お前はたいしたことのない存在だった」と言われたように感じ、ブレンダはますます苛立った。
「そんなの関係ないです。言い訳にもなりません」
「みたいだな。とりあえず謝る。すまなかった。お前の父さんには散々世話になったのに」
「……え?」
 表情が硬くなる。舌が上手く回らない。
 クラリスは少し咳をしてから、
「私の父さんは、私と同じ病気で亡くなった。もう二十年くらい前の話だ。
 それで、当時村医者だったお前の父さんが、面倒を見てくれたんだ。今でもよく覚えてるよ。どうやっても治せない病だったのに、あれだけ心を配ってくれるなんてな。いいお医者さんだった」
 どんなに遅い時間でも呼べば来てくれた。わざわざ最先端の薬を取り寄せて処方してくれた。クラリスはいくつも例を挙げていく。
 ブレンダの肩がわなわなと震えた。
「……いくら医者として優秀でも、娘にまでそれを押し付けるのは間違ってます。家の中じゃ、あいつは最悪でした」
 あの瞳に射抜かれる度、身がすくむ思いをした。マ・リラの言うとおり、たとえ親でも子供を束縛していいわけがない。ティパの村を出てからやっと分かったことだ。
 クラリスはわずかに瞳を細める。
「彼がそこまで医術にこだわったのは、うちの父さんのことがあったのかも知れない……。父さんを助けられなかったこと、気に病んでいたんじゃないのか。あれだけ優秀なのにこんな田舎にいてくれたのは、贖罪の意味もあったのかもな。
 謝っても仕方ないことはわかってる。でも、ごめん」
「……」
 ブレンダはゆっくり深呼吸して、込み上げるものをもう一度押し込めた。そして、ふんっと息を吐く。
「それは結果論です。あなたの父親がいなくたって、あいつは同じようなことをしたかもしれない。
 やっぱり私、オトコは嫌いです。自分を優先して家族を置き去りにする、ろくでもない奴らです。おかげで友だちもいなくて、私はずっとひとりだった……」
 オトコは名誉と自己満足のために動く生き物だ。誰もがブレンダの父親のように、そして約束を破ったハルトのように、なり得るものなのだ。
「そういう部分もある。けどみんな、それだけまっすぐなんだよ」
 私の弟みたいにね、と言ってクラリスは笑った。
 ブレンダには、そんなまっすぐさはいらない。心を曲げてでも、友だちをつくらせて欲しかった。あの日迎えに来て欲しかった——。
「また来ます。必ず、私を騙した悪者に会いに来ます」
 彼女は毅然とした表情できびすを返した。遠ざかる背中に向かって、病床のクラリスから声が投げられる。
「でも今は、ひとりじゃないんだろ?」
「もちろん!」
 ブレンダがすっぱり断言すると、愉快そうな笑い声が後ろで上がった。
(一刻も早く、ウィチ・カちゃんのところに帰りたい……)
 ぬるま湯のようなティパ村の雰囲気も、それに流されかけている自分も、みんな嫌いだった。こんな場所に来なくたって、もう彼女には唯一無二の友だちが、相棒がいる。だから。
 ブレンダは心の中で、世界で一番憎たらしいオトコへ呼びかける。
 きみと友だちになんか、なってあげないよ。

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