はじまりの一歩

「お風呂に入りたーいっ!」
 瘴気が消えた青空に、タバサの叫びが響き渡る。それをハルトは後ろでぼんやりと聞いていた。
 ティパキャラバンの四人は疲れた体を引きずりながら、ヴェレンジェ山を下山していた。朝日に照らされた山道に魔物はおらず、かつての霊山を彷彿とさせるような静けさが漂っていた。
 ラモエを倒して瘴気を晴らしたことによる一時の高揚は去り、今は誰もが無言で足を動かすだけだった——のだが、後輩の率直すぎる願望を聞いて、リーダーのペネ・ロペは苦笑する。
「そうね、入りたいわねーお風呂」
 だがユリシーズは首を振る。
「風呂ってなあ、せめて水浴びにしてくれよ。ここからファム大農場まで何日かかると思ってるんだ」
 彼の言うとおりで、ここ「受難の大穴」から一番近い人里である大農場までは、馬車を飛ばしてもそう簡単には到達できないのだ。
「それは分かってるけど、今すぐにでも入りたいのよ」
 すっかりわがままになってしまった後輩へ肩をすくめ、ユリシーズはまた別の夢想にふける。
「俺はうまい飯が食いたいなあ。できたての、あったかいやつがいい」
「うんうん、あたしもユリスのご飯、食べたいな」ペネ・ロペもにこにこするが、
「いや俺が作るのかよ……」
「冗談だってば」
 両手を広げてとりなすと、ペネ・ロペはくるりと後ろを振り向いた。
「ハルトくんは何がしたい?」
 最後尾を歩いていた少年はしばらく考えに沈むように口を閉ざしたが、遠慮がちにこう切り出す。
「あの……おしゃべりを、してみたいです」
 先輩たちはそろって顔を見合わせた。
「おしゃべり、かあ」
「はい。いつもみんな楽しそうに喋っていたから……」
 ハルトは恥ずかしいのか顔をうつむけた。大事に抱えたクリスタルケージが、赤く染まったほおを優しく照らす。
 彼は訳あってこの十年ほど一切言葉を話すことができなかった。が、今回の戦いを経て、めでたく声を取り戻したのだった。
 タバサはほおをふくらませる。
「そんなこと言うくらいだったら、何か話題を提供してよね」
「……タバサが気に入るような話はないと思う」
 生意気なことを言う後輩に、タバサはぎゅっと眉根を寄せた。
「あのさ、クリスタルワールドの時から気になってたけど、なんで私だけ呼び捨てなの?」
 あ、と気づいたユリシーズとペネ・ロペは顔を見合わせる。
「本当だ」「そういえばそうね」
 ハルトはおそるおそる一年先輩のリルティを見つめた。
「だ、ダメだった……?」
「まあいいけど。単純に理由が気になったのよ」
 ハルトはほっとしたように肩をおろす。
「ペネ・ロペさんとユリシーズさんは姉さんと同い年だし、先輩って感じがする。けど、タバサは先輩っていうより、友達に近いと思って……」
「ああ、私のことそんなふうに思ってたんだ」
「やっぱり実際に聞かないと分からないもんだなあ」
 今まであまり自分の意志を表現してこなかったハルトは、どう反応したらいいか分からず、ただうつむく。ペネ・ロペは安心させるように笑いかけた。
「ハルトくん、先輩だからって敬語はいらないのよ。仲間じゃない、遠慮しなくていいのに」
「でも、そういう性分なので……」
 ますます萎縮する彼は、豪放磊落な姉クラリスとは真逆の性格をしている。
 ユリシーズは唐突にぽん、と手を打ちつけた。
「あ、そうだ。タバサもハルトもな、これからは俺のことユリスって呼んでいいから」
 こうして彼があだ名呼びを許可するのは、特別親しい人間だけだった。ハルトの顔がぱっと輝いた。
「ほ、本当ですか」「——って、遅すぎ!」
 その歓喜はタバサの鋭い声にかき消された。彼女はいたって常識的なリルティだが、疲れのせいもあって瞬間的に沸騰したようだ。
「何年一緒にキャラバンやったと思ってるのよ! よそから来たラケタさんにはあっさり呼ばせておいて、私たちは今になってやっとなの? ありえないでしょ」
 ものすごい剣幕になるリルティに、長身のユークが膝を折って弁解する。
「悪かったって。言うタイミングを逃し続けてたんだよ」
「もう、仕方ないわね……これからはその分何度も何度も呼んでやるわよ、ユリスさん」
「おう」
「ユリス、さん……」
 ハルトは噛みしめるようにその名を呼ぶ。この少年の唇から出ると、どんな名前も重みが増すようだとユリシーズは思った。
「みんなの名前が呼べるの、嬉しいです」
 キャラバンたちは顔を見合わせて笑った。
 勢いのままに、ペネ・ロペは空元気でこぶしを振り上げる。
「下山までおしゃべり——は話題がなくなるかもしれないから、ここはしりとりでもしましょうか!」
「なんでしりとり?」というタバサの当然のツッコミは無視して、
「じゃあ最初は『り』からね、ハルトくん」
「……あ、俺あいつがなんて言うか分かっちゃった」
 ユリシーズのつぶやきを引き継ぐように、ハルトは答える。
「り——りんご!」
 大好物の名を高らかに告げた彼は、とびきりの笑顔になる。同時にお腹がぐうと鳴った。
 ——十年も使っていなかった喉をしりとりで酷使したため、下山が完了する頃には一時的にハルトの声が枯れてしまったのは、ささやかな後日談だ。




かえり道

 街道の脇にポツンと木切れがあった。
 どうやら墓標らしい。乱暴に書きつけられた名前は、二年という月日によってすでに薄れている。
 そして——その前に、人が立っていた。
 大地色の髪を無造作に流したクラヴァットだ。まぶたは伏せられていたが、その奥にある瞳の色を、バル・ダットは知っていた。
 わざと足音を立てて近づくと、少年は振り返った。黒い瞳が丸くなっている。
「あ、ボスだ」
 少年は嬉しそうに頬のあたりを持ち上げた。
「……?」
 つかの間、バル・ダットは惚けたように立ち尽くす。一度も聞いたことのない声だった。どうやら、目の前の少年のもののようだが。
 驚きの理由を察して、彼はくすりと笑った。
「いろいろあって、喋れるようになったんだ。自己紹介もまだだったよね。ぼくはハルト」
 ハルトは意外となめらかに言葉を操る。
「今日はちょっと寄り道して、メ・ガジさんに会いに来たんだ」
 バル・ダットは軽く目を見開いた。木の墓標は、かれこれ二年前に亡くなった老人のものである。
「お前、じいさんと大した付き合いもなかったのに……ずいぶん気にしてるんだな」
「うん。『あっち』でもお世話になったし、お礼を言いたくて」
「あっち?」
 しまった、という風に唇を開いてから、ハルトは意味深に微笑む。
「とにかくお世話になったんだ。……それとボス。お供え物、とっちゃダメだよ」
 墓標の前に置かれた、つややかなしましまりんごを指差す。バル・ダットはごくりと喉を鳴らした。久々にお目にかかった極上の逸品だ。
「じいさんはもう、物なんて食わないだろ」
「でも、これはメ・ガジさんのものだよ」
 口調は柔らかいが、決して譲らない調子だった。バル・ダットはひとつため息をついて、頭の後ろで腕を組んだ。
「まあいいか。りんごなんて、これからは取り放題なんだ。——瘴気が晴れたんだから」
 頭の上には真っ青な空が広がり、二千年ぶりに訪れた平和を謳歌するように、小鳥が飛んでいた。
「そうだね」
 同じように天を見上げて、ハルトは穏やかに首肯する。
「まったく、どこの誰がやったんだか」
 ハルトは漆黒の瞳を細めた。
「ぼくたちだよ」
「は?」
「ティパのキャラバンがやったの。すごいでしょう」
「そりゃすごい、けど……マジで?」
 面食らったバル・ダットに向かって彼は頷き、にこっとした。
「瘴気を晴らして、ちょうど村に帰るところ。向こうの馬車にみんないるよ。
 ボスはこれから、どうするの?」
「そりゃ、旅人が増えるんだろ。つまりカモが増える。うまい飯にありつけるってわけだ」
「ずっと、しましまりんごを盗り続けるの」
 バル・ダットは目を逸らした。普段は罪悪感なんて覚えないのに、この少年の言葉はなぜか心の奥底をつく。
「……まあな。オレはセルキーだから。なんか悪いかよ」
「いいや。ボスらしいと思う」
 少年は始終にこにこしている。気味が悪いくらいだ。バル・ダットが二の句を継げないでいると、彼はきょろきょろ辺りを見回して、
「そうだボス、アルテミシオンはどこ?」
 しましま盗賊団の大事な子分のことだ。自分に注がれる純粋な視線がなくなり、バル・ダットはほっとした。
「のろのろメシ食ってるから置いてきた。そろそろ来るんじゃねーの」
「あっ、ハルトだクポー!」
 ちょうどいいタイミングで紫のモーグリがやって来た。ハルトは腕を広げ、もふもふの体を嬉しそうに抱きしめる。
「アルテミシオン、久しぶり。君にね、合わせたい人がいるんだ。今うちの馬車に、スティルツキンさんが乗ってるの」
「クポ! スティルツキンが……」
 アルテミシオンはびっくりしたようにボンボンを震わせた。ハルトとしては、一年前にマグ・メルで頼まれたこと——「アルテミシオンによろしくな」——を、やっと伝えられたわけだ。自分の言葉で。
「しましまりんごはあげないけど……来る?」
「行くー!」
 二人はさっさと踵を返した。置いていかれる形になったバル・ダットは、一歩踏み出した。
「あ、おい——」
 くるり、ハルトが振り返る。
「……」
 唇が綺麗に弧を描く。もちろん来るよね、という風に。
 その時、バル・ダットは思い出した。言葉をなくしていた時から、彼は何よりも雄弁に表情で語る人だったと。
 盗賊団のセルキーはもう一度名残惜しげにしましまりんごを見やった。それから顔を上げ、ハルトを睨みつける。
「——お前にも姉貴にも、ファム大農場での貸しがあるんだからなっ」
 どん、と肘打ちしてやった。二年前、バル・ダットはクラリスに命令されて使い走りをしたことがあった。
 少年は苦笑いを返す。
「代わりに、散々ぼくからりんご盗んだでしょ」
「それとこれとは別なんだよっ」
「そうクポ! ファム大農場の時は大変だったんだよ〜」
 笑いさざめきながら、三人はティパの馬車へ向かう。




どんぐりの背比べ

 この世のどこかにある「思い出の海」と呼ばれる場所で、二人の温の民が向かい合っていた。
「おんぶも抱っこも、してあげたかったんだけどな」
 優しい言葉と共にハルトの頭に乗せられた手が、不思議な動きをした。
「……?」
 髪の表面をなでるような仕草だ。ハルトは目をつむったまま顔を上げる。
 エンジュは少し改まった調子で、
「お前さ——背、低いよなあ」
「!?」
 そのまま髪をぐしゃぐしゃにされた。まるで親子の身長差を強調するかのように。
「うん、ちっちゃい。お前もう十八だろ? オレがその歳の頃はもっと背が高かったはずだ」
 息子がショックを受けていることにも気づかず、エンジュはうんうんと頷いている。
「で、でも……これから伸びるし」
 ハルトはしどろもどろに反論するが、
「いいや。今のオレの姿はキャラバンをやめた時くらいだから、二十三くらいか。その時点でこの身長差だろ。正直お前くらいの歳からはそんなに背が伸びなかったぞ」
 次々と逃げ道を塞ぐエンジュ。「そんなぁ……」ハルトの閉じた目に涙がにじんでくる。
「うーん、どうして背が伸びなかったのかなあ。ミントさんの方に似ちゃったのかな。ちゃんとニクとサカナは食べてるか?」
「どっちもそこまで好きじゃな……ん、あれ、何でニクとサカナなの。野菜もバランスよく食べないと成長できないって、母さんよく言ってたよ」
「えっ? そ、そうだったかな。別に野菜とかそこまで重要じゃないだろ……?」
 急に自身をなくした様子のエンジュに、ハルトが畳みかけた。
「父さん、もしかして野菜が嫌いだったんじゃない?」
「そ、そんなことないぞ! ミントさんやアベルに死ぬほど食べさせられたし!」
「それは、自分で進んで食べてないからだよね」
 厳しく追及するハルトに、エンジュはたじたじになっていた。
「母さん、ぼくが小さい頃から食べ物の好き嫌いにはすごく厳しかった。本当はピクルス苦手だったけど、何度も無理やり食べさせられて平気になった。あれって全部父さんのせいだったんだ……」
 ハルトのまぶたが開いていたなら、きっと胡乱な目つきになっていただろう。全く親としての面目が保てていない。エンジュは苦し紛れに呟いた。
「……でも、野菜食べなくても背は伸びたから、オレの勝ち」
「背は低いけど野菜食べられるから、ぼくの勝ち!」
 低次元の争いを始めた時点で似たもの同士だということを、二人は知らない。




オーラルコミュニケーション

 キャラバンの旅で長く留守にしていた弟が家に帰ってきた。五体満足で、しかも失っていた声まで取り戻して。
「ただいま、ラケタさん。今まで散々迷惑かけて、すみませんでした」
 ぺこりと頭を下げるハルトを見て、ラケタは歓喜に堪えないというように声を震わせた。
「ハルト、お前……」
「はい」
「なんで敬語なんだよ!」
 え、とハルトはまばたきする。「おかえり」でもなく「喋れるようになったのか」でもなく、瘴気を晴らして帰ってきたキャラバンへの第一声がそれだった。
 唖然とするハルトの横で、母と姉がくすくす笑っている。
「あの、でも、手紙も敬語で書いてましたし……」
 ラケタは天井を仰いで盛大に嘆く。
「あー、また敬語使ったな! だっておれたちきょうだいだろ、家族だろ。クラリスたちには普通に話してたじゃないか」
「うっ」
 うろたえるハルトへ、横合いからクラリスが茶々を入れる。
「恥ずかしいんだよな、ハルト。でもそんなんじゃいつまでたっても慣れないぞ。
 ほら、お兄ちゃんって呼んでやれよ、ラケタのやつ飛び上がるほど喜ぶぞお」
「……それはちょっと」
「ダダこねるなよーせっかく声を取り戻したってのに」
 病気も治ったクラリスは調子に乗って弟をつつきまくる。十数年ぶりにまともに会話できるのが嬉しくて仕方ない、といった様子だ。
 だがハルトはキッと顔を上げ、
「そこまで言うなら、姉さんもその喋り方をなおしてほしい。そうしたら、ぼくも普通に話すから」
 姉夫婦は目を丸くした。
「え、私?」「おれじゃなくて?」
「……」
 ハルトは口をつぐんでそっぽを向いた。
「クラリスの男言葉がイヤってことでしょ、ハルト」
 ミントが助け舟を出すが、返事がない。クラリスは遠慮がちに、
「そ、そっか。からかって悪かったよ。ちょっと考えさせてくれるか?」
 赤くなったほおを隠すようにハルトは小さくうなずいた。決まりが悪くなったのか、「みんなに挨拶してくる」と言って外に出て行く。
 閉まった玄関を見て、クラリスがぽつりと呟く。
「……あいつ、まだ気にしてたんだなあ」
 そんな彼女にラケタが肩を寄せた。
「もしかして、クラリスって昔は全然違う口調だったのか?」
「まあな。といってもハルトが声を失った直後くらいから、今の言葉遣いだが」
「何かあったってこと?」
「その頃、村にアルフィタリアからリルティの男の子が来てたんだ。私はそいつに勝つために剣を学んだ。ハルトを馬鹿にされたくない、家族を守れるようになりたいと思って、言葉遣いも改めた」
「へえ」やっぱり昔から弟思いだったんだな、とラケタが言うと、クラリスははにかむ。
「ハルト、もしかして私が変わったのを自分のせいだと思ってたのかな。別にそんなことないんだけど……なあ、母さんはどう思う?」
 ミントは小首をかしげてほおに手をあてる。
「クラリスの口調なんて今更よねえ。ちょっと前なら『お嫁のもらい手がないわよ』って言えたんだけど、今はどっちでもいいわ」
 クラリスは「母さん……」とジト目になる。
「さすがミントさん正直ですね」ラケタは屈託なく笑い、
「おれも、別に気にしないよ。クラリスの好きにしたらいいさ。ハルトの気持ちは分かるけど……」
「いいのか? この機会を逃すと、あいつは一生敬語を使うかもしれないぞ」
「大丈夫だって、ハルトは押したら多分折れる」
「なかなかの言いようだな」
 しかしクラリスも同意見だった。きっとハルト本人もそれを分かっていて、わがままを言っているのだ。自分の言葉で意思を伝えられるようになったから、家族に甘えている。それ自体は喜ばしいことだった。ただ、問題は——
「私、ペネ・ロペたちにも相談してみる」
 クラリスは表に出た。瘴気のフィルターが消えたため、太陽の光は少し眩しすぎるくらいだ。
 漁師の家には見知った顔が二人もいた。家族との挨拶を済ませたペネ・ロペに、仲間であり恋人であるユリシーズが付き添っている。
「おっと、邪魔したか」
 クラリスがUターンするそぶりをすると、ユリシーズは肩をすくめる。「ああ、すげー邪魔だ」
 ペネ・ロペはたしなめるようにその肩を叩いた。
「ユリスってばーもう。クラリス、何の用?」
「二人に相談なんだが」
 クラリスはごほん、と咳をして、「私が女言葉使ったら変、だよね……?」
 突然弱々しい語尾になる。二人は目を丸くした。
「な、何かあったの?」
「ハルトがそうしてほしいって言うんだよ」
「ハルトくんが……」
「二人は覚えてるかな。私は昔、アルフィタリアのラッドと会ってから意識的に言葉を変えるようにしたんだ。どうも、ハルトはその責任を感じているらしい」
 ユリシーズは呆れたように自分の頭をなでた。
「もう何年も前の話なのになー、あいつも真面目だなあ」
「口調、ねえ。クラリスの好きにしたらいいんじゃない」
「丸投げかよ」
「ハルトくんの気持ちに沿うも沿わないも、どっちもクラリスの考えた結果だったら納得してくれるよ」
「そうかなあ」
「俺もペネ・ロペに賛成。ただ、クラリスが今さら急におしとやかになっても笑っちまいそうだけど」
 くすくす声を漏らすユリシーズを、クラリスはにらみつける。
「参考になる意見をありがとう二人とも。とっても助かったわ。おほほ」
 そんな棒読みを残して漁師の家を後にした。
「……あれはハルトがどう思おうが、なんともならないんじゃないか?」「あたしもそんな気がしてきた」
 友人たちはそろってため息をつく。
 一方のクラリスは、ぶつぶつ何かをつぶやきながら、クリスタル広場の方へ向かっていた。鍛冶屋の先輩リルティにも意見をもらおうと考えたのだ。
「あっ」「……!」
 そんな折、農家の姉弟は偶然真正面から鉢合わせた。ハルトがやってきたのはタバサの家の方角だ。おそらく、姉と同じように仲間に相談していたのだろう。きっとタバサなら「大賛成、クラリスさんには女言葉を使わせるべきよ!」と言うだろうが。
「あのさ」とクラリスが話しかけようとした瞬間、向こうが先に口を開いた。
「もう、いいよ。さっきの言葉、撤回する」
「え?」
「ラケタさんのこともこれから慣れていく。姉さんはそのままでいい」
 黒い瞳は静かな決意に満ちていた。
 クラリスは言葉に詰まった。ハルトはこういうやつだった——声を出せなかった頃から、変わらずにずっと。
 弟は本当に優しい人に育った。だが、その優しさはハルトが自分を我慢することで成り立つものだ。
 思わずクラリスは弟の肩を抱いた。「うわ」と小さな悲鳴が聞こえる。
「今の私が、あの時無理した結果なのは確かだよ。私が忘れたことをお前が覚えていてくれて嬉しかった。ありがとう」
 抱く力を強めた。ハルトは黙ってされるがままになっている。
「私はハルトの尊敬すべきお姉ちゃんでありたい。お前の願いを叶えられる姉でいたい。だから、そうだなあ、アリシアにでも言葉遣いを習ってみようかな。私でもおしとやかな女性になれるように、ね」
「……それは無理だと思う」
「何をぉ!?」
 あたたかい抱擁はそのままヘッドロックになった。
「いたたたっ」
「生意気な口をきくようになったなあ、弟よ」
「この調子じゃ、姉さんは一生おしとやかになれないと思う」
 このまま絞め落としてやろうかと思ったが、クラリスはあえて力を緩めて、己の唇に片手を当てる。
「ごめんあそばせ。おほほのほ」
 ハルトは呆れたような顔をしていたが、やがてくすりと笑った。




パストラーレ

 リバーベル街道にてジャイアントクラブを倒し、無事にミルラの雫を得る。
 怪我をする者も出なかったので、軽い食事をとりながら安らかな時間を過ごせた。
 でも、まさか自分がこれまで戦いに向いているとは思わなかったな。
「——とまあ、これがわたしたちの多用してた文章ね。日記の内容に困った時には、ダンジョン名とボスの名前を入れ替えて、毎回これを書くの」
 ウィチ・カがすらすらと文章をそらんじてみせると、聞き手のハルトはやや返答に窮したらしく、黙って微笑んだ。
「ティパではそういうのはなかったの? 何年もキャラバンやってたら、日記のレパートリーなんて尽きるでしょ」
 話を振られ、ハルトがゆっくり唇を開く。
「うちの年代記は四人で回してたから……ああでも、リーダーは結構悩んでたかな。真面目な人だし、毎回違うことを書こうとしてた。ユリシーズさんは拾った素材の話が多かったな」
 ユリシーズというのは、元ティパキャラバンのユークだ。優秀な魔術師だったらしいが、性格にはかなり問題があったらしい、とウィチ・カはハルトの話の端々から推測している。
「ふうん。やっぱり書く人によって個性が出るのね。うちなんか悲惨だったわよー、二人して似たような文章書くから、長老が祭りの読み上げの時に困ってて——ねえ、ブレンダ?」
 ウィチ・カが藤色の髪を翻し、くるりと振り返る。二人の少し後ろを歩いていたブレンダは、大あくびの途中だった。
「ん……なあに、ウィチ・カちゃん」
「あんた話聞いてなかったでしょう」
 図星だったらしく、ブレンダはぎくりと肩をすくめる。同時に視線が揺れて、肩越しに見つめるハルトと目が合った。彼女はふいっと顔をそらした。ハルトも気まずそうに下を向く。
(あーあ、まだこんな調子か)
 ウィチ・カは思わず、ため息をつきたくなった。
 訳あって共に行動することになった三人は、「ウィチ・カたちの故郷である名も無き村に向かう」という目的を一時中断して、リバーベル街道にやってきていた。
 理由は単純だ。瘴気が晴れた後、魔物たちはどこへ行ったのか、ミルラの木はどうなったのか、植生や自然は変化したのか——などなどの疑問を、是非とも自分たちの目で確認したい、と全員の考えが一致したたためであった。これから、おそらくアルフィタリアの主導のもとにダンジョンの調査も進められるだろうが、その前に元キャラバンとして、彼女たちは見ておきたかったのだ。
 かつて「小鬼の棲む街道」と呼ばれた場所は今、平和そのものだった。どこまで歩いても魔物一匹出てこない。さらさらという小川のせせらぎに乗って、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえてくる。日差しは強く照りつけるが、道に沿って続く緑陰が和らげてくれる。つまりは、最高のピクニック日和だった。
(これで二人の仲さえ良ければなあ……)と、ウィチ・カは意識を背後に転じた。
 後ろをついてくるブレンダは、ほぼ間違いなくハルトが原因で不機嫌になっている。ティパ村からリバーベル街道までの短い旅路から考えても、それは明らかだった。ティパ村ではちゃんとハルトと会話できていたのだが、日が経つにつれて目線を合わせることすら少なくなってきていた。おかげでウィチ・カが二人の間に入って通訳をつとめる有様だ。ハルトは萎縮してますますブレンダから遠ざかるし、彼らが仲良くなるには相当な時間が必要と思われた。
 こうなると、新しい連れは問題ばかりもたらしているようだが、ウィチ・カははっきりと良い変化も感じていた。
 それは、馬車の中が綺麗になったことだ。乗客が一人増えて手狭になったはずなに、何故かキャラバン時代よりも整頓されている。幼なじみ二人かつ女同士の馬車内など、秩序もへったくれもないひどいものだった。何年か前には、ブレンダが床に転がったにじいろぶどうを潰して服を汚し、洗っても洗っても染みがとれなくなったため、実家の母に頼み込んで新しいものを縫ってもらうという事件が発生したこともあった。
 ウィチ・カもさすがに男性の目がある場所で、化粧道具を広げっぱなしにするのははばかられ、私物は整理するように気をつけている。
 そう、男性である。同年代のオトコが馬車にいる! ハルトをティパ村から連れ出した張本人はウィチ・カだけれど、あれはほとんど勢いでとった行動だった。生活空間に異性が侵入してくる、という当たり前の結果に、あの時は気づいていなかった。というわけでウィチ・カはそれなりに想像をたくましくしてこの旅に臨んだが、あいにくハルトは予想したような男らしさには欠けていた。少し拍子抜けした一方で、大いに助かった部分でもある。ブレンダほどではないが男性慣れしていないウィチ・カにとって、ハルトは接しやすかったのだ。一度ならず食事も作ってくれたし、狭い馬車でも適度に距離を取り、女性たちの生活を尊重してくれている。あまり多弁ではないけれど、受け答えはしっかりしてくれる。それに、不思議と彼のもたらす沈黙は心地よいものだった。
 こんなハルトに、ブレンダはどうしてあそこまでつっかかるのだろうか、とウィチ・カは疑問を抱く。いや——むしろ他でもない彼だからこそ、ブレンダは不満を持っているように見えた。本人すら言語化できていない苛立ちを、ウィチ・カが理解できるはずもなく、ハルトとの関係は八方ふさがりだった。
 そのブレンダは昨日もやたらと遅くまで起きていて、どうも寝不足気味らしい。ちらっと後ろを覗くと、彼女は眩しい日差しを浴びて、目をしょぼしょぼさせていた。
「魔物がいないと、あっという間にミルラの木に行けそうだね」
 ハルトが独りごちる。ウィチ・カは大きく頷いた。リバーベル街道はかつて新人キャラバンの初陣の場として重宝されていたダンジョンだが、何も障害がなければ単なる道である。川面に映る空はどこまでも青く、雲もない。少し前までそこら中に咲いていた白い花はすっかり散ってしまったが、まだまだ草の息吹を感じる季節だった。
 安穏な旧道を仲間たちと歩けることは、ひとつの幸せの形なのかも知れない。と、ウィチ・カは前向きに考え直すことにした。
「あれ……ホットスポットじゃない?」
 彼女が気付いたのは、キャラバン時代に何度もお世話になった魔方陣だった。かつてはそこにクリスタルケージを載せて、属性を変更した。今はケージは持っていない、が——
「何か変ね。こんなに色薄かったかしら」
 目の前の魔方陣はなんだか弱々しい光を放っていた。それまで漫然とウィチ・カたちの後ろをついてきていたブレンダが、にわかに元気になってホットスポットへ駆けていった。すれ違いざまに見えた瞳には、強い好奇心が浮かんでいた。
「ああ、なるほどね!」あれこれ調べて、ブレンダは一人で合点している。
「なるほどって何よ」
「ホットスポットの属性は、瘴気に由来するものだったから、瘴気が消えたら使えなくなっちゃうんだよ」
 ハルトが目を見開く。ウィチ・カは発言の意味がさっぱり分からず、質問を重ねた。
「属性が瘴気に由来するって、どういうこと?」
 ブレンダは人差し指を立てる。
「学会の定説だよ。ほら、瘴気ストリームだって属性持ってたじゃない。ここに風属性を持った瘴気が集まりやすいから、魔方陣が描かれたの」
「へえ……?」
 一体どこからそんな知識を仕入れてくるのだろう。たまに馬車の中で分厚い本を読んでいることがあるけれど、あれはお勉強のためだったのだろうか。
 話についていけずにぼんやりしているウィチ・カへ、ブレンダは知見を披露する欲に駆られたらしい。眉がきりりと吊り上がり、女性らしい可憐な顔が、みるみる理知的なものへと変わる。真正面から目を合わせると、こちらがたじろいでしまいかねないような、精気に満ちた表情だ。それを見て、ハルトは(ああ、アベルさんにそっくりだ)と思った。
「そもそもホットスポットっていうのは、何百年か前にユークのお偉い賢者様がつくってくれたものなの」
「え? 初耳なんだけど。それまでホットスポットってなかったの? 不便じゃない」
 キャラバンの歴史は二千年近くあるのだ。初期のキャラバンはどうやって瘴気ストリームをくぐり抜けていたのだろう。
「自然発生的なホットスポットはあちこちにあったから、昔のキャラバンはそこを利用してたの。でもそれだと魔力の供給が不安定だった。で、そのユークの賢者は魔力の流れを見るのが得意だったみたいでね。ダンジョン内でも特に属性の力が集まる場所が分かったから、そこに魔方陣を描いたの。安定してホットスポットを使えるようになったのは、その人のおかげなんだよ」
 世の中には立派な人物もいるものだ。ダンジョンを訪ね歩きひたすら魔方陣を描くなんて、ウィチ・カには気の遠くなるような作業だ。
「ホットスポットにテレポの魔法を仕込んだのも、その賢者なの?」
 この質問はハルトから発せられた。ブレンダはそちらを見ないようにしながら、「……そうだよ」と答えた。
 ウィチ・カはそこではたと思い当たる。
「じゃあ、なんでテレポってホットスポットでしか使えないの? あんなに便利な魔法、どこでも使えたらいいのに!」
 ここで大きく声を張り上げたことには、理由がある。ウィチ・カたちは過去に一度、カトゥリゲス鉱山の途中でテレポを使って逃げ帰ったことがあった。あの時の感動は忘れない。魔法の発動と同時に、一瞬で目の前の景色が切り変わった。薄暗い坑道から青空の下へ、安全な場所へと即座に退避できたのだ。テレポが自由に使えれば——せめて双方向に移動できれば、馬車で辛い長旅をする必要もなく、物資も楽々運搬できる。何故ユークの賢者は技術を残してくれなかったのだろう。
 そう主張すると、ブレンダは難しい顔になった。
「テレポは……アーティファクトとか永久魔石みたいに、レベナ・テ・ラの失われた技術なんだよ。『入口』と『出口』に魔方陣を描いて、その間を一方通行で結ぶ転移魔法。魔方陣の維持にはホットスポットの魔力供給を利用してるみたいだけど、詳しく解析できてはないみたい。だから、要するに、どこでも自由に使うのは無理なんだよ」
 ウィチ・カにはちんぷんかんぷんな話だった。こういう時、ブレンダが昔医術の勉強をしていたことを思い出す。いつも感情に任せて行動しているようで、根底には揺るぎない知性があるのだ。
 曖昧な表情を浮かべた相棒へ、ブレンダは言葉を重ねた。
「テレポは確かに便利だけど、戦争に転用されたりしたら目も当てられないから、自分一人で途絶えさせたんじゃないかな」
 ブレンダは揺らぐ魔方陣に目を落とした。その軌跡を追って、「確かにその方が良かったのかも知れない」とウィチ・カは考えた。
 二人のやりとりを真剣に聴いていたハルトが、そこでふっと表情を崩して割って入った。
「……ねえ二人とも、そろそろお昼にしない?」
 持ってきたバスケットを差し出しながら。
 中身は三人分のバゲットと、下ごしらえの済んだ野菜、薄くスライスしたハムやチーズだった。これを自分で挟んでサンドイッチにするのだ。「ユリシーズさんが作ってたのを真似したんだ」とハルトが語る。正直、彼の料理スキルはウィチ・カたちよりも上だ。
 手が汚れないように紙ナプキンまで用意してあった。三人はそれぞれ好きな具材のサンドイッチをつくった。
「いただきます」
 ハルトは料理に向かって両手を合わせる。彼特有のおかしな習慣だった。ブレンダも、料理の腕だけは認めているらしく、大人しく口をもぐもぐ動かしている。
「たくさん食べてね。デザートもあるからね」
 ハルトはニコニコしながらバスケットの中を示す。食後にほとんど毎回しましまりんごがついてくるようになったのは、彼がいるからこその変化だ。
「本当にハルトってりんご好きよね〜」
 ウィチ・カがにやけながら話を振ると、ハルトは嬉しそうに頷いた。
「うんっ。うちのりんご、大好きなんだ」
 こういう仕草も、ちっとも男らしくない。ウィチ・カにとっては心地よいのだが——予想通り、ブレンダが突っかかってきた。
「ファム大農場のりんごの方がおいしいよ」
 冷たい声を聴いて、ウィチ・カは嫌な予感がした。ハルトが身を乗り出したのだ。
「……ファム大農場のりんごは、おいしいけど、食感が違うの。やわらかめでね。りんごの実はうちの方が小さいけど、味が濃いし、蜜もたくさん入ってるんだよ」
 ハルトは必死に言いつのる。言葉は途切れ途切れで、決して声も大きくないのに、ありったけの真剣さが込められていることが分かる。思わず耳を傾けてしまうような、不思議な雰囲気があった。
 ブレンダは珍しく反撃されて、ひるんだらしい。負け惜しみのように、
「そのうち、りんごのとれる季節だって限られるよ。年中新鮮なものなんて手に入らなくなるかも」
「りんごのために新しい季節ができるなら、ぼくは嬉しい」
 話がよく分からない方向にまで行ってしまった。ウィチ・カはパンくずのついた手を払い、立ち上がった。
「ほ——ほら、二人とも。もう行きましょうよ。ミルラの木、早く見たいし!」
「う、うん」「はいはーい」
 ハルトは食べかけのりんごを慌てて咀嚼した。ブレンダはあっという間に涼しげな表情を取り繕っている。
 この二人と一緒に旅をしようと決意したことを、若干後悔しはじめているウィチ・カだった。
 三人はふくれたお腹を抱え、ベル川にかかる壊れかけた橋を渡った。この橋もいつかは直されるのだろうか。
「そういえば、どこにも魔石がないわね」
 ウィチ・カはあたりを見回す。以前はダンジョンを歩けばそのあたりに転がっていたり、魔物が所持したものを奪えたりしたのだが。魔法を使う必要がないとはいえ、どこにも魔石がないというのは違和感があった。
「あれも、瘴気がなければ形を保てないものだから」
 何か思案するような顔でブレンダが答えた。確かに、キャラバンになりたての頃、装飾品にでもしようと思ってウィチ・カが馬車まで持ってきた魔石が、手の中で崩れ去ってしまったことがあった。
「じゃあもう魔法は使えないの?」
「シェラの里には永久魔石があるだろうから、それを使うとか……あとは、別の方法もあるだろうけど」
 何故か言葉を濁す。ハルトも少し眉をひそめて黙っていた。
 地面を川がえぐって作り出した天然のトンネルをくぐり抜け、虹の架かる滝にたどり着く。いつもなら日記の定型文通り、ジャイアントクラブとの決戦が迫る頃合いだ。今も一応装備は身につけていたが、ほぼ無用の長物と化している。
「さすがに、いないわよね?」
 滝の前の広場で、ウィチ・カは確認するように言葉を投げたが、もちろん轟音と共に魔物に強襲されることはなかった。
「それじゃ、ミルラの木に行きますか!」
 勢いよく宣言した途端、全身に凍り付くような気配が集中した。
「……へ?」
 肌を刺す感覚が、生存本能を呼び覚ます。水音と共に襲いかかる殺意を感じ、ウィチ・カは反射的にのけぞった——が、バランスを崩して転んでしまう。
「ウィチ・カちゃん!」
 倒れながらも視界にとらえたのは、ジャイアントクラブの二分の一くらいの大きさの蟹の魔物だった。まさか、子供がいた? 魔物は消え失せたわけではなかった!
 土にまみれた彼女の上に、新たな影が差した。ハルトがウィチ・カを守るように剣と盾を構えている。昼ご飯の時とは別人のように凜々しい横顔を見せる彼は、紛れもなく歴戦のキャラバンだった。
 ハルトは声を上げた。
「ぼくたちは、きみに危害を加えるつもりはない。だから、戦いはやめよう」
 魔物に話しかけてるの!? びっくりして、彼女は立ち上がるのも忘れた。
 ミニ・ジャイアントクラブはいきり立っている。体に比べて大きなハサミが、ハルトへと伸びた。それでも彼は避ける気配がない。
「危な——」ウィチ・カが目を覆いかけた時。
 ぼん、と突然魔物が発火した。夕焼けよりも真っ赤な炎。間違いなくファイアの魔法だ。
 何が起こったのか分からなかった。片手をまっすぐ前に突き出しているブレンダを見るまでは。
「やっぱり理論通りだ!」
 彼女は目を輝かせている。ミニ・ジャイアントクラブは魔法の威力に驚いたのか、まごまごしている。ハルトが一歩前に出ると、気圧されたように後ずさりして、滝つぼに飛び込んだ。
 ウィチ・カはすぐにでも魔法の秘密を問いただしたかったが、その前にハルトがくるりと向き直って、そばにしゃがみこんだ。
「ウィチ・カ。怪我してるよね」
「あ、うん」
 そういえば、倒れた拍子に膝をすりむいていた。ハルトが傷に手をかざす。
「えっ……」
 そこからあふれ出す緑の光は、まごうことなきケアルの魔力だった。久々にお目に掛かった。瞬きをする間に、治療が完了する。
 失われたはずの魔法を二つも連続で見て、ウィチ・カは目を白黒させていた。
「ど、どういうこと?」
「ハルト、あんた……ケアルリングなんて持ってたの」
 ブレンダがウィチ・カに手を貸して立ち上がらせながら、眉間にしわを寄せた。ハルトは観念したように手のひらを開く。
「もらいものだけど、レイズリングもあるよ」
 オレンジと緑の魔石をはめ込んだ二つの指輪が、陽光を受けてきらりと輝いた。この世に二つとない至宝を目にして、ウィチ・カは声もなかった。
 他方ブレンダは、突然わなわなと震えはじめた。
「ちょっと待って。リュクレール先生の言ってた『導師』って、あんたのことだったの!?」
 首をかしげるウィチ・カは置いてけぼりにされたまま、彼はただ頷く。すると、ブレンダは柳眉を跳ね上げ、怒りをあらわにした。
「はああ? おかしいでしょ。あんたがユークの社会に認められるような白魔道師のわけないじゃん!」
 ハルトはそっとリングを握り、目を伏せる。
「ぼくも、分不相応な称号だとは思ってる……。キャラバンが終わったから、リングはいつか返しに行くつもりだよ。ブレンダも、リュクレール先生を知ってるの」
「知ってるも何も、昔シェラの里に留学した時、家に泊めてもらってたんだよ。さっきファイアを使えたのも、先生の論文を読んだから——」そこで息を呑み、「あ、あ、あんたもあれを読んだのね!?」
 ブレンダが血相を変えて詰め寄ると、ウィチ・カは急いで間に入った。
「待ってよ、全然話の筋が読めないんだけど! ちゃんと一から説明してよねっ」
「……そうだよね。ごめん、ちょっと落ち着くから待って」
 何度も深呼吸してから、彼女は懇切丁寧に説明をはじめた。
 一昨日のことだ。ブレンダは、かつて世話になっていたシェラの里のリュクレール先生から手紙を受け取った。是非耳に入れておきたい、興味深い話があるという。その内容は付属の分厚い論文に記されていた。彼女が夜を徹して読み解いたところ、「瘴気の駆逐によって、人々は魔石なしで魔法が使えるようになった可能性がある」という要旨であった。
 行きがかりにも三人で話し合ったことだが、瘴気の発生によって魔法の力——ホットスポットにも関わる属性の力は、瘴気と強く結びついてしまった。それは、世界の「循環」が断ち切られたからだ、とリュクレールは語る。循環については別の論文で詳しく書く予定らしい。要するに、この度晴れて瘴気が消え去ったため、人々は古代と同じように魔法を扱えるようになったのではないか、という論理だった。
「それで、実際にやってみたら使えたってこと?」
「うん。魔石の時より威力が弱いし、個人差も相当あると思うけど。ダンジョンみたいに比較的属性の力が強い場所で、イメージを強く描けば使えるみたいだね」
 論文を読んだだけであっという間に実践してのけたのは、頭の回転が速い彼女だからこそなせる技だろう。ウィチ・カはただただ感嘆するしかない。
「はああ……あんた、すごいのねえ」
「魔法の力への干渉の仕方は体が覚えてるから、ウィチ・カちゃんにもできると思うよ」
 あっさりと言われたが、ウィチ・カにはあまり自信がなかった。
 ブレンダはここで、すうっと目を細くする。
「で。あんたはどうして導師なんてものになれたわけ?」
 針のような視線がハルトを突き刺した。彼は肩をすくめる。
「たまたま、だよ。運と、都合が良かっただけ……」
 深く自分の内側に入り込んでいくように、黒い瞳が不透明になった。ウィチ・カはこっそり隣のブレンダに話しかける。
「導師って何?」
「導師は、レベナ・テ・ラ時代の称号だよ。白魔道師の最高位。白魔道師ってのは、ケアルとかレイズとかクリアとかを使える、回復役の魔法使いのことかな」
「へええ、ハルトが……やるじゃない」
 もはや、ごく単純な感想しか出てこない。褒められたのに、彼はどことなく居心地悪そうにしていた。ウィチ・カはふと訊ねる。
「だから、さっきも魔物に話しかけてたの? 命を粗末にしたくなくて……?」
「魔物は思い出を持たないから、そもそも生き物じゃなかった——はずなんだけど」
 言葉を切って、ハルトは遠くを見るような目になる。
「ほとんどの魔物は、瘴気と一緒に消えた。そうじゃない魔物はきっと、生き物としてこの世界に残ったんじゃないかな。人々を苦しめるための存在が、そうじゃなくなったんだから、すみかに踏み込んだりしなければ、一緒に生きていけると思う」
 魔物と共存するだなんて、ウィチ・カは考えたこともない。難しい顔をして黙り込んだ彼女を見て、ハルトは慌てたように付け足した。
「えっと、もちろん友だちが傷ついてしまう時は、戦わなくちゃいけないよね」
「まあ、魔物が全部いなくなったらあとは四種族で争うしかないからね。憎まれ役は必要かも」
 ブレンダがしれっと言い放ち、ウィチ・カはぎょっとする。今日は驚いてばかりだ。
「あんたのリングについては、あとでゆっくり話を聞かせてもらうよ。……いい加減、ミルラの木を見に行かない?」
 ブレンダが提案した。まっすぐにハルトを見つめて。
 ごくりとウィチ・カが唾を飲み込んだ直後、彼ははっきりと頷いた。
 ミルラの木は、変わらずそこにあった。植物の緑と水の青を絶妙に混ぜた色の葉を、傾きかけた日光に晒している。
 クリスタルケージがないため、雫が垂れるかどうかは確認できなかった——が、キャラバンであった彼らには分かってしまった。もう、あの木には命の雫は通っていないのだと。
 三人はしばらく黙って見上げていた。ハルトが「ミオ」と苦しげに呟くのが聞こえた気がした。
「大丈夫だよね……。雫はクリスタルに直接届くようになったんだよね」
 自分に言い聞かせているようだった。
 おそらく、彼はウィチ・カには想像のつかないような、ややこしい事情を抱えているのだろう。ハルトはミルラの木や魔法やこの世界そのものについて、よほど深いことを知っている。
 今日はひとまず、ホットスポットや魔法の話でお腹いっぱいだ。込み入ったことは、これからの旅路でじっくり聞いていけばいい。ウィチ・カは人並みよりも、気が長い方だ。
 帰り際。歩きながら、ブレンダがハルトにゆっくりと近寄った。彼は軽く身構えたようだ。
「……ウィチ・カちゃんを助けてくれて、ありがと」
 目を丸くするハルト、すぐに離れていくブレンダ。何でもないように振る舞っていたが、確かに彼女の耳が赤くなっているのを、ウィチ・カは目撃していた。
 それは、胸のあたりにあたたかい水がしみこんでいくような感覚だった。




嫌よ嫌よも

 街道沿いに見慣れぬ人工物がそびえている。
 老パパオのゆっくりした足取りにしたがって近づきながら、馬車を操るウィチ・カは目をすがめて観察した。
「ねえブレンダ、あれ……」
 呼びかけるが、幌の中からは返事がない。ん? と思って振り返ると、元キャラバンの相棒は床に転がって眠りこけていた。
 その横では、彼女の新たな旅の仲間であるハルトが膝を立てて日記を書きかけたポーズのまま居眠りしている。彼が所属していたティパキャラバンは、すれ違う別のキャラバンたちからこっそり「昼寝キャラバン」と呼ばれたくらい、御者台に座る一人以外は寝てばかりいたらしい。全く、運動不足にならなかったのだろうか。そんな彼らが受難の大穴を制覇した文句なしの精鋭キャラバンというのは面白いものだ。
 そうこうしているうちにその人工物はどんどん近づいてくる。街道のすぐ脇に、粗末な木造の小屋のようなものが建っている。むき出しの梁から垂れた布には何やら文字が書かれているようだ。
「もしかして、お店……?」
 アルフィタリアのお祭りで見たことがある。露店だ。ウィチ・カは慌てて馬車を止めた。その拍子に荷台が揺れ、ブレンダが起き出してくる。
「ウィチ・カちゃん、どうしたの……?」
「お店よお店、こんな場所に!」
 瘴気が晴れたのだから、当然こういう事態は予想していた。しかし目の当たりにしたのは初めてだった。本当にキャラバン以外の村人が外に出るようになったのだ……!
「え、どんなお店?」
 二人はまだ寝ているハルトを置いて、露店に近づいてみた。小屋は街道に面した側が開け放されており、空の陳列台が置かれていた。店の中では誰かがごそごそ動いている。まだこちらに気づいた様子はない。そこでウィチ・カははっとした。
(お店のご主人、オトコの人だ……)
 小柄なリルティだが、体格的に確実に男性だった。ここはメタルマイン丘陵。マール峠もほど近い。きっと野心あふれる商人が店を出すため峠からはるばるやってきたのだろう。
 ウィチ・カはおそるおそる隣のブレンダを見やる。すると、相棒がすっと前に出た。
(え?)
「こんにちは。こんな場所で、お店ですか?」
 なんと、ブレンダは男性に向かって礼儀正しく話しかけていた。微笑みすらたたえて。
(ええええ!?)
 度肝を抜かれて声が出ない。やっとこちらに気づいた主人は、朗らかに笑った。
「やあ、お嬢さんたちみたいな美人が旅をしているなんて。そうさ、ここで店をやるんだ。これからきっと街道は人であふれるだろうからね」
「そうですね、旅人にとってもありがたいです。食料か何か売ってるんですか?」
 ブレンダは穏やかな態度を崩さず、相槌まで完璧である。店主は苦笑した。
「いやあ、恥ずかしながらお嬢さんたちがお客さん第一号でね。とりあえず、時間が経っても悪くならない品物を村からかき集めてきたんだ。見るかい?」
「はい、お願いします」
 主人は荷物を陳列台の上に広げた。驚愕から覚め、やっと正気を取り戻してきたウィチ・カは目を見開く。
「お嬢さんたちにはこういうものがいいんじゃないかと思うんだけど」
「わあ、かわいい!」
 二人は揃って声を上げた。そこに並べられたのは女性向けの装身具だった。ここはアクセサリー屋だったのだ。
 ウィチ・カは瞳を輝かせてさっそく商品を物色しはじめた。
「ブレンダ、髪のリボンちょっとボロくなってたし、新しくしなよ」
「そうだなあ……二個まとめて買ったらおまけしてくれます?」
「いいよ、特別サービスだ」
 需要と供給が見事に噛み合った、幸福な時間が過ぎていく。ブレンダは二色のリボンを選び、ウィチ・カは新しいイヤリングを購入した。
 有頂天になる二人の背中へ、か細い声がかけられる。
「あの……」
 やっと起き出してきたハルトが、不思議そうに露店と仲間二人を見比べていた。
 その瞬間、ブレンダの周囲の気温が冷え切った。
「……アンタ、今頃起きたの?」
「ご、ごめんなさい」
 先ほどまでとのあまりの落差にウィチ・カは愕然とする。
(ちょっと、治ってないじゃない、オトコ嫌い!)
 露店の主人はブレンダの豹変にも気づかないように、にこやかにハルトへ声を掛ける。
「おお、まだ仲間がいらっしゃったんですね。こんな美人と旅ができるなんて羨ましい」
「お店ですか。街道に……?」
 ハルトは静けさをたたえた黒い瞳で露店を観察している。
「アンタの買うようなものは売ってないからね」
 ブレンダは冷たく言い放つと、さっさと馬車に戻ってしまう。ウィチ・カは盛大にため息をついて、
「え、えーと、ハルトはお店見ていく?」
「うん。少ししたら戻るから」
 好意に甘え、ウィチ・カは彼一人をその場に残してブレンダを追った。
 わがままな相棒は、馬車の荷台に座ってふてくされていた。
「もう、さっきのアレはどういうことよ、ブレンダ!」
 直截に指摘すると、ブレンダはとぼけたように首をかしげる。
「何が?」
「オトコ嫌い、治ったんじゃなかったの」
 ブレンダはやや真面目な顔になって、折った膝をぴしりと揃えた。
「あのね、ウィチ・カちゃん。私気づいたんだ。今まで私は八つ当たりしてただけだった。父親とハルト、悪いのはあの二人だけだったのに、関係ない他の人にもよくない態度を貫いていた」
「まあ、それは……確かに」
 ブレンダはかつて、二度も男性に期待を裏切られ、それからオトコというオトコが大嫌いになったのだった。
「そう、悪いのは父親とハルト! で、父親はもういないから、これからはハルト一人を恨むことに決めたの」
 八つ当たりではないとはいえ、その決断も決して褒められたものではないだろう……。
 これはもちろんハルトが仲間になったからこそ起こった出来事だ。進歩と言えなくもない。ブレンダにとって良いのか悪いのかはよく分からないが。
「いや、それってあんまりにもハルトが可哀想じゃ……」
「ウィチ・カちゃんはあんなヤツの肩を持つわけ!」
「別にブレンダを裏切りたくてやったわけじゃないでしょ? 彼、普通にいい人じゃないの」
「いいヤツだから余計に憎たらしいんだよ」
 これは相当こじらせているな、とウィチ・カは思った。
 そのうちにハルトが露店から戻ってきて、御者を交代してくれた。主人に挨拶しながら馬車を出発させる。
 ウィチ・カは御者台の彼へ話しかける。
「ハルトは何か買ったの?」
「えっと、うん」前を向いたまま返事する。
「アクセサリーを?」
「あそこのお店、他にもいろいろ売ってたよ。でもぼくは……姉さんに一つ買った」
 軽く言葉を濁したが、おそらく装身具を買ったということだ。
「へえ、お姉さん想いじゃないの」
「違うよ。あの人女性らしいアクセサリーとか苦手だから、嫌がらせ」
 と言いつつ彼のことだから真面目に似合うものを選んだに違いない。きっと故郷の姉も喜ぶはずだ。あの姉なら、弟から何をもらっても大喜びしそうだが。
 笑いを噛み殺したウィチ・カは、
「にしてもハルトならさ、『自分が瘴気を晴らしました』って言ったらただで譲ってもらえたんじゃないの?」
「さすがにそんなこと言えないよ……」
 ハルトは困ったように語尾を沈ませた。
 黙ってそのやりとりを聞いていたブレンダは「できるだけハルトと離れたい」とわざと聞かせるように言って、馬車の後ろに向かった。後ろ側の幌の外にも腰掛ける場所があるのだ。
 ブレンダが十分離れたのを確認してから、ウィチ・カは思い切ってハルトに訊ねてみた。
「さっきのブレンダ、どう思った?」
「どうっていうのは……」
「あの子ね、オトコの人全体に嫌がらせするのやめて、アンタ一人に集中するって言ってるのよ」
「そうなんだ」
 ハルトは首をかしげた。
「でもブレンダをがっかりさせたのはぼくだし、仕方ないよね」
 理不尽すぎる状況を、あっさりと受け入れてしまう。
(……あの子がハルトのこと嫌うの、ちょっと分かったかも)
 彼が諦念のようなものを漂わせるたび、気分がもやもやするのだ。ティパの村でもキャラバンの旅でもずっとこんな調子だったのだろうか。だから、彼の姉クラリスはハルトを外に連れ出してほしいと言っていたのかもしれない。何かが変わることを期待して。
「アンタ、ブレンダにあんな感じで対応されるの嫌じゃないの? あの子のこと、正直どう思ってるのよ」
 ハルトは何故か突然黙り込む。
「あ、あの……」
「何?」
「可愛い、よね……ブレンダ」
 車輪の音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。ウィチ・カはしばらくぽかんとしてしまう。
「——ああ、確かにあの子は可愛いよ。もー、ハルトったらよく分かってるじゃない!」
 後ろから肩をばしんと叩いてやる。「うっ」とハルトは呻いて前に揺れた。
 彼が女性の容姿について発言するのは初めてだった。そういうふうにブレンダを見ていたのか。案外好みのタイプなのかもしれない。
「でも、アンタのキャラバンとか村の人ってみんな美人ばっかりだったよねー」
 キャラバンリーダーであったセルキーのペネ・ロペも、幼なじみであるクラヴァットのアリシアも、そしていちばん身近であろう姉のクラリスも、それぞれタイプの違う美人だった。ユークについては判別がつかないが、この分だとリルティの仲間も水準以上の容姿だったに違いない。
 ハルトはぼそぼそと答える。
「そうだけど、ブレンダは……また少し違うから」
 その耳はうっすら赤く染まっていた。ウィチ・カは思わずにやにやしてしまう。
「そっかー。ね、このままブレンダに怖い顔ばっかり向けられるのはもったいないと思わない? あの子の可愛いのはやっぱり笑顔よ!」
「で、でもどうすれば……? ブレンダ、ぼくのこと嫌いなんだよね」
 確かにハルトのやることなすこと気に食わない、という態度だ。だが、あれは嫌いというよりも——
(ま、嫌いでもそうでなくても、少なくともブレンダはある意味誰よりもハルトのことを意識しているんだわ。間違いない)
 ウィチ・カは幌の中から身を乗り出した。
「ハルト、アンタが真正面からさっきみたいなこと言ってやったら、ちょっとは効くんじゃない? あの子アンタに褒められるなんて思ってないはずだし」
「そういうことをしたら、女の人は喜ぶの?」
「もちろんよ。わたしだって大喜びするわよ」
 そうしてウィチ・カは盛大に照れいるブレンダを想像して、くすくす笑うのだった。
 一方のハルトは「分かった」と返事をし、何かを決めたようだった。
 ——翌朝。寝床から這い出してそれぞれに身支度を終えた後、ハルトは緊張した面持ちでブレンダに歩み寄った。
 一体何事かと身を固くするブレンダに、野次馬目的でさりげなく近づくウィチ・カ。二人の視線が集まる中、ハルトはようやっと口を開く。
「ブレンダ、そのリボンよく似合ってる」
 ちょうど彼女は昨日新しくしたリボンで長髪をまとめていた。リボンの縁にはレースの飾りがあって、キャラバン時代はなかなか身に着けられなかったデザインだ。
「へ? あ、ありがと……」
 不意を突かれたブレンダは思わず素直に返事してしまう。そしてそれを後悔したように唇を噛み締めた。
「それに、髪もとてもきれいだよね。長い髪ってまとめるの大変そうなのに、いつも手際よく結んでいてすごいなって思うよ」
「ちょ、ちょっと何よいきなり」
 立て続けに褒められて混乱したのか、助けを求めるように相棒を見やるブレンダ。ウィチ・カは努力してすまし顔を貫いた。
 だがハルトの矛先はその彼女にも飛んできた。
「ウィチ・カもイヤリング変えたんだよね? それと香水かな……きみの雰囲気によく合ってる、爽やかでいい香りだね」
「え……!?」
 ウィチ・カは動揺して頬を赤らめた。
「あ、アンタどういうわけ!?」
 他ならぬ相棒にも言及され、血相を変えたブレンダがハルトに詰め寄る。彼は淡々と賞賛の言葉を続けた。
「ふたりとも可愛いから、ぼくなんかが一緒に旅していいのかって思うよ。もともと顔が整ってるのに、さらに着飾るのもすごいよね。今まではなんて言ったらいいのか分からなかったけど、これからはちゃんと伝えるようにするから。それで……あの、ブレンダ」
 ハルトは意を決したように顔を上げる。
「これ、使える……?」
 そっと手渡されたのは髪飾りだった。花の形に加工された橙色の石があしらわれており、長く伸びてきたブレンダの前髪をまとめられるようなヘアピンが後ろにくっついている。いつの間にか昨日の露店で購入していたらしい。しかし、ウィチ・カが例の提案をしたのは露店を出発した後のことだ。あの店で商品を見た瞬間からこのことを想定していたのか……? ハルトの今後が末恐ろしくなる。
 ウィチ・カですら、男性からこれほど直球のアプローチを受けたことはない。ブレンダに関しては言うまでもないだろう。
 ハルトは一向に返事のないブレンダの顔を覗き込み、不安そうにしている。
「ブレンダ……?」
「も、もうちょっと手加減してくれるかなハルトさん? わたしはともかくブレンダが耐えられてない」
 ブレンダは髪飾りを受け取った格好のまま、思考停止していた。おそらく、邪険にしたい気持ちと素直にありがたがる気持ちが胸の中でせめぎ合っているのだろう。頭の回転が早いあのブレンダが、取るべき態度を決めかねて固まっている光景など、一生で何度も見られるものではない。
 もっとよく目に焼き付けておこうとウィチ・カが余計な考えを起こしたところで、唐突にブレンダは我を取り戻した。
「こ、こんなのでご機嫌とりでもするつもり? まあこれは仕方なく受け取っておくけどね!」
 明らかに嬉しさを隠しきれていない。彼女はどすどすと無駄に足音を立てて明後日の方向へ歩いていった。
 ハルトは戸惑ったようにウィチ・カを見やる。
「これで良かったのかなあ……?」
「明日あれをつけてきたら気に入ってるってことだから安心して」
 だが、プレゼント効果も長くは続かなかった。その日の夜には称賛にも慣れてきたのか、何を言ってもブレンダは涼しい顔で流すようになった。翌日以降も髪飾りをつけた姿をハルトに見せることはなかった。
 それでも、愛用のずきんの下にこっそりそれを身につけていることを、ウィチ・カだけは知っていた。

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