朝の決まりごと

 まぶたの向こうに朝日を感じた。意識が浮上する。
 オルベリクの目覚めはいつも幕を引き上げるかのようにからりとしている。余計なまどろみの残滓は夢に置いてくるので、現実まで引きずることはない。それは今日のように宿に泊まった時も、野宿の時でも変わらない。
 本日も彼はその恩恵にあずかり、すぐさま活動をはじめた。体を起こし、軽く腕を伸ばす。
 その拍子に、異変に気づく。隣のベッドが空だった。
(サイラス……?)
 同室に泊まっていた男はどこに行ったのだろう。驚いて室内を確認すれば、すぐに見つかった。彼は寝る前と全く同じ格好のまま、部屋にひとつきりの机の上で突っ伏していた。
 そういえば昨晩サイラスは「まだ少しやることがあるから、あなたは先に休んでくれ」と言い、ランプの明かりを絞って夜遅くまで机に向かって励んでいた。付近に出る魔物の予習でもしていたのだろうか。
 跳ね放題の髪に朝日を浴びる学者はいつものローブこそ羽織っていないが、窮屈なベストを着たまま、いささか苦しい体勢でうつ伏せになっていた。広げた本を読んでいる最中に限界が訪れたのだろう。ランプから取り出したちびたろうそくが机の上に載っている。
 オルベリクは朝食前に鍛錬を行うため、日の出からそう間を置かずに目を覚ます。今サイラスを起こせば、少しの間はベッドで眠れるだろう。そう考え、身支度を整える前に学者を揺さぶった。
「……オルベリク!?」
 がばり、と起き上がった彼は驚愕に目を丸くする。服も髪も乱れており、組んだ腕に乗せられていた額には赤く跡が残っている。端麗な容姿で衆目を集める学者先生とは思えない姿だ。彼は自分のまわりを見て、まず開かれたままだった本を閉じた。
「ああ、私は机で眠っていたのか」
 おはよう、と遅れて出た挨拶もどこか眠気に溶けている。
 オルベリクはなんだか珍しいものを見た気分だった。普段のサイラスは、起き抜けでももっとしゃっきりしている。やはり眠りが浅かったせいか。
「まだ早い時間だ。今ならもう少し眠れるぞ」
 そう促せば、サイラスは何故か身を乗り出した。
「あなたは朝に鍛錬を行うのだったね。なら、私も見学させてもらおうかな」
「……眠らなくていいのか?」
「うん。それよりも、一度見てみたかったんだよ。いつもはなかなか時間が合わなくてね」
 この学者は見た目にそぐわず三十を越えている。睡眠時間を削ることによる日中の活動への影響など、いちいち注意する必要がある年齢でもあるまい。ならば、とオルベリクは自分の準備を済ませることにした。
 顔を洗ってから、ホルンブルグの騎士として授かった青衣を着る。愛剣を腰に佩き、籠手をはめた。毎日繰り返している動作でも、改めて身が引き締まる思いだ。
「サイラス、準備はできたか」
 振り返り、オルベリクは閉口した。
 サイラスは目を離す前と全く同じ——すなわち机に押し付けてしわになった服のまま、ぼんやりと自分の荷物の前で立ち尽くしていた。瞳は霞がかったようにぼやけて半眼になり、虚空へ向けられている。もう一度名前を呼べば、やっとこちらを向いた。
「え? ああすまない、すぐ支度をするよ」
「……まず顔を洗ってきたらどうだ」
「そうだね、そうしよう」
 今気づいたと言わんばかりの返事だ。かろうじてシャツを替えてベストを着直した彼は、よろよろと部屋を出ていく。しばらく待ったが音沙汰がない。かと思えば、サイラスはシャツの首元をびしょびしょにして帰ってきた。
「朝が苦手なのか?」
 オルベリクがそう尋ねたのも無理はないだろう。それでもサイラスはかぶりを振って、
「今日は少々眠りが浅かったから……」
「ベストが表裏逆になっているぞ」
 たまらず指摘した。洗面に出かける前、シャツを替えた時からそうなっていた。手洗い場で鏡を見たはずなのに気づかなかったのか。
「すまない……」
 サイラスはばつが悪そうにしていた。常に取り澄ました彼がこんな表情を浮かべるのはついぞ見たことがなく、オルベリクはひそかに驚いていた。
「お前はもう少し眠った方がいいだろう」
「お言葉に甘えることにするよ。見学はまたの機会によろしく」
 サイラスはふわ、とあくびをひとつ漏らした。オルベリクが廊下に出ると、すぐに背後の扉が閉じる。
 ——もしや、今の姿を他人に見られたくなかったのだろうか。



「朝起きたばっかりの時の先生? いや普通だけど。朝からよく喋るよなーあの人」
「……起床時間が合わないからあまり知らん」
 その後、年少の二人に対し、宿で同室になった時のサイラスの様子を訊ねてみた。この反応からすると、オルベリクの目撃したような姿は他に知られていないということらしい。
 またしばらくして、サイラスと同じ部屋に泊まることになった。この日のサイラスは適度な時間で読書を切り上げておとなしくベッドに入った。
 彼の眠りは深く、一度まぶたを閉じると途中で起きないのが常だ。翌朝、オルベリクが鍛錬のために起床しても隣の布団はぴくりともしなかった。やはりあのくらいきちんと寝て休むことが、明晰な思考を保つコツなのだろう。
 しかしこうなると、サイラスの言う「またの機会」とやらはいつ訪れるのか。無理をして起き出すよりしっかり眠る方がよほど重要であろうから、オルベリクの側は問題ないのだが。
 素振りを終えたオルベリクが部屋に戻ってくると、サイラスはやっと起き出していた。ベッドに腰掛け、半分に細められた青目が出迎える。
「おはよう、オルベリク……」
 部屋全体に眠気が漂っているかのようだ。
「よく眠れたか」との質問にサイラスは「うん」とだけ答え、黙り込む。オルベリクは荷物の整理をしつつ、それとなく相手を眺めた。
 寝巻きのボタンをひとつずつ外し、白いシャツに袖を通す。そのすべての動作が緩慢で、のろのろしていた。
 サイラスはあの一件があってから、オルベリクの前では朝が苦手だということを隠さなくなった。今日もだらだらと脱ぎ着して、蟻のような歩みでひとつひとつ学者らしい服装を整えていく。その表情は空白だ。
 昼間ならこんな顔のサイラスを見ても「何か裏があるのでは」と勘ぐるところだが、
(あれは、おそらく何も考えていないのだろうな)
 ただただ着替えている。オルベリクに無遠慮に観察されていても何の反応も示さないほど、注意を散漫にして。
 表裏を慎重に確かめながらベストを着て、黒いローブを羽織る。ここまで来たらあと一息だ。寝癖で跳ね放題だった黒髪を、手でざっと整えていく。この仕草も、初めて見た時オルベリクは「櫛を通さないのか」と驚いたものだ。
 最後にサイラスは紐を取り出した。首の後ろに伸びる髪へ、するりと巻きつけ結び目をつくる。
「——よし」
 ひとつまばたきをすれば、もういつもの彼になっていた。オルベリクが朝に鍛錬を行うのと同じように、一連の動作で身だしなみを整えることが彼なりのルーティンなのだろう。ああして学者としてのサイラス・オルブライトを作り上げるのだ。
 サイラスは涼やかなまなざしでオルベリクを振り返る。
「そろそろ朝食の時間だろう。行こう、オルベリク」
「ああ」
 扉を開ければ、その先には教え導くべき人々が待っている。すなわち学者にとっての戦場だ。サイラスはひるみもせず、ましてや起き抜けのぼんやりした様子など微塵も感じさせない出で立ちで、今日の空と同じように晴れ渡った瞳を輝かせる。
 彼は己を学者たらしめるため、実際多くの努力をしているのだろう。普段の様子を見ていたら分かる。常に平静を保ち、年下の仲間たちを教え諭す姿はまさしく教師にふさわしい。
 それでも、宿に泊まった翌朝の短いひととき、彼はオルベリクの前でだけ無防備な姿を見せる。そのことに、オルベリクは大げさに言うと安堵していた。

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