満点の答え

「ふむ、なるほど……まるで見た風景をそのまま写しとったかのような精巧な絵だ」
 からんとグラスの中で氷が音を立てた。ほどよく混雑した酒場で、サイラスはその絵をまじまじと見つめる。
「ごく細い筆で描かれているのかな。何度も塗り重ねているが、繊細なタッチだから目を近づけるまで凹凸が分からない」
 なめらかに流れる話を聞きながら、プリムロゼはグラスを傾ける。中身は度数の強い蒸留酒だ。底なしのサイラスほどではないが、彼女も十分酒精に強かった。
 セントブリッジの酒場にて、二人は同じ卓を囲っている。プリムロゼが誘ったのだ。その理由は——
「何よりも題材が珍しいね。人物がおらず風景だけとは。おそらく、この絵は貴族ではなく庶民が所有することを想定しているのではないだろうか。この大きさは民家の壁を飾るのにぴったりだね」
 サイラスは額縁を前にべらべらと喋り続けている。
 彼が話題にする小さな絵には、セントブリッジ周辺の景色が描かれていた。雲のかかった空、風そよぐ草原、大きな川。雄大な自然が額縁の中に切り抜かれている。プリムロゼはこれほど細やかに描写された絵画を見たことがなかった。
 この絵はトレサが買い付けたものだ。昼間、セントブリッジに到着する直前、旅人たちは川のほとりで一人の画家と出会った。
 彼はキャンバスを前にうなだれていた。見かねた旅人たちが声をかけると、絵が全く売れないため筆を折るつもりだと言う。そこにトレサが口を挟み、作品をいくつか買い取ったのだ。
 いつもの先見の明だろう、きっと彼女は絵に秘められた価値を見つけたのだ——とプリムロゼが感心していたら、トレサは何故かこちらにやってきて、
「プリムロゼさんは芸術にくわしそうな気がするわ」
 上目遣いになった。プリムロゼは肩の力を抜いた。
「はっきり用件を言ってほしいわね」
 トレサは頭を下げながら両手で絵を差し出す、という器用なことをやってのけた。
「お願い、この絵の売り文句を考えて! あたしじゃまだまだ修行中で、うまく言い表せないのよ」
「なのに買い取ったの?」
「うっ……だって商売になりそうな匂いがしたんだもの……」
 彼女の目利きもさすがに百発百中とはいかず、たまに外すことがある。今回はどちらだろう。
 反射的に受け取ってしまったが、プリムロゼもそこまで絵画の知識はない。ノーブルコートの屋敷に絵がたくさん飾られていたのは、母親の趣味だったからだ。プリムロゼはそれを眺めて育ったが、技法や価値の見極め方は知らなかった。
 そこで、アトラスダムの王宮に勤めていたこの男を頼ったわけだ。彼は博識なだけあってすらすらと絵の特徴を述べていく。プリムロゼは横から額縁を覗き込んだ。
「こんなに高い技術があるのに、どうして売れないのかしら」
「取引きしている画廊の方針と合わないのではないかな。セントブリッジの画廊は主に貴族を相手にしているだろうから、このサイズと題材では地味と評されかねない」
「ふうん。難しいのね」
 プリムロゼには唯一無二の価値を持つ絵に見えるが、この町にはろくな買取り手がいないのだ。
 ならば、価値の分かる客を探し出せばいい。需要のある場所へ的確に商品を届ける——トレサがいつも言っていることだ。
 そういえば、近頃サイラスはトレサからたびたび商売について教わっていた。プリムロゼはふと彼を試したくなった。
「ねえ、あなたならどうやってこの絵を売るの? 私を客と想定して、売ってみせて」
 唐突な提案だったが、サイラスは合点したようにうなずいた。
「分かった、やってみよう」
 彼は絵画をテーブルの上に立てて置き、プリムロゼと正対する。これから商売の真似事をするというのに、その表情はいつもと同じ教師のものだった。
「この絵を見て、まず気になるのはサイズだろう。実は、この大きさには秘密があるのだよ」
 もったいぶった話し方だ。プリムロゼはくすりと笑った。「秘密って何かしら」
「壁にかけた時を想像してごらん」サイラスは絵を持ち上げ、透明な壁に絵をかける。「窓のように見えるだろう。夜でも雨の日でも、こうして美しい景色を眺めることができる。それは値段以上の価値ではないかな」
「一理あるわね」
 絵画の技法ではなく飾り方について述べたのは、彼なりの配慮があったのだろう。普通の客に小難しい説明をしても仕方がない、と考えたのか。
 悪くない売り文句だ。しかし、それを聞いたプリムロゼの胸に、購買意欲とは別の思いがむくむくと湧き上がってきた。
 サイラスは絵をテーブルに戻して「どうだろう」と視線を返す。プリムロゼはふうっと息を吐いた。
「その答えじゃ六十点ね」
 持っていたグラスを置く。サイラスは口をつぐんだ。評点について考えているようだ。
 プリムロゼは腕組みをしてテーブルに肘をつき、下から彼を覗き込むようにする。
「百点満点の答えを教えてあげるわ、先生」
 サイラスは首を少し傾けた。
「それは私に対する講評の代わり、ということかな」
「そう。今度はあなたが客になるのよ」
 承知した彼は「よろしく頼むよ」と言って卓の上で指を組んだ。
 プリムロゼは絵を持ち上げてじいっと観察する。サイラスの口上を聞く間に脳裏に浮かんだ光景を、よりはっきりと心に書きとめた。
 サイラスは客というより教えを請うような姿勢になっている。そんな彼に絵画を向けた。
「この絵にはね……描いた人の思いが込められているの」
 ノーブルコートの屋敷では絵画を見るたびに様々な空想をした。絵の具の草原を揺らす風をほおに感じることだってできた。額縁という窓を通り、彼女の心は酒場を離れて自由に飛んでいく。
「この空は一見曇り模様だけど、端の方が明るくなっているでしょう。頭上を覆う暗雲が、今にも晴れようとしている——画家は絵にそんな希望を託したのよ」
 キャンバスの半分を占める空は特に丁寧に描かれている。プリムロゼはそこに画家の思いを見出した。
「暗雲か……これを描いた画家は何か危機的な状況に陥っていたが、それを脱する方法を見つけたということかな」サイラスが問う。
「そこまでは分からないけど——この絵はきっとあなたに幸運をもたらすわ。家の壁にかけてごらんなさい、どんなつらい思いをした日でも、あなたはこの絵を見て画家の希望に思いを馳せるでしょう。明るい気分は自然と好機を引き込むのよ」
「絵画は描いた者だけでなく、見る者の心も照らし出すということだね。……素敵な話だ」
 サイラスはほおをほころばせた。
「どう、買う気になった?」
「もちろんだとも」
 彼は大きく首肯する。
「いや見事な売り方だった。心を動かされたよ。こういった話術も踊子として身につけたのかな?」
「そんなつもりはないけど、少しは関係あるかもね」
 会話によって客を引き込み、あるいは誘いをかわす。プリムロゼが砂漠の町で何度も繰り返していたことだ。今回は普段と違い、ものを売るために話を誘導したわけである。
 彼女の手本を目の当たりにして、サイラスは真剣に考え込んだ。
「キミの口上を満点とすると、私の減点の理由は——相手の心に踏み込むような売り文句がなかったことかな。ううむ、いつもトレサ君の話を聞いているのに、実践するのは難しいのだね」
「だって、知識を伝える教師の話術とは違うもの」
 彼はどうやら興が乗ったらしく、
「プリムロゼ君、私にもう一度挑戦させてくれないかな」
「いいわよ」
 プリムロゼはグラスをあおって空にした。適度に体が火照っている。次の酒を頼むかどうか少し迷った。今日の肴はまだしばらく続きそうだ。
 サイラスが選んだ次の絵には、セントブリッジ近くの丘が描かれていた。なだらかな斜面を柔らかそうな草が覆い、ぽつりぽつりと小さな花が咲いている。ちょうど今日画家が描いていたもので、目下のところ「最後の作品」である。
 プリムロゼはお手並み拝見とばかりに空のグラスを回した。
「先生にとっての満点の答えを聞かせてちょうだい」
「ああ、期待してくれ」
 サイラスの目がきらりと光る。その自信満々な様子を見て、プリムロゼはなんだか嫌な予感がした。が、止める間もなく話がはじまった。
「この絵はキミのような美しい女性にふさわしいものだよ」
 案の定サイラスは世迷い言を吐きはじめた。プリムロゼはため息をつきたい気持ちをぐっとこらえる。
「……一応聞くけど、理由は?」
「ここに描かれた花は、今の季節は咲いていないものだ」確かに昼間、画家が絵筆を向けていた丘は一面の緑色だった。なのにキャンバスには花が描かれている。「何故かと言うと、これは画家の記憶の中に咲いている花なんだ」
「ふうん?」
「画家には父親との大切な思い出があってね。昔、弟と一緒にこの丘から花をつんできて、母親の墓前に供えたことがあった。母親が亡くなってから荒れていた父親も、その時だけは喜んでくれたのだよ」
 いきなり具体的な話がはじまったので、プリムロゼは目を瞬く。この様子だと、適当に嘘をついているわけではないだろう。
(まさか、画家の身元を探ったの?)
 一体いつの間に。何故かプリムロゼの背中を冷や汗が流れた。
「私とそのエピソードと、何の関係があるのかしら」
「キミもこの画家と同じように、家族との思い出を大切にしているだろう」
 なんだか頭痛がしてきた。サイラスは彼女を客として想定しているわけではなく、まさしくプリムロゼ自身に絵画を売ろうとしていた。
 ふと、プリムロゼは花咲く丘に幻を見た。
 ——まだノーブルコートが平和だった頃、彼女も花をつんで母の墓に手向けたことがある。キャンバスに描かれたリバーランドの景色は、何故か遠いフラットランドを思い起こさせた。
「これは、花のように可憐なキミにこそ買ってほしい逸品だよ」
 小さな桃色の花の名を持つプリムロゼは、しばし絵画に釘付けになった。
 サイラスが期待のまなざしを向けている。彼女は肩のこわばりを解いた。
「ゼロ点よ」
「えっ」
「私の心に響かなかったから、ゼロ点。もう一度出直してきなさい」
 プリムロゼは戸惑うサイラスを置いて、椅子から立ち上がる。
 いつものことだ、彼は別段プリムロゼを口説こうとしているわけではない。なのにこうして的確に心の隙をついてくるとは……彼の話術に点数をつけたのは藪蛇だったらしい。
 背後では今ごろ、芸術は解しても女心がまったく分からない男が真顔で反省会を開いているのだろう——その光景を想像してプリムロゼは少し愉快になった。
 口に出した答えがゼロでも百でも、彼女は間違いなく小さな花の香りを思い出して心に刻んだ。それは、サイラスには言えない本当の評価だった。

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