鍵盤上のふたり

 困ったことになった。
 小さな教会の中。神官オフィーリアは祭壇といくつかの長椅子があるだけの空間に一人佇み、ステンドグラスを見上げる。天から降り注ぐ光を通すガラスは今、夜闇に沈んでいる。
 椅子に座って聖典を開き、また閉じて……を繰り返していた時、教会の扉が開いた。見知った学者のローブが翻る。
「オフィーリア君」
 落ち着いた低音が耳に心地よい。サイラスさん、と呼びかけながら腰を上げた。
「もう夜も更けたけど……宿に戻らなくていいのかな」
 どうやら心配して探しに来てくれたらしい。
「ええ、今帰ろうとしていました」
 聖典を抱え上げながら答えれば、サイラスは青い目を瞬かせ、
「もしかして、明日のことで悩んでいたのかい」と穏やかに尋ねた。
 どうやらオフィーリアの抱えた不安はとうの昔に伝わっていたようだ。力のない笑みをこぼす。
「はい。わたし、今まで一人で講話なんてしたことがなくて……」
 うつむく彼女はサイラスに促され、再び椅子に腰掛けた。まぶたを閉じて、昼間の出来事を思い出す。
 ——雪に埋もれた街道を旅していたオフィーリアは、白い景色の向こうに折り重なる屋根を見つけた。道しるべの看板はなかったが、どうやら村があるらしい。
 フレイムグレースを旅立ってからはじめて見つけた集落だった。好奇心が胸にわいてきて、思わず同行者のサイラスに寄り道を提案した。彼もちょうど気になっていたようで、快諾してくれた。
 フロストランドとウッドランドのはざまにひっそりと身を寄せ合う家々。訪れる前は名も存在も知らなかったような村だ。それでも聖火教皇領の端なので小さな教会が中央にあり、人々の拠り所となっているようだった。
 旅人もほとんど訪れないのか、宿の看板は見えるが酒場はない。改めて、フレイムグレースは大きな町だったのだと思う。
 オフィーリアは採火燈を捧げ持ち、雪に閉ざされた村を照らす。曇り空の下で、炎はより一層明るさを増すようだ。
 集落を探索する彼女たちの姿を目にとめ、一人の村人が歩み寄ってきた。
「もしや、式年奉火の神官様ですか?」
「はい、そうです」
 オフィーリアが素直にうなずけば、村人は「本当ですか!」とにわかに沸いた。騒ぎを聞きつけた他の村人たちも次々と寄ってきて、皆でほとんど彼女を崇めるようにする。
「おお、ありがたや」「これが聖火の種火……なんと美しい!」
 オフィーリアは笑みを崩さず「みなさんに、聖火のお導きがありますように」と祝福を与えた。
(これほど歓迎されるものなんですね)
 内心で驚く。フレイムグレースを旅立つ時も大聖堂の同僚や町の人々に大々的に送り出されたが、それはオフィーリアが神官としてあの町で様々なものを積み上げてきたからだ。しかし、今回初めて足を踏み入れた村でもこの歓待である。種火だけでなく、運び手である神官にも尊敬の念が集められることに対し、誇らしさに加えて少しの戸惑いと気恥ずかしさを覚えた。
 今オフィーリアが向けられているのは、何事もなければリアナが受け取っていたはずの視線だ。決していい加減なふるまいはできないと強く感じた。
 村人たちは二人を囲み、にぎやかに申し出る。
「神官様、今日は是非うちの村に泊まっていってください」
「ありがとうございます」
 ちら、と隣のサイラスを見る。まだ日も高いし今日中にウッドランド地方へ抜けることもできそうだが、どうすべきだろう。視線に込められた意味を感じ取ったのか、学者は少し身をかがめて囁いた。
「お言葉に甘えよう。……この村にはキミが必要だよ」
 オフィーリアは嬉しくなって大きくうなずいた。
 村人たちは二人を教会に案内してくれた。狭くともよく使い込まれ、手入れが行き届いたいい空間だった。ここには聖火はないけれど、人々の胸にその火は灯っている。
 教会を預かる司祭が挨拶に来た。壮年の男性で、柔和な雰囲気を醸している。聞けばこの村の出身で、各地の大聖堂で修行を積み、故郷に戻ってきて司祭におさまったのだという。
 司祭は一通り挨拶をしてから、
「オフィーリア様、明日の礼拝の時間に何かお話をしていただけませんか?」
「えっ」
「皆あなたのお話を聞きたがっております。是非、お願いします」
 オフィーリアは重要な儀式を行う立場にあるといえど、元はただの神官だ。講話など、リアナの手助けで案を練ったことしかない。
「はい……分かりました」
 それでも真摯に頭を下げられると、どうにも断れなかった。声色が落ちないように気をつけて、なんとかほほえむ。村にやってきてから終始一歩引いてオフィーリアに従うサイラスは、何も言わなかった。
 二人は礼を述べてその場を辞する。外は少し雲が晴れて風花がちらつきはじめていた。
 教会を出た先に一人の村人が待っていた。その女性はこちらに——否、サイラスだけにひたと熱っぽいまなざしを向ける。
「神官様の従者の方でしょうか」
「そのようなものです」
 実際には少し違うのだが。「実は旅の学者でして」と続けるサイラスに、相手の女性は頬を上気させ話をねだった。
 彼はフレイムグレースでもそうやって人を惹き付けていた。オフィーリアはあらあら、と目を丸くして見守るしかない。
 サイラスは矢継ぎ早に投げかけられる質問にもきちんと答えていたが、雪の調子が強くなってきたためか、はたまた置いてけぼりのオフィーリアを気遣ったのか「そろそろ一度宿に行こうか」と話を切り上げる。
「また、お話していただけますか」
「もちろん。私に教えられることでしたら」
 翻した背中にもずっと熱い視線が注がれている。が、彼はまるで気にした様子がなかった。
 巡礼者が珍しくないフレイムグレースとは違い、このような村ではただの旅人がこれほど衆目を集めるのか。それともやはり、訪問者がオフィーリアとサイラスだからなのか。
(もしかして、わたしたちは目立つのでしょうか……?)
 式年奉火を執り行う神官と見目麗しい学者。旅立つ時はあまり意識していなかったが、相当に注目を浴びる組み合わせかもしれない。そういえばリアナは、別れる時「慣れないことが多いと思うけど、気をつけてね」と意味ありげにサイラスを見ながら言っていた。あれはこのことだったらしい。大きな町ではどうなるのだろう、全く想像もつかない。
「オフィーリア君?」
 考えごとをするうちに立ち止まっていたらしい。不思議そうに振り返る彼へ、慌てて追いついた。
 そうだ、他人の視線を気にしている場合ではない。オフィーリアは明日の講話を頼まれたのだった。
 宿で一度休息をとった後、二人はわかれて行動することにした。サイラスは女性たちに請われるままに学問を教え、オフィーリアは明日に向けて教会の清掃をする村人たちを手伝うことにした。
 掃除をしながら講話について考えたが、どうにもいい案を思いつかなかった。まだ式年奉火の旅ははじまったばかりで、一回目の注ぎ火の儀式すら行っていない。オフィーリアがフレイムグレースで励んできた日々のつとめなど、この村の人々がするものと大して変わらないだろう。そもそも二十歳の身空では人生経験すらおぼつかず、話せることは限られている。
 悩みつつも手を動すうちに日が暮れていた。
「ありがとうございますオフィーリア様」「明日はよろしくお願いします」
 村人たちの期待が肩に重くのしかかかる。オフィーリアはかろうじて笑みを保って宿に戻り、サイラスとともに夕食をとった。その夕食も最初は「村長の家で食事でもしながらお話を……」とせがまれたが、旅の疲れもあるし明日に万全に備えたい、とサイラスが断ってくれた。
 心のこもった温かい食事が胃を満たす。充実する体と反対に心は沈み、どうしても黙りがちになってしまった。おそらくサイラスはこの時点で、彼女が抱えたものを察したのだろう。
 その後、オフィーリアはそっと宿を抜け出して借りた鍵で教会に立ち入り、あれこれ悩んでいたのだが——
「キミがすべきことは、講話とは限らないのではないかね」
 サイラスは夜に沈んだ教会の中で、長い指を組み合わせる。
「え?」
「彼らが聞きたがっているのはキミなりの思いなんだよ、オフィーリア君」
 明日の礼拝には子供から大人までやって来る。ならばあまり難しい話は適さない。それよりも、オフィーリアの心から発せられた素直な言葉の方が響くだろう、とサイラスは言う。
「わたしの思い、ですか」
「旅立ったばかりのキミの気持ちを正直に表現すればいい」
「そうですね……」
 サイラスの言うことは分かる。それでも緊張してしまうのだ。優秀だったリアナに恥じない行いを、という気負いがどうしても出てしまい、うまく話をする自信がない。
 落ち着かない気分で膝の上の聖典をめくると、ひらりとページの間から紙が落ちる。サイラスが拾い上げ、折り畳まれたそれを広げる。
「これは楽譜かな」
 聖典に挟んだままフレイムグレースから持ってきてしまったらしい。オフィーリアは楽譜を受け取り、表面に指を走らせる。
「ええ、聖歌の楽譜です。礼拝の時はいつもリアナと一緒に歌っていましたから——あっ」
 不意に天啓が降ってくる。オフィーリアは視界が澄み渡るような感覚を得た。
「わたし、聖歌を歌いたいです」
「ほう?」
「フレイムグレースで、わたしはこの歌に自分の気持ちや祈りを込めていました。もしそれがこの村の方にも伝わるのなら……。それに、お話の前に歌えば少しは緊張がほぐれるかもしれません」
 うまくいくかは分からないが、オフィーリアが神官として培ってきたものを歌声に乗せ、信心深い村人たちに届けてみたかった。
 サイラスは大きく首肯する。それこそが正解だとでも言うように。
 我ながらいい思いつきだ——とひとしきり舞い上がってから、オフィーリアはあることに気づいてかぶりを振った。
「ああ、でもわたし、伴奏がないと音がとれなくて……」
 一度流れに乗ってしまえばなんとかなるのだが、どうしても最初の音合わせが苦手だった。司祭か誰かに伴奏を頼むべきだろうか。しかし礼拝は翌朝だ。よりによって直前にそのような役目を依頼することなんてできない。オフィーリアは煩悶した。
 隣でサイラスが立ち上がる。祭壇の脇にひっそりと置かれたそれ——オルガンに歩み寄り、蓋を開けて鍵盤を触る。鈍くもあたたかい音が鳴った。
「調律はされているようだね」
「え、ええ」
「私が伴奏をしようか?」
 オフィーリアは思わず声を上げた。
「サイラスさん、弾けるのですか!」
「聖歌の伴奏はしたことがないけれど、嗜む程度にはね」
 楽譜を手渡すと、サイラスは「ほうほう」と言いつつ早速オルガンの前に座った。
 鍵盤の上でなめらかに指が踊り、荘厳な曲をつくりだしていく。当然ミスなどひとつもない。夜なので音量を控えめにしているのがもったいないほどだ。
(すごい……)
 学者は音楽に関しても十分すぎる技量を持っていた。おおよそこの人にできないことはないのではないか、などと行き過ぎたことを考えてしまう。
 サイラスはもう一度曲の最初から弾きはじめた。オフィーリアは自然と姿勢を整える。
 足を軽く広げ、息を吸う。肩は力を抜いて落とし、教会の壁を突き抜けてはるか向こう——フレイムグレースにまで歌を届けるイメージを描いた。そのまま流れ出る息に声を乗せる。
 祭壇に置かれた採火燈が小さく揺らめく。二人の紡ぐ聖なる歌がやわらかく教会の中を満たした。
 歌い終わったオフィーリアはふう、と息を吐く。サイラスがオルガンの前に座ったままこちらを見上げていた。
「さすがは聖火教の神官だ。声の通りが違うね」
「あ、ありがとうございます」
 少し前まで抱えていた焦りはすっかり落ち着いていた。見込んだ通りの効果だった。この調子で明日も正直な気持ちを歌に乗せることができたなら、村人に届けるべき言葉も自然と出てきそうな気がした。
 礼拝の見通しは立った。夜も更けており、もう宿に戻るべきだった。けれども、音楽を介してサイラスとつながる時間なんて、この先幾度もないだろう。オフィーリアはそれが惜しくなってしまった。
「サイラスさん。わたしにオルガンを教えていただけませんか」
 式年奉火の旅を続ければ、今後どのような頼まれごとをするか分からない。いつまでもサイラスの力を借りてばかりではいられないから——そうお願いすると、彼は「喜んで」とほほえんだ。
 今度はオフィーリアが椅子に座り、サイラスがオルガンの横に立つ。
 鍵盤楽器の演奏も、ある程度は大聖堂で習った。どちらかというとオフィーリアは歌の方が得意だったため、磨きをかける機会はあまりなかった。
 しっかりと楽譜を確認し、正しいポジションに手を置いて、指をそっと鍵盤に沈ませる。
 出だしはなかなか良かったけれど、どうしても途中で詰まる。ミスを無視して進もうとするとその次で崩れる。指が止まってしまう度にサイラスはコツを教えてくれた。苦手な箇所を的確に見抜き、無理のない運指に変える。時にはオフィーリアの指に手を重ねて一緒に旋律を弾く。
 そうやってところどころつかえながらも、なんとか曲の最後までたどり着いた。
「やはり教えるのがお上手ですね」
 アトラスダムで教師をしていたというだけはある。どの指摘もすっと胸に染み込んできた。「キミにそう言ってもらえると光栄だよ」と彼は目を細める。
「サイラスさんは、どうしてオルガンを?」
 おそらく学者の教養とは直接関係のない技能だろう。王宮に仕えていたというからそちらで覚えたのか。尋ねると、彼は珍しく困ったように眉を下げた。
「実は……騙されたんだよ、先輩に」
「えっ」
 いきなり話が飛んだ。「先輩」という単語に思い当たることがあり、はっとする。
「もしかして、クオリークレストの町にいらっしゃるという方ですか……?」
「そう、オデット先輩。彼女に言われたんだ」
 サイラスではアトラスダムで王女の家庭教師をしていた関係もあり、たびたび舞踏会に誘われることがあったという。気がすすまないため理由をつけて断るようにしていたが、どうしても受けざるを得ない時もある。
 そこで先輩に相談したところ、こう言われた。
 ——なら舞踏会に行っても踊らなければいい。楽器を覚えるんだよ。そうしたら演奏者になれるから、踊る必要はなくなるだろう?
「大嘘だったんだ。専用の楽団がいるから先生は踊ってくださいと言われてね」
「そ、それは……」
 普通、冗談と分かるだろう。舞踏会など誘われたこともないオフィーリアでも悟るくらいだ。よほど先輩がうまく丸め込んだのか、それともサイラスが鈍いのか。
「それでも、サイラスさんは練習したのですね」そして見事に演奏を習得した。
「ふふ、それなりに楽しかったからね」
 そう、自らの身体を使って音を紡ぐのはとても楽しいことだ。オフィーリアはリアナと歌った日々を思い出す。
 気分を入れ替えて、もう一度鍵盤に向き合う。だんだん慣れてきた指を動かしながら、オルガンの音に自分の声を乗せてみた。
 そこに、横から別の声がかぶってきた。低く心地よい歌声だが——明後日の方を向いたような音程だった。
「……サイラスさんにも苦手なものがあるんですね」
 弾き終わったオフィーリアは思わずそうこぼしていた。
 まるで己の心に従って自由に声を張り上げる子供のような歌い方だった。オルガンの調律の良し悪しを判別できるのが逆に不思議なくらいだ。
 サイラスは肩をすくめた。
「前にも同じことを言われたよ。明日は伴奏だけにしよう」
「あ、すみません」
「いいや。オフィーリア君の歌を楽しみにしているよ」
 それでもああして口ずさむということは、きっと歌が好きなのだろう。今度機会があれば一緒に歌ってあげたいな、と思う。
 二度三度と練習を繰り返したおかげで、さすがに遅い時間になっていた。急いで教会を片付け、預かっていた鍵をかける。
 真っ暗な夜の中、掲げた聖火が足元を照らす。オフィーリアが見つけた明日の道しるべのようだった。もう心配することは何もなかった。
 宿に戻ってそれぞれの部屋の前で別れる。その日の最後にサイラスはこう言った。
「キミの歌声は天から降り注ぐようだね。ここまで美しく澄んだ声を初めて聞いたよ。今日は良い夢が見られそうだ」
「え? えっと……」
 突然褒められて、オフィーリアは我知らず赤面する。
「明日が待ち遠しいね。キミならきっと、自分の言葉を人々に届けられるだろう。
 それではおやすみ、オフィーリア君」
 サイラスはそのまま自分の部屋に戻っていく。
(……ああいうお話は、わたしだけにするわけではありませんよね)
 きっと誰にも等しく注がれるものだ。そう分かっていても、オフィーリアは行き場のない熱を手のひらで冷やすしかなかった。心を落ち着かせようと聖火の青い光を見れば、彼の瞳の色と重なってしまう。
 惑わされてばかりではいられない。早く慣れてしまわないと。そう、彼はオフィーリアの従者ではなく、旅の仲間なのだから。
 翌日。子供から大人まで声を合わせて聖歌を歌う中、黒衣の学者は唇を閉ざして——しかし気持ちよさそうにオルガンを弾いていた。オフィーリアは目を閉じて喉を震わせながら、教会に響く旋律に小さく調子はずれな鼻歌が混じっていることに気づいて、こっそり笑った。

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