伝わらない

 きらきら光る水面を視界の端に入れながら、砂まじりの道を踏みしめる。テレーズたち四人がゆく東リプルタイド海道は、景勝地と言っていいほどの眺望に恵まれていた。
「サイラス先生は、この道を何度も通ったんですよね」
 テレーズの教師は隣をゆっくり歩いている。旅慣れぬ彼女を気遣っているのだろう。ありがたいけれど、素直に喜びきれないものがあった。
 サイラスがあちこちの地方を巡る間、テレーズはアトラスダムでほとんど代わり映えのしない日々を過ごしていた。彼がますます遠く離れてしまったことを思い知らされる。
「そうだね」サイラスは静かに相槌を打つ。「ストーンガードに向かう時、キミはこの道を馬車で通ったのかな」
「はい。あの時は景色を見る余裕がなくて……」
 早くストーンガードに向かわなければ、サイラスの身に何が起こるか分からない——そんな不安で胸がいっぱいだった。こうして彼とともにのんびり帰路についていることが奇跡のようだ。
「それにしても、帰りも馬車でなくて良かったのかい?」
「はい、みなさんと一緒に歩いて戻りたかったんです。それに、ストーンガードでたくさん階段を上り下りしたので慣れました」
「あれはきつかったね……」
 しみじみと実感のこもったサイラスの発言に苦笑が漏れる。
「おーい、テレーズさん!」
 前にいたトレサが、帽子の羽飾りをなびかせながら走ってきた。
 彼女はテレーズのひとつ年上である。未だ勉強中の身のテレーズと違い、もう一人前の商人として旅をしているそうだ。初めて知った時は驚いた。彼女は明るく物怖じしない性格で、知り合ったばかりのテレーズにも分け隔てなく接してくれる。
「これ見て!」
 トレサは嬉しそうに手のひらを開いた。そこには透明な巻き貝が二つ転がっていた。
「貝がら……ですか?」
 渡されたものを手にとる。冷たい感触が、つい先ほどまで波に洗われていたことを伝えてきた。
「そうそう、ガラス貝っていうの。綺麗でしょ? 集めたらいい値段で売れるのよ。リプルタイドじゃ子どもの小遣い稼ぎの定番なんだから」
 サイラスが朗らかに笑った。同じく先を歩いていたアーフェンがやってきて、腰に手をあてる。
「トレサー、テレーズさんにそんな俗っぽいこと教えるなって」
「えー! いいじゃない。これがお金になるのよ、面白いでしょ」
「ええ、とっても」
 テレーズは笑みをこぼした。
「家に帰るまでにもっと集めようかな。そうだ、アーフェンもゴールドショアで貝がらもらってたわよね」
「おう、大事にとってあるぜ」
「あれはいくらで売れるかな」
「いや売るなよ!」
 にぎやかに会話を交わし、二人はまた競うように砂浜を駆けていく。
 テレーズはその後ろ姿を眺めてしみじみとつぶやいた。
「先生は……とてもいいお仲間と出会えたんですね」
 ストーンガードで顔を合わせた七人は皆、全力でサイラスとテレーズを助けてくれた。「そうだろう」と彼は自慢げに胸を張る。
 テレーズは思い出の中から紫の外套を手繰り寄せた。
「そういえば、先生はテリオンさんとはどういうご関係なんですか?」
 前々から気になっていた。踊子プリムロゼもそうだが、雰囲気からしてテリオンは学者と一番関わりが薄い人物に見えた。
 サイラスは何でもないように答える。
「彼は盗賊でね。ある屋敷で出会ったんだ」
「盗賊……!?」
 テレーズはぽかんと口を開く。
「ああ、言っていなかったかな。テリオン君はある人から依頼を受けて、盗まれたものを取り返すための旅をしている。ウェルスプリングには彼が求めるものがあるはずだよ」
 盗賊といえど人助けの旅をしているらしい。ストーンガードの一件からも、テリオンの人の良さは分かりきっていた。生業に対して無闇に偏見を抱くべきではない、ということか。
 サイラスはいつもそうするように、自分のおとがいをつまんだ。
「どういう関係かと言われると……そうだな、私たちの中心はテリオン君だよ」
 テレーズは目を丸くした。
「え? サイラス先生がみなさんをまとめているのではないのですか」
「違うよ」
 あっさり否定された。本当にそうなのだろうか。テレーズは質問を重ねる。
「でも、先生が仲間を集められたって……」ストーンガードでハンイットがそう言っていた。
「それは半分だけだよ。みんなをまとめることに関しては、私よりも彼の方がよほど向いている」
 いまいち納得できない。半数を仲間に加えたなら、せめて半分は責務を負うべきでは……? とテレーズは思ってしまった。とても口には出せなかったけれど。
 他の意見も聞きたかったが、トレサたちはずいぶん前を歩いていた。
「この間は、私がきちんと彼に連絡や報告ができていなかったことを、ハンイット君に咎められてしまってね。どうも、私の説明はテリオン君にうまく伝わっていない気がするんだ。言葉が足りないのだろうか」
 サイラスは真剣に悩んでいる。テレーズは首をかしげた。
「話す内容ではなく、気持ちが伝わっていないのでは」
「気持ち?」
「先生は……その、淡々としているように見えてしまいがちなので」
 サイラスは大きく目を見開いた。
 彼がそんな人物でないことは分かっている。けれども思わせぶりな言動や素振りが人を惑わせ、どこに本心があるのか非常に分かりづらくさせている。
(先生は気持ちを伝えるのも受け取るのも、少し苦手なんですよね……)
 そうだ、サイラスにはテレーズの思いだってちっとも伝わっていない。
 プリムロゼにさりげなく応援されたのは嬉しかったけれど、きっと今のままではサイラスとの距離は変わらないだろう。こうして一緒にアトラスダムへの帰り道を歩いていても、サイラスは再び目的のために旅立っていく。二人の間の溝を埋めるすべは今のところ存在せず、とにかく彼が無事に帰ってくることを祈るしかなかった。
 それでも以前のように暗澹とした気分にはならなかった。サイラスが旅に出てからの空白は、テレーズの心にある程度の整理をつけるには十分な時間だった。
 サイラスは一人で思考の淵に沈んでいる。
「そうか……学長に冷淡と言われたのもそのせいかな。どうしたらテリオン君に伝わると思う?」
「わたし、とっておきの方法を知っていますよ」
 サイラスと違ってテレーズには友人がいる。親しみを示す手段にはいくつか心当たりがある。サイラスの目が輝いた。
「ほう! 是非教えてもらえないかな」
 テレーズは顔をほころばせた。こうして「先生」に何かを教える立場になるなんて思いもしなかった。
 アトラスダムにいた時の印象とは違って、サイラスは何もかも完璧な人などではなかった。それが分かったことは、今回の旅における大きな収穫かもしれなかった。
「それはですね——」
 テレーズは背伸びして、そっと耳打ちする。ほおが熱くなった。
 残念ながらサイラスはまったく照れた様子がなく、テレーズが離れてから首をかしげた。
「名前の呼び方を変える? 本当にそれで伝わるのだろうか」
「何ごとも挑戦ですよ、先生」
「ふむ……分かったよ。キミがそう言うのなら」
 テレーズは笑って照れをごまかした。
 いつの間にか、先行する二人とずいぶん離れていた。歩調を早めて追いかけようとした時、サイラスのつぶやきが耳に入る。
「どうも、自分の気持ちというのはままならないものだね」
 テレーズはどきりとして振り返った。
 彼は潮風に吹かれながら目線を海へと投げていた。いつもどおりの落ち着いた横顔に、どこか見慣れぬ色が浮かんでいる。
(先生、もしかして……寂しいと思っているんですか?)
 何故か、そう感じた。胸がぎゅっと締めつけられる。
 サイラスは、自分がそんな顔をしているなんて意識していないのだろう。彼はそういう人だ。
 自分の気持ちを相手に伝えるためには、そもそも本人が心のありように気づかなければならない。もしかすると、サイラスはその段階で立ち止まっているのかもしれなかった。
 前をゆく二人が声を上げた。
「先生、遅れてるぜ!」
「テレーズさんもこっちこっち! いっぱい貝がら落ちてるわよ」
 サイラスは「すまないね」と返事をして、歩き出す。その顔には先ほど見えた「何か」の残滓はない。
 テレーズはほっとした。それと同時に、ある願いを胸に抱く。
(それはきっと、わたしでは埋めようのない気持ちなんです。どうかこの先も気づかないでください、先生……)

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