心に太陽を持て

 なんともうら寂しい村だ。
 テリオンはクリフランドの果て、オアウェルの崖の間で橋の手すりに体重を預け、空を見上げる。
 この村は今、流行病に支配されていた。集会所に並んで寝かされた病人たちを思い出し、テリオンは暗澹たる気持ちになる。当然のごとく、ここも薬屋の希望により訪れた場所だった。
 が、彼は偶然鉢合わせたオーゲンという同業者にあっさり見抜かれるほど、調子が悪かった。オーゲンは以前セントブリッジで出会った腕のいい薬師である。
 薬屋の不調の原因など分かりきっている。例のミゲルという男が起こした事件だ。あれ以来、見ず知らずの者を治療することに対して、彼はまだ迷いを抱えているらしい。
 旅の連れの大半は、自主的に薬屋を手伝っていた。テリオンは看病など柄でないため――ひとまず人数が足りていたこともあって――集会所を抜けてきた。
 こんな狭い村で盗みを働く気にもなれず、ぼんやりと風に吹かれる。そのうち、橋の板を鳴らす音が近づいてきた。
「テリオン、ここにいたのか」
 ハンイットだった。雪豹を引き連れた彼女は、何故か弓と斧で武装を整えていた。テリオンは目を瞬く。
「出かけるのか?」
「ああ、この近くにルーベの森という狩場があるんだ。そこで獣を狩って料理でも作ろうと思ったのだが、あなたも一緒にどうだ?」
「行く」
 こんな辛気臭い村にいるのは勘弁だ。一も二もなくハンイットの提案に飛びつく。
 ルーベの森は橋を渡った先にあった。獣道の脇にはせせらぎが流れ、遠く滝の音がする。そよ風が木々を揺らして緑の香りを立ち上らせた。枯れたクリフランド地方でこういう自然は珍しい。
 狩人の相棒リンデが先頭を行き、あたりに油断なく目を光らせる。テリオンは唇を閉ざし、ハンイットも黙って歩く――かと思いきや、ぼそりと呟いた。
「アーフェンの選ぶ道は厳しいものだな。終わりがない……薬師とは、そういうものだろうか」
 嫌な熱気に満ちる集会所を思い出したのだろう。瞳を沈ませる彼女に対し、テリオンは軽く息を吐く。
「あいつは好きでやってるんだから、いいだろ」
「そうだな。やはりあなたの方がアーフェンにくわしいようだ」
 ハンイットは愉快そうに目を細めた。テリオンはもやもやした気持ちがこみ上げ、口をつぐむ。
「……先ほど、治療の合間にアーフェンと話をする機会があった。アーフェンは『いつか恩人を越えたい』と言っていた。わたしの立場に置き換えれば、師匠を越えると言っているようなものだ。そんなこと、わたしは考えた試しがなかったから、少し驚いた」
 彼女にしては珍しく長台詞を続ける。
「わたしの師匠はそばにいるからいいけれど、アーフェンの恩人はどこにいるかも分からない。幼い頃に一度だけ会った人を越える、と思い続けるのは難しいのだろうな」
 それでも薬屋は大真面目に夢を追いかけているのだ。
 夢。テリオンには縁のない概念だが、薬屋がひたむきにそれを目指す姿勢はある程度評価していた。
「わたしもアーフェンの助けになれたらいいのだが……。結局、狩りに精を出すことしかできない」
 ならば、盗賊のテリオンなど何の役にも立たないだろう。そんな現状に対して歯がゆいという気持ちは確かにある。それは薬屋の気性に相当足を取られている証拠であると、自分でも分かっていた。
 アーフェンに変わってほしくないのよね、というプリムロゼの言葉を思い出す。それはテリオンたちの勝手な考えで、決して本人に押し付けることはできない。
 二人は黙り込む。雪豹も空気を読んで大人しく足を運んだ。
 その時、大きな影が頭上を横切った。はっとして顔を上げれば、虹色に輝く羽が視界に映る。
「あれは――」
「テングワシだ! こんな場所で相まみえるとはな」
 ハンイットが目を見開き、身を低くしたリンデがぐるると喉を鳴らす。
「とても珍しい魔物だ。爪に強力な毒を持っているらしい。まあ、今回の獲物にはならないな」
「狩るのが難しいのか?」
「きれいな羽だっただろう。おかげで密猟者が後を絶たないんだ。必要がない限り、狩るのは避けたい」
 そこでハンイットは先ほどの光景を反芻するように、ほうとため息をつく。
「しかし……美しかったな。ああいう姿を見ると、病でも何でも治りそうな気がする」
 その感覚はテリオンにも少しだけ分かった。あの羽には、見る者の心を一瞬で奪ってしまう、宝石にも似た輝きがあった。
 しばらくして彼らは大鹿に遭遇し、うまく一体仕留めてからオアウェルに戻ってきた。崖際のわびしい村は、出発した時と変わらず閑散としている。
「テリオン、これをアーフェンに持っていってくれ。治療で疲れているだろうから、差し入れだ。わたしは宿で厨房を借りて料理を作ってくる」
 仕留めた獣を担ぐハンイットが差し出したのは、いくつかの黄色い木の実だった。
「狩りの最中、小腹がすいた時によく食べるんだ。クリフランドにも生えているのだな」
 そういえばハンイットが森で時折しゃがみこんでいたのは、地面に落ちた実を採取していたらしい。
「分かった」
 拒否する理由もなかった。しかし、何故テリオンに託すのだろう。疑問を含んだ視線を向ければ、ハンイットは森の色の瞳を思慮深く瞬いた。
「あなたはミゲルの事件の後、落ち込むアーフェンに声をかけただろう。厳しい言葉だったかもしれない……でも、あなたはアーフェンに対して『見守る』以外の行動ができるのではないか?」
 ハンイットはそう言い残して宿に向かった。
 ただ見守る以外のこと――自分はそれがしたかったのだろうか? 迷いを抱えた薬屋に苛立ちを感じて手を振り払ったのも、落ち着かない気分になってオアウェルの集会所から逃げ出したのも、そんな願望に集約するのだろうか。
 テリオンは風で乱れたマフラーを巻き直す。とにかくハンイットの木の実を渡しに行こう。
 集会所のある対岸に渡るため、橋板を踏む――と、その先に件の薬屋がいた。彼は橋の真ん中に立って崖の彼方を見つめている。
「どうした薬屋」
 思わず声をかける。彼はテリオンが集会所を出た時よりも消沈した様子で、こちらを見ずに答えた。
「オーゲンがな……倒れちまって」
 あの薬師もオアウェルで流行っている病にかかったのだろうか。しかし、それなら薬が十分揃っているはずだ。彼がこれほど落ち込むということは、相当悪い症状か、はたまた別の病なのか。
 以前プリムロゼはオーゲンについて「私と同じ目をしている」と言っていた。確かにあの黒衣の薬師は、暗い道に足を踏み入れた者特有の影をまとっていた。そこには病魔も含まれていたのかもしれない。
 薬屋はこぶしを握り、体を震わせる。
「くそ、俺は何もできねえのか……? 薬で病を治すだけで手一杯なのによ、人ひとりの人生なんて俺の手にはでかすぎるぜ。俺はただの……小さな人間だ」
 その苦しげなつぶやきを耳にして、テリオンはつい口を挟んだ。
「そうでもない」
「え?」
「薬で病を治すだけ、ができないやつが大半だろ」
 薬屋はぽかんとして振り向く。テリオンはまっすぐ彼に目線を合わせた。
「おたくは、その鞄から取り出した薬で俺や他のやつらを治してきた。だから皆が五体満足でいられるんだ」
 これだけ長い間あちこち旅をして、危機的な状況を幾度もくぐり抜けたにもかかわらず、全員大きな怪我も病もなかった。神官の魔法は毒や病気には無力だから、薬師の存在は非常に大きかったと言える。
 テリオンはそのままの勢いで畳み掛けた。
「おたくはクリアブルックの洞窟のこと、覚えてるか」
「マンダラヘビの毒を抜いた時か?」
「そうだ。あの時おたくは俺をただで治した。その後もだ。あれから何度も何度も無償で薬を使ってきた」
「そりゃあテリオンは仲間だから……」
 目を泳がせる彼に、テリオンは静かに言葉を続ける。
「じゃあ俺が盗賊だと知った時、どう思った? 俺はおたくに治療された後も、いろんな奴から山ほど持ち物を盗んできたぞ」
「それは……」
 顔を歪めて絶句する薬屋を、テリオンは食い入るように見つめる。どうしてもその答えを聞きたかった。ミゲルとテリオンは何が違うのか――薬屋が仲間と呼び、その他の人物と区別する理由は何なのか。
 空は雲に覆われ、麦穂色の髪は鈍く沈んでいる。風の音に混じるように、薬屋はいつになく小さな声で答えた。
「確かにあん時はびっくりしたよ。あんたを受け入れたのは、サイラス先生が認めてたからっていうのもある。
 でもな、俺はやっぱり、あんたが盗賊だと知ってても治したと思う。それは……あーうまくまとまらねえ。とにかく、あんたがあんただったからだ!」
 薬屋は頭を抱える。テリオンは半眼で彼をにらんだ。
「どういう意味だ、それは」
「俺にも分かんねえよ。でも、テリオン以外の盗賊だったら違ってた気がするんだ。あーあ、これが分かれば悩みなんて消えるのかねえ」
 薬屋は髪をかきむしる。やがて衝動が落ち着いたのか、
「……悪いな、気ぃ使わせちまって」
 わずかに頭を下げた。その表情にはまだ溶け切らないものがあった。
 やはり、自分の言葉では彼をどうこうすることなどできないのだ、とテリオンは実感した。とっくの昔に分かっていたけれど。
 彼は持ったままになっていた木の実を渡した。
「持っていけ。ハンイットからだ。これでも食べて休憩したらどうだ」
「お、助かるぜ。みんなも小腹が空いた頃だろうしな」
 薬屋は木の実をしまうため、ごそごそと鞄を漁った。その拍子にひらりと紙が落ちる。奈落に吸い込まれる前にテリオンが拾い上げた。
「なんか出てきたぞ」
 便せんのようだ。ゼフ――クリアブルックの友人の名前が書いてある。テリオンは漠然とした予感を覚え、薬屋に握らせた。
「おたく宛だ」
「なんだこれ……手紙?」
 薬屋はかさりと紙を開き、文面に目を通す。その横顔がみるみる真剣になっていった。
 手紙に何が書かれていたのか、テリオンは知らないし知る気もない。だがその一枚の紙は、薬屋に劇的な変化をもたらした。
 手紙を読み終え、彼はゼフ、と唇を動かす。
「恥ずかしいこと書きやがって……だけど、ありがとよ。
 うっしゃ、もう悩まねえぜ、決めた!」
 叫びとともにこぶしを振り上げた薬屋は、晴れ空のような笑みを浮かべていた。オアウェルの橋の上に、雲を割って陽光が差し込む。
 何故だか「戻ってきたのだ」という感慨がテリオンの胸に湧いた。それはいつかゴールドショアで見たような、迷いなく人々を救う薬師の姿だった。
 彼はにこやかにテリオンを見返す。
「時間かかっちまったな。俺、つまんねぇことで悩んでたわ」
 これまでの迷いを「つまらない」と言い切る男に、テリオンはそっと口の端を持ち上げる。
「少しはマシな顔になったな。さっきまでは干し柿のようだったぞ」
 薬屋は鼻の下をこすり、眉毛を微妙な角度に動かした。
「おいおい、干し柿ってなんだよ」
「じゃあ枯れ草だ」
「もっと分かんねえって。ま、いい男になったってことか? ダチに励まされたもんでね」
「ダチというと、あいつか」
「そう、ゼフさ。鞄に手紙を隠すなんて、まったく水くせえやつだぜ!」
 彼の薬鞄は、元はゼフの持ち物だったらしい。クリアブルックの薬師二人は、互いの鞄を旅立ちの日に交換した。ゼフはその時点からすでに手紙を仕込んでいたのだろう。
「いい友人を持ったな」
 テリオンは率直な感想を述べた。ゼフという男は、他の誰にもなし得ないことを手紙ひとつでやり遂げたのだ。
「へへへ」と照れくさそうにする薬屋を横目に、
「……お前は、何があってもその友人を信じられるのか」
「あったりまえよ!」薬屋は胸を叩く。
「仮に、お前を裏切ったとしても?」
 試すように尋ねてしまった。それでも薬屋は大きくうなずく。
「もちろんさ。あいつが俺を裏切ったとしたら……妹のニナに泣いて頼まれてとか、なんか理由がある時だ。だから、そん時はそん時さ」
 彼はテリオンがどうやっても手に入れられないものを、当たり前のように掴み取っていく。それはゼフとの間に何年もかけて築いた関係があるからだろう。
 大した男だな、とテリオンはひとりごちた。
「え?」
 薬屋がとぼけた顔で聞き返したが、答えてやらないことにする。
 崖の間に風が吹き渡り、紫のマフラーと緑の上着を揺らした。薬師など、テリオンにとっては崖の対岸にいる存在だとばかり思っていた。それなのに今、二人は並んで橋の上に立っている。不思議な心地だった。
 谷底にはルーベの森から見えた大瀑布を水源とする豊かな川が流れている。あの水が緑を育て、やがてはリバーランドの大河と同じく中つ海に注がれる。別々の流れが最後にはひとつになる――それは何かの暗示のように思えた。
 軽く腕を回した薬屋がにかりと笑う。
「俺、これからオーゲンのとこ行ってくるわ。なんとかしてあいつを治してやるんだ」
「ああ、行ってこい」
 彼は手紙を掴んだまま駆けていく。新たな決意を負った背中を、明るい日差しが照らしていた。
 もう悩まないと決めた彼は、旅立ちの時とまったく同じ気持ちに立ち返ったのかもしれない。だが、一度は折れかけた心が持ち直したのだ。いつかまた大きな問題に行き当たったとしても、彼は自力で解決できるだけの力を手に入れた。
 薬師アーフェン・グリーングラスは、豊かな水と陽の恵みを受けて育つ野草のように、どれだけ踏みつけられてもまた高みを目指す活力を持っている。
 テリオンはふっと表情を緩め、きびすを返した。
 その後、ふと思い立って宿の厨房に向かった。忙しく立ち働くハンイットに「何かやることはあるか」と尋ねようとした時、何故か慌てた様子の薬屋がやってきた。
「オーゲンの薬を作るために、テングワシっていう魔物の羽が必要なんだ。ハンイットなら何か知らねえか……?」
 テリオンは思わず狩人と顔を見合わせた。



 リバーランドの小村クリアブルックには、以前訪れた時と同じように停滞した空気が流れていた。柔らかな日差しが家々に降り注ぎ、豊かなせせらぎの音が耳を癒やす。
 テリオンはもはや罪人の腕輪を隠さず堂々と歩いた。丘の上にいるあの老婆には鋭い目を向けられるだろうが、もう気にするつもりはない。
「村に戻るのも久々だぜ! にしても、あんたもついてくるのかよ」
 隣のアーフェンがこちらに愉快そうな目を向ける。
「別にいいだろ、あの友人の顔を見るくらい」
「やっぱりあんたとゼフって仲いいのか?」
「そんなわけあるか」
 二人は会話しながら小さな橋を渡って一軒の家を訪れる。玄関を開けると、途端にぷんと薬のにおいが漂った。
「ただいまゼフ!」
「アーフェン、おかえり!」
 ゼフは満面の笑みで出迎えた。見た目こそ柔和だが、彼がなかなか油断ならない人物であることを、テリオンはよく知っていた。アーフェンはゼフの肩を気さくに叩く。
「俺がいない間もちゃんと仕事できてたのかよ?」
「ああ、ニナが手伝ってくれてね。いろいろ問題もあったけど、ひとつずつ一緒に解決していったんだ。アーフェンは?」
「お、俺も……村の外でも全然余裕だったぜ!」
 彼は盛大に目をそらす。もう隠す気ないだろ、とテリオンは口を挟みたくなる。
「テリオンさんも、アーフェンに付き合ってくれてありがとう」
 にこやかな視線を受け、テリオンは黙ってあごを引いた。邪魔者がいる以上、例の賭けについてはまだ話せない。
 水面下でのやりとりに気づかず、アーフェンははしゃいだ様子で話を続ける。
「そうそう、手紙にも書いたけど、テリオン以外にも仲間が増えたんだ。今はみんな宿にいるぜ」
「そっか、あとで紹介してよ」
「もちろん!」
「ところでアーフェンはどうして帰ってきたんだい?」
 その質問に、彼はやや改まって答えた。
「実は、恩人さんの行方が見つかったんだ」
 意外な返事だったのだろう、ゼフは目を丸くする。アーフェンはかいつまんで事情を説明した。
 オアウェルで悩みを振り切った彼は、ルーベの森に赴きテングワシの羽を手に入れ、オーゲンの病を治した。オーゲンは、かつてアーフェンがかかったものと同じ死の病に蝕まれていたらしい。幼いアーフェンはたまたま恩人から薬の製法を聞いており、おかげで即座に材料を探しに行くことができた。
 無事に病気を克服したオーゲンは、なんと恩人の知り合いだった。彼によると、すでに恩人は亡くなったのだという。
「名前はグラムさんだ。いつか家族と会えたら挨拶してえな……。奥さんは亡くなったらしいけど、子どもがいるかもしれねえし」
 アーフェンはオアウェルの空き地を借りて、勝手に恩人の墓を作った。無断で父親を弔われたと知ったら子どもはどう思うのだろう、とテリオンは余計なことが気になった。
 ゼフはふっと目を細めた。
「そうだね……僕も恩人さんの家族に会ってみたいな。つまり、アーフェンの旅は一区切りついたんだ」
「おうよ!」
「で、いつ旅立つの?」
 すかさずゼフが尋ねる。テリオンは目を見開いた。
「何日かゆっくりしたらな。ゼフがちゃんと仕事できてんのか確かめねえと」
 アーフェンは少し意地悪な笑みを浮かべる。どうやらまだ旅についてくるつもりらしい。まあ、竜石を見つけるまでの間くらいは付き合ってもいいだろう。ゼフはアーフェンの言葉の端々から、今回の帰還は一時的なものだと察したようだった。
「てわけで今日は、恩人さんのことを報告しに来たんだ」
「話してくれてありがとう。お母さんにも教えてあげたらいいよ」
「そうそう、これから行ってくるわ。じゃあまたな、ゼフ」
 ほとんど一方的に話をした挙げ句、アーフェンは近くの丘の上にある母親の墓に出かけていった。
 家に残ったのはテリオンとゼフだけだ。妹のニナは友達と遊びに出ているらしい。
「……賭けは俺の負けだ」
 テリオンが開口一番にそう告げると、ゼフは目を丸くした。
 二人の間の話題などひとつしかない。彼らは「アーフェンが旅を経て変わるかどうか、甘い方針を貫けるかどうか」でささやかな賭けをしたのだった。しかも、賭けるのは金ではなく気持ちだった。そしてテリオンは負けを認めた。
「それなりに長く旅をしたが、あいつは何ひとつ変わらなかった」
 鞄に手紙を託したゼフだけでなく、他の旅の連れも――きっとテリオンもその後押しをした。皆が彼に「変わらないでほしい」と願った。そしてアーフェンは友人の助けを借りて、危ういところを乗り切ったのだ。
 ゼフは首をかしげる。
「でも、アーフェンの旅はまだ終わってないんですよ? 結論を出すのはちょっと早いんじゃないかな」
「これからあいつが変わると思うか?」
「それはまあ、お楽しみってことで」
 ゼフは相変わらずにこにこしている。あんな手紙を鞄に潜ませたあたり、賭けの前から勝ちを確信していた可能性がある。まったく抜け目のない男だ。
「一応言っておくと、あいつの旅はずっと順調だったわけじゃない。いろいろあったがあいつは持ち直した。それは友人のあんたの手紙のおかげだった」
 テリオンは薬屋本人が隠したがっていたことをおおまかに話してやった。ゼフがぱっと顔を明るくする。
「あの手紙が役に立ったんだね。でも、それを言うならテリオンさんの影響もあるんじゃないかな」
 予想外の切り返しに、テリオンは息を呑む。
「どういう意味だ」
「二人は友達だから、互いに影響だって受けるさ。テリオンさんもすごく変わった。腕輪は隠してないのに雰囲気がぜんぜん違ってて驚いたよ」
「は」
 楽しげに語るゼフに対し、テリオンは絶句した。おかしな単語が台詞に混ざっていた気がする。
「俺とあいつが何だって……?」
「テリオンさんとアーフェンは友達だろ? ずっと旅してきたんだし。少なくとも向こうはそう思ってるんじゃないかな」
 この男にしては的外れなことを言うものだ。だが、きっぱりと否定するには相手の思い込みが強すぎた。テリオンはどうにもくすぐったい気分になった。薬屋のよく言う「ケツがかゆい」というのは、こういう心地なのかもしれない。
 ゼフはすうっと遠くを見るような目になった。
「アーフェンが村を出てから、僕もしばらく元気が出なかったんだ。あいつは太陽みたいなやつだから、そばにいないとさみしかった。でも、やっぱりアーフェンは旅立って良かったと思う。村の外まで照らせるなんて、友人として誇らしいよ」
 聞いているこちらが恥ずかしくなるような話を、ゼフは平然と言ってのけた。きっと例の手紙も赤面ものの内容だったのだろう。
「これからもアーフェンに付き合ってやってね。よろしく、テリオンさん」
 テリオンはつとめて表情を消し、小さく首肯した。
 ゼフの言う通り、自分は変わったのかもしれない。一度会ったきりでしばらく顔を見なかった相手に指摘されると、それらしい気がした。クリアブルックの風景を退屈だと思えなくなったのは、そのせいか。
 外に出ると、草花の芽吹く匂いがした。



 クリアブルックの丘の上、中つ海に注ぐ大河を見下ろす場所に、その墓石はある。
 しゃがんでいたアーフェンが裾を払って立ち上がった。墓の前には真新しい花束が供えてある。彼はこちらに手招きした。
「お、来たか。紹介するぜ母ちゃん、俺の仲間のテリオンだ!」
 馴れ馴れしい発言に、テリオンは顔をしかめる。
(仲間か……まあ、友人よりはましか)
 とはいえ、彼はずっと認められなかった「仲間」という存在を、今になってすんなり受け入れていた。
 テリオンは墓に向かって黙礼した。近くに並ぶ他の墓石と違い、まだ新しくつるつるした表面だ。前回この村を訪れた時、「一年前に母親が亡くなった」と聞いた覚えがある。
 彼は土の下に眠る者へ、心の中で語りかけた。
(あんたの息子は、いつか恩人を越えるだろう)
 いや、もう越えているのかもしれない。少なくともテリオンにとってはそうだ。恩人はもうこの世におらず、新たに誰かを助けることはない。代わりにアーフェンは、今後も人を選ばず病気や怪我を治していくのだろう。
 薬師アーフェンはこのままで進んでいけると、テリオンは確証を得た。たとえ今の仲間と離れても、傍らには常に誰かがいる。まわりを照らし、人の輪をつくりながら薬を配る――彼は心に太陽を持つ男だった。
 テリオンは冷たい石に背を向けた。墓参りを終えた二人は並んで丘を降りていく。アーフェンは頭の後ろで腕を組んだ。
「あのさ、テリオン。その……最初は無理やり旅についてきて悪かったな」
「なんだいきなり」
 テリオンは面食らった。アーフェンは自身の強引さを理解していたらしい。今更謝られても、もうどうでもいいのだが。
「旅慣れたあんたがいなかったら、俺はもっと苦労してたと思う。助かったんだぜ、これでも」
「……そうか。俺も、おたくの薬には助けられた」
「いいってことよ。お互い様だぜ」
 彼は屈託なく笑う。何か裏があるのでは、と勘ぐるのが阿呆らしくなるほど無邪気な顔だ。実際、彼のように裏表などまったく存在しない人物がこの世にいることを、テリオンは旅の中で思い知った。
 アーフェン以外の薬師と出会っていたら、テリオンがこんな実感を覚えることはなかっただろう。アーフェンは「自分にできるのは薬を練るだけ」と言うけれど、その底抜けの明るさが頼りになる時もある。
 二人は仲間たちが待つ宿に向かって、わざとのんびり歩いた。あくびが出るような陽気とのどかすぎる景色が、川面の反射光とともにテリオンの記憶に強く焼き付いた。
「で、テリオン、次はどこ行くんだ?」
「知らん。学者先生が決めることだ」
「あんたそればっかりだなあ」
 アーフェンは呆れたように肩をすくめてから、見えないジョッキを片手であおるようにする。
「久しぶりに帰ってきたんだし、景気づけに一杯行くか?」
 にやにやする彼を尻目に、テリオンは真顔になって立ち止まる。
「アーフェン」
「おう」
「……そういうところ、オーゲンに負けてるぞ。あいつはもっと節度を守って飲んでた」
「うるせえな!」
 誰よりも声のうるさい男が言うので、テリオンは思わず笑ってしまった。アーフェンは一瞬呆気にとられた顔をした後、不満げに眉をひそめる。
「あんた、ここに来る直前に『酒でも飲みたい気分だ』って言ってたじゃねえか」
「そんなこと言ってない」
「いっつも意識しないで言ってるのが怖えんだよ! テリオンこそいつか酒浸りになるぞ」
 昼間から口を開けば酒の話題ばかりである。薬師としてどうなのだ、と思う一方で、テリオンは少し浮き立つような気分になっていた。この村で飲むならゼフを誘ってもいいかもしれない。前に酒は苦手だと言っていたから、意趣返しをするチャンスだ。
 その時、ふとテリオンの脳裏に閃くものがあった。
 取るに足らない話題で盛り上がり、ともに食卓を囲む――もしかして、これが友人というものなのだろうか。
(まさかな)
 彼はかぶりを振ってその考えを追い出した。
 旅の中でささやかな友誼を結んだ二人の行く先は、遮られることのない太陽に照らされていた。

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