この地を去る前に

 眼前に広がる大陸に、ひとつの星が灯った。
 青い光は見る間に輝きを増していく。エルフリックは天の宮殿のバルコニーからその様子を眺め、ほうと息をつく。
「お、式年奉火……だっけ。あれが終わったんだな」
 音もなく隣に現れたのは末弟のエベルだった。エルフリックはそちらを見ずに問う。
「何の用ですかエベル」
「あんたと一緒さ。大陸の様子を見に来たんだよ」
「言葉遣いを改めなさい。年長者に対する敬意がありません」
「へいへい、エルフリック様」
 エベルはにやけながら頭の後ろで手を組む。相変わらずの気楽な態度だった。実質的に仕事がないにしろ、神だというのに気が抜けすぎである。エルフリックがそれを指摘しようとした時、先にエベルが口を開いた。
「にしてもあの儀式も何回目だ? 案外飽きないんだな、人間って」
「毎回別の者が運び手を担当しているようですから。廃れることはあっても、飽きるという概念はないのでしょう」
「ふうん」
 エベルは危なげなくバルコニーの手すりの上に飛び乗った。片手をひさしのように目の上にかざす。
「あの時の炎も、よく残ったもんだなあ」
 大陸に灯る三つの青を見下ろすかれは、過去の出来事を思い出しているに違いない。エルフリックは口角を上げた。
「あなたがわたしから奪った炎ですからね。それだけしぶといのでしょう」
「その話はやめろって」
 エベルは顔だけ振り返って露骨に嫌そうな声を出す。エルフリックは少し愉快な気分になり、はるか千数百年の昔を回想した。
「まったくあの時は驚きましたよ。あなたがいきなりいなくなるものだから――」



「納得がいかない」
 エルフリックの元を訪れたエベルは、開口一番にそう言った。血のにじむ衣を面倒くさそうに払い除け、こちらをねめつける。
「とある用事」を片付けたばかりのかれらは疲弊し、力を失っていた。エルフリックは末弟に対抗するように目をすがめる。
「兄上の決定に従えない、ということですか」
「そうだよ。だっておかしいだろ。あいつは地の底に封じたってのに、なんで俺たちがこの地を去らなくちゃいけないんだ!」
 エベルの両目が吊り上がり、全身から怒気があふれる。めったにないほど負の感情をあらわにする末弟に、エルフリックは気圧された。
 きょうだいであったはずの魔神ガルデラが反旗を翻した。それを十二神が協力して鎮めたのが少し前のことである。その後、長兄アレファンは「私たちはオルステラ大陸を出て天界に行く」と決めた。
 エルフリックも文句がないわけではないが、兄の決定に従うつもりだった。エベルがこれほど反発するのは予想外だ。これはもう何を言っても聞かないだろう。
 いっそのこと力でねじ伏せてしまおうかと画策した時、こつこつと足音が近づいてきた。
「私たちは地上を荒らしすぎたんだ。もう人間たちとともに生きていくことはできないだろう」
「兄上」「長兄!」
 かれらが住まう宮殿に涼やかな声を響かせたのは、一番上のきょうだい――碩学王の異名を取るアレファンであった。かれは思慮深いまなざしを暗く沈める。
「いずれこうなることは分かっていた。そのタイミングが早まっただけだよ」
 アレファンは自らに言い聞かせるように唇を動かす。エベルはうつむき、体をぶるぶる震わせた。
「それでも俺は……やっぱり嫌だっ」
 かれはぱっと身を翻し、走り去ってしまった。
 アレファンはエルフリックと顔を見合わせ、肩をすくめる。
「なかなか納得してもらえないか……」
「仕方ありませんよ。エベルはとりわけ人間との交流が深かったのですから」
 それはアレファンもよく知っているだろう。かれは難しい顔でうなずいた。何かと心労を抱え込みがちな長兄を慮り、エルフリックが胸を張る。
「わたしがエベルを説得してきましょう。それでだめなら、引きずってでも天界に連れて行きます」
「そ、それは……お手柔らかに頼むよエルフリック……」
 アレファンは引きつった笑みを浮かべる。そんなに甘いから末弟に舐められるのだ、とエルフリックは顔をしかめた。
(やはり、わたしが兄上を支えなければ)
 決意を新たにして宮殿を歩く。が、どこを探してもエベルは見つからなかった。廊下できょうだいとすれ違う度に行方を尋ねるが、皆が首を振る。
 どう考えてもおかしかった。まさか、本調子でないまま宮殿を出たのだろうか。
「エベルならあなたの部屋に行ったわよ。何か用があったんじゃないの」
 不安にかられるエルフリックに対し、たまたま顔を合わせた舞踏姫シルティージが廊下の先を指さした。
 そんなはずはない。末弟はエルフリックのもとを去ったのだから。それなのに部屋に向かったということは――
(まさか)
 シルティージへの礼もそこそこに、エルフリックは走り出した。
 エルフリックの部屋は、すなわち神官の象徴が飾られた祠である。一歩足を踏み入れた途端、全身から血の気が引くのを感じた。
(やられた……!)
 中央に置かれた燭台が空になっていた。エルフリックが天から持ち帰った星の炎である。ガルデラの封印にも一役買ったものなのに、それがない!
「エベルが持って行ったのだろうね」
 背後から落ち着いた声がした。エルフリックははっとして振り向く。気づけばそこにアレファンが立っていた。
「そんな……一体どうして?」
「かれなりの考えがあるんじゃないかな。放っておけばいいよ」
 長兄はからりと笑う。この兄は何かと危機感が薄いのだった。
 エルフリックはため息をついて窓の外を覗いた。昼の大陸は明るい太陽に照らされている。エベルはあそこに住む人間たちに最後の別れを告げに行ったのだろうか? だが、それならわざわざ炎を持っていく理由がない。
「夜には戻ってくるさ。心配ない」
 重ねてアレファンが請け負うと、エルフリックは唇を尖らせた。
「……後できっちり説明してもらいます」
 アレファンは苦笑のさざめきに肩を震わせた。



 夜も更けた頃、エルフリックはバルコニーに出て夜の大陸を眺めていた。
 突然、手すりの向こう側からにゅっと見覚えのある手が生える。末弟エベルは軽々と体を持ち上げ、エルフリックの眼前に降り立った。盗公子らしく、壁伝いに下から登ってきたらしい。
「ただいま」
 エベルは気さくに挨拶した。その手は空っぽである。
「……あなた、炎はどうしたのです」
 エルフリックがにらみつけると、末弟はにやりとした。
「隠してきた」
「どこに」
「さあ、どこでしょう?」
 ふざけた答えが返ってきて、エルフリックは柳眉を逆立てる。さらに厳しく問い詰めようとした途端、エベルはバルコニーから身を乗り出して彼方を指さした。
「そんなことよりエルフリック、見てみろよ」
 促されるまま大陸に視線を飛ばす。
 直後、エルフリックは息を呑んだ。よく目を凝らせば、暗い大陸のあちこちに青い炎が灯っていた。数はたった三つだが、まるで夜空が地上に降りてきたかのような眺めだった。
「あれは……」
「星の炎さ。これなら天界に行っても大陸の様子がよく見えるだろ。あ、例の種火は分かりにくいところに隠してやった。まあいつか誰かが見つけるだろ」
 エベルはけらけら笑っている。これぞ彼が盗公子と呼ばれるゆえんだ。エルフリックからするとただのいたずら好きだが、人間たちは案外ありがたがっているらしい。
 呆然とするエルフリックを尻目に、エベルは目を細めて天を仰いだ。
「空の上に行ったら星がよく見えなくなるからな。……アレファン、太陽の象徴のくせに夜空を見るのが好きだったよな」
 だからエベルは大陸に炎を灯したのだ。天界からも星空が見えるように、と。
「もう大好きな地上の書物も読めなくなるんだし、ちょっとはあいつのわがままが叶ってもいいだろ」
 ああ、やはりエベルはこういう子だった。エルフリックは肩の力を抜く。
「兄上はそういう方ですから。しかし、考えがあるなら先に言ってください。一応心配していたんですよ」
「あんたと別れた直後に思いついたから、言う暇なくてさ」
「まったく。……まあ、どのみちあの炎は置いていくつもりでしたから、構いませんが」
 大きな力を持った青い炎は、また何かの役に立つかもしれない。エルフリックたちが大陸にいなくても、炎が人間たちを導くのだ。
 エルフリックはエベルと並んで、地上に灯った星を心ゆくまで鑑賞した。
 やがてあることに気づき、末弟を振り向く。
「つまり、あなたも天界に行くということでよろしいのですね」
「……まあ。みんなと一緒なら、いいよ」
 その小さな本音を聞いて、エルフリックは相好を崩した。
「当たり前です。全員で行くのが絶対条件です」
「……だよな!」
 エベルはにかりと笑った。



 話しこむうちに、いつしか日が暮れていた。眼下に見える大陸がだんだん星空へと変わっていく。繰り返す日々の中で、エルフリックは毎回この瞬間に言葉にならない感慨を覚える。
「今夜もオルサの大地がよく見えているね」
 長い長い昔話の終わりに、長兄アレファンが登場した。大人しくエルフリックの語りに耳を傾けていたエベルは、ぎくりと身をかたくする。
「……もしかして、今の話聞いたのか?」
 かれとしては、大陸を去る直前の出来事はどうしても長兄に隠し通したかったのだろう。耳が赤くなっている。
「ああ、まあ」アレファンは気まずそうにうなずいた。
「もちろんです。兄上に聞こえるように話していたので」
「この意地悪エルフリック……」
 エベルはむすっと眉根を寄せる。アレファンは眉を下げて苦笑いした。
「それにしても、まさかエベルがそんなことを考えていたとは。いや、キミがあの炎を灯したこと自体は知っていたけど、私はてっきり……」
 そこで何故かアレファンは慌てた様子で口をつぐむ。エルフリックはなんだか嫌な予感がした。
「てっきり、何?」
 エベルも似たようなことを感じたのか、長兄に向かってすごんでみせる。
「……私の活動時間の昼間には絶対見られないものだから、嫌がらせかと思っていた」
 困ったように首を振るアレファンに、エベルは盛大に肩を落とす。
「長兄ってそういうところあるよな……」
 さすがにエベルがかわいそうになった。エルフリックがじと目で見つめると、アレファンは急いで弁解する。
「すまない、これからは気をつけて見るようにするから!」
「千年越しに気づくとか鈍すぎだろ」
「兄上、今回ばかりはフォローできません」
 エベルはそのまま長兄に文句を畳み掛ける。エルフリックは息を吐いてほおに手を添えた。
(わたしがいないと、このきょうだいはだめですね……)
 抜けたところのある長兄も自由気ままな末弟も他の者たちも、エルフリック抜きでは話が回らないだろう。それは大陸に住む人々を見守ることと同じくらい大切で、いつまでも引き受けていたい役割だった。
 とぼけた会話を交わす神々の足元では、星の炎が静かに瞬いていた。

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