わたしがゆく道

「うーん、美味しい!」
 トレサは大きく口を開けてパイをほおばり、しっかり嚥下してから歓声を上げた。テーブルに広げられた食事はみるみるうちに消えていく。
「アトラスダム近海の魚介ってこんなにいい味してるのね! リプルタイド産にも負けてないわ」
「濃厚な味わいのシンクガニに、あえて軽いクリームを合わせることで食べやすくしているのだね」
「どう焼いたらこんなにさくさくしたパイ生地になるのかしら?」
「生地そのものの材料や練り方、それに窯の温度と……ううむ、なんだろう。次の機会に訊いてみようか」
 アトラスダムの酒場にて、トレサとサイラスの二人は途切れることなく感想を言いながら、結構な勢いでパイを平らげる。その横に座るオフィーリアは「リアナにも食べさせてあげたいです」と、にこにこしながら上品に小さな切れを口に運んでいた。
 思い思いに食事を楽しむ三人を、ハンイットはテーブルの上で手を組んで眺めていた。
「ハンイットさん、どうしたの?」
 料理に熱中していたトレサが不思議そうにこちらを見つめる。ハンイットは未だ空のままの取り皿を前に、
「いや……トレサの食べっぷりを見ていたら満足してしまってな」
「えーっそれってどういうこと!」
 大声で騒ぐトレサに、オフィーリアは「とてもおいしそうに食べているということですよ」とほほえみかけた。
 彼女たちの旺盛な食欲にいまいち同調しきれていなかったのは事実だ。正直に話すと少し気が抜けて、ハンイットはようやっとパイに手をつけた。
「……確かに美味しい」
 獣の肉からは決して生み出されない風味だった。ミルクと卵にやわらかく包み込まれたカニが、パイ生地のほのかな塩味とうまく組み合わされている。さっそく足元のリンデに与えてやると、まんざらでもなさそうにがっついていた。
「へっへーん、この名料理が生まれたのはあたしのおかげなんだから!」
 思いっきり胸を張るトレサ。ハンイットは大きくうなずいた。
「城下町」など、これまでの人生ではついぞ縁のない場所だった。そんな町で仲間と呼べる三人と一緒に食事することになるのだから、旅とは不思議なものだ。
 そもそも、ボルダーフォールからさらに西を目指していたはずの一行が、何故フラットランドに来ているのか。それは一行の中心人物であるサイラスが、ウォルド王国に呼び戻されたからであった。
 彼は王室に直接命を受けて、アトラスダムの王立図書館から盗難された本を探しているらしい。その手がかりが見つかったため一度戻る必要があるのだ、とボルダーフォールで手紙を受け取ったサイラスは説明した。そこで一番近い港に赴き、東に向かう船便を調べたところ、リプルタイド行きを見つけた。たまたま訪れることになったコーストランドの港町では商人見習いのトレサと出会い、新たな旅の仲間に迎えることになった。
 サイラスが王宮に参内するのは明日の予定である。そこで聞かされる情報次第で次の目的地が決まる。もしかすると、思ったよりずっと早くストーンガードにたどり着くことになるのかも知れない。
(もしそうなったら、わたしは……)
 ハンイットは首を振ってその考えを頭から追い出した。もう一切れパイをほおばる。
「まあ、最初はサイラス先生が聞いてきた話だったんだけどね」
 そうトレサに促され、サイラスは嬉しそうに喋りはじめた。
「トレサ君と二人で生鮮市場を訪れた時、たまたま見知った顔の料理人に出会ったんだ。彼は王宮に出入りしていてね、何度かすれ違ったことがあった。何かに悩んでいる様子だったので声をかけたら——」
 彼は王に献上する料理の案を練っていた。メニューはなんとか思いついたが、望みの食材が手に入らず試作することができないのだ、と話してくれたという。
「そこであたしの出番よ。特上の牛乳でしょ、シンクガニでしょ、大鶏の卵でしょ。市場で流通してないものもあったけど、たまたま見つけた漁師の人から直接買い付けたりして、全部見事に揃えたってわけよ!」
 トレサは鼻高々といった調子で反っくり返る。彼女にとって、アトラスダムはリプルタイドを旅立ってから初めて訪れた町だ。故郷を出て早速商人らしい働きができたことが誇らしいようだ。
 その時ハンイットはオフィーリアと一緒に別行動していたので、このパイが出来上がった経緯を知らなかった。酒場で合流するといきなりパイが振る舞われ、目を丸くしたというわけだ。どうやら料理人が試食用に多めに作ったものを、お礼として分けてくれたらしい。
 ハンイットの口内には都会らしい上品な味が広がっている。これほどの料理を、自分やリンデばかりが味わうのはもったいない。だから——
「師匠がこれを食べたら、なんて言うだろう」
 自分でも気づかぬうちにそう漏らしていた。
 我に返る。三者三様の気遣わしげな目線がこちらに向いていた。
(しまった)
 二の句が継げず、ハンイットは不自然に黙りこくってしまう。
 こういうことは決して言うまいと思っていた。ともに旅する仲間たちの中で、下手をすると人命に関わるような切実な目的があるのはハンイットだけだ。それを三人の負い目にさせるわけにはいかない。
「ザンター氏は、こういう食事がお好きなのかな」
 気まずい沈黙を破ったのはサイラスだった。ハンイットはゆっくり呼吸し、心を落ち着けて答える。
「さあな。あの人は、わたしがつくったものはなんでも食べたから」
 一緒に狩りに出かける時、食事を用意するのはハンイットの役割だった。持ち運びやすく食べやすい料理を考え、自分なりに工夫を重ねていた。師匠はおいしいとは言ってくれたが、どういったものが好みかは教えてくれなかった、と思い出す。
(……聞いておけばよかったな)
 足元でリンデが身じろぎした。テーブルの下で「気にするな」とでも言うように琥珀色の双眸が瞬く。まったく、相棒には何でもお見通しらしい。
「ハンイットさんはお料理上手ですものね」
 オフィーリアはうんうんとうなずく。彼女とサイラスには野宿の時に何度かふるまったことがある。「あたしも味わってみたいなあ」と新参のトレサが大真面目にうらやましがるので、ハンイットはなんだか照れくさくなってきた。
「そうだ、今度はザンターさんと一緒にこのパイを食べたいわね。いい食べ合わせのコースメニューも開発しなくちゃ!」
 トレサはこぶしをにぎった。一度手に入れた宮廷料理人とのつながりをより強固にすべく、あれこれ算段しているらしい。商魂たくましいとはこのことだ。
 その台詞に師匠の名前が出てくるのは、やはり——
(これは、気遣われているようだな)
 みんなハンイットの抱えた不安を察しているのだ。一層申し訳なくなる。
 先を急いでも仕方ない、ということは分かっている。むしろハンイットは、目下の目的地であるストーンガードにたどり着き、師匠の安否が確定してしまうことを恐れていた。
 シ・ワルキを旅立ってからしばらく頭の隅に置いていた悩みが、近頃復活していた。「大丈夫だろう」と「もしかすると」という正反対の気持ちが交互にやってくる。しかも、考えれば考えるほど悪い方に傾きそうになってしまう。
 いつも師匠と一緒だったハーゲンがひとりきりでシ・ワルキまで戻ってきたのは何故なのか。師匠は今頃どうしているのか。一年も放っておいたのはやはり間違いだったのか。……わたしばかり、食事を楽しんでいてもいいのだろうか。
 悩みに沈むハンイットの前に、パイが載った皿が差し出される。
「ハンイットさん」
 トレサだった。神妙な顔でこちらを覗き込んでいる。
「……なんだ?」
 また心配をかけたのか、と反省しそうになるが、
「あたしばっかり食べちゃってたから……。ハンイットさんだってまだまだ食べ足りないわよね! ほら、リンデにもたくさんあげて!」
 予想外の発言をされ、ハンイットは毒気を抜かれた格好になった。
「心配ごとなんて、お腹いっぱい食べてよく眠ったらだいたいなくなるわよ」
 あっけらかんとしたトレサの言葉は、胸にわだかまったものを押し流す軽やかな風のようだった。
 ハンイットは何度かまばたきして、視線を横に動かす。オフィーリアとサイラスは何故か似たようなほほえみを浮かべていた。
「だいたい、なんですね」「全部忘れちゃったら逆になんにもできなくなるでしょ」「ふふ、その通りだね」
 三人がかわすのんびりしたやりとりに、ハンイットは少し笑った。
(そうだ。わたしは決して逃げているわけではない)
 このひとときは、彼の地で待ち受ける事実としっかり向き合うためにも必要な時間だ。あるいは不安定な気持ちのままストーンガードに向かう方が、よほど危険なのかもしれない。ハーゲンが必要以上に急かさないのもそのせいだろう。
 ハンイットはありがたく皿を受け取った。アトラスダムの料理人がつくった渾身の力作は、冷めても美味しさが損なわれない素晴らしい出来だった。
「師匠が狩りの度に寄り道をしてくる気持ちが、少し分かった」
 どんな話も面白おかしく語る師匠だった。長い旅の中では気分の浮き沈みだってあるはずなのに、彼はハンイットにそれを感じさせたことはなかった。いつだってあらゆる出来事を自分の中で消化してから、笑顔でシ・ワルキに戻ってきた。
 師匠がそう振る舞えたのは、きっとたくさんの寄り道をしていたからだ。ただ目的を追うだけの旅でなかったからこそ、各地の美味しいものを心から味わい、ハンイットに楽しい土産話をすることができた。
(……だからといって賭けごとに走り、挙げ句の果てにエリザから借金をするのは論外だがな)
 あの時の気恥ずかしさを思い出して渋い顔になるハンイットに、トレサは笑いかける。
「そうそう。寄り道だって旅の醍醐味よ!」
「なら、借金をこさえないように気をつけなければな」
 ……借金? 顔を見合わせるトレサとオフィーリアに、何かを察して肩をすくめるサイラス。
 今のハンイットには仲間がいる。出身地も年齢も生業も、何もかも違う旅の連れだ。これからも三人にはたくさんのことを教わっていくのだろう。
(師匠と会えたら、真っ先に仲間たちを紹介しよう)
 旅の中で得たハンイットだけのかけがえのないものを、師匠に胸を張って自慢したかった。
 そう、その時にはトレサやサイラスに教わって、美味しい魚介のパイをつくるのもいいだろう。

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