陰と日向のモノローグ

 アトラスダム王立図書館の入口にて、その人は影のように佇んでいた。
「サイラスさん、イヴォン学長がお呼びです」
 特別書庫の蔵書の閲覧を申し出て、司書メルセデスの背を見送った直後、その人が現れた。ひそやかだがよく通る声だ。
「あなたは確か、学長の」
 誰何すれば彼女は「秘書のルシアです」と名乗った。
 墨色の髪と静謐な瞳を持つ女性である。しかし、妙に印象が薄い。確かに学院内で何度も会っているはずなのに、まともに言葉をかわすのは今回が初めてだった。
「学長室に来ていただけますか」
 彼女は静かに告げた。これは依頼ではなく命令だろう。分かったよ、と応じる。
 閲覧申請した本はまだ見つからないらしい。別の職員に「一旦席を外す」と司書への言付けを頼み、秘書と二人で外に出た。
 図書館から王立学院までの距離はごく短い。その道中、秘書が話しかけてきた。
「特別書庫の本の閲覧ですか」
「ああ、メアリー殿下にお力添えをいただいて、やっと許可がおりたんだ」
 聖火教会史という寄贈されたばかりの本を読むつもりだった。すると彼女は眉をひそめる。
「書庫の本の閲覧時間は限られています。その最中に呼び出されて、嫌がらせを受けた……とは思わないのですか」
 思わず目を瞬いた。まさか学長の秘書がそれを指摘するとは。落ち着いて答える。
「まあ、イヴォン学長はそのつもりだろうね。あなたは何故そのような話を?」
「……もったいない、と思ってしまって」
 歯切れの悪い返事だった。部外者がそれほど懸念すべきことだろうか。もしや彼女は学長への反発心を持っているのか? 常に学長の後ろに控える秘書、というイメージからはかけ離れた発言だった。
 学院へ向かう階段を並んで上る。建物の入口上部に飾られた王のレリーフを見つめ、声をひそめた。
「今の話は聞かなかったことにするよ」
「……恐縮です」
 大扉を開けて中に入り、すれ違う生徒たちに軽く手を挙げて挨拶しながら二階を目指した。
 ふと疑問が湧いて、秘書に尋ねる。
「そういえば、あなたは時々学院を留守にしていることがあるね。あれは何をしているんだい?」
 学長室を訪れると彼女が不在の時があり、前から気になっていた。秘書は小さく首を振る。
「学長の仕事を手伝って調査の旅に出ています」
 ほう、と息を吐いた。一体何の調査だろう。学長は学院の中ばかりを見ているという思い込みがあったので、少々意外な心地になる。
 今度は秘書の方から質問がきた。
「サイラスさんは旅に興味がおありなのですか」
「私が?」
 そのような反応をしたつもりはなかったのだが。旅に興味が――と自問自答して、すぐにかぶりを振る。
 生徒たちを放り出すわけにはいかない。確かに「いつかは外で知識を深めたい」という気持ちはあるが、今はそれよりもなすべきことがある。
「教師の仕事があるから、考えたことはないよ」
「それでは、あなたが何としてでも追いかけたくなる魅力的な謎があれば……どうですか」
 秘書の双眸が光る。その二つの深淵に、彼女の秘めたる思いが浮かび上がった気がした。
 しかし、きっぱりと断りを入れる。
「そのような仮定は無意味だろう」
 返事と同時に学長室の前に到着した。碩学王の使いである有翼の獅子の彫像が、こちらを威圧するように出迎える。
 まだアトラスダムで学びたいことは山ほどあった。だから、自分が旅に出ることはないだろう。
「サイラス・オルブライト、参りました」
 入りたまえとの許可を得て、学長室に踏み込む。秘書が逃げ道を塞ぐように後ろに続いた。
 ――学長の呼び出しが終わった後、聖火教会史の紛失から巡り巡って辺獄の書の盗難を知った結果、とびきりの謎を求めて自ら町を飛び出すのは、ほんの数日後のことだった。



 危なかった。
 ルシアは岩陰に身をひそめ、大きく息を吐く。南クオリークレスト崖道に吹き渡る風が、彼女の存在を隠すように土埃を立てた。
 あ、と思った瞬間には手遅れだった。幅広の剣を腰に提げた男がこちらの隠れ場所に視線を刺したのだ。彼は隊列に戻って紫の外套をまとった別の男に話しかけ、最後にサイラスと何やら会話していた。きっと尾行者の情報を流したのだろう。
 まったく油断ならなかった。あの青衣は噂に聞くホルンブルグの剛剣の騎士に違いない。あんな男とサイラスが組むことになるとは、思いもしなかった。
(まさか、七人も連れて大陸を一周しはじめるなんて……)
 ため息をつきたくなるような展開だった。
 学院から追い出されたサイラスは、こちらの目論見通り辺獄の書の調査をはじめた。まず西に向かって街道を進み、道中で神官や狩人を仲間に加えていく。アトラスダムを出たルシアは直接その足跡を追う愚は犯さず、ごろつきを雇ってそれとなく見張らせたり、目撃談を仕入れたりして旅程を逐一確認し、一足先にクオリークレストで待機していた。学院外の知り合いをほとんど持たない彼が、この町に住む先輩を頼るであろうことは想定済みだった。
 しかし、散々寄り道をしながらボルダーフォールにたどり着いたサイラスは、いきなり船を使ってアトラスダムにとんぼ返りしてしまった。どうやらウォルド王国に呼び出されたらしい。さらには途中の港町で商人を旅の連れに迎えている。この時点で十分に予想外だったが、とある村で一気に仲間が増えて、今や彼の連れは都合七人に雪豹までいる始末だ。
 長すぎる迂回の末、サイラスはやっとクオリークレストにたどり着いた。彼が寄り道する間、ダスクバロウの遺跡でじりじりしながら時間を潰していたルシアも、ようやく鉱山の町に戻ることができた。
 彼はこの町で血晶石を作成していたギデオンの存在を探り当てた。戦闘の結果ギデオンは敗北したが、大した痛手ではない。いつかは切り捨てようと思っていた駒だ。むしろ現在のサイラスたちの戦力が明らかになったことは大きな成果である。
 町を出て次の目的地へ向かう彼らの足取りを掴むべく、ルシアは身を潜めながら一行を追いかけた。そして剣士に勘付かれたのだ。やはり油断せず魔法で気配を誤魔化すべきだった。いつか来る対峙の時には、彼らからサイラスを切り離す術を考えなければ。
(本当に厄介な仲間ですね……)
 ルシアは大きさも色合いもばらばらの背中をにらみつける。剛剣の騎士だけでなく、あの銀髪の男も警戒すべき相手だろう。あまりサイラスに気を許していないようだが、旅慣れた雰囲気で勘が鋭い。どうやらギデオンの研究室を探り当てたのもあの男らしく、手強い予感がした。他にも狩人と雪豹は要注意だろう。こちらの想定外の能力を持っている可能性が高い。ルシアは主にこの三人が今後の障害として立ちはだかるのでは、と危惧していた。
 岩壁に背中をつけて息を整える。そろそろ十分に彼我の距離を確保できた頃だろうか。今度こそ存在を悟られぬように追わなければ――
 その時、こつりと硬い靴音がした。岩の向こうに誰かが立つ。血の気が引いた。
「何を目的に私を尾行しているのかは知らないが」
 涼やかな声はサイラスのものだった。彼は息を呑むルシアに構わず、言葉を続ける。
「仲間の旅を邪魔されては困るんだ。私は今後必ずストーンガードに立ち寄る。そこでなら、話し合いでも何にでも応じよう。きっとあなたは話の通じる人だろうから、穏便に済ませてくれると助かるよ」
 一方的な話が終わり、足音が遠ざかっていく。ルシアは体のこわばりを解いた。
 サイラスは尾行者を牽制しに来たようだ。しかし、どうしてこちらを「話の通じる相手」とみなしたのだろう。おまけに彼はこちらの正体を確かめずに去っていった。それは何故か――答えに思い至ったルシアは、久々に背筋がぞくぞくする感覚を得た。
 サイラスは己をつけ回す相手が学院の関係者であり、尾行の目的はただ彼を見張ることだと看破したのだ。どうやってそう判断したのかはルシアにも分からない。とにかく正体不明の相手に対し、この洞察力は並大抵のものではなかった。
 さらに「ストーンガードに行く」というのは、きっとギデオンの所持していた写本の材質から産地を割り出したためだろう。豊富な知識がなければ決してたどり着けない答えである。
(これだけの才能を持つ人ならきっと、私のことを――)
 自然と口角が上がっていたことに気づき、ルシアは口元を手で覆った。
 今、自分は何を考えたのだろう? 他人に何かを望んでも無駄なのに、彼女は他ならぬサイラスに期待してしまった。
 彼ならば、私のことを理解できるのかもしれないと。



「……もういいだろう? いつまで隠れているつもりだ」
 翻訳者ドミニクの家で辺獄の書の写本についての話を聞き終え、外に出た途端に視線を感じた。建物の陰へと声を投げる。
 相手はわざとこちらに気配を悟らせたのだろう。でなければ、ここまではっきりと感知できるはずがない。
「気づいていたのですか、サイラスさん」
 ストーンガードの石壁の向こうから現れたのは墨色の髪の女性――王立学院の学長秘書だった。
 偶然の遭遇ではない。秘書はずっとこちらを尾行していたのだ。おそらく、クオリークレストを出発した後に剣士が感じた視線の主も彼女だったのだろう。やはりな、と納得する。
 他に尾行者の候補としては、旅の道中で何度か対決した黒曜会の手の者を考えていた。しかし、その場合は踊子を標的にするはずだ。彼女ではなくこちらを監視しているということは、学院に関わる人物だろうと推測した。
 今回秘書が剣士にも盗賊にも捕捉されなかったのは、学者特有の魔法の効果だろう。こうして正面から対峙していてもどこか存在感が希薄だった。どうやら先ほどの一瞬だけ魔法を解除したらしい。
「ルシアさんだね。私に何の用かな」
 問いかければ、感情の読み取れない瞳がまっすぐに向けられる。少なくとも町中でこちらに危害を加えるつもりはないようだ。
 彼女は尾行した非を認めた後、「あなたは辺獄の書について探っているのですか」と質問した。素直にそうだと答える。すると彼女は、学長こそが特別書庫から辺獄の書を盗み、ギデオンに血晶石の作成を依頼したのだと語った。
「何故あなたはそれを知って、私に打ち明けたのかな」
 彼女の話をどこまで信じるかは別として、尋ねた。
「私はイヴォン学長の秘書ですが、その前に一人の学者です。学長が知識を悪用しようとしているなら、止めなければなりません」
 秘書は静かな熱を持って宣言した。
 写本の翻訳者の話と照らし合わせても、学長が黒であることはほぼ確定だった。彼は大勢の人を犠牲にして血晶石をつくり、さらに別のことを目論んでいるようだ。このまま見過ごせるはずがない。
 ひとつうなずき、一時的に彼女と協力することにした。最終的な判断は保留する。今後も秘書と手を組む場合は仲間たちに相談する必要があるから、「返答は後で」と言っておいた。
 この町には学長の生家がある。今は使われていないそこに秘密が隠されているのでは、と秘書が推理した。こちらも同意したので、連れ立って生家へ向かうことになる。
 身を翻そうとする彼女を引き止め、最後に一つだけ疑問をぶつけた。
「あなたは何故、魔法で気配を隠しているのかな」
 もしや後ろめたい事情があるのでは――という露骨な探りの視線にも彼女は動じない。
「学長に私の存在がばれてしまって、追手から逃げていたのです」
「追手がいるのかい?」目を丸くする。
「ええ、なんとか撒きましたが。追手は今頃私の流した噂に惑わされて、幻影の森に向かっているはずです」
 その森は数時間前に狩人らとともに滞在した場所である。こちらが翻訳者を探す間に、町の周辺は物騒なことになっていたらしい。
「ですから、彼らに見つかる前に学長の生家を調べたいのです」
 彼女は強く結論を述べた。そういうことなら、と首肯する。
 上街に向かって歩きはじめた秘書は、ちらりと横目を流してきた。
「……あなたはずいぶんお仲間が多いのですね」
「そうだね、ありがたいことだ」
 彼女があまり歓迎した様子でないのは、剣士や盗賊に勘付かれて肝を冷やしたからだろうか。あとで彼らにも事情を説明せねば、と思う。
「仲間とともに辺獄の書を探しているのですか?」
「いや、それは……一人にしか頼んでいないよ」
 頭に浮かぶのは当然、盗賊のことである。
 彼には「盗まれた本を探すのを手伝ってくれ」とだけ伝え、本命が辺獄の書であることを告げていなかった。今回のストーンガード訪問も辺獄の書と直接関わりがあるが、今のところ彼には何も要求していない。
(本格的に生家を調査する際は、彼の手を借りるべきかもしれないな)
 豊かな経験に基づいたあの観察眼は貴重なものだ。クオリークレストでの地下遺跡探索でも大いに助かった。
 そういえば、ひとつ気になっていることがある。あの遺跡で、盗賊はなりふり構わずこちらを追って水路に飛び込んできた。いくら心配になったからといって、あそこまで大胆に行動する必要があったのだろうか。盗公子の祠で目覚めた彼はなんだか後悔している様子だったし、その理由となるとまったく想像もできなかった。
 秘書は冷ややかな視線をよこす。
「目的を話さずに旅をしているなんて……あなたは仲間のことを信用していないのですか」
「そんなことはないよ。辺獄の書の件は機密事項だから、慎重に扱っているだけだ」
 だが、本当の目的を黙っていることは事実だった。今回の調査が終われば必ず打ち明けよう、と心に決める。
 長い階段を上りきって、二人で屋敷街を進む。
「ここです」
 秘書はとある屋敷の前で立ち止まった。生家の窓には蔦が絡みつき、長い間使用されていないことが伺える。が、秘書に案内されて裏口に回り込むと、門の鍵が開いていた。
「人の出入りがあるようだね」
「ええ、学長はここで何かしていたようです」
 秘書は迷いなく塀の内側に入る。味方が増えて強気になったのだろうか。少し偵察するくらいなら構わないだろう、と後ろに従って玄関に回った。
 彼女がドアノブを掴むと、あっさり正面扉が開く。
(ここにも鍵がかかっていないのか?)
 秘書は開け放した扉の前から退き、「どうぞ」と言わんばかりにこちらの背後に回った。
 しばし玄関の先の暗がりを見つめる。
(……なんだろう、この感覚は)
 嫌な予感としか言いようのないものがじわりとこみ上げる。他の仲間なら――例えば剣士や狩人、盗賊ならもっと具体的に感じ取れたのだろうか。
 一旦引き返そう。準備もせずに踏み込むのは危険だ。秘書にそう進言しようとした瞬間、塀の向こうから荒い足音が近づいてきた。思わず体が固まる。
 だん、と踏み切る音がした。塀の上にぱっと紫色が広がる。現れたのは、見たこともないほど必死の形相をした盗賊だった。
「テリオン君!?」
「後ろだ!」
 言われたとおりに振り返ると、背後にいたはずの秘書が消えていた。一瞬で状況を把握する。近くに降り立った盗賊は息を整える間もなく武器を構えた。
「そうか、転移の魔法……!」
 秘書の移動方法には心当たりがあった。すぐに盗賊に注意喚起しようとしたが、
「気づくのが少し遅かったですね」
 冷たい声とともに秘書が再び姿を現す。間髪入れずに大風が吹いて、前にいた盗賊が踏ん張りきれずに飛ばされてきた。
「わっ」避ける間もなくぶつかってしまう。体のバランスが崩れてかかとが浮く。二人は風にさらわれ、開いたままの扉の中に吸い込まれた。
 そこに床はなかった。盗賊ともつれ合ったまま穴に落ちる。みるみる光が遠ざかっていき、全身に強い衝撃が走った。
 ――しばらく意識が遠のいていたらしい。
 夜よりも濃い暗闇の底で目を覚ました。何も見えないが、どうやら盗賊が体の上に載っているらしい。なんとか下から這い出して、慎重に揺さぶる。
「テリオン君、怪我は!?」
 返事はうめき声だった。まだ気を失っているようだ。
 明かりの確保よりも先に彼を手当てすべきだろう。両手を組み合わせ、集中を整える。
「傷を癒やしたまえ」
 回復魔法の白い光が穴の底を照らした。ほのかな明かりにより、盗賊はほとんど無傷だったことが判明する。しばらくそのまま寝かせておくことにした。
「うっ……」
 その時、己の体の異変に気づいた。違和感を覚えて腕に触れれば、手のひらがべったりと濡れる。匂いや感触で血だと分かった。おまけに緊張が解けたせいか、鮮烈な痛みが総身を駆け抜ける。少しの間、息が止まった。
 先ほどの魔法で傷はふさがったが、さすがに流れ出た血液や痛みは消せない。おまけに片方の足首が鈍く熱を持っていた。床にぶつかった拍子にひねってしまったらしい。
(これはまずいな)
 とりあえずローブを着込む。この惨状を盗賊が知れば、間違いなく気にしてしまうだろう。こちらの損害が大きかったのは単に打ちどころが悪かったためだが、「自分が下敷きにしたせいで怪我をさせた」などと考えるかもしれない。いっそうこちらは冷静を保つ必要があった。
 ゆっくり呼吸して、痛みから意識をそらす。今は穴の底を調べるよりも体力を温存すべきだろう。盗賊が自然に目覚めるまで、己の最大の武器である脳を働かせることにした。
 先ほどの様子からして、秘書は学長とつながっていたのだろう。生家に誘い込んだのは辺獄の書を追う存在を消すためか。それにしてはぬるい罠だが。
(あの言葉は嘘だったのか……)
 知識の悪用を止めなければならないと語った秘書は、その裏で学長と結託していた。彼女を信じてのこのこついてきた挙句、盗賊まで巻き込んでこの事態を招いたのは自分だった。苦い思いがこみ上げる。
 痛みがぶり返し、意識が現実に引き戻される。背中を丸めて深呼吸した。痛覚を誤魔化すために新たな思考を走らせる。
(……どうしてテリオン君はここに来たのだろう)
 彼がいる方向に目を向ける。無論、学長の生家を調査することは一切仲間に伝えていない。それなのに、彼はこの場所を探り当てた。
 現時点ではその道筋も、理由も分からなかった。直接尋ねてもきっと彼は答えないだろう。というより、何も訊かれたくないはずだ。この盗賊は必要以上に間合いに踏み込まれることを嫌っている。
 それでも彼が助けに来たのは事実であり、彼がいるからこそ今の状況下でも絶対に諦めることはできなかった。もし自分が一人で穴に落ちていたら、脱出を考えるどころか痛みでそのまま失神していた可能性が高い。盗賊の存在は、ぎりぎりで意識をもたせるための砦になっていた。
 たとえうまく言葉が届かなくても、打ち明けられない事情があっても。自分は確かに彼や仲間たちの存在を幸いに思っている。
 だから、どうやっても学長や秘書の手を取ることはできないのだ。



 ルシアはダスクバロウの遺跡の最奥で椅子に腰掛け、辺獄の書をめくりながらその人を待っていた。
 侵入者探知用の魔導機はすでに配備した。万一のために部屋の入口には魔法陣も敷いて、書庫も「閉めた」。作成した辺獄の書の訳本は焼却済みだ。もうすべて頭に入っているから問題ない。これで、たとえ書棚にある古代ホルンブルグ語の辞典を奪われても、多少は時間稼ぎができる。
「彼」を迎える準備は万全だった。それなのに、ルシアは落ち着かない気分でページを繰る。まったく内容が頭に入らない。
(まだ気持ちを整理できていませんね……)
 諦めて本を閉じた。そのまままぶたをつむって、初めて自分がここにやってきた時のことを思い出す。
 ――きっかけはあの女との出会いだった。漆黒のドレスをまとい、ぞっとするほど整った美貌で薄く笑う、魔女と形容するのがふさわしい女だ。
「もっと多くの知識を手にしたくはない? あなたにはその資格があるわ」
 十五年前、その魔女はアトラスダムでくすぶっていたルシアのもとに突如として現れた。
 当時のルシアはほとほと王立学院の環境に飽いていた。特に教師イヴォンの指導がつまらなかった。本を読めばすぐに分かることをわざわざ授業で繰り返すのだ。教え子たるルシアの方がよほど教養があるのに、イヴォンはただ年長者だという理由で偉そうにしているとしか思えなかった。当然、彼の授業をありがたそうに拝聴する他の生徒たちなど、ルシアの眼中にない。あふれる知識欲の矛先を見失い、彼女は不満を抱えていた。
 そんな時に魔女の誘いを受けたルシアは、一瞬「自分の願いを聞き届けた碩学王が使いを寄越したのでは」と思った。あまりに相手の雰囲気が妖しいので、そうでないことはすぐに分かったが。むしろ魔女は十二神とは真逆の、本来ならば忌避すべき存在なのだろう。それでも、ルシアにとっては唯一の理解者に等しかった。一も二もなく承諾した彼女は、非才の者たちを見返せる力を――生と死を超越した力を願った。
 魔女は「力を与える代わりに学長を始末せよ」と要求した。代わりに適当な誰かを学長に据えれば、特別書庫に眠る辺獄の書が手に入る。その本こそが唯一無二の力の源だと囁いたのだ。
 ルシアは欲深いイヴォンを魔女に紹介し、同じ話を持ちかけた。イヴォンが魔女に選ばれたと誤認させるためである。そしてうまいことイヴォンに前学長を始末させ、辺獄の書を入手した。
 イヴォンは故郷ストーンガードにいた翻訳者を頼って本の解読を進めた。一方で魔女との約束を果たしたルシアは、褒美としてこのダスクバロウの遺跡へ案内された。
「あなたにふさわしい場所でしょう。ここの本はすべてあなただけのものよ」
 一面の書棚を眺め、ルシアは歓喜に打ち震えた。この本たちは自分に紐解かれるのを待っていたのだ。求めていたすべてがここにある、と確信した。
 ルシアは調査の旅という名目でイヴォンを経由して学院から正式な許可をもらい、何度もダスクバロウを訪れた。研究の進行具合に応じて時折彼にも本を貸し出した。しかし、この場所は正真正銘ルシアだけのものだった。
 遺跡を訪れる度に時間を忘れて本を読みふける。それはこの上なく幸福な時間――のはずだった。
(でも、ここには誰もいない……)
 いつからか彼女はそのことにうんざりしていたのかもしれない。
 誰からも理解されない現状は、あふれんばかりの知識を手にしても変わらなかった。魔女はもう飽きたのか目的を果たしたのか、気づけば姿を見せなくなっていた。ルシアは学べば学ぶほど孤独を深めることを知りながら、ずっと一人で本を読み続けた。
 そんな折、王立学院で彼を見つけた。
「自分だけが知識を得ればいい、そのような考えは私の理念に反する」
 穴の底に落とされながらもそう言い放った彼、サイラス・オルブライトは学者になるために生まれてきた男だ。前々から噂は聞いていたけれど、実力を知ったのはごく最近で、メアリー王女が彼を家庭教師に抜擢したことがきっかけだった。
 謎を求める好奇心も、それを読み解く洞察力も何もかもが水準以上であり、この短い生でよく巡り会えたと思える相手だった。サイラスに目をつけたルシアは、辺獄の書を餌にして彼をアトラスダムの外に出すと、クオリークレストやストーンガードでその能力を試し、最終的に「自分と並び立つ資格がある」と判断してここダスクバロウへ導いた。長い下準備はこの時のためだった。
(そう、計画は完璧だったはずなのに)
 仲間の存在だけが計算外だった。
 ルシアは「サイラスも自分と同じ思いを抱えているのでは」と考えていた。凡人たちに向けて精一杯噛み砕いた説明をしてもまともに理解されず、ただ虚しさだけが残る――彼も似たような経験をしてきたはずだ。学院内でも旅の最中でも、そういう機会はいくらでもある。
 サイラスの仲間は剛剣の騎士を除けば軒並み生徒のような年齢の者ばかりだ。高度な話についてこられる教養など持っているはずがない。それなのに、どうしてサイラスは彼らと旅路をともにしているのだろう。ルシアには、あの仲間のせいでサイラスを構成する大事な何かが狂ってしまった、としか思えなかった。本当にどこまでも邪魔な者たちである。
 中でも銀髪の男は危険だ。ストーンガードでいきなり目の前に現れた時は、一体何の冗談かと思った。サイラスと大して仲が良さそうでもないのに追いかけてくるなんて、まるで意味が分からなかった。
 だが、今回ばかりはサイラスも一人で遺跡に来るだろう。ルシアがそうするように仕向けた。彼ならきっとあのメッセージを正しく読み解くはずだ。
 ――思い出が現在に追いつく。多少なりとも心を整理したルシアは、そっとまぶたを開けた。
 真正面に、ずっと求めていたその人が立っていた。あたたかな日差しに照らされて、濡羽色の髪がきらきら輝いている。
(え?)
 侵入者があればただちに魔導機が警報を発するはずなのに、何の知らせも届いていなかった。しかし何度瞬きしても、その人は目の前に静かに佇んでいる。
「もう来たのですか、サイラス」
 動揺しつつも起立する。辺獄の書が膝から落ちかけたので、慌てて小脇に抱えた。
 サイラスは太陽を背負って日向に立ち、晴天のような瞳でこちらを見据える。書棚の陰にいるルシアはまぶしさに目を細めた。
 彼は何故か一言も発しない。いくらなんでも変だ。普段の彼ならルシアに山ほど質問を浴びせるはずなのに。
 様子のおかしいサイラスは、唇を閉ざしたままローブを翻し、そのまま立ち去ろうとする。
「待って!」
 反射的に伸ばしかけた手が止まった。ルシアはどうしても彼のいる日だまりの中に踏み出すことができなかった。
 いつの間にか、サイラスの隣にあの銀髪の男が立っている。彼は一瞬だけこちらを睥睨し、サイラスと同じように背を向けた。他にも剣士や狩人をはじめとする仲間が次々と現れ、サイラスの周囲に集った。
 幻のような光景を前に、ルシアは影の中で力なくうなだれる。
「どうして……どうして仲間なんてつくったのですか。何故、あなたは誰かとともに旅ができるのですか。
 私だってもっと早くあなたと出会っていたら……別の道を歩めたかもしれないのに!」
 辺獄の書に関わる前にサイラスと知り合っていれば、きっとこれほどの孤独を感じることはなかった。天才を理解できない者はどれだけ切り捨てても構わないと思っているのに、ルシアは今一人でいることが耐えられなかった。
 結局、サイラスたちが光に溶けて消えるまで、彼女はその場から一歩も動けなかった。
 ――椅子のそばに置いた魔導機の片割れが警報を発する。
 ルシアははっとして目を覚ました。本を膝に載せたまま居眠りしていたらしい。腹立たしいことに、先ほどの夢の内容ははっきりと覚えていた。かぶりを振ってその残滓を追い出す。
 遺跡に配備した魔導機が侵入者を見つけた。いよいよ現実でもサイラスがやって来たのだ。
 ゆっくりと呼吸を整えたルシアは、不意に天啓を得た。
(そうだ、彼を旅に送り出したのは私だった。サイラスが仲間をつくったのは、私が原因だった……!)
 ルシアは学長にサイラスの追放を進言し、魅力的な謎をばらまいて、彼がここに来るように仕向けた。偶然にしろ何にしろ、サイラスはその過程で仲間を得たのだ。
 下唇を強く噛みしめる。なんて皮肉な結果なのだろう。
(それでも、今更自分を曲げることなんてできない。私は計画を遂行するだけ……)
 辺獄の書と完成した血晶石を手に、椅子から立ち上がる。ついに対決の――いや、説得の時が来たのだ。
 サイラスがここにやってきたら、すべてを打ち明けて理解を求めよう。二人で行くべき場所があると説いて、手を差し伸べよう。きっとサイラスは分かってくれる。ルシアだって仲間たちよりもずっと彼のことを理解できる。
 もしこの気持ちを受け入れてもらえたら……その時は思う存分サイラスと話をして、この寂寥を分かち合いたかった。
 階段を上る静かな靴音が聞こえる。ルシアはささやかな願望を胸に秘め、まぶしい日向に足を踏み出した。

inserted by FC2 system