未知へと続く航路

「行ってきます!」
 気をつけて、という母マリーネの声を背中で弾き返し、トレサは自宅の扉を勢いよく開け放った。
 爽やかな朝の空気が全身を包む――と思いきや、ほおに当たる潮風は湿っていた。リプルタイドの空は鈍色で、いつもよりずっと雲の流れが速い。
(西の海が時化てるみたいね)
 朝の漁に向かった漁船もじきに港に逃げ込むだろう。一刻も早く市場に行って新鮮な魚介類を手に入れなければ、とトレサは歩幅を大きくした。
 ――旅を終えてからの一年はあっという間だった。
 彼女は名も無き旅人の手記と巡り合ったことをきっかけに、仲間とともに大陸中を渡り歩いた結果、グランポートで商人として最高の名誉を得た。その後ちょっとした「冒険」を経て、今は故郷で両親の店を手伝っている。
 石畳を駆けながら、トレサは町の外に思いを馳せた。旅立つ前と違って、彼女はもう「あの水平線の向こう」を知っている。だから、まぶたの裏に映るのは記憶に根付いた景色と仲間たちの顔だ。
(みんな、今頃どうしてるかな?)
 時折手紙でやりとりしている相手もいれば、再び旅に出たのかまったく連絡のつかない者もいる。あれから仲間の八人が一堂に会することはなかった。
 リプルタイドでこつこつと商人の修行を続けるトレサは、たまにあの目まぐるしい生活を懐かしく思うことがある。
 自分は前に進めているのだろうか。未だ両親の庇護下にあって、果たして一人前になったと言えるのだろうか――
(って、考えてる暇があったら手と足を動かさないと!)
 一抹の不安を置き去りにして、彼女は海を目指す。
 港には大小さまざまな船が停泊し、漁師たちでごった返していた。トレサは人ごみの向こうに見覚えのある船影を見つけ、思わず顔をほころばせる。
 立派な三つのマストに真っ白な帆を垂らすその船は、リプルタイドに寄港する商船の中でも特に大規模なものだ。トレサは本来の目的地である市場を通り抜け、真っ先に帆船へ向かった。
「レオンさーん!」
 波止場で部下に荷降ろしの指示を出していた美丈夫――商船船長レオンが振り向く。豊かな金髪を翻した彼は、研いだ刃物を思わせる笑みを浮かべた。
「嬢ちゃんじゃねえか。まさか迎えに来てもらえるとはな」
 トレサはえへへと笑った。レオンは彼女の旅立ちのきっかけになった人である。熟練した槍の使い手で、元海賊という異色の経歴を持つ商人の大先輩だ。
「トレサ、元気だったか?」「相変わらずちんちくりんだなあ」
 続いて顔を見せたのは揃いのバンダナをつけた船員二人である。トレサはにっこり笑って、
「モックとメックも元気そうね」
「お前わざと名前間違えただろ!?」
 わめくミックとマックを無視し、彼女は船長を見上げた。
「レオンさん、今日の掘り出し物は何?」
「当ててみな。まあ、あの手記みたいなとっておきはないけどな」
 一瞬、トレサの脳裏に手記を書いた人物にまつわる記憶がよぎった。落日のような赤い光を思い出し、慌てて首を振る。
「それならじっくり見せてもらうわよ」
 積み上げられた木箱にずかずかと近づく。レオンの船とはもう何度も取引きしているので、船員たちも慣れたようにトレサを避けて作業を進めた。
 荷降ろしされる品々をじいっと検分していたら、船の上から愉快そうな声が降ってきた。
「相変わらず珍しいものに目がないな、トレサ」
 とん、と軽い音がして、その人物が桟橋に降り立つ。
 非常に聞き覚えのある声だ。というより、一時期は毎日聞いていた。ただしもっと小さな音量で。
 トレサは驚愕とともに顔を上げた。
「テ、テリオンさん……どうしてレオンさんの船に乗ってるの!?」
 そこにいたのは旅仲間の盗賊だった。会うのは丸一年ぶりになる。
 彼女は湧き上がる疑問を喉奥に飲み込んだ。思わず絶句するほど、テリオンの風貌はがらりと変わっていた。
 まず、あの紫の外套を着ていない。彼は海をゆくものにふさわしいシャツ姿だった。日にさらされた肌は健康的な色をしている。極めつけは、片側だけ長く伸ばしていた前髪がばっさり切られ、緑の瞳が両方あらわれていた。左目を通るようにうっすら残った傷跡を、トレサはまじまじと見つめてしまう。
(ほ、本当にテリオンさんなの……?)
 一番変わったのは雰囲気だ。思えば以前の彼はいつも「誰であろうと絶対に心に踏み込ませない」という態度をとっていた。それがなくなった今、もともと備えていた人の良さが前面に出て、驚くほど普通の青年になっていた。あまりにも以前と違うため、これも彼一流の演技かと思ってしまう。
 驚いて声も出ないトレサに対し、テリオンはにやりとした。
「船長に直接『雇ってくれ』って言っただけだぞ」
 何故レオンの船にいるのか、に対する答えだ。船長が調子を合わせる。
「嬢ちゃんの仲間で顔は知っていたし、目利きの腕も確かだったからな。船の仕事も商売のやり方も、ちょっと教えただけであっという間にミックとマックを追い越したぞ」
 部下二人は不機嫌そうに眉根を寄せたが、何も言い返さなかった。どうやら真実らしい。
 そこでレオンは軽く息をつく。
「けど、もう船を降りちまうのかテリオン。惜しいな」
「契約期間は終わりだろ。諦めてくれ」
 レオンたちとはそれなりに長い期間を過ごしたのだろう、テリオンは気さくに返事をした。
 一人で旅を続けているとばかり思っていたのに、彼はあろうことかレオンの船で働き、さらにはもう仕事をやめるという。トレサはまったく話に追いつけなかった。
「え……盗賊は? やめちゃったの?」
 やっとのことでそれだけ問う。
「そんなわけあるか。むしろ今の方が盗みやすくなった」
 テリオンは肩をすくめた。レオンの船に乗るかたわら、陸に上がる度に屋敷への侵入や遺跡の盗掘に精を出していたらしい。船乗りという仮初の生業がある分、ただの旅人よりも相手の油断を誘えるようになった、と彼は語った。
 レオンが盗賊行為を容認しているのは、万が一にでも盗みがばれて商船一同に迷惑をかけるようなヘマをテリオンがするはずがない、と信じているからだろう。
 トレサは呆れ返った。
「それ、前よりもっとたちが悪くなってない?」
「かもな」
 テリオンは笑いの衝動をこらえるように肩を揺らした。ちょっとした仕草までずいぶん穏やかになっている。トレサは落ち着かない心地になった。やはり芝居か、もしくは自分はキャットリンにでも化かされているのだろうか。
 いつしか商談は頭から吹き飛んでしまった。レオンはそれを察したのか、
「久々に仲間と会ったんだろ? 積もる話もあるだろうし、またあとで来な」
 と言った。この言葉に甘えて、テリオンと二人で港を歩くことにした。
 じめじめした潮風を吸ううちに心が落ち着いてきた。質問する余裕も出てくる。
「テリオンさんは、みんなと別れてからずっとレオンさんの船に乗ってたの?」
「いや。ハンイットに引っ張られてしばらくマルサリムの劇場にいたり、オルベリクがヴィクターホロウに行く間コブルストンで留守番させられたり、プリムロゼが実家の建て直しに協力しろっていうからノーブルコートに滞在したり、あとはなんだったか……」
 テリオンは次々と指を折って仲間の名前を挙げていく。トレサはいよいよ混乱してきた。
「ど、どうしちゃったのよテリオンさん。なんだか変よ……?」
 下手をしたら商人のトレサよりも多くの人と関わっているのではないか。孤高の盗賊という触れ込みは一体どうなったのだ。
 するとテリオンは首をかしげて、
「別に変じゃないだろ。検証してるだけだ」
「検証って?」
 テリオンは急に黙り込み、むすっと唇を閉じた。これは照れている時の表情である。昔の彼に戻ったようで、トレサは少しほっとした。
「……俺なら何にでもなれるって、あいつが言ったんだ」
「え」
「だから、失敗したら全部あいつのせいにする」
 テリオンはそっぽを向いた。曖昧な主語を選んだのはわざとだろう。こういう場合、「あいつ」が示す相手は一人しかいない。
「ねえ、そう言ったのってもしかしてサイ――」
「大変だ!」
 突如として港に胴間声が響く。叫びを発したのはリプルタイドの漁師で、トレサも顔見知りの男だ。驚き立ち止まる聴衆へ、彼は血相を変えて続けた。
「沖で大型船が難破したらしいぞ! 手を貸してくれ、救助するのにも人手が足りない!」
 港のざわめきの種類が変わった。こういう時、船乗りたちは互いに助け合うものだ。次々と漁師のもとに志願者が集まり、慌ただしく海の方へ駆けていく。
 トレサははっとして西に目を向けた。空は分厚い雲に覆われ、一層風が強くなっている。やはり沖合は悪天候だったらしい。
「大変、あたしも何か手伝わないと」
 言いながら隣のテリオンを見ると、彼はまったく別の方向を注視していた。
 視線の先には、曇り空の下でも輝かんばかりの美貌を持つ女性がいた。品の良いワンピースと相まって、トレサが見惚れるほどのまぶしい造形だ。こんな騒がしい港よりも瀟洒な町角を歩いている方がよっぽど似合うだろう。
 女性は真っ青になって西の海を眺めていた。
「まさか、先生が……」
 唇をわななかせる彼女に、思わず声をかける。
「あの、何かあったんですか?」
「ええと……」女性は戸惑ったようにトレサとその背後にいるテリオンを見比べた。
「あたしはリプルタイドの商人です。こっちの人は船乗りで」自己紹介すると、女性は深呼吸して平静を取り戻す。
「実は、難破した船に私の知人が乗っていたかもしれないのです」
「それは心配ね……」
 彼女はその知人を迎えに来たらしい。見たところ他に連れはいないようだ。これは放っておけないわ、とトレサはほぞを固める。
「あたしたちと一緒に被害の状況を聞きに行きませんか? 知り合いの船長さんが何か情報を持ってるかもしれません」
「ありがとうございます」
 女性は深々と頭を下げる。憂えた顔ですら麗しく、特別なオーラをまとっているように見えた。
 テリオンが無言で身を翻す。彼の背を追って野次馬の間を縫うように歩いた。ほどなくレオンを見つけ、トレサが声をかける。
「レオンさん、船は大丈夫ですか?」
「俺の船はな。だが難破したのは相当大きな船らしい。手分けして救助のボートを出すことになったが……どうだろうな」
 レオンは難しい顔で白波をにらんだ。彼も嵐には苦い思い出があるのだ。
「パウル先生……」と女性がつぶやく。知り合いは家庭教師か何かだったのだろうか、とトレサは考えた。
 港に取り残された皆がはらはらしながら待っていると、やがてレオンの船から派遣されたミックとマック、それに町の漁師たちで組織された救助隊が戻ってきた。彼らはずぶ濡れになった人々をボートに乗せていた。
「良かった、助かったのね!」
 顔を明るくするトレサに対し、陸に上がったミックとマックが口をつぐんだ。別の漁師が前に出て、
「船の残骸にしがみついて海に浮かんでいた人たちは助けられた。だが、船が難破する直前、乗員の半数が救命ボートに乗り込んだらしい。そっちは潮の流れに乗って漂流したのか、どこにも見つからなかったよ……」
 この報告に、威勢のいいリプルタイドの漁師たちも消沈してしまう。
 知り合いを探す女性は救出された人々を見回して力なくかぶりを振った。目当ての人物はいなかったらしい。
「そんな……」
 トレサはにわかに目の前が暗くなったように感じた。港町に住んでいる以上海難事故に遭遇することは多いけれど、これほどの規模はめったになかった。
「テリオン、ちょっと来い」
 不意にレオンが手招きして、元部下に紙を渡す。テリオンが広げたのは周辺の海図だった。トレサも一緒に覗き込む。
「船が難破したのはこのあたりらしい。お前、中つ海の海流はひととおり頭に入れてたよな?」
 テリオンは船長が指で示した箇所をじっと見つめた。
「ああ。確かこの時期は東に向かう速い流れがある。トレサの方がくわしいんじゃないか」
 話を振られて、しばし考え込む。すると、心の雲間から一気に希望の光が差し込んだ。
「そうそう、この流れは東リプルタイド海道にある細い海峡を通るから――あ、もしかすると、そのあたりにボートが引っかかってるかも!」
「いい読みだな。船乗りになれるぞ嬢ちゃん」
 レオンが鋭く口笛を吹く。テリオンも素直に感心した様子だった。トレサはくすぐったさを誤魔化すため、声を張り上げる。
「そうとなれば調べに行くわよ、テリオンさん!」
「わかったわかった」
 もはや「面倒だ」というポーズすらとらないテリオンは、本当に変わったと思う。もちろんいい意味で。
 その時、輪の外にいた女性がおずおずと申し出た。
「あの……私もついていってはいけませんか。先生の無事を確かめたいのです」
「えっ」
 トレサは思わずテリオンと顔を見合わせる。女性は下手をすればどこかの貴族でもおかしくない出で立ちだ。あまり危険な目には遭わせたくない。護衛などは連れていないようだが――
「あの、街道は魔物もいるから危ないわよ」
「でも私、先生に……パウル先生に会いたいんです!」
 この必死さに、トレサはストーンガードで出会ったテレーズを思い出してしまった。
 そういえば、アトラスダムにいるはずのサイラスとは久しく会っていない。元気にしているだろうか、いや先生のことだから間違いなく元気だろう、とトレサは頭の片隅で考える。
「この女、何を言っても引く気はないらしいぞ」
 テリオンが耳打ちした。トレサも同感だったので、諦めて腰に手を当てる。
「それじゃあ一緒に行きましょう。くれぐれも危ないことはしないでね。ええとお名前は……」
「メリーと呼んでください」
「分かったわ。あたしはトレサ、よろしくね」
「……テリオン」
 彼がぶっきらぼうに答えると、メリーは何故か小さく首を傾けた。
 レオンがひとつうなずいて、
「気をつけていけよ嬢ちゃん。こっちの救助が終われば、人員を編成し直してそっちに送り出すからな」
 トレサは丁寧にお辞儀をする。
「お願いします。それじゃ、行ってきます!」
 レオンと別れた三人はリプルタイドの町を突っ切って、入口の石橋を渡った。トレサの旅がはじまるのはいつだってこの場所からだ。
 久々に開幕した小さな冒険に、彼女は少しだけ胸を躍らせていた。



「お二人とも、とても強いのですね……」
 砂混じりの道の上に切り捨てられた海のバーディアンを見て、メリーが感心したようにつぶやいた。
 トレサが操るのは貿易風の槍といって、好敵手アリーから譲り受けたものだ。あの決戦時にも使った相棒である。一方のテリオンは見たこともない短剣を所持していた。あとで入手経路を聞き出さねば、と頭に留めておく。
「戦いには慣れてるからな」
 テリオンはくるりと得物を回して鞘にしまう。彼の武器の扱いはもはや慣れているというレベルではない。ホルンブルグの剛剣の騎士から直接稽古をつけてもらっていたのだから当然といえば当然だが、あれから一年経ってさらに腕を上げていた。
 一方で、鮮やかに魔物を葬った彼は「酒でも飲みたい気分だ」と懐かしい台詞を吐いた。それを聞いたトレサは、ああ本当に自分はテリオンとともにいるのだ、と嬉しくなる。
「あたしたち、一年くらい前に一緒に旅してたの。オルステラ中を巡ったのよ」
「まあ、旅を……」
 メリーが顔を輝かせる。「ぜひお話を聞かせてください!」
 そんなに食いつくような話題だろうか。トレサは年齢より幼く見られることが多いから、経歴を知ってびっくりしたのかもしれない。
 思い出話をするのは大好きなので、喜んで応じる。
「ええとね、他にもたくさん仲間がいたのよ。神官に狩人に剣士に……」
「にぎやかな旅だったのですね」
 メリーは先をゆくテリオンの背中を羨ましそうに眺めた。
「メリーさんは旅に縁がないの?」
「ええ……私用で町を出たのは今回が初めてです」
 本当に箱入り娘ではないか。見たところ、トレサの友人ノーアのように体が弱いわけではなさそうだが、人によって事情は様々だ。
 トレサは大競売の話をした。秘宝エルドライトではなく自分の旅路を書いた手記を出品したくだりに、メリーはいたく感動した様子だった。
 ふと好奇心が湧いたので、今度はこちらから質問してみる。
「ねえ、メリーさんの探しているパウル先生ってどんな人なの?」
 筋金入りのお嬢様を一人旅に駆り立てる相手のことが気になったのだ。メリーはほほえんで、
「幼い頃、私に学問を教えてくださった方です。十年ほど異国に行かれていたのですが、今回やっと帰ってこられると聞いたので、居ても立ってもいられず迎えに来ました。
 パウル先生は政治学に長けていらっしゃるんです。豊かな知識に基づいた先生の考えは、他のどんな教師からも学べないことでした」
 メリーは目をきらきらさせて語った。夢見る乙女というより、むしろ異様なほど学問に情熱を注いでいるようだ。
「そっか。でも、パウル先生がいないから最近は別の人に教わってたのよね」
「ええ……」
 メリーは顔を曇らせる。理由を察したトレサは小声になって、
「もしかして、新しい先生はいまいちだったの?」
「いえ、そうではありません。実は……盗まれてしまったんです」
「え?」
 いきなり話が飛んだ。一体何を盗まれたのか聞き返そうとした時、
「着いたぞ」
 前を歩いていたテリオンが振り返る。彼の肩越しに北と東のリプルタイド海道を結ぶ橋が見えた。トレサはさっそく橋の袂から崖の下を覗き込む。
「ああ、やっぱり引っかかってる!」
 狭い海峡の波間には船やボートの残骸らしき木片が浮かんでいた。さらに身を乗り出せば、崖際にある猫の額ほどの砂浜に、ずぶ濡れの男たちが座り込んでいる。難破した船の乗員だろう。
「大丈夫ですかー!? あたしたち、リプルタイドから救援に来ました!」
 トレサは目一杯叫んだ。船員たちははっとして立ち上がり、こちらに手を挙げる。
「それは助かる!」船員の一人が大声で答える。
「怪我してる人はいますか?」
「何人かいるが、大事にはなってない!」
 トレサはほっとした。
「後から助けが大勢来ますので、もうちょっとだけ辛抱してください!」
 感謝の声を聞き届けた彼女は立ち上がった。
「あたしたちだけじゃ救出できないわね。そのうちレオンさんが応援をよこしてくれるはずだけど……」
「ちょうど追いついたらしいぞ」
 テリオンがあごで示した先にそれらしき一団が見えた。トレサは手を振って場所をアピールし、救助隊と合流した。
 その間にテリオンはあたりを探索して、崖下に降りるルートを見つけていた。かろうじて傾斜が緩やかになった細い道だ。彼の背中に従ってトレサは救助隊とともに慎重に崖を下る。メリーもスカートの裾をたくしあげてついてくるあたり、なかなか根性があった。
「こんなに助けが早いとは思わなかったよ」
 砂浜にたどり着くと、遭難者たちは笑顔で救助隊を迎えた。
 難破しかけた船からとっさにボートに移った彼らは、漂流した結果うまい具合にここへ流れ着いたらしい。怪我というのも数人が足をひねった程度で、大したことはない。トレサはほっとした。
 そこでメリーが意を決したように前に出る。
「あの……! パウル先生をご存知ありませんか。難破した船に乗っていたはずなのです」
 すると船員たちは表情を沈ませた。
「この海流に乗ればいいってアドバイスしてくれたのは先生なんだ。だが、一人だけ別のボートに乗ったまま海峡を越えてしまって……」
「ええーっ!?」
 これはトレサの声だ。当のメリーは言葉を失っていた。
 テリオンが黙って東を見据える。そちらは外海だ。沖まで流されてしまえば、パウルを見つけるのは絶望的だろう。
(今すぐ船を出しても、小さなボートなんて見つけられるかどうか……。海岸線から目視で探す? それも厳しいわね)
 うなるトレサに対し、テリオンはまぶたを閉じて考え込む。
「トレサ、確かこのあたりに外洋に突き出た地形があっただろ。あそこには何があるんだ」
 質問を受けて頭に地図を思い浮かべた。トレサはぱっと顔を明るくする。
「冴えてるわよテリオンさん! 波隠れの岩窟って呼ばれてる場所があるわ。洞窟の中に水路みたいに海が入り込んでるの。あそこのまわりには岩窟に向かう潮の流れがあったはずよ。パウル先生は地形にくわしいみたいだし、うまく海流に乗って岩窟に入ったかもしれないわ」
「よくご存知なのですね」メリーが目を丸くした。
「昔近所の子と岩窟の中に秘密基地をつくろうとしたけど、強い魔物がいたからやめたの」
「よく生きて帰ってこられたな……」
「えへへ」
 呆れるテリオンに、トレサは照れ笑いした。次いでメリーに向き直る。
「メリーさん、まだ諦めちゃだめよ。あたしたちが岩窟に行ってくるわ。あなたはみんなと一緒にリプルタイドで待ってて!」
「よろしいのですか……?」
 メリーは心細そうに瞬きする。テリオンが目をすがめて、
「いや、むしろついてくるな。足手まといはいらない」
「こんなこと言ってるけど、この人メリーさんのことを心配してるだけだからね」
「おい」
 途端にテリオンは不機嫌になる。メリーは微笑した。
「分かりました。トレサさん、テリオンさん、よろしくお願いします」
「任せて!」
 救助隊とメリーをその場に残し、二人は降りてきたルートを逆にたどって崖の上に戻った。
 今度はトレサが先に立って橋を渡り、北リプルタイド海道を目指す。
「ずいぶん手際がよくなったな」
 不意に波音に混じってテリオンのつぶやきが聞こえた。トレサは足を止めずに振り向く。
「え?」
「救助隊を調整して、あの女もうまいこと説得した。商人は信頼が大事だって前に言ってたな。リプルタイドでずっと働いてきたから、みんなお前に協力するんだろ」
 緑のまなざしがいつになくやわらかい。トレサは彼に一年間の努力を認められたのだ。にわかにほおが熱くなる。
「あ、当たり前でしょ! あたしだって成長してるんだから」
 するとテリオンは口角をつり上げて、
「まあ背丈は変わっていないがな」
「それ、他人のこと言える?」
 二人はじろりと視線を交わし合った。が、トレサはすぐに吹き出し、テリオンがため息をつく。
 潮風になびく銀髪を眺め、トレサは少し歩調を緩めた。
「ねえ、どうしてテリオンさんはレオンさんの船を降りたの? このあたりに新しい仕事のあてでもあったの」
 すると彼は言葉を詰まらせた。
「……リプルタイドで待ち合わせしてたからな」
「へえ。誰と?」
 テリオンは答えず、わざとらしく前方を指差した。
「あれが例の岩窟じゃないか」
 街道をそれた先、外洋に突き出た砂浜の上に大きな岩の塊がある。あの中が天然の洞窟になっているのだ。しかし、パウルの乗ったボートの痕跡はなかった。
「やっぱりいないのかな」
 トレサは岩窟に近づいて入口を覗き込む。中は真っ暗だった。
「いや、多分当たりだ」
「どうして分かるの?」
「そこにボートがぶつかった跡がある」
 彼の示した岩の角には、確かに木の破片が散っていた。
「本当! でもパウルさん、あんまり奥に行ってないといいわね……」
 トレサたちのいる足場のすぐ脇は海だ。流れはそのまま洞窟内へと続いていた。水路はちょうどボートが一隻だけ通れる幅だ。テリオンは暗闇をにらんで、
「強い魔物がいるって言ってたな。どんなやつだ」
「ボーンズにエレメント、それにクラブね」昔見かけた本物の姿と、町で聞いた噂を思い出す。
「俺たちならともかく、その先生が戦うのは厳しいか」
「そうね、早く見つけてあげないと」
 もしかするとパウルは魔物との戦闘を避けるため、奥へ奥へと入り込んでしまったのかもしれない。
 そこでトレサは小さく呪文を唱えた。テリオンが目を見開く。
「例の魔法か?」
「そう、サイラス先生の使ってたやつ! 気配を隠すのって何かと便利なのよね。テリオンさんは使わないの?」
「魔法には頼りたくない」
 盗みにも大いに役立つだろうにこのスタンスを貫いているのは、ただ意地を張っているだけだろう。もしくは、テリオンなりに学者の魔法に敬意を表しているのかもしれない。
 ランタンに火を入れて薄暗い岩窟に侵入した。水路に沿って歩いていく。暖色の光が波間に反射し、ひたひたと二人分の足音が岩壁にこだました。
「待て」
 テリオンはその鋭い感覚で何かを察知したらしい。トレサが息を詰めると、水音に混じって魔物の声が聞こえた。音の出処はまだ遠いが――
「パウルさんが襲われてるかも……!」
 思わず走り出そうとすると、テリオンに止められた。彼はトレサの腕を掴んだまま背後を見る。
 岩壁の向こうからのそりと現れたのは、腕と足を持つ巨大な鯨だ。大きく開いた口には一対の牙がむき出しになっていた。
「リックホエール!? 嘘、なんでよっ」
「お前の魔法が弱かったんじゃないか」
「そりゃ先生に比べたら全然だけど!」
 などと言い争っている場合ではない。テリオンが即座に短剣を抜き放ち、トレサは風を呼ぶべく集中を整える。
 刹那、鯨の口から声が発せられた。音量はほとんどない。それなのに空気が大きく震え、音の波が鼓膜を叩く。
「あ、あれ……」
 ぐらりとトレサの体が揺れた。音を聞いた途端に強烈な眠気が襲ってきたのだ。全身から力が抜けて、その場にへたりこむ。視界の端でテリオンも地面に膝をついていた。
 夢の世界に片足を突っ込みながら、トレサは岩窟に潜む魔物の噂を思い起こしていた。陸に生息するその鯨は、睡眠波を浴びせて迷い込んだ者を無力化し、鋭い牙の餌食にするらしい。
(もっと早く思い出すべきだったわ……ああだめ、寝てる場合じゃないのに!)
 握りしめたこぶしの感触が遠のきかけた瞬間。
「雷鳴よ、轟き響け!」
 涼やかな詠唱とともに稲妻が二度、至近距離で炸裂した。トレサは仰天して飛び起きる。
 この声はまさか。地面に座ったまま顔を上げれば、
「サイラス先生……!?」
 懐かしきアトラスダムの学者は、黒いローブもそのままに――装飾が一段と豪華になった気がする――トレサたちの前に立ち、痺れるリックホエールを見据えていた。
「テリオン、今だ!」
 サイラスは振り返らずに声をかける。眠気を吹き飛ばしたテリオンが、短剣を構えて魔物に飛びかかった。
 一撃で片目を潰す。彼が離脱した瞬間、魔導書がめくられて「闇夜の帳、災いを祓え」とサイラスが追撃を加えた。
「あたしだって負けてられないわ」
 トレサも槍を持ち出し、風を切って鯨の腹に深く突き刺した。
 三人の攻撃を受けた魔物は、どうと横倒しになる。それきり動かなくなったのを確認して、トレサはぱっと身を翻した。
「サイラス先生!」
 黒いローブに飛び込む。サイラスはしっかり彼女の体を受け止めて、目を丸くした。
「トレサ君、どうしてここに?」
「それはこっちのセリフよ。先生こそなんで――」
「おしゃべりは後にするんだな」
 テリオンが冷水を浴びせた。サイラスはうなずいて、
「おっとそうだね。パウル氏、お怪我はありませんか」
 学者が呼びかけた暗がりから、そろそろ老齢に差し掛かるであろう男性が現れる。
「ええ、おかげさまで」
 立派なひげを蓄えた彼がパウルなのだろう。どういうわけか、サイラスが先回りして合流していたらしい。疑問はひとまず隅に置いて、トレサは喜色満面になる。
「良かった、無事だったのねパウルさん! 教え子のメリーさんが探してたのよ」
「はて、メリーとは……」
 何故かパウルは首をかしげた。サイラスは思案するようにあごをつまみ、テリオンが横から進言する。
「説明の前に、さっさとここを出るぞ」
「そうだね、まずは安全な場所に移動しよう」
 サイラスも同意した。二人のやりとりを聞いたトレサは「あれ?」と内心首をひねる。
 テリオンもサイラスも、顔を合わせてから一度も挨拶らしきものをしていなかった。こんな場所で偶然再会したのに、トレサと違ってまったく驚いていない。まるで互いに登場のタイミングを知っていたかのようだった。
 サイラスのランタンに従い、中にパウルを挟んでトレサとテリオンが後列をゆく。四人は無事に岩窟を脱出した。
 砂浜に魔物の気配はない。サイラスの魔法は抜群の効き目だった。彼は明るくなった空の下、迷いなくリプルタイドへと足を向ける。その道中で説明があった。
「私が街道を南下していた時、たまたま海を流されていく小舟を見かけてね。人が乗っていたようだからここまで追いかけてきたんだ」
「先生、こっちに来る用事があったのね」
 トレサが尋ねると、サイラスは「ああ」とだけ相槌を打つ。パウルは柔和に笑い、
「海流を読んで岩窟に入ったはいいものの、魔物に囲まれてしまって……あわや、というところをサイラスさんに助けてもらいました」
「間に合ってよかったです」
 教師二人の仲は良好のようだ。最後にトレサが経緯を話す。
「あたしたちはリプルタイドで難破船の話を聞いて、遭難した人を探すために海流をたどってきたの。途中まではメリーさんと一緒だったのよ」
 サイラスは怪訝そうな面持ちになった。
「トレサ君、もしかしてその人は金の髪をした気品ある女性だったのでは?」
「そうよ。太陽が降りてきたんじゃないかってくらい綺麗な人だったわ」
 サイラスとパウルは顔を見合わせた。
「……とにかく、リプルタイドに戻りましょうか」
「ええ、それがいいと思います」
 教師たちは何かを隠しているようだった。だが詮索はしないことにする。
(きっと、リプルタイドに着いたら話してくれるわよね)
 街道にかかる橋を渡った。メリーや遭難者たちはすでに移動したらしく、崖下はもぬけの殻だ。
 みるみる故郷が近づいてくる。久々の冒険ももう終わりか、と思うとトレサは少しさみしくなってしまう。
 彼女は落ち込んだ気分を振り払うべく、メリーにも負けず劣らずの端正な横顔を見上げた。
「先生は全然変わらないわね」
「そうかな? まあ私はそれなりに歳を重ねているから。しかし、トレサ君は見違えるように成長したね」
「え、本当?」
 せっかくの魔法も中途半端だったのに、一体どこから成長を読み取ったのだろう。サイラスは目を細める。
「少なくとも、一人きりで岩窟に挑んでいなくて安心したよ」
「もう……先生ってばテリオンさんみたいなこと言って!」
 トレサはむくれた。サイラスは、旅に出る前の彼女が海賊のアジトに単身で突入した話を引き合いに出していた。まったく彼にとってのトレサはどれだけ無茶なことをしでかす存在なのだろう。
「それはどういう意味かな」
 首をかしげるサイラスに対し、テリオンがため息混じりに、
「……あんたはずっと変わらないよな」
「ほう、具体的に説明してもらえるかい」
「絶対に嫌だ」
 テリオンはつんと顔をそらして先に行ってしまう。パウルがおやおや、と笑っていた。
 トレサは久々に旅をしていた頃の感覚を取り戻していた。いつもどおりの学者と盗賊を見られただけでも、冒険した甲斐はあったというものだ。



 いつしか雲は去り、リプルタイドの空に晴れ間が戻る。やっと帰りついた港は、何故かトレサたちが出る前よりもいっそう賑わっていた。
 波止場には漁師や船乗りだけでなく、何故か鎧姿の兵士がいた。赤い地に獅子の紋章が染め抜かれたあの前垂れは――
「もしかして、ウォルド王国の兵士……?」
 仰天するトレサの横で、サイラスが首を縦に振った。
「私が話を通しておいたからね」
 話って何? いつの間にそんなことをしてたの?
 混乱しながら質問を重ねようとした時、人ごみの中から誰かが飛び出してきた。
「パウル先生!」
 金髪をなびかせて駆け寄るのはメリーだ。その後ろには何故か兵士たちが付き従う。トレサはぎょっとして身を引いた。
 混沌とした状況を平然と受け止め、パウルは柔和に笑う。
「メアリー殿下、お久しぶりです」
(……殿下?)
 仕立ての良い服に輝くような美貌、あふれる品位。もしかして彼女はウォルド王国の……?
 さあっと全身から血の気が引いていく。トレサは隣にいた盗賊の腕を引いた。
「テ、テリオンさんは気づいてたの……?」
「いや。今初めて知った」
 テリオンはあっけらかんと答えた。そんな超重要人物を二人きりで護衛していたのか。トレサは口から心臓が飛び出そうになる。
 ウォルド王国の兵士は間違いなくメアリーの警護役だ。それなのに王女が一人で行動していたのは何故だろう。なんだか頭がこんがらがってきた。
 パウルはあくまで穏やかに嗜める。
「殿下は私を迎えに来てくださったのですね。しかし護衛を置き去りにしてしまうのは、いくらなんでもおてんばが過ぎますよ」
「はい……反省しています」
 メアリーはしおらしく頭を下げた。やはり黙って城を抜けてきたらしい。正直パウルはもう少し怒ってもいいのでは、とトレサは思う。
 そんな時、人垣を割って別の者が話に割り込んだ。
「まあ待てよ。難破した船の回収が早かったのは殿下のおかげだぞ」
 今度はレオンの登場だ。彼の説明によると、メアリーは海峡からリプルタイドに戻った後、町にいた兵士に見つかってしまった。しかし彼女は動じることなく素性を明かして兵士に指示を出し、難破船の後始末を手伝わせたという。
 そのおかげでこんなに早くにぎわいが戻ったのだ。トレサが感心していると、すうっとサイラスが前に出る。
「殿下、ご無事で何よりです」
 メアリーの顔がこわばった。「サイラス先生……」
 トレサはやっと思い出す。ウォルド王国の王女様といえば、サイラスが家庭教師をしていた相手ではないか。彼はパウルの後を継いでメアリーの教育を担当したのだろう。
 サイラスは王女を咎めず、淡々と事情を説明する。
「私はアトラスダムを出発する直前に、あなたがいなくなったという話を聞きました」
 王女はパウルを迎えるためリプルタイドに向かったと推理したサイラスは、兵士とともに街道を南下した。その後、たまたまパウルの乗るボートを見つけたので、自分は波隠れの岩窟に赴き、兵士たちはリプルタイドに先回りさせたらしい。
「パウル氏のことがあったとはいえ、お一人で行動したのは何故ですか」
 その質問にメアリーがうつむく。王女の失踪を知ったアトラスダムはきっと大混乱に陥ったのだろう。サイラスが指摘せずとも、多方面に迷惑をかけたことは彼女も重々承知しているようだ。
 波止場はいつの間にかしんと静まり返っていた。皆、隣国の王女を遠巻きにしている。
「話しにくいなら俺の船に来るかい?」
 レオンが気を利かせて提案した。「……ありがとうございます」と言ったメアリーは、兵士を下がらせて船に乗り込む。彼女と船長の他にも、関係者としてトレサ、テリオン、サイラス、パウルが同じ船室に入った。
 普段は食事の際に使うであろう広い部屋へ案内される。聴衆の数は減ったが、それでもメアリーは黙ったままだった。よほど口に出しづらい事情があるのだろう。
 トレサはふと、王女が目を輝かせて旅の話をねだったことを思い出す。
「もしかして、殿下は旅に出たかったんですか……?」
 メアリーは顔を上げた。
「……その通りです」
 王女は自分の生活に窮屈さを感じていたのだろう。それがどれだけ切実なものかは分からないが、共感はできる。おそらく、メアリーはかつてのトレサと同じように「あの水平線の向こう」にあこがれた結果、小さな冒険を満喫したくなったのではないか。
「だって、サイラス先生は好きな場所に行けるのに……どうして私だけ城に残らなくてはいけないのか、と考えてしまったのです」
 メアリーが全身を震わせる。この言葉には、部外者が推し量るよりもずっと複雑な感情が込められているのだろう。殿下、とパウルが気遣うようにつぶやく。
 周囲の視線がサイラスに集中した。
「私の研究には移動が必要ですから。陛下にも了承を得ています」
 彼は冷淡とも言える返事をした。メアリーの顔が一瞬泣きそうに歪んだので、トレサはどきりとした。
「……サイラス先生は、私を探しにコーストランドにいらっしゃったのですよね」
 メアリーは小さな声で尋ねる。サイラスは彼女の状態を気にした様子もなく、
「あなたを見つけて、その後研究の旅に出るためです。こちらのテリオンとリプルタイドで待ち合わせしておりまして」
 名指しされたテリオンは居心地悪そうに身動ぎした。え、とトレサは息を漏らす。
 もしや、岩窟で学者と盗賊が顔を合わせても一切驚かなかったのは、互いに「相手がいてもおかしくない」と思っていたからなのか。
 それを聞いた瞬間、メアリーからどす黒い感情が吹き出した。船室の空気が一気に重くなる。
「そう、ですか……」
 言葉を区切った彼女は、何故かテリオンに向かって眉を吊り上げる。
「あなたがアトラスダムから盗んだのですね」
「……は?」テリオンは間の抜けた顔をした。
「とぼけないでくださいっ」
 突如として勃発した修羅場に、トレサは戸惑いを隠せない。メアリーはテリオンの生業を知らないはずなのに、何故「盗んだ」などと言うのだろう。
「殿下、一体どういうことですか」
 サイラスの質問にメアリーはぷいと横を向いてしまう。学者はテリオンに目を向けて、
「キミはいつアトラスダムに来たんだい?」
「……ここ数年、足を踏み入れてすらないぞ」
「彼はこう言っています。何かの間違いでは?」
 いよいよメアリーは爆発した。
「間違いなどではありません! この人は国の……いえ、私のもとから大切なものを奪ったんです!」
 悲鳴のような声が船室に響く。トレサはその迫力に圧倒されながら、メアリーの真意を推測した。
 王女は自由に旅をする教師を羨んでいたらしい。そして、テリオンが何かを盗んだと主張している。この二つを結びつけて考え、あることに思い当たった。
 だがサイラスはなおも悩んだ様子で、
「ううむ、これは謎だな。町に入らずにものを盗む方法があるのか……?」
「あるわけないだろ。俺は断じて何も盗んでないからな」
「やはり殿下の勘違いだろうか」
 テリオンの口元が引きつっていることに、サイラスは一向に気づかない。
(サイラス先生、違います。盗まれたのはものじゃなくて――)
 思わず具申しようとしたトレサを、テリオンがものすごい形相でにらみつける。
「い、言わないわよ!」
「……どうだかな」
「まさかトレサ君も心当たりがあるのかい?」
「えーとえーと、ありません」
 我ながら下手な嘘だった。
 一年経ってもサイラスは相変わらずの調子だった。これではテリオンも言い出す気になれないだろう。
 メアリーはテリオンに向き直り、きっぱりと告げた。
「私の目が届くうちは、あなたがアトラスダムに立ち入ることを禁止します。これ以上盗まれたらたまりませんからね」
 テリオンは憮然とした顔であごを引いた。サイラスが慌てて割り込み、
「殿下、そこまでしなくともよいのでは」
 メアリーは唇を閉ざしたまま答えない。代わりにテリオンがかぶりを振った。
「別にいい。あんたとは外で会えばいいだけだからな」
「私と? まあそうだけれど、それと殿下の大切なものが盗まれた話と一体何の関係が」
「……サイラス、一旦黙った方がいいぞ」
 年下の盗賊にぴしゃりと言われ、学者は素直に口をつぐんだ。トレサはテリオンを肘で小突いてささやく。
「ね、メアリー殿下って、テレーズさんみたいに先生のことが……?」
「違うだろ。勉強に熱心すぎるだけだ」
 なるほど、今の宣言はきっと「サイラスがアトラスダムにいる間だけは彼の生徒でいたい」という願望のあらわれなのだろう。向学心が強すぎるのも困ったものだ。
 メアリーは家庭教師に刺々しい視線を向けた。
「これからはパウル先生に学びますから、サイラス先生はどこへでもお好きな場所に行ってください!」
「ええ、きっとパウル氏からは良い学びが得られますよ」
 サイラスはにこやかに返した。もはや何も伝わっていない。メアリーが一人でアトラスダムを飛び出したのは彼への当てつけだったのでは、と考えてしまった。
 憤慨したメアリーは失礼しますと頭を下げ、そのままパウルの腕をとって船室の外に出ていく。
「嬢ちゃんのとこの先生はやるなあ」
 話を聞いていたレオンはのんきに感心し、腕組みを解く。
「とにかくこれで一件落着だな。俺も早いところ商売に戻るか」
 次いで彼は何気ない動作でテリオンに袋を投げ渡した。
「給金だ。またお前と船に乗れる日を楽しみにしてるよ」
「ああ、機会があればな」
 テリオンは片手を振って船室を出る。サイラスが一礼して続き、トレサは取り残された。
「そうだ、店の仕入れのことすっかり忘れてたわ……」
 額に手を置く。今頃、両親はなかなか帰らない娘を心配しているだろう。
「悪いけど嬢ちゃんの分の品は確保してないぞ。ま、王女様と知り合いになれたなら十分な収穫だったろ」
 これで知り合いになったと言えるのだろうか。テリオンの一味として逆恨みされていなければよいのだが。
 埒の明かない思考に囚われかけ、トレサは頭を振った。
(さあ、これからどうしよう?)
 仕入れを再開するか、一度家に帰るか、それとも――逡巡するトレサを見て、レオンが快活に笑った。
「今の嬢ちゃんは俺と最初に会った日と同じ顔をしてるな」
「え?」
「旅に出たくて仕方ないって顔だ。お仲間のことは追いかけなくていいのかい?」
 レオンの言葉がすっと胸に入ってきた。
 やはり、トレサはこの程度の冒険ではもう満足できない。今朝石橋を渡った瞬間から、両足は街道の向こうに走り出したくてうずうずしていた。
「ありがとう、レオンさん!」
 トレサは元気よく挨拶して船を降りた。
 王女が去った港は元の調子に戻りはじめている。人波の中で旅仲間を探せば、すぐに黒と銀の頭が見つかった。
 彼らは雑談しながらトレサを待っていたらしい。サイラスが話しかけ、テリオンも当たり前のように返事していた。あのぎくしゃくしてばかりだった二人と同一人物とはとても思えない。もともと学者も盗賊も似た性質を持っているから、相性自体は良かったのだろう。心理的な壁が取り払われた今、二人はごく普通に会話していた。
「トレサ君、おかえり」
 サイラスがこちらを見つけてほほえんだ。テリオンは横目で一瞥しただけだが、きっと学者よりも前に気づいていたに違いない。
 トレサはおもむろに質問した。
「二人はここで待ち合わせしてたのよね。定期的に連絡でも取ってるの?」
 テリオンがかぶりを振った。
「そんなことはしてない。サイラスが勝手に俺の居場所を探り当ててくるんだ」
「へえ……?」
「今回はレオン船長と行動していたから簡単だったよ」
 屈託なく笑うサイラスを見て、トレサの頭に「かくれんぼ」という単語が久々に蘇った。これは彼らなりの遊びなのでは、と思えるほど無邪気な雰囲気だった。
 サイラスはにこりとして、
「さて、準備はできているんだね、テリオン?」
「仕方ない。そういう約束だったからな」
「えっ何の話?」
 いきなり二人の間だけで通じる話題を出され、トレサは唇を尖らせた。サイラスが明朗に答える。
「旧ホルンブルグ領に調べ物をしに行くんだよ。フィニスの門関連の研究は、やはり現地に行かないとなかなか進まなくてね」
「二人で?」
「いや、オルベリクも途中で合流する」テリオンが付け加えた。
 何それ、聞いてない。トレサの胸にむくむくと黒い雲が湧き上がる。これはきっと、先ほどメアリーが抱いたものと似た気持ちだろう。
「もしかして、今まで何度も二人で旅してたの……?」
「調査のためにね。ダスクバロウに行く用事もあるから、近頃は月の半分ほどアトラスダムを留守にしているんだ。ホルンブルグに行く時は毎回彼を誘っているよ」
 いくら例の魔法陣があっても、移動にはそれなりに時間がかかる。研究のためとはいえ、やっと帰ってきた先生がほとんど学院にいない状況では、メアリーが「盗まれた」と言うのも道理だった。王女があれほどテリオンを目の敵にしていたのは、アトラスダムでサイラスが旅の同行者の存在をほのめかしていたからだろう。
 一方のテリオンも、どうやらサイラスの誘いを受ける度に仕事を変えているようだった。なんというかそれは――トレサはこぶしを振り上げた。
「ず、ずるい! あたしも行きたいっ」
「はあ?」
 テリオンが呆れたように腕を組む。
「あたしに黙って二人で楽しいことしてたんでしょ。なんで誘ってくれなかったのよ!」
 思いっきりわがままを言ってやった。サイラスは困惑したように、
「あくまで研究が目的だよ。キミの商売の参考にはならないと思うが」
「でも行きたいのよ!」
 畳み掛けると、サイラスはほおを緩めた。
「そうか、キミが来てくれるのは嬉しいよ」
 アトラスダムで多くの女生徒の心を掴んだ笑顔が向けられる。トレサはそれにときめくことはないけれど、表情自体は好きだった。
「ならば、久々にトレサ君のご両親に挨拶しなければね」
「あとで文句を言われたら面倒だからな。筋は通しておくべきだ」
 二人はあっさりと同行を受け入れた。トレサは顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「ありがとう!」
「ついてくるからには働いてもらうからな。学者先生の荷物は多くてかなわん」
 テリオンがこれ見よがしに肩を落とした。サイラスはすぐさま反論して、
「トレサ君に持たせるわけにはいかないだろう。自分で運ぶよ」
「あんたの腕力なんて誰も期待してないんだが」
 二人はテンポよく言葉をかわしながら、トレサの歩調に合わせて石畳を踏む。
 トレサは胸の中でこっそり笑った。サイラスは旅が終わればアトラスダムに篭りきりになるかと思っていたけれど、実際はまったく違った。メアリーや生徒たちには申し訳ないが、サイラスがこうやって好きなタイミングで旅に出られる立場になって本当に良かったと思う。
 そう、確かにテリオンは決して盗めないはずのものを盗んでいたのだ。
「どうした? 置いていくぞ、トレサ」
 いつの間にか立ち止まっていた彼女を、テリオンが振り返る。見た目が大きく変貌した彼は以前と同じ心を持ち、容姿の変わらぬサイラスは一介の教師から着実に進歩しつつあった。
 旅を終えて一年も経てば、あらゆるものが移り変わる。けれどもこの関係だけはずっと同じようにあり続けるだろう、とトレサは確信を持った。
「もしかして、何か心配ごとでもあるのかい。ご両親の説得なら手伝うつもりだが――」
 サイラスが柳眉を下げて気遣う。彼女はぶんぶん頭を振った。
「ううん、むしろ逆よ。もっと旅が楽しみになっただけ!」
 トレサの晴れやかな返事に、二人はそろって首をひねる。
 たとえ一度足を踏み入れたとしても、「あの水平線の向こう」がまったく新鮮味のない場所になることはない。故郷で暮らす日々に決して飽きがこないことと同じように。
 変わりゆく仲間とともに進めば、見知った街道も未知へと続く航路になるのだ。

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