白の外へ

 真っ白な景色に汚れのない法衣が溶け込んでいた。
 夕暮れ時のフレイムグレースは雲がかかって薄暗い。そんな中、腰をかがめて子どもと話すその男は、背景に馴染んで見えた。
 オフィーリアは胸を打たれた。雪の中でひらひら揺れる布地は、彼女がよく知るものと違う。
 ――本来なら、彼のまとう衣は黒でなくてはならなかったのに。
「まあ、サイラス先生に遊んでいただいていたのね」
 息子の姿が見えなくて心配だと言っていた母親は、ほっとしたように案内役のオフィーリアの導きから外れ、小走りでサイラスに近づく。
「ありがとうございます先生」
「いえ、こちらも充実した時間を過ごせました」
 ベストの上に白い法衣をまとった学者は柔和に笑う。彼はこの町の子どもたちによく懐かれていたから、きっと息子の方から話をねだったのだろう。男の子は母親にしがみつき、サイラスへと手を振った。
「サイラス先生、またね」
「ああ、次の機会を楽しみにしているよ」
「気をつけて帰ってくださいね」
 オフィーリアもお辞儀をして母子を送り出した。その姿が見えなくなってから、サイラスがこちらに向き直る。
「さあ、私たちも帰ろうか」
「はい」
 さくさくと雪を踏み、二人で並んで帰路につく。道中サイラスは弾んだ声で語った。
「フレイムグレースの子どもはとても元気だね。寒さで鍛えられているのだろうか」
「ええ、みんな雪に負けず外で遊ぶんですよ。だから子どもに付き合うのは少し大変なんです」
「確かに心地よい疲労があるな。今日はすぐ眠れそうだ」
 彼はからりと笑った。その横顔に、オフィーリアはつい別の感情を探してしまう。
 ――サイラスがフレイムグレースにやってきたのは一ヶ月ほど前だ。
 アトラスダムに辺獄の書を持ち帰った彼は、王立学院の新学長を決める政争に巻き込まれ、またもや教師の地位を追われかけたという。くわしいことはオフィーリアも知らない。国王に上申すれば助けてもらえたはずなのに――おそらく王家も援助の手を伸ばしただろうに、サイラスはそれを受けなかった。
 彼の窮状を噂に聞いたオフィーリアは、自らアトラスダムに赴いてこう申し出た。
「サイラスさん、よろしければフレイムグレースに来ませんか。今のわたしなら……あなたを守れると思います」
 式年奉火の儀式を達成した彼女は周囲から一目置かれるようになっていた。昇進を推挙する声もちらほら聞こえるくらいだ。その立場を使ってあらかじめ教会に話を通した上で、サイラスを誘った。
 彼はずいぶん悩んだ様子だったが、最終的に提案を飲み込んだ。アトラスダムから居を移し、今はオフィーリアとともに大聖堂で暮らしている。
「オフィーリア君」
 回想は涼やかな声に破られた。とっさに表情を取り繕う。
「はい、なんでしょう」
「キミは近頃悩み事があるね?」
「え」
 貼り付けた笑みが返事ごと凍りついた。彼は柳眉をひそめる。
「憂える顔が美しくないと言えば嘘になるが、キミには笑顔の方がずっと似合っているよ」
 いつもの美辞麗句に、オフィーリアは表情のこわばりを解いた。
「すみません、ご心配をおかけして」
「もしかしてウィスパーミルの件かい? リアナさんが行く予定だと聞いたよ」
 義理の姉妹が「あの村の後始末に向かいたい」と教皇に願い出ていることを、サイラスは知っていたのだ。オフィーリアはまぶたを閉じる。
「はい……やはり、リアナは黒炎教のことを気に病んでいるようです」
 この返事は嘘ではない。だが、今一番頭を悩ませている話とは別だった。
 サイラスはやわらかく続けた。
「キミが気にかけるのも無理はないよ。私のことは気にせず、リアナさんとともに行ってくるといい」
「そんな」
 動いたほおに雪のひとひらが触れた。いつの間にかたどり着いた大聖堂の前で、オフィーリアは彼に正対する。
「違うんです、サイラスさん。わたしは――」
「二人とも、そんな場所にいたら風邪を引いてしまうわよ?」
 ちょうど大聖堂の入口に出てきたリアナが首をかしげた。「おっとそうだね」とサイラスが応じ、話はうやむやになる。
「また夕食時に会おう」
 入口をくぐり、彼は廊下を左に折れた。大聖堂内の図書室に向かうのだろう。オフィーリアは黙って白い背中を見送る。するとリアナが小声になって、
「ねえ、前から聞きたかったんだけど……オフィーリアはサイラスさんのことが好きなの?」
 いきなり切り込んできた。オフィーリアはびくりと肩を跳ねさせる。
「……そのように見えましたか?」
「だって、旅をしている時もずっと一緒だったでしょう? 気にならなかったはずはないと思うけど……」
 好奇心からの問いではなく、単純に疑問を抱いているようだ。オフィーリアは深呼吸して心を落ち着ける。
 思えばリアナとこういう話をすることはほとんどなかった。身近な異性といえど、教会関係者は家族のようなものだから、オフィーリアは式年奉火の旅に出るまで誰かに思いを寄せたことはなかった。その後、サイラスや他の男性と出会い、心境に何か変化があったのではないか、とリアナは言いたいのだろう。
 そんなオフィーリアにも理想の男性像はある。思いやりがあって清潔で、文武両道で常識があって、自分に厳しく他人に寛容で、上背があって包容力もあるような――と言ったら旅仲間には呆れられたけれど。
 実を言うと、サイラスはその大部分を満たしている。それを分かっていて彼女は首を振った。
「サイラスさんのことが気になるのは間違いありません。ですが、この気持ちは……少し違うと思います」
 胸に手を当てれば、いつしか鼓動は平常に戻っていた。やはり、自分がサイラスに向ける思いは、例えばテレーズが抱くような恋心ではない。
 リアナは小さく笑った。
「試すようなことを言ってごめんなさい。私もそうじゃないかと思っていたわ」
「え?」オフィーリアはぱちぱちと瞬きする。
「サイラスさんと旅をするあなたは、父様といる時みたいに安らいだ顔をしていたもの」
 式年奉火の旅の間にリアナとサイラスが関わったのはほんの一瞬だったのに、そこまで観察していたのか。驚くオフィーリアに対し、リアナは眉根を寄せる。
「でも今はなんだか不安そうだわ。もしかして……サイラスさんをここに連れてきたこと、後悔しているの?」
 言葉が胸に刺さり、ごくりとつばを飲む。
 今のサイラスは学者のローブではなく、神官の法衣をまとっている。本当の神官になったわけではないけれど、あまり目立たない方がいいだろうと言って、彼は自らローブを脱いだ。
 あの姿を見る度、オフィーリアの心は揺れてしまう。彼女は力なくかぶりを振った。
「後悔しているのかは分かりません。ただ、どうしてもアトラスダムに残してきた生徒さんのことを考えてしまうんです」
 テレーズや他の生徒たちからサイラスを取り上げてしまったのではないか、という危惧が拭えない。他ならぬサイラスが選んだことと言えど、選択肢を提示したのはオフィーリアだった。
「サイラスさんはどこに行っても必要とされる人だものね……」
 しんと静まり返った廊下で、リアナがオフィーリアの肩に手を置く。重なる体温から気遣いが伝わってきた。
 ウィスパーミルに赴く姉妹を心配していたはずが、逆に励まされている。そのことも相まって、オフィーリアは胸が苦しくて仕方なかった。口をつぐむ彼女に、リアナがそっと声をかける。
「オフィーリア。サイラスさんがどうしてここに来たのか、今の状況をどう思っているのか、まだ聞いてないんじゃないの? ご本人に直接うかがった方がいいわ。一人で悩み続けても袋小路に入るだけだって、あなたが私に教えてくれたのよ」
 確かにオフィーリアはサイラスの真意を知らなかった。本当に現状に満足しているのか、置いてきた生徒のことをどう思っているのか、全ては白いもやの中である。
 オフィーリアの吐息が震えた。
「でも、聞いてもいいのでしょうか。サイラスさんにとっては触れてほしくないことかも……」
「同じ大聖堂に住んでいるんだから、もう家族みたいなものよ。少しくらいはわがままも聞いてもらえるわ」
 リアナの言うとおり、二人はもはや旅仲間とは違う関係になった。であれば、もう一歩踏み込むことも許されるはずだ。
 覚悟を決めて、きっぱりと顔を上げる。
「……そうですね。わたし、行きます。サイラスさんから直接聞き出してみます」
「いってらっしゃい、オフィーリア」
 姉妹の和やかな笑顔に送り出され、彼女はしんと冷え切った廊下を小走りで通り抜けた。



 図書室の閲覧席にて、サイラスはくつろいだ様子で本を読みふけっていた。
「サイラスさん」
 近づいて静かに声をかけると、彼はすぐに紙面から目を離す。
「オフィーリア君。もう夕食の時間だったかな」
「いえ。少しお話がしたくて……お時間よろしいですか」
「構わないけれど、場所を変えようか?」
「大丈夫です。そんなに長くかかりませんから」
「他の利用者もいないようだし、多少の会話は問題ないかな。……もったいないことだが」
 広い図書室を見回したサイラスは心底残念そうにつぶやく。オフィーリアはくすりと笑った。
 二人きりの部屋には親密な空気が流れていた。こういう何気ない時間を彼と過ごせることは単純に好ましい。しかし、オフィーリアは「それがずっと続いてほしい」とはどうしても思えなかった。
 彼女は勧められた椅子に腰掛け、意を決して口を開いた。
「サイラスさん、あなたはどうしてフレイムグレースに来たのですか? もちろんわたしが誘ったことも理由の一つでしょう。ですが、アトラスダムにとどまる選択肢もあったのではありませんか」
「そのことか」
 サイラスは本を閉じて姿勢を正した。二人は真正面から向かい合う。
「キミにはまだ話していなかったね。実を言うと、今のアトラスダムから距離を置くためなんだ」
「えっ」オフィーリアは目を丸くした。
「イヴォン学長の不正を暴き、辺獄の書を持ち帰ったことで私は難しい立場に置かれている。出世と言うと聞こえはいいが、分不相応に持ち上げられて、実務から遠ざけられそうになったんだ。そのため、ほとぼりが冷めるのを待っていてね。これは陛下もご承知の話だよ。
 ……キミを利用するような形になってしまって、本当にすまない」
 サイラスは深々と頭を下げた。理解が進むに連れて、じわじわとオフィーリアの顔がほころんでいく。
「いえ……むしろ安心しました。わたしはあなたの可能性を狭めてしまったとばかり思っていましたから。テレーズさんにもなんと謝ればいいのか分からなくて……」
 ぽつぽつと答えると、サイラスは額を押さえた。
「やはり心配をかけていたのだね。キミの好意に甘えてつい話さずにいたが、申し訳なかった。
 あの誘いは本当に嬉しかったよ。アトラスダムから距離を置くとはいえ、連絡もつかない場所に雲隠れするわけにもいかず、困っていたんだ。
 そんな時にやってきたキミは、まさしくエルフリックの使いのように見えたよ」
 サイラスに手を握られる。リアナとはまったく違う温度と感触に、心がさざ波を立てた。
「それでは、サイラスさんはいつかアトラスダムに帰るのですね……」
 返事には安堵だけでなく心細さがにじんでいた。オフィーリアは自分の声色に驚いてしまう。
 サイラスの行く末を案じていたはずが、今度は帰ってしまうのが惜しくなるなんて。我ながら勝手なものだ。
 オフィーリアの内心を知らず、サイラスは明るい笑みをこぼす。
「いずれは、ね。でも今はこの町で学びを深めたいんだ。教会建築についてもまだ調べきれていないし、聖火教会史にあった記述の検証も途中で――」
 心地よい低声を、オフィーリアはほおを緩めて拝聴する。
 サイラスの行動を制限しているのではないかと不安に駆られたのは、己の本来の望みと真逆だったからだ。オフィーリアは誰かの中心にいる彼を見ていたかったし、彼が学者としての類まれな能力を発揮する手伝いをしたかった。
 それさえ叶えば別段自分がそばにいる必要はない、と思っていたのだが――
(もう少しの間だけは、サイラスさんの隣にいてもいいですよね?)
 彼女は胸の中でこっそり聖火神とヨーセフ大司教に祈りを捧げ、小さなわがままの許しを請うた。

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