学者は独り征く

 ――かくして、学者サイラスは旅立った。学院の書庫から失われたという一冊の書物……「辺獄の書」に秘められた謎を探るために。彼にどんな運命が待ち受けているのか、今は誰も知らない――
 もしも己の伝記でもあれば、旅のはじまりにはこんな文章が綴られるのだろうか。
 つらつらと考えながら町の門をくぐり、橋を渡って東アトラスダム平原に出る。
 目の前に柔らかな草の絨毯が広がっていた。いつか見たものとほとんど変わらぬ風景だ。あの時と異なるのは、景色ではなく己の心境だろう。
 まさかこんな事態になるとは……。
 小さく嘆息が漏れる。落胆しているわけではないが、戸惑いはあった。
 数日前に発生した聖火教会史の盗難事件は意外な幕切れとなった。己に降って湧いた不名誉の噂と、それに乗じた国王陛下からの依頼――こんなタイミングでの旅立ちになると誰が予想しただろう。
 しかし、いい機会だと思った。町に生徒たちを残すのは心苦しいが、オデット先輩に会いに行くまたとないチャンスでもある。
 のんびりと足を運びつつ、荷物を探って手紙を取り出した。陛下からフレイムグレースの大司教に宛てたものと、ボルダーフォールのレイヴァース家に己の身分を証明するための書状、そして十年前にクオリークレストのオデットから届いた便りだ。喫緊の用事は、もちろん式年奉火の運び手と顔を合わせることである。西に向かえば順番に大陸を巡ることができるだろう。
 道しるべの看板をしっかりと確認し、フレイムグレース方面へと一歩踏み出した。
 丘の上に風車が建っている。よく手入れされているようで、木で枠を組んだ羽根はなめらかに回転していた。今年は小麦がよく獲れたから、風車もなおさら張り切っているように見える。
 長旅の経験は皆無と言えど、フィールドワークなら何度もしてきた。フラットランド内ならそれなりに土地勘がある。長期の道行きに必要な体力は、旅をする中で身につけていくしかないだろう。
 街道を歩いていると、視界の端でがさりと低木が揺れた。はっとして身構えれば、緑の大蛙が三匹転がり出てきて立ちふさがる。手には粗末な槍を持っていた。
 フロッゲンか。確か氷が弱点だったはず。図鑑の記述を思い出した瞬間、唇は自然と魔法の詠唱を紡いでいた。
 冷気が走り、散開した魔物のうち二匹を巻き込んで氷像が出来上がる。撃ち漏らした魔物は短い足を意外にすばやく動かして、こちらに肉薄してきた。突き出された槍を、とっさに振り上げた杖で受け止める。削って尖らせた石の先端がこちらを狙っていた。身を捻って槍の柄から杖を外し、反撃に転じる。杖で相手の胴部をしたたかに打ったが、効いているかは怪しい。そのまま距離をとって再び氷結魔法を放ち、相手が凍ったことを見届けてからさっさとその場を離れた。
 やはり接近戦は避けた方が良さそうだ。正直言って自信がない。しかし、すべての敵に魔法で対処することはできないだろう。気づかぬ間に魔物の接近を許すような事態も、今のうちに想定しておくべきか。
 うんうん悩みながら草原をゆく。太陽の傾きに従って時は流れ、やがて北アトラスダム平原に差し掛かった。フロストランドの白銀の峰が見える。足を動かせば動かすほど景色が近づくのが面白くて、ついハイペースで進んだ。幸い魔物はあれ以降出現しなかった。
 ふと道端の野草を調べると、見慣れぬ種類のものだった。フラットランドの中央部と異なる植生になったのだ。行手は上り坂になり、だんだん標高が上がってくる。街道は比較的傾斜がゆるやかだが、それでもフレイムグレースに到着するまでに軽く山を超えなければならない。今日中にどこまで進めるだろう。
 少し息切れしたので、坂の途中で立ち止まって地図を取り出した。
 道は合っている、だろうか……?
 じっくり地図を見返して、現在地を特定できていないことに気づいた。本当に己は地図と同じ街道を歩いているのだろうか。少なくともここまでは一本道だったはずだが。近頃は慣れたアトラスダム周辺を探索してばかりで、見知らぬ土地ではいまいち方向感覚が掴めない。ろくな予習もなしで来るべきではなかったか。
 いや、この先の旅では毎日のように予習している時間などないかもしれない。その場での対応力が問われるのだ。
 気を取り直して少し歩く。道の分岐点があった。看板は出ていない。
 ゆくべき道に自信がないなら、分岐点を覚えておいて、間違っていた場合はここまで戻ってくるのが得策だろう。
 という考えのもとに一つの分岐を選んだ。ほどなく平原が終わり、鬱蒼とした森が近づいてくる。地面はみるみる平坦になっていった。
 やはり違う気がする……。
 一旦草の上に腰をおろし、空腹を抑えるためブドウを食べつつ考える。分岐点に戻ることで迷子にならずに済んだとしても、その分体力は消耗するし無駄な時間もかかる。やはり道は間違えないに限る。
 あたりは次第に暗さを増してゆく。傾斜と樹木で太陽が遮られるため、アトラスダムよりも日没が早いのだ。
 焦りを感じた時、突如として近くの茂みが音を立てた。姿を現したのは白い肌を持つ二足歩行の蜥蜴だ。フロストランド特有の進化をしたリザードマンである。あちらの地方に近いため、越境してきたのだろう。
 慌てて荷物を放り出し、炎よ、と定められた文言を唱える。基本の三属性の魔法を扱うことができて助かった。そうでなければ、こうも様々な種類の魔物に対応できなかっただろう。
 ……あれ?
 草を焦がしながら迫る炎に、リザードマンは足で地面を蹴って土をかけた。熱波の勢いが弱まり、残りの炎は魔物の体表を軽く舐めるだけにとどまる。思わぬ対応をされて、しばし呆然と相手を見つめた。
 当然その隙を魔物が見逃すはずがない。勢いよく得物が突き出され、避けきれずに腹部に打撲を受けた。鈍い痛みが走る。
 おまけに、騒ぎを聞きつけて新手のリザードマンたちが集まってきた。じりじり包囲網が狭まる。どうにか対処しなければ――
 こめかみを流れた汗が滴り落ちる感覚に、閃きを得る。魔物の頭上に枝を伸ばす木立を狙って雷を呼ぶのだ。
 瞬速の詠唱により雷鳴が轟く。電気の塊により木の幹は裂け、ばらばらと枝葉が落ちてリザードマンを襲う。魔物たちがそれに気を取られている間に荷物を拾い上げて、一目散に逃げ出した。脇目もふらずに走って街道を外れると、膝の高さに伸びた草むらが足跡を隠す。おかげで追跡はかわせそうだが、ますます現在地が分からなくなった。
 まずい、フロストランドに入る前に一度夜を越すべきだ。このままでは遭難する。
 こういう時、一瞬で目的地に移動できる魔法があれば……と夢想した。いや、どこかでそういう論文を読んだ覚えがある。今は思い出せないけれど、頭に留めておこう。
 地面は再び上り坂になった。とにかく高い場所に行って視野を確保すれば、たどるべき道筋が見つかるのではないか。一縷の望みをかけて疲弊した足を動かし、無心で坂を駆け上がった。
 頂点に到達すると一気に視界が開ける。風が緑の香りを運び、首の後ろで結った髪を揺らした。そこは崖の縁だった。
 眼前には、夕焼けを受けて黄金色に染まるフロストランドの山並みが広がっていた。白い斜面が昼間のように明るいのは、陽光を反射して雪の表面が潤んでいるからだろう。
 吐く息の白さも忘れて、しばらくの間目を奪われる。
 きっと、自分はこういう光景を見るために旅に出たのだ。やはりこの依頼を引き受けて正解だった。
 ……しかし、未だに正しい街道を見つけられない事実が感動を妨げた。そろそろ魔物もいなくなっただろうと期待して、ほうほうの体で三叉路まで戻る。道を覚えていて良かった。
 最初の分岐点にたどり着き、薄闇の中でよく目を凝らすと、草の上に看板が落ちていた。根本から折れていたが、継ぎ合わせると確かに矢印がフレイムグレースの方角を示している。
 勝手に乾いた笑いが漏れる。今日はここで休もう。
 地面に腰を落ち着け、適当に見繕った枝に火をつけた。魔法の威力をコントロールしたつもりが、どうしても炎が大きくなる。なんだか年々火力が上がる一方なのは気のせいだろうか。
 肩から鞄を外すとほっとした。十分すぎるほど用意してきた食糧が荷物を圧迫していた。改めて中身を確認し、回復薬が少ないことに気づく。満腹の状態で怪我で死ぬなど、目も当てられない最期だろう。陛下の名誉を汚すどころではない。
 長いようで短い一日を平原で過ごして、悟った。自分一人で旅を続けるにはおそらく限界がある。強敵と遭遇した時、逃げるという手段すら取れなくなったらそこで終わりだ。無事に辺獄の書を見つけるためにも、素直に誰かを頼ろう。
 そう、自分には旅の連れが必要なのだ。
 幸いにも旅の連れになるべき人物は――最初となるか唯一となるかは分からないけれど、フレイムグレースにいる。その人は、己がなんとしてでも守るべき相手でもあった。
 思えば今日は、魔法を使う時以外ほとんど声を出さなかった。つい先日まで講義で喉を酷使していたことが嘘のようだ。誰かに今日の出来事を話したい。先ほど崖の上から見た景色を、あの時胸に込み上げた思いを共有してみたい。
 まだ見ぬ旅の同行者に思いを馳せると、久しく忘れていた感覚が湧き上がった。焚き火にあたためられたほおがそっとほころんだことを、今は自分だけが知っていた。

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