与えられない

 穏やかな日差しの降り注ぐノーブルコート東地区の広場にて、テリオンはある人物を待っていた。
 ベンチに座ってじっと目を閉じ、あたりの気配を探る。昔ほどではないがまだ感覚は衰えていないと安堵した時、小さな足音が近づいてきた。まぶたを開く前に正体を悟る。彼をここに呼び出した者だ。
 テリオンは左目をつむり、日向に立つその人物を見た。
「アトラスダムの学長先生のお出ましか」
「……そのことは内緒でお願いします、テリオンさん。わたしは一応仕事で来ていますから」
 笑って小さく肩を揺らしたのはテレーズだった。若い頃と同じつややかな銀髪を風に流し、ゆったりしたローブを着ている。歳を重ねて名誉ある地位についた彼女の物腰は堂に入っていた。
 テレーズはテリオンの横に腰を下ろした。二人の見つめる先では、小鳥が街路に撒かれたパンくずを食べている。
「よくここが分かったな」
 テリオンから話を切り出すと、テレーズはほほえんだ。
「きっとあなたはノーブルコートにいるだろう、とサイラス先生が言ってましたから。プリムロゼさんのお手伝いをしていたのでしょう?」
「また学者先生か……」
 思わず嘆息した。テリオンがこの町に来たのはつい最近なのに、相変わらず情報が早い。しかしサイラスは常にこちらの居場所を把握しているわけではなく、いつも「探そう」と思ってから見つけ出すらしい。何はともあれ、用事があれば連絡がつくのはありがたいことだ。
「で、俺を呼び出してどうした?」
「……ご相談があるのです」
 彼女は膝の上で手を揃えた。真剣な水色のまなざしを浴びて、テリオンはどきりとする。とはいえ、それを表に出すことはなかった。緊張や警戒のためではなく、単に感覚が鈍ったのだろう。互いに歳をとったものだ。初めてテレーズと出会った時は、サイラスを探してストーンガードの石段を何往復も上り下りした。テリオンはともかく、今の彼女にあの重労働は厳しいに違いない。
 数日前、テリオンは彼女から手紙を受け取った。「今度仕事でそちらに赴くので、少し会ってもらえないか」という話だった。テレーズから直接連絡が来るのは珍しい――というよりほとんど初めてである。
 ただ、テリオンはサイラスを通してちょくちょく学院の話を聞いていた。特にテレーズが学長となってからは、わざわざ話題を振らなくてもあちらから喜々として報告するようになったため、自然と情報が頭に入った。テレーズ側もきっと、同じようにサイラスからこちらの話を聞いているはずだ。
 テレーズと二人きりになるのは数十年ぶりだった。改まって相談とは何だろう。学院の外でなければできない話だろうか。
「まさか……サイラスのことか?」
 共通の話題と言えば真っ先にあの男が思い浮かぶ。テリオンはアトラスダムの中のことはさっぱりだが、外におけるサイラスの様子はだいたい把握していた。
「ええ、先生についてのお話です」
 テレーズはこっくりうなずいた。彼女はとうの昔にサイラスの地位を追い越したのに、未だに彼を先生と呼んでいた。
「……テリオンさんはご存知ないでしょうが、わたしは養子をとりました。そしてつい最近、彼がわたしの家を継いでくれたのです」
 ああそうか、とテリオンは不思議な感慨を覚える。彼らは伴侶を得るべき年齢を迎え、そろそろ世代が移り変わる時期に差し掛かっていた。サイラスもテリオンも特にそういうイベントがなかったので、遠い世界の出来事のように思える。テレーズが結婚せずに養子をとった、というのは何か事情があるのだろうか。
 彼女はぎゅっとこぶしを握る。
「そうです、わたしは十分に社会的な役割を果たしました。学長になったのも跡継ぎもつくったのも、すべてはこの時のため……わたし、いよいよ先生に告白しようと思うんです!」
 異様に力の入った宣言を聞き、テリオンはベンチからずり落ちそうになった。
「……まだ諦めてなかったのか?」
「あ、諦めてなんかいませんよ!」
 テレーズは真っ赤な顔で叫んだ。驚いた小鳥が空に逃げていく。史上最年少で王立学院の学長になった才女とは思えない、子どもっぽい姿だった。
 サイラスによると、彼女は学問よりも政治的な手腕に優れており、とんとん拍子で出世の階段を駆け上がっていったらしい。密告でサイラスを学院から追い出した過去を考えると、表沙汰にできないような手段も駆使したのだろう。「学長だから学院で一番頭がいい」というわけではないようだが、組織を運営する側としてはむしろそれでいいのかもしれない。彼女は誰よりも学問の重要性を分かっているから、的確に学者たちを支援できるのだ。
 おそらく彼女は、家の後継ぎを求める両親に対して面目を保つため、どうにか理由をつけて養子をとった。そして彼が独り立ちしたタイミングを見計らって、サイラスに告白しようとしているのだ。
(どれだけ外堀を埋めたら気が済むんだ……?)
 いささか慎重すぎるのではないか、とテリオンは呆れ返った。しかし上気する彼女の横顔は恋する乙女そのもので、どんな苦言も弾き返されそうである。
「昔のわたしなら先生に相手にしてもらえなかったでしょう。でもここまで来たら歳の差なんてほとんど関係ありません。やっと、本当の気持ちを伝えることができるんです」
 テレーズのひたむきさにテリオンは少し感動していた。彼女の想いはもう本物だろう。サイラスのあの態度にもめげず、何十年もそばで慕い続けてきたのだ。これほど本気ならひょっとして告白も成功するのでは? と思えてきた。
 しかし腑に落ちないことがある。テリオンは行儀悪くベンチに片足を引き上げ、立てた膝に肘を乗せて頬杖をついた。
「なんで相談相手が俺なんだ。別にプリムロゼでも良かっただろ」恋愛沙汰ならあちらの方がよほど得意ではないか。
「先生に異性として意識してもらうための方策を練りたいんです。テリオンさん、あなたと一緒に旅をしている時に、先生が……女性といい雰囲気になるようなことがありましたか!?」
 テレーズの必死の問いかけに、テリオンはしばし絶句した。
(そんなこと一回でもあったか……?)
 年を食ったとはいえ、サイラスは相変わらずどこに行っても見知らぬ女性に囲まれがちだが、特定の一人に対して明らかに態度を変えることは一度もなかった。
 そう伝えると、彼女はほっと肩の力を抜いた。
「ちょっと安心しました。なら、今のわたしは誰よりも先生と近いはずですよね。だってわたしは、ずっと前から先生のことが……」
 その時、テリオンは広場の向こうから高らかに響く靴音を耳に入れた。視線をすっと横に流す。
「テリオン、ここにいたんだね」
 ローブの金装飾をきらめかせたサイラスが歩いてくる。相変わらず黒々とした髪にしわひとつない肌という、「本当に歳をとっているのか」と尋ねたくなる造形だった。
 テリオンは前もって彼から連絡を受けていた。また研究のために遠出をしたいとの話だ。想い人が思わぬタイミングで登場し、テレーズは目を丸くしている。
 嬉しそうに寄ってきたサイラスは、ふとテリオンの隣に目をやった。
「おや、テレーズ君も――今はテレーズ学長と呼ぶべきかな。ごきげんよう学長。やはりキミもこちらに来ていたのか」
 サイラスは丁重にローブの裾をつまんで会釈する。
「や、やめてください。わたしにとって、先生は先生です」
 慌てて立ち上がったテレーズは、ほおを紅潮させてサイラスを見つめた。テリオンは「席を外そうか」と目で問う。しかし彼女はまだ踏ん切りがつかないようで、小さく首を横に振った。
 二人の水面下のやり取りに気づかず、サイラスはほおをほころばせた。
「そうか、ありがとう。私にとってもキミは大切な生徒だよ」
 嘘偽りのない台詞だろう。しかしテレーズは顔を曇らせる。「大切な生徒」では、彼女の望む地位はいつまで経っても得られないのだ。さてどうする、とテリオンはその横顔を見やる。
 テレーズはまっすぐサイラスに熱視線を送った。
「わたし……サイラス先生にお伝えしたいことがあるんです」
(待て、ここで言うのか……!?)
 今にも告白がはじまりそうな雰囲気だ。テリオンはこの場から逃げ出したくなったが、そうすれば間違いなくサイラスに見咎められるだろう。せっかくの空気をぶち壊すわけにもいかず、彼はじりじりと後退するだけにとどめた。
 案の定、サイラスは場に漂う緊張をよそにきょとんとしている。
「私に? もしかして、学院では話しづらいことかな」
「ええ……あの、わたしが学長になった理由をまだお話ししていなかった、と思いまして」
 回りくどい言い方だ。ここからどうやって告白に持っていくのだろう。迂遠な方法では相手に届かないのでは、とテリオンは余計な気を回してしまう。
 サイラスはのんきに相槌を打った。
「そうだね。学者はともかく、キミが学長まで目指すとは思っていなかったよ。どうしてだい?」
「……先生はどういう理由だと思いますか?」
 慎重に尋ね返すテレーズに、彼はひとつうなずく。
「メアリー陛下と連携するためだろう。キミが学長になった今、陛下はより一層ご自身の考えを基盤にして政策を進めているからね」
 やはりこの男は、教え子が組織のトップに立った原因がまさか自分だとは夢にも思っていないらしい。
 テリオンがはらはらしながら見守る中、テレーズはうつむき加減に答えた。
「わたし、ストーンガードでイヴォン元学長の最期を見てから、いろいろ考えたんです。学者には、知識を独占しようとする人もそうでない人もいます。前者が学院で権力を握ったために起こったのが、辺獄の書の事件でしょう。あんなことを二度と起こしてはいけないと思います。
 わたしには学問の才能はあまりありませんでしたが、学者たちの道筋を整備したいという思いは人一倍持っているつもりです」
 そこで彼女はぱっと顔を上げた。熱っぽいまなざしがサイラスを貫く。
「それはたったひとりの、ある人のためなんです。わたしはずっと――」
 ごくりとテリオンの喉が鳴った。いよいよ決定的な言葉が放たれようとしている。
 数拍置いて、テレーズは肩のこわばりを解く。
「ずっと、サイラス先生のことが……心配だったんです!」
「……え?」
 テリオンは間抜けな声を漏らした。それまでと微妙に変わった空気の中、テレーズは唇を尖らせる。
「他の学者さんもそうですけど、一番心配なのは先生です。ほら、この前だって徹夜で論文を書いてましたよね!? 夢中になるのは分かりますが、途中で倒れてしまったらどうするんですか」
 目を吊り上げたテレーズは興奮した様子で続けた。
「みなさんによりいっそう学問に励んでもらうためには、十分に休んでもらいたいんです。そのために学院の制度を改革しようとしているのに、先生があの調子だとわたしもみなさんも困りますよ。他にも――」
 小言は延々と続きそうである。サイラスは焦ったように口を挟んだ。
「キ、キミの言いたいことは分かったよ。確かに学院では話しづらいか。心配をかけてすまなかったねテレーズ君」
「ええ、たっぷり反省してください。それと……サイラス先生は、いつまでもわたしの先生でいてくださいね」
 不意にテレーズは寂しさの混じった笑みを浮かべる。テリオンは胸をつかれた。
 そう、告白する前のやりとりの時点ですでに彼女は「答え」を見つけていたのだ。先生は先生であり、自分はその境界線を超えることはできないのだと。
 しかし、今のテレーズはごく穏やかに自らの答えを受け入れているようだった。燃えるような恋心は長い年月を経てそこまで落ち着いたらしい。
 教え子の葛藤を悟ることなく、サイラスは大きく首肯した。
「それはもちろん。キミの先生であり続けられるよう、私も研鑽を怠らないよ。……適度に休みながらね」
「ふふ、お願いします。そうだ、わたしはこの町にいるオルリックさんという学者に用事があります。それでは先生、また学院でお会いしましょう」
 早口で言い切って、テレーズはやや性急にローブを翻して去っていく。サイラスは柳眉をひそめてその背を見送った。
「テレーズ君、あれほど怒るなんて……。私はよほど彼女に迷惑をかけたみたいだな」
「今さらすぎるだろ」とテリオンが言う。
「う。面目ない……」
 さすがのサイラスも反省しているようだ。消沈する彼をテリオンが面白がって眺めていると、学者はすぐに気を取り直して口を開く。
「それにしても、キミがテレーズ君と一緒にいるなんて珍しいね。そういえば最近彼女にキミの居場所を尋ねられたな……。一体何を話していたんだい?」
 テリオンは片眉を持ち上げた。
「知りたいなら、お得意の探りを入れてみることだな」
 ほう、と唇を吊り上げたサイラスは、あごをさすりながらじろじろとテリオンを見る。
「学院以外の知り合いに話を……もしかして、プライベートなことかな」
「まあそうだな。具体的には?」
「様々な場所で多くの人生を見てきたであろうキミに、今後の身の振り方をどうすればいいか尋ねたのではないかな。彼女は養子を当主として迎えたから、これからは学長の仕事に専念するつもりだろうが……」
 まったく見当外れな答えだった。テリオンは大きくため息をつく。
「……あんたはいくつになっても変わらないな」
 遠い目をして言うと、サイラスはやや真剣な顔でうなずいた。
「そうだね。生徒たちの成長が早すぎて、私は置いていかれてばかりだよ」
 語尾に一抹の寂寥をにじませた彼は、目を細めてノーブルコートの空を仰ぐ。
「中でもテレーズ君はよく育ってくれたと思う。彼女がいる学院は本当に動きやすいよ。まさか、こうなるとは思わなかったな……」
 サイラスは胸元にそっと手をあてた。
「私は彼女の下で働けることを誇りに思っているよ」
 にこりと笑う男は、その特異性を理由に学院から排斥されることはもう二度とないのだろう。テリオンはにやりとする。
「じゃあ、せいぜいあいつを支えてやることだな。そうしないと今までの借りを返せないぞ」
「努力はしてみるが、もう一生無理そうな気がするな……」
 サイラスはほおをかいて苦笑した。彼の発言には、この先の長い年月を「テレーズ学長」とともに過ごすのだ、という認識が表れていた。
 確かにサイラスに恋心は通じない。だが、他者からの好意がひとつも伝わらないわけではないのだ。テレーズはサイラスにとって唯一無二の存在になった。もともと欲していた地位ではないかもしれないけれど、彼女は他の誰にもできない行動によって、自らその居場所を勝ち取ったのだ。

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