大いなる翼を広げ

 夕暮れ時、ハンイットはがさがさと落ち葉を踏みしめる。
(師匠、リンデ、ハーゲン……どこに行ったんだろう)
 あたりが暗くなるにつれて寒さと心細さが増していく。狩りに夢中になったせいで師匠たちとはぐれてしまったのだ。故郷のすぐそばにあるささやきの森で迷うなんて、一生の不覚である。
 合流が無理なら家に戻るしかない。しかし今の彼女には帰り道すら分からなかった。逃げる獲物を追って森に踏み込みすぎた。無事に狩ることはできたが、ハンイットは魔物の肉を抱えたまま途方に暮れていた。自然を相手にする生業であれば、いつかこういう事態になると予想できたはずなのに!
 せめて方角が分かれば……と周囲を見回すが、緑の木々が広がるだけで目印はない。
(こういう時、翼でもあれば空から道を見つけられるのだろうか)
 自在に宙を飛ぶ小鳥を視界に入れて、そんなことを考える。嘆息したハンイットは気分を切り替え、暗い森をにらんで一歩踏み出した。
 ――突風が吹いた。
 木がざわめき、葉がちぎれ飛んで、ハンイットの髪が乱れる。同時に視界が真っ暗になった。彼女は反射的に目線を上げる。
「あれは……!?」
 巨大な何かが空を覆いながら移動していた。その中に一瞬だけ空色の小さな光が見える。影はものすごい勢いで飛び去り、森は薄闇に逆戻りした。
 木立の中に風が通って一直線に道が開かれる。ハンイットが髪を整えながらそちらを見ると、木の間に白い毛並みの魔物が佇んでいた。
「リンデ!」
 走ってきた相棒を抱きとめる。ハンイットの腕の中で、雪豹の黄金色の瞳が気遣うように瞬いた。
「心配をかけたな。すまないが、師匠のところに案内してくれないか」
 リンデは「仕方ない」と言わんばかりにゆっくりと歩いていく。ハンイットはほっとして後を追った。
 師匠にはからかわれるだろうが、甘んじて受け入れよう。これは完全に自分のミスだ。そう割り切って足を運ぶ最中、頭の片隅に疑問を抱く。
(さっきの影はなんだったのだろう?)
 まるで巨大な鳥が空を駆け抜けたようだった。しかし、この周辺にあんなサイズの怪鳥はいないはずだ。
 ――その後、ハンイットは再会した師匠に「大きな鳥を見かけなかったか」と尋ねたが、心当たりはないと言われた。結局あの影の正体は分からずじまいだった。
 狩人なのに森で迷った、という失敗談は散々ザンターに冷やかされたせいで記憶に強く焼きついたが、同じ日に見た青い光のことはすぐに忘れてしまった。



 ある日、ハンイットは師匠のザンターからその噂を聞いた。
「いい仕事があるぞハンイット。ドラゴン狩りだ」
 狩りを終えてシ・ワルキの家に戻ってくるなり師匠はそう告げた。ハンイットは目を見開く。
「ドラゴン……? まさか、この近くで出たのか」
 現在オルステラ大陸でドラゴンの姿が確認されているのはクリフランド、フロストランド、ハイランドの三地方だ。中でもクリフランドのドラゴンは師匠自身が狩った。その時の顛末は何度も聞かされたが、毎回細部が変わるいい加減な内容だった。
 長くこの森に住むハンイットも、ウッドランドにドラゴンがいるなんて噂は聞いたことがない。玄関口で上着を脱ぐ師匠に目で尋ねると、彼は居間の椅子にどっかりと座り込んだ。
「ああ、今日の狩りが終わってからエリザに聞いたんだがな――」
 聖火騎士のエリザはよくザンターに仕事を依頼する。彼女たちでも手に負えないような厄介な魔物が出ると、師匠の腕を頼りにするのだ。
 そのエリザの話によれば、つい昨日、東ヴィクターホロウ森道をゆく荷馬車が突如としてドラゴンに襲われたらしい。
「人間は全員無事だったが、荷物が奪われたそうだ」
「荷物?」
「ああ。はるばるノースリーチからヴィクターホロウまで運ばれていく途中の、貴重な書物がな」
 ハンイットはぽかんと口を開けた。足元のリンデも不思議そうにしっぽを立てる。
「な、何故だ? ドラゴンが本を奪ったのか」
「そう聞いたぞ。商人たちはほうほうの体で逃げて、なんとかヴィクターホロウまでたどり着いたらしい。それで、しばらくしてから襲われた場所に戻ってみたら、バラバラになった馬車の残骸だけ残ってて、本はなかったんだとよ」
 師匠はテーブルに頬杖をついて淡々と語る。どういうことだろう、と視線を下に向ければ、雪豹がじっと見返してきた。
「それは本当にドラゴンだったのか? 見間違いでは……」
「俺も現場に行ったが、確かにドラゴンの爪痕があった。まったく、最近は密猟者もいるって聞くし、世の中どうなってんだか」
 とザンターは愚痴まじりにつぶやく。彼の証言なら間違いないだろう。ハンイットはごくりとつばを飲んだ。
「どうして本が奪われたんだ。ドラゴンも読書をするのか……?」
 大真面目に考え込む彼女に対し、ザンターはからから笑った。
「はは、それは考えたことなかったな。まあ理由までは分からないが、とにかく聖火騎士は街道の安全を確保したいそうだ」
「それでドラゴン狩りか」
 かの魔物はとびきり危険な力を持っており、おまけに知性がある。そんな魔物が人里近くに出たのは大ごとだ。ザンターはやや改まって言った。
「ハンイット、お前にこの仕事を任せたい。俺はしばらく別の依頼が重なっててな」
 濃茶の瞳が鋭く胸を貫く。ハンイットはしばし逡巡した。
(わたしにドラゴン狩りなんてできるのか……?)
 彼女は狩人としてまだ駆け出しだ。個人で依頼を受けたことはなく、ザンターの補助に徹していた。最初の仕事がドラゴン狩りはいくらなんでも荷が重すぎないか。非難と不安を含ませた視線を投げると、師匠は片眉を上げた。
「この仕事をやってたらいつかは狩る相手だぞ。それに、勢いで狩りとは言ったが退治する必要はない。今後の被害を抑えられたらいいんだからな」
 つまり、どうにかしてドラゴンを街道から遠ざけたいとの依頼だ。狩人は魔物を狩ることを本業とするが、その過程で獲物の動きを誘導することもある。直接ドラゴンと交戦しないなら弟子でも依頼が達成できるだろう、とザンターは判断したのか。
 この付近にドラゴンがいるなんて、考えたことすらなかった。それが突然人前に姿を現したのだから、よほどの理由がありそうだ。森の異変の前兆かもしれない。彼女は軽く息を吐いた。
「……少し考えてみる」
 ザンターはにやりとした。どうやらハンイットはうまく乗せられてしまったらしい。



 翌日、ハンイットは相棒の魔物とともにドラゴンが目撃された東ヴィクターホロウ森道の外れに向かった。
(返事は保留にしたが、やはり気になるな)
 彼女は「故郷に起こった重大な変化を見過ごせない」という真っ当な理由と、少しの好奇心によって行動していた。
 事件現場は木々のない開けた場所だった。書物を運んでいた商隊はここで休憩をとったらしい。半壊した馬車がそのまま残っていた。ばらばらになった木材はいずれ森に還るのだろう。すでに一部は草に埋もれている。
 程なくザンターが言っていた爪痕を見つけた。今までに見たことのないサイズだ。これがドラゴンの体躯か、と息を呑む。しかし爪は大地を踏みしめるだけで、馬車に対して振るわれたわけではないようだ。話によると、馬車はドラゴンの羽ばたき一つでバラバラになったという。その拍子に商人たちは地面に投げ出され、断腸の思いで積荷を捨てて逃げたのだ。
 彼らは襲ってきた魔物の姿をはっきりと覚えていた。漆黒のうろこと青い目を持つドラゴンだ。
「本を狙うドラゴン、か……」
 ハンイットはぼそりとつぶやく。改めて考えても解せない事件だ。そもそもドラゴンはどうやって書物を持ち去ったのだろう? ザンターに言われて調べた図版では、ドラゴンの足はおおよそものの持ち運びに適さない形状をしていた。前足で本を掴んでも握りつぶしてしまうのが落ちではないか。
 そこまで考えてから、おもてを上げた。立ち止まっていても仕方ない、行動しよう。
「ハーゲン、ドラゴンのにおいは分かるか」
 今回、彼女は師匠の相棒たるダイアーウルフを借りていた。他でもないザンターが「連れて行け」と言ったのだ。魔狼はうなずき、鼻先を地面に近づけてにおいをたどりはじめる。ハンイットはリンデとともにその後を追いかけた。
(もしドラゴンと遭遇したら、戦わずに逃げよう)
 彼女は自分と魔物たちの安全を最優先に考えていた。昨日、ザンターもこの現場を見てハーゲンの嗅覚に頼ることを考えただろうが、彼はそうしなかった。体力を消耗した状態でターゲットと遭遇することを避けたからだ。ドラゴンはそれほど警戒すべき相手だった。
 整備された街道を外れてしばらく歩くと、半ば緑に埋もれた石材が見えた。古代の遺跡だろう。ウッドランド地方のあちこちに点在しているものだ。建てられてから数百年は経つそうだが、つくりが頑丈なため屋根まで残っている。この建物がにおいの終点らしい。
「中にドラゴンがいるのか?」
 足を止めたハーゲンは困惑したように頭を振った。違和感を覚えたのだろう。ハンイットの家の数倍の床面積を持つ遺跡だが、天井が低すぎてドラゴンなど隠れられそうにない。それでも一応確かめてみるか、と彼女は深呼吸してから遺跡に踏み込んだ。
 扉もなく開いたままの入口を抜けると、右へ左へ曲がる細い廊下が続いていた。視界の利かない場所で不意を打たれたらたまらないので、背後の守りは魔物たちに任せる。廊下の分岐ではハーゲンの嗅覚に頼った。そうでなければ道に迷っていただろう。
(……ん?)
 足音を殺して歩く途中、苔むした石の床に靴跡がついていることに気づいた。まさか盗賊でも住み着いているのか? ハンイットは魔物たちに合図して、いっそう息をひそめる。
 曲がり角に差し掛かる度、壁に背をつけて先をうかがった。相変わらず遺跡内は静かで何の気配もない。安全とみなしてそっと足を踏み出す――と、ジャラジャラと木を叩くような音がした。心臓が跳ねる。
(罠か!)
 遠くにばかり気を取られていたハンイットは、床上にピンと張られた紐に足を引っ掛けたのだ。紐には木の板がいくつも取り付けられており、紐が揺れると板同士がぶつかって音が出る。狩りの時にもたまに使う古典的な鳴子だ。
「気をつけろ、リンデ、ハーゲン!」
 魔物に号令をかけた彼女は弓を手に取り、視覚と聴覚に全神経を集中させた。
 状況は突然動いた。壁の切れ目から黒い影がゆらりと姿を現す。ハンイットは身をこわばらせた。
「おや、客人かな」
 出てきたのは端正な顔立ちの男だった。癖の強い濡羽色の髪を首の後ろでまとめ、黒っぽいローブのようなものを着込んでいる。双眸は青空と同じ色だ。造作が完璧な左右対称なので一瞬人形のように見えたが、それにしてはあまりにも瞳が輝いている。敵意は見受けられなかった。彼は片手に空のランタンを持っている。
「あ、あなたは」
 場違いなほど都会的な空気を漂わせる男に対し、ハンイットはそれ以上言葉が出なかった。盗賊ではなさそうだが、まだ警戒は解けない。
(まったく気配がなかった……)
 人間よりはるかに優れた感覚を持つ魔物たちすら、近づいてくる男の存在に気づかないなんて。足元の獣たちは姿勢を低くしてぐるるとうなる。
「なるほど、彼らは私の正体を知っているようだ」
 男は平然とあごをなでた。ハンイットはぎょっとしてハーゲンを見つめる。魔物に真相を尋ねる前に、男が口を開いた。
「私はサイラスという。今はこのような見た目をしているが、れっきとしたドラゴンだよ」
「なっ……」
 ハンイットは目を見張った。数秒間衝撃に耐えて、ようやく喉から声を絞り出す。
「人の姿をして人の言葉を話すドラゴン……? そんなもの、聞いたことがない」
 彼は「遺跡を調べに来た学者だ」と言われてもそれほど違和感のない出で立ちをしている。しかし魔物たちは静かに男の発言を肯定していた。
「聞いたことはない、が……どうやらあなたの言うことは本当らしいな」
 ハンイットが苦い気分で返事すると、サイラスと名乗った男は愉快そうに眉を上げる。
「おや、キミは私の発言を信じるんだね」
「違う。リンデたちの判断を信じているだけだ」
 きっぱりと返せば、サイラスは肩をすくめた。妙に人間らしい仕草だ。
 自らをドラゴンと名乗る男――魔物たちもそれが真実だと証明している――を前に、何を話していいのか見当がつかなかった。するとサイラスが再び唇を開く。
「私たちの一族に伝わる特別な魔法があってね、自由に姿を変えられるんだ。それを使って、私は一時的に人間の見た目をよそおっている」
 この遺跡はドラゴンには手狭だから、と彼は付け加えた。丁寧な説明だが話の内容はハンイットの理解を超えており、相槌を打つことすらできなかった。サイラスはどうやら話好きらしく、攻守交代とばかりに質問してくる。
「ところでキミは狩人だろう?」
「ああ。シ・ワルキのザンターの弟子で、ハンイットという」
 今の今まで名乗るのを忘れていた。サイラスの正体に衝撃を受け、次いで彼ののんきな態度に毒気を抜かれたからだ。相手はふむふむとうなずく。
「ザンター氏か、有名な狩人だな」
「知っているのか?」
「まあね」
 そういえば彼にとってザンターは同胞殺しではないか。一瞬緊張が走るが、サイラスは警戒心など微塵も見せずにきびすを返した。長く垂らしたローブの裾が翼のように翻る。
「キミは私に用があって来たのだろう。狭い場所だが入ってくれ。そちらの雪豹とダイアーウルフもどうぞ」
「……邪魔をする」
 罠とは思えなかった。サイラスは侵入者対策で鳴子を仕掛けていたのに、ハンイットに対して友好的な態度をとった上、自ら正体を明かした。おそらく彼が警戒しているのは狩人ではない。
 それに、理性的で言葉も通じるドラゴンなら、交渉次第でこの「狩り」を成功させられるかもしれない――という予測を建前に使ったが、結局彼女は「サイラスともっと話をしてみたい」という衝動に突き動かされていた。
 サイラスは手持ちのランタンに魔法か何かで火をつけて、いくつもの分岐を迷いなく選びながら遺跡の奥に向かう。ハンイットが隣に並ぶと、靴のかかとを差し引いても彼の方が背が高いことが分かった。それでも本来の背丈とは比べ物にならないのだろうが。
 無遠慮に観察するハンイットに向けて、男は話を続ける。
「キミは――ハンイット君は、私が馬車から奪った本を取り返すためにここに来たのではないかね」
「……そうだ」
 サイラスは予想以上に察しが良い。話の転がり方次第ではこちらの身も危うくなるが――彼は前を見たまま柳眉をひそめる。
「あれには事情があってね。すぐに返すつもりだったのだが、なかなかうまくいかなくて」
「それは……何があったんだ?」
 一行は長い廊下を抜けて奥の部屋に到着した。一気に視界が広がり、開放感が胸に吹き込む。壁際にはいくつか本棚が並んでいた。中に詰まった本はおそらく馬車一台分だろう。サイラスは人間の姿でこの量を運んだのか。一人では骨が折れたに違いない。
 彼は本棚に並んだ背表紙を大事そうになでてから、振り返った。
「話せば長くなるのだが、聞いてもらえるかな」
「内容によってわたしも対処を考える。ぜひ教えてくれ」
 ハンイットは居住まいを正し、じっくり話を聞く姿勢をとった。



 サイラスは人間の姿に化けてこっそり人里を歩くのが好きだった。オルステラのドラゴンは、かつて神の怒りに触れたために魔法の力や理性を奪われたという伝承が残っている。しかし彼は同族と違って魔法が得意であり、人の言葉も操ることができた。
 森の奥で静かに暮らす中で、時折人間たちを目撃することがあった。彼らの扱う見たこともない道具に興味を持ったサイラスはある日、変化の魔法を使って町に飛び込み、その目まぐるしさやにぎやかさに夢中になった。以降、彼は人間のつくる面白いものを観察するため、定期的に人里を訪れた。
 ついこの間も、サイラスは好奇心の赴くままヴィクターホロウの町を散策していた。入口付近の露店街は品物の種類が豊富で飽きが来ない。「数百年前に山ほど見かけたな」というかつての流行りの装飾が骨董品として売られているのが不思議で、人間とは時間の流れ方が違うのだと感じた。そうやって商店を回って楽しんでいる時、店主と客の会話が聞こえた。
「今度うちにノースリーチから書物が届くんだよ。ドラゴンに関する最新の研究成果だそうだ」
 ほうと息を吐いて、より一層耳を澄ませる。ノースリーチはフロストランドの奥にある町だ。そこにドラゴンの研究者がいるのか。書物には何が書かれているのだろう、入荷したらすかさず買ってやろうか――とサイラスが画策していると、ざわめきの間を縫って不意に男の声が届いた。ドラゴンの並外れた聴覚を持つからこそ聞き取れたのだろう。
「ドラゴンの本か……いいもんがあるな」
「次の仕事に役立ちそうだ」
 どことなく不穏な話題だった。露店街は客でごったがえしており、声の主は分からない。続けて彼らは「鎧が」「盾が」どうこうと話していた。それとなくあたりを見回すサイラスには、思い当たることがあった。
 人里ではドラゴンの名を冠する装備品が流通している。あれは実際にドラゴンから獲った素材が使われているわけではない。おそらく、強靭なうろこを持つ魔物にあやかって「ドラゴンと同等に硬い装備品」をうたっているのだろう。
(もしや……彼らは本物のドラゴンを密猟して、装備品をつくろうとしているのか? 大胆不敵だな)
 こんな場所に密猟者が潜んでいたとは。正体を看破されたわけではないが、長居は無用と判断したサイラスはそろりそろりと露店街を離れていく。
(私の存在が知られたのか……?)
 擬態には細心の注意を払い、まさしく「しっぽを出さないように」気をつけていたのだが。
 石畳を踏みしめるほどに密猟者たちの声が遠ざかっていく。どうも彼らはドラゴンとの戦力差をあまり考慮していないようだった。「居場所さえ見つければなんとかなる」という前提で話しているらしい。妙だな、と考えを巡らせたサイラスはあることに気がついた。相手が想定しているのは成体のドラゴンではない。
(彼らはクリフランドのドラゴンを狙っているんだ)
 崖地の同胞は数年前に黒き森の狩人に倒されたが、今は転生して卵になっているはず。死に際、サイラスの夢枕に立った同胞は「人間に托卵するつもりだ」と話していた。繊弱な幼体時代を乗り切るための方策だ。無事に相手は見つかったのだろうか。しかし、たとえ保護者がいても、その人物が密猟者相手に卵を守れるかは分からない。
(ならば今、ここできっちり「対処」しておくべきか)
 話の内容からすると、密猟者はまだ卵の居場所を見つけていないようだ。まさしく今がチャンスである。サイラスはきびすを返して露店街に戻ったが、あの声はもう聞こえなかった。
(逃したか……)
 すたすたと町の外に向かいながら思考を続ける。密猟者たちはどうやってドラゴンの情報を入手したのだろう。考えても答えは出ないが、今回の難局を乗り越えるにあたって重要な点と思われた。
 そして、姿の見えない密猟者をあぶり出し、卵を守るにはどうすればいいか――彼は熟慮の末に一つの答えを出す。
(こちらに注意を引きつけよう)
 サイラスはあえて己の真の姿を衆目に晒すことにした。ノースリーチからドラゴンに関する書物を載せてやってくる馬車を狙おう。それがドラゴンに襲われたとなれば、密猟者たちが注目しないはずがない。
 ノースリーチからヴィクターホロウまでは一本道だから、途中の森で張り込めばいつかは馬車が通る。該当の馬車だけを襲うにはもう少し情報が必要だろうか。彼は急ぎ足で再び露店街を横切り、書物の話をしていた店主に聞き込みに行った。
 ――後日、サイラスは作戦を実行に移し、休憩中の商人から本を奪った。
(これでドラゴンの目撃証言が町に伝わるだろう)
 密猟者たちも、突然身近に出没したドラゴンに興味を示すはずだ。あとは、居場所の分からないクリフランドのドラゴンではなく、こちらが密猟対象になるかどうかだが……それは賭けるしかない。
 サイラスは以前から縄張りの一つにしていた遺跡に本を持ち込み、しばらく潜伏することに決めた。罠を仕掛けて十分に準備すれば、遺跡に来た密猟者を返り討ちにできる――はずだった。



 一気に情報を詰め込まれて目を白黒させるハンイットに構わず、サイラスは深刻な表情で続ける。
「問題は、人間の姿で本を運んでいる最中に、あるものをなくしてしまったことだ。私は竜珠――このくらいの宝玉を落としてしまったらしい。慣れない労働で疲労して、なかなか気づかなかったんだ」
 彼は手のひらで何かを掴むようにした。ややぼんやりしていたハンイットは思い当たる節があって、我を取り戻す。
「もしかして、その宝玉は青色をしているのか? あなたの瞳のような……」
「よく分かったね、ハンイット君」
 サイラスが目を丸くする。「いや……」と彼女は答えを濁した。今になって、数年前にささやきの森で迷った時に見かけた巨大な影を思い出した。あれは鳥ではなくドラゴンだったのだ。あの時のサイラスは首にその宝玉をかけていた――
 彼はハンイットの動揺をよそに話を続ける。
「あれは東方では竜石と呼ばれているんだ。オルステラにもいくつか持ち込まれたと聞いたが、まあそれは置いておこう。私はあれにドラゴンの力を封じて、この姿を保っている」
 ハンイットにもなんとなく話の焦点が飲み込めてきた。
「つまり、それがないとドラゴンの姿に戻れないのか?」
「そのとおりだ。満点だよハンイット君」
 急に教師のような言い方をするので、ハンイットは脱力してしまう。
「大ごとだろう。のんきに構えている場合ではない。
 それで、わたしをここに通した理由はなんだ? その密猟者の仲間とは思わなかったのか」
「すまない、キミが遺跡に入ってきた時点で私には正体が分かっていたんだ。魔物を連れた狩人はこのあたりでは有名だから。女性の弟子がいることは聞いていなかったけれど」
「なるほど。あなたは師匠を待っていたのだな」
「ザンター氏はダイアーウルフを相棒に連れていると聞いたから、においでこの遺跡にたどり着くと思ってね」
 今のところ彼の思惑はほとんど的中している。そこでサイラスは真剣な顔になり、改めてハンイットに向き直った。
「黒き森の狩人たるキミに協力を求めたい。竜珠を失った私では密猟者と戦う力が不足している。同胞を助けるためにも……密猟者の撃退を手伝ってもらえないだろうか」
 淡く光る青い双眸は、よく見ると瞳孔が縦長に切れていた。これは人間の目ではない。ハンイットは黙って視線を返す。
 今回の依頼は街道の安全確保だ。それを達成するために自分はどうすべきか、しばし思案する。
「……サイラス、あなたは持ち主に本を返す気があるんだな? わたしの師匠は、ドラゴンがこれ以上旅人に被害を出さないようにしてほしい、という依頼を聖火騎士から受けた。それが約束できれば、あなたに協力してもいい」
「もちろん。もしやあの書物に托卵の情報が載っているかと思って調べてみたが、大した話は書かれていなかったし、機会を見つけてすぐに返そうと思っていたよ。それに、街道をゆく者には二度と危害を加えないと誓おう」
 サイラスはきっぱりと言った。それが嘘でないことは、リンデやハーゲンの反応から分かる。ハンイットは胸に吊るした両親の形見の指輪をそっと握った。
「ならばわたしたちも手伝おう」
「ありがとうハンイット君!」
 彼が明るく名を呼んだと同時に、ぐうと音が鳴る。サイラスの腹のあたりからだ。
「おっと」彼は目を瞬いた。ハンイットは肩の力を抜く。
「……お腹がすいたのか?」
「そのようだね」
 他人事のように答える彼に、「ドラゴンは何を食べるんだ?」と尋ねる。遺跡の中に食糧は見当たらなかった。サイラスは口元に手をやって、
「普段は森の獣を少々。……おや、なんだかいい香りがするな」
 彼は鼻をひくつかせながら一歩踏み出す。ハンイットは心当たりがあったので、懐から取り出したものを彼に見せた。
「これのことか」
 小腹が空いた時のために持ってきた揚げパンだ。サイラスの表情がぱっと華やぐ。
「おいしそうな見た目だね。なんという料理だい?」
「クラップフェンだ。狩りの合間のおやつだな。……食べるか?」相手があまりにも物欲しそうな目をしているので、そう提案した。
「ありがとう!」
 サイラスは紙に包まれたパンを手に取り、かぶりついた。食事の仕方はごく上品で、とても魔物とは思えない。一口分を嚥下した彼は満面の笑みになる。
「うまい! この味わいと食感は、複数の食材を組み合わせたのか。こういうものを当たり前のようにつくるのだから、人間は素晴らしいね。いや、きっとハンイット君だからこそ、こんな料理がつくれるのだろう」
 ストレートに褒められるとむずむずする。ハンイットは少し熱くなったほおをかいた。その足元で、リンデはふんと鼻を鳴らし、ハーゲンがあくびをした。
 サイラスはあっという間に完食した。ハンイットは空っぽになった紙包みを見てつぶやく。
「できたてはもっとおいしいんだ。また今度、作ってもいい」
 守れる保証もない約束が口をついて出たことに気づき、彼女は慌てて唇を閉ざす。
「本当かい? 楽しみにしているよ」
 しかし、にこりとするサイラスを見ると、それも悪くないかと思った。
 その直後、彼は油のついた口元をさっと拭い、鋭い視線を壁の向こうに投げた。
「……来たようだね」
 魔物たちが低く警戒の声を上げる。ハンイットはとっさに腰の斧に触れた。遠くから乾いた鳴子の音が聞こえる。紐が切れたのか、音はすぐに消えた。
「例の密猟者か?」
「この無遠慮な足音はそうだね。五人はいるな……リンデにハーゲンだったか、キミたちもそう思うだろう?」
 問われた魔物たちは渋々といった様子で肯定を返した。サイラスは人差し指で眉間をおさえる。
「しかし来るのが早いな。キミたちは魔狼の嗅覚があるから早晩たどり着くと思っていたが、密猟者たちの動きがここまで迅速だとは」
「わたしたちの足跡でばれたのかもしれない。特に痕跡は消してこなかったから」
「うむ……」
 サイラスは何か引っかかることがあるようだったが、気分を切り替えたように背筋を伸ばした。
「遺跡内は複雑だから、彼らがここに来るにはまだ時間がかかるだろう。急いで作戦を立てるよ」
「分かった」
 狩人たちの視線を受けて、サイラスが胸元に手を置いた。
「私はこの姿でも多少は魔法を使える。だが、たとえキミたちがいても一度に五人を相手にするのは厳しいだろう。だから廊下で迎え撃とう。狭い場所で各個撃破するんだ」
「それがいいな」
「リンデとハーゲンは別ルートから密猟者の背後を襲ってくれないか。挟み撃ちにしたい」
 サイラスが示した部屋の奥には別の出口があった。そちらにも細い廊下が続いている。密猟者をおびき出す場所として、これほど適した地形は他にないだろう。
 魔物たちはすばやく廊下に繰り出して行った。それを見送ったサイラスは遺跡の見取り図を取り出す。自分で書いたのだろう、几帳面な筆跡だった。
「私たちも行こう、ハンイット君」
「そうだな。道案内は頼むから、あなたはわたしの後ろについてきてくれ」
 サイラスはきょとんとした。次いで、自分の服を引っ張る。
「今はこのような姿をしているが、元は頑丈だから多少の荒事は問題ないよ」
「武器も持っていない者を矢面に立たせるわけにはいかないだろう。その代わり、わたしの背中は頼んだぞ」
「あ、ああ……」
 何故かサイラスは驚いたように目を丸くしていた。ハンイットの発言が何か琴線に触れたのだろうか。気になったが、問い返す暇はない。二人は先ほど通った出口から再び廊下に舞い戻った。
(まさか、魔物ではなく人と戦うことになるとは……)
 だが相手は密猟者だ。森とともに生きる狩人としては見過ごせない。これも必要な経験と割り切って進もう。
 サイラスの誘導に従って慎重に歩くうちに、話し声が聞こえてきた。壁一枚隔てた場所に密猟者がいる。魔物たちはどうしたのだろう、何か合図でもすべきか……と今さらハンイットが悩みはじめた時、サイラスがそっと石の壁に耳をつけた。
「……リンデたちが相手の背後に到着したようだ」
「分かるのか?」
「足音でね。ハンイット君、キミは――」
「わたしが先に行く」
 何か言おうとしたサイラスを遮り、彼女は斧を抜いて角を曲がった。
 事前の情報通り、相手は五人いた。狭い場所ゆえ、縦一列に並んでいる。似たような格好をした野卑な男が前後に二人ずつ、ローブを着た細い影が真ん中に一人だ。中央の男は目深にフードをかぶっており、どことなく雰囲気がサイラスと似ていた。
「なんだ、お前は」
 突如として立ちふさがった彼女を見て、男たちは訝った。
「わたしはシ・ワルキの狩人ハンイットだ」
 彼女は目一杯険悪な空気を醸しながら、正直に名乗り出る。密猟者たちが顔を見合わせた。
「もしかして黒き森の……」
 空気の色が変わる。密猟がばれたことに気づいたのだろう。彼らが腰の武器に手を伸ばす直前、ハンイットはすかさずピイと指笛を吹いた。
「うわ、なんだ!?」
 密猟者の背後から魔物たちが襲いかかり、相手はパニックに陥った。
 ハンイットも同時に真正面から斧で切り込む。もちろん狙うのはみねうちだ。狩りの時も、相手の動きを制限するために足を傷つけたり気絶させたりすることはよくあるので、慣れた立ち回りだった。
 一番手前の男がなんとか混乱から立ち直り、長剣で斧を受け止める。力を込めても一撃で押しきれず、ハンイットは「くっ」と歯を食いしばる。斧だと重さがある分、二撃目に移るまで時間がかかるのだ。視界の中心で相手の剣がひらめいた。
「ハンイット君、離れて!」
 背後でサイラスの声がした。とっさに飛び退くと、ひんやりした冷気がほおをかすった。
「氷よ、切り裂け!」
 サイラスが紡いだのは氷結をもたらすための詠唱だ。
(魔法か……!)
 たちまち密猟者の足元が凍りつく。氷はハンイットが相手にしていた手前の男のみならず、後ろで機会を伺っていた二人目の機動力まで奪った。ほのかに青く色づいた結晶がしっかりと地面を覆っている。ハンイットはこれほど見事な氷を初めて見た。魔法はドラゴンの真価ではないが、十分恐ろしい威力だ。
「今だよ、ハンイット君」
 促された彼女は魔法のダメージから立ち直れない相手に肉薄し、次々と首筋に斧の柄を叩き込む。密猟者二人は意識を飛ばして倒れ伏した。
 その間にリンデたちは後方の二人を床に縫い止めていた。相手は壊滅状態だ。あと一人、中央のローブの男だけが残っている。
 ハンイットが気絶した密猟者を乗り越えて近づくと、ローブの男は悠然と何かを掲げた。そこから空色の光が湧き出て、あたりをまぶしく照らす。
「あれは……竜珠か!」
 サイラスは明らかに余裕のない叫びを上げた。ハンイットもひやりとする。どうやら落とし物は密猟者たちが持っていたらしい。
 ローブの男ににらまれ、反射的に足を止めた。魔物たちにも合図して一旦待機させる。
「あなたがウッドランドのドラゴンですね」
 男の無感動な声が遺跡に響き、フードの下から冷え切った目が覗いた。サイラスを見据える乾いた瞳に、ハンイットはぞっとする。
(この男、ただの密猟者ではないな)
 後ろでサイラスが苦々しい声を絞り出した。
「おかしいと思ったんだ。密猟者たちが異常に早く遺跡に来たことも、クリフランドにあるドラゴンの卵を知っていることも。あなたが密猟者に情報を流したのだろう、竜詠みの神官殿」
 また知らない単語が出てきたが、質問している時間はなさそうだ。神官と呼ばれた不健康そうな男の視線を遮るように、ハンイットは一歩前に出る。サイラスが朗々と話を続けた。
「あなたの目的はドラゴンを密猟して装備品をつくることではない。そう言って密猟者たちをそそのかし、戦力を確保したのだろう。本当の目的は――」
「そう、この竜珠とあなたです」
 神官が掲げた珠からあふれる光が強くなった。ハンイットは思わず腕で目を覆う。
 すると、前方にいる男の気配がどんどん大きくなっていくように感じられた。ぎし、と遺跡が軋む音がする。はっとして目を開ければ、男のシルエットは光の中で何倍にも膨れ上がっていた。廊下の壁がその質量に耐えきれず壊れていく。次に破れるのは天井だろう。
(まずい!)
 ハンイットは斧と入れ替わりに弓を取り出した。雷速の集中によって会心の矢を放つ。狙うのは光の中心だ。
 矢は狙い過たず竜珠にあたり、男の手と思しき部分からそれを弾き飛ばした。
「おのれ……!」
 小山のような影が恨みのこもった声を投げたが、ハンイットはひるまず次の矢をつがえた。宙を飛んだ竜珠は、跳躍したリンデがあごでキャッチした。
「リンデ、それを私に投げてくれ!」
 サイラスが雪豹に向かって叫ぶ。その間もハンイットは次々に矢を射かけるが、燐光をまとった影はますます大きくなっていく。竜珠を失ったのに変化が止まらない。
 雪豹からなんとか竜珠を受け取ったサイラスは、空色の宝玉をそっと胸に抱いた。
「よし、これがあれば大丈夫だ」
 影が天井を突き破った。ばらばらと石材が頭上に降ってくる。狭い遺跡に逃げ場はなかった。
(間に合わないか……!)
 ハンイットがまぶたを閉じる間際、いつかの記憶と同じように、黒く大きな影が視界を覆った。



 気づけばハンイットは青空のただ中にいた。
「ここは……?」
 ごうごうと風の音がして、ものすごい勢いで髪が後ろに流される。彼女は黒くなめらかな床の上に倒れていた。視界の上半分にあるのは雲のない空だけだ。
 上体を起こす。全身擦り傷だらけだが、大きな怪我はなかった。付近にリンデたちはいないようである。
(なんだ? 何がどうなったんだ)
 彼女は崩れた遺跡の下敷きになる寸前だったはずだ。確か、そこで竜珠を手にしたサイラスが……
 ――目が覚めたんだね、ハンイット君。
 突然頭の中に音声が響いた。ここ数時間ですっかり耳に馴染んだ声である。
「まさか、サイラス……なのか?」
 ハンイットははっとして「床」に手をついた。それは生物の――ドラゴンの背中だった。真っ黒なうろこが陽光を反射して淡い虹色に輝く。広い背中の先には首があり、青い瞳が彼女を見つめていた。ハンイットは心臓を矢で貫かれたかのようにどきりとする。やはり、いつかささやきの森で見た影と同じ姿だ。
「わたしは空を飛んでいるのか」
 おそるおそる下を覗き込むと、はるか地上に常緑の森林が広がっていた。故郷の森をこんな視点で見ることになるとは思わなかった。シ・ワルキはあのあたりだろうか。少し首を回せば、ヴィクターホロウの港やフロストランドの真っ白な山々まで視界に入った。
 ――リンデとハーゲン、ついでにあの密猟者たちも無事で地上にいるよ。私たちは今、あの神官の後を追っているんだ。
 サイラスに促されて、風の吹き込む前方を見据える。遠くの上空を飛び去る小さなシルエットは、確かにドラゴンのものだ。しかしサイラスと比べて濁った色をしている。
「あの神官は、あなたの竜珠から力を奪ったのか」
 そして珠の力でドラゴンに変身したに違いない。何故かすんなりそう理解できた。ここ数時間で予想を超える出来事が次々と起こり、ハンイットにもだんだん耐性がついてきたようだ。
 サイラスは苦しげな声を出す。
 ――ああやって私たちの力を得ようとしている集団がいてね。あの神官は私の力を奪うことは諦めて、クリフランドに向かっているようだ。今のうちになんとかしないと。
 だが予想外に相手がすばやく、サイラスはなかなか追いつけないようだ。彼が竜珠の力を奪われたこともスピードの差に影響しているのだろう。
 ハンイットは自分の装備を確かめた。幸いにも武器は全て身につけていた。腰の筒から一本の矢を取り出す。
「あなたがわたしを連れてきたのは、あのドラゴンを足止めするためだな。なら、この矢をあなたの羽ばたきで遠くに飛ばせないか?」
 ――うん、それなら羽ばたきよりもブレスの方がいいかな。思いっきり放ってくれ。
 サイラスが滑空の速度を落としたため、向かい風が弱くなった。ハンイットはドラゴンの背中にしっかり足をつけて立ち上がる。遠くのドラゴンを狙って強く弓を引き絞り、一条の矢を放った。
 すかさずサイラスが白く輝く息を吐く。あれは人間が真正面から浴びれば、一撃で致命傷になりかねない威力だろう。ブレスに後押しされた矢はぐんぐん飛距離が伸びて、やがて――
「命中した!」
 相手が空中でぐらりと体勢を崩す。今なら追いつけるだろう。
 ――よし、しっかりつかまっていてくれ。
 ハンイットが姿勢を低くした途端、サイラスは一気に加速した。背中にしがみつくので精一杯で、顔を上げる余裕などまったくない。程なく羽ばたきのスピードが落ちたので、状況を確認するため彼女は体を起こした。翼の付け根を負傷した相手は、その場に留まってこちらを迎え撃つ姿勢らしい。首元に提げた珠はサイラスとは対照的な赤色だ。
(あの石が力の源だな)
 神官は自分の石にサイラスの力を移したのだ。相手のドラゴンは怪我した部分だけでなく、うろこの隙間からも体液をにじませていた。人の身でドラゴンの力を扱うのはやはり無理があるのだろう。
 ハンイットが見守る中、二匹のドラゴンは真正面からがっぷり四つに組んで、もみ合いになった。そうすると、うまい具合に相手の珠が斧の射程距離に入る。
(わたしが行くしかない)
 彼女はサイラスの背中から踏み切って、躊躇なく宙に飛び出した。
 ――ハンイット君!?
 はるか下の地面に向かって見えない力に引かれるまま、勢いをつけて斧を振り下ろす。
 きんと澄んだ音がして珠が砕けた。一瞬にして相手のドラゴンが消え失せ、フードの男に逆戻りする。ハンイットは彼ともども宙に投げ出された。すかさず下に入ってきたサイラスの背に、すとんと着地する。
 遅れて降ってきた神官もなんとか受け止めた。神官はボロボロの姿をしていたが、気を失っているだけらしい。ハンイットは胸をなでおろし、彼をドラゴンの背に横たわらせた。
 ――ありがとう、ハンイット君。
 サイラスのぬくもりのある感謝が心に直接響く。ハンイットは少々照れくさい気分で息を吐いた。
「森の治安を乱す者を見過ごせないだけだ。……まあ、この神官も密猟者みたいなものだから」
 ――キミのような狩人がいてくれてよかったよ。
 サイラスはくすりと笑ったようだった。戦いを無事に終えた安堵だけでない、あたたかなものがハンイットの胸を満たす。
(そうか、わたしはドラゴンと一緒に狩りをしたのか)
 この森の中で、それぞれまったく別の生を送ってきた二人が協力し合った結果だ。はじめての割には息があっていたのではないか、と自負する。
 サイラスはのんびりと方向転換し、もとの遺跡の方角に戻っていくようだ。ハンイットは彼の上でゆったりと風に吹かれた。傾いてきた日差しが心地よく降り注ぐ。空の上は太陽に近いのか、と改めて気がついた。
「あなたはいつもこんな景色を見ているのか?」
 ――いつもではないよ。この姿は目立つから、あまり使わないんだ。
 だが、かつて森で迷ったハンイットを導いた時は、たまたまドラゴンの姿で飛んでいたのだ。
 彼女はおもむろにサイラスの背中に寝転がる。黒くなめらかなうろこはぽかぽかとあたたかくて、なんだか眠くなってきた。彼女は眠りの国に片足を突っ込みながらつぶやく。
「あの時は、あなたが空を飛んでいて本当に助かった。今度わたしの家に来るといい、お礼をしたいから……」
 ――ハンイット君?
 不思議そうなサイラスの声がだんだん遠ざかっていく。
 まぶたを閉じたハンイットは、空を飛ぶ夢を見た。もちろん自力でだ。その横には同じように誰かが飛んでいて、首から青い珠を提げていた――



 意識を取り戻した時、ハンイットは半壊した遺跡の中にいた。
 目を開けて起き上がると、リンデとハーゲンが心配そうに寄ってくる。彼女はあの本棚の部屋で眠っていたらしい。廊下部分は見る影もなく破壊されたが、この部屋は無事だったようだ。
 神官と密猟者たちは気絶した状態で縛られ、部屋の隅に転がっていた。ハンイットがぼんやり周囲を見回していると、リンデが口にくわえた手紙を差し出す。そこには几帳面な文字で「申し訳ないが、本を返却しておいてほしい」と書かれていた。署名はなくとも差出人は明白である。
 サイラスは神官とハンイットをここに運び、彼女が寝ている間に姿を消したのだ。魔物たちもそう証言した。
(これ以上関わっても、サイラスのためにならない……か)
 協力を結ぶのはあくまで依頼を達成するまでの間だ。分かっているつもりだったが、一抹の寂しさがある。
 たとえ翼で自由に空を飛べても、今のオルステラではドラゴンはのびのびと生きられないのかもしれない。だからサイラスは潔くこの場を去ったのだろう。
「……依頼は達成した。帰るぞ、リンデ、ハーゲン」
 彼女は事件の後始末をすべく、寂寥感を置き去りにして遺跡を離れた。
 シ・ワルキに戻ったハンイットは、ザンターに事の顛末を報告した。もちろんサイラスの存在は伏せて、本は密猟者たちが奪ったことにした。すぐに師匠経由でエリザに連絡が行き、聖火騎士たちが遺跡から本を運び出した。同時に捕らえられた密猟者たちは、何故かウッドランドのドラゴンに関する一切の記憶を失っていた。サイラスが魔法で何かしたのかもしれない。とにかく、神官と密猟者はこれからヴィクターホロウで罪を裁かれることになる。
「よくやったなハンイット。まあ、期待してた成果とはちょっと違ったが」
 ザンターに褒められても、手放しで喜べる状況ではなかった。エリザもハンイットの煮え切らない態度を見て不思議そうにしていた。
 後日、ハンイットはもう一度遺跡を訪れたが、人間の姿をしたドラゴンが暮らしていた痕跡は幻のように消え失せていた。空っぽになった本棚が虚しく残るだけだ。
 ドラゴンは滅多に人前に姿を現さない。ハンイットの生きているうちに再び会うことはないだろう。ウッドランドのドラゴンの噂は、神官が竜珠の力で化けた姿という結論になり、急速に消えていった。
(……約束、守れなかったな)
 すべてが終わってから、ハンイットはザンターにだけ真実を話した。師匠はかつて「誰にも信じてもらえないような狩りでも、自分だけは覚えておけ」「他の誰が信じなくたって俺は信じてやる」と言っていた通り、突拍子もない弟子の話をあっさりと受け入れた。
「それがハンイットのドラゴン狩りってわけだな」
「ある意味そうかもしれない。師匠以外には信じてもらえないだろうが……」
 たとえ誰かに話しても、サイラスにとって不利益になるだけだ。だからあの思い出は大事に自分の胸に抱えていこうと思った。居間の食卓についたザンターはひらひらと手を振る。
「にしても、あいつら俺より賢そうだと思ったら、本当にそうだったのか。ヴィクターホロウにいたってことは、ドラゴンも闘技場で賭けをするのか?」
「サイラスは頭がいいから賭けには手を出さないだろう。師匠とは違う」
 ずばり言ってやるが、皮肉が通じなかったらしくザンターは他人事のように笑った。
 ハンイットはため息をついて台所に立つ。火にかけた鍋の中にはなみなみと油が注がれていた。そこにパン粉を一粒落とすと、すぐに表面に浮かんでくる。細かい泡が後から後から吹き出した。これがいい具合に油の温度が上がった証拠だ。
 彼女は用意したパンを手早く揚げていった。生地には森の木の実やレーズンを練り込んでいる。香ばしいにおいが家の中に充満した。ザンターはハンイットの得意料理が出来上がるのを楽しそうに待っていた。
 油の弾ける音の合間に、ふと彼が声を上げる。
「お、どうしたリンデ」
 何かを察知した雪豹が扉に近寄り、ザンターが玄関を開けたらしい。
「こんにちは。あなたが有名な狩人のザンター氏ですね」
 扉の向こうから聞こえた涼やかな声に、ハンイットはぎょっとした。
「そうだが……あ、なるほど。確かにこりゃあ滅多にないレベルの色男だな」
 ザンターの微妙な声色が鼓膜を叩く。火を使っているためハンイットはよそ見ができなかった。きっちり全部のパンを揚げて、火を落としてから急いで振り返る。
 何故か神妙な顔をするザンターの横に、ほおを上気させたサイラスが立っていた。以前と同じ都会的なローブを着ており、素朴な家の内装から完全に浮いている。
 ハンイットは拍子抜けした気分で彼を見つめた。
(普通に人里を出歩くんだな……大丈夫なのか?)
 心配されているとも知らず、彼はにこやかに尋ねた。
「食事時に失礼。ときにハンイット君、今つくっていたのはクラップフェンではないかね?」
「そうだ。……あなたも一つ食べるか?」
 皿ごとパンを差し出すと、サイラスは屈託のない笑顔でうなずいた。
 確かに「礼をしたい」とは言ったけれど、まさか油の匂いを嗅ぎつけてやってきたのか。なんだか妙なものに懐かれたものだ。しかし、ささやかに彼の胃袋を満たす手助けができるのは、案外悪くない気分だった。
 サイラスはきっと翼を広げて会いに来てくれたのだろう。それをもてなすのは、友人としてのつとめだ。

inserted by FC2 system