移ろう心の行方

 ここまで来たらもういいだろう。
 手首に巻いた布をようやっと外せば、鈍色の輝きがテリオンの目を刺した。
 視界の端では川面が陽の光を反射している。昼のリバーランドは魔物もなく、平和そのものだ。しかし彼の気分は晴れなかった。右手首の腕輪がその存在を重く示している。
 今朝まで、テリオンはここから徒歩で数時間ほど離れたクリアブルックという村に滞在していた。人口数十名程度の小さな集落だ。罪人の腕輪など目撃されたらどうなるか分からなかったので、念のため布で隠していた。
 恨めしい気持ちで見た腕輪には、何やら文様が描かれている。仕組みを解明すれば外れないものか、と都合のいいことを考えた。
 その時だった。
「おーい、テリオン!」
 いやに気さくな声が背中を叩く。テリオンは急いで外套の下に腕輪を隠した。動揺を悟られぬよう、ゆっくりと振り返る。
 気配を察知できなかった。何故なら、相手はテリオンが感知できる範囲のはるか手前から声を張っていたのだ。そんなことをする者がいるなんて、完全に想像の埒外であった。
 太陽の光を集めたような髪をなびかせ、見覚えのある男が川沿いの道を駆けてくる。アーフェンという名の薬師だった。
 彼はテリオンの目の前まで来て笑顔になった。
「良かったー追いついて。あんたずいぶん早く出発したんだな、もうここまで来てるなんてよ」
 この男とは昨日が初対面だ。こんなに馴れ馴れしくされる意味が分からない。
「何の用だ?」
 テリオンは警戒しながら尋ねた。すると、
「へへ、あんたに頼みがあるんだよ」
 薬師はますます笑みを深める。もう嫌な予感しかしなかった。「頼み」や「お願い」というと、少し前にレイヴァース家の当主にかけられた言葉を思い出してしまう。
 彼は勢いよく頭を下げた。
「俺も一緒に旅に行かせてくれ!」
「お断りだ」
 テリオンは即答した。
 盗賊同士で組んで仕事をしよう、などという提案とは訳が違う。昨日出会ったばかりの男とつるんで旅をするなんてリスクが高すぎる。相手がどこまでついてくるつもりかは知らないが、絶対にごめんだった。
 さっさといなくなれという気持ちを込めて視線を外すと、相手はテリオンの前に回り込んできた。どうしてこうも無駄に背が高いのだ。相手にそのつもりはないだろうが、若干の圧力を感じた。
「そう言うと思ったぜ。だったらこうしようじゃねえか。あんたの傷は俺が全部治してやる……もちろんお代はいらねえよ!」
 テリオンは絶句した。それは、はっきり言って相当に魅力的な提案だった。
 昨日、テリオンは旅の途中の補給地点としてクリアブルックを選び、一晩の宿をとった。部屋を確保し村をぶらぶらしていると、この薬師がやってきて——当初は生業を知らなかったが——「このあたりで女の子を見かけなかったか」と質問した。テリオンは正直に「知らん」と答え、すぐに別れた。
 どうやらその時に「腕の立つ旅人」と思われたらしい。しばらくすると同じ男が再び姿を現し、「村の子どもがヘビの毒にやられたから、薬の材料を採取するため魔物の居場所までついてきてほしい」と持ちかけてきた。小さな村なので武器の扱いに慣れた者が少ないらしい。焦った彼はなかなか強引で、断りきれなかったテリオンは仕方なしに毒ヘビの棲む洞窟まで付き合ってやった。
 その道中、彼が薬師を生業としていることを知った。腕前は悪くなかった。普段のテリオンなら放っておくようなかすり傷でも、薬師は「悪化したらまずいだろ、見せてみな」とずかずか踏み込み、手当てをした。その途端、嘘のように痛みが消えたのでテリオンは驚いた。今まで薬師というものに縁がなく、こうして処置を受けるのは初めてだった。なるほど便利な技術である。
 二人のヘビ退治は無事に終わり、テリオンは報酬として調合済みの薬をいくつかもらった。思わぬ収穫を得て、ここ最近で一番気分が上向いたことを覚えている。
 とはいえ、この薬師とは二度と関わることはないだろう。テリオンは別れも告げず、翌朝早くにクリアブルックを発ち、川沿いの街道を歩いてきて——ここで捕捉されたわけだ。
「な、いいだろーテリオン?」
 薬師が期待するように覗き込んでくる。テリオンはうっかり本名を教えたことを後悔した。あちこちで嘘を重ねて自分の首を絞めるよりはマシだろう、と宿帳に書いたまま本名を名乗ったのは判断ミスだったか。
 テリオンはわざと聞かせるように大きなため息をついた。
「おたくの旅の目的はなんだ」
 薬師は照れくさそうに鼻の下を指でこする。
「俺はな、旅の薬師になって大陸中の人の怪我や病気を治してえんだ」
 あまりに立派すぎて笑いも出てこない。そんな目的、どう考えても達成できないだろう。夢というには荒唐無稽すぎる話だ。
 黙っているテリオンに何か言いかけて、突然薬師は首を横に向けた。
「あっ」
 上着を翻して走り出す。近くに魔物はいないはずだが、とテリオンはそちらに目をやった。
 街道の少し先に老人が座り込んでいた。駆け寄った薬師が助け起こす。
「おいおい大丈夫かよ、じいさん」
「おお、ありがとうございます」
 なるほど、旅の目的通り人助けをしようということらしい。薬師はすぐに老人の容態を確認する。
「足か。痛めてるのか?」
「大したことはありません。道に迷って、少し疲れてしまっただけですから……」
「いやいや、なんかあったら大変だって。どこ行くんだ? 俺が送ってやんよ」
 薬師はどんと自分の胸を叩いた。
(正気かこいつ)
 テリオンは開いた口が塞がらない。もしも相手がか弱い老人をよそおった強盗だったら、などとは考えないのか。
「おお、なんとありがたい。孫に会うためクリアブルックに行きたいのですが」
 しかも老人は恐ろしいことを言い出した。薬師はにかりと笑う。
「そっか、ちょうど俺もあの村から来たとこなんだよ! なら一緒に行こうぜ」
 まさか今から村に戻る気なのか。今朝旅立ってきたばかりなのに!?
 唖然としているテリオンに向かって、いきなり薬師が何かを放り投げた。反射的に受け取る。老人の持っていた鞄だった。
「テリオンはこれ運んでくれよ」
「なんで俺が」
 反論の声が小さかったのかそもそも返事など聞いていないのか、薬師は「ありがとよ」と答える。彼は老人に肩を貸し、何の迷いもなく来た道を戻りはじめた。
 テリオンはしばしその場に立ち尽くした。
(こいつを持ってとんずらするか……いや)
 鞄に大したものは入っていないだろうし、こんな状況で渡されたものを持ち去るほど誇りを失ってはいない。おまけにテリオンは顔も実名もしっかり覚えられている。万一、リバーランド中に人相書でも配られたら目も当てられない。
 こうしてテリオンは、今朝出発したばかりの村へとんぼ返りする羽目になったのだった。



「やあ、ずいぶん早く帰ってきたねアーフェン」
 今朝薬師を見送ったはずの村人は、自宅を訪ねた彼をごく当たり前のように出迎えた。
 ゼフという名の友人である。こちらも薬師が生業で、同じく若草色の上着を羽織っていた。
 引き返してきた薬師は照れずにうなずき、肩を貸していた老人を示した。
「悪ぃなゼフ、この人を見てやってくれねえか」
 友人は苦笑いしながら老人を自宅に案内した。テリオンはついでに持っていた鞄を渡す。友人は「ありがとう」と目を細めた。
 そのまま村を出たかったのだが——
「お、すまねぇテリオン。ちょっと待ってくれ」
「は……?」
 思わず声が漏れた。老人はもう一人の薬師に任せて、さっさと再出発すればいいではないか。
 薬師はもの言いたげな様子のテリオンに対し、
「まあ焦るなって」
 どこかに向かって歩きはじめた。何か目的があるらしい。テリオンは嘆息し、後ろについていく。
「おかえりアーフェン」「なんだよもう帰ってきたのかー?」「道に迷ったんじゃないの」
 すれ違う村人たちは薬師の帰還を笑って済ませた。薬師は「ちょっと用事ができちまってな」と気さくに返す。双方気まずさなど微塵も感じていないらしい。あの友人といい、村人たちはまるでこうなることを予想していたようだ。薬師が村でどういう扱いを受けていたのか、なんとなく察しがつく。
 昨日と何一つ様子の変わらぬのどかな村を歩いていると、不意に横合いから強い視線を感じた。
(なんだ……?)
 見れば、村の奥にある高台の上に一人の老婆が立っていた。妙に鋭い目つきでこちらをにらみつけている。まさか腕輪に気づかれたか、と一瞬ひやりとした。すでに布は巻き直しているのでその心配はないはずだが。
 薬師は老婆に気づいていない。テリオンは内心冷や汗をかきつつ、つとめて無視することにした。
「おーいたいた」
 道の先に何かを見つけ、薬師が小走りになる。小川の近くにこぢんまりとした広場があり、子どもが一人しゃがんでいた。虫でも観察しているのか。薬師は一直線に距離を詰め、声をかける。
「よお、元気してたか」
「あれアーフェン? なんでいるの」
 子どもは実にまともな反応をした。薬師は気分を害した様子もなく、
「道の途中で足を痛めてるじいさんに会ってさ、ここまで連れてきたんだよ。そういや一年くらい前、遠くからじいさんが会いに来るとか言ってなかったか?」
 もしや、あの老人は一年も道に迷っていたのか。足を痛めたことよりそちらの方がはるかに問題ではないか、とテリオンは呆れる。
 子どもは喜色満面でぴょこんと立ち上がった。
「おじいちゃん、村に来たの?」
「おうよ。今ゼフんちにいるぜ」
「ありがとうアーフェン!」
 子どもは土埃を立てながら駆け去る。薬師は満足げに腰に手をあて、小さな背を見送った。
 結局ここまで一緒に行動していたテリオンは、ようやく口を開く。
「——で?」
 これで用事は終わっただろうと言外に告げると、相手は振り返り、照れくさそうに頭をかいた。
「あのさー。じいさんの経過がどうも気になるっつーか……いやゼフの腕は信じてるんだけどよ……」
「で?」
 テリオンは意識して眉間にしわを寄せながら畳みかける。だが薬師はこちらの不機嫌など意にも介さず、
「明日、じいさんが元気になったのを見届けてから出発したいんだよ。そーだ、詫びに今晩一杯奢るぜ! 旅立ちの祝杯ってことで!」
 テリオンはついにあきらめ、降参を示すように両手を肩の高さに持ち上げる。
「……わかった、わかった」
 薬師はぱあっと顔をほころばせた。
「恩に着るぜテリオン! そういやあんたって結構いける口なのか? リーオ洞窟でも『酒でも飲みたい気分だ』って言ってたもんな」
「言ってないが?」
「え?」
 即座に否定すると、何故か薬師は目を白黒させていた。



「乾杯!」
 その夜。二人は酒場のカウンターで隣同士に座り、ジョッキを合わせた。なみなみと注がれたエールが腕にずしりと重さを伝える。
 村で唯一の酒場は、たまたま貸切状態だった。それなのに、薬師の大声のおかげで満席かと思えるほどにぎやかである。
「いやー連れと飲む酒はうめぇなあ」
 薬師は一気にジョッキの半分ほどを飲み干し、くうーっと声を上げる。いきなり「連れ」扱いされたことについては聞き流すことにした。
 昨日に引き続きクリアブルックに滞在することが決まってから、テリオンは休むのも仕事と考え、宿で疲れを癒やすことに専念した。一方の薬師は村に帰ってくるなりやれ釣りだの手伝いだのと、あちこちに呼ばれていたようだ。
 二人は競うようにしてジョッキを空にした。テリオンは適度に自制をきかせつつも、つい「舐められてはいけない」という意識が働き、ペースを上げていた。
「あんたやっぱりいい飲みっぷりだな。うちの村とっておきの地酒があんだけど、どうだ?」
「ほう……」
 興が乗った。テリオンが首を縦に振ったことを確認し、薬師はにやりと笑ってバーテンダーに注文する。出てきたのは濃い色をした蒸留酒だ。少し舐めただけで癖の強さが分かる。その分、舌の上に複雑な味が広がった。
 テリオンにとって、酒は情報を入手するための手段でもある。適度に芝居を打ちつつ相手に飲ませれば、口を滑らせる可能性が高くなる。今回は無闇に策を弄せずとも、杯を重ねるにつれてだんだん相手の呂律が怪しくなってきた。
「俺はな……昔、恩人さんに命を助けられたんだ」
 酔っぱらい特有の昔話である。テリオンもいい加減酔っているので、半分程度は聞いてやった。
 十年ほど前、彼は大病を患った。その時ちょうど村に滞在していた旅の薬師が、薬の代金も受け取らずに病を治してくれたらしい。彼はそれに感銘を受け、友人とともに薬師を目指した。
(思い出を美化し過ぎだろ)
 テリオンはそんな感想を抱いた。その恩人は本当に話通りの人格者だったのだろうか? 実はこっそり親に対して謝礼を要求していた、なんて裏話はいくらでも考えられる。
 要するにこの男は底抜けのお人好しなのだ、とテリオンは結論づけた。おそらく今の性格は、その時の記憶が強烈な原体験となって出来上がったのだろう。
 テリオンはほおの熱さを感じながらぼんやりと酒を傾ける。やがて杯が空になった頃、気づけば薬師はカウンターに突っ伏し、寝息を立てていた。
「……おい、寝るな」
 揺さぶっても反応がない。面倒なことになった。カウンターの向こう側では、薬師の知り合いらしきバーテンダーが苦笑している。
「どうにかしろ」と据わった目で訴えた時、酒場の扉が開いた。
「ああ、やっぱりこうなったか」
 薬師の友人だった。彼はバーテンダーに目配せで挨拶すると、酔いつぶれた男を慣れた様子で立たせ、その腕を自らの肩に回した。病人を扱うことが多いためか、優男風の見た目の割に力があるらしい。
 友人は、黙って見守るテリオンを視界に入れた。
「テリオンさんだったよね。悪いね、アーフェンったら飲むといつもこうでさ。にしてもここまで酔うのは久々だなあ……仲間ができて嬉しくなったのかな? 僕はあまりお酒が得意じゃなくて、思う存分付き合ってあげられなかったんだ」
 いつの間にか酒飲み仲間の判定をもらっている。もはや取り消す気も起きない。
 節度を守って飲んだつもりが、立ち上がると少しふらついた。この分だと顔にも出ているだろう。失敗したなと思いながら、外に出る。幸い薬師は眠りこける前にしっかり金を払っていたので、財布を取り出す必要はなかった。
 川が近いからだろう、意外と風が冷たい。おかげでテリオンの酔いは幾分かさめてきたが、薬師は相変わらず友人の肩に身を預けたままだった。
「アーフェンは僕が家まで送るよ」
「そうか」
 そのまま宿に戻ろうとすると、
「テリオンさん。この後少し話があるんだ。いいかな?」
 一切酒精の含まれないまっすぐなまなざしに貫かれる。有無を言わせぬものを感じ、テリオンは唇を結んでうなずいた。
 友人は引きずるように酔っぱらいを運び、薬師の家の鍵を開けた。あらかじめ留守宅の鍵を預かっていたらしい。友人が家から出てくるまでの間、テリオンは夜風に身をさらし、普段通りの思考を取り戻そうと努力した。
 相手はすぐに家から出てきた。
「待たせたね」
「俺に何の用だ?」
 単刀直入に尋ねれば、友人はかぶりを振った。短い栗色の髪が揺れる。
「大したことじゃないよ。ただ、アーフェンをよろしく頼むって言いたかっただけさ」
 ぶるりと背筋が震えた。それは空気の冷たさのせいだけではない。
「何故俺に頼む?」
 友人は肩をすくめた。
「ほら、アーフェンは知っての通りの性格だから、誰かがそばで見てないとね」
「お前がいてやればいいだろ」
「僕はあいつの代わりにこの村を引き受けなくちゃいけない。そう約束したんだ」
 約束。お願いでも依頼でも取引きでもないそれは、ひどく強制力の低いやりとりだ。テリオンにとっては縁遠いものである。
 友人は肩にかけた鞄をぽんと叩いた。
「君も知ってるだろ、あいつが薬の代金を受け取らないこと。それでまともに旅が続けられると思うかい?」
 テリオンの心臓がわずかに跳ねる。友人にすらそう思われていたとは。
 相手の雰囲気は昼間とは少し違って見えた。こちらが酔っているためだろうか。
「いや。あれでやっていけるはずがない」
 断言すると、相手もうなずいた。
「そうだね。実は、村では僕がアーフェンの分までお金の管理をしてたんだ。あいつが全然代金をもらわないから、代わりに僕が受け取ったり、薬の材料を買って分けたり、いろいろしたよ。
 でも、これからのアーフェンにはそれがない。普通ならそんな旅を続けるのは不可能だろう。でも——」
 友人の目が強い輝きを放つ。そこに宿る光は、つい最近ボルダーフォールの屋敷で見たものとそっくりだった。
「もしも、あのままで旅ができたら? アーフェンが薬の代金をもらわずに一人前の薬師になれたら、それ以上のことはないだろう。僕は、そんな未来が見てみたいんだ」
 相手が夢見心地で語っているのなら、テリオンだってあっさり笑い飛ばせただろう。だが友人はごく真剣な様子だった。
 やや気圧され、テリオンはゆるゆると首を振った。
「外はこの村みたいな場所ばかりじゃないんだぞ」
「だからこそ、だよ」
 ここで友人は唇をほころばせ、挑むような視線を向けてくる。
「ねえテリオンさん、僕と賭けをしないかい? 外でもアーフェンが自分の道を貫き通せるかどうか、賭けてみようよ」
(なんだそれは……)
 今や、テリオンは完全に相手の勢いに呑まれていた。友人がここまで大きく出る意味が分からない。旅人から小遣いでも巻き上げたいのか。ツキを失いたくないので、無駄な賭けはしないのだが。
「何故そんなことをする必要がある?」
「テリオンさんにもアーフェンのことを信じてほしいから……かな。僕は、あいつなら大丈夫だって思ってる。きっとアーフェンなら恩人さんみたいな薬師になってくれるさ」
 ますます訳が分からない。薬師の歩む道の正しさを他人に押しつけたいということか?
「一体何を賭けるつもりなんだ」
 テリオンの語調は弱い。結論の見えぬことを言い募るこの友人が、ほとんど得体の知れない存在に思えてしまった。
 友人は胸元に手をやり、鞄の肩紐を握り込む。そこに宿る心を示すように。
「そうだな、賭けるのはお金じゃなくて……自分の気持ち、かな。どれだけアーフェンのことを信じられるか。僕はそれだけは自信があるんだ」
 馬鹿馬鹿しい、付き合ってられるか。そう言い切ってしまっていいはずだった。
 それなのに。酔っているためだろうか、テリオンは何故かその賭けを受ける気になっていた。
「俺は——」
 薬師のことはろくに知らない。それでも、金をもらわずに旅を続けるなんて絶対に無理だと確信できる。
「俺は、あの男がいつか薬の代金を受け取る方に賭ける」
 テリオンのつぶやきに友人はくすっと笑い、
「ふふ、そう来なくっちゃね。ま、むしろあいつはそうなるのもいいかもしれないけど……」
 余裕ぶった発言をした。勝つ気があるのかないのか、はっきりしてほしいものだ。
 とにかく、これから旅の厳しさを知っていけば、いくらなんでも考えを曲げるだろう。テリオンは単純にそう推測していた。決して薬師の人格を信用しているわけではない。
 友人はふっと肩の力を抜いた。
「テリオンさんと話せて良かったよ。あんな腕輪をしているからどういう人かと思ったけど、これならアーフェンを任せても大丈夫そうだ」
 何気なく投げられた言葉に、一瞬息が止まる。
「……知っていたのか」
 外套の下でそっと腕輪に触れた。布越しに冷えきった感触が伝わる。テリオンの狼狽を感じたのか、友人は落ち着き払って笑う。
「うちの村には、結構過激な過去のあるおばあさんがいてね。その人に教えてもらったんだ」
(あいつか!)
 昼間、高台から厳しい視線を飛ばしてきた老婆だろう。まさか昔は盗賊だったのか?
「ああ大丈夫、この話は僕しか知らないよ。他の人や、もちろんアーフェンに話すつもりはない。何があったか知らないけど、気をつけて旅をしてね」
 思いやりに満ちた態度が、むしろテリオンの苦い気分に拍車をかけた。
「……どうしてそこまであいつを気にかけるんだ」
 思わず吐いた嘆息とともに、本音が漏れ出す。
「友だちだからだよ」
 友人はまさしく「友人」としてさらりと言い放つ。テリオンは何度か瞬きした。
 思えば「友だち」ほど遠い存在もない。今までそんな関係を持ったことはなかった。
(俺は、こいつらがどういう間柄なのか、多分一生かけても理解できないんだろうな)
 唇を噛む。言葉にできない思いが胸に渦巻いていた。
 友人はそんな彼を不思議そうに見つめ、「明日の朝、見送りに行くよ。おやすみ」と告げて自宅に戻っていった。
 この短い会話で、クリアブルックへの印象そのものが覆ったようだった。この村の生ぬるい雰囲気を作っていたのは、実はあの薬師だったのではないか——テリオンはそう思いはじめていた。



 あくる朝になり、宿を出たテリオンは村の入り口に立ち、新たな旅の連れを待ち構えていた。
 その男はひたいをおさえてのろのろ歩いてくる。
「うう……頭いってぇ……」
 ろくに水も挟まず酒ばかり胃に流し込んでいたのだから、当然の帰結である。相手はうつむいており、まだテリオンの存在に気づいていない。なのでこちらから声をかけてやった。
「おい、薬屋」
 一拍間が空いた。相手はぽかんとしておもてを上げる。
「薬屋って俺のこと?」
「そうだ」
 尊大な態度で返事をしてやる。「薬屋」はしきりに首をひねっていた。
「薬屋ってか薬師なんだけど。別に薬売ってるわけじゃねえし」
「呼び方なんてなんでもいいだろ」
 こう呼び続けていたら、いつかは薬屋としての自覚も出てくるだろう。
(何しろ俺は、そっちに賭けたんだからな)
 失敗続きの旅路でも、あの賭けを受けたことが間違いだとは思わない。不本意ながら旅の連れが出来たのだから、そのくらいの余興はあってもいいだろう。
「いや、なんでも良くはねえだろ……あ、そうだ、じいさんの様子見てこないと!」
 我に返った薬屋が身を翻しかけると、ちょうどいいタイミングで友人が小川にかかる橋を渡ってきた。
「おはようアーフェン、テリオンさん。さっきおじいさんの経過を確認してきたよ。足は大丈夫そうだ」
「そっか、助かるぜ」
 やはり友人に任せておけば万事解決だったではないか、という指摘をするにはもう遅すぎるので、何も言わないことにする。
 いよいよ村を出発する二人に向かって、友人は片手を挙げた。
「行ってらっしゃい二人とも。さすがにしばらくは戻ってこないよね?」
「へへ、昨日は悪かったな。んじゃー行ってくるわ!」
 村の外に向かってきびすを返す寸前、テリオンと友人の視線が交差した。相手は意味深にほほえんだ。
 一人きりだった昨日と違い、テリオンは旅の連れとともにクリアブルックを出発した。
 不本意な往復を強いられ、すっかり見慣れてしまった道をたどる。途中、不意に薬屋が立ち止まった。
「改めてよろしくな、テリオン」
 テリオンは差し出された手を無視した。彼のせいで一日出発が遅れたことは忘れていない。
「足手まといにはなるなよ。これから東に行くぞ」
「サンランド地方だよなっ。隣の地方っつっても行ったことねえからなー、楽しみになってきたぜ!」
 砂漠の厄介さをまるで知らない者の発言である。日差しは厳しいし砂だらけで歩きづらく、別段楽しい場所ではない。彼もすぐに過酷さを思い知るだろう。一度でも弱音を吐いたら、即座にその場に置いていってやるつもりだ。
 ——まあ、そうなるまでの短い期間、この薬屋が己の考えをどう曲げていくかは見ものである。ささやかな賭けの結末に思いを馳せ、テリオンはそっと口の端を持ち上げた。

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