同じ釜の飯

「いっただきまーす!」
 二人分の小気味良い挨拶がこぢんまりした料理屋に響く。そろそろ夜も更けてきた頃合いで、酒を出さないこの店は客も少なく、ひっそりとしていた。
 アーフェンはさっそく熱い深皿を持ち上げてスープをすする。透明で雑味もなく、魚介の出汁がきいていてうまい。満足した彼は対面に座った少女を見つめた。
「しっかし、ほんとによく食べるよなートレサ」
「アーフェンだって人のこと言えないでしょ」
 トレサはほおを膨らませ、フォークで巻き取ったパスタにふうふうと息を吹きかけてから口に運んだ。
 パスタというのは、小麦粉と水で練った細い棒状の食べ物である。ここゴールドショアに外海から伝わったという珍しい料理で、アーフェンが初めて目にする代物だ。一方で港町出身のトレサは慣れた様子で麺を巻く。ここは彼女が見つけた店だった。商人としての勘もしくは食い意地のおかげか、彼女は穴場を察知する能力に長けている。
「うん、おいしい」
 トレサはいっぱいにほおばった麺を嚥下し、視線を横に滑らせた。
「それより、テリオンさんもこういうお店に来るのね。びっくりしたわ」
「……悪いか?」
 アーフェンの隣に座る盗賊はじろりと商人をねめつけ、匙でスープをすくう。「いやいや、別に?」とトレサは含みのある返事をした。
 昼間、アーフェンたちはこの町でヴァネッサという悪徳薬師を退治し、慰労会と称してつい先ほどまで酒場でプリムロゼを含めた四人で会食していた。しかしその店のメニューは酒に偏っていたため、会計が終わった後でトレサが「食べ足りない」と主張した。彼女だけで夜に外を歩かせるわけにもいかず、若者二人がついてきたのだ。ちなみにプリムロゼは「もうお腹いっぱいよ」と言って、うんざりしたように宿に戻っていった。
 湯気の立つスープは薄い黄金色で、ごくあっさりした塩味だ。具であり出汁のもとでもある小さな貝殻が味にアクセントを加えている。ごくごく飲めば、胃の底に残った酒精が消えていった。
 次いで、アーフェンは苦戦しながらパスタを食べる。つるつると喉を通る感覚が面白い。バターで炒めたパスタには時々烏賊や貝柱が入っており、歯ごたえのある食感で舌を楽しませた。テリオンも小器用にフォークで麺を食べている。
「俺たち、たまにこうやって酒飲んだ後に別の店で食べ直すんだよ」
「おたくが酔っ払ってなければな」
「あーそれ分かるわ。酒場のご飯って全然足りないもの」
 というトレサの発言には正直あまり共感できなかった。故郷の村ではよく食べる方だったアーフェンだが、この商人と勝負すればおそらく彼女に軍配が上がるだろう。今日もトレサは皿に盛られた料理を瞬く間に減らしていく。
「アーフェンはともかく、テリオンさんはもっと小食のイメージだったわ。あたしたちと会ったばっかりの頃なんて、ほんのちょっぴりしか食べなかったわよね?」
「そんなことないだろ」と反論するテリオンの肩を、アーフェンがばしんと叩く。
「いやーそんなことあるって。昔のあんたの朝ごはん、リンゴだけだったし」
「う、嘘でしょテリオンさん……」
 トレサは目をまんまるにしていた。年下二人に言われたい放題のテリオンは、思いっきり眉根を寄せてフォークを置いた。
「……俺の胃袋が広がったのはあんたたちのせいだからな」
「へ」「どういうこと?」
 アーフェンとトレサが顔を見合わせれば、「とぼけるな」とテリオンが続ける。
「最初におたくとリプルタイドに行った時だ。忘れたとは言わせんぞ」
 リプルタイドという単語から手繰り寄せた思い出が、アーフェンの頭のもやもやを吹き飛ばす。彼はぽんと手を打った。
「あ……あーあれか! 確かにテリオン、あのあたりからよく食うようになったかもな」
「えっ何なに、どういうこと?」
 トレサが身を乗り出した。アーフェンはもう一度スープを飲み、喉を潤してから話しはじめる。
「フラットランドでトレサたちと会う前だよ。俺たち、プリムロゼとオルベリクの旦那を仲間にした後でリプルタイドの町に寄ったんだけどさ……」



「それじゃあオルベリクの旦那の旅立ちを祝して、乾杯!」
 アーフェンが音頭を取ると、テーブルのまわりでかちんとジョッキがぶつかりあった。
 港町リプルタイドの酒場には、赤ら顔をした海の男たちがひしめいている。その中で、アーフェン、テリオン、プリムロゼの三人はテーブルを一つ占領して、最近仲間に加わった剣士を囲んでいた。
「む……なんだか悪いな、俺のために」
 本日の主役であるオルベリクは恐縮しつつエールに口をつけた。アーフェンは顔の前で手を振る。
「何言ってんだよー。慌ててコブルストンを出てきちまったから、まだ一回も旦那と酒飲んでねえなと思ってさ」
「要するにアーフェンが飲みたかっただけでしょ?」
 プリムロゼがほほえみ、優雅にグラスを傾けた。さすがサンシェイドの町でプロの踊子をやっていただけあって、こういう騒がしい場所にも慣れている。取り澄ました顔の彼女に見つめられ、アーフェンは一瞬どきりとした。
「へへ……プリムロゼだってそーだろ」
「まあね」
 すでにオルベリクを除く三人は酒好きであることが判明しており、人里に立ち寄る度にアーフェンが誘って数度杯を交わしていた。果たしてオルベリクの飲みっぷりはどうなのだろう。
 テリオンは卓の片隅で黙ってエールを喉に流し込む。特に文句が出なかったところを見ると、悪い味ではなかったらしい。
 酒場にはふんわりと磯の香りが漂い、内陸部出身のアーフェンの気分を高揚させた。さらりとしたエールは苦味とうまみのバランスが取れていて、今日の杯もよく進みそうである。
 景気よく酒を飲む四人のもとに、先に頼んだつまみを持って男の店員がやってきた。このあたりで育つ豆をスパイスと一緒に炒ったもので、香ばしいにおいが鼻腔をくすぐる。さっそく手でつまんで口に放り込んだ。かり、と歯に当たる感触がたまらない。満足したアーフェンはメニューを広げた。
「やっぱ港町といえば魚介類だよな! さーて何頼もっかな」
 紙にはずらりと魚の名前が並んでいた。今朝港でとれたばかりのもので、毎日の仕入れに合わせてメニューを書き直しているらしい。素材の種類と調理法を自由に選んで注文する形式のようだ。アーフェンは故郷のリバーランドで川魚ばかり食べていたので、海の幸には馴染みがなかった。甲殻類や貝の名前に注目しながらメニューを読んでいると、不意に横合いから声がかかる。
「お客さん、いいタイミングだったね。ちょっと前まであんまりいい魚がなかったんだよ」
 愛想のいい店員である。プリムロゼが長いまつげを瞬いて、熱っぽいまなざしを彼に向けた。
「あら、時化でもあったの?」
 相手は分かりやすくうろたえ、踊子から視線をそらす。アーフェンはさすがにあの誘惑にも慣れてきたが、初対面ではやはり刺激が強いのだろう。
「い、いやあ……町の近くに海賊が出たんですよ」
「うわ、物騒だなあ」
 アーフェンは顔をしかめる。思い返せば、オルベリクが住んでいたコブルストンもつい最近まで山賊の被害を受けていた。オルステラ大陸はどこもかしこもこんな事件ばかりなのか……と、旅に出てやっと中つ海を半周したばかりのアーフェンは考えてしまう。故郷クリアブルックが平和だったのは、ろくな産業がなかったおかげかもしれない。
「でも今は海賊なんていないわよね?」とプリムロゼが尋ねる。彼女の言うとおり、昼間歩いた町は平和そのものだった。
「ええ、コルツォーネ商会のところの娘さんが退治してくれて、やっと騒ぎがおさまったんです」
「商人の娘が? それはずいぶんと……勇敢なのだな」
 オルベリクが瞠目する。自警団を組んで山賊に対抗していた彼にとって、個人で海賊にけんかを売ったなんて驚くべき話題だろう。
 話を聞くに、相手はそこそこ大規模の海賊だったようだ。それを退治したのだから、件の娘はオルベリクくらい屈強な女傑だったのかもしれない。コルツォーネ商会の看板は町の入口で見かけた覚えがある。昼間は用がなかったので素通りしたが、明日にでも覗いてみよう。
「どうぞごゆっくり」と言う店員の背中を見送って、アーフェンはもう一度ジョッキを掲げる。
「ってことは、その子の活躍があったから俺たちが今日宴を開けるんだよな! かんぱーい」
 プリムロゼは苦笑しながら二度目の杯を合わせた。オルベリクもいつになく朗らかな顔をしており、順調に酒が回ってきたようだ。アーフェンがメニュー表を差し出すと、主役たる剣士は一点を指差す。
「俺はこの白身の魚がいいな。せっかくだからムニエルにするか」
「コブルストンではなかなか食べられないものね。私はこのカルパッチョとかいう料理かしら。生魚って初めてだわ」
「挑戦するなあプリムロゼ。俺はこの貝とトマトを煮込んだやつにしよ。で、テリオンは何食う?」
 アーフェンが機嫌よく振り返ると、黙って豆をつまんでいたテリオンはいつものつまらなさそうな表情をして、酒場の喧騒に飲まれるくらい小さな声で答えた。
「なんでもいい」
「出た。男のこういう発言が料理人を怒らせるのよ」
 プリムロゼのあからさまな挑発に、テリオンは白い目を返す。アーフェンは苦笑いした。そういえば昔、自分も母親に「夕飯の献立はなんでもいい」と言って「そういうのが一番困るんだよ」と返されたことがあった。自炊するようになってから分かったが、メニューを考えるのも一苦労なのである。
「ま、テリオンは少食だから仕方ねえよな。でもせっかくの酒がもったいねえよ。このエール、白身魚とめちゃくちゃ合うと思うぜ」
「は?」
 急にテリオンがこちらをにらんできた。一体何が気に障ったのだろう。アーフェンは自身の発言を振り返り、「テリオンは少食だ」と言い切ったことかと思い当たる。彼はテリオンの不穏な視線を真正面から受け止めた。
「いや少食なのは事実だろ。だってあんた、いつも全然食わねえし」
 思い出すのはクリアブルックを出て初めての野宿だ。朝起きると、テリオンはすでに身支度を整えてリンゴをかじっていた。それが彼の朝食だという。いくらなんでも量が少なすぎるだろうと口を挟めば、テリオン曰く「下手に満腹になると動きづらくなる」とのことだった。しかしアーフェンは腹が減って倒れる方が嫌だと思い、村から持ってきたパンを満足するまで食べた。
 その後もテリオンと食事する度、食べる量の少なさが気にかかった。おまけに彼は相当な早食いだった。
 テリオンは喉を動かしてエールを飲み干す。相変わらず惚れ惚れするペースだ。しかし薬師としては「空腹に酒を流し込んで大丈夫なのか?」と不安になってしまう。
 すかさず二杯目を注文して、テリオンは堂々と言い放った。
「酒場は飯を食うところじゃないだろ」
 三人はびっくりして顔を見合わせる。
「えーっ! じゃあつまみで腹膨らますのかよ?」
 豆は確かにおいしかったが、百粒は食べないと満腹にならないだろうし、その前に飽きそうだ。プリムロゼは呆れたように言う。
「あなた、ろくにおいしいご飯を食べたことがないんでしょ? 舌が貧しいからそんなので満足しちゃうのよ」
 刹那、テリオンの目が殺気立った緑に燃え上がった。彼は一見冷淡なようでいて、踊子にからかわれると毎度結構腹を立てているようだ。それでも反論しなかったので、今回は図星なのかもしれない。
「な……ならさ、今日はうまい魚介をたっぷり味わおうぜ!」
 アーフェンは必死に流れを遮って店員を呼んだ。先ほど選んだメニューを注文し、最後にプリムロゼが形の良い人差し指を一本立てる。
「それと今日のおすすめ料理も一皿ちょうだい。代金はアーフェン持ちで」
「ええっ!?」
 料理代はオルベリク以外の三人で等分に払うという取り決めだったのに。アーフェンは財布の中身を計算しようとして、すぐに諦めた。考えても仕方のないことだった。
 やがて次々と料理が運ばれてきた。剣士の頼んだムニエルは白くふっくらしており、溶けた黄金色のバターが食欲をそそる。カルパッチョは前菜らしくみずみずしい野菜が添えられていた。アーフェンの注文した煮込み料理は火から下ろしてすぐに運んできたようで、深皿の中でぐつぐつ揺れている。やけどしそうな温度がおいしさの秘訣なのだろう。
 最後にどん、と卓の真ん中に大皿が置かれた。
「こちらが本日のおすすめです」
 円形に引き伸ばしたパンの上に、トマトソースとチーズをかけて、パリッと窯で焼き上げた一品だ。薄切りにした青魚の身と、ハーブも入っているらしい。彩り豊かな皿を見るなり、アーフェンは代金のことなどもうどうでも良くなった。
「よっしゃ、食うぞ!」
 さっそくナイフで切り分けたおすすめ料理にかぶりつく。熱いチーズが舌の上でとろけた。プリムロゼは上品にナイフとフォークを操って生魚を口に含み、「結構いけるわね」とつぶやく。ムニエルをほおばったオルベリクも満足げだった。彼は体格にあった気持ちのいい食べっぷりで、おまけにかなり行儀がいい。アーフェンは自分の食事マナーが若干恥ずかしくなった。
 テリオンはというと、料理を少しずつ手元の皿に載せてちまちま食べている。今日もそんな量で済ませるつもりなのか。素晴らしい食事を前にしても顔色一つ変えない彼を、アーフェンはじっと見た。
「あんたさあ、好きな料理とかねえの?」
「ない」
 にべもない返事だ。アーフェンは頭を抱えたくなる。
「それで腹が減らないのが不思議だぜ……」
「テリオンの背が低いのって、食べる量が少ないせいよね」
 酔ってきたのかプリムロゼがかなり辛辣なことを言う。アーフェンは舌戦の予感におののきつつも「一理あるな」と納得した。テリオンはクリアブルックに来る前からずっと旅を続けていたようだし、育ち盛りの時期でもあまり栄養状態が良くなかったのかもしれない。正直最初は年下かと思ったので、相手の方が一歳上だと知って驚いた覚えがある。
 散々踊子に煽られたテリオンは一気にジョッキを空にすると、いまいましげに立ち上がる。テーブルの上にコインが叩きつけられた。
「先に戻る。あんたたちといるとうるさくてかなわん」
「ちょっ、おい!」
 テリオンは紫の外套を翻して客席の間を抜け、あっという間に酒場を去っていった。せっかくの魚介にはほとんど手をつけていない。まだアーフェンの半分も食べてないのではないか。
「旦那の祝いだってのに……悪ぃな旦那」
 と言って振り向くと、オルベリクは何故かにこにこしていた。
「構わん。テリオンにも事情があるのだろう」
「そうかねえ……って旦那、なんか楽しそうだな?」
 理由もないのに終始笑っているのが若干不気味だった。酒を飲んだ時に出るオルベリクの癖なのかもしれない。
 諦めたアーフェンは椅子に座り直し、フォークでおすすめ料理をつつきながらぼんやりと中空に問いかける。
「テリオンって、リンゴ以外に好きなもんはねえのかな」
 彼のリンゴ好きは三人の間で知れ渡っていた。テリオンはどこからともなくあの赤い果実を入手しては、食事の時間に関係なくかじっているのだ。以前砂漠を越えた時、どうがんばってもリンゴが手に入らず鬱憤が溜まっていたらしいテリオンは、サンシェイドの酒場で可愛らしいリンゴの発泡酒を頼んでいた。それを見たアーフェンはあまりの似合わなさに笑いそうになった。
 プリムロゼは少し体勢を崩して頬杖をつく。顔にほのかな赤みがさしていた。
「リンゴ以外ねえ……甘い物か果物はどうなの?」
「別に、ブドウもプラムもそこまで好きじゃなさそうだぜ」
「リンゴには何か思い出があるのではないか。故郷の特産だったとか」
 オルベリクの指摘に「なるほどな」と相槌を打つ。味に対するこだわりが薄そうなテリオンだからこそ、特別な思い入れがあるものを好むのかもしれない。
(そういえばテリオンの故郷ってどこなんだろう)
 という埒が明かない疑問を頭の隅に追いやり、アーフェンはうなずいた。
「じゃ、新しい思い出をつくらねえとな。そしたら他のもんもいっぱい食えるようになるだろ」
 プリムロゼが首をかしげる。
「別にテリオンが少食でも私たちは困らないでしょ?」
「困るっつーか、薬師として気になんだよ」
 無理をしてたくさん食べてほしいわけではないが、摂取する食べ物の絶対量が少ないと栄養が偏りやすいのは事実だ。プリムロゼはにやりとする。
「アーフェンって本当にお人好しよね」
「うっ。なんとでも言ってくれ……あれ?」
 照れて顔を背けたアーフェンは、テリオンの椅子に何かが置かれているのを発見した。驚いてそれを持ち上げる。
「これってあいつの武器だよな」
 テリオンの短剣が鞘ごと残っていたのだ。どうやら座っているうちに腰帯から外れ、そのまま忘れていったらしい。普段の彼なら考えられない失態だから、やはり空きっ腹に酒を流し込んだのが悪影響を及ぼしたのかもしれない。
「あら本当。ああ見えて結構酔ってたのね」
「待っていたらテリオンが取りに来るのではないか?」
 オルベリクの指摘は最もだったが、アーフェンは腰を浮かせてテーブルに代金を置いた。
「いやー自分から出てった手前、戻りづらいだろ……。すまねえ旦那、俺ちょっとテリオン追っかけてくるわ。戻ってこなかったら先に宿行っててくれ」
「承知した」
 相変わらず笑顔のオルベリクと、だんだん目が据わってきたプリムロゼを残すことに一抹の不安を覚えながら、アーフェンは短剣を鞄にしまって酒場を出た。
 まだ酔いもそこまで回っておらず、足取りはしっかりしていた。海から吹く風が心地よく全身を冷やす。テリオンは宿に向かっただろうと見当をつけて歩き出すと、程なく前方の闇の中に灰銀の髪が浮かび上がった。相手も忘れ物に気づいたのか、一直線にこちらに向かってくる。
「おーい、テリオン!」
 ひらひらと揺れる外套の動きが止まった。アーフェンに呼びかけられたから、ではない。
「――じいさん、あの女の父親なんだってな」
「俺はじいさんなんて年ではないぞ」
 どこからか不穏なやりとりが聞こえたのだ。人通りがなく静かな夜だから耳に届いたのだろう。テリオンが顔を向けたのは路地だ。アーフェンも釣られて覗き込む。
 建物に囲まれた暗く狭い場所で、帽子をかぶった一人の男が、見るからに荒っぽい別の男たちに囲まれていた。こりゃあまずい、とアーフェンは反射的に路地に突入する。
「ちょっと待ったあ! あんたたち、その人に乱暴しようとしてるだろ」
「はあ? なんだこの酔っぱらい」
 アーフェンはその不躾な問いを否定できなかった。しかし相手も酒臭いのでお互い様だろう。ごろつきと思しき三人は夜目にも赤い顔をしていた。酔って気が大きくなった末、罪のない町人にちょっかいをかけたというところか。取り囲まれた帽子の男は、一人だけ素面のまま目を丸くしている。
「邪魔すんなよ。俺たちはこいつの娘に仕事を邪魔されたんだ」
 三人組の一人がアーフェンをにらみつける。相手の事情がどうであれ、アーフェンは帽子の男に加勢する気満々だった。相手が刃物を取り出したのを見て、自分も背中に手をやる。が、愛用の斧はいつになくずしりとした重量を腕に伝えた。ここに来て酔いが回ったのか。おまけに腹が重くて動きづらい。相手は包囲網を解いて、にやにやしながらアーフェンに近寄ってくる。
(これ、結構まずいかも……)
 こめかみを冷や汗が流れた時、体の脇を軽やかな風が通り抜けた。
 荒っぽい男の腹部にブーツのつま先がめり込む。相手は体を二つに折ってうめき、取り落としたナイフが澄んだ音を立てて石畳に転がった。
「何すんだよ!?」
 色めき立つ男たちの前に、紫の外套が音もなく立ちはだかる。アーフェンははっとして鞄に入れていたものを投げた。
「テリオン、これ!」
 彼は後方から飛んできた短剣を一瞥もせずにキャッチして、すかさず鞘から抜いた。銀の光が閃くと、あっという間に男たちの武器が弾かれる。瞬きをする暇もなかった。無手になった相手は「覚えてろよ」とほうほうの体で逃げていく。
「助かったぜ、テリオン」
 結局見ているだけだったアーフェンは申し訳ない気分で声をかけた。テリオンもそれなりに酒を飲んでいたはずなのに、よくあれほど動けたものだ。
「……今度何かおごれよ」
 肩越しに振り返ったテリオンは鋭く目を光らせた。アーフェンは慌てて首肯してから、男性に駆け寄る。
「あんた、怪我はなかったか?」
 男性は帽子をとってうなずいた。
「なんともないよ、ありがとう」
「そっか。でもあいつら、また襲ってくるかもしれないぜ」
 ごろつきたちは帽子の男に個人的な恨みがある様子だった。彼は首を振る。
「大丈夫だ。俺も娘には負けていられないからな、闇討ちはともかく昼間ならいくらでも対処のしようがあるさ」
「へー……?」
 対処とやらが何を指しているのか、酔っ払ったアーフェンにはよく分からなかった。しかしここまできっぱり言い切るなら、部外者が心配する必要はないだろう。
 男は二人を見回して相好を崩す。
「そうだ、キミたちにお礼をしよう」
「礼なんていらねえよ」
 即座に断った。直後、最大の功労者の意見を聞いていなかったことに気づいて「テリオンも別にいいよな?」と声をかけようとした時――きゅう、という耳慣れぬ音がした。
「……え?」
 びっくりして音の出処を見れば、テリオンが小刻みに肩を震わせていた。男が朗らかに笑う。
「キミたちは空腹なんだな。よし、俺の知っている店に案内しよう」
 まさか今のはテリオンの腹の音だったのか。とっさにアーフェンが視線をやれば、テリオンににらみ返された。それ以上何か言うと怒られそうだったので、驚きは内心だけにとどめておく。
(やっぱり腹減ってたんじゃねえか!)
 今日は途中で食事を切り上げたから、いつも以上に量が少なかったはずだ。さすがのテリオンも耐えられなかったのだろう。アーフェンは薬の代金を取らない主義だが、今回ばかりはテリオンのためにお礼とやらを受けようと思った。毒気を抜かれたのか、腹の虫を鳴らした本人は口をつぐんだまま素直についてくる。
 帽子の男がコルツォーネ氏と名乗ったので、こちらは旅人だと自己紹介する。案内に従って店に向かう道すがら、アーフェンは質問した。
「酒場で話を聞いたぜ。あんたの娘さんが海賊から町を救ったんだろ」
「ああそうだ。いつの間にか娘も有名人だな。今は行商の旅に出ているんだが……」
 彼は自慢げに胸をそらした。なるほど、先ほどの男たちはおそらく海賊の残党だったのだ。憤懣やるかたない彼らは、娘の不在を知って父親を襲ったのだろう。
「海賊の頭は改心して町の被害を賠償した後、どこかの商船に乗ったらしい。だが、部下まで全員心を入れ替えたわけじゃないからな、こんなこともあるさ。……さあ、ついたぞ」
 豪胆なコルツォーネ氏が指さしたのは、まるで民家のような見た目の食堂だった。旅人のアーフェンたちではとても見つけられなかっただろう。地元の者だけが利用する隠れ家に違いない。
 中は狭かったが、控えめな照明とぬくもりのある内装で居心地が良い。食堂にはメニューすら存在せず、コルツォーネ氏が顔なじみの店主に一言二言頼むと、少しして料理が出てきた。
「うちの娘はよく食べる子でね、ここの料理が大好きなんだ。さあどうぞ」
 どん、とテーブルに載せられたのは大きな鍋である。どろどろに溶けるまで玉ねぎを煮込んだ甘めのスープにパンを浸して、チーズを振りかけ天火で焼き上げた逸品で、グラタンとスープを合体させたような料理だ。
 アーフェンはさっそくスプーンを手にとって、ふやけたパンをすくう。舌に感じる熱さと深い味わいに、ほおがほころんだ。「おお、うめえ」とこぼした後は手が止まらなくなる。
 テリオンも渋々といった様子で汁を飲み――すぐに再び鍋に手を伸ばした。ほおが上気しているのは、決して酔いやスープの熱さのせいだけではないだろう。目の前の料理をただ消化するのではなく、じっくり味わうために口に運ぶ彼の姿は、めったに見られないものだった。
 二人の食べっぷりを見たコルツォーネ氏は愉快そうに尋ねる。
「もしかして、キミたちはよくお酒を飲むのか?」
「ああ。実は俺もこいつもさっき飲んだばっかりなんだ」
「そうとは思えないくらい俊敏な動きだったな。だが元気なキミたちと言えども、二日酔いで困ることもあるだろう。娘にはまだ早いから教えていないのだが、酔いを抑えるとっておきの方法があるんだ。こうやって汁物を飲むことさ」
「それでこの料理か」
 珍しくテリオンが口を挟んだ。恐るべしグラタンスープ、あの氷のような態度を溶かしてしまうとは……とアーフェンは静かに感動し、いっそう張り切ってスープを飲んだ。酒精で荒れた胃に、玉ねぎの甘味があたたかく染み込む。テリオンの態度が軟化するのも道理だった。
 ――しばらく食事を楽しんだ頃、思わぬ問題が浮上した。アーフェンはこっそり隣に耳打ちする。
「テリオン、まだ食えるか?」
「……なんとか」
 テリオンは見るからにげんなりしていたが、手を止めなかった。そう、食べても食べても一向に鍋の中身が減らないのだ。パンがスープを吸ってどんどん膨らむことが原因か、そもそも鍋の容量が大きすぎたのか。いくら料理が美味でも、アーフェンたちの胃袋には限界がある。コルツォーネ氏は上機嫌そうに眺めているだけで、若者二人が完食することを微塵も疑っていない雰囲気だった。
(もう完食するしかねえな……)
 果たしてこれはお礼と呼べるのだろうか、という疑問は無理やりもみ消して、無心で手を動かす。時間はかかったが、二人がかりでなんとか鍋を空にした。しばらくはグラタンを見たくない気分である。
 コルツォーネ氏は明るく言葉を結んだ。
「いい食べっぷりだったな。改めて、先ほどは助かったよ」
「いやこっちこそ……うまいもん食わせてくれてありがとうよ」
 アーフェンたちは重い腹を抱えながら、コルツォーネ氏を家の近くまで送り届けた。「今度うちに寄ってくれたら割引するよ」という言葉になんとか笑顔を返し、さざ波の音を聞きながら宿に戻る。オルベリクたちはとっくの昔に移動しただろうと考えて、酒場には寄らなかった。
 アーフェンは膨らんだ腹をさすって隣に話しかける。
「あんた、思ったより食えるじゃねえか」
「……味は悪くなかったな」
 テリオンはマフラーを口元に引き上げた。こう見えて、彼は他人の好意を無碍にできないふしがある。今回はコルツォーネ氏がまったく悪気なく料理を勧めてきたので、意地になって完食したのだろう。
 ふと、アーフェンは暗い空を見上げた。
「そういやコルツォーネさんの娘さんはあの店の料理が好きなんだよな。やっぱりめちゃくちゃ体が大きいのか?」
「それで海賊を殴り飛ばしたんだろうな」
「はは、ありそう」
 愉快な想像をしながら帰路につく。宿の明かりが見えた時、「それにしても」とアーフェンは内心首をかしげた。
「本当に二日酔いに効くのかねえ……」
 結果は翌日、顕著にあらわれた。
 コルツォーネ氏の発言通り、アーフェンは爽やかな心地で朝を迎えた。同じくテリオンも平然としている一方で、オルベリクとプリムロゼは揃って二日酔いで額を押さえていた。
 こうしてアーフェンとテリオンは酒を飲んだ後、たまに別の店に移動して食事するようになったのだ。



「え! それじゃあ二人が父さんを助けてくれたんだ……」
 話を聞いたトレサは「ありがとう」と素直に頭を下げる。もちろんここにいる小柄で細身の少女、トレサ・コルツォーネこそが海賊と戦ってリプルタイドを救った女傑であった。
 初めて彼女に会った時、アーフェンたちはリプルタイドにおける出来事をど忘れしていた。しばらくしてコルツォーネ氏の存在を思い出したものの、これまでトレサ本人に語る機会はなかったのだ。
「父親もお前に似て強引だったな」
 オルネオ・コルツォーネのふるまいを思い浮かべたのか、テリオンが呆れたように言う。
「うっ……それは申し訳なかったわ」
 と言いつつトレサはパスタをほおばるのをやめない。これでどうして背が低いのか、あの栄養が一体どこに消えているのか謎である。疑問の目を向けるアーフェンの前で、彼女は満面の笑みになった。
「でも、父さんのおかげであたしもテリオンさんと一緒にいっぱいご飯が食べられるんだから、良かったわ!」
「良くない。食う量が増えたから無駄に金がかかるようになった」
 という言葉に反して、テリオンはまんざらでもなさそうな顔をしていた。トレサは「そう?」と首をかしげ、アーフェンは笑いを噛み殺す。
 やがてトレサがフォークを置いた。
「ごちそうさまでした!」
 彼女の皿はすっかりきれいになっていた。しばらくして男二人も食べ終え、アーフェンはしぼんだ財布から三人分の代金を取り出した。今日は皆にヴァネッサとの戦いを手伝ってもらったので、勘定はすべて彼が持つ約束だ。ただでさえ寒々しい懐がさらに冷え込んだが仕方ない。ヴァネッサは傭兵を雇っていたので、アーフェン一人ではどうにもならなかっただろう。エリンたち母子やゴールドショアの人々を助けられたのだから、このくらいは安いものだ。
 会計を終えてふと気づくと、「もう用はない」と言わんばかりにテリオンがいなくなっていた。いつものことなので、特に文句も湧かない。
 アーフェンとともに外に出たトレサは、ぽつりとこぼした。
「テリオンさんの食事の量が増えたのは、きっとアーフェンとご飯を食べるのが楽しいからよね」
「へ? そうかねえ……」
 確かに飲みや食事に誘っても拒否されないので、悪くは思われていないのだろう。しかし、テリオンがそこまで積極的にアーフェンとの時間を楽しんでいるかは不明である。しきりに首をひねる彼に、トレサがぴんと指を立てた。
「ほら、リプルタイドでオルベリクさんが言ってたんでしょ? テリオンさんにとっては食べ物にまつわる思い出が重要だって。つまり、いい思い出ができたからいっぱい食べるようになったのよ」
「あーなるほどな。でもさ、それって俺だけが原因じゃねえだろ?」
 テリオンにとっての食事の思い出は、食卓を囲う仲間たち皆でつくったものだろう。食べることが好きな者ばかりなので料理にはなかなかうるさく、野宿の時ですら食材にこだわる始末だ。テリオンはそんな仲間たちに、自分でも気づかぬうちに感化されていったのだ。
「それもそうね。きっかけはアーフェンかもしれないけど、今はそれだけじゃないといいな」
 トレサがうーんと伸びをする。いつかのリプルタイドを思わせるコーストランドの潮風が、アーフェンの髪を揺らした。彼は心地よい満腹感に眠気を覚えながら、ぼんやりと回想する。
(そういえば……あいつ、もともと食べること自体は嫌いじゃなかったんだよな)
 何故なら、トレサや他の仲間たちの食事を見守るテリオンのまなざしは、いつだって穏やかだった。

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