心祈一転

「寄り道になっちゃってごめんね、二人とも」
 トレサは跳ねるように波打ち際でステップを踏んで背後を振り返る。のんびりとついてくるサイラスが朗らかに顔を上げた。
「大丈夫だよ。急ぐ旅ではないからね」
「でも先生は学院をお休みしてるんでしょ?」
「近頃はこいつが何をしようが誰も文句を言わないらしいぞ」
 学者の横に出たテリオンは、軽やかに波を避けながら隣を指差す。サイラスは軽く笑った。
「ほ、本当? ならいいんだけど……」
 この一年ほどで、彼らは何度も短い旅をしていると聞く。学院側もサイラスの不在に慣れたのだろうか。気を取り直したトレサは海風にふわりと浮かび上がった帽子を押さえ、再び前を向く。
 リプルタイドを旅立った三人は、オルベリクと合流すべくコブルストンを目指す旅の途上にあった。こうして月隠れの海道に来ているのは、トレサが「ある場所に寄りたい」とわがままを言ったからだ。
 ブーツを砂浜に埋めて岩場を回り込み、目的地である天然の洞窟を見つけるなり駆け込んだ。
「久しぶりに来たわ、紳商伯の祠!」
 洞窟は奥の天井が抜けて明るい日が差し込んでいる。その真下には商人の守護神を祀る祭壇があった。内部を見回したサイラスがほう、と息を吐く。
「やはりビフェルガンの祠はよく整備されているね」
「グランポートとかゴールドショアから毎日商人が来るって聞いたわ」
 今は他の参拝客はいないが、壇上には新鮮な果物が供えられていた。祠の管理はゴールドショアの町が引き受けているらしく、お供え物が何日も放置されることはない。一番最後にやってきたテリオンが首をかしげた。
「お前、そんなにここに来たかったのか?」
「うんっ。この道を通る時はいっつも急いでたから、あんまりちゃんとお祈りしたことなかったなと思って」
「はは、そうだね……」
 サイラスが気の抜けた声を漏らす。以前ゴールドショアを訪れた時はアーフェンやオフィーリアの大事な用事があったし、グランポートを目指した時はトレサの旅の目的である大競売の開催が差し迫っていた。近くを通りがかる度に祠には立ち寄ったが、ばたばたしながらお参りした記憶しかない。
 トレサはリュックを床に下ろし、準備をはじめる。今回の旅立ちが決まった時点で、祠の参拝を見越してリプルタイドでお供え物を用意してきたのだ。次々とものを取り出すトレサの手元を、サイラスが興味深そうに覗き込む。
「それは何だい?」
「紙銭よ。神様の使うお金で、これを燃やしてお供えするのが由緒正しい参拝方法だって、父さんから聞いたんだ」
 文字の書かれた札を指に挟んで見せると、サイラスが「ああ、聞いたことがあるな。本物を見たのは初めてだよ。確か文献には――」と解説をはじめようとしたので、テリオンが「参拝の後にしろ」と冷たく言い放った。おとなしく口をつぐんだ学者にトレサはくすりと笑い、今度はこちらから尋ねる。
「ねえサイラス先生、碩学王の祠にもこうやって何かお供えするの?」
 心得たサイラスが勇んで唇を開く。
「ものを捧げて願いごとをする習慣はないかな。神と対面する者が勉学に励むこと自体が対価だと思うよ。学者は論文の成功を、生徒たちは試験に合格できるよう願をかけることが多いね」
「あんたもそんなこと祈ってたのか?」
 テリオンの素朴な問いかけに、サイラスはあごを指でなぞる。
「いいや。何かの節目の度に、自分の決意を宣言しに行ったかな。オデット先輩がクオリークレストに旅立つ前にもあそこに寄ったものだよ」
「へええ」
 守護神によって人間との接し方は大きく異なるのだ。ならば、とトレサは少し引いた位置にいた盗賊に視線を転じる。
「テリオンさんは? 盗公子の祠、行ったことあるんでしょ」
「……あいつに願いごとなんかしたら、余計な仕事を頼まれるだけだ」
 彼は思いっきり顔を歪めた。あいつ? とトレサは首をひねる。神様に対する態度にしては、妙に距離感が近かった。まるで実在する人物の話をしているかのようだ。サイラスは何か思い当たる節があるのか、苦笑していた。
「盗賊の守護神ってそんな感じなの……?」
「ああ。だいたい、祭壇に何か供えても盗まれるだろ」
「それもそうだね」
 サイラスが大真面目に首肯した。テリオンは外套の下で腕を組み、じろりとトレサを見る。
「で、商人は守護神様に何を願うんだ?」
「トレサ君は十億も資産があるわけだからね……たいていの願いは祈らずとも叶うだろう」
 好奇心に満ちたサイラスの視線が寄せられた。トレサはひとつうなずいて、紳商伯の象徴に向き合う。石像はコーストランドのまぶしい日差しを浴びてきらきらと輝いていた。
「あたしはビフェルガン様にお礼を言いに来たのよ」一旦区切り、二人の注意を十分に惹いてから再び口を開く。「あの旅の間もいっぱいお世話になったでしょ。神様でも人間でも、こういう挨拶はきっちりしておくのが商売のコツなの」
「なるほど、筋が通っているね」
 納得したようなサイラスの声に相槌を打ったトレサは、いよいよ祭壇に紙銭を捧げた。ここにいる二人の仲間から学んだ魔法により、小さな炎を手のひらに生んで紙を燃やす。細い煙が立ち上り、洞窟の天井に伸びていった。祭壇の上に灰ができるのを見届けてから、両手の指を胸の前で組み合わせ、まぶたを閉じる。
 心がしんと静まり返り、真っ暗な視界の中で見えない神と対面するこの瞬間が、トレサは好きだった。遠くから聞こえる波音が心の澱を洗い流していく。
(ビフェルガン様、あたしとみんなを守ってくださって、ありがとうございました)
 商売でも戦闘でも、ここぞという踏ん張りどころを見極めて粘る力は、きっとこの守護神から授かったものだろう。だからこそ、トレサは神に対して願いをかけるのではなく、感謝を捧げたかった。
 祈りを終えたトレサは清々しい気分で仲間のもとに戻る。サイラスは海の向こうに思いを馳せるような目で祭壇を見つめた。
「私も今度、久々に碩学王の祠に行こうかな。テリオンも一度は盗公子に挨拶するといいよ」
「……考えておく」
 こう返すということは、テリオンもある程度その気になったのだろう。「もしかして今のお祈りに影響されたのかな」とトレサは考えたが、口には出さなかった。代わりに洞窟の外を指さす。
「さ、寄り道はもう終わり。オルベリクさんを迎えに行きましょ!」
 サイラスは顔をほころばせた。
「ああ、行こう。トレサ君のことはまだオルベリクに教えていないから、顔を見たら驚くかな」
「厄介な連れが増えたって嘆くかもしれんぞ」
「ん? どういうことだい」
「あんたの面倒を見るのは大変だからな」
 じろりとテリオンに見つめられ、サイラスは秀麗な眉根を寄せて「腑に落ちない」という顔をしていた。
 のんきに笑いをこらえていたトレサは、そこではたと気づく。
「……テリオンさん、さりげなくあたしのこと『厄介』って言ったでしょ」
「よく気づいたな」
「もー!」
 反射的に伸ばした手から、紫のマフラーがひらりと逃げていく。肩越しに振り向いたテリオンの両目は、面白がるように細められていた。トレサは彼を追いかけて岩場から砂地へ、太陽の下へと踏み出す。
 それだけで、もう祠に来る前の自分とは別人になったように感じた。祈りというものは、自分の気持ちに区切りをつけて、前に向かうために必要な行為なのだ。この先たとえ商売がうまくいかなくて落ち込む時があっても、この場所を知っている自分なら必ず立ち直れる、と信じられた。
(あたしはこれからもずっと商人を続けていくわよ、紳商伯様!)
 足元に広がる砂は、よく磨いたコインを思わせる黄金色にきらめいていた。

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