思う子に旅をさせよ

 ふわ、と小さなあくびを噛み殺し、サイラスは朝のアトラスダム城下町に繰り出した。
 今日は早い時間から学院に行って授業の準備をするつもりだ。それなのに、昨日も読書で夜更かししてしまった。もしテレーズに今のあくびが見つかったら怒られただろうな、と思いながら石畳を踏みしめる。
「寝不足か、サイラス」
 いきなり頭上から降ってきた台詞に身をこわばらせた。それはこの町では決して聞こえるはずのない声だった。
 ローブを翻して振り返り、サイラスは目を見開く。
「テリオン?」
 かつての旅仲間は、民家の屋根からさっそうと街路に降り立った。その姿を見て、サイラスは強烈な違和感を覚える。
 格好自体は紫の外套にマフラーという見慣れたものだ。短く切りそろえた前髪だけはともに旅をしていた頃と違うけれど、サイラスが初めて見る姿ではない。彼は訝りながらじっと観察し、違和感の正体に気づいた。
 瞳だ。テリオンの左目は視力を失っていたはずだが、今はきちんと焦点を結び、こちらをひたと見つめている。
「いや、キミは一体……」
 思わず身構えると、テリオンにそっくりの何者かは躊躇なく近寄ってきた。彼はサイラスを見上げて面白がるように眉を下げる。そうするとますます普段のテリオンの印象から遠ざかった。
「さすがはうちの長兄の秘蔵っ子、あっさり看破したな」
「兄……?」
 まるで芝居をしているかのように、抑揚や声の調子まで完全に別人だった。戸惑うサイラスに、その人はあっさりと告げる。
「俺はエベルだ。今は訳あってテリオンの体を借りてる」
「うん? ちょっと待ってくれ、キミは――いや、あなたは自分が盗公子エベルだと言っているのか?」
 さしものサイラスも度肝を抜かれ、思わずあたりを見回した。早朝の路地には誰もいない。そうと分かっていても声をひそめてしまうほど、荒唐無稽な話だった。
 もし本当にエベル神がテリオンの体に憑依しているとすると、本来あるべき宿主の意識はどこに行ってしまったのだろう。そもそも何故守護神が人間の体を借りているのか。次から次へと疑問が沸いてくる。
 反対に、今の発言が嘘だとして、考えられる可能性は二つある。一つは単純にテリオン本人がサイラスをからかっている場合、もう一つは目の前の人物が限りなくテリオンに似た別人の場合だ。しかし、前者はある理由から最も可能性は低く、後者はわざわざ盗公子を名乗る理由がない。さすがに守護神の名前を息子につける親はいないだろうし、偽名として神を名乗るとも考えられなかった。
 混乱しながら改めて青年を見れば、造形自体はテリオンとしか思えなかった。左目に走る傷跡なんて彼そのものだ。
(だからといって、こんなことは……)
 サイラスが高速で思考を走らせていると、「テリオン」はさらに一歩距離を詰めた。
「疑われるのも仕方ないか。じゃあこういう話はどうだ。
 ……あんた、前に俺の祠に来て祈っただろ。魔力の受け渡しの術を身につけられないか、ってな」
「なっ……」
 サイラスは凍りつく。確かにダスクバロウに行く直前、彼はクオリークレスト近くにある盗公子の祠を訪れた。目の前の彼は得意げに続ける。
「別にあんたに盗賊の適正がなかったわけじゃない。でもあんたの仲間にはテリオンがいるし、別に必要ないと思ったんだよな。実際、あの時はなくてもなんとかなったろ?」
「……本当にエベル様なのですか」
 全身から力が抜ける。ここまで言われては認めるしかなかった。守護神の憑依というと、前に一度クリスが似たような状況になったことがあるので、まったくありえない話ではなかった。
 エベルは意外そうに片眉を上げた。
「あれ、テリオンの演技とは思わないのか?」
「もちろんその可能性も考えましたが……彼は決してこの町を訪れませんから」
 それが何よりの証拠だった。たとえサイラスを冷やかす目的があっても、そこはテリオンが絶対に踏み越えないラインだ。
 エベルはにやりと口の端を吊り上げた。そうすると普段のテリオンとよく似ているので、一瞬頭が混乱してしまう。サイラスは心を落ち着けるために深呼吸した。小鳥のさえずりが聞こえるのどかなアトラスダムで、彼は冷や汗すらかいていた。
「ところで、テリオンは無事なのですか。もしや彼に何かあったのでは?」
 クリスは魔大公に憑依されていた間、どこか暗い場所で守護神と対話していたらしい。今回のケースではテリオンの意識はどこにあるのだろう。サイラスの懸念に、エベルはこともなげに答える。
「今はここで休んでるよ」
 彼が親指で示すのは外套に包まれた胸元だ。「あいつ、盗みでヘマしたみたいで大怪我して俺の祠に来てさ。だから怪我を治す代わりに体を貸してもらった。この状況はあいつも了承済みだぞ」
 サイラスは頭痛を覚え、額をおさえる。
「大怪我……やはり、テリオンは回復魔法などは使わなかったのですね」
「あいつ変に頑固だからなあ。ちょっとくらい覚えたらいいのに。そのせいで、あれだけ嫌ってた俺に頼る羽目になるんだよ」
 口をとがらせつつも、エベルはどこか嬉しそうである。
 かつての旅の間、テリオンは仲間に回復を任せきりだった。しかしあの体制は複数人のパーティだから成り立つのであって、一人旅の今もそのスタンスなのはまずい。
 見た限り、エベルは怪我をしている様子はなかった。治したというのは本当だろう。テリオンがそんな目に遭ったことは心配だが、たまたま頼るべき者が近くにいたのは幸いだった。
 テリオンは盗公子の祠で守護神と何らかのやりとりをして、体を貸したということか。そして地上に降り立ったエベルは、何故かアトラスダムへやってきた。
「ところで、エベル様は私に何か用があるのですか?」
 と尋ねてから、大真面目に盗公子と会話している事実に、今さらなんだかくらくらしてきた。テリオンはともかく、自分まで守護神に一個人として認識されていたことも、現実感のなさに拍車をかける。
 エベルはさらりと言った。
「ああ、この町を案内してほしいんだけど」
「はい?」
「アトラスダムって割と新しい町だろ。最近の都会ってどんな感じかなと思って。あんたここで働いてるならくわしいんじゃないか?」
 二百年の歴史を持つ町を「新しい」と形容するあたり、やはりサイラスとは時間の感覚が違うらしい。しかし、わざわざ人間の前に姿を現した守護神の用事が、ただの観光なのか。
「ええと……ここへは遊びに来たのですか?」
 エベルはむっと眉根を寄せる。
「悪いかよ。せっかく久々に地上に降りたんだし、あっちこっち見て回りたいだろ。
 あ、ただで案内するのが嫌なら、終わった後に一つだけあんたの質問に答えてやるよ。隠された歴史の真実でも、うちのきょうだいの話でも、なんでもいいぜ」
 緑の双眸が挑戦的な光を放つ。サイラスの心臓がどきりと跳ねた。
 神々が地上にいた時代から現在に至る約千年で、失われた情報はいくらでもある。それを、他ならぬ当事者の口から聞けるということか。おまけに「きょうだいの話」というのはまちがいなくエベルの家族たる十二神のことだ。それは観光案内の対価というレベルを遥かに超えた、素晴らしい提案だった。
「引き受けましょう」
「そうこなくっちゃな」
 エベルはぱっと破顔した。結局サイラスは己の好奇心に負けたのだ。最後の質問の権利を除いても、守護神と会話できるなんて千載一遇のチャンスだ。これを逃す手はない。方針を固めた彼は、小脇に抱えていた教本を持ち直す。
「では少し待っていただけますか? 学院に行って、他の教師に今日の授業を代わってもらわなくてはいけませんから」
 当然、授業は欠席することになる。突然の話で生徒にも教師にも申し訳ないが、背に腹はかえられなかった。
 するとエベルが首をかしげた。
「学院? ってあんたの職場だよな。俺もそこ行きたい」
「え……はあ、分かりました」
 確かに王立学院もアトラスダムの主要な観光名所のひとつだ。サイラスはそのままエベルを伴って出勤することにした。
 路地を出た二人は、城下町と王城前広場を区切る門を通り抜け、ぽつぽつ人通りの増えてきた大通りをゆく。エベルは広場で立ち止まり、格調高い王城を真正面に捉えて大きくうなずいた。
「立派な町じゃないか。長兄に見せてやりたいな」
「長兄というのは、碩学王アレファンのことですか?」
 ひと目を気にしたサイラスは小声で問う。碩学王は太陽と学問を司る神であり、彼ら十二神の長子だ。そうそう、とエベルは相槌を打った。
「盗賊なら昔からいくらでもいたけど、長兄が地上にいた頃はまだまだ学者の数も少なかった。だから、学問の町がここまで発展したって知ったら喜ぶんじゃねえかな」
「なるほど……」
 サイラスの胸に静かな興奮が湧き上がる。他ならぬ当事者から碩学王についての語りを聞く日が来るなんて、考えたこともなかった。気分が高揚してきた彼は、矢継ぎ早に質問する。
「碩学王とあなたは連絡を取る手段があるのですか? 今、あなたたちは天上のどこかで、ともに暮らしているということでしょうか」
「質問は最後に一個だけって言っただろ。ほら、あんたの職場だぞ」
 エベルは顔をしかめて前方を指さした。サイラスは我に返り、慌てて王立学院の建物に入る。
(無理だ、質問なんて一つに絞れるはずがない!)
 勝手に弾む足をなんとか抑えて、まっすぐ教師の準備室に向かった。本日最初の授業がはじまるにはまだ時間があるため、廊下は閑散としている。
 あまり生徒に会いたくないなと思った時に限って、月光を集めたような銀髪がすうっと近づいてくるのだった。
「おはようございます、サイラス先生……と、テリオンさん!?」
 挨拶するなり仰天して口元を押さえたのはテレーズだ。よりにもよって、テリオンと共通の知り合いである。
「ど、どうしてテリオンさんがここに? もしかして……先生はまた町を出て行かれるのですか」
 テレーズはどこか不安そうに尋ねた。彼女はサイラスが度々テリオンとともに旅をしていることを知っている。サイラスは落ち着いて返事をした。
「今日は違う用事があるんだ。彼に学院を案内しているんだよ」
「はあ……。そういえばテリオンさん、髪を切られたんですね」
「まあな」
 と答えるエベルは、表情といい口調といい無愛想なテリオンそのものだった。芝居が上手いのはテリオン自身の性質だろうと思っていたが、少なからず守護神の影響があるのかもしれない。どうにかそのまま正体を隠し通してほしいものだと思いながら、サイラスは早口でテレーズに告げる。
「そうそう、今日私は彼とともに町を回る用事があるから、授業には出られないんだ。これから他の教師とスケジュールを調整してくるよ」
「ええ、そんな……残念です」
 しゅんとしたテレーズを尻目に、エベルが意味深に目を細めてサイラスを見やった。
「その間、俺は適当にそのへんを見て回ってるからな」
「ではわたしと来ませんか? 授業がはじまる前でしたらここを案内できますよ」
 テレーズの善意の申し出にサイラスは逡巡する。しかし、エベルが彼女にばれないようにぱちりとウインクしたので、この場は任せようと決心した。
「あ……ああ、それではテレーズ君、彼をよろしく頼むよ」
 任せてください、とテレーズは張り切って教本を胸に抱く。まさか、彼女は目の前の人物の正体が盗公子だとは思いもしないだろう。あとはエベルがうまく切り抜けてくれることを祈るしかない。
 二人と別れたサイラスは大慌てで準備室に向かった。ちょうど同僚の教師が一人、自分の教本を点検していたので、頭を下げて授業の代理を頼み込む。サイラスが後日の埋め合わせを約束すると、同僚は「たまには休んだらいいだろう」と快く引き受けてくれた。
(こんなことは、前の学長の体制下では許されなかっただろうな)
 不意に浮かんだ考えを頭から振り払う。どのような組織であれ、本来はこんな申し出など許可されなくて当然だった。学院が今のような職場になったことは、サイラスにとってかなりの幸運である。
 できるだけ急いだつもりが、所用を済ませた頃には朝の授業がはじまる時間になっていた。サイラスが慌てて玄関ホールに戻ると、エベルたちはちょうど扉の前にいて、なんだか仲睦まじい様子で会話していた。
「ま、せいぜいがんばれよ」
「ありがとうございますテリオンさん」
 ほおを赤く染めたテレーズは何故かサイラスから目をそらし、そそくさと去っていった。折しも授業開始の鐘が鳴り、廊下からすっかり生徒がいなくなる。
 エベルはテリオンらしい無表情をがらりと変えて、「おかえり」と愛想よく手を挙げた。
「おまたせしました。テレーズ君と何を話していたのですか?」
「恋愛相談に乗ってやったんだよ」
「え?」
 虚をつかれたサイラスは一瞬固まり、すぐに笑顔をつくった。
「そうでしたか。彼女も年頃ですから、気になる異性もいますよね」
 近頃はとみに勉強に打ち込んでいるため、遊ぶ時間もないのではと心配していたのだ。あたたかい気持ちが胸にこみ上げてくる。エベルは「あんた、すごいな……」と何故か遠い目をしていた。
 彼はもう学院に満足したそうなので、二人で外に出た。街路樹の木陰を眺めながらのんびりと歩く。エベルはテレーズの想いの行方を案じているらしく、考え込むように腕組みした。
「俺が縁結びの神だったらどうにかしてやったんだがなあ。盗賊だからって人の縁を略奪するのは違うだろうし」
「そ、そうですね……」
 そこでサイラスの頭にある考えが浮上した。もしや、盗公子はその気になれば人心を操ることすらできるのではないか。ならばテリオンの旅路には、守護神の意思が介入した可能性がある――その不穏な想像は思いがけずサイラスを動揺させた。
 急に黙った学者に対し、エベルは何を思ったか人の悪い笑みを浮かべる。
「そうだ、さっきあんたらの使ってる教本も見せてもらったけど、歴史的事実と全然違う記述があったぞ」
「ええっ!? 一体どこですか」
 色めき立ったサイラスが思わず詰め寄るが、エベルはそっと人差し指を立てる。観光が終わるまで質問は禁じられているのだ。サイラスはうずうずする気持ちをなんとかこらえた。
「……では、次はどこに行きましょう? 王立図書館や、私が取り次げば王城にも案内できますが」
「とにかくこの町で面白いところは全部見せてくれ。久々の地上、やっぱり楽しいわ」
 エベルは上機嫌そうに笑っていた。その晴れやかな表情を見ると、先ほど抱いた疑惑は引っ込んだ。サイラスは肩の力を抜き、彼を先導するため石畳の道に一歩踏み出した。



 黄昏時が近づくに連れて足元の影が長く伸びていく。平原の真ん中にあるにもかかわらず、アトラスダムの日暮れは早い。背の高い建物や門塀が多いため、どうしても日が遮られて町全体が暗くなるのだ。
 先をゆくエベルは陰のかかった石畳だけを選んで、ぽんぽんと跳ぶように渡っていく。サイラスは幼い子どもが同じように遊んでいるのを見たことがあるが、それとは比べ物にならないほど洗練された動作だった。
 ――学院を出た二人は、順番に王立図書館と王城を回った。図書館の蔵書を見たエベルはまず「長兄かエルフリックなら喜びそうな場所だ」と言い、気まぐれに本を開いては「あーこの記述も間違ってるな」と学会が騒然となるような発言を繰り返した。サイラスは逐一メモを取りたくて仕方なかったが、エベルは少し目を離すとどこかの本棚から書物を抜き取り、また知らぬうちに元の場所に戻すので、指摘のあったページ数を控えることすら不可能だった。それでも必死に書名だけは暗記したから、後日じっくり検証するつもりだ。あの身軽さはさすが盗賊の守護神と言うべきだろう。
 また王城では、外部の者が入ることのできる区画を案内したのだが、サイラスがたまたま出会った顔見知りに挨拶している間にエベルが姿を消した。慌てて探し回ると、彼は何故か二階の窓の外から姿を現して、「秘密の宝物庫見つけたけど一緒に行くか?」とのたまった。一言も返せないサイラスを見て、エベルは愉快そうに笑っていた。
 王城を後にした二人は城下町へと移動した。サイラスの馴染みのパン屋で軽く昼食を済ませ、そこから先はエベルの気の向くままぶらぶらしてもらうことにした。こういう時の彼はテリオンと正反対で、誰にでも気さくに声をかけてどんな場所にも突入した。市場はもちろん住宅街まで歩き、「そこの店先に並んでる道具、見たことないけど何に使うやつ?」や「あの子どもは何して遊んでるんだ?」などとサイラスに尋ねる。守護神に教えを説くなんてなんたる光栄か、と彼は張り切って答えた。何にでも興味を示すエベルとともに歩けば、見慣れた故郷にも新たな色が塗り重ねられていくようだった――
「おーいサイラス、何ぼーっとしてんだ」
 唐突に声をかけられた。顔を上げると、道の先でエベルが呆れたように肩をすくめている。いつの間にかサイラスは足を止めていたらしい。空はとっくにオレンジ色に染まっていた。
「すみません、少し疲れてしまって」
「あんた体力ないなあ。よくあんな山奥にある門まで行けたもんだ」
 厳しい指摘を受けたサイラスは苦笑する。
「やはり旅をしていた頃より体力が落ちましたよ。テリオンにもからかわれてばかりで……彼はまだまだ若いので、私とは大違いですね」
「そういう言い方、なんか年寄りくさいな」
 ずばり放たれた言葉に、サイラスは絶句した。まさか、自分より千以上も歳上の彼に「年寄り」などと言われるとは……。
 いや、おそらく守護神に年齢という概念はないだろうから、精神的に老いる必要もないのかもしれない。サイラスは考察しながらあごをなでる。その時、ちょうどエベルの肩の向こうに大陸共通の看板が見えた。
「あなたもそろそろお疲れでしょう。アトラスダムの郷土料理でもてなしますよ」
 サイラスの指が酒場を示していることに気づいたエベルは瞳を輝かせた。
「いいなそれ。テリオンの分も目一杯食べていこう」
 彼は軽やかなステップを踏んで一足先に扉をくぐった。サイラスはそれをうらやましい気分で眺めながら後に続く。
 顔見知りのバーテンダーはエベルがサイラスの連れと知り、わずかに眉を上げた。生徒にも見えないので訝っているのだろう。サイラスはそちらに会釈した後で混雑する店内を見回し、カウンターから離れたテーブルにつく。今回ばかりはあまり他人に話を聞かれるとまずい。
 店員がすぐに注文を取りに来た。
「私はワインを。あなたは――」
「エールがいい。久々の地上の酒だな! あ、飲み比べでもするか?」
「やめましょう、きっと私が負けますから」
「そうか? 結構いい線いくと思うんだけどな」
 と言いつつエベルは自信満々の様子だった。
 まだ晩酌には早い時間だが、酒場はすでに繁盛の兆しを見せている。乾杯したエベルは何か気になるのか、店内の人々をちらちらと観察していた。
 サイラスが頼んだ料理はシンクガニのパイだ。馴染みの料理人が開発したメニューがトレサのおかげで軌道に乗ったので、こうして町の酒場にも常時提供するようになったという。エベルはさくさくしたパイに舌鼓を打つ。
「うん、うまい。テリオンにも食わせてやりたかったな。あいつ最近食事もまともにしてなかったみたいでさ。だから余計にダメージを引きずったんじゃねえかな」
「そうですか……」
 サイラスはことりと食卓にグラスを置く。エベルはあっけらかんとした調子で言ったが、深刻な内容だ。テリオンは自分の失敗についてはいつも黙っているので、知る機会がなかった。その時の彼にはどうしても盗みたいものがあって、無理をしてしまったのだろうか。今度会った時に詳細を聞きたいけれど、「盗公子に教えてもらった」と言えばテリオンは不機嫌になりそうである。それとなく注意を向ける程度に留めるべきか。
 緑のサラダには薄切りにしたリンゴが入っていた。それをフォークで刺して口に含んだサイラスは、何気なく質問する。
「そういえば、今日は宿に泊まるのですか?」
「いや、もうそろそろ出てくよ。テリオンが来たくない場所に来てるわけだし、せめて日帰りにしとかないと」
 なんだか今さらの配慮だが、その気持ちはサイラスにも十分理解できた。
「ここ、夜中は門が閉まるだろ。まあ屋根登れば外に出られるけど、テリオンが指名手配されたら困るから、一応ちゃんと門から出るわ」
「分かりました。食事はその前に切り上げましょう」
 そうと決まると、エベルはペースを上げてパイを口に運んだ。テリオンと違ってリンゴに執心していないのが少しおかしさを誘う。
「今日訪れた場所ではどこがお好きでしたか」
 サイラスが手を休めて質問すれば、エベルは唇の端についたクリームを手の甲で拭い、にこりとする。
「やっぱ城下町かな。にぎやかで、楽しかった」
「そうだろうと思いました。あなたは町の建造物ではなく、人々のことを見ていたのですよね」
 今もエベルは酒場の客を熱心に眺めている。その上、城下町であれだけ生き生きと動き回る彼の姿を見れば、一目瞭然だった。観光案内ということで、はじめサイラスは建造物の歴史でも話そうかと思ったが、エベルの関心の向かう先に気づいてからは身近な知り合いの話題に切り替えた。そうすると相手は目に見えて食いついたものだ。中でも一番盛り上がったのは、やはりテリオンの話だった。
 エベルは不意をつかれたように瞠目する。
「……まあな。案外人間は昔と変わってなくて安心した」
 彼は頬杖をつき、サイラスを上目遣いで見つめた。
「あんた、そういうとこ鋭すぎるんだよなあ。長兄が毎度びっくりしてたぜ」
「碩学王が私について何か言っていたのですか!?」
 思わずがたんと椅子を揺らして立ち上がった。瞬時に「しまった」と反省してあたりを見回したが、幸い酔客の増えてきた酒場ではサイラスはむしろ目立たない存在だった。
「長兄はあんたの所業を知る度に嘆いてたぜ。『こんな学者に育てるつもりはなかった』『なんであんな危ない行動をするんだ』とか」
「ええ……」
 どう考えても褒め言葉ではない。自分は知らぬうちに守護神の不興を買っていたのか。サイラスがうろたえていると、エベルはやや声の調子を変え、射抜くような瞳を向けてくる。
「なああんた、この町で割とろくでもない目に遭ったんだろ。それでも普通に教師をやってくのって、どんな気分なんだ?」
 サイラスは口をつぐんだ。腹の底からじわりと緊張がこみ上げる。
 少なくとも、相手は辺獄の書を起因とする一連の事件について把握しているらしい。人懐っこい仮面が剥がれると、確かにエベルは神と呼ばれるにふさわしい品格を持っていた。
「俺は『流れる者』だし、人間社会で一箇所にとどまって生きてく気持ちはあんまし分かんないんだよな」
 彼は単純に疑問をぶつけているだけのようだ。守護神相手に嘘が通じるとは思えないから、正直に答える。
「ええと……いろいろあったのは事実ですが、それは私が永遠に町を離れる理由にはならなかった、というだけです」
 今は亡きイヴォン学長や秘書ルシアの思惑に巻き込まれ、あの日町から追い出されたのは事実だ。だからといって完全にサイラスの居場所がなくなったわけではなかった。それはテレーズやメアリー王女といった生徒たちが町にいたおかげでもあり――
「私が生きていきたい場所は、平原の中心にあるこの町なのだと……テリオンが気づかせてくれましたから」
 自信を持って答えれば、エベルは黙って顔をほころばせた。
 それぞれの酒を瓶一本分飲み干して、食事はつつがなく終わった。この分だとエベルはテリオンよりも酒に強そうである。支払いはもちろんサイラスが持った。
 酒場を後にした二人は、正門に向かう途中で町の中央にある広場を通りがかった。エベルが歩みを止める。
「少し話していこうぜ」
 そこは数段分だけ周囲の街路から下がっていた。どちらともなく段差に腰掛ける。ひとけはなく、あたりは静かだった。
 エベルがおもむろに口を開いた。
「で、質問は決まったか?」
「はい」
 サイラスは首肯し、ずっと胸であたためていた疑問を発した。
「……あなたはテリオンの旅路に干渉して、彼が魔神を討つよう仕向けたのですか?」
 神々に人心を操る力があると示唆されてから、どうしてもそれが気になっていた。だから失礼を承知でサイラスはそう尋ねた。
 エベルはわずかに眉を動かす。
「聞きたいことはそれでいいのか」
「もちろんです」
 盗公子の薄い唇が開かれるのをじっと待つ。永遠のような一瞬の中で、ごくりと喉が鳴った。
「そんなわけないだろ」
 返ってきたのは力強い否定だ。続く彼の言葉には、まぶしいほどの情がにじんでいた。
「テリオンの人生も旅路も、全部あいつだけのものだ。確かに俺は昔あいつの目を治したし、力も与えた。けど、あいつは自分で選んだ道であんたと会って、フィニスの門まで行きたいって思ったんだぞ」
 サイラスは大きく息をついた。テリオンがダスクバロウで放った「連れて行ってやる」という発言は一体何に由来するものなのか、ずっと疑問だった。しかしこれではっきりした。テリオンは他ならぬ自らの意志でああ言ってくれたのだ。あの時の言葉はどれだけ月日が経っても色褪せることなくサイラスの記憶に残っている。今の自分がいるのはテリオンのおかげだった。
 サイラスは頭を下げた。
「疑ってしまって大変失礼しました」
「構わないさ。俺たち守護神ってあんたらの世代だと遠い存在だもんな。警戒するのも仕方ない」
 エベルの浮かべた屈託のない笑みは、サイラスの目には少し寂しげに映った。神話によると、盗公子はきょうだいの誰よりも人間とともにあった神だった。だからだろう、今日一日をともに過ごしたサイラスには、普通の人間とほとんど変わらない存在のように感じられた。
 彼は立ち上がって、サイラスに背を向ける。
「結局、魔神のことはあんたらに任せっきりになったよな」
「……やはりあなたは私たちの旅路をよく知っているのですね」
 確かめるように問えば、エベルはくるりと振り返る。
「特別に教えてやるよ。この左目、ちょっとした仕掛けがあってな。俺はたまにこの目を通して地上を眺めてたんだ」
 つまり彼はあの旅だけでなく、テリオンの人生をもこっそり見守っていたのだ。盗賊本人が知ったら確実に怒り心頭に発する案件である。だがエベルは気にした様子もなく腰に手をあてる。
「まあ魔神討伐には俺たちもいろいろ力を貸したけど……助かったよ。改めて礼を言わせてくれ」
「いえ、こちらこそ」
 サイラスにとっては、ごく個人的な目的がたまたまああいう成果につながっただけだった。むしろ神々には自分の好奇心を満たす手助けをしてもらった、という認識である。
 エベルが立ったままこちらを見下ろすので、サイラスもつられて腰を上げる。盗公子は手で「少し頭を下げるように」と促した。
「こうですか?」
 指示のとおりにすると、ぽん、と頭にエベルの手が載る。そのままゆっくりと撫でられた。
「……よくがんばったなサイラス。テリオンのこと、助けてくれてありがとう」
 その温度と手触り、率直な言葉が胸に染み込んでいく。サイラスは記憶の中で似た場面を探しながら目を閉じた。「何にでもなれる」とあの人に言われた日にも、確かに自分は同じ思いを抱いたはずだ。
 盗公子は、テリオンにとって親のような存在なのかもしれない。天上からその旅路を見守り、力と試練を与える――そんな懐の深さを持つのがオルステラの神々なのだ。
 エベルはサイラスの頭から手をどけると、微妙な角度に眉を下げた。
「テリオン、やっぱり背低いよな。なんか格好がつかねえよ」
「いいえ。今のあなたには守護神らしい威厳がありましたよ」
「そうか? だよな!」
 エベルは軽やかに声を立てて笑う。そのくるくると動く表情があまりにもテリオンらしくないので、サイラスは苦笑いした。
 すると盗公子は再びがらりと印象を変えて、どこか怪しげな雰囲気で目を細める。
「そうだ、あんた死んだら神にならないか? 歓迎するぜ。あんたくらいの実績なら十分に神格だってあるだろ」
「え……ええ?」
「千年以上固定メンバーだと飽きるんだよな。外海の向こうだと、人間が死後神になるパターンは結構あるみたいだぞ」
 この唐突な誘いは一体どこまで本気なのだろう。ダスクバロウにおけるルシアの勧誘とは似て非なる提案をサイラスは一瞬だけ検討して、すぐにかぶりを振った。
「遠慮します。私は人々とともにある今の暮らしが好きですから……あなたと同じように」
 それに、永遠のような生があったとしても、人々の営みを天上から眺めるだけでは寂しくなるだろう。だから断った。
「……それもそうだな」
 破顔したエベルは、「じゃあそろそろ行くわ」ときびすを返して門へ向かう。サイラスも後に従った。二人は歩きながら最後の会話を交わす。
「テリオンには適当なところで体を返しておく。今日はあんたと話せて楽しかった」
「私も、充実した時間でした」
 おかげで教師としての日々にも張り合いが出た。まずは学院で聞いたエベルの発言をヒントに、教本の記述を洗い直さねばならないだろう。その後は図書館だ。
 さっそく脳内で明日の段取りをはじめたサイラスの前で、エベルは立ち止まる。町の正門はすぐそこだった。
 盗公子は振り向こうとして動きを止めた。肩越しに見える横顔にはいくばくかの憂いが浮かんでいる。それはもしかすると、今日一日彼が明るい仮面で隠し続けていた、本来の姿なのかもしれなかった。
「あのさ……オルステラはろくでもない大陸かもしれないけど、嫌いにならないでくれよ」
 消え入りそうなその台詞は、本当はテリオンに――盗賊として世の不条理に耐えてきた彼に聞かせたかったのではないか。この大陸にはどうしようもない理不尽があって、神々はそれらにすら責任を持つのだ。
 サイラスは人間の代表でもなんでもないが、この一日をエベルとともに過ごした者として、笑顔を返す。
「私はこの大陸も、ここに生きる人々のことも好きです。あなたや碩学王の歩んだ世界を、これからもっと豊かにしてみせます」
 その宣言を聞いた盗公子はほおを緩めると、軽く手を挙げ、夜の闇に消えていった。

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