いつか扉を開けて

 赤い飾り旗が風に揺れるさまを眺めながら、オルベリクは仲間たちと並んで平原の城下町を歩いていた。
 彼がアトラスダムを訪れるのは今回が初めてだ。同じ城でも、山間にあって堅牢さを誇ったホルンブルグの首都とはやはり違うな、と思う。平原の真ん中にあるここは城壁にも華美な装飾が目立ち、堀はあれども守りは薄いように見える。
「相変わらずアトラスダムはにぎやかね。久しぶり……って感じはしないけど」
 前をゆく商人が帽子をおさえながらつぶやいた。
「そりゃ、トレサはつい最近ハンイットたちと一緒に来たもんな」
 アーフェンが相槌を打つ後ろで、「ははは……」とサイラスが苦笑していた。
 商人と狩人、それに神官がこの町を訪問したのは、ボルダーフォールから突然いなくなった学者を探すためだ。ちなみにその時は魔法陣による移動だったが、今回はクリフランドから徒歩で大陸を渡ってきた。
 サイラスは故郷に戻ってきたというのにどこか表情が硬い。先の騒動で仲間たちにさんざん迷惑をかけた自覚があるのか、もしくは里帰りで教師としての意識が目覚め、置いてきた生徒たちのことでも思い出したのだろうか。
 ――彼らは新たな目的を掲げた旅をはじめる前に、一度それぞれの故郷や縁深い場所に戻って英気を養おうとしていた。すでにフレイムグレースではオフィーリアが、ノーブルコートではプリムロゼとハンイットが離脱している。
 もう一人、この場にいないテリオンは一足先にリプルタイドへ向かっており、後で合流する予定だ。事情は不明だが、おそらくアトラスダムを避けたのだろう。サイラスはそれに対して何も言わなかった。オルベリクのあずかり知らぬ場所で、二人は何らかのやりとりをしたに違いない。かくしてアトラスダムを訪れたのはこの四人――剣士、学者、商人、薬師だけとなった。
 一行は町の中心部の広場にたどり着いた。トレサが帽子についた羽根を揺らし、くるりと振り返る。
「で、サイラス先生はこれからどうするの? すぐおうちに帰る?」
「ええと……キミたちに一つ相談があるのだが」
 広場の半ばで立ち止まった彼は、急に歯切れが悪くなり、うつむき加減になる。やがて決意したように顔を上げた。
「迷惑でなければ、一度我が家に来てもらえないかな。身内にみんなを紹介したくて」
「えっ」
 トレサとアーフェンが顔を見合わせ、オルベリクも目を見張った。サイラスは慌ててかぶりを振る。
「すまない、無理を言ったね。予定があるならそちらを優先して――」
 アーフェンがすかさず口を挟んだ。
「何言ってんだよ先生、もちろん行くって!」
「オフィーリアさんとハンイットさんはもう行ったことがあるのよね。あたしもおうちを見てみたい! 先生がどんな生活してるのか興味あるわっ」
 トレサは目を輝かせる。仲間たちの勢いに、サイラスは軽くのけぞった。
「そ、そうか。……オルベリクはどうする?」
 剣士を見上げる青い瞳には、らしくもない不安がにじんでいる。断られることを恐れているのだろうか。涼しい表情ばかりが目立つこの学者も、仲間にそんな顔を見せるようになったのだ、とオルベリクは感慨深くなる。
「俺もいいのか?」
「彼女は話好きだから、みんなから旅の思い出を聞いたら喜ぶと思うよ」
「そうか。では邪魔しよう」
 オルベリクは内心の動揺を押し隠してうなずく。さらりと流されたが、サイラスは身内を「彼女」と呼んだ。一体どういう関係なのだろう。
「さっそく案内するよ」とだけ言い、サイラスはローブを翻して広場を出ていく。本人が気づいているかは怪しいが、おそらく照れたのだろう。仲間たちは急いで後を追った。
 サイラスはにぎやかな表通りを外れて住宅街に向かう。その途中、トレサがアーフェンとオルベリクの間に入り、前方を意識しながら声をひそめた。
「ねえ、先生の家族ってどんな人か知ってる……?」
 やはり彼女も気になったのだ。アーフェンが参ったようにかぶりを振った。
「いやーさっぱり。もし家に行って奥さんが出てきたらどうしような……」
「え!? そ、それはないでしょ」
 オルベリクもさすがにその可能性はないと思うが、身内とやらの正体は気になった。
 サイラスはどのような環境で育って今の彼になったのだろう。彼はあまり出自を予想させる発言をしないため、自律した印象の強い人物だった。
 とはいえ、オルベリクも仲間に家族の話をしたことはない。故国の崩壊があったから、皆もある程度事情を察しているらしく、くわしく尋ねられたことはなかった。
 一方でサイラスは自宅に家族がいるらしい。それなのに、これまで一切話題に出なかったのは不思議だ。
 下町らしい背の低い住宅が続く中、黒いローブはある一軒家の前で立ち止まった。
「ここだよ」
 サイラスが指し示す先を、トレサが感心したような声とともに眺めた。オルベリクもじっくりとその建物を観察する。
(意外と小さい家だな)
 コブルストンにあるオルベリクの家よりはもちろん広いが、サイラスの家として予想していたものよりもずっと小さかった。なんとなく、プリムロゼの屋敷と同じくらいの規模を想像していたのだ。
 鍵を取り出して扉を開ける準備を整えてから、サイラスは一旦深呼吸する。彼は仲間たちが訝る前に鍵を回すと、玄関を開け放って姿勢を正した。
「ただいま戻りました」
 その硬い声にオルベリクが違和感を覚えた直後、
「まあ……おかえりなさい、サイラス君!」
 家の中から女性の声がした。三人の仲間はぴしりと整列する。
 出てきたのはきれいな白髪をした老婆だった。背は曲がっておらず、動きはきびきびとしていて、なおかつ柔和な印象を受ける。予想外の人物の登場に、仲間たちは疑問の視線を交差させた。
 老婆は朗らかな笑顔をサイラスから仲間へと滑らせる。
「長旅お疲れさま。そちらの方々は?」
「私の仲間です。剣士のオルベリクと、薬師のアーフェン君、商人のトレサ君」
 紹介に従って三人はそれぞれ会釈する。老婆はころころと笑った。
「本当にサイラス君はいろんな人と旅をしていたのね。そうそう、この前あなたがいない時、神官さんと狩人さんがやってきたのよ。大事な書類を探していたみたいで」
「はい、存じています。二人にもあなたにも迷惑をかけました」
 反省のにじむサイラスの発言に、老婆は少し眉を下げた。
「そんなことはないけれど……。そうだ、あなたの仲間は、この前の二人とここにいるみなさんで全員なの?」
「もう二人います。今は別行動ですが、私を入れて八人で旅をしていました」
 老婆に対するサイラスの言葉遣いは、慇懃無礼と呼べるほどに丁寧だった。一つ屋根の下で暮らす家族に接する態度とはとても思えない。仲間の困惑をよそに、サイラスが振り返る。
「彼女は、私が何年も前から家で世話になっている人だ」
「みなさん、サイラス君のことを助けていただいてありがとう」
 なんとも迂遠な紹介だ。ほほえむ老婆に「こちらこそ」と返しながら、オルベリクは脳裏に疑問符を浮かべる。
 あまりにも見た目が似ていないので、おそらく彼女とサイラスの間に血の繋がりはないだろう。しかし二人は間違いなく同じ家に住んでいる。それほど近い距離にいながら、どうしてサイラスは敬語を使っているのか?
 仲間たちの戸惑いに気づかぬまま、サイラスは開いた玄関を示した。
「長旅で疲れただろう、みんなは中でお茶でも飲んでくれ。私は少しやることがあるから、図書館に行ってくるよ」
「えっ!?」
 アーフェンが叫んだ。オルベリクも耳を疑う。
「せ、先生はゆっくりしていかなくていいの? 久しぶりの実家なんでしょ」トレサがびっくりしたように尋ねたが、サイラスは首を振った。
「私は大丈夫だよ。すみませんが、家で仲間を休ませてもらえませんか」
 言葉の後半は老婆に向けたものだ。彼女は「もちろんいいわよ」と鷹揚にうなずく。
「お願いします」
 サイラスは軽く頭を下げてから、ほとんど逃げるように去っていった。
 黒い背中を唖然として見送る仲間たちに対し、老婆は笑う。
「ふふ、あの子は昔からああだから気にしないで。さあ上がってくださいな」
 さすが、老婆は仲間たちよりもサイラスの扱いに慣れている様子である。
「そうは言っても」「本当にいいのかなあ?」と、薬師と商人が疑問のまなざしでオルベリクを見つめる。
「ここは好意に甘えよう」
 彼は堂々と答えた。招待をあえて固辞する理由はない。何よりも、この老婆とサイラスの関係をくわしく知りたかった。
「そ、それじゃ、おじゃましまーす……」
 トレサを先頭に、一行はおずおずと家に上がり込む。
 廊下を抜けるとすぐに居間だった。温かい印象の部屋だ。おそらく老婆がつくったであろう刺繍が壁に飾られている。老婆は三人をソファに案内すると、「お茶を用意するわね」と言って奥に引っ込んだ。そちらに台所があるのだろう。
 柔らかいソファにちょこんと腰掛けたトレサは、複雑な模様のクッションをつつく。
「なんか先生の家っぽくないわね……」
「そりゃここは共同スペースだろ。自分の部屋は本でいっぱいなんだぜ」
 アーフェンがまるで見てきたように言う。オルベリクもほとんど同じ予想をしていた。
 物珍しい気分で部屋を見回していると、老婆がトレイを持って戻ってくる。
「お茶とクッキーがあるのだけれど、お口に合うかしら」
 テーブルに置かれた皿の中身を見て、トレサが顔を輝かせた。きれいに形の揃った菓子は香ばしいにおいを漂わせる。三人は偶然にも焼き立てのタイミングで訪問したようだ。
「いただきます!」
 一番年下の彼女が遠慮なく手を伸ばし、アーフェンとオルベリクも苦笑しながら従う。クッキーをもぐもぐと咀嚼したトレサは満面の笑みになった。
「おいしい! 生地のサクサク感も甘さもちょうどいいわ。先生ってば、いっつもこんなにいいものを食べてたのね……」
「先生の舌が肥えてるのは、貴族っぽい生活をしてたからじゃなかったんだなあ」
 老婆は「うふふ、ありがとう」と朗らかにほほえんだ。思えばサイラスはハンイット手製の菓子にやたらと興味を示していた。あれは家の味を思い出したからか……などと考えながらオルベリクも舌鼓を打つ。
 紅茶をすすって人心地ついた彼は、誰もが気になっていたであろうことを尋ねた。
「あなたはサイラスのご家族なのか?」
 老婆はうなずく。
「以前いらっしゃったオフィーリアさんたちにも話したけれど……私は、十五年前に亡くなった王立学院学長の妻だったの。いろいろあって、今はサイラス君と二人で暮らしているわ」
 仲間たちは顔を見合わせた。老婆の語りは重要な部分が省略されていて、結局どういう経緯で二人が同じ家に住むようになったのかが分からない。だが、それはサイラスが今まで誰にも話そうとしなかったことでもあった。あまり深入りしない方がいいのかもしれない。
 気を利かせたアーフェンは別の話題を持ち出す。
「あのさ、サイラス先生はいつもおばあさんに敬語を使ってるのか?」
「そうねえ」
「それって寂しくならないんですか……?」
 即答した老婆に対してトレサが首をかしげる。いくら年が離れているからといって、十五年間もサイラスがあの態度を続けているのは不自然だ。その隔たりは老婆自身が最も敏感に感じているだろう。
 彼女は静かにかぶりを振る。
「寂しくない、と言ったら嘘になるけれど……仕方ないと思うわ。あの子は多分、私に負い目があるのよ」
「負い目?」
「私と一緒にいると、昔を思い出して辛いのでしょう」
 彼女は胸の痛みから意識をそらすように、薄く切ったレモンを紅茶に落とした。仲間たちは黙り込む。
 それは、オルベリクたちの知るサイラスらしくない反応である。二人の間に何があったのかは知らないけれど、サイラスはおそらく単純に老婆との距離の取り方が分かっていないだけだ。ある意味、旅の間テリオン相手に延々と繰り返していたあの態度と同じである。
 息苦しい沈黙の中、老婆がぱっと顔を上げた。
「あら……ごめんなさい。私ったらみなさんの分のレモンを忘れていたわ。持ってくるわね」
 彼女は慌てたように台所に引っ込んだ。おそらく、この話題にはあまり触れてほしくないのだろう。当然オルベリクたちも必要以上に踏み込むつもりはない。だが――
 アーフェンは紅茶をすすりながら顔をしかめる。
「うーん、じれってえなあ」
「先生って変に不器用よね……」
 腕組みをしたトレサが、そこで意味深にオルベリクを見やった。
「……なんだ?」
 自分に求められている役割を悟った彼は、大げさにため息をついた。トレサが申し訳なさそうに眉を下げる。
「ねえ、オルベリクさん。先生のことを迎えに行ってあげたらどうかな」
「それがいいな。こういう時こそ旦那の出番だろ」
 薬師もうんうんと何度も首を縦に振る。彼らの言い分はだいたい理解できるが、なんだか都合よく頼られている気がするのも事実だ。オルベリクがなおも渋っていると、アーフェンがいっそう深刻そうな顔になる。
「サイラス先生は旅の間も何回かアトラスダムに帰ったけど、その度に家じゃなくて宿に泊まってたんだぜ。やっぱりあれはおかしいって。ここでちゃんと顔をつき合わせて会話しねえと、ばあさんも勘違いしたままになるだろ」
 驚いたオルベリクは菓子を喉につまらせそうになる。それは初耳だった。
「それに、あたしたちが相手だと、先生は自分の気持ちを話してくれないだろうから……」
 トレサが沈痛な面持ちで胸に手を置いた。確かにあの学者は、商人と薬師を自分の生徒として扱っている節があるから、あまり弱みを見せようとはしないだろう。だからといって、オルベリクならどうにかなる問題でもないだろうが――
「分かった、やれるだけはやってみる」
 半ば押し切られる形で了承すれば、アーフェンはにっと笑った。
「助かるぜ旦那! ……にしても、先生はなんで俺たちを家に連れてきたんだろうな?」
「正式に仲間を紹介して、家族を安心させたかったのではないか。前はオフィーリアとハンイットだけで来たらしいからな」
「それなのに、すぐに自分が出ていったら意味ないわよね」
 トレサはほおを膨らませた。だよなあ、とアーフェンが呆れたように同調する。
「お待たせしました。全員分のレモンを用意して――あら?」
 老婆が台所から戻ってきたタイミングで、オルベリクはソファから立ち上がる。
「すまないが、俺は一度席を外してサイラスを呼んでくる」
「え? でもサイラス君は図書館でやることがあるのよね。邪魔したら悪いわよ」
 老婆が目を丸くすれば、トレサがこぶしを握って力説する。
「あれはきっと言い訳です。本当は家に帰りたいのに、素直になれないだけなんです!」
「そ、そう……?」
 老婆は不思議そうに小首をかしげた。仕草の一つ一つにどこか可愛げがある女性だ。
「よく分からないけれど、気をつけて行ってらっしゃい」
 困惑しながらも、彼女は玄関まで見送りにきた。オルベリクが外に出たところで、扉の中に居残る老婆はまぶしそうな顔になる。
「あなたみたいな立派な剣士様がいたなら、サイラス君もきっと安心して旅ができたはずよ」
 視線はオルベリクの腰に提げた剣に注がれていた。学者の護衛役とでも思われたのかもしれない。
「サイラスは……少し危なっかしい部分があったからな。戦いではなるべく俺が盾になったつもりだ」
「あ、ええとね、腕っぷしもそうだけど……サイラス君は、あなたの落ち着いたところをとても頼りにしていたと思うわ」
 オルベリクは目を見開く。確かに、彼は仲間内においてはサイラスにとって唯一の年上ということもあり、何かと相談を持ちかけられることもあった。それがオルベリクの人格に起因していたのかは、判断がつかないけれど。
「そうだと良いのだが……では、失礼する」
 唇の上がむずむずするような気分になりながら、オルベリクはサイラスの家に背を向けた。アーフェンから聞いた道順を頼りに、まっすぐ図書館に向かう。
 たどり着いたアトラスダム王立図書館は荘厳な雰囲気をまとっており、オルベリクは入口をくぐる前から圧倒された。ホルンブルグの王都にも図書館があったが、あそこは国の崩壊と運命をともにした。歴史を刻んた建物はもうこの地平のどこにも存在しない。混乱に巻き込まれて散逸した蔵書も多いはずだ。当時のオルベリクにはその重要性を考える余裕がなかったが、中にはサイラスたち学者が喉から手が出るほど欲しがる本もあったのだろう。
 静謐な空気の流れる図書館に入り、ざっと閲覧室を見渡した。黒いローブの学者は幾人もいたが、例のくせっ毛頭が見当たらない。オルベリクは仕方なしに貸出カウンターに向かった。
「サイラスさんですか? ここしばらく見ていませんよ。もう旅から戻られたのですか」
 声をかけられた女性の司書は、読んでいた本を閉じて理知的な瞳を瞬く。オルベリクは困惑した。
「今日俺たちと一緒にアトラスダムに到着したのだが……ここには来ていないのだな」
「ええ。……あなたはもしかして、アーフェンと一緒に旅をしている方ですか?」
 その質問に彼は驚き、「そうだ」とだけ返す。すると、司書は亜麻色の髪を揺らしてはにかんだ。
「アーフェンは故郷の幼なじみなんです。何年も前に私がこちらに引っ越してから、疎遠になってしまったのですが。
 ……話が逸れました。とにかくサイラスさんは来ていませんね」
「分かった。アーフェンに何か伝言はないか?」
「それなら、滞在中に一度は図書館に顔を見せてほしいと伝えてください」
 そう言いながら、司書はほとんど無意識にカウンターの上で手を動かしていた。さり気なく本の下に隠したものは便せんだろうか? オルベリクはそれを頭の片隅に留めつつ、きびすを返して図書館を出た。
 さて、サイラスの行方が分からなくなってしまった。他に考えうる行き先は、職場である学院か、それとも城か。どちらもオルベリクには馴染みのない場所で、いきなり訪問することはためらわれた。ならば家に戻って、他に心のあたりのある場所を老婆に聞いてみるか。
 王城前広場を横切りながら、オルベリクは考える。
(そもそも、サイラスは何故図書館に行くと言ったのだろう)
 実際は行かなかったのだから、嘘をついたわけだ。もしくは途中で寄り道でもしているのか?
 いや、改めて思い返すと「図書館に用がある」というのは取ってつけたような台詞だった。おそらく、本来のサイラスはきちんと老婆に仲間を紹介してから、自分も家に長居するつもりだったのだろう。しかし何か心理的な問題が発生して、ほとんど衝動的に逃げてしまったのではないか。そんな予想がもっともらしく思えるほど、学者の行動は不自然だった。
 つまり、図書館という行き先はとっさに口をついて出たものであり、それ自体に大した意味はなかった。サイラスは適当に時間を置いてから家に戻るつもりでそう言ったのだろう。
 加えて、彼が時間つぶしとして学院や城を訪れるとは思えない。その二箇所には知り合いがいる上に重要な用事もあるため、それなりに準備してから向かうはずだ。
 ということは、サイラスの行き先は知り合いに会う可能性が低く、それなりに時間をつぶせる場所だろう。
 オルベリクは城下町に戻り、大陸共通の看板を探した。アトラスダムに来て最初に通りがかった広場で目当てのものが見つかったので、迷いなく扉をくぐる。
 昼の酒場は仕事の合間の一杯を求める者が多く、客がろくに席に落ち着かずに早々と循環を繰り返すのが常だ。
 そんな中、カウンターの隅の椅子にローブをかけて、長く居座っている様子の男がいた。オルベリクは大股で歩み寄る。
「サイラス。こんなところにいたのか」
 ゆっくりと杯を口に運んでいたサイラスが「おや」と形の良い眉を上げる。彼の前には数種類のチーズを盛り合わせた皿が置かれていた。
「見つかってしまったようだね」
 オルベリクは隣の席に腰掛け、自分は冷えた炭酸水を頼んだ。バーテンダーには嫌な顔をされたが、ここでサイラスに付き合って酔っ払うわけにはいかない。
 学者はなんと白ぶどう酒のハーフボトルを飲んでいた。相変わらず酔っている気配はないけれど、いつものように酒の味を楽しんでいるというよりは、少しでも酩酊しようとしている雰囲気だった。
 オルベリクは矢継ぎ早に尋ねる。
「一体どうしたんだ。家に帰らなくていいのか? あのご婦人との間に何か気まずいことでもあったのか」
「そういうわけではないのだが……」
 サイラスは眉を曇らせ、唇を閉ざす。普段なめらかに口を回す彼にしては珍しく、本気で悩んでいるようだった。オルベリクは畳み掛ける。
「彼女は、自分といるとサイラスが辛い思いをするのではないか、と心配していたぞ」
 学者は息を呑んだ。
「違う! 家に帰りづらいのは……ただ、私の問題なんだ」
 グラスを持った手がカウンターの天板に力なく置かれる。彼はしばらく葛藤した末、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「家のドアノブを握ると、つい考えてしまうことがある。扉を開けて誰もいなかったら、何の返事もなかったら私はどうすればいいのか……」
 彼らしからぬ薄暗さをまとった声に、オルベリクは瞬きした。
(どういう意味だ。誰もいない家が嫌だということか……?)
 豪胆なサイラスがただ家族が外出することを気に病むとも思えない。もしかすると、彼が示唆するのは、扉を開けた先に待っているべき存在が永遠に失われた状況ではないか。過去に似たような出来事があったのかもしれないな、とオルベリクは推測する。
「お前はそれを怖がっているのか? だから家に帰ろうとしないのか」
「怖い……か」
 サイラスはまるで初めて聞いたようにその言葉をつぶやいて、ワインと一緒に飲み下す。
「そうかもしれない。私はいつも彼女に世話になってばかりで、それを返せずに終わることが怖いのだろう」
 己の恐怖について語るサイラスは稀有である。魔物相手でも怖気づかず、人の悪意にも敢然と対抗する彼が、扉を開けた先に誰も待っていないという状況をそこまで怖がるのか。
 オルベリクは半分ほど炭酸水を飲んで喉を潤す。彼は、例えばオフィーリアのように相手に共感した上での助言はできない。ただし、自分の立場からサイラスの心境を想像することくらいはできる。老婆の様子を思い出し、よく考えて言葉を紡いだ。
「同じことを、あのご婦人も感じているかもしれないぞ」
「……というのは?」
「お前が旅に出たきり二度と帰ってこなかったらどうしよう、とな」
 サイラスは瞠目した。
 かつて騎士であったオルベリクは、いつか己が戦いで命を落として郷里の人々を置いていく可能性を覚悟していた。だからこそ帰りを待つ者――守るべき者たちのために無事に戻らなくてはならないのだ、と決意を固めていた。
 彼は帰りを待つ側になったことはないけれど、その心理はうっすらと把握しているつもりだ。
「どういう経緯でお前が彼女と同居しているのかは分からないが、十年以上世話になっているのだろう。家に帰るのが怖いのだ、と素直に言ってもいいのではないか。それくらいは受け止めてもらえるはずだ」
 そこで一呼吸置いて水を飲み干し、台詞を続ける。
「それに……この先彼女と過ごせる時間は限られているからな」
 問答無用で訪れる別れもある、とオルベリクは言外に告げた。
 じっと目を合わせれば、酒場の明かりの下でサイラスの瞳の色が透き通った。彼はオルベリクと同じことを――ホルンブルグの終わりを思い出したのだろう。あんな出来事が起こらなくとも、老婆に残った時間は明らかにサイラスよりも少ない。それは聡い学者ならばオルベリクが指摘せずとも理解できる話だ。
「そうだね。こんな場所で管を巻いている場合ではなかったな」
 サイラスはきっぱりと顔を上げる。やはりその横顔は酔いのひとかけらもなく、冷徹なほどに整っていた。
 おそらく、彼の中ではとっくの昔に答えが出ていたのだろう。その上で、足を踏み出すきっかけを――誰かが背中を押してくれる瞬間を待っていた。
 わざわざ仲間の目の前で家から逃げ出したのは、彼なりの甘えだったのかもしれない。
 杯を干したサイラスはさっと立ち上がり、オルベリクの分も含めて会計を済ませる。彼は晴れやかな顔で言った。
「ありがとうオルベリク。おかげで勇気が出たよ」
「このくらいは一杯分の代金にも満たないだろう」
「今回だけではないよ。あなたのような人が仲間でいてくれて、本当に助かった」
 そのストレートな感謝は老婆の言い方とそっくりで、オルベリクは少し笑った。サイラスはぽかんとする。
「ええと……オルベリク、すまないがもう一度家まで付き合ってくれないか」
「ああ」
 もともと、彼はそのためにサイラスを探していたのだ。
 酒場を出た二人は肩を並べて町を歩く。サイラスの足取りは最初に同じ道を通った時とは違い、力強かった。
 オルベリクは家々の切れ目から空を見晴かす。
「そういえば、お前の家で菓子を食べたトレサとアーフェンが『先生の舌が肥えている理由が分かった』と言っていたぞ」
「ふふ、ハンイット君にも同じことを言われたよ。確かに我が家の料理は絶品だね」
 サイラスは顔をほころばせた。アトラスダムに来てからずっとこわばっていた表情が、ようやく少しほどけたようだ。
 やがてサイラス宅の玄関に戻ってきた。学者は真剣な面持ちで一歩ドアに近づく。
 先ほど彼が「怖い」と言っていた瞬間だ。オルベリクは少し下がって様子を観察する。ローブに包まれた肩に緊張が走るのが分かった。
 サイラスがすう、と息を吸ってドアノブに手を伸ばした時――内側から勢いよく開かれた戸板が、彼の顔を直撃した。
「なっ……」
 さすがのオルベリクもろくに反応できなかった。学者は顔をおさえてしゃがみ込む。
 中からひょっこり顔を出したのはトレサだ。彼女は玄関前にうずくまるサイラスを見つけて青くなる。
「え、サイラス先生?」「うわーっ大丈夫か!?」
 トレサの後ろから姿を現したアーフェンが血相を変えて駆け寄り、学者の秀麗な顔を覆う手のひらをどけた。
「先生、鼻血出てるぜ。めちゃくちゃ痛かったろ。とりあえず中に入ろう」と助け起こす。
「あ、ああ……」
 アーフェンの肩を借りて立ち上がったサイラスはぐったりしていた。その光景を目の当たりにして、トレサはぷるぷる震えている。
「ご、ごめんなさい……まさか先生が外にいるなんて」
 オルベリクはなだめるように彼女の帽子に手をのせた。
「事故だ、こういうこともある。それよりお前たちはどうして外に出ようとしたんだ?」
「オルベリクさんの帰りが遅いから、探しに行こうと思って」
「ああ、サイラスは図書館ではなくて酒場にいたんだ。そのせいで戻りが遅れた。となると、これはあいつの自業自得……と言えるかもしれん」
「気持ちは嬉しいけど、その理屈は無理があるわよオルベリクさん……」
 トレサが苦笑いした。オルベリクも薄々同じことを感じていたので、つられて笑ってしまった。
 アーフェンたちを追って家に入れば、「あらあら」と老婆が目を丸くしてサイラスに駆け寄る。
「悪ぃな婆さん、先生ちょっと怪我しちまって。ベッドにでも寝かせたいんだけど、部屋はあるか?」
「サイラス君の部屋は寝られる状況じゃないわ。別に寝室があるの」
 やはり私室は片付いていないのだな、とオルベリクはひそかに納得した。
 ベッドに運び込んだサイラスに処置を施すと、アーフェンはすぐに寝室から出てきた。三人は廊下で彼を迎える。
「薬草をはさんだ湿布を貼ったから、痛みもましになったはずだぜ。ゆっくり休んだら確実に治る。だからあんまし落ち込むなよ、トレサ」
「分かってるわよ……」
 トレサは軽く涙目だった。老婆も「気にしないで」と商人を励ましてから、アーフェンに尊敬のまなざしを向ける。
「サイラス君の仲間は本当に優秀なのね。薬の処方までしてくれるなんて、助かるわ」
「へへ、どうも」
 アーフェンは笑いながら手を後ろに回し、背中の下のあたりをかいている。かゆくなったのだろう。
「先生のこと、頼んだぜ。旅の疲れもあるだろうから、家でちゃんと休ませてやってくれよ」
「分かったわ」
 真顔でうなずいた老婆は、さっそくサイラスのいる寝室に入っていった。彼女も突然の出来事に動揺していたのか、部屋のドアを開け放したままだ。これは閉めておくべきかとオルベリクがドアノブに手をかけた時、中から声がした。
「ちょっと抜けているところは昔と変わらないわね、サイラス君」
「すみません、ご迷惑を……」
 入口からは死角となる位置にベッドがあるため、やりとりする二人の姿は見えない。だがこれは家族の会話だ、部外者が聞くべきではないだろう。オルベリクがそっとドアを閉めようとした時、
「いや……ありがとう、いつも面倒を見てもらって」
 サイラスは不意に口調を変えた。声色も、最初に家にやってきた時よりずっとやわらかくなっている。それとなく聞き耳を立てていた一同は驚き、その場で固まった。
 老婆の声がわずかに上ずった。
「気にすることはないのよ。私が好きでやっているんだから」
「それは嬉しいな。私も、この家があるからアトラスダムに帰りたいと思えるんだ……」
 穏やかな学者の返事が聞こえたあたりで、オルベリクは音を立てないようにドアを閉める。三人はゆっくりと部屋の前から離れた。
 腕を振って廊下をゆくトレサはにこにこしている。
「先生って、もしかしてあのおばあさんに似たのかな? 誰かを気遣う時に言うことがそっくりなのよね」
「かもしれんな」
 オルベリクも同意する。配慮が微妙に空回りする部分も含めて、相当影響を受けているようだ。
 アーフェンが頭の後ろで手を組み、隣に問いかけた。
「なあ、オルベリクの旦那が先生を説得したのか?」
「説得と言うほどのことはしていない。サイラスはただ、行動するきっかけがほしかったのだろう」
 今回はたまたまオルベリクがその役割を担った、というわけだ。
「でも、相手が旦那だから素直に頼れたんだと思うぜ」
「俺にはよく分からんが……そういうことにしておくか」
 今日だけでも、サイラス本人を含めた複数の者に似たようなことを指摘された。そろそろ認めた方がいいのかもしれない。オルベリクが真面目くさって返すと、アーフェンが笑い声をたてた。
 トレサは大きく伸びをして、廊下の天井を――そのはるか向こうにある海辺の町を見透かす。
「それにしても、自分の家っていいよね。あたしも早くうちに帰りたくなったわ」
「俺も、次の旅に出る前にいっぺんクリアブルックに寄ろっかな。母ちゃんの墓参りに行こう」
 オルベリクはまぶたを閉じて、コブルストンで出会った人々を思い出す。彼にとっては、もはやあの村が帰るべき場所なのだろう。ずいぶん遅くなってしまったが、今度戻ったらフィリップ少年に剣を教える約束を果たさねば。
 三人はしばらく時間を置いてからこの家を再訪問することに決めて、居間に書き置きを残した。
 玄関をくぐると、傾いてきた日差しが一行を包んだ。トレサは扉をきっちり閉めてから、あたたかな光に照らされた家を改めて見つめる。
「サイラス先生、せっかく家に帰ってきたのに、ちょっと休んだらまた旅立っちゃうのよね……あのおばあさんに悪いな」
「だが、今回の旅はあいつが言い出したことだからな」
 ダスクバロウの村で最後の目的が達成された時、彼らにはもう旅を続ける理由がなかった。名残惜しい気持ちはあれども、オルベリクはこれで皆解散するのだろうと思った。しかし、直後に他ならぬサイラスが旅の続きを提案したのだ。次なる目的はまだ彼の胸の裡に秘められたままだが、オルベリクはどんなことにも協力するつもりだ。
 今回学者の家を訪れたことで、力を貸す理由が一つ増えた。
「あちこち旅したからこそ家の良さが分かるんだよ。トレサだってそうだろ?」
 訳知り顔のアーフェンの発言に、トレサは元気にこぶしを振り上げて応じる。
「そうよね。ゆっくり自分の家で休んだ後は……先生がまた安心しておうちに帰れるように、あたしも目一杯がんばらないと!」

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