物語るお姫様と幸運な盗賊

 窓から侵入した盗賊は、足音もなく真っ暗な部屋に降り立ちました。
 今回のターゲットである宝石は、お姫様の寝室にあります。天蓋のついたベッドの方を確認すると、静かな寝息が聞こえました。盗賊はベッドに近いタンスに慎重に歩み寄ります。ふところから取り出したのは曲がった針金です。今まで彼はどんな鍵もこれを使ってこじ開けてきました。慣れた手付きで針金を鍵穴に差し込むと――
「やっぱりいらっしゃったのね、盗賊さん」
 いきなり背後から可憐な声がかかりました。同時に、手燭の明かりが部屋を照らしあげます。
 盗賊はびくりと肩を震わせ、振り返りました。背後にはいつの間にか寝巻き姿のお姫様が立っています。手燭を持つ彼女は驚いた様子もなく、むしろ瞳をきらきらさせていました。
 苦労してお城に忍び込んだのに、ここに来て盗みがばれてしまったようです。お姫様の口を塞ぐ、という選択肢はありません。盗賊は人には手を出さない主義でした。悔しいですが今回は不運だったと諦めて、どうにか逃げるしかありません。
 無言で動きかけた時、お姫様の手が伸びてきて盗賊の腕を掴みました。
「何をするんだ」
 驚いて尋ねれば、お姫様はこう答えます。
「わたしはずっとあなたを待っていたの。さあ、わたしのことを盗んでくださる?」
 それが、お姫様が大陸一の盗賊になる物語のはじまりだったのです……!



「テリオンさん。このお話にはリアリティがあると思いますか?」
 屋敷の応接間でコーデリア・レイヴァースが単刀直入に質問する。対面のテリオンは返答に窮した。
 彼は訳あって「あるもの」を入手するためこの屋敷を訪れた。ちなみに目下の同行者であるプリムロゼは、ボルダーフォール中層の宿で休んでいる。テリオンが「これからレイヴァース家に行く」と告げたら、「一人で行ったら。私はお邪魔虫でしょ」と返された。彼女はテリオンの訪問理由を盛大に勘違いしたに違いない。近頃はいちいち訂正するのも面倒なので、そのままにしている。
 幸いにも、目当てのものはコーデリアとの交渉によってつつがなく手に入った。余計な頼みごとをされる前に立ち去ろう……とテリオンがソファから腰を浮かせると、
「代わりにお願いがあります」
 彼女はそう言って分厚い本を差し出した。
「なんだ、これは」
「その……わたしが書いた物語です。テリオンさん、お時間があるならこれを読んでいただけませんか」
 コーデリアは恥ずかしそうに目をそらす。適当に本のページをめくると、手紙で何度も見た覚えのある文字が綴られていた。タイトルは「お姫様と盗賊」である。
 彼女にそういう趣味があることはうっすら把握していたので、驚きはなかった。ただ、よりによってテリオンに読めと要求するとは思わなかった。
 それでも今回は交換条件として呑むしかない。仕方なく彼はふかふかのソファに身を預け、本を読みはじめた。コーデリアが「本は部屋の外に持ち出さないでほしい」と言ったためだ。
 物語というものにろくに触れたことのないテリオンは、時間をかけて読み進め――その間コーデリアは席を外していた――頭痛に悩まされつつも、ようやく最後のページにたどり着いた。
 その直後、部屋に戻ってきたコーデリアはあろうことか「リアリティ」について質問したのだ。
 物語のあらすじはこうだ。腕利きの盗賊が、ある宝石を狙ってどこかの王城に予告状を出す。当然城には厳しい警戒網が敷かれるが、盗賊は見事にそれをくぐり抜け、宝石が安置された部屋に忍び込んだ。そこで彼は姫と出会う。彼女は城の生活に退屈しており、盗賊の到来を待ち受けていたらしい。
 最終的に、姫が盗賊を強引に説き伏せて一緒に城から脱出する、というストーリーである。この後、おそらく姫は盗賊と一緒に盗みをはたらくことになるのだろう。
 本を閉じるとますます頭が痛くなった。
(一体どこから突っ込めばいいんだ……?)
 まず、盗賊なのに予告状で自分の存在をアピールする意味が分からない。警備が増えたら盗みの成功率が下がるではないか。これほど自己顕示欲にあふれている者は、そもそも盗賊に向いていない。それに、姫の方は王族にしては考えが柔軟かつフットワークが軽すぎる。最後に彼女が盗賊を論破するシーンがやたらと真に迫った描写だったことも、テリオンの疑問に拍車をかけた。
 彼はしかめっ面になって、コーデリアから注がれる期待のまなざしを振り切る。
「……まず、この盗賊は人さらいなのか?」
 なんとか絞り出した質問に彼女は首を振った。
「いえ、そうではないのですが……結果的にそうなっていますね」
「姫をさらうのはやばいだろ。盗賊のやることじゃない」
「そのとおりですね……。二人はこの先、たくさんの刺客に追われることになってしまいます」
 そうなればもう盗賊なんかやめた方がいい。テリオンはかぶりを振った。
「俺じゃなくてヒースコートに読ませろ。あいつならもっといいアドバイスができる」
 有能な執事に責任を押し付けようと画策すれば、コーデリアはしゅんとして目を伏せた。
「ヒースコートには見せられないのです」
「なんでだ」
「だって、この話はヒースコートに聞いたお話を元にしていますから」
 テリオンはふうっと意識が遠のきそうになった。嫌な汗が背中を流れる。
「……本人に無断で書いたのか?」
「ええ、まあ……」
 コーデリアは気まずそうに顔をそらす。なるほど、彼女がこの題材を選んだ理由が少し見えてきた。
 以前、レイヴァースの屋敷に「夜の瞳」という怪盗が現れて、盗みをはたらいたことがある。なんでもその怪盗は、若い頃にヒースコートと一人の女性を取り合ったライバルだったらしい。テリオンはそれを聞いた時、「老執事にもそんな青臭い過去があったのか」と意外な心地になったものだ。
 考えてみると、盗みの前にわざわざ予告状を出すやり口は夜の瞳と似通っていた。コーデリアの危惧から察するに、この物語には本人が読んだら一発でそれと分かるようなエッセンスがばらまかれているのだろう。さすがにヒースコートも夜の瞳も、渦中の女性とこんな荒唐無稽な出会い方はしていないはずだから、ある程度は脚色しているようだが。
 テリオンは本を持ち上げて軽く振る。
「そもそも、あんたはなんでこれを書いたんだ?」
「ええと……テリオンさんは、わたしの友人のノーアを覚えていますよね」
「ああ」
 ノーア・ウィンダムはコーストランドの大富豪の一人娘で、商人トレサの友人でもある。コーデリアとは離れた場所に住んでいるため、文通で親交を深めていた。
「わたしが手紙に物語のあらすじを載せたところ、ノーアが気に入ってくれたので、しっかりしたお話に直そうと考えたんです。足の悪いノーアが読みたいのは各地を巡る冒険活劇でしょう。それならいい題材が身近にある、と思って書いてみたのですが……」
 彼女は表情に憂いをにじませた。なるほど、おいそれと出歩けない友人のために刺激の強い展開にした結果、無茶が出たらしい。
 コーデリアはテリオンに向かってぺこりと頭を下げる。
「お願いします、少しだけでいいので協力していただけませんか。わたしがテリオンさんに一番聞きたかったのは、心の描写についてなんです」
「心?」
「盗賊としてずっと一人で仕事をしてきた人の心境を知りたいんです。誰かと協力する道を選ばなかったことには何か理由があるはずですよね。その、失礼ですが、テリオンさんなら分かるのではないかと思って……」
 虚をつかれたテリオンは閉口する。なるほど、「お姫様と盗賊」の話において、何故か姫の台詞には妙な説得力がある一方で、肝心の盗賊は流されるまま姫に従ったように読めた。つまり、作者のコーデリア自身が、物語の中の盗賊の考えをうまく汲み取れていないのだろう。
(一人で仕事をする理由か……)
 テリオンは腕組みしながら考える。彼の場合、直接的なきっかけはダリウスに裏切られたことだったが、長く単独行を続けられた理由はそれだけではなかった。丹念に記憶をたどるまでもなく、一つのエピソードが脳裏に浮かぶ。
 クリフランドの崖から落ちた後、彼は数年ぶりに一人だけで盗みを成功させた。その時抱いたある思いが、レイヴァース家に忍び込むまでのテリオンを構成する核になった。
 すがるように視線を注ぐコーデリアに対し、彼は薄く唇を開く。
「別に、一人で旅するのは特別なことじゃない。俺の場合は――」



 気がつけば、びしょ濡れの状態で川辺に倒れていた。
 テリオンは仰向けになって草原に寝転がり、真っ青な空をぼんやりと見上げる。のどかすぎる太陽が全身を照らしていた。
 どうやら自分は川を流された末、岸に這い上がってそのまま気を失ったらしい。
(そうか。俺は、ダリウスに崖から……)
 瞬間、脳裏に蘇った赤茶の景色が、鋭くテリオンの胸を貫いた。
「ふざけるな」という自分の叫びが耳の奥に残っている。身を焼くような怒りはまだ心の奥でくすぶっていた。谷底の水面に叩きつけられ、全身に鮮烈な痛みが走ったこともよく覚えている。
 だが、今はどこも痛くなかった。テリオンはのそりと起き上がり、体を確認する。流血も骨折もなく、ぴんぴんしていた。ついでに武器も太ももにくくりつけられたままだ。所持品はいくらか流されたようだが、追い剥ぎにあった形跡はない。
 続いて川面を覗き込む。水面に映る己はひどい顔色をしていた。それに、先ほどは気づかなかったが、左の眉の下からほおまで、瞳を渡るように大きな一本の切り傷が走っている。どこでつけた傷か、あまり覚えていない。崖の上でダリウスともみ合った時か? 傷は塞がっていて痛みもないが、明らかに左側の視界が以前よりも狭くなっていた。どうやら視力が失われたらしい。
 落胆はあまりなかった。視力どころか命を落としかねない状況だったから、むしろよくこれだけで済んだものだと思う。彼はそっと手で左目を隠してみた。
(あれから何日経ったんだ?)
 崖から落ちて、目覚めるまでの記憶があやふやだった。どういうわけか左目以外は五体満足だが――いや、ひどく空腹だった。おかげで頭がうまく回らない。
 水面から目を離したテリオンは、あたりを見回す。大きな川の他には何もない野原だ。ここはリバーランドのようだった。クリフランドから川を流れてきたとすると、地理的には合っている。
(これから……俺はどうすればいい)
 ぎゅっとこぶしを握る。どんなことでも話し合っていた兄弟は、もういない。これからのテリオンは一人で何もかも決めなくてはならなくなった。
 ひとまず、生き残ったからにはこれからも盗賊を続ける。それは迷う余地のない結論だった。テリオンはせっかく拾った命を途中で投げ出すことはないし、盗み以外を生業として生きていけるとも思えなかった。
 だが、その選択をすればダリウスだけでなく、彼にテリオンの抹殺を依頼したシアノ一家との接点が生まれる。次にどちらかと顔を合わせればテリオンは確実に殺されるだろう。腹の立つことだが、今の彼では相手の勢力に対抗できなかった。
 彼が崖から落ちたのはクリフランドで、シアノ一家はリバーランド地方を拠点としている。つまり、この二つの地方からはしばらく遠ざかった方がいい。ここがリバーランドだと仮定すると、向かうべき場所は消去法で東のサンランドしかなかった。川を流された時に地図もなくしたようで、現在地がまったく分からないが、そのうち街道や道しるべの看板に出会うことを祈ろう。
 テリオンは改めて左目のまぶたを触った。
(この傷……目立つな)
 あまりに大きな身体的特徴は、すれ違う人々の印象に残る危険があった。道行く旅人はまだいいとして、町で住民たちに顔を覚えられたくはない。それに、「片目に傷がある男」という噂が流れ、万が一テリオンが生きていることがダリウスらにばれたら面倒なことになる。
 この大きさの傷なら、前髪を片側だけ伸ばせば隠せるだろうか。特異な容姿になるが、はっきりと傷跡が見えるよりはましだ。そういえば、ダリウスは顔に真一文字に走る大きな傷をそのままにしていた。彼には傷を隠すという発想はないようだった――
(……くそっ)
 こみ上げる衝動に任せて雑草をちぎり捨てる。埒の明かないことを思い出してしまった。新たな生活の入口に立っても、テリオンが思い返すのは失ったもののことばかりだった。
 裏切られた痛みは忘れられない。しかし、和らげることはできるだろう。そのためには誰かに頼らずとも生きていけるよう、一刻も早く自立しなければならない。つまり、盗みによって食料や金銭を得る必要がある。
 そう、盗むという手段をとる以上、テリオンはこれからも他人と関わるしかないのだ。
 強く握った右手を見下ろす。いつだってこの腕が唯一の商売道具だった。しかし――
(俺は、一人でも盗めるのか?)
 嫌な疑問が浮かぶ。テリオンは唇を噛んだ。
 ここ数年、彼は常に二人組で活動していた。陽動や撹乱を組み込んだ盗みは複数人だからこそ可能であり、今まで多くの成果を上げてきた。だが、これからのテリオンは別の作戦を立てて盗まなければならない。
 それでも、やるしかなかった。
 テリオンは川の水を飲んで空腹を紛らわせ、太陽の位置から割り出した東の方角に足を向けた。



 リバーランドとサンランドの間を流れる大河を渡ってすぐの場所に、小さな宿場町がある。テリオンはそこでさっそくスリをはたらいた。
 町は街道をゆく旅人たちの休息地としてそれなりに栄えており、様々なランクの宿、酒場、賭博場などの施設があった。常に外部からの流入者が多く滞在しており、テリオンのような盗賊にとっては都合がいい。大通りをゆく旅人たちの間に紛れ込んだ彼は、通行人の中からとりわけ重たい財布を持て余していそうな者を狙って、すれ違いざまに手を伸ばした。
 何度となく繰り返した行為だった。掠め取った財布は造作もなく外套の内側に入る。
(こんなものか……)
 彼は体を覆う布の中で、財布から貨幣をいくつか抜いた。それから所有者を追いかけて、軽くなった財布をばれないように返しておく。テリオンは今回少々長めに町に滞在する予定だった。その間に血相を変えて犯人探しなどされたらたまったものではない。スリは控えめにしておくべきだ。
 太陽は傾きながらも焼けつくような日差しを地上に投げかける。テリオンは暑さを避けて、早速酒場に入った。ここしばらく食事は魔物の肉で済ませていたので、酒と一緒にパンや付け合せも頼む。
 カウンター席に座ってパンをちぎり、エールを舐めながら、じっくりとまわりを観察した。酒場は情報の宝庫だ。今回選んだのは地元客と旅人が半々の割合でたむろしている店で、「臨時収入」はともかく耳寄りな噂話が期待できそうだった。そろそろ宵の口で、酒を嗜んでいる者も多い。
 そんな中、妙に小綺麗な服を着ている男を見つけた。一人で小さなテーブルに陣取って酒をあおっているが、あまり進んでいる様子がない。他の客とは明らかに雰囲気が違って、そこだけひっそりと沈んで見える。貴族か何かの召使いのような雰囲気だった。
(近づいてみるか)
 相手が複数人であれば会話からある程度事情が把握できるが、一人で黙々と食事している者から情報を引き出すには、突撃する他ない。躊躇はなかった。テリオンはここしばらく使っていなかった表情筋と喉の扱い方を脳内で復習して、立ち上がる。ジョッキを持ったまま移動し、よろけたふりをしてターゲットのテーブルに酒をぶちまけた。
「あっ!?」
 意識の外から突然襲撃を受けた男はぎょっとして椅子を引く。テーブルの縁からぽたぽたエールが滴り落ちた。テリオンは千鳥足に見えるよう体を揺らし、相手に近寄る。
「おっと、ごめんよ。怪我してないかい?」
「だ、大丈夫です」
 男は明らかにこちらと関わりたくなさそうにしていた。テリオンはそれに構わず、びしょ濡れになったテーブルを見て眉をひそめる。
「うわ、こりゃあ悪いことしたな……一杯おごらせてくれよ。埋め合わせってことでさ」
「あ、ああ……分かりました」
 諦めたようにうなずいた男は、改めてテリオンを注視して、軽く目を見張る。どうやら左目の傷跡に気づいたようだ。前髪は中途半端な長さで、傷を隠すにはまだ足りない。しばらくは眼帯でもつけていた方が良かったか、その方が余計に目立つだろうか。
 テリオンは演技を続けながら自然に男の正面に座る。給仕に追加で酒を頼み、テーブルを拭いてもらった。
「ところでお兄さん、そんな浮かない顔でどうしたんだい」
 ちびちびと酒を舐める男に、テリオンはずいと顔を近づける。適当に言った台詞だが、相手は図星だったようだ。
「え? そうでしょうか……」
「悩みがあったらぶちまけてくれよ。一期一会の酒の席だろ?」
 俺も酒をぶちまけたしな、とテリオンが冗談を言えば、男は緊張を解いたように笑って、それからやや真剣な顔になる。
「実は……私はこの町の宿に滞在している、ある方の小間使いをしています」
 大当たりだ。届いたジョッキを合わせて乾杯し、テリオンはさらに質問する。
「お偉いさんに雇われてるってことか。なんだってこんな酒場に?」
「私の給料ではここが精一杯ですよ。ご主人様はもっといい場所に行きますから」
 酒場までは主人についていく必要がないので、こうして息抜きをしているということか。テリオンは不審に思われないよう、注意しながら探りを入れる。
「もしかしておたくのご主人は金持ちかい? 羨ましいねえ」
「ええ、まあ……。近頃は酒場の踊子に入れあげて、宝石なんかをプレゼントしているようです」
 彼は町で一番大きな酒場の名前を出した。テリオンは俄然乗り気になってきた。
「毎晩のように酒場に行くんですよ。まだ旅の途中なのに、いつまでこの町にいるつもりなんでしょうね」
 小間使いは顔をしかめた。どうやら現状に不満があるらしい。主人と違って遊ぶ金もないとなれば、無理もない。テリオンはエールを半分ほど飲んでから言った。
「そりゃあ、その踊子とご主人が仲良くなるまでだろう」
「はあ……ですよね」
 落胆した様子の男は、ぼそぼそと愚痴を続ける。テリオンは辛抱強くそれに付き合いながら、忙しく頭を動かした。
 この町で、彼は盗賊としての命運を賭けた盗みをする気だった。スリだけやっていてもある程度は稼げるだろうが、その道を選ぶつもりはない。
(ただ食いつなぐだけじゃだめだ。俺が一人でもやっていけるのか、ここで確かめてやる)
 リバーランドを出てたどり着いた最初の町で腕試しをする、と前から決めていた。ターゲットは無事に見つかった。この小間使いの主人から、何かしら家財を盗み出すのだ。
 主人は高級宿に滞在している、と小間使いは言った。いくらなんでも全財産を持ち歩いているとは思えないので、家財は宿の部屋に隠してあるに違いない。そして、金持ちは財産を守るために複数の護衛を雇っているだろう。
 ダリウスに出会う前の子どもの頃ならまだしも、今のテリオンがそんな相手に捕まれば、ただ暴力をふるわれるだけでは済まない。これは、スリよりも格段にリスクもリターンも大きい盗みだった。
(いや、それでいい。この程度は乗り越えないと、俺はこれから盗賊を続けられない)
 決行は明日の夜だ。日中は情報収集に費やし、金持ちが酒場に行って部屋が手薄になる夜を狙う。
 なおも雇い主に文句を言う小間使いを見やり、テリオンは追加で酒を頼む。
「まあまあ、これでも飲みなよ。この場で聞いたことは誰にも言わないから、気に食わないやつのことは好きなだけ吐き出せばいいさ」
「すみません、ご親切に……」
 小間使いは勧められるまま調子よく酒をあおった。テリオンはうまく会話を誘導して、ターゲット周辺の情報を吐かせる。金持ちは気ままな旅行中にこの町に立ち寄ったらしい。そして、案の定護衛を三人雇っているようだ。
 結局テリオンは二人分の酒代を支払い、酔いつぶれた男を金持ちの泊まる宿まで送り届けて、部屋番号すら聞き出した。金持ちはまだ部屋に戻っていなかった。
 その宿は歓楽街に近い閑静な場所にあった。高い宿泊代をとるだけあって、宿の警備も厳しそうだ。テリオンにとっては、障害が増えれば増えるほど腕が鳴るというものだ。
 久々に高揚した気分で帰路についた。もちろん、彼が泊まるのは庶民向けの宿である。薄い布団の中で、近くの酒場から漏れる喧騒や隣部屋のいびきに悩まされながら眠ることになるだろう。それでも野宿続きの彼にとっては天上のような環境だった。
 夜更けの町は灯火で明るい。今頃、金持ちはどこかの光の下で踊子と楽しんでいるのだろうか。テリオンは歓楽街のメインストリートをのんびりと通り抜けた。
 その時、背後に不審な気配を感じた。今歩いている道は夜でもそれなりに人通りがあって、テリオンと同じ方向に行く者も多い。その中で、明らかにこちらと足音を重ねつつ、一定の距離を保って尾行している者がいた。
 テリオンはわざと歩調を緩め、宿よりも手前の角で曲がった。路地に入ると同時に振り返り、短剣を抜いて相手を待ち受ける。
「俺に何の用だ」
 先手を打って鋭く誰何すれば、暗闇から人影が出てきた。砂漠では珍しくない日よけをかぶって、髪型と口元を隠している。その男は布越しにくぐもった声を発した。
「お前さん、ご同業だろ? 俺と同じモノを狙ってるよな」
 声にからかうような響きを載せた相手は、無手であることを証明するように手のひらを広げた。しかしテリオンは構えを解かない。同業というだけで警戒するには十分だ。
「……何の話だ?」
「とぼけるなよ、あの小間使いから話を聞いてたじゃねえか」
 テリオンは顔を険しくする。この男は、酒場でこちらの様子を観察していたのだ。情報を得ることに夢中になり、周囲への注意を欠いていたのは迂闊だった。
 男は馴れ馴れしく近寄り、テリオンに向かって手を差し出した。
「なあ、俺と組まないか? あの宿に忍び込むのはちょっと面倒そうだ。二人で組めば、陽動でもなんでもできるだろ」
 刹那、かっと頭に血がのぼった。伸びてきた手を思わずはねのける。
「失せろ。二度と顔を見せるな」
 テリオンの拒絶に、男はふん、と息を吐く。
「なら、お宝は俺がいただくからな」
 男は捨て台詞を残して去っていった。テリオンは肩を怒らせたまま短剣をしまう。
 厄介なことになった。だが、相手の申し出を断ったことは後悔していない。テリオンはこれから一人でやっていくと決めたのだから、同業は誰であろうと敵だ。
 彼は静かな決意を胸に燃やす。
「……絶対に先に盗んでやる」



 翌夜。テリオンは暗闇の中、息をひそめて宿の屋上に伏せていた。
 金持ちの泊まる高級宿は二階建てで、空から見ると真四角の建物だ。中心には中庭があって、人工の泉が湧き、植物が生い茂っている。すべての部屋に中庭に面した窓があるため、客は砂漠らしからぬ涼しげな風景を享受できるという寸法だ。
 昼間、テリオンは客のふりをして堂々と宿に入り、一通り間取りを調べた。高級宿と言っても昨夜の小間使いのような者も泊まっているため、素朴な身なりでも問題なく紛れることができた。
 それから彼は人目を避けて屋上に忍び込み、日が暮れるのを待った。サンランド地方の建物につきものの屋上は、たいてい物干し台や物置として使われている。この高級宿では見栄えを気にしたのか木箱やツボが控えめに置かれているだけであり、人の出入りも少ないので待機するのは簡単だった。
 日が暮れてしばらくすると、ターゲットの金持ちが宿を後にした。従業員たちに見送られてにぎやかに出発したので、耳を澄まさずとも分かった。護衛は一人だけ連れていき、小間使いと残りの護衛二人は留守番のようだ。テリオンはそれを見届けてから、行動を開始した。
 屋上から中庭に向かって壁伝いにロープを垂らし、金持ちの泊まっている二階の部屋の窓まで降りる。中庭には明かりもなく、夜はどの部屋もカーテンを引いているから、見つかる心配はなかった。
 窓には内側から簡単な鍵がかかっていた。テリオンは窓枠の隙間に薄い鉄の板を差し込んで、錠を持ち上げた。開いた窓から中に滑り込んで、すぐにカーテンを閉める。
 ここまでは順調だった。事前に得た情報通り、金持ちが泊まる部屋は広く、普通の家のようにいくつもの小部屋に区切られていた。テリオンが侵入先に選んだのは寝室だ。金持ちのプライベートな空間で、護衛は基本的にここには入ってこない。
 目を凝らすと、床面積を大きく占めるベッドが見えた。その脇に衣装や荷物をしまうクロゼットがある。テリオンはそちらに体を向けた。
 かかとから足を下ろして振動を殺す。わずかな衣擦れの音すら立てぬよう、必要最低限の動作を心がけ――移動を止めた。
 不意に、寝室の扉の外に何者かの気配が生じたのだ。こつこつという無遠慮な足音がこちらに近づいてくる。
(もう帰ってきたのか!?)
 テリオンはとっさにベッドの陰に身を隠す。直後、扉が開いた。
「あれ、今何か音が……?」
 この声は、昨日酒場で会った小間使いのものだ。手燭の明かりが部屋を照らす。あと少しでも光の角度が変わればテリオンは見つかってしまうだろう。いっそう体を縮こまらせ、息を詰める。
 しかし、小間使いの動きは途中で止まった。
「……まあいいか」
 彼はぼそっと言って部屋を出ていった。かすかに金具をきしませて扉が閉まると、板の向こうからくぐもった声がした。小間使いが続きの間に控える護衛に挨拶したらしい。
 どうやら今夜のテリオンにはツキがあるようだ。今のうちに目当てのものを探そう。彼は薄闇の中で小さな鬼火を指に灯した。
 クロゼットを開けると、中にはたくさんの衣装がかけてあった。分厚い生地に鮮やかな染色、きらめく金銀の装飾が目立つ。どれもそれなりに値が張るだろうが、さすがに布類はかさばるので盗みの対象にするのは難しい。
 ふとクロゼットの下の方を見ると、鍵のかかった鞄がぽつんと置かれていた。怪しい。テリオンはさっそく鍵開けを試みた。明かりは最小限にしたので、ほとんど手探りだ。
「ご主人、いつ帰ってくるんだろうな」
「今日こそ例の踊子を口説き落とすって言ってたけど……まあ無理だろ」
 扉の外から聞こえるのんきな会話は、護衛たちのものだろう。様子が筒抜けで都合がいい、と思いながら手首を回せば、かちりと小さな音がして鞄の鍵が外れた。
 中には重たい金貨の袋が入っていた。これも魅力的だが、持ち運びに苦労しそうだ。テリオンの狙いは、金持ちが踊子に贈ったという宝石だった。
 やがて鞄の内側で、冷たくなめらかな感触が指に伝わる。小箱だ。開けてみると、多面体にカットされた石が鎮座していた。これぞ求めていたものだった。じっくり吟味している暇はないので、いくつか箱を開けて中身をふところに入れた。
 あとは脱出するだけだ、と軽く息を吐く。
「今、廊下で物音がしなかったか」
 扉の外で護衛がつぶやく。声に緊張がにじんでいた。テリオンは動きを止める。
「そうか? 他の客が通ったんだろ」
「かもしれないけど……ちょっと見てくる」
 護衛の一人が、寝室ではなく廊下に向かったようだ。テリオンの方は未だにノーマークだが、警戒するに越したことはない。気配を殺して部屋を横切り、窓に近寄る。カーテンを開けるとロープは屋上から垂れたままだった。
 彼はひらりと二階の窓から身を投げ、ロープを伝って地上へ降りる。
 足裏が地面についた。ここまで来たらあと一息だ。昼間の下調べの結果、この中庭を抜けるには建物内を通る必要があることが判明していた。中庭から宿のロビーにつながる扉――夜間は鍵がかかっている――をそっと開ける。ロビーに従業員はおらず、明かりは最低限に落としてあった。このまま誰にも見つからず宿の入口から出れば、仕事は完了だ。
「誰だ!?」
 突如、ロビーとつながる廊下の方で誰かが叫んだ。声が向けられたのはテリオンではない。続いて人と人がもみ合うような気配と、何者かが廊下を奥に移動する乱暴な靴音がした。
(あいつは……!)
 暗闇に潜伏するテリオンは、去っていく者の背中を見た。あの背格好は、見間違いでなければ昨夜テリオンに共謀を持ちかけた同業者の男ではないか。
 おまけに男がもみ合っていた相手は、よりにもよって例の金持ちの護衛のようだ。つまり、先ほど廊下から不審な音を聞いて部屋を出ていった一人である。男に刺されたのか、廊下にうずくまっている。嫌な予感がしたテリオンは、ロビーにあったカウンターの裏に隠れて推移を見守った。
 やがて、もう片方の護衛が駆けつけた。仲間の状態を見て血相を変える。
「どうした、大丈夫か!?」
「賊が忍び込んだらしい……」
 そのやりとりの間に、他の客まで部屋からわらわら出てきた。行儀の良い上客といえどさすがに気になったのだろう、「何の騒ぎだ」と口々に文句を言う。気づけば例の小間使いもその場にいて、怪我をした護衛を手当てしていた。
 テリオンはじりじりした気分で機会を待った。今は廊下だけに人が集まっているが、そのうちロビーにまで流れてくるとまずい。まったく、あの同業者は余計なことをしてくれた。
 騒ぎの原因について小間使いが説明すると、取り囲むだけの群衆に動揺が走る。
「賊が侵入しただって? もしかして、どこかに隠れたんじゃ……」
「すぐに見つけよう。こっちまで襲われちゃたまらない」
 最悪の展開になった。中庭にロープを残してきたことが今さらながらに悔やまれた。
 進退窮まったテリオンが、焦りをつのらせながら機を見計らっていると――
「待ってください。みなさん、部屋に戻りましょう。こうやって廊下にみなさんを誘導することが、賊の目的かもしれません」
 小間使いの声がざわめきを鎮めた。テリオンははっとする。もしや、あの盗賊はテリオンが二人組時代によくやっていた作戦を、一人で実行しようとしたのか。
「確かに……」「私も部屋に鍵をかけ忘れていたな」
 人垣が崩れた。皆は警戒しながらそれぞれの部屋へと戻り、喧騒はロビーから遠ざかる方向へと移動していった。
(今しかない)
 テリオンは即座に動いた。カウンターの裏から抜け出して鍵のかかった入口を開け、宿を出る。
 吸い込んだ夜気はしんと冷えていた。そのまま早足で町の外を目指す。仕事は果たしたのだから、これ以上とどまる理由はなかった。
 鬼火をランタンに入れて、真っ暗な砂漠を歩く。やがて、じわりと笑いの衝動がこみ上げてきた。
 テリオンの後に忍び込んだ盗賊は、無事に金持ちの寝室までたどり着いたとしても、クロゼットの中で鍵の開いた鞄を見つけて悔しい思いをするだろう。その間にも傷つけられた護衛たちは必死に賊を探すはずだ。結果的に、盗賊はまともにあの包囲網に対処しなくてはならなくなる。まったく、無闇に騒ぎを起こしたことは下策だった。テリオンの作戦勝ちだ。
 彼は懐から宝石を取り出し、ランタンの明かりにかざしてみた。盗んだ五つの石はどれも粒が大きく見事なカットが施されていて、深い森を思わせる色をしていた。
 次の町に着いたらすぐに換金するから、宝石自体に思い入れはない。しかしテリオンにしては珍しく、その輝きを目に焼きつけたい気分になって、じっくりと観察した。ひんやりした空気に火照ったほおを冷やされながら、彼はある確信を抱く。
 俺は、これからも盗賊を続けていける。



「一人でも生きていける、自分にはその技術や運がある……そう思ったから、この話の盗賊は一人を選んだんじゃないか」
 多少話を省きながら自らの経験を語り終えたテリオンは、物語に出てきた盗賊の心境を精一杯に想像する。
 彼自身が久しぶりに一人で盗みを成功させた時、胸に清々しい風を感じた。もう誰かと手を組まなくてもいい、裏切りを恐れる必要もない。自分は他人に頼らずともやっていける――その確信は、たくさんのしがらみや固定観念から彼を解放した。そして何よりも、一人の盗みには二人でやっていた時とは別の達成感があったのだ。
 話の間、コーデリアは黙ってメモを取っていた。一体何を参考にしているのだろう。テリオンは少し気恥ずかしさを覚えながら、行儀悪くソファの上で足を組む。
「そんなやつが、たまたま出会った姫に論破されることも……まあ、あるのかもな」
「ふふ、そうですね」
 コーデリアはメモをテーブルに置いてから、胸元に手をあてた。
「わたしは一人では何もできないので、あくまで想像ですが……『自分だけで生きていける』と思えるのは、とても自由な気分でしょうね。物語の盗賊がそれを選んだのも、納得です」
 言葉がじわりと胸に染み込む。テリオンは静かに目を見開いた。
「一人でやっていける」なんて、未熟な考えだったと今は思う。何故なら、あの盗みはテリオン一人ではなし得なかったからだ。
 おそらくあの時寝室に入ってきた小間使いは、テリオンが忍び込んでいることを察していながら、見逃したのだろう。何故そうしたのは分からない。金持ちの主人の鼻を明かしたかったのか、酒代の埋め合わせのつもりか。今さら答えなんて出るはずがなかった。盗みを成し遂げたテリオンはそれに気づかず、自分の実力だと思い込んだわけだ。
 そして月日は流れ、テリオンから話を聞いたコーデリアは、その未成熟で独りよがりな結論を肯定した。誰かと共有する気などなかったあの解放感が、彼女に伝わったのだ。
 彼は無言で茶をすすった。空になったカップを見てコーデリアはほほえむ。
「ありがとうございます、テリオンさん。おかげでノーアにいい物語を届けられそうです」
「無理のある話だが、まあ悪くはなかった」
 率直な感想を述べれば、コーデリアはショックを受けたように眉を下げた。
「や、やっぱりそうですよね……? 具体的にはどのあたりでしょう」
「ヒースコートに聞いてみるんだな」
「テリオンさん、意地悪です」
 コーデリアがくしゃりと顔を歪める。テリオンは満足して口を閉ざした。なんとなく、あの執事は主人のささやかな趣味などとうの昔に知っているのではないか、と思った。
 本を返したテリオンは、彼女から受け取った「あるもの」をふところに入れ、屋敷の玄関を出る。ボルダーフォールの崖から吹き下ろす風が、短くなった前髪を揺らした。そういえば、左目の傷跡が目立つかどうかなど、もう気にならなくなっていた。
 見送りに来たコーデリアへ、彼はすっかり慣れた挨拶をする。
「行ってくる。次はいつになるか分からんが、またな」
「ええ、行ってらっしゃい!」
 手を振るコーデリアに軽く応えて、背中を向けた。
 テリオンは一人になることを恐れない。どうやっても断てないつながりが各地に散らばっているから、この先何があっても孤独にはなりえない。今はたまたま踊子と旅しているけれど、一人旅だって当たり前に選べる。それは彼が長い旅を経て獲得した新たな強さだった。
 一方で、誰かとずっと一緒にいることは、彼には無理だった。もちろんどこかに定住することもできないだろう。たまに帰る場所に知り合いがいて、こうして迎えてくれるような、ゆるい縁さえあればいい。
 確かにテリオンには最高のツキがあった。ただし盗みに関してではなく、人とのめぐり合わせの運である。

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