輝く平原の物語

 穏やかな陽光を受けて、朝露に濡れた平原がきらきらと輝いている。
 ――今、自分はずっと前から望んでいた場所にいる!
 サイラスは歓声を上げて駆け出した。
 視界いっぱいに広がるなだらかな丘には、ぽつぽつと木が生えている。枝にぶら下がる赤い実は野生のリンゴだろうか? 首を横に動かせば、遠目にいくつか風車が見えた。羽根が回る力を利用して粉挽きをしているのだろう。
 一見のどかな平原は魔物の生息地でもある。しかし、今は物騒な気配など微塵も感じなかった。野生のオオヒツジをひと目見たかったな、と彼は贅沢なことを考える。
 アトラスダムの入口に敷かれた硬い石畳は、すぐに柔らかい土になった。街道の突き当たりには道しるべの看板があり、隣町であるフレイムグレースとリプルタイドの名が記されている。そこは馬車の轍が残る東アトラスダム平原だ。
「町の外ってこんなに広いんだ……」
 サイラスのつぶやきが風に溶けていく。今まで彼が知っていたのは本の中の大陸だ。この目で見て、肌に触れるすべては、文章や図版から想像したものとはまったく違った。いつもは城壁の中から見上げるフロストランドの白い山並みも、普段よりずっと身近に思える。
「そうだよ。だが、これからキミの歩いていく世界はもっともっと広いんだ」
 不意に声をかけられた。振り返った先には、サイラスを町の外に連れ出してくれた「その人」が立っている。背の高い男性だ。顔は逆光でよく見えないが、サイラスは「その人」から包み込むようなまなざしを感じた。
「そうですよね。東に行けば海があって、その先にはまた別の大陸があって……」
 碩学王アレファンの光は陸と海にあまねく注ぐ。まだ見ぬ地平には数えきれないほどの人がいて、それぞれまったく別のことを考えているのだ。オルステラと違う環境では、一体どのような思考が生まれるのだろう。
(いつかこの向こうに行って、もっと多くのことを学びたいな)
 サイラスはそっと胸に手をあてた。自分の未来には楽しいことがたくさん待っているに違いない。見渡す限りの平原の先に、豊かな実りはどこまでも続いている。
 彼は「その人」を見上げてにこやかに宣言した。
「僕、絶対学者になります!」
 それは昔からの憧れだった。アトラスダム王立学院への入学が許可されるまでの数年が、もう待ちきれないほどだ。
「ふふ。それもいいけれど……」
「その人」は言葉を区切り、静かにほほえむ。
「キミならきっと、何にでもなれるよ」



「夜啼きの森って知ってる? ほら、学者さんたちがたまに調べ物をしに行く場所。あそこの奥に大きな池があるんだけど……最近、水底が光っているのを見た人がいるの」
「本当? 確かそんなおとぎ話があったわね」
「あれと似てるけど、れっきとした事実よ。目撃者が何人もいるわ。昼間、それも曇りの日は特にはっきり見えるそうよ。まるで池の中に月が沈んでいるみたいに光るんですって」
「不思議な話ねえ……」
 その日、サイラスが王立図書館で図鑑のページをめくっていると、どこからともなくひそひそ話が聞こえてきた。
 図書館は数年前、ここウォルド王国の王位継承者メアリー王女の誕生を記念して設立された。サイラスのお気に入りの場所でもある。棚にぎっしり詰まった本を自由に閲覧できる上に、開館時間だけで読み切れなければ借りて帰ることもできる。すでに自分の部屋を書物でいっぱいにしていたサイラスは、連日のように図書館に入り浸った。両親は「あそこに放り込めば面倒を見なくていい」と公言しており、それはまったくの事実だった。
 魅力的な噂を聞いたサイラスはさっそく司書から地図を借りて、場所を確認した。夜啼きの森はアトラスダム近郊にある。平原の隅にこんもりと木々が生い茂り、その中央には大きな池があるらしい。希少な生物がいるとされ、学者からの関心も高い。
(森の奥の、光る池か……一体どんな景色だろう?)
 地図を指でなぞりながら想像を膨らませる。先ほどのやりとりの通り、池の底に光源が眠っているのか。最近になって急に噂が立ったのは何故だろう。森に大きな変化があったのかもしれない。
(よし、直接行って確認しよう)
 居ても立ってもいられなくなった彼は、こっそり町から抜け出す計画を立てた。素直に「森を調査したい」と言って、両親が許可を出すとは思えなかったからだ。その理由は重々承知している。
 ――サイラスが初めて町を出たのはついこの間のことだ。図書館で出会った男性に「町の外に行ったことがない」とこぼしたところ、彼が連れ出してくれた。
 その時になって、両親が「お前は外に出るな」と口を酸っぱくして言っていた理由がやっと分かった。サイラスは興奮のまま、危険も顧みず目の前の平原に駆けていきそうになったのだ。「あの人」に止められなければ魔物の餌食になっていたかもしれない。おまけに外に出てすぐに空模様が怪しくなり、遠雷の音まで聞こえてきたため、景色を惜しみつつ町に引き返した。
(でも、今回は二度目だ。きちんと準備していけば大丈夫。いつも家に帰るのは夕方だし、日暮れにさえ間に合えば……)
 計画を実行するにあたり、問題は二つある。一つ目は、アトラスダムから街道に出る門には衛兵が立っており、出入りする人々を全員チェックしていることだ。前回は「あの人」がいたので難なく通れたが、サイラス一人では引き止められるだろう。
 二つ目は森への移動手段だ。地図で測った距離からすると、サイラスの足では早朝に出発しても夕方までにアトラスダムに戻るのは厳しい。家族を心配させたくないので、日をまたぐ遠出は避けたかった。
 彼は熱心に地図を読んで作戦を立てた。
(宿屋の前に停まっている馬車を利用しよう)
 城下町にある宿は、国の内外から訪れる学者や商人が多く利用する。そのため、宿の前には客用の馬車が停まるための広いスペースがあった。そこから適当な馬車を選んで――できれば夜啼きの森に向かうものがいいが、ノーブルコートあたりを目的地とするものでも可――その荷台に潜り込むのだ。サイラスの体はまだ成長途中なので、小さく丸まればなんとか荷物の隙間に隠れられるだろう。
 そうと決めると、彼はさっそく実行に移した。翌朝、「図書館に行ってくる」と告げていつもどおりに家を出発し、方向転換して宿屋に向かう。
 壁に赤い装飾旗を垂らした宿の玄関前は、忙しそうに荷積みをする人足でにぎわっていた。昼前なので、これから出発する馬車が多いようだ。彼らの邪魔をしないよう注意しながら、サイラスは広場を歩き回る。
 やがて彼の聴覚は気になる会話を拾った。
「わざわざ迎えに来てもらって悪いね。例の書き置きからすると、やっぱりあの子は夜啼きの森にいると思う」
 からりとした女性の声が、まさしくサイラスの求める行先を告げた。声の主に見つかる前に急いで馬車の陰に隠れ、会話を聞き逃さぬよう一層耳を澄ませる。
「なるほど……でしたら、一刻も早く確かめに行かなければ」
 男性が硬い声で応じる。死角になっているので相手の姿は確認できないが、男女二人で会話しているようだ。
「ああ、里帰りするついでの寄り道だ。荷物を積み終わったらさっそく出発しよう」
 女性と男性の声はだんだん遠ざかっていった。荷物を取りに行ったのかもしれない。サイラスは今の二人が所有する馬車を特定した。座席の背もたれに彫られた家紋のような印を見ながら後ろに回り込み、持ち主がいない隙に荷台に忍び込む。
 幌の中にはたくさんの本が積み込まれていた。もしや、馬車の持ち主は王立学院に勤める学者だろうか。サイラスは本を紐解きたい気持ちを我慢して、大人しくその陰に隠れた。
 しばらくして男性が戻ってきた。書物の奥に潜むサイラスに気づかず、新たな木箱を荷台に積んでいく。
「それじゃ、森まで頼んだよ」
 女性の声とともにぎしりと床が鳴った。先ほどの二人が前方の座席に乗り込んだのだろう。会話の雰囲気からすると、男性が御者に違いない。
 馬車はなめらかに動き出した。荷台と座席はカーテンで仕切られているので、よほど大きな音を立てなければ二人はサイラスの存在に気がつかないはずだ。しかし、ここからが一番の難関だった。彼はさらに荷台の奥へと移動する。
 町の出口の前で馬車が停止した。近づいてくる足音は検問を張る衛兵のものか。衛兵は御者といくつか会話した後、馬車の後ろに回り込んできた。サイラスが隠れる荷台に鋭い視線が浴びせられる。
「積荷は……本か?」
「ああ、学者さんをノーブルコートに送り届けるんだ」御者が返事をする。
「なるほど。よし、通っていいぞ」
 会話の間、サイラスは息を詰めてじっとしていた。やはりあの女性が学者のようだ。御者が行先をノーブルコートと告げたのは、もしや彼女の里帰り先か。検問が緩かったのは学者の身分のおかげだろう。
 再びゴロゴロという車輪の振動が床板から伝わってきた。城門をくぐる瞬間、サイラスは肩の力を抜く。
(よし、脱出成功……!)
 深呼吸すれば、草の息吹が肺を満たした。
 喧騒に包まれた城下町が遠ざかり、幌の外が静かになる。女性が御者と会話する声が風に乗って届いた。
「書き置きには『噂の場所に行く』ってだけ書いてあったんだね?」
「ええ、間違いありません。お嬢様はそのためにノーブルコートを出たようです」
「ジェフリーたちにはそれが何の噂か分からなくて、わたしを頼ったわけか。確かに学院で夜啼きの森の話は聞いたよ。どうやってあの子の耳に入ったのかねえ……」
 二人は人探しをしているらしい。書き置きを残してノーブルコートからいなくなった「お嬢様」を追っているようだ。そのお嬢様はサイラスと同じ噂に惹かれていた――
 会話を聞きながら荷物の間を這い出して、じっと外を眺めた。薄曇りの空の下、緑の平原は穏やかな表情を見せている。
(次は自分の足でこの道を歩こう)
 流れる景色を飽きずに観察していると、あっという間に時間が過ぎていく。不意に馬車が停まった。
「ここです」
 御者の声を聞いてはっとした。夜啼きの森に到着したのだ。
「それじゃ、わたしが行って確かめてくる。あんたは荷物を頼むよ」
「分かりました。お気をつけて」
 サイラスは改めて荷物の陰で息を殺す。ギシギシという音と振動により、女性が馬車を降りていくのが分かった。十分時間が経ってから、彼は物音を立てないように注意して、こっそり荷台を出た。荷物番をする男は御者台で休んでいるらしく、こちらには気づかない。
 馬車を離れるとすぐそこが街道の終点だ。こちらの行手を塞ぐように木々が密集し、ざわざわと揺れている。
(ここが夜啼きの森……)
 地図で知るだけだった場所が、明確な形を持って現実に立ち上がる。きっと、自分の人生にはこの先何度もこういう瞬間があるのだろう。それは心躍るような予感だった。
 複雑に絡まり合った枝が暗がりをつくる。その中に小さな光が見えた気がして、サイラスの足は導かれるように動いた。
 途中で土に足跡が残っていることに気づいた。ずいぶん乱れているが、まだ新しい。先に馬車を降りた女性のものではないようだ。もしかして、サイラスたちが来る前に誰かが通ったのだろうか。
 しゃがんで手のひらで大きさを調べていたら、目の前に影が差した。
「あんた、いつから馬車に乗っていたんだい?」
 体を起こしながら振り向く。そこにいたのは長い金髪を後頭部で結い上げた女性だ。空色の瞳が心底不思議そうにこちらを見つめている。サイラスは彼女の肩にかかったローブに目を留めて、
「本当に王立学院の学者さんなんですね!」
 思わず声を弾ませた。彼女は呆れたように肩をすくめる。
「あのね、先にこっちの質問に答えてほしいんだけど」
「いなくなった人はこの森にいるかもしれません」彼女の台詞にかぶせるように畳みかける。「この足跡がそうではありませんか? 形からして女性のものでしょう。大きさがよく分からないので年齢は判別できませんが」
 途端に彼女は表情を変え、ごくりと喉を動かした。
「あんた一体……」
 サイラスはにっこりする。
「僕はアトラスダムに住むサイラスです。光る池の噂を聞いて、直接ここまで確かめに来ました。勝手に馬車に乗ったことは謝ります」深く頭を下げる。「そのおわび……にはなりませんが、僕も一緒に行方不明の人を探します」
 話を聞いた彼女は、はーっと大げさにため息をついた。
「多分あんたを帰すのが正解なんだろうけど……なんとなく分かったよ。あんた、わたしがダメだと言っても勝手についてくるタイプだね」
「うっ……そうかもしれません」
 たびたび両親に指摘される欠点である。サイラスが言葉に詰まると、彼女はぱっと破顔した。
「でも、なかなかいい観察眼だ。あんたを放っておくわけにもいかないし、足跡の正体も確かめたい――よし、一緒に森に行こう。わたしはオデットだよ」
「ありがとうございます、オデットさん!」
 まさか、お咎めなしの上に同行者を得られるなんて。ほおを上気させるサイラスに、彼女は気の抜けたような笑みを向けてから、背筋を伸ばして森を見やる。
「だがあそこには魔物がいるよ。あんた、魔法でも使えるのかい?」
「初級のものをいくつか」王立学院に入る前にできる限り習得しておこうと考え、親に教えてもらったのだ。実戦経験はないけれど、それなりの威力だと自負している。
「へえ、やるじゃないか。じゃあ手を出して」
 言われたとおりにすると、オデットは肩から提げた鞄から何かを取り出し、サイラスの手にどさりと置く。「わっ」重くて受け止めきれず、よろめいた。
 なんとか踏ん張って姿勢を戻し、渡されたものを確認する。分厚い革表紙の本だ。ふっとインクの匂いが漂ってくる。
「魔導書だよ。護身用に持っていくといい。わたしのものだから、あとでちゃんと返してくれよ?」
 本物の魔導書だ! 魔法の威力を増大させたりコントロールしたりする、学者の必需品である。サイラスはそれを大事に掻き抱いた。
「ありがとうございます!」
「そこまで喜んでもらえたら本も嬉しいだろうよ。使い方は色々あるけど、とりあえず適当なページを開いて詠唱すれば、あんたの魔法を補助してくれるはずさ」
 オデットはほおをかいて苦笑した。肩にかけたローブが颯爽と風になびく。
 図書館に通いつめているにもかかわらず、サイラスは今まであまり学者との接点がなかった。図書館を訪れる学者は皆忙しそうにしていて、学院の生徒でもない子どもにかまっている暇などない、という雰囲気だった。そういえば、唯一気にかけてくれた「あの人」も学者のようだったが、何故サイラスにあんなことを言ったのだろう――
「ほら、行くよ」
 気づくとオデットが数歩先で立ち止まっていた。サイラスは慌てて追いかけ、彼女と一緒に森に入る。
 いよいよ町育ちの彼には未知の領域だ。短い下生えを踏みしめる感触が心地よく靴裏を刺激する。漂う空気は平原と違ってどこか湿っていた。
 密集した木立の中は、外から見た通りの暗さだ。オデットはランタンを取り出して魔法で火を灯すと、あたりを注意深く眺める。
「ちっとも魔物の気配がしないね」
「僕にはよく分かりません。そうなんですか?」
「あんた、一人でふらふらする性質なら、そのくらいは察知できるようになった方がいいよ。まあ、今はわたしの魔法があるからいいけど」
「魔法?」
 オデットによると、こちらの気配を消して魔物に気づかれにくくする魔法があるらしい。フィールドワークで魔物と遭遇することが多い学者たちが開発したものだ。なるほど、そうやって常に不意打ちを警戒しているのか。
「……でも、魔物がいないなら少しは安心できるかな」
 彼女はぼそりとつぶやき、地面を見下ろす。きっと尋ね人のことを考えたのだろう。入口で見つけた足跡はもう残っていなかった。
 真剣さに彩られた横顔を見つめ、サイラスは矢継ぎ早に尋ねる。
「失踪した人のことを教えてもらえませんか? いつどんな状況で姿が見えなくなったのか、普段の様子は――」
「待った待った、遠慮のないやつだね。でも話さないわけにはいかないか。ちょっと長くなるよ」
 そう前置きして、オデットは歩きながらぽつりぽつりと語りはじめた。
 アトラスダムで学者になる前、オデットはノーブルコートに住んでいた。身寄りのない彼女をとある貴族が引き取り、育ててくれたのだ。その貴族には跡継ぎになる一人娘がいた。今回失踪したのはその子だ。
 事の起こりはつい昨日。父親はいつものように娘に武芸の稽古をつけ、少々厳しく欠点を指摘した。娘は稽古の後、落ち込んだ様子で庭に歩いていった。
 それが最後に彼女が目撃された瞬間だった。夕飯の時間になっても戻らない娘に父親が一抹の不安を覚えた時、使用人が書き置きを持ってきた。そこには娘の字で「町の近くに『光る池』があるという噂を聞いた。今からそれを確かめに行ってくる」と記されていた。父親は冗談だろうと一笑に付しつつも、使用人を総動員して町を探した。それでも一向に娘は見つからない。どうやら本当にいなくなってしまったらしい。
 慌てた父親は光る池の情報を求めてオデットに手紙を書き、それを託した馬車をアトラスダムに向かって走らせた。
「こういう事情でわたしが森に来たんだ」
 と彼女は言葉を結んだ。
(もしかして、ノーブルコートの領主……エゼルアート家の話だろうか)
 サイラスは相槌を打ちながら考える。家名は聞かなかったが、オデットの口ぶりから察した。アトラスダムに帰ってから馬車に刻まれた家紋を調べればはっきりするだろう。貴族の家の跡継ぎがいなくなったとなれば大変な騒動だ。闇雲にオデットを頼ろうとする父親の焦りにも納得がいく。
 話を聞き終えたサイラスは、ふと違和感を覚えた。
「その娘さんはおいくつですか」
「今年で八歳になるね」
「小さな子どもが一人でここに来たんですか……?」
 ノーブルコートから夜啼きの森までは、サイラスたちが馬車でたどった距離の数倍は離れているはずだ。丸一晩あったとしても、子どもの足でたどり着けるとは思えない。
「あんたみたいにどこかの馬車にもぐりこんだのかもよ」オデットがいたずらっぽく片目をつむる。
「そう都合良く馬車がありますかね」
「あんたの場合はあっただろ?」
「確かに……」
 妙に説得力のある話だった。とはいえ、現段階では馬車を使った可能性は除外しておくべきか。
 サイラスは探り出した情報を脳内で組み上げ、事実を整理する。その先に真実を見つけるため、質問を重ねた。
「家出の動機は判明しているのですか」
「いいや。でもだいたい分かるよ。あの子、結構厳しくしつけられていたから……たまにはそういう気分にもなるだろう」
 オデットは声を沈ませた。ノーブルコートのご令嬢は、奔放なサイラスとはずいぶん違う人生を送っているらしい。
 それきり二人は黙りがちになり、それぞれの考えを抱えて森を歩いた。中心部にあるという池はまだ見えてこない。
 サイラスは今の話をじっくり反芻した。だんだん周囲の景色が遠くなり、思考の海に潜りこむ。いなくなった子どものたどったであろうルートを一つ一つ追っていくと、途中でどうしても引っかかることがあった。動機と行動がうまくつながらない。その疑問を解消すべく思考を働かせ、あることを閃いた。彼の意識は一気に浮上した。
「子どもの行方が分かりました」
「え?」
 オデットが目を丸くする。サイラスは早口で続けた。
「書き置きの内容は嘘です。子どもはこの森にいません。きっとまだノーブルコートの近くに隠れています」
 ランタンの明かりが彼女の訝しげな表情を照らし出す。二人は足を止めて見つめ合った。
「子どもは、書き置きを持ってきた使用人や、他にも誰かと結託していると思います。きっとその子が使用人に直接紙を渡したのでしょう」
「いやに自信満々じゃないか。なんでそう思った?」
「書き置きが見つかるタイミングが良すぎましたから。まわりの大人はご令嬢の厳しい稽古を見かねて、もしくはその子に直接頼まれて協力したのでは。家出を企てた側も、ここまで話が大きくなるとは思っていなかったはずです」
 オデットはうなり声とともに腕組みした。
「うーん……確かにわたしもおかしいとは思っていたよ。実際森を歩いても、あの子が来た痕跡は今のところ見つからないしね。けど、あんたの推理もいまいち決め手に欠けるな」
「理由はもう一つあります。そもそも、家出した子は噂の舞台がこの森だと分かっていないのでは?」
 続きを促すようにオデットが片眉を上げた。
「書き置きには『ノーブルコートの近くに光る池がある』と書かれていたんですよね。夜啼きの森は、それほどノーブルコートから近いでしょうか?」
「そう言われると、アトラスダムから来るよりは離れているね」
「僕は知らなかったのですが、この噂には似たようなおとぎ話があるのですよね。つまり、いなくなった子どもは噂を直接耳に入れたわけではなく、おとぎ話を元に家出の理由をつくったのではないでしょうか」
「もしかして、たまたま夜啼きの森の噂とあの子のついた嘘が一致した……ってことかい?」
 サイラスは黙って首肯した。オデットはしばし考えに浸るように視線を落としてから、不意に真剣なまなざしをこちらに向ける。
「なるほどね。あの子はそういう物語が好きだから、可能性はあるだろう。それなら、あの子はどこにいると思う?」
 サイラスは脳内にノーブルコート周辺の地図を広げた。
「そうですね……町の近くに隠れ場所があるのでは。例えば学者の守護神、碩学王アレファンの祠に潜んで、協力者から食糧の提供を受けているのかも」
「一考の余地はあるね」
 オデットは台詞とは裏腹に、瞳に確信の光を浮かべた。
「よし、一旦馬車に戻ろう。ノーブルコートに確認をとった方がいい。今頃、御者が続報をもらっているかもしれない」
 彼女はさっときびすを返し、来た道を戻っていく。
 どうやら今の推理でオデットを納得させることができたらしい。サイラスは満足感とともにその背を追いかけようとして、立ち止まる。
(そういえば、あの足跡はなんだったんだろう)
 森の入口で見かけた一人分の靴跡は、失踪した少女とは別の人間がこの森にいることを示していた。
 オデットは動きを止めた彼に気づかず、明かりを持ってずんずん離れていく。「早く追わなければ」という思いとは反対に、何かがサイラスを引き止めていた。
 やがてあたりが暗闇と静寂に支配される。サイラスがふと予感を覚えて周囲を見回すと、木々の隙間に黄色い光が見えた。オデットのランタンではない。
(あれは、もしかして)
 考えるよりも前に茂みを突っ切っていた。
 枯れ枝を踏み越えた先には大きな池があった。ここが例の噂の舞台だろう。ただし光っておらず、ただの水たまりだった。ちょうど今は曇りの昼間だが、何か条件があるのだろうか。
 その代わり、池のほとりには別の光源があった。水面に張り出した桟橋の近くに、明かりを持った誰かが立っている。浮かび上がる影は二人分。ほっそりしていてどちらも女性のようだ。
 ランタンを持たない方の女性が、棒のようなもので地面に何かを描いていた。
「なるほど、よくできた魔法ね。あなたが開発したの?」
 明かりを掲げる女性が尋ねる。ぞっとするほど冷たい声で、サイラスは我知らず震え上がった。
「……ええ」最初の女性は棒きれを放り出してじっと地面を見つめる。
「あなたの優秀さがよく分かるわ」
 サイラスは息をひそめて、茂み伝いにゆっくりと近づいた。
 どちらも髪が長く、黒っぽい服装をしていた。棒きれを持っていた方は、明かりを掲げる冷たい声の持ち主よりも背が低い。具体的な年齢は判然としないが、前者の方が幾分か若そうだ。
 真っ黒な二つの影が暗い水鏡に映り込む。池の観察そっちのけで、サイラスの目は人影に惹きつけられていた。
「そう、私は誰よりも優秀なんです。イヴォン先生よりも……学長よりも」背の低い影が言う。
「ええそうよ、まわりの人間はあなたのことを理解していない。でも、私なら正しく評価してあげられるわ」
(学長? もしかして、王立学院の話だろうか)
 ここにもアトラスダムからやってきた人がいるのか。それにこの不穏な空気は――と思考を巡らせるサイラスの前で、池の底から響くような声が背の低い影に向かってささやく。
「頼みがあるの。それを叶えてくれたら、一人では抱えきれないほどの知識をあなたにあげるわ」
「……ほしい。私に、私だけに知識をください。そのためなら、なんだってします!」
「学長を殺してちょうだい」
 その台詞を聞いた瞬間、氷のかたまりがサイラスの喉を滑り落ちた。思わず後ずさりして、がさりと足元の草が音を立てる。
「……誰かいるわ」
 気づかれた! 一刻も早く逃げなければならないのに、両足は縫い止められたように動かない。
「大丈夫。少し待っていて」
 背の高い方の女性が、茂みを割ってこちらに近づいてくる。彼はただ見つめ返すことしかできなかった。
 現れたのは、抜けるような白い肌と闇色の髪を持ち、豪奢な衣装をまとった女性だ。整った顔でほほえむと、あたりには冷気すら漂った。
 女性は完全に固まったサイラスに目を合わせた。その瞳は赤々と光っている。
「こんにちは、坊や。こんな場所でどうしたの?」
 声が出せない。全身の血が凍りついたようだった。女性は唇を吊り上げる。
「盗み聞きするなんて悪い子ね。……まあいいわ、忘れなさい」
 あのお方の元に送ることすらもったいないわ、と女性は小さく付け加える。
 さっと目の前に手がかざされた瞬間、視界が暗転した。

※続きは同人誌に収録

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