朋有り遠方より来たる



 その日の食卓には重苦しい空気が流れていた。
 ストーンガードの宿の食堂にて、アーフェンは冷めかけたスープを無感動に味わう。昼間に蓄積した疲労が全身にのしかかり、あまり手が進まないのが実情だ。
 騒動がやっと一段落したこのタイミングで、サイラスが急に「アトラスダムに帰る」と言い出した。勝手に話を進める彼に仲間たちは困惑した。中でもハンイットは業を煮やしたのか、彼の首根っこを掴んで椅子から引きずり下ろし、さらにはテリオンも巻き込んで宿の一室に放り込んだ。大人しく従う男二人の姿を見たアーフェンは思わず笑いそうになったが、そんな寸劇すら今の空気を完全に払拭するには足りなかった。
 ぼんやりと手を動かしていると、不意に肘のあたりをつつかれる。横を見れば、
「あのさ、アーフェン……あたしと一緒にアトラスダムに来てほしいの」
 隣席のトレサが口の横に手をあてて話しかけてきた。アーフェンは目をぱちくりさせる。
「そろそろリプルタイドに帰りたいから、サイラス先生について行こうと思って」
「そりゃ先生がいいなら構わねえだろ。なんで俺も?」
「ノリでそう言っても変じゃないから。あたし一人だと不安なのよ。先生、町に行ったらそのまま戻ってこなくなっちゃいそうで……」
 最年少の仲間は眉根を寄せる。アーフェンはひそかに驚いた。
 確かに先ほどのサイラスの発言には不穏を感じた。からりとした物言いとは反対に、背中にじっとり張りつくようなものがあった。それは、クオリークレストで地下遺跡に踏み込んだ時の感覚とどこか似ていた。
「そんなことねえと思うけど……ま、気にはなるよな」
 おまけに、アーフェンはオフィーリアから「サイラスはイヴォンとの戦いで、痛みを軽減する魔法を使った」と聞いた。そう打ち明ける彼女の顔には危機感がにじんでいた。もし中途半端に魔法が残っていて、体に不調でもあれば大変だ。アーフェンは心を決めた。
「おし、なら俺もついてくぜ。前からあの町に行ってみたかったんだ」
 いい機会だから、あそこにいる知り合いに顔を見せよう。胸を叩いて請け負うと、トレサは破顔する。
「ありがとうアーフェン」
「いいってことよ」
 直後、食堂のドアが開いた。早々に食事を平らげたハンイットがそちらを向く。他の者と違って、彼女だけはどこかすっきりした表情をしていた。
「二人とも、戻ったのか」
 ハンイットの声に招かれ、サイラスとテリオンが入ってくる。前者は不思議なくらいいつも通りの様子で、後者はマフラーでほとんど顔を隠していた。
「話し合いは済んだよ。テリオン君の許可も出たので、私はアトラスダムに向かおうと思う。テレーズ君もそれでいいね」
「あ、はい」
 呼びかけられた生徒は座ったままかしこまる。教師として彼女を家まで送り届ける、というのがアトラスダムに戻る目的の一つだった。傍らのテリオンは無言である。
(この二人、本当にちゃんと話し合えたのか……?)
 アーフェンは少々疑わしい気分になる。二人の会話というと、サイラスが一方的に話しかけてテリオンが言葉少なに答えるのが常だった。とはいえ、不本意なことに対する文句だけはきちんと言うテリオンが一切口を挟まないということは、一応の合意はあったのだろう。ハンイットもうなずいている。
 その時、隣のトレサが合図した。二人は立ち上がった。
「そういうことならあたしも連れてって! そろそろ家に帰りたいの。リプルタイドにも寄れるよね?」
「俺も俺も。いっぺんアトラスダムの図書館に行ってみたかったんだ」
 次々と申し出る仲間たちを、サイラスは「もちろんだとも」とあっさり受け入れる。他の仲間たちはアーフェンらの意図を察しているのか否か、何も言わなかった。
 にこやかに卓についたサイラスは、残った皿を前に眉を曇らせる。
「せっかくの食事が冷めてしまったな……」
「スープだけでもあたため直そう。自信作だからおいしく食べてもらいたい」
 ハンイットが横から深皿を取り上げた。「お願いするよ」と目を輝かせるサイラスを尻目に、彼女はさっさと食堂の厨房へ向かう。
 すでに食事を終えていた仲間たちは三々五々立ち上がった。テレーズはまごまごしながらサイラスを見つめるが、当の教師に「先に休んでいいよ」と言われて大人しく席を立つ。
「それじゃ先生、また明日ね!」
 トレサは手を振りながら元気に去っていく。内心の憂いは見事に隠していた。
 アーフェンも後ろに続いたところで、今晩宿で同室となるテリオンの姿がないことに気づく。
(やべ、あいつに部屋の鍵渡してなかった)
 慌てて廊下に出ると、紫のマフラーがひらひらと遠ざかっていくところだった。
「おーいテリオン、待てよ」
 大股になって追いつき、低い位置にある肩を叩く。振り返った相手の顔を見て驚愕した。
「なっ……え、テリオンも怪我したのか?」
「どういう意味だ」
 盗賊は不機嫌そうに緑の片目をすがめる。
「いや、だってあんたの顔が」
「顔なんて怪我してない」
 口を尖らせる彼を、アーフェンはしげしげと見つめた。
(テリオン……自分じゃ気づいてねえのか?)
 その表情を目にした瞬間、アーフェンは「テリオンが傷ついている」と直感した。だから真っ先に怪我を疑ったのだ。しかしそれは間違いだった。この傷は身体的なものではなく、精神的なものだ。
 どういうわけか、テリオンは表情を取り繕う余裕がないほど落ち込んでいるらしい。昼間、イヴォンの生家でサイラスとともに罠にはまったと聞いたから、そのせいだろうか?
 テリオンは固まってしまったアーフェンに鋭い一瞥をくれた。
「おたく、アトラスダムに行くなら学者先生に注意しろよ」
「へ? なんで」
 いきなり別方向から話を振られて、頭が追いつかない。
「……今日は散々迷惑をかけられたからな」
 アーフェンがぽかんとしている間に、彼はこちらのポケットから鍵を盗み出し、そのまま部屋に向かっていった。
(サイラス先生を警戒しろって? どういう意味だよ)
 もしや、学者が辺獄の書の件を黙っていたことに言及したいのか。確かにあの伝達不足には参ったし、ハンイットが苦言を呈したのも無理はなかった。サイラスは他にも何かを仲間に隠していて、テリオンはそれを察した、ということだろうか?
 アーフェンは廊下に立ち尽くす。トレサが訴えた不安と、テリオンが促した注意がぐるぐると頭の中を巡っていた。
(うーん……先生のこと、しっかり見といた方がいいのかもな)



「みんな、町が見えたよ」
 安穏としたサイラスの声が、アーフェンを回想から引き戻す。目を上げると、平原の先に堅牢な城壁が見えた。あたたかい昼の光を受けて、学者の怜悧な横顔も穏やかにほどけている。
「やっと着いたのかあ」
 アーフェンがしゃべる度に口の端にくわえた薬草が揺れる。口寂しい時にしばしばやる癖だ。トレサには「出た、その葉っぱ」と言われ、テレーズには「おいしいんですか?」と訊かれた。サイラスは黙ってにこにこするだけだった。
 北ストーンガード山道で他の仲間と別れた四人は、一路アトラスダムを目指してなだらかな平原を歩いていた。
 ここに来るまでに、道中ハイランド地方にてコブルストンの村と、コーストランド地方にてトレサの故郷リプルタイドに寄り道した。そのため旅程は大幅に遅れている。この調子では仲間との合流地点であるウェルスプリング到着は相当遅れそうだとアーフェンは思ったが、旅程を定めるサイラスは「問題ないよ」と言った。どうしてそれほど自信があるのだろう。どうやら、コブルストンに寄った際に彼が何かをしていたことがヒントのようだが――
(ま、先生がああ言うなら大丈夫だろ)
 と楽観視したアーフェンは頭の後ろで組んだ腕を戻し、口から薬草を外した。あまり変な格好をしていると警備の厳重なアトラスダムに入れないかもしれない。
 順調に町に近づいた一行は堀の上にかかった橋を渡る。無事に衛兵の前を通り抜け、大きな門をくぐった先に広がる景色を見て、アーフェンは「おお」と感嘆した。
「久々ね、アトラスダム城下町!」
 トレサは石畳の上で舞うようなステップを踏む。ウォルド王国の首都は落ち着いた雰囲気ながら活気があった。これほど多くの人々を一度に視界に入れるのは久々だ。トレサの商売人の血が騒ぐはずである。
 アーフェンは物珍しい気分できょろきょろする。希少な薬の素材が売っていないか、どこかに体の不調を訴える人はいないか――彼が新たな土地で自分の出番を探すのは、ほとんど職業病だった。
「やっと戻ってきたのですね……」
 テレーズが感慨深げにつぶやく。彼女は教師サイラスに危険を知らせるために一人でこの町を飛び出してきた。一応ストーンガードに着いてから手紙で両親に無事を報告したそうだが、今頃さぞ心配されているだろう。
 同じくこの町出身のサイラスも久々の帰郷となった。彼は青空と同じ色の瞳であたりを見回し、うなずいた。
「さて、私はテレーズ君を送り届けてから城に行ってくるよ」
「忙しそうだなー先生。晩飯くらいは一緒に食べようぜ」
「もちろん。では夜に酒場で集合しようか。三人分の宿を取ってくれるかい、トレサ君」
「はーい」
 さらりと答えるトレサに対し、アーフェンは目を丸くした。
(え、先生って自分ちに帰らねえの?)
 サイラスの実家の話は今まで聞いたことがなかった。せっかく帰郷したのにわざわざ宿に泊まるなんて、何か事情があるのだろうか。
 それを質問する前に、テレーズが頭を下げた。
「アーフェンさん、トレサさん、ここまでありがとうございました。短い間でしたが、みなさんとご一緒できてとても楽しかったです」
「テレーズさんもお勉強がんばってね!」
「もうあんまし危ないことすんなよ。いくら先生のためでもさ」
 アーフェンがつい説教くさいことを言うと、「ええ、気をつけます」とテレーズは笑う。三人の間にどことなく連帯感があるのは、立場は異なれど皆サイラスに生徒扱いされているからだろう。
「では二人とも、のちほど会おう」
 教師はテレーズを引き連れて優雅に去っていった。その背中を見送り、アーフェンは横にいる仲間に尋ねる。
「なあトレサ、サイラス先生ってなんで家に帰らねえんだ?」
「あたし、前も先生と一緒にアトラスダムに来たけど、あの時も宿に泊まってたわよ。家が片付いてないから寝るところがないんだって」
「ええー……」
 一体どれほどひどい状態なのだろう。そういえば、クオリークレストにいるオデットがそんな笑い話をしていた気がする。
(いや、理由はそれだけじゃねえか)
 今のサイラスはあまり知り合いに会いたくないのかもしれない。表向きの目的である式年奉火の旅がまだ済んでいないのだから仕方ない。同じように、アーフェンも薬師として十分な実績を積み上げるまではクリアブルックに顔を出すつもりはなかった。
「それじゃ、あたしはさっそく買い出しに行くわ! アーフェンはこれからどうするの?」
 トレサは張り切った様子で腰に手をあてた。直前に寄ったリプルタイドで久々に両親と会って刺激を受けたのだろう。いつも以上に表情が生き生きしていた。
 ここしばらくの旅路は非常に穏やかで、彼女がストーンガードでサイラスに抱いた不安はすっかり払拭されたようだ。アーフェンも何度か別の用事にかこつけて彼の体を診察したが、不調は見当たらなかった。
 アーフェンは鼻の下をこする。
「へへ、実は俺も寄るとこがあんだ」
「図書館でしょ? 薬の本、あるといいわね」
 もちろんそちらも気になるが、目的はもう一つある。
「宿はあたしがとっておくわ。またね、アーフェン!」
 トレサはリュックを背負って元気に駆けていく。アーフェンも別方向に足を向け、行動を開始した。
 途中で見つけた商店で薬の素材を買い込んでから――ただでさえ寂しい懐が余計に寒くなった――北に面した門をくぐる。すると一層衛兵の姿が増え、一気に人通りが少なくなった。
 そこは真正面に王城がそびえる閑静な地区だ。中央の広場を割るように一本大きな道が城に向かって伸びている。サイラスもここを通ったのだろう。ただしアーフェンの目的地は城ではなく、広場の左手に見えるアトラスダム王立図書館だ。立派な石造りの建築物で、正面扉の上には女性を模したレリーフが飾られている。アーフェンは入口でにらみを利かせる守衛に挨拶しながら中に入った。
 しんと静まり返った空間だ。太陽の光を受けてきらきらと埃が舞う中、大勢の人が静かに棚の間を周遊している。整然と並んだ蔵書は、クリアブルック中の書物をかき集めても足りないほどの量だった。
「おーっこれが……!」
 思わず大声を上げると、すぐさま女性が飛んできた。
「図書館ではお静かに!」
 目を吊り上げた彼女は、まじまじとこちらを見つめる。
「……って、もしかしてアーフェン?」
 後頭部で結い上げた髪が揺れ、聡明そうな瞳が何度か瞬いた。
「メルセデス! 久しぶりだな」
 彼女は八年前、故郷クリアブルックからアトラスダムへ引っ越した幼なじみである。ここで司書をつとめているという話はサイラスから聞いていた。勤勉な働きぶりがよく評価されているらしい。
「本当にアーフェンなのね……!」メルセデスは喜色を浮かべた顔をすぐに引き締める。「話をしたいのは山々だけど、ここではちょっとね。しばらくしたら休憩時間があるの。少し待っててもらえる?」
「ああ、構わねえよ」
「それじゃ、薬学の本はこのあたりだから」
 気の利く司書が棚の位置を教えてくれたので、ありがたく案内に従った。彼女はアーフェンがもう一人の幼なじみゼフとともに薬の猛勉強をはじめた頃をよく知っているのだ。
 目についた野草の図鑑を本棚から出して、閲覧机の上に広げる。図鑑は使い込まれていながらも状態がよく、丁寧に保管されていることが分かった。
 彼は気になる記述を見つけては、常に持ち歩いている手帳にメモしていく。図鑑の中には毒を持つ野草も多く載っていた。仲間がうっかり触れないよう、特徴を覚えておく必要があるだろう。
「アーフェン、ちょっと!」
 いきなり肩を叩かれた。気づけばメルセデスがそばにいる。すでに休憩に入ったようだ。
「……おお、悪い悪い」
 いつの間にか集中しすぎて周囲の音をシャットアウトしていたらしい。アーフェンは図鑑を棚に戻し、メルセデスの先導で図書館の外に出た。彼女が向かうのは先ほど通りがかった中央広場のようだ。
 アーフェンはちらちら後ろを振り返りながら、
「本当にすげえなこの図書館。これなら一日中いられるぜ」
 メルセデスは嬉しそうに顔をほころばせる。
「ふふ、いい場所でしょ。人気の職場だから司書になるのも大変だったのよ」
「それだけ必死に勉強したんだな。さすがメルセデスだぜ」
「アーフェンもずいぶん熱心じゃない。あの悪ガキが嘘みたいよ」
「だろ? まあゼフほどじゃねえけど」
 謙遜してみせると、メルセデスは「そう……」と遠い目をする。その反応で直感した。
(あー、やっぱりまだゼフのこと……)
 アーフェンはこみ上げる気まずさを唾液とともに飲み込んだ。
 幼なじみのゼフとメルセデスの間には特別な感情が存在する。アーフェンは昔からそれを察して、あれこれと世話を焼いていた。だが、二人の縁を最悪の形で途切れさせてしまったのも彼の仕業だった。
 八年前、メルセデスがクリアブルックを離れる日、アーフェンはひどいしくじりをした。「直接別れを告げるのが恥ずかしいから」と渡されたゼフの手紙を、事情があってメルセデスに届けそこねたのだ。別れ際、彼女は馬車に乗り込みながら「ゼフにも見送りに来てほしかった」と寂しそうに言っていた――
(ここは俺がメルセデスの気持ちを聞き出さねえと)
 ゼフが未だに彼女に心を残していることはよく知っていた。この機会にメルセデス側の事情を探りたい。ささやかながら、これもアトラスダムに来た目的の一つだ。
 二人は並んで広場のベンチに腰掛けた。メルセデスが口を開く。
「アーフェンは旅をしてるんでしょ? 話、聞かせてよ」
「いいぜ」
 ゼフの件を切り出すのはもう少し場があたたまってからだ。張り切ったアーフェンは旅の話を滔々と語って聞かせた。ゼフとの約束とクリアブルックからの旅立ち、テリオンたちとの出会い、ゴールドショアでの事件解決などなど。「恩人さんのように旅の薬師として人々を助けたい」という思いからはじまった旅は、いくら時間があっても語り足りないくらいたくさんの思い出となって、アーフェンの心に積み重なってきた。
 聞き終えたメルセデスは、話に浸るようにまぶたを閉じる。
「ずいぶん大きくなったのね、アーフェン」
「え? そりゃ前と比べたら背は伸びたけど」
「そうじゃなくて、成長したなって言いたいの!」
 率直に褒められたアーフェンは照れくさくなり、ほおをかいた。
「ゼフだって同じくらいがんばってるさ」
「そうよね……」
 メルセデスは静かな瞳を広場に向ける。遠い視線の先には故郷の川が流れているのだろう。
「ゼフは元気にしてる?」
 ついに相手から踏み込んできた。今だ、とばかりにアーフェンは勢いよく頭を下げる。
「すまねえ、メルセデス! ゼフのことは俺のしくじりだったんだ」
「え……いきなり何?」
 当惑する彼女に、アーフェンは八年前のあの日、不義理をしてしまった経緯を話した。メルセデスの乗る馬車の御者が急病になり、その手当てをしているうちにゼフから託された手紙の存在を忘れてしまったのだ、と。
 はじめはぽかんとしていたメルセデスだったが、だんだん呆れた表情になり、最後に大きなため息をついた。
「そうじゃないかと思ってたわよ。もう何年も前の話なのに、あなたも律儀ねえ」
「だってよ、取り返しがつかなかったらどうしようかと……」
 八年前、自分のしくじりに気づいたアーフェンは真っ青になってゼフに手紙を返した。幼なじみは「自分で渡さなかった僕が悪いんだ」と言ったが、それでもアーフェンの心にはトゲが残り続けていた。
 メルセデスはくすりと笑い、軽く背を伸ばす。
「ゼフが元気ならそれでいいわよ。あなたも相変わらずみたいで安心したわ」
「はは……今度クリアブルックに帰ったら、メルセデスが元気にしてたってゼフに言っておく」
「お願いね」
 メルセデスは胸元に手を置き、なでおろすような仕草をする。アーフェンの大失敗によるすれ違いも、特に気にした様子はなかった。少なくともゼフに対して悪い印象は抱いていないようだ。
(次アトラスダムに来る時は、それこそゼフの手紙でも届けてやろう)
 ぐっとこぶしを握って決意を新たにするアーフェンを尻目に、彼女は膝の上に手を揃える。
「それにしても、アーフェンはサイラスさんと一緒に旅をしていたのね。驚いたわ」
 アーフェンは大きく相槌を打つ。
「実は俺、サイラス先生からメルセデスのこと聞いてたんだ。立派に司書をやってるって褒めてたぜ」
「そうだったの。嬉しいわ。もしかして今、サイラスさんも町に戻っているの?」
「おう。なんか城に用事があるって言ってた」
 彼はイヴォンの豹変やルシアが行方不明になった件を国王に報告しているはずだ。さすがにそこまではメルセデスに話せなかった。辺獄の書の存在は重大な秘密なのだ。
 アーフェンはふと浮かんだことを口にした。
「そういやメルセデスはサイラス先生の家って知ってるか?」
「さあ、分からないわ。いつも学院かお城か図書館に入り浸りで、家に帰っているのはあまり見たことがないわね……」
 それほど昔から部屋が片付いていないのだろうか? アーフェンがさらに身を乗り出そうとした時、視界を早足で横切る黒いローブが目に留まった。この町に数多く存在する学者の中でも、「ローブを肩にかけるだけ」という格好がこれほど似合うのは彼しかいない。
「サイラス先生!」
 アーフェンは腰を浮かせ、広場を突っ切る。こちらに気づいたサイラスが立ち止まった。
「おや、こんな場所で会うなんて。図書館の見学はどうしたんだい? それにメルセデス君まで……」
「お久しぶりです、サイラスさん」追いついたメルセデスはきびきびと会釈をする。
「俺たちクリアブルックで幼なじみだったんだよ」
 アーフェンの簡潔な説明に、サイラスは得心がいったようにうなずいた。
「メルセデス君はリバーランドから引っ越してきたのだったね。なるほど、以前はクリアブルックに住んでいたのか」
 さすがの記憶力に感心しつつ、アーフェンは首をかしげた。
「城に行ってたんじゃなかったのか?」
「ああ、テレーズ君を家まで送った後、城でストーンガードの件の報告を済ませたよ」
「ならもう用事は終わりなんだ」
「そうだね……」
 サイラスは何故か言葉を濁す。常ならぬ曖昧な態度に、アーフェンは「城で何かあったのでは?」と勘ぐった。同時に、テリオンが放った「注意しろ」という言葉が想起される。
「先生。困りごとなら手を貸すぜ」
 先回りして申し出ると、サイラスはびっくりしたように目を見張った。
「キミはメルセデス君と積もる話があるだろう?」
「いえ、私はそろそろ図書館に戻らないと。それに長話は仕事が終わった後の方が都合がいいですから」
 聡明なメルセデスはさりげなく気を配った。できた友人を持ったものだ、とアーフェンは誇らしくなる。
「アーフェン、しばらくアトラスダムにいるんでしょう? また今度話しましょう」
「おう、次はメルセデスの話も聞かせてくれよな」
 図書館に戻っていく彼女から視線を外し、アーフェンはやや強引にサイラスの肩に手を置いた。
「で、どこ行くとこだったんだよ、先生」
「ああ……キミにもついてきてもらおうかな」
 サイラスはぎこちなくほほえんだ。
 彼とともに大通りを横断する。向かう先は図書館と反対方向のようだ。アーフェンは学者に歩幅を合わせながら、
「テレーズさんちはどうだった?」
「ご両親が今か今かと帰りを待っておられたよ。メアリー殿下から何かお話があったようで、家出へのお叱りは最低限で済みそうだ。かくいう私もどれだけ責められても文句は言えなかったのだが、むしろ謝られてしまったよ」
「そっか……何にせよ、怪我とかなくてよかったよな」
「キミがいてくれたからね」
 さらりと褒められ、アーフェンのほおが熱くなる。イヴォンの生家から帰還したテレーズの治療は彼が担当したのだ。
 そういえば、テレーズの両親は娘がサイラスに向ける思いを知っているのだろうか。薄々察してはいそうである。
(先生以外はほとんど全員気づいてるのになあ……)
 テレーズの苦労が偲ばれた。だが、視野が広くて様々なことを拾い上げやすいサイラスは、生徒のひたむきな思いに注目する余裕などないのかもしれない。
 アーフェンは隣をゆく端正な横顔をそっと盗み見る。アトラスダムにやってきてから、サイラスの表情はどこか緊張を孕んでおり、故郷でくつろいでいる様子はなかった。やはり辺獄の書の件を隠していることはそれなりに負担なのだろうか。これから彼がどこで何をしようとしているのかは分からないが、本当の目的を知るアーフェンだからこそ手伝いを許された可能性がある。
 二人が目指す先には、図書館に負けず劣らず立派な建物がそびえていた。一段高い場所に向かってサイラスが階段に足をかける。
「もしかして先生の職場か?」
「そうだよ。アトラスダム王立学院だ。私も来るのは久しぶりだな」
 淡々としているようで、様々な感情の込もった返事だった。
(ここの学長がサイラス先生を殺そうとしたのか……)
 未だに信じがたい話だった。あの時はアーフェンたちも秘書ルシアの策謀にかかり、なかなかひどい目にあった。そのため王立学院はどす黒い陰謀が渦巻く場所だと思いこんでいたが、昼の光に照らされた建物は清らかさすら感じる重厚なつくりであった。どこかから生徒ののどかな笑い声が聞こえてくる。
 図書館と似たレリーフを眺めながら学院の玄関を開ける。その瞬間、アーフェンは「うわ」と声を上げそうになった。
(俺がいていい場所じゃねえな……)
 高級そうな服をまとった人々が廊下を行き交い、教本を小脇に抱えて上品に談笑している。学び舎という点では興味を惹かれるが、このきらびやかな雰囲気にはまったく馴染めそうになかった。
 思わず固まるアーフェンをよそに、こちらに目を留めた生徒がたちまち色めき立つ。
「サイラス先生……?」「本当だ。帰ってこられたんですね!」
 取り囲むように集まる生徒たちに、サイラスは「すまない、またあとで」とすげない態度をとった。主に女生徒たちの不満そうな目が隣のアーフェンに流れる。だがサイラスは微塵も気にせず人垣を抜けるので、こちらも慌てて従った。育ちの良い生徒たちは無理に追いかけてこなかった。
 トレサがストーンガードで「もうサイラスは帰ってこないのではないか」と不安になった理由が少し理解できた。学者はこれほど生徒たちに必要とされているのだ。本人も今は別の目的を優先しているが、内心後ろ髪を引かれる思いだろう。
 背中に複数の視線を感じ、アーフェンは苦笑いする。
「先生、めちゃくちゃ慕われてんなあ」
「ずいぶん長く不在にしているのに、ありがたいことだね。彼女たちにも宿題を出すべきかな」
 サイラスは小さく肩をすくめ、まっすぐに階段を目指した。目的地は二階らしい。
「それで、ここには何しにきたんだ?」
「学長室に用事がある。そこであるものを探したいんだ。部屋の鍵は借りてきたよ」
「へえ」
 後ほどくわしい説明があるのだろう。アーフェンはしっかりした作りの階段を上りながら、一層声をひそめる。
「結局あのイヴォンってやつはどういう扱いになってるんだ?」
 辺獄の書を盗んだ犯人がここの学長だったなんて、公になれば王立学院自体の信用が失墜しかねない大不祥事である。サイラスが今回町に帰ってきたのは、そのあたりの話を早急に調整するためでもあるのだろう。
 サイラスは柳眉をひそめ、小声で答えた。
「今はルシアさんともどもただの休暇扱いだが、近々陛下から正式に発表があるだろう。どういう内容になるかはまだ不明だが。ルシアさんの捜索も秘密裏にはじまるはずだよ」
 学院どころかアトラスダム中が大混乱に陥りそうな発表だ。さすがに「サイラスが直接手を下した」という話は省かれるのだろう。彼が再び旅立ってから発表があるようなので、その件で質問攻めに遭う事態は避けられそうだ。
 学長室の前にたどり着いた。扉の左右に獅子像が置かれているのは何か意味があるのか、とアーフェンが考える横で、サイラスは学長室の扉に鍵を差し込む。
 中はもちろん無人だった。カーテンが閉まっているため昼間なのに薄暗く、少し匂いがこもっていた。
「で、俺は何を探せばいいんだ?」
 サイラスはきちんと扉を閉めてから肩の力を抜く。他人の目や耳を気にしていたのかもしれない。
「ここには隠し部屋があるという噂があってね。もしかすると、ルシアさんの行方の手がかりや、血晶石の研究資料が眠っているかもしれない。この部屋のどこかに鍵や扉が隠されているはずなんだ」
 なるほど、サイラスはこれから辺獄の書を探すにあたってここを足がかりにしようと考えたのだ。アーフェンはどんと胸を叩く。
「よっしゃ、そういうことなら任せろ!」
 二人は手分けして部屋を探しはじめた。
 学長室はそれこそ授業が開けそうなくらい広かった。クリアブルックでは考えられないほど贅沢な空間の使い方である。家具としては仕事机と応接セット、それにいくつもの本棚があり、壁にはイヴォンの肖像画まで飾られていた。
 まずカーテンを開けて光を取り込み、サイラスは本棚を、アーフェンは机を重点的に探す。引き出しには筆記具など無難なものしか入っていなかった。第三者に探られることを想定している雰囲気である。
「はー、ここにテリオンがいたらすぐだったのになあ」
 アーフェンは思わずぼやく。サイラスは一息ついてから笑った。
「はは、そうだね。彼ならこの程度は造作もないだろう」
 なにしろテリオンは凄腕の盗賊なのだ。何気なく口にした言葉をきっかけに、アーフェンはある思い出を手繰り寄せた。
「……俺さ、あいつが盗賊だって知った時、すげえびっくりしたんだ」
 フラットランドの例の村における出来事だ。それまでアーフェンはテリオンを含めた四人で旅をしており、あの村でサイラスたちと出会った。
 彼ら八人は共同で事件を解決した後、酒場で打ち上げを行った。いつの間にかいなくなったサイラスとテリオンを置いて話は弾み、アーフェンが「これから八人で旅をしないか」と言うとその場にいた全員に支持された。その直後、戻ってきたサイラスから同じ提案をされ、驚く間もなくテリオンが「自分は盗賊である」と打ち明けた。それでも一緒に旅をするつもりなのか、彼は無言で皆に問いかけた――
 サイラスは手を止め、長いまつげを伏せる。
「……そうだろうね。彼の生業については聞いていなかったのだろう?」
「俺と会ってからは仕事はしてなかったみたいだしな。やけに盗掘に気合が入ってたのは、単にお宝探しが好きだからだって思ってた。
 あのタイミングで言い出さなかったら、あいつどうするつもりだったんだろう。俺たちとはノーブルコートで別れてたのかな……」
 そう、もしあの時サイラスがテリオンを引っ張ってこなければ、かの盗賊はそのままふらりといなくなっていた可能性が高い。
「テリオンが本当に盗賊なら、なんで俺みたいな金持ってないやつとつるむんだろうって思った。俺の薬が目当てだったのかもしれないけど、それだけじゃない気がしてさ」
 サイラスの雄弁な視線に促され、アーフェンは胸の奥にしまっていた思いを引き出した。
「あいつ、ずっと一人でいたらしいけど、本当は誰かと旅したかったんじゃねえかな……」
 テリオンは単独行動を好むが、アーフェンやプリムロゼたちとは長く旅を続けてきた。旅に不慣れな者の相手をするのは骨が折れたろうに、仲間との関係を解消することはなかった。
 そもそも、テリオンはトレサに対する態度からも分かるように、相当面倒見がいい。ただし本人は自身のそういう性質には気づいておらず、いつも妙な建前を使うものだから混乱を招いてしまう。
 サイラスは大きく双眸を見開き、感じ入ったようにうなずいた。
「そうかもしれないね。彼はアーフェン君のことは頼りにしていると思うよ。口には出さないけれど」
「だといいな」
 笑いの波動で小さく肩を震わせたアーフェンは、ふと思い立った。
「……そっか、テリオンの視点になればいいんだ」
 ヒントを得た心地でぐるりと部屋を眺め回した。テリオンがすばやくお宝のありかを嗅ぎつける場面を、アーフェンは今まで何度も目撃していた。この部屋で物を隠すならどこがふさわしいだろうと考え、彼は真っ先に目についた肖像画に歩み寄った。
 額縁の中央で不気味な赤い瞳が光っている。一度もイヴォンと邂逅しなかったアーフェンは、その尊大な表情にクオリークレストの誘拐犯を思い浮かべた。なんとなく「これが怪しい」という勘を抱く。
「んー、こうかな」
 額縁を掴んで壁から取り外す。すると、絵で隠れていた壁に四角い穴が開いていた。棚のようになったそこには小さな赤い石が置いてある。
「ほら先生、どうだ?」アーフェンは石を取り上げ、寄ってきたサイラスに手渡した。
「驚いたよアーフェン君」学者は口を半開きにしていた。珍しい反応に、少し得意な気分になる。
「へへ、テリオンならどこに注目するか考えたんだ」
 なるほどね、と言ったサイラスはどこか眩しそうに目を細めてから、手のひらに載った石をためつすがめつする。
「精霊石……ではないな。血晶石のできそこないだろうか」
「うへえ、あの石かよ」
 人の血でつくるという物騒な代物である。アーフェンは石を触った手を思わず上着の裾で拭いたが、サイラスは躊躇なく持ち上げて観察する。
「これ自体にはほとんど力がないようだ。にもかかわらず大事に保管してあるということは……おそらくこれが鍵なのだろう」
 サイラスは石を持って壁伝いに歩く。本棚の途切れた空白地帯に近づけば、何かが動く音とともに白い壁に切れ目があらわれた。サイラスが押すと、扉のようにぱたんと開く。
「うわ!? どういう仕掛けだ?」
「特定のエレメントに反応する魔法だろうね」
 仕組みを聞いてもよく分からなかったが、とにかくこの中に証拠があるのだ。アーフェンは勇んで扉の中を覗き込んだ。真っ暗な空間が広がっており、すぐにサイラスがランタンを灯す。
 入口の直後に下り階段が続いていた。人がすれ違えないほど幅が狭い。この先に秘密の部屋があるのかと考えていると、サイラスは白皙の顔をこわばらせた。
「アーフェン君……床を見てくれ」
 彼が指で示す先、積もった埃の上にはくっきりと靴跡が残っていた。
「これはごく最近ついたものだろう。中に誰かいるかもしれない」
「ええっ」
 アーフェンは大声を上げかけて、慌てて口をおさえる。サイラスはこの事実を、それこそかの盗賊を思わせる観察眼によって見抜いたのだ。
「誰かって……あ、まさか証拠を消しに来たやつがいるのか!?」
 そうとしか考えられなかった。ストーンガードであれほどの冴えを見せたルシアなら、サイラスがこうして証拠を探しに来ることだって予想していたはずだ。この先には、ルシア本人もしくは共謀者のような存在がいるのではないか。
 サイラスは硬い顔でうなずく。
「おそらくはね」
「ど、どうするよ先生」
「今にも証拠が処分されようとしているなら、立ち止まっている暇はないだろう。階段の先に部屋があるはずだから、私が先に入って確かめる。キミは後から来てくれないか」
 サイラスは青い瞳に決意をにじませた。
 アーフェンはフラットランドのあの村で、彼と一緒に敵の潜む洞窟に突入した。今ならあの時よりはっきりとサイラスの意図が分かる。もしそこに誰かがいれば、サイラスが会話で時間を稼ぐ間にアーフェンが突破口を見つけるのだ。
「ああ、後ろは任せな」
 アーフェンは不敵に笑ってみせた。
「頼りにしているよ」
 サイラスはにこりとしてから階段に踏み出した。アーフェンも後に続き、足音を立てないように慎重に降りていく。
「この階段、どこにつながってるんだ?」ひそひそ声で話しかけた。
「学院には隠された地下階があるんだ。おそらくはそこだろう」
 もう十分降りたと思った頃、階段の終点に扉が見えた。鍵はついていない。
 二人は無言でうなずきあった。アーフェンはいつでも斧を取り出せるように準備しながら、扉の裏に隠れる。
 サイラスがぱっと扉を開け、すぐに閉めた。
 木の板に耳をつけると、衣擦れの音がした。サイラスのものだけではない。
(本当にいたのかよ……!)
 冷や汗を流しながら聴覚に集中する。謎の人物はサイラスよりも先に口を開いた。
「ああ、君は……確かプリムロゼの仲間だったね」
 そのじっとりした声を聞いた瞬間、鳥肌が立つ。アーフェンは彼の正体を知っていた。サイラスが苦々しく吐き捨てる。
「首筋の男――シメオン。このような場所で会うとはね」

※続きは同人誌に収録

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