その常闇に夢は映る

「後から向かう。いいから早く!」
「オルベリク……武運を!」
 剣士に背を押されて木立の中に入り、バラバラと迫り来る足音から遠ざかるように駆けた。こんな時、学者の靴はどうしても音が立ってしまう。
 肩にかけたローブがなびくのを視界に入れながら、どうにか混乱をおさめて頭を整理した。
 ――ゴールドショアの町で、仲間の神官オフィーリアが大事な聖火を盗まれてしまった。彼女と剣士、盗賊とともにウィスパーミルへやってきたのは、ここに犯人がいるとの情報を得たからだ。今は聖火の場所を探るため、三手に別れて行動している。己と剣士は陽動、盗賊は潜伏、神官は待機の役割だ。
 こちらは今しがた「敵」と思しき者たちを引きつけ、役目を果たしたところだった。置いてきた剣士の心配は無用だろう。むしろ、自分がいる方が足手まといになってしまう。
(先にオフィーリア君やテリオンと合流すべきかな)
 乱入者からは十分に距離をとった。木々の間で足を止め、呼吸をととのえてから術を唱える。見えない薄布が周囲を包んだ。
 それは先ほどまで剣士とともに練習していた、陣を描いて発動させる魔法ではない。学者に伝わる、気配を遮断する魔法――の強化版だ。すなわち、ストーンガードで秘書ルシアが使った魔法である。彼女が書いた論文をアトラスダムで手に入れ、読み解くことで習得した。
 その時、あることに気づく。
(……この魔法をテリオンに使うべきだったか?)
 魔物だけでなく人からも見つかりにくくなる魔法は、村に潜入する彼の助けになったはずだ。
(だが断られそうな気がするな……)
 かぶりを振ると、視界の隅で黒い癖毛が揺れた。
 どうも近頃の盗賊は態度がぎこちなく、こちらと距離をとっているように思える。もしや、レイヴァース家で仕事の首尾を報告して戻ってきた彼に、「罪人の腕輪はすでに外れている」と教えたためだろうか。気づいていなかったのか、彼は衝撃を受けた様子だった。そういえば、自分がいきなりあの話をした理由を説明しそびれた気がする。どうにかタイミングを作って話しておきたいが――
 考えを進めながら、まばらな木立の中をうろうろした。村外れのこのあたりでは神官が待機しているはずだ。散々探し回った末、木の枝を折ってつけた待機場所の目印を見つけたが、そこに神官はいなかった。
(敵に発見されたのか? 争った形跡はないようだが)
 柔らかな地面に残る一番新しい足跡は神官のものだ。まっすぐ村の方へ向かっている。彼女が理由もなく作戦を無視するとは思えないので、緊急事態が発生した可能性が高い。
 ここにいても仕方ない、村に戻って探そう。剣士が奮闘しているであろう一角は迂回して、林を抜けた。
 なだらかな丘に畑が広がり、その間に風車がぽつりぽつりと建つ、のどかな村だ。一見した限りでは、この集落に不穏がはびこっているとはとても信じられない。だが、先ほど陽動のために村人に行った聞き込みでは、相手から拒絶の意思とわずかな敵意を感じた。剣士はどこかから視線があると言っていたし、たまたま村で出会ったテラキアという学院時代の知り合いも、村の大人たちの態度に違和感を覚えていた。村を覆う影の全体像はまだ見えないが、用心するに越したことはない。
 さて、神官はどこに行ったのだろう。相変わらず村は閑散としていて誰もいない。しかし剣士ともども村外れで襲撃されたことを考えると、堂々と道の真ん中を歩くわけにはいかなかった。おそらく盗賊なら物陰を伝って軽々と移動できるのだろうが、こちらからするとかなり難易度が高い。畑には農機具の倉庫が点在しているから、それを遮蔽物にしながら進むか。
(ひとまずあの風車を目指そう)
 高台の上にひときわ大きな風車があった。その奥には黒っぽい森が広がっている。あそこなら姿も隠しやすく、見晴らしもいいだろうと考え、慎重に歩を進めた。
 この魔法を使っている間は、大きな音さえ立てなければ、相手は「見えているのにほとんど認識できない」という状態になる。術者が隠れる意思があるならなおさらだ。
 建物と樹木をたどるうちに丘が近づいてきた。風車の根元には小屋が見える。つい気が急いて足を踏み出した時、道の向こうに人影が現れた。
(おっと)
 すぐに近くの木の陰に身を隠す。彼我の距離が十分に離れていることを確認してから、慎重に幹から顔を出して観察した。
 ちょうど小屋から女性が出てきたところだ。彼女は道端にいた男性に軽く頭を下げる。
「おまたせしました。……マティアスさん、ひとつよろしいですか」
 緊張をはらんだ女声だ。最近ゴールドショアでも聞いたそれは、神官の義姉妹リアナのものだった。
(大当たりだな)
 木の幹を掴む手に力が入る。リアナは神官から奪った聖火を所持している可能性が高かった。神官を探す途中で、運良く本命が見つかるとは。
 そして、彼女が呼びかけた相手にも覚えがあった。
「なんでしょうか、リアナ様」
 その男性――マティアスとは何度かすれ違ったことがある程度で、ほとんど面識はなかった。式年奉火の旅路を手伝う商人だと神官から紹介されて、挨拶したくらいだ。彼は落ち着いた物腰を保ちつつ、どこか歓喜を抑え切れないように表情を緩めている。
 なるほど、からくりが読めてきた。ゴールドショアの町で別れる前の薬師が、「町でたまたまマティアスと会った」と言っていた理由が分かったのだ。
 向かい合う男女を注意して観察する。二人とも軽装で、リアナは神官服ではなく黒っぽいローブを着ていた。
(聖火は……持っていないようだな)
 どこかに置いてきたのか。何の目的で聖火を奪ったのかは不明だが、厳重に保管してあるに違いない。
 教会に盗難がばれる前に聖火を取り戻したい、というのが神官の願いだった。リアナが取り返しのつかない立場になることを防ぎたいのだ。神官の話を聞く限り、リアナは教義に反するような大それたことを行う人物ではない。ならばマティアスがそそのかしているのか。……どうやって?
 答えはすぐに本人の口から発せられた。リアナが不安げに唇を開く。
「……聖火を祭壇に捧げれば、本当にヨーセフ父様は門の向こうから帰ってこられるのですよね?」
 一瞬、言葉の意味が分からなかった。門から帰る、とは。
 マティアスは自信満々にうなずいた。
「もちろんです。儀式によって死の門は開き、必ずや大司教様はあなたのもとに戻られるでしょう」
 聖火教の教えでは、死者の魂は肉体を離れた後、死の門を通ってこの世とは別の地平へ向かうという。その門を聖火によって開こうとしているのか。
 ヨーセフ大司教が逝去したのは動かしようのない事実だ。しかし、リアナはどうしても父親にまた会いたかった。だから死者を蘇らせるため、義姉妹に危害を加えてまで聖火を盗んだ。そんな不安定な心の隙間に、マティアスはするりと入り込んだのだ。
 リアナは胸をなでおろし、出てきた小屋を振り返る。
「それなら良かった。……あの、やっぱりオフィーリアを外に出してあげられませんか。あんなところに捕まえておくのはかわいそうです」
(オフィーリア君が捕まった?)
 目を見開く。彼女が待機場所にいなかったのはそのせいか。迂闊だった、自分か剣士のどちらかが一緒にいるべきだったのだ。リアナの目の動きからして、神官は風車小屋に囚われているのかもしれない。義姉妹がにらみを利かせているので、あまりひどい目にはあっていないはずだが――
 マティアスが頑として首を振る。
「しかし、彼女を解放すれば儀式を邪魔するかもしれません。安心してください、大司教様が帰ってきたら彼女も喜ぶでしょう」
「そ、そうよね……」
 リアナはわずかに声色を明るくした。だが、神官はきっと望み通りの反応を返さないだろう。旅仲間としてそれなりに時間を過ごした自分には予想がつく。マティアスも薄々それを分かっているようだった。
 さて、こちらは火急に考えるべきことがあった。
(マティアスたちがこれから向かう儀式の場所にはおそらく聖火がある。しかし、オフィーリア君を放置するわけには……)
 村に潜伏しているはずの盗賊はすでに情報を掴んでいるだろうか? 連絡がとれない以上、確かめようがない。
 リアナが振り返り、今度は丘の下を眺めた。木陰に潜むこちらに視界が向いたので、慌てて首を引っ込める。魔法の効果が持続しているおかげで認識はされなかった。
「そういえば、村にオフィーリアの仲間たちが来たと聞きました。そっちは大丈夫かしら……」
「ご安心ください、儀式の場にはあらかじめ侵入者対策をしています。万が一オフィーリア様や仲間が襲ってきても対処できます」
 はっと息を呑んだ。マティアスの返答に心当たりがあったのだ。
 ここに来る前、ゴールドショアでおそらくマティアスの配下と思われる者と夜に戦闘した際、少しの間魔法が使えなくなった。あれは、暗闇の中で自分が知らず知らずのうちに沈黙と似た効果を持つ魔法陣に入ったためだろう。翌日になって地面を確かめたら、かすれた陣円が残っていた。
 おそらくあの魔法陣は地の底から力を引き出し、内側に入った者の魔法を封じるものだ。聖火の安置された場所にはそれと似た罠が敷かれているのではないか。それを解除できるのは、あの時からずっと魔法陣への対処法を考えてきた自分しかいない。
 剣士や盗賊がいれば神官の救出は可能だろう。ならば自分だけ先行して儀式の場所に潜り込み、魔法陣を処理できないか。罠の位置をあらかじめ確認して、仲間を待つだけでもいい。とにかく情報をつかむことが今後の助けになるはずだ。
 こちらが高速で思考する間もぼそぼそと話していたマティアスたちが、不意に身を翻す。
「さあ、早く儀式を行いましょう。村人たちも待っていますよ」
 二人は風車小屋を尻目に森の奥へと入っていった。黒っぽい後ろ姿が木々に呑まれる。
(すまない、オフィーリア君)
 方針は決まった。後ろ髪を引かれながら風車小屋から視線を引き剥がし、枯れ枝を踏まないように気をつけて彼らの後を追いかける。
 やがてたどり着いたのは、内部に漆黒がわだかまる洞窟だった。二人は明かりを灯して足を踏み入れ、こちらも見失わない程度に距離を保ってついていく。尾行がばれたらまずいので、明かりは使わなかった。マティアスの持つランタンだけが頼りだ。
 死者の復活という途方もない願いを抱いた二人は、しばらく黙って足を動かしていた。
「……ずいぶん暗い場所なんですね」
 リアナが小さく言った。その声が岩壁に幾重にも反響する。かすかに水音が聞こえるのは、内部に川でも流れているのか。足元がよく見えないので、踏み外さないよう気をつけねば。
 マティアスは浮き立つような声で答える。
「ええ、ここには我が神の力が通じていますから。地の底から漂う力が闇を呼び寄せているんです。村人たちはここを漆黒の洞窟と呼んでいるようですね」
 場の力――やはり魔法陣によってそれを利用するのだ。今のマティアスの話からすると、神とやらの見当もだいたいつく。死の門が云々という話にも納得がいった。ここは各地に残る十二神の祠と似たような場所なのだろう。
 静かに洞窟の奥を目指しながら、二人の発言から気になった部分を反芻した。
(死者の復活か……)
 身近に死人が出た場合、蘇生を望むことは果たして一般的なのだろうか。そんな可能性は除外してしかるべきと思っていた。だが、喪失の悲しみに暮れている時に「死者は蘇る」と誘惑されれば、リアナのように傾倒する者は多いということだろう。
 願いそのものが間違っているわけではない。だが、それが明らかに道を外れた手段――いかにも辺獄の書に記されていそうな儀式によって成り立つならば、止めねばなるまい。未だにマティアスの狙いが不透明なことも気がかりだった。
 思索に耽りながら角を曲がる際、何気なく手をかけた壁が崩れた。岩のかたまりが地面に落ちて、意外と大きな音が立つ。ぎょっとして壁に背中を張り付けた。
「……誰だ?」
 当然尾行相手は不信を抱いて立ち止まる。ランタンの光がこちらの潜む一枚壁の反対側を照らした。マティアスが一歩一歩近づいてくる。とっさに懐の魔導書へ手が伸びた。
(ここで戦うか……いや)
 閃いた。先ほど崩した岩のかけらをしゃがんで拾い上げ、壁の角から向こうへと放る。ぽちゃんと水音がした。ちょうど近くに川が流れていたのだ。明かりは滑るように水面を移動する。マティアスはそちらを注視しているようだ。
「あの、早く儀式をしないと……」
「そうですね」
 リアナが消極的に促して、やっとマティアスが動き出した。こちらはほっと胸をなでおろす。
(やはり尾行は慣れないな……)
 得意分野は盗賊に任せるに限る。思えば秘書ルシアは学者なのに妙に隠密行動がうまかった。
 これなら先に仲間と合流すべきだったかもしれない。単独行動を選んだのは、風車の下でリアナの姿を見つけた時に「このタイミングを逃してはいけない」と焦りが生じたからだ。せめて神官の囚われているであろう小屋の扉の下にメモでも挟んでおけば……と考えたが、後の祭りである。
 気を取り直して歩みを再開した。直後、ずるりと靴裏が滑った。
(えっ)
 川から跳ねた水で岩場が濡れていたのだ。視界がぐるりと回転し、暗い天井が正面に見えた――と思えば、鈍い音とともに後頭部に衝撃が走る。
 意識はあっけなく闇に落ちた。



 がくりと頭が落ちて、目が覚める。
「サイラス……あんたまた夜遅くまで本を読んでいたね」
 肩を揺さぶられて顔を上げると、目の前にオデット先輩がいた。
 混乱しながら焦点を合わせる。クオリークレストで会った時よりも、数段若々しい姿だ。何よりも彼女は学院時代のローブを肩にかけていた。
「オデット先輩……?」
 ぼんやりと問いかければ、彼女は目を吊り上げる。
「寝ぼけてるね。ここがどこか分かってるのかい?」
 言われてあたりを見回す。どうやら、本や紙類が散乱した机の上に突っ伏していたらしい。この光景には見覚えがあった。午後の光が差し込む雑然とした部屋は、学院にある先輩の研究室だろうか。
 いや、違う。この部屋に彼女がいたのは十年ほど前までで、今は別の学者が使っているはずだ。
(どういうことだ……?)
 困惑してまばたきを繰り返す。先輩が腰に手をあてた。
「まったく、自分から質問に来たくせに終わったら寝るんだから……」
 あまり黙っていても不自然だ。ここは弁解しておこう。
「すまない、この部屋があまりにも居心地がよくて」
「他人の研究室でくつろぐんじゃないよ」
 呆れた様子の返事により、やはりここが「今」はもう存在しない場所だと分かった。
 ふと己の体に目を落とす。学者のローブの長袖がきっちり両腕を覆っていた。おそらく自分もオデットと同じ分だけ若返っているのだろう。つまり、まだ学者としては駆け出しで、教師になっていない頃だ。
 じわじわと状況を理解すると同時に、正体不明の焦燥がこみ上げた。自分には何かやるべきことがある。目覚める直前までそれが頭の大部分を占めていたはずなのに、うまく思い出せない。
 とにかく自分が持ちこんだと思しき本を抱え、立ち上がろうとした時だった。
「居心地がいいのは仕方ないだろう。サイラス君はここで長い時間を過ごしているのだから」
 背中の方から穏やかな男性の声が降ってきた。途端に心臓がうるさいくらいに鳴りはじめる。
(もしや、この声は……)
 かすかな期待を込めてゆっくりと振り返った。
 研究室の入口に人が立っている。窓から差し込む眩しい光に遮られて顔はよく見えないが、その人は――
「学長。狭い場所で悪いね」
 先輩が明るく呼びかけた。
 髪は白く、肌にしわの刻まれた老人だ。けれども腰は曲がっていない。その人は立派な肩書に反して、こんな場所にやってくるフットワークの軽さを持っていた。彼の柔らかなまなざしは、学院に属する者一人ひとりに注がれているのだろう。
「今」が約十年前だと仮定しても、その頃にはすでにイヴォンが学長をつとめていたはずだ。そうだ、先輩が研究室を持った時点で「彼」はもういなかった。
 呆然としているうちに、先輩と「学長」の話が進んでいく。
「で、学長さんはうちに何の用だい?」
「私が探している本をサイラス君が借りた、と図書館で聞いたんだ。きっとキミならここにいるだろうと思ってね」
 温和な視線がこちらに向けられる。名指しされたことで我に返り、抱えた本を再び机に置いた。
「ええと……どれですか」
「あんた、これ全部借りたのかい?」
 先輩が呆れ返った。一方の「学長」は笑って流す。
「勉学に励むのはいいことだろう。ハイランドの説話集だが、心当たりはあるかな」
「多分持っています」
 自分は何のためにそれを借りたのだろう、と疑問に思いながら探した。その横で先輩が腕を組む。
「ハイランドの説話? 学長は何を調べてるんです」
「さまよえる魂がくぐる死の門のことさ」
 思わず手が止まった。先輩は肩をすくめる。
「ああ、フィニスの……。それなら教会関連の書籍の方がいいのでは?」
「それについては大丈夫だ。聖火教会史という本をフレイムグレースから借りられたからね」
 その本は、十年後に大司教から王立図書館に寄贈されるはずの本だ。何故この時点でアトラスダムにあるのだろう。
 違和感は増すばかりだった。しかし、先輩や「学長」にとってはあくまでありふれた午後の時間らしい。広げた本を眺めたまま、己の思考が空回りしていくのが分かる。先輩が唇を尖らせた。
「サイラス、まだぼんやりしてるね」
「一度帰って寝た方がいいのでは……」
「学長」にまで心配されて、慌ててかぶりを振る。適当に取った本がたまたま目当ての説話集だったので、彼に渡した。
「これです」
「ありがとう。助かるよ」
「……あの、フィニスの門について何を調べていたんですか」
「学長」は一瞬きょとんとした後で、笑みを深めた。
「これは内密にしてほしいのだが、最近私は『実はあの門はどこかに存在するのではないか』と考えていてね」
 彼はいきいきと目を輝かせて持論を展開する。まるで何十歳も若返ったかのような、張りのある声が耳に残る。そうだ、彼はこういう話し方をしていた。
 不思議な感慨に浸りながらも、その答えには疑問がわく。
「実在する……? 死者が通る門が、ですか」
 訝しむ調子で質問すれば、彼はうなずいた。先輩が顔をしかめる。
「信じられない話だねえ」
「その門を求めて争ったと思われる記録がここにあるんだよ」彼は別の本を取り出した。「しかし記述が曖昧で読み取りにくいんだ。争いの舞台はハイランド地方のようだから、説話集にでもヒントがないかと思ったのだが」
 先輩は「学長」に身を寄せて本の表紙を覗き込んだ。
「争いって、何の目的でそんなこと……」
「どうやら死者を復活させようと考えたらしいよ。門の向こう側から戻ってくる方法があると唱えた者がいたようだ」
 つい最近、どこかで聞いた覚えのある話だった。頭が鈍く痛み、額に手をあてる。
「それは……その門をくぐれば、死者に会えるということでしょうか」
 やや強引に割り込むと、先輩が目をすがめた。
「さあねえ。もしかしてあんた、会いたいやつでもいるのかい?」
「いや……」
 思わず「学長」の顔を見た。そうだ、会いたい死者などいるはずがない。彼はもうここにいるのだから。
 それでもきっぱり否定することができずにまごついていると、「学長」は朗らかに笑った。
「門に興味がありそうだね。良ければ一緒に調べてみるかい? サイラス君が私の助手になってくれたら非常に助かるな」
「あっ……」
 何故だかすぐにうなずけなかった。それはとても光栄で、ずっと前から望んでいたことのはずだったのに。
 目を閉じて、心にわだかまるもやを見つめ直す。これは決して無視してはいけないたぐいの引っかかりだ。やがて頭を整理すると同時にまぶたを開き、レースのカーテン越しに窓の外を眺める。
「私には、他にやるべきことがあります」
 あるべき事件が起こらず、とうの昔に学院を去った人たちが自分のそばにいる――そんな「今」は何の憂いもなくひたすら心地よかった。けれど、自分はここに長居している場合ではない。そのことだけははっきりしていた。
 自分には解き明かしたい謎が山ほどあるのだ。そのためにはどうしても学院の外に踏み出さなければならない。
「学長」が隣に立って、同じく城下町を見ながら目を細める。
「そうか。それがキミのやりたいことなんだね」
「はい」
 単純な言葉が力強く背中を押す。自分は部屋の外が光に満ちているだけではないと知っていながら、そこに戻りたいのだ。
「いいんじゃないか。あんたは好きなように行動した時が一番勢いがあるんだからさ」
 先輩がからりと笑い、「学長」が大きく首肯する。目を軽く開いてその光景を記憶に焼き付けた。
「では、失礼します」
 軽く挨拶してから二人に背を向ける。日差しであたためられた研究室のドアを開ければ、冷たい闇がわだかまっていた。
 だが、自分が目指すのは「この先」だ。だからためらわずに踏み込んだ。



 まぶたを開けても暗闇の真っ只中だった。ウィスパーミルの外れにある漆黒の洞窟に戻ってきたのだ。
 後頭部が鈍く痛むのは、転んだ拍子に床にひどく打ち付け、そのまま仰向けで気を失っていたからだろう。
 頭をさすりながら起き上がった。こぶができているが、回復魔法を使うと光が出て居場所を知らせてしまう。薬師が調合した薬を手探りで取り出し、患部に塗った。
 流水のそばの岩場に横たわっていたせいで、体は冷えていた。あたたかな夢の景色が急速に遠のいていく。いやに細部まで描きこまれた夢は、「あり得なかった過去」を映していた。
 気を失っている間に夢を見たのは、もしかすると地の底から湧く何らかの「力」が干渉した結果かもしれない。だが、それにしてはずいぶんと……穏やかな夢だった。ずっと居続けたくなるような、強烈な誘惑があった。目覚めることができたのは、無意識下で一種の罪悪感を抱いていたおかげである。
(一人で洞窟に潜入したのは罠を解除するためだ。それなのにずっと気絶していたとは……)
 それに、夢の世界は何もかも満ち足りていたけれど、現実はそうはならなかった。それを分かっているからきっぱりと決別できた。
 薬のおかげで体の痛みは引いていた。立ち上がって手のひらに小さな火を灯す。
 どれほど時間が経ったのかはすぐに知れた。何やら騒がしい方向へと急行すれば、祭壇とそこに立つ人影が見えたのだ。物陰に隠れて観察する。祭壇には採火燈が置かれ、その中で黒い炎が燃え盛っていた。あれは儀式とやらによって聖火が変質したものか。炎の前にはリアナがいて、一心に祈りを捧げている。見守る人影はマティアスだ。
 そして、祭壇の前には大きな魔法陣が敷かれていた。陣円はうっすらと紫色に明滅している。その内側に、仲間の三人と村人たちが倒れていた。
(遅かったか……)
 悔やんでいる暇はない。すばやく観察したところ、仲間たちに怪我はないようだった。気絶しているのは魔法陣の効果だ。そう考えれば、自ずと解法は見えた。
(……よし)
 祭壇上の二人の視線は魔法陣から外れている。罠対策のために神官の魔法を唱えてから、「今だ」とタイミングを見計らって物陰から飛び出し、円の中に飛び込んだ。あらかじめまとった守護のヴェールが、襲いかかる力を弾く。
「お前は……!?」異変に気づいたマティアスが振り返り、驚愕とともにこちらを見据える。リアナはぼんやりと濁った目を向けた。
 そちらは一旦後回しだ。再び詠唱して倒れた仲間にヴェールをかけ、一番近くにいた白い衣の女性の名を呼んだ。
「オフィーリア君」
 神官がまぶたを開ける。起き上がると同時にこちらを確認した彼女は驚いたように唇を開き、すぐに瞳に決意をみなぎらせた。
 それを見て確信した。彼女も自分と同じ道を――死者との決別を選んだのだと。そもそもゴールドショアの時点で、彼女は亡き大司教の言葉を胸に、揺るぎない意志でリアナを救うと決めていた。
 死者の復活という夢や、あり得なかった穏やかな過去がいかに甘美だろうと、彼女は――自分も仲間たちも、それを選ぶことはないだろう。
 それこそが、門の向こうへ去った者たちが我々に託した思いだったから。

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