書を持って旅に出よう



 ダスクバロウの遺跡の石床には布が敷かれ、その上にたくさんの本が並んでいた。本はそれぞれページを開いたまま、日陰でかすかな風を受けている。
 サイラスはゆっくりとその間を歩きながら、一つ一つページをめくって開き具合を変えていく。広い部屋の向こうでは、手伝いの者たちによって新たな蔵書が次々と運び込まれていた。
 半ばまで作業を済ませたところで疲れを感じ、ふう、と息を吐いた。手近な瓦礫を探して座る。遺跡の高窓から差し込んだ日差しが、程よく座面をあたためていた。
 不意に、あたりが陰った。
「あの本は何だ?」
 ひそやかな音は、昔よりもずいぶん聞き取りやすくなった。それは「彼」が声を張るようになったためか、それとも聞き手のサイラスが慣れたからだろうか。
 窓枠を蹴った青年がひらりと床に降り立つ。
「テリオン! 久しぶりだね」
 忘れもしない仲間との再会に、サイラスは顔をほころばせた。
 本当に久々に会った気がする。テリオンは一度短くした前髪はそのままに、精悍さに磨きをかけていた。旅をして積み重ねた経験が確実に彼を成長させているのだ。
 テリオンは少しばつが悪そうな顔になって、ほおを掻く。
「最近呼び出しがなかったからな」
 もしや、待ちくたびれたので会いに来たのか。申し訳なかったなと思いつつ、サイラスは盗賊に瓦礫の隣を勧めた。うなずいた彼はどっかりと腰を下ろす。
 サイラスは遺跡に並ぶ本を見ながらつぶやいた。
「そうだったね。私は近頃こことアトラスダムの往復が多くて、しかも事務仕事ばかりだからキミがいてもあまり楽しくないだろう、と考えていたんだ」
「今見て分かった。本を並べるだけは確かにつまらんな」
 テリオンは背を反らし、遠くで学院の生徒たちが作業しているさまを見やる。サイラスは張り切って解説した。
「確かに地味な作業だが、重要なことだよ。これは虫干しといって、本についた虫を駆除しているんだ。日光を当てると本が劣化してしまうから、こういう場所でやるのが向いていてね」
 ダスクバロウの遺跡の蔵書はどれも古いため、慎重に扱う必要がある。幸いここは風通しがよく、おまけに広いので虫干しに向いていた。そろそろ床に並べる作業が終わりそうだ。以降は、時折ページを繰りながら日が傾く時刻まで本を干しておく。
 相槌を打ったテリオンは、不意にあごを持ち上げた。
「天井、塞いだんだな」
 彼が知る限り、この遺跡は放置されて朽ち果てるままになっていた。だが、今は遺跡全体が応急的に木の屋根で覆われている。
「本と遺跡の保護を考えた結果だよ。もちろんダスクバロウ側にも承認を受けたんだ」
 この遺跡を長年使っていたルシアは、時を止める特殊な魔法を使って本を保護していた。研究が進んだ結果、あれは黒呪術の一種と判明している。今はあの時とは違って、誰でも本に触れられる状態で保管する必要があるため、別の処置を施した。大掛かりな工事になったが仕方ないだろう。
 視線を天井から戻して本を眺めるテリオンに、サイラスは尋ねる。
「それにしても、どうして私がここにいると分かったんだい?」
「少し前にクオリークレストに寄った」
「なるほど、オデット先輩か。私もまた顔を出さなくてはいけないな」
 サイラスは指で自分のあごをなぞってにこりとする。テリオンとオデットの縁はサイラス経由でできたものだ。それが未だにつながっていることを嬉しく感じた。
 やはりかつての仲間との会話は心が弾む。テリオンも一見そっけない態度に見えるが、沈黙を楽しむように座っていた。サイラスはあることを思い出し、ぴんと人差し指を立てる。
「テリオン、最近この遺跡で面白い本を見つけたんだ。他の本の間に挟まっていたため発見が遅れたのだが――」
「ほう?」興味が湧いたのか、彼はぴくりと眉を上げる。
「辺獄の書の知識が悪用された時のための、対抗策が書かれた本だよ」
 サイラスはとっておきの話をするように声をひそめてから、そばに置いていた鞄を探って平たい箱を取り出す。蓋を開ければ、黄ばんだ紙束が出てきた。テリオンが首をかしげる。
「本というより、紙切れだな」
「そう、表紙が取り外されてバラバラになっているんだ。これと同じ本から別れたページの束が、大陸のあちこちに散らばっているらしい」
 テリオンは体ごとこちらを向いた。本格的に聞く態勢に入ったのだ。気を良くしたサイラスは講義の調子で喋る。
「かつて、この大陸に魔大公ドライサングの力を引き継ぐ魔術師がいたことは知っているね?」
「クリスの先祖だろ」
「そう。はじめ、魔術師たちは怪しげな力を行使するということで、人々に恐れられていたんだ。おそらく彼らの操る魔術は、魔神由来の黒呪術と区別がついていなかったのだろう。そんな彼らを差別から守ったのが、古代の王国に属する騎士たちだった」
 テリオンは辛抱強く話に耳を傾けている。
「騎士たちの努力もあって、やがて魔術は人々に受け入れられるようになった。魔術師たちはその働きに感謝し、ルーン文字によって属性を制御する力を騎士たちに与えたそうだ。そんな彼らがのちに魔剣士と呼ばれるようになったんだよ」
 かつて二人は、門を目指す旅の途中でバロガー神の祠を訪ねたことがあった。テリオンもそれがどのような力なのかは大体把握しているだろう。彼は曖昧に首肯して結論を急かした。
「で、その話がバラバラになった本とどう関係がある?」
 サイラスは箱に紙束を収め、そっと蓋をする。
「これは魔術師の祖先が書き記し、魔剣士に与えた原初の魔導書だよ。すなわち、属性の力を操るための理論や技術の根幹が書かれているんだ。
 どうして表紙が外されたのかは定かでないし、すでに他のページは永遠に失われている可能性もある。だが、もしこの本のピースがすべて揃えば――記された知識によって人々が魔術師の力を自由に使えるようになれば、辺獄の書の知識への十分な対抗策になるだろう」
 この遺跡でルシアと戦った後に壁画を読み解き、仲間の前で誓ったことをサイラスは忘れていない。もし今後、辺獄の書の知識が悪用された時、そこに自分がいなくてもいいように体制を整えること。つまり、サイラスの研究の目的は辺獄の書自体を読み解くことに加えて、黒呪術への対策を練ることだった。そのヒントが奇しくも同じ遺跡から見つかったのだ。
 じっと話を聞いていたテリオンが、おもむろに唇を開く。
「だが、前にあんたは『力には適性がある』とか言ってなかったか。魔術師の試練の時だ」
 物覚えのいい生徒に満足しつつ、サイラスは続ける。
「それを本の知識で多少なりとも解消できるかもしれない。少なくとも、すでに魔術師の力の片鱗に目覚めている人々は、この本によって力を拡大しうるだろう。力は知識で補強することによって正しく扱うことができるのだから」
 クリスのように自由自在とはいかずとも、属性一つ分の特大魔法を扱える人物はオルステラに数多く存在する。この魔導書はそうした人々の助けになるだろう。他の者たちだって、適性を越えて魔術師の力を身につけられる可能性があるのだ。
 サイラスにとって、今回の発見はここしばらくで最も心躍る体験だった。興奮のまま一息に解説したが、どれだけ聞き手に伝わっただろう。
 テリオンは少し意地悪な表情を浮かべた。
「どうだかな。ルシアは知識だけはたくさん持っていただろうが、力の使い方は最悪だったぞ。あいつは正しい方法をわざと無視してたんじゃないか」
 鋭い指摘だ。サイラスは一瞬言葉に詰まる。
「ルシアさんには……違う問題があったのだろう」
 彼女は己の才覚が周囲に認められない状況に飽いていた。そしてサイラスを「自分と同じ天才」と決めつけ、自身の抱えた不満への理解と同意を求めた。だが、サイラスはその要求を突っぱねた。未来を信じず、現時点における知識量だけで人々を区別するような思想は、彼にとって到底許容できるものではなかったからだ。
 テリオンはこぶしを握ってぱきりと指を鳴らす。
「力なんて、脆弱な精神の持ち主に宿ったら大惨事になる。それはオルベリクあたりが一番分かってそうだがな」
「そのとおりだ。思えば、あれだけの魔法の才を持つクリス君も強い心を備えていたね。知識と同時に、心の有りようも教え広めるくらいでないとだめだな……」
「あんたにそれができるかな」
 テリオンは挑戦的な発言とともにこちらの顔を覗き込む。彼はサイラスの不得意分野――己の心の動きを正確に認識し、さらに相手の行動原理を知って寄り添うこと――をよく理解していた。
 だが、これでもサイラスはずいぶん進歩したのだ。少なくとも、自分の気持ちはある程度認められるようになった。それは他でもない目の前の彼や、仲間たちのおかげだった。
「たとえ今は無理でも、これからできるようになってみせるさ」
 力を込めて宣言すれば、テリオンは噛んで含めるようにゆっくりと口を動かす。
「確かに教える側の問題もあるが……あんたはまわりから身勝手な気持ちをぶつけられやすい人間だ。せいぜい足をすくわれないようにするんだな」
「気をつけるよ」
 神妙な心地で首を縦に振った。テリオンはサイラスが抱えたままの箱をちらりと見ると、軽くあごを引く。
「魔術師の書いた本か。気が向いたら探しておく」
「それは助かるよ。キミが手伝ってくれるなら、その間に私は本の修復方法を見つけようと思う」
 どういうことだ、と問うようにテリオンが片目をすがめた。
「翻訳作業や保存のことを考えると、バラバラになったページをもう一度本の形に戻したいんだ。だが、糸を通すにも紙自体がこれほど弱っていてはね……」
「ふうん」
 興味なさげに返事をして、テリオンは立ち上がった。そのまま本の間をすたすたと歩いていく。
「もう行くのかい」
 サイラスは慌てて腰を上げる。自分の話ばかりしてしまったことに今更気づいたのだ。
「土産話は聞かせてくれないのかな」
「次の機会を待ってろ」
 肩越しに振り返ったテリオンはふっと笑った。
 今の彼はどこで誰と関わり、どんな盗みを企てているのだろう。もしかすると、あちらも忙しい合間を縫ってサイラスに会いに来たのかもしれない。
 ほとんど話を聞くだけだったのに、テリオンはどこか満足そうだった。サイラスは少しほっとする。
「気をつけて」
「ああ。またな」
 テリオンはマフラーをなびかせ、軽く片手を挙げて遺跡の薄暗がりに消えていった。



 サイラスは吐息の白さにおののきながら、最後の階段に足をかけた。永遠に続くかと思われた石段の頂点に、製本業で有名なストーンガードの町が広がっている。
 久々に来るときつい場所だ。それでもハイランド地方最大の町であるここは人通りが多い。朝方で冷え込む中、人々は防寒着の前をかき合わせて足早に石畳を行き交っていた。
 サイラスが息を整えていると、目の前に粉雪がちらついた。フロストランドほどの量ではないが、時期によってここにも雪が降るのだ。視線を遠くに投げれば、透き通った空気の層の向こうに、森林限界を超えた山々が雪化粧しているさまがよく見えた。
 いつもは肩にかけるだけのローブに腕を通し、歩みを再開する。のんびり休んでいる暇はない。目指すのは下街にほど近い住宅地だ。
 足が覚えていたとおりの道をたどれば、そう時間をかけずに到着した。目の前の住居を記憶と照らし合わせてひとつうなずき、サイラスは迷わずドアをノックした。
「サイラス・オルブライトです。少し前に手紙を送ったのですが……」
 板越しに「入ってくれ」と返事がある。初めて来た時は顔すら合わせてもらえなかったものだ、と懐かしく思い返しながら扉を開けた。
 小さな玄関の先にすぐに居間があるような、こぢんまりとした家だ。だが、そこに宿るあたたかさをサイラスは知っている。十数年前にいなくなった娘との思い出が、家のそこかしこに刻まれているのだ。
 出迎えた初老の男性を視界におさめ、サイラスは表情を和らげる。
「ドミニクさん、久しぶりだね……?」
 語尾が不自然に上がったのは、ドミニクの背後に馴染みの顔を見つけたからだ。新雪のような色の神官服をまとったその女性は――
「オフィーリア君!?」
「奇遇ですね、サイラスさん」
 かつての旅仲間であるオフィーリア・クレメントだった。わずかにほおを上気させた彼女は祈るように手を組み、そばに寄ってくる。サイラスと彼女は隣の地方に住むため、旅が終わってからも度々対面していたが、この頃はご無沙汰だった。
 ドミニクは客人たちを居間に案内すると、リラックスした様子で「まあ座ってくれ」と椅子を勧めた。腰掛けるなり、サイラスは勢い込んで隣のオフィーリアに質問する。
「どうしてキミがここに?」
「お仕事を頼みに来ました。この町の教会は以前から何度もドミニクさんに写本作業を依頼しているのですが、本の品質がとても良いと評判なんです。わたしはドミニクさんと知り合いなので、フレイムグレースの書物を写してもらうために交渉する役割を任せられました」
 なるほど、とサイラスは相槌を打った。写本の技術は職人や工房に依存する。教会の総本山ともなると、良質な職人を確保するためならいくらでもコストを払うだろう。
 出された茶を飲んだ彼は、人心地ついて話を戻す。
「それにしてもいいタイミングだったね。私の来訪理由はあらかじめ知らせたとおりだが……」
 ちらりと目配せすれば、ドミニクがあごを引いた。
「たまたま同時期に二人から手紙が届いたんだ。一緒に来るのかと思ったら違ったんだな。先にオフィーリア殿の用件を済ませてもいいだろうか」
「もちろん」
 ここは先に到着した彼女を優先すべきだ。オフィーリアはすまなそうに小さく会釈した。
 そういえば、この家には住み込みでもう一人働いているはずだ。彼は留守だろうか、とサイラスが室内を確認した矢先、ぎいと音を立てて玄関が開いた。
「ドミニクさん、依頼された本を教会から借りてきました――お、お前は!?」
 簡素なローブをまとった男は、驚きのあまり両手に満載した本を取り落としそうになる。
「久しぶりだねラッセル」
 サイラスは挨拶しながら彼に近づき、何冊か本を引き受けた。ラッセルはアトラスダム王立学院におけるサイラスの同期だった。今は訳あって学院をやめて、ドミニクに弟子入りしている。彼の登場により、狭い部屋は大人四人でぎゅうぎゅう詰めになった。
 ラッセルは動転した様子で師匠と客人を何度も見比べる。
「ドミニクさん、確かに客が二人来ると聞きましたが、片方がサイラスだなんて一言も……」
「言わなかったからな。ちょうどいい、それを運ぶついでにサイラス殿に話をしてやってくれ」
「な、何故ですか……!?」
「サイラス殿は製本工房を探しているんだ。お前の方がくわしいだろう」
 敬愛するドミニクに命じられ、ラッセルはぎりぎりと歯噛みする。ドミニクがサイラスの訪問を黙っていたのは、ラッセルのこういう反応を予期したからだろうか。
「頼めるかな、ラッセル」サイラスが改めて声をかければ、
「……こっちに来い」
 ラッセルは振り返らずに居間を出ていく。サイラスは安堵して後を追いかけた。「ごゆっくりどうぞ」というオフィーリアの小さな声が背中を押す。
 廊下の奥にはドミニクの工房があった。写本を作る際の作業場である。木製の頑丈な机があり、部屋の一角には本棚が備えられていた。翻訳者でもあるドミニクは多くの資料を持っている。並んだ背表紙を眺めるだけでサイラスの気持ちは否応なく浮き立った。ただし、普段使う居室でないためか暖炉に火が入っておらず、少し肌寒さを感じる。
 ラッセルはふてくされたように机の上に本を投げ出すと、部屋の隅にあった丸椅子に体重を預けた。
「で、どうしてここに来たんだ、サイラス」
 サイラスも本を置き、手近な椅子を引き寄せてラッセルに向かい合う。
「どうしても修復したい古書がある。扱いが難しいので通常の方法では直せないのだが、この町には特殊な修理技術を持った製本工房があるという噂を聞いた。ドミニクさんなら何かご存知かと思って訪ねたんだ。キミは知っているかい」
「ふうん……その話、どこで聞いた?」
「アトラスダムだよ」
 それは、バラバラになった魔術師の本を修復するための現状唯一の手がかりだった。
 ここしばらく、サイラスは研究と並行して学院や知り合いの伝手を頼り、本の修復方法に関する情報を精力的に集めていた。オルステラの技術は日々進歩しており、大陸のどこかでまだ見ぬ画期的な発明がされているかもしれない。そう考えて、なりふり構わず手がかりを求めた。結果的にサイラスのもとにはたくさんの情報が集まった。そこから真偽を確かめて取捨選択した中に、ストーンガードの噂が混ざっていたのだ。
 肝心の本の中身は、今やほとんどがサイラスの手元に揃っている。古代の紙束なんて遺失していてもおかしくないのに、まるで集められるのを待っていたかのように次々と発見された。その大部分はウォルド王国の情報網によってもたらされ、残るはほんの十数ページ――いよいよ最後のピースだろうと予想したところに、ストーンガードの噂が舞い込んだ。サイラスは噂に飛びつき、自らこの町にやってきたのだ。ここのところ忙しさにかまけてアトラスダムにこもりきりだったので、外出したかったこともある。
 いや、町を出た理由はそれだけではない。本のピースを集めている最中、サイラスのもとにある手紙が届いた。そこに書かれていたのは――文面に思いを馳せれば、小さなトゲが刺さったように胸の奥が痛む。彼はかぶりを振って思考を戻した。
「どうだろう、ラッセル」
「心当たりか……あるにはある。おそらく上街の一角にある製本工房だろう」
 ほう、とサイラスは息を漏らす。ラッセルは工房の場所をくわしく説明してから、苦々しい顔で続けた。
「ただあの工房は部外者に厳しい。オレも何度か製本の依頼に行ったがすべて断られた。貴族御用達だかなんだか知らんが、まともに取り合ってもらえなかったぞ」
「そうか。一応ウォルド王国の書状を持ってきたのだが、これでなんとかなるだろうか」
 サイラスは懐から手紙を取り出す。ラッセルは呆れたように腕を組んだ。
「それは行ってみないと分からんが……貴重なものをずいぶんとあっさり出すんだな」
「本の修復は王国の未来のために必要だから、とメアリー殿下が協力してくれたんだ」
「殿下、か……」
 ラッセルは口元を歪め、どこか含みのある調子で尋ねた。
「お前は相変わらず王女の家庭教師か?」
「いや、今のメアリー殿下は様々な教師に師事されているよ。私一人が教えるよりもその方がずっといいだろう」
 おそらく王女に対してサイラスが何かを教える段階はもう終わったのだ。平原の太陽とされるメアリーの知性の輝きは、もはや周囲を圧倒するほどに成長している。彼女にとって、外国から帰ってきたパウルは得難い存在になっていた。
 ラッセルはじろじろとサイラスを見やる。
「そうか。お前の生徒もさぞあちこちで活躍しているんだろうな」
「学院で研鑽を積む者、家業を継ぐ者など様々だよ。是非教師になる者が出てきてほしいところだが……」
 そこで、ふとサイラスは思い出す。このストーンガードにも一人、元教え子がいるのだ。その生徒はサイラスが旅に出る前までアトラスダムで勉学に励んでいたが、今は実家があるこの町に戻っているらしい。もし今回の滞在中に時間が空いたら訪ねてみよう、と考える。
 いつの間にか自分ばかり質問されていたことに気づき、サイラスはお返しとばかりに切り込んだ。
「キミの研究の進み具合はどうだい? 自分の書いた本を図書館に寄贈したい、という話だったね」
 ラッセルは胸を張った。
「お前にも手伝ってもらったし、準備は進めている。だが、これ以上はオレ一人でやるからな!」
 彼は各地方の歴史についてまとめた本を執筆している。サイラスは過去に一度、その材料集めに協力したことがあった。
 師匠のドミニク曰く、ラッセルはすっぱり賭けごとをやめたそうだし、勤務態度は真面目そのものだった。サイラスはほほえましい気分で言った。
「キミなら実力で夢を叶えられるさ。応援しているよ」
「ふん。もう用は済んだだろ、帰った帰った。オレは忙しいんだからな」
 ラッセルは鼻から息を吐く。十分すぎる成果を得たサイラスは言われたとおりに椅子から立ち、ふっと表情を緩める。
「今日はキミと会えてよかったよ。やはり友人と話す時間は楽しいものだね」
 何気なく放った台詞に、ラッセルは盛大に顔をしかめた。
「オレはお前を友人だなんて思ってないが?」
「え」
 間の抜けた声が漏れる。暗闇の中に一人放り出されたような気分になって、サイラスは存外に動揺した。するとラッセルは気まずそうに唇を曲げる。
「……同期とは思っているがな。ほら、土産だ」
 立ち上がった彼は棚を漁ると、巾着を取り出してこちらに放った。なんとか落とさずキャッチし、中を確かめる。暗赤色の石がいくつか入っていた。
「これは?」
「加工した火の精霊石だ。近頃ドミニクさんが寒そうにしているから手慰みにつくってみた。この地方の歴史をまとめているうちに、石の大きさを変えずに威力を高める方法を思いついてな」
「どういうことだい」
 未知の技術の登場にサイラスはわくわくする。ラッセルはどこか自慢げに鼻の下をこすった。
「エバーホルドの近くに魔剣士の祠っていうのがあるだろう、あれからヒントをもらった」
「……ルーン文字か!」
 石の表面をよく見ると、「炎」を示す古代文字が刻まれていた。
「そうだ。属性の力が宿った石に直接ルーンを刻めば、魔剣士の力の一端を扱えるんじゃないかと考えてな。まあそれは失敗作だが、手をあたためることくらいはできるだろ」
 サイラスは目を見開き、冷えた指を握り込む。ラッセルは、話の間こちらがしきりに手を擦っていたことに気づいていたのだ。
「ありがとうラッセル」
 破顔して礼を言えば、ラッセルはそっぽを向いて、サイラスを追い出すようにしっしと手を振った。
「さっさと例の製本工房に行ってこい。それで門前払いされるんだな」
 苦笑しながら居間に戻ると、オフィーリアたち二人は和気あいあいと談笑していた。すでに話は終わったらしい。サイラスはドミニクに向かって一礼する。
「ラッセルからあらかた話を聞いたよ。これから件の製本工房に行ってみようと思う」
「そうか、役に立ててよかった」
 ドミニクは情報を渡す役割をあえてラッセルに託したのだろう。おかげで同期と貴重な時間を過ごすことができた。
 オフィーリアがにこやかに提案する。
「わたしの用事もちょうど終わりました。あの、これからサイラスさんについていってもいいですか?」
 サイラスは「歓迎するよ」と顔をほころばせる。久々に会った仲間とすぐに別れるなんて不義理をするつもりはない。むしろこちらから申し出ようと考えていたのだ。
 二人はドミニクに見送られて家を後にした。外に出た途端、オフィーリアはくしゅんと小さなくしゃみをする。
「うう、寒いですね……!」
 ほおがリンゴのように染まっていた。サイラスは驚きとともに質問する。
「オフィーリア君でもこの気温は厳しいのかい?」
「はい、フロストランドとは冷え込み方が違いますから」
 彼女は手袋に包まれた腕をさすりながら気丈にほほえんだ。ドミニクの家を訪問する前よりも太陽が昇って気温は上がったはずだが、それでも露出した肌がみるみる冷えていく。吸い込まれるような青空から、容赦なく寒気が放射されていた。
 ふと思い立ち、サイラスは先ほどの巾着を取り出す。
「ラッセルから精霊石をもらったんだ。暖を取るにはちょうどいいだろう。使うといいよ」
「まあ、ありがとうございます」
 オフィーリアは巾着を手で包み込んだ。こんなに冷えるならスティルスノウで発明されたカイロを持ってきたら良かったな、とサイラスは頭の隅で考える。
 二人は上街に向かって階段を上りながら近況を交換し合った。サイラスはバラバラになった魔術師の本を修復するという目的を含めて、ここに来た経緯を打ち明ける。
「それでサイラスさんは最近忙しそうにされていたんですね。テリオンさんもお元気そうで良かったです。しばらく会っていなかったので安心しました」
 オフィーリアはほおをほころばせる。サイラスはどきりとした。
「いや……実を言うと、私も本人には会っていないんだ」
 最後に顔を合わせたのはダスクバロウの遺跡で、その後は手紙を受け取っただけだ。手紙には、盗賊が首尾よく手に入れた本の一部が添付されていて――
「そうなのですか? でもあの人なら、きっとどこかで変わらずに旅を続けていますよね」
 屈託のない笑顔を向けられ、サイラスは無言でうなずく。
 やっとのことで上街に到着した。ラッセルから聞いたとおりに道を進む。貴族街を横目に見ながら噴水広場を抜けると、上街の端にある製本工房の前にたどり着いた。建物全体が高い塀で囲まれ、中央の門はかたく閉ざされている。
(これは手強そうだな)
 サイラスは嫌な予感を覚えながら呼び鈴を鳴らした。奥の工房から出てきたのは険しい顔の男性だ。彼は縦格子の門越しにこちらを一瞥する。
「どちらさまですか」
「アトラスダムから参りました、サイラス・オルブライトです」
 男性はわずかに眉を動かし、
「紹介状は?」
 とのたまう。サイラスはかぶりを振り、早速切り札を出すことにした。
「持っていません。ですが、ここにウォルド王国からの書状が――」
「うちは紹介状がないと仕事を受けられないんです」
 手紙を出す隙も、食い下がる暇もなかった。男性は門を閉ざしたまま工房に戻ってしまう。サイラスは小首をかしげた。
「予想以上だね……」
 オフィーリアも唖然としている。
「聖火神へのお祈りを、と申し出ても一歩も入れてもらえない雰囲気でしたね。修復技術を守るために部外者を締め出しているのでしょうか?」
「ううむ、どうだろう」
 むしろサイラスは排斥や独占に近いものを感じたのだが。
 さて、こうなると工房に入るための一番の近道は、紹介状とやらを手に入れることだ。しかし問題は山積みだった。
「困ったな、手がかりがなさすぎる。せめて紹介状の発行元が分かれば……」
 ぶつぶつ言いながら考え込むサイラスを、オフィーリアが不安そうに見つめた。彼女の伝手を頼って教会に話を聞きに行くか。そこで町の事情を探れば何かヒントが出てくるだろう。あとは酒場で情報を集めるか、もしくはやや博打になるがラッセルの言っていた「貴族御用達」の線をたどってみるか――糸口は皆無ではないけれど、二人だけで聞き込みをするにはこの町は広すぎる。十分な出張期間を王立学院に申請しているとはいえ、あまり長引かせたくなかった。
 ――と、背後で軽快な足音が響いた。
「お困りのようだな、お二人さんよ!」
 聞き覚えのある明るい声だ。二人は一瞬視線を交わし、同時に振り返る。
「その声は――」「アーフェンさん!」
 若草を思わせる上着をなびかせ、明るい水色のマフラーを首に巻いた薬師は、大きく胸を張って拙いウインクを決めた。

※続きは同人誌に収録

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