声が届かない

 宵の口、トレサは軽い足取りで故郷リプルタイドの酒場に駆け込む。
 ここは実家の取引先であり、酒を嗜まない彼女にとっても慣れた場所だ。海の男たちの喧騒の中、トレサは明日からともに旅をする予定の二人を探した。
 ――昼間は商船船長レオンだけでなく、旅仲間のテリオンやサイラスと思わぬ再会を果たした。彼らはトレサの知らぬところでしばしば顔を合わせては旅をしているらしい。それを聞いてうらやましくなった彼女が「ついていきたい」と申し込むと、あっさり受け入れられたので、あとは両親を説得するだけとなった。
 家に帰った彼女は父母に本日の出来事を一息に話して、「どうしても旅に出たい」「新たな商品を探しに行きたい」と告げた。すると、サイラスたちと何度か顔を合わせたことのある両親は「あの人たちがいれば大丈夫だ」と言って許可したのだ。
 きょろきょろしたトレサの目が酒場のカウンターで止まる。そこに紫と黒の背中が並んでいた。彼女はカウンターの向こうにいる馴染みの店主に挨拶しながら、紫色の左横に座る。夜になって冷えたのか、「彼」は見慣れた外套に加えてマフラーまで着込んでいた。
「お待たせ、テリオンさん……どうしたの?」
 盗賊はむすっとした顔で前を向いてエールを飲んでいた。気配に敏い彼がトレサに気づかないはずはないので、わざとだろう。
「遅い。おかげでこんな有様だ」
 とテリオンは苦い顔で言い、自身の右隣を指差す。そこにはサイラスがいて、熱心に本を読んでいた。彼は自分が話題の中心になっても、一切反応する気配がない。すべてを察したトレサは両手を合わせる。
「あー……ごめんっ!」
 おそらく二人は食事を終えた後、酒を飲みながらトレサを待っていたのだろう。しかし、そのうちにサイラスが本を開いてしまった。彼は隣家の火事にも気づかなかったという逸話があるくらい、読書や考え事に集中してしまうたちだ。そのためテリオンは一人で杯を干すしかなかった――
(あれ? でもこういう時、テリオンさんなら勝手にどこかに行きそうだけど……)
 何か理由があって席を外せず、その鬱憤をトレサにぶつけたというところか。
 テリオンは目を眇め、大きくため息をつく。伸ばしていた前髪が短くなったため、左側に座っても彼の瞳が見えた。トレサは左目にうっすらと走る傷跡をつい凝視してから、やっと本題を思い出した。
「あのね、父さんと母さんから許可をもらったわよ。テリオンさんたちと一緒なら安心できるって」
「本当かよ」とテリオンは大げさに肩をすくめる。
「もちろん。みんなのことは父さんたちにいっぱい話してきたし、ばっちり信頼されてるんだから」
 テリオンはなおも疑わしい目でエールを傾けたが、反論はしなかった。トレサは少し前のめりになって、サイラスの横顔を覗き込む。
「サイラス先生にも報告したかったけど……無理そうね」
「適当なタイミングで俺が宿に連れて行く。トレサは今日くらいは家で休んだらいい」
「そうするわ。読書、しばらくかかりそうだし……」
 サイラスはまだ中盤を読んでいるようだ。これだけ近くで話していても本から顔を上げないあたり、相当集中していた。彼は時折ページをめくっては、左の手を酒に伸ばす。飲んでいるのはグラスに入った白ワインだった。トレサはカウンターとの間に挟まれた表紙をちらちら見る。
「どんな本なんだろ?」
「確か東方の風土についての話だったか……レオンの船から買い取ったらしい」
「へええ。それにしてもすごい集中力よね。お酒が入れ替わっても気づかなさそう……」
 トレサが感心しながら言うと、テリオンがふっと笑った。
「……試してみるか?」
「え?」
 瞬きするトレサの前で、彼は片手を挙げてバーテンダーを呼び、何かを注文する。出てきたのは赤ワインだ。グラス自体はサイラスの持つものと同じ型である。おかげでトレサにも企みが把握できた。
 読書の合間にサイラスが白ワインを持ち上げ、くいと飲んだ。その整った形の指がグラスから離れた時、すばやくテリオンの手が動く。
 白と赤、二つのグラスは音もなく入れ替わっていた。トレサが固唾を飲んで見守る中、サイラスは何食わぬ顔でテリオンが注文した赤ワインを喉に流し込む。そして――無反応のまま読書を続けた。
「ほ、本当に気づかないのね……!」
 驚くトレサに対し、テリオンは何故か苦い顔をしていた。いたずらが成功したというのに、どこか不満げだ。それを気に留めながら、トレサはつい言葉を挟む。
「サイラス先生ね、本を読んでたらお隣の家が火事になっても気づかなかったんだって」
 説明してから、ふと違和感を覚えた。何故なら初めてこの話を聞いた時と違って、今のトレサはサイラスの住む家を知っているのだ。
 テリオンの緑の両目にきらめきが宿る。
「ほう……なら試してみるか」
 不穏な発言をした彼は、右の人差し指に火を灯した。トレサはぎょっとした。
「ちょっと、テリオンさん! ここお店よ」
「煙草の火と似たようなもんだろ」
 だが、テリオンが少し気合を入れたらこの炎は何倍にも膨れ上がるのだ。トレサは彼が鬼火で敵を焦がすさまを何度も見てきた。嫌な予感がする。
「もしかしてテリオンさん、結構酔ってる……?」
 顔色自体は普通だが、息が酒くさい。彼は答えず、唇の端を吊り上げた。そのまま指先をサイラスの横顔に近づけていく。
(さすがにやりすぎよ……!)
 氷結魔法を使ってでも火を消さねば、とトレサが慌てて集中に入ろうとすると、
「テリオン。危ないよ」
 静かな声とともにテリオンの手首が掴まれた。
 サイラスだ。彼はいつの間にか本から目を離し、まっすぐにテリオンを見つめている。ひゅっと鬼火が消え、トレサは息を呑んだ。
「……酔いがさめたな」
 テリオンは無表情で手を振り払うと、リーフをカウンターに置いて立ち上がった。トレサが追いかけようとして席を立った時には、すでに扉の向こうに消えている。
「もう、テリオンさんってば! サイラス先生ごめんね」
 空席を挟んで頭を下げれば、紫の背中を見送ったサイラスが視線を戻し、目を丸くした。
「おやトレサ君。ご両親とは話がついたんだね」
 思わず脱力しそうになる。そこから説明しなければならないのか。「もしかして、読書している裏でちゃんと話を聞いていたのかも」という予想は外れたらしい。
 彼女は頭を縦に振る。
「う、うん。旅立ちの許可はもらったわ。あのね先生……さっきのいたずら、怒った?」
「いや、怒ってはいないが……酒場で鬼火を使うとはね。テリオンも酔っていたのだろう」
 サイラスはパタンと本を閉じる。表情も抑揚も平静そのもので、怒っていないのは本当のようだ。一方でトレサは首をかしげる。
「でもなんで鬼火に気づいたの? お酒が入れ替わったことは分からなかったのに……」
 ひとつ瞬きして、サイラスは天板の上に視線をやった。そこには中途半端に残った白と赤のワインがある。
「本当だ。これもテリオンの仕業なのか」
 彼は白のグラスを傾けて中身を空にしてから、しれっと言う。
「どうして鬼火に気づいたのか、という問いだったね。さすがに温度で分かるよ」
「ええ? でも、前にお隣が火事でも気づかなかったって言ってたわよね」
「よく覚えていたね。実はそれで反省したんだよ……」
 サイラスは目を伏せた。失礼ながら、「反省」とは彼にしては珍しい発言だ。トレサは驚きつつも畳み掛ける。
「あのね先生、あたしは最初それを聞いた時、先生は一人暮らしなのかなって思ったの。でもそうじゃないのよね」
 そう、サイラスの家には血のつながらない家族がいることを、トレサは旅の途中で知った。隣家が火事になった時も、おそらくあの老婆はサイラスと一緒に暮らしていたはずだ。果たして学者はうなずいた。
「あの日、彼女はたまたま外出していてね。そして帰宅と同時に火事に気づいて……それなのに私が部屋で本を読んでいたから、それはもう真っ青になってしまって」
 トレサは老婆の気持ちを想像してぞっとした。窓からは火が見え、黒い煙が立ち込める中、熱心に本を読み続けるサイラスを発見したらどう思うのか――
 彼はかぶりを振る。
「隣家とは距離があったから私の家は焼けなかったし、なんとか二人とも無事に避難できたよ。それ以来、火事にだけは気をつけようと思った」
 その結論にトレサはきょとんとした。
「火事だけ……ですか?」
「ああ。だから先ほどの鬼火にも気づけたんだね」
 サイラスは唇をほころばせ、なぜだか自慢げに言った。しかし、老婆を心配させないための配慮としてはいささかずれている。他の危険だってたくさんあるのに、感覚を絞りすぎではないか。トレサは眉をひそめ、空になったグラスをつつく。
「先生、お酒に混ぜ物とかされないように注意してね……?」
「うん? ああ、もしやテリオンはそれを気にして待っていたのか。トレサ君のことは私が迎えるから先に宿に戻ればいい、と言ったのだが。これは悪いことをしたな……」
 そうつぶやきながら、サイラスは赤い液体もするりと飲み干す。
 なるほど、酒を入れ替えた時のテリオンが妙に不機嫌そうだったのは、「グラスに毒でも入れられたら」と想像したからだろう。
 それなのに、テリオンはその懸念を素直に本人に訴えなかった。トレサがいなければサイラスには何も伝わらないままだったのだ。
(やっぱりこの二人だけで旅をさせるのは心配ね……!)
 彼女は「あたしがなんとかしなくちゃ」とひそかにこぶしを握る。両親はサイラスたちに娘の面倒を見てもらっているつもりだろうが、実際は真逆だということは、さすがに黙っておこう。

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