子連れオオカミ 薫陶編

 視界の端で何かが動いた。
 テリオンはその正体を判じる前に、鞘走りの音を立てて太ももにくくりつけた短剣を抜く。片足を軸にして体の向きを変え、動きのあった茂みをにらみながら、空いた片手を水平に出した。
「下がってろ」
 現在の同行者である子どもは小さくうなずいてテリオンの背中に隠れる。
 彼らがゆくウッドランドの森道は背の高い木々に囲まれており、死角が多い。まっすぐ伸びた幹の向こうに、ねずみの亜人ラットキンでも隠れていたのかもしれない。テリオンは姿勢を低くして観察を続けた。
 静止した景色の中で、風も吹いていないのにざわりと枝が揺れた。背後で子どもが息を呑む。
「うごめく樹木……!」
 道すがら、テリオンはこのあたりに棲む魔物の特徴を軽く説明していた。子どもはそれを覚えていたのだろう。名の通り木に擬態している魔物で、こちらが油断しているうちに距離を詰めるという厄介な性質を持つ。テリオンの記憶ではここから少し外れた地域に生息していたはずだが、住処を移動してきたのか。
 魔物は根を足のように動かして、みるみるこちらに近づいてくる。敵が三体、横一列に並んでいることを確かめた時、すでにテリオンの準備は完了していた。
「……火炎よ」
 戯れにそうつぶやけば、真ん中の幹に火が灯る。小さな炎はまたたく間に広がって、魔物は苦しむように身をよじった。
 炎はせいぜい鬼火の威力で、いつか見た大魔法には遠く及ばない。当たり前か、とテリオンは大して落胆もせずに駆け出した。
 大股で地を蹴りつつ、短剣から斧に持ち替える。森道をゆくにあたって予めフロストランドで仕入れてきた武器だ。黒焦げになった真ん中の魔物はいつの間にか逃げ出していた。そのためテリオンは左の一体に向かって斧を打ち込む。乾いた音がして刃が半分ほど幹にめり込んだ。手応えはあったが、相手を絶命させるには至らない。
 魔物がテリオンめがけて枝を振り下ろす。テリオンはジャンプで避け、刺さった斧を押し込むように足で蹴りつけた。バキバキと木が裂ける音がして、幹が倒れていく。
 これであと一体。気づけばあたりは静かになっていた。魔物はどこへ――
「テリオン、後ろ!」
 子どもの声を聞いたテリオンはとっさに腰の鞘から長剣を抜き、逆手に持って脇の下から背後に突き出した。強い衝撃があって何かを貫いたことが分かる。柄を握ったまま体を反転させれば、刀身は最後の一体の幹に突き立っていた。彼は武器の切っ先に意識を集中させる。
「燃えろ」
 刀身を伝わった魔力が幹を炎上させた。発生器官を持たない魔物は悶えるように枝を振り回してから、力尽きて倒れた。巻き込まれた他の木が悲鳴を上げる。
 散った木の葉が地面に落ちる頃、今度こそあたりが静かになった。子どもが駆け寄ってくる。
「テリオン、怪我は?」
「ない。お前はどうだ」
「大丈夫だよ」
 子どもはにこりと笑う。フロストランドからここまで来る間に、こういうやりとりにもすっかり慣れた。テリオンは魔物に刺さっていた二つの武器を回収する。その横で子どもが黒ずんだ幹を足でつついた。
「さっきのって鬼火だよね。他の木は燃えないんだ」
「そういうふうに使ったからな」
 そもそも、誰かと違ってテリオンの魔力では森を火事にすることなど不可能だ。子どもは小さな頭を傾ける。
「鬼火も魔法なんでしょ? ちゃんと制御してるんだね」
「そうだな」
 短く答えたが、魔法の定義についてはよく知らない。うるさい学者の説明などほとんど聞き流していたからだ。
 プラムやリーフを隠し持っていないかと魔物の死骸をあさっていると、子どもがそばに来てじいっと視線を注いできた。仕方なく作業を中断すれば、子どもは決然と唇を開く。
「……僕も戦いたい」
 テリオンははっきりとため息をついた。
「魔法は教えられんぞ」
「そうじゃなくて、剣がいいんだ」
 子どもはテリオンの太ももについた短剣を指差す。少し驚いた。この子どもが剣を持っている姿なんて想像できない。
「……理由は?」
「いつまでも隠れてるばっかりじゃやだよ。僕も手伝う!」
 眉根を寄せて頑固に主張してくる。もしや、戦闘中に何もすることがなくて不満なのか。テリオンとしても、子どもが自分の身くらい守れるようになってくれたらありがたい。だが――
「お前はそんなことしなくていい」
 テリオンは反論を封じるべく外套を翻した。さっさと街道に戻り、再び南を目指して歩き出す。
 しばらくゆくと、小さな足音が諦めたように背中を追いかけてきた。テリオンは少し歩調を落として子どもの横に並んだ。子どもの黒いくせ毛が歩行に合わせてひょこひょこと揺れている。
「今日中にシ・ワルキに行くからな」
「そこにもテリオンの仲間がいるの?」
 話題を変えれば、子どもは途端に興味を移したようである。テリオンはそうだ、とうなずいた。
 この子どもとはフラットランドで出会った。川の岸辺に倒れていた彼をテリオンが偶然発見し、つい拾ってしまったのだ。子どもは身の上を語らず、テリオンがよく知る誰かと同じ名前――サイラスと名乗った。
 この突然できた連れ合いを、テリオンはフレイムグレース大聖堂にいるかつての仲間オフィーリアに預けようと考えた。が、紆余曲折あって失敗したので、今は他の仲間や知り合いに同じ交渉をするつもりで、こうして旅をしているのだ。目的については子どもにも大まかに伝えている。
「ねえ、その仲間ってどんな人?」
 子どもの青い目には好奇心のきらめきが宿っていた。黙っているとどんどん追及が厳しくなることは分かっているので、最低限の説明はする。
「女の狩人だ。黒き森の一族だかなんだかで、魔物と通じ合えるらしい」
「あ、それ知ってる。本で読んだことあるよ。本当にいるんだ……」
 子どもは嬉しそうにほおを持ち上げた。なるほど彼はテリオンよりもはるかに教養があるらしい。ますます身元が気になるところだ。一応、オフィーリアにフラットランド付近でそれらしき迷子がいないかを調べてもらっているので、うまくいけば連絡があるだろう。
 ちなみに、テリオンは今ハンイットが故郷の村にいるかどうかを把握していない。彼女は狩りの依頼を受けて長期間外出していることも多かった。だが、彼女がいなくても村の誰かに言付けを頼めるし、何よりも宿で休むことができる。屋根のある暮らしのありがたさは、歳をとるに連れて実感してきたところだ。
 今回は子どもの歩調に合わせて移動しているので、予定より二日も長く森をさまよっていた。豊かな土地だから水や食料は現地調達できるが、旅慣れない子どもはそろそろ人里が恋しい頃だろう。
「だから、少し急ぐぞ」
「うんっ」
 と威勢よく答えたものの、子どもの足は遅れがちになった。
 街道といっても石畳が敷かれているわけもなく、草を刈って踏みならした土の道が続くだけだ。時折道には木の根が張り出していて、小さな体だと乗り越えるのも一苦労である。人の往来が少ない箇所は道が藪に侵食されていることもあった。だいたいはテリオンが切り払うものの、子どもは少し丈の長い草むらにすら足を取られて消耗してしまう。
 だが、テリオンはもう彼を甘やかさないと決めていた。子どもも弱音は吐かなかった。休憩だけはしっかりとったが、歩くペースはどんどん落ちていく。最終的にテリオンが「日暮れに間に合わないなら背負って行くぞ」と脅したが、子どもはそれも拒否した。仕方がないので子どもの分の荷物だけ引き受けて歩を進めた。
 太陽が針葉樹の向こうに隠れた頃、シ・ワルキに到着した。森の中にしては開けた土地で、人の営みを示すようにそこかしこに松明が焚かれている。テリオンは物珍しさに立ち止まった子どもの手を取って――万一にも人さらいに見えないよう、無理に引くことはしなかった――目的地を目指した。
 小さな村だが、メインの街道からさほど外れていない立地のおかげか、ささやかな宿があるのだ。テリオンはその扉を開けた。
「夜分にお疲れさまです」
 入って正面のカウンターにいた男の従業員は、子どもの姿を認めて笑顔になる。一人旅時代のテリオンは、こんな歓待を受ける未来など想像すらしなかった。
「二人で一部屋、とれるか」指を立てて提案する。
「ええ、角の部屋が空いていますよ」
「すぐ入りたい」
 コインを多めに出してカウンターに載せれば、従業員は必要な分だけ拾ってうなずいた。
「ご用意します」
 従業員が部屋を準備する間、子どもはロビーにあった長椅子に座ってぐったりしていた。眠いのだろう、しきりに目をこすっている。そのうちに従業員が部屋から戻ってきた。
「こちら、鍵です。ごゆっくり」
 受け取ったテリオンが「ほら行くぞ」と声をかける前に、子どもは自力で立ち上がった。廊下の突き当たりでテリオンが扉を開けてやると、子どもはふらふらと中に入り、近くにあったベッドに寝転がって、そのまま目を閉じた。
「おやすみ……」
 律儀にも一言残して眠りに入る。やはり子どもにこの距離を歩かせるのは無茶だったか。明日も疲労でろくに動けない可能性が高い。
 テリオンは荷物を放り出し、一息ついた。室内にはどこからともなく湿った夜気が忍び込む。これから気温が下がりそうだと考え、外套を脱いで子どもにかけてやった。備え付けの掛ふとんは子どもが体の下に敷いてしまって、動かせないからだ。
 静かに上下する布を眺めながら、これからすべきことに思いを馳せる。
(薬師にガキの足を診せたいが……この村にいるのか?)
 加えて、今晩の食事を確保したかった。人里に着いたからにはあたたかいものを食べたい。この村に酒場があることは把握しているので、そこで出来合いの料理でも注文するか。そう考えて部屋に鍵をかけ、外に出た。治安はいいので子どもを一人で残しても問題はない。むしろ村人たちの好奇の目を心配すべきだろう。
 ハンイットの家の場所は知っている。が、もう夜なので明日訪ねることにした。テリオンは静まり返った暗い村を横切り、酒場に直行した。
 扉を開けると、酒精のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐった。だが「飲みたい」という気分にならないのが不思議だった。やはり疲れているせいか。テリオンは人影のまばらな店内から、バーテンダーのいるカウンターに視線を向けて――片目を見開いた。
 カウンターの前に、見覚えのある広い背中が座っていた。いつもと違って毛皮を肩にかけていないためか、記憶よりも少し細く見える。その足元で、青みがかった灰色の毛並みを持つ魔狼がテリオンに気づき、低い声で吠えた。
「ハーゲンどうした? ……おっと、お前は確か」
 足元の相棒から顔を上げた初老の男が、目を細める。
「テリオンだ。あんたはハンイットの師匠だな」
 名乗りながら近づいていく。まともに話したことはないが、面識くらいはあった。相手はザンターという凄腕の狩人だ。一時期行方不明になっており、仲間のハンイットは彼を探して旅に出て、テリオンたちと出会った。
 ザンターも記憶を探り当てたのか、膝を打ってうなずいた。彼の前のカウンターには簡単なつまみと度数の強そうな酒が置かれている。
「そうだそうだ、俺の弟子の仲間だ。久しぶりだな。どうしたこんなところで」
「ちょっと用事があってな」
「今ハンイットはいないぞ」
 即答され、テリオンは言葉に詰まる。師匠だけが村にいるのは何故だろう。ザンターは疑問を察したのか、遠い目をした。
「そろそろ俺とあいつの仕事量が逆転しそうでな……。また聖火騎士からの依頼だってよ」
 テリオンはごく自然にザンターの隣の席に座った。静かにこちらを見つめる魔狼と目が合う。昔テリオンとともに旅したことを覚えているのだろう、ハーゲンの黒い瞳が挨拶するように瞬く。
「あんたにはハンイットよりも重い仕事が回ってくるんだろ」
 テリオンが指摘すると、ザンターは苦笑した。
「そうそう、もう他じゃ手がつけられないような厄介な獲物ばっかりだ。……ところで、飯でも食うのか?」
「ああ。宿に待たせてるやつがいる」
 バーテンダーに二人分の食事を頼んだ。出来上がるのを待っている間、ザンターに質問する。
「この村に薬師はいるか」
「あいにく専門はいないが、真似事くらいなら俺ができるぞ。怪我人の手当てか?」
 村の規模からすると、狩人が薬師を兼任しているのも納得だ。テリオンは子どもの具合を相談することにした。
「連れが足を痛めたようだ」
 どこまで話すべきか迷いつつ、かいつまんで事情を説明した。ハンイットたちと別れてずいぶん経ってから、見知らぬ子どもと出会って一緒に旅をしている、と。
 ザンターは目を見開く。
「道理で雰囲気が変わったと思った。なるほどねえ……」
 彼は微妙な角度に口の端を上げ、あごひげをなでる。どうもテリオンには居心地の悪い雰囲気だ。たまたま子連れになってから、こういう生暖かい視線にさらされることが増えた気がする。
「よし、後で宿まで見に行ってやるか。その坊主は寝てるんだろ? お前はここで食っていけよ」
 ザンターに背中を叩かれたタイミングで、黒パンにチーズ、野菜のスープといった簡単な料理が出てきた。エールの気分ではなかったので飲み物は炭酸水だ。どれも素朴な調理法だが、素材がいいのか味わい深かった。パンを一口食べて空腹に気づき、次々と他の料理にも手を伸ばしてしまう。
「それは俺が狩った肉だ。心して食えよ」
 スープに浸かった塊肉を指さしてザンターが言った。テリオンは目をすがめる。
「ハンイットはあんたみたいな押し付けがましいことは言わなかったな」
「はは、そうだろうよ。あいつは俺と違って真面目だから」
 ザンターは笑いながら弟子を自慢していた。
 テリオンは程なく食事を平らげた。宿にいる子どもの分は、ザンターの口添えのおかげで食器ごと貸してもらえた。
 ハーゲンだけ先に狩人の家に帰し、二人で宿に戻る。ロビーを通る時、従業員が「ザンターさんのお知り合いなんですね」と笑顔で声をかけてきた。この狩人は村で慕われているのだ。
 テリオンが角部屋の鍵を開けると、ザンターは遠慮なく中に入っていく。
「邪魔するぞ。……お、よく寝てるな」
 彼はベッドの上で小さく寝息を立てる子どもを起こさないよう、診察をはじめた。テリオンがかぶせた外套をよけて、ズボンの裾をまくる。すると汚れた包帯が出てきた。
「この包帯はお前が?」
「そうだ」
 足が痛いと訴えるので、休憩の時にテリオンが巻いてやったものである。ザンターはしげしげとそれを見つめた。
「足首を固定したのか。捻挫した時の巻き方だな。包帯のたるみもないし、疲労回復の薬草も挟んである……なんだ、薬師いらずだな」
 どうやら褒められたようである。テリオンはふんと息を吐く。
「仲間に薬師がいたからな」
 誰彼構わず世話を焼くアーフェンの姿を見るうちに、覚えたらしい。その記憶が今になって蘇るのだから自分でも不思議だ。
 ザンターは小声で笑った。
「ああ、ハンイットもよく言ってた。全然代金をとらない薬師が仲間にいるって。前会ったあの酒好きのあんちゃんだろ? 腕は確かだって聞いたな」
 仲間たちは一度、ザンターを交えて酒を飲んだことがあった。あの時はあまりに大人数が入り乱れていたので、テリオンは詳細を覚えていない。
 ザンターは大きくうなずいた。
「これなら包帯を取り替えて、安静にしてたら大丈夫だろ。とにかくよく休むことだな」
 近くで会話しても子どもが起きる気配はなかった。夕食のスープは放置すると腐るのでテリオンが腹に収めるとして、それ以外のパンなどは備え付けの机の上に置いておく。子どもが夜中に空腹を感じて目覚めた時の備えだ。食器は明日酒場に返せばいい、とザンターは言う。
 家に帰る彼を見送るため、二人で廊下に出た。部屋の扉を閉めた途端、ザンターがにやりとする。
「どうだ、弟子をとった気分は。かわいいだろ?」
「あいつは弟子じゃない」
 力強く否定した。ザンターは事情を知っていてわざとこんなことを言っているのだ。テリオンは反撃すべく口を開いた。
「ハンイットはどうしてあんたの弟子になったんだ」
「え? ああ、あいつの両親に託されたんだよ。それに黒き森の狩人としての才能があったからな」
 ハンイットの胸元には二つのリングが吊るされている。亡くした両親の形見だ、と言って彼女はそれを大事にしていた。ザンターとは親世代からのつながりだったのか。
 そこではっと思い当たる。ザンターとテリオンは「血のつながらない年下の面倒を見ている」という点では似た境遇にあった。だからザンターもふざけた質問をしたのだろう。まさかこんな形で彼との共通点ができるとは思わなかった。
 宿の玄関での別れ際、ザンターが指を立ててこう提案した。
「そうだ。お前はこれからしばらくこの村にいるんだろう。その間、俺の手伝いをしないか」
「手伝い?」
「もちろん狩りだ。ハンイットとも何度かやったって聞いたぞ」
 確かに狩り自体は経験があるが、発言の意図が分からず、怪訝な気持ちで見返す。
「そのかわり、俺があの坊主に旅のコツでも教えてやるよ」
 なるほど、子どもは長旅に慣れていないとテリオンが説明したので、そんな交換条件を思いついたのか。
「そういえば、あのガキに『戦い方を教えてくれ』と言われたな」
 ぼそりとつぶやくと、ザンターは片眉を上げる。
「戦い方か……お前が教えるつもりなのか?」
「身を守る力は持っていてほしいが、前線に出てこられても邪魔だ」
 ずばり言い切る。ザンターは腕組みした。
「ふうん……とにかく狩りは引き受けてくれるんだな」
「それくらいは、別に」
 報酬を期待したわけではなく、ただ「手伝ってもいいか」と思っただけだ。
「坊主に何を教えるかは考えておく。俺は一流の狩人を育てた師匠だぞ、任せておけ」
 彼は自信満々に胸を叩いた。テリオンは漠然と嫌な予感を覚えて眉をひそめる。
 きっとハンイットなら直接言ったのだろう――師匠の「任せておけ」は不安だ、と。



 からからとグラスの中で氷が鳴る。
 酒を飲み干した後、「彼」はほっそりした指でカウンターの天板にグラスを置いた。隣にいたテリオンは、白く整った横顔を見つめる。空色をたたえた瞳が瞬き、首筋で結わえられた黒いくせ毛が肩に落ちた。
「最近、自分にはあとどれだけの時間が残されているのか、考えるんだ」
 この涼やかな声も、今は遠く記憶の中にしか残っていない。やがてはそれすら薄れていくのだろう。かつての兄弟の面影のように、うっすらとしか思い出せなくなる。
 そう、遠い遠い未来だと思っていたその瞬間は確実に来るのだ。
 テリオンはとっさに相手の腕を掴んだ。驚く「彼」に告げる。
「教えてくれ、サイラス……あんたは俺になんて言い残したんだ?」
 ぽかんと半開きになったその唇が答えを紡ぐのを、テリオンは食い入るように見つめた。
 ここは夢の中で、目の前の人はもうオルステラのどこにもいないのだと分かっていながら。



「ほら、枝に止まってるだろ。あれがカケスだ」
「へえーあれがそうなんだ。ずっと変な声がしてると思ってた」
 子どもはザンターの指差す木の上を仰ぎ見る。そこに留まる鳥が特徴的な鳴き声の主だった。次の瞬間、子どもは地面に落ちた木の実に興味を示し、「これは何?」と尋ねる。返事するザンターも機嫌が良さそうだった。一方のテリオンは嫌な夢を見たせいでいまいち気分が乗らず、つい黙りがちになっている。
 翌日の昼前になって、たっぷり寝た子どもは元気に起き出してきた。彼はテリオンを誘うために宿を訪れたザンターから話を聞き、「僕も狩りに行く」と主張しはじめた。彼に人見知りという概念はないようだった。
 ちなみにテリオンが子どもの包帯を巻き直したが、足の状態は予想よりも良かった。本人の申告どおりならある程度歩けそうだ。
 ザンターと相棒のハーゲン、テリオン、子どもの四人はシ・ワルキ近くのささやきの森に来ていた。ここは表の街道と違ってほとんど通路が整備されていないが、道に迷う心配はない。ダイアーウルフのハーゲンが獲物のにおいをたどって進むおかげだ。テリオンたちはただついていけばいい。木が密集しているためか、下生えもまばらだった。
 高い木の上からは鳥や動物の声が降り注ぐ。子どもは黒髪の毛先に木漏れ日を踊らせながら、視線を上向けた。
「ささやきって感じじゃないね。もっとうるさいかも」
「名前の由来は知らんなあ……森そのものがささやいてるんじゃないか」ザンターが思いついたように手を叩く。
「どういうこと?」
「耳を澄ませてみるんだ。聞こえてくるだろ」
 子どもは素直に立ち止まって目をつむった。ザンターはその耳に口を近づける。
「子どもは暗くなる前に家に帰れ……ってな」
「もー、からかわないでよ!」
 ほおを膨らませた子どもに小さなこぶしで胸を叩かれ、ザンターはこらえきれないように肩を震わせていた。なるほど彼は子どもの扱いが上手い。ハンイットもこうやってうまく育てたのだろう。
「で、獲物はどこなんだ」
 テリオンはタイミングを見計らって声をかけた。
「まあ待て、そろそろだ。そこの幹に痕がある」
 ザンターが指さした木肌の下の方が白っぽくなっていた。獲物が体を擦り付けた痕跡らしい。着実に近づいている証拠だ。
 子どもがぴょこりと前に出て、ザンターの背にある武器を指さした。
「獲物を見つけたら、その弓で射るんだよね」
 初めて狩りを見るのだろう、わくわくしたように声が弾んでいる。ザンターは胸を張った。
「ただ射るんじゃないぞ。狩りってのは『命を借りる』ってことだ」
「命を……?」
 子どもは瞬きする。
「森に棲む生き物はみんなつながってる。動物のフンが木の栄養になるし、若芽は生き物の食料になる。俺たちだって同じだ。朽ちたら土に還って森の一部になる」
 さすが師弟というべきか、ザンターの話はハンイットの思想を子ども向けに噛み砕いたものだった。子どもは真剣な表情で聞いていた。
「だから狩りには命を貰い受ける覚悟が必要なんだよ。まあ、坊主の保護者はそこんところよく分かってるだろうがな」
 急に話題を振られたテリオンは肩をすくめ、答えを避ける。狩人の在り方は理解しているつもりだが、あくまでテリオンは生きるために奪う盗賊だった。子どもは「へええ」と感心したようにうなずいていた。
 森に入ってしばらく経ち、そろそろ子どもの足が心配になってきた頃、ハーゲンがグルルと低く喉を鳴らした。
「……よし、いたぞ」
 ザンターの合図で全員が立ち止まる。テリオンは弓を肩から外しつつ、木々の間からそっと顔を出す。
 これまで彼は、弓という武器をあまり使ってこなかった。八人で旅をしていた頃は役割分担があり、テリオンは剣を持って前線に飛び出していくことが多かったからだ。一人旅になってからも、結局は慣れた剣に頼っていた。だが、武器の扱い自体は仲間に教わっていたので、それなりに使いこなせる自信はある。ザンターに貸してもらった弓はよく使い込まれていて、手に馴染んだ。
 獲物は大きな牙を口から生やしたイノシシだ。子どもの体重の数倍はありそうな巨体である。こちらに気づく様子はなく、地面に近づけた鼻をひくつかせてのそのそと歩いている。このあたりでは、大牙イノシシを単独で狩ると成人として認められる風習があるらしいが、あれを一人で仕留めるのは一苦労だろう。
 ふと、ザンターがこちらに視線をよこした。「やってみろ」ということらしい。
 テリオンは弓に矢をつがえ、ぴんと弦を張り、目線の先に矢じりを向けて、よく狙いをつけた。この一連の動作は以前ハンイットに叩き込まれていた。
 不意にイノシシが立ち止まる。今だ、と判断して弦を弾いた。乾いた音を立てて放たれた矢は風を切って飛び、一直線に獲物の首に吸い込まれた。
「当たった!」
 子どもが歓声を上げる。矢を受けたイノシシがうめき、体を震わせる。が、分厚い皮や肉のおかげか、体勢を崩すことはなかった。突然攻撃を受けたイノシシはパニックになり、前に向かって走りはじめる。そこに、先回りしていたハーゲンが立ちふさがった。
「行くぞ!」
 ザンターの号令を受け、テリオンは長剣を抜いた。魔狼と人間二人で獲物を挟み撃ちにする。
 今回の狩りは村の食料の確保が目的だった。ザンターは仕事が休みのときも体がなまらないようにするため、しばしばこういう狩りを引き受けているそうだ。普段は村の若い狩人が務める仕事であり、子どもの見学にはちょうどいい。
 暴れるイノシシにハーゲンが飛びかかり、首元に牙を立てる。そこにザンターが弓で追い打ちをかけ、テリオンの矢が刺さったすぐそばに新たな矢を突き立てた。その時点でイノシシは十分弱っていたが、最後の力でハーゲンを振り落とし、逃げ出そうとした。
 テリオンはすかさず肉薄し、ハーゲンの噛み跡を狙って長剣で一閃した。すっと刀身が通って、肉を断つ手応えがある。血を吹き上げたイノシシはゆっくりと横倒しになった。
「よしよし、必要以上に傷つけてないな」
 ザンターはイノシシの死骸を確認してひとつうなずいた。
 獲物はその場で解体して持ち帰ることになった。ザンターは分厚い刃のナイフを取り出して、背後に声をかける。
「坊主、やってみるか」
 狩りの間遠くから見守っていた子どもが、おそるおそるこちらに近づいてくる。彼はザンターが差し出したナイフと倒れたイノシシを見比べ、迷った末に手を引っ込めた。テリオンは呆れた。
「お前、そんな調子で『戦い方を教えてほしい』なんて言ったのか」
 剣で敵を斬るのは、死んだ動物を解体するよりももっと生々しい感触なのだ。子どもは「うっ……」と顔を歪めた。
「そう意地悪言うなよ。坊主にはまだ早かったかな」
 ザンターはからりと笑い、「見てろよ」と獲物にナイフをあてる。それからみるみるうちにイノシシを肉の塊に解体していった。軽く手首を動かしているだけなのに、面白いほど刃が通る。ナイフがよく手入れされていることに加えて、作業に慣れているのだろう。子どもは生き物がただの肉塊になっていく様子に釘付けになっていた。
 途中で「お前はどうだ」とナイフを渡されたので、テリオンも見よう見まねで切れ込みを入れた。筋肉の位置を想定しながらぐっと刃を進めると、ザンターは感心したような声を出した。
「お前、本当に筋がいいな。真似がうまいのか……。そういえばハンイットがお前の芝居を褒めていたな」
「それはやめろ」
 まったく、あの狩人は余計なことを言いふらしてくれる。耳ざとく聞きつけた子どもが目を丸くした。
「お芝居? テリオン、お芝居できるの」
 テリオンは黙秘を貫いた。教えてよ、と駄々をこねる子どもを無視して、解体した肉を革袋に詰める。臓器を抜いても一抱えはあるが、大人二人ならなんとか持ち帰れる量だ。
「よし、昼飯にするか」
 ひととおり作業を終えたザンターはそう宣言して、人数分の布包みを取り出した。受け取って包みを広げれば、少し不格好なサンドイッチが入っている。酒場でつくってもらったのかと思いきや、ザンターの手製らしい。具材は肉の燻製と、香草の類だ。
 一行は地べたに車座になって食事を取った。その横で、ハーゲンは新鮮なイノシシの肉をうまそうに貪っている。
「ハンイットがいれば、もうちょっと手間のかかったもんが食えたんだがなあ」
 ザンターはもりもり食べながら言った。あの弟子は料理が得意で、仲間にも胃袋を掴まれた者が多くいる。
 子どもは小さくパンをちぎって口に運び、やがて手をおろした。
「お前、それだけでいいのか」
 まだほとんど手を付けていないだろう、とテリオンが口を挟む。イノシシの解体現場を見て気分が悪くなったのかもしれない。子どもは土のついた膝を叩いて立ち上がった。
「うん……。僕、そのへんを見てくるね」
「ならハーゲンを連れて行けばいい」
 ザンターに言われて、一足先に食事を終えた魔狼が前に出る。子どもは魔狼と目を合わせて「よろしく!」と笑顔になった。観察のしすぎでリンデが寄り付かなくなったどこぞの学者先生とは大違いだ。
 大人だけ残されて、急に静かになる。ザンターが肉を嚥下しながらぼそりと言った。
「あの坊主、度胸があるな。もうちょっと体ができあがったら、戦わせるのも問題ないだろう」
「そんなに待っていられないらしい。今すぐ戦いたい、とうるさいんだ」
 するとザンターは声をひそめる。
「そうなるのも仕方ないな。分からないのか?」
「……どういう意味だ」
「お前の役に立ちたいってことだろ。隠れてるだけだと申し訳ないんだよ。さっきだって、多分『自分にできることは何もない』って思ったから落ち込んだんじゃないのか」
 そういうことか、と腑に落ちる。この話題に限って、妙に子どもが意固地になるなと思っていたのだ。しかしテリオンはかぶりを振った。
「別に、ガキなんだから戦いなんて見てるだけでいいだろ」
 テリオン自身はかつて「子どもだから」という理由で危険から遠ざけられたことはなかった。それなのに、あの子どもに対してはそうしてやりたいと思うのが、我ながら不可解だった。
 近頃、本当はあの子どもの方がテリオンをどこかへ導いているのではないか、と思うことがある。子どもと一緒にいると、今まで知らなかった感覚に出会うのだ。それも一度や二度ではない。
 とにかく、子どもはそれなりの地位がある家の子の可能性が高いので、下手なことはさせられない。万一の時に親に責任を問われるのはテリオンだし、わざわざきれいな手を汚させることもない。彼は子どもの意思など関係なく、自分勝手にそう決めていた。
 その時、森の奥からぎゃあぎゃあという声がした。明らかに異形の叫びだ。
「ラットキンか」
 テリオンは腰を浮かせる。子どもはまだ戻っていない。ザンターは昼食を手早く片付けた。
「ハーゲンがいるから心配する必要はないが……早めに行くべきだな」
 二人は藪をかき分け木立の間を抜けて、声の方向に急行した。
 ほどなく、小川のほとりで大きな体の亜人たちがハーゲンを囲んでいるのを発見した。立派な装飾を身につけた、ダスクバロウ周辺にいるような種である。水を求めてやってきたところでハーゲンと鉢合わせたのだろう。
(あいつがいない!)
 目の前にいるのが魔狼だけだと気づいた瞬間、テリオンは血の気が引いた。彼はラットキンたちがこちらに気づく前に、雷の速さで集中する。
「盗公子エベルよ!」
 短剣を顔の前にかざし、盗賊の守護神の名を呼ぶと、見えない鉤爪があたりを一閃した。狙ったのは、ひときわ派手な飾りを持つ群れのボスと思しき魔物だ。得物を振りかぶって今にもハーゲンに襲いかかろうとしていたラットキンは首と胴を切り離され、どさりと地面に崩れ落ちる。
 ボスの死を見届けた魔物たちは悲鳴を上げて逃げ出した。それを無視して、ザンターが相棒に駆け寄る。
「ハーゲン、あの坊主はどうした?」
 あたりを確認した魔狼が空に向かって一声吠えた。すると、近くの木の陰でがさりと草むらが動く。
「……ハーゲンが、ここに隠れたらいいって教えてくれたんだ」
 葉っぱにまみれた髪の毛をぶんぶん振りながら、旅装の少年がひょっこり出てくる。彼が指差す先には木のうろがあった。子どもの体ならすっぽり入れる大きさだ。
「はは、俺たちより教え上手かもな」
 ザンターが相棒の頭を撫でる。テリオンががくりと肩の力を抜けば、子どもは申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、テリオン……」
「別にいい。気にするな」
 しかし子どもはまだしゅんとしていた。心配をかけたことは承知しているらしい。テリオンも問答無用で奥義を放つなど、子どもの前で感情をあらわにしすぎた。どうやって相手の気をそらすか迷っていると、
「坊主、ちょっといいか」
 ザンターが子どもの肩を叩き、しゃがみこんで何やら耳打ちした。子どもは「えっ」と目を白黒させて、それからテリオンの方を見る。どことなく表情が明るくなっていた。
「おい、なんだその視線は」
「なんでもない。さ、村に帰ろう!」
 どういうわけか子どもはあっさりと機嫌を直した。ザンターは何も言わず、訳知り顔でうなずいている。テリオンは疑問を抱えたままシ・ワルキへの帰路につくしかなかった。



 結局、もう一日休んでから村を出立することになった。
 朝日の放った第一矢が緑の葉を照らす時刻に、ザンターとハーゲンが入口まで見送りに来た。
 旅人二人を等分に眺めたザンターはふっと目を細める。
「ハンイットにはお前たちが来たことを伝えておく。達者でな」
「世話になった」
「ザンターさん、ハーゲン、またね!」
 村から遠ざかる最中も、子どもは目一杯手を振っていた。すっかりザンターに懐いたらしい。
 だが、テリオンはザンターに子どもを預けるつもりはなかった。ハンイットがいれば話は別だったが、さすがに頼みづらかったのだ。
 とはいえ昨日はザンターが子どもの世話を引き受けてくれたため、テリオンも久々にゆっくりと羽を伸ばせた。こんな小さな村では盗みはできないので、惰眠を貪ったり酒を飲んだりした程度だが、それでも満足だった。
 二人はのんびりと北シ・ワルキ森道を歩き出した。向かう先はクリフランドだ。ここからは、進めば進むほど木々が減っていく。
 子どもはザンターから教わった知識を披露すべく、あちこち指さしては「その鳥の名前は」「あの植物はね……」とひたすら説明している。テリオンは適当に聞き流した。
 幸いにも街道に魔物は出なかった。テリオンは気配を消す魔法は使えないが、ある程度魔物の居所を察知して針路を変えることはできる。それが功を奏したらしい。
 歩き続けて小腹がすいてきた頃、何やら子どもがそわそわしはじめたので、休憩することにした。二人で街道のそばにあった倒木に腰掛ける。
 すると、子どもが自分の荷物から何かを取り出した。
「あのね、テリオン……これ」
 小さな手のひらで差し出したのは、骨付きの燻製肉だった。テリオンは黙って子どもを見つめ返す。
「ザンターさんに教わってつくったんだ。これからは僕もご飯つくるから!」
 子どもはほおを紅潮させ、やや緊張した面持ちでこちらを見上げている。
 どうやら、あの狩人はささやきの森で、子どもに「戦い以外でも役に立つ方法がある」と耳打ちしたらしい。そして料理を教えたのだ。子どもに食事の準備を手伝わせるのは盲点だった。
 テリオンは肉を受け取ってかじった。ちょうど一昨日狩ったイノシシの肉らしい。煙の香りが鼻の奥に広がり、獣臭さを見事に消していた。塩加減もちょうどいい。息を呑んで見守る子どもに、首肯を返す。
「うまいな」
「本当! 良かったあ……」
 子どもはほおを緩めて安堵していた。ザンターの手助けもあったのだろうが、意外と器用なのかもしれない。テリオンは歯で肉をせせりながら、
「で、これからお前が何かつくってくれるのか」
 子どもは勢い込んで答える。
「うんっ。あ、でもまだ切るのはだめだって言われたんだった……」
「ナイフも使えないのに、戦い方を教わるつもりだったのか」
「うう……」
 子どもはうつむいてしまった。
 テリオンは少し考え、自分の荷物を漁った。それから子どもの前に手を差し出す。そこにはリンゴと、鞘に入った小さなナイフが載っていた。子どもはきょとんとする。
「まずは皮むきからだ。怪我したら自分で手当てしろよ」
「……うん!」
 子どもは両手でナイフを受け取り、大事そうに胸に抱いてほほえんだ。

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