屋烏に及ぶ

 手にジョッキの重みを感じると、「酩酊したな」と思う。
 テリオンは髪を揺らして頬杖をついた。頭がぼんやりして、酒場の喧騒が遠くなる。それがなんとも心地よく、彼はまぶたを伏せた。
「おや、もう寝るのかい?」
「テリオン……酔っているんだね」
 からかうような声と落ち着いた声が交互に降ってくる。この先輩と後輩はどうも口調が似ているな、とテリオンは今更ながらに思った。もしや後輩が真似をしたのだろうか?
「まだ寝てない……」
 テリオンは気合を入れてまぶたを持ち上げた。
 目の前には丸テーブルがあり、そこに三人分の大ジョッキと、揚げた芋や焼きソーセージなどのつまみが並んでいる。左右からテリオンの顔を覗き込むのは先輩オデットと後輩サイラスだ。ここはクリフランド地方、クオリークレストの酒場である。一日の仕事を終えた鉱山労働者がたむろする騒がしい場所だが、学者二人の姿は妙に似合っていた。
 八人の旅が終わってからも、サイラスとオデットの交流は続いている。かつては十年ほど疎遠だったらしいが、サイラスが積極的にアトラスダムの外を出歩くようになったこともあるのだろう。ついでにテリオンも度々オデットと顔を合わせている。近くのボルダーフォールにいるコーデリアのもとを訪れると、その足で先輩の顔を確認する癖がついたからだ。この新たな習慣には、クオリークレストにアトラスダムと繋がる魔法陣が描かれていることも、少しは関係しているのかもしれない。
 今回はサイラスに誘われて、二人でオデットの家を訪問した。そこで研究に関する用事を済ませてから、いつものように酒場に繰り出したわけだ。「またキミと一緒に旅をしたい」――あの門の前で学者と交わした約束が今も続いていることを思えば、テリオンの酒が進むのも道理だろう。
 テリオンは半分ほど残ったエールを飲み干すべく、ジョッキを持ち上げる。かつては酒というとあくまで情報収集手段であった。町にいると真水よりも簡単に手に入る液体ということもある。その一方で「酒で前後不覚になるなど阿呆らしい」という考えも持っていたが、今では最悪寝落ちても「誰かが後始末してくれる」と分かっているので、飲みたいだけ飲むようになっていた。
「まだ、ということはこれから眠るつもりなのか……」
 と神妙な顔であごをさするサイラスは、テリオンが寝ると自分が宿まで運ぶ羽目になるので嫌がっているのだろう。いつもはこちらが散々面倒を見ているのでそのくらいは我慢しろ、と言いたくなる。
「ははは、それなら目の覚める話をすればいいじゃないか。そうだね……」
 明るい色の髪を引っ詰めにした女、オデットは豪快に笑ってからテーブルの上に身を乗り出した。
「わたしとしては、あんたの好みのタイプがサイラスに知られていたって話を深掘りしたいね」
 テリオンは危うく口に含んだ酒を吹き出しかけた。少し前、サイラスが不用意に出したその話題を、必死にうやむやにしたばかりだった。
「それは終わった話だろ」と思わず眉根を寄せる。
「わたしにとっては新鮮そのものだったからさ。喜んで掘り返すよ」
 にやにやするオデットと対照的に、サイラスは平然とした顔でソーセージをつまむ。いつ彼が不都合なことをぶちまけるか分からない。テリオンは反撃に出るべく、ジョッキの底を勢いよく卓に叩きつけた。
「いや……待て。あんたこそ、サイラスの浮いた話の一つや二つ、知らないのか?」
 やや苦しい質問だった。オデットは虚をつかれたように目をぱちくりさせる。
「まあ、あるにはあるよ。学生時代、同級生を褒めちぎるくせに相手から告白されても気づかなかったのは何回も見た。教師になってからはさらに悪化した、ってのも風の噂で聞いたかな」
「そ、そんなはずは……」
 という弱々しいサイラスの反駁は無視して、オデットはぽんと手を叩いた。
「そうだ、とっておきの話があるじゃないか。ほら……あんたの初恋だよ」
 彼女は行儀悪くスプーンで学者の胸元を示す。サイラスが目を白黒させる一方で、テリオンは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
「サイラスの……初……恋……?」
 あまりにも馴染みのない単語に頭がついていかない。酔いが吹き飛びかねない話だった。
 一人呆然とする彼を置いて、先輩と後輩は仲良く会話を進める。
「覚えてるだろ? あんたが学院に入ってすぐのことだよ」
「ええと……あの話か。そうだな、酒の肴に披露してもいいね」
 サイラスは余裕そうに微笑してゆっくりと杯を傾ける。まったく、他と同じ形のジョッキなのにこうも優雅に持ち上げられるのか――と関係のないことを考えてしまうほど、テリオンは混乱していた。
 果たしてそれは自分が聞いてもいい話なのだろうか? それを知れば、サイラスに抱く印象が決定的に変わってしまうことはないか。ほとんど恐れのような感情に襲われて、テリオンは絶句した。
(そもそもこいつは他人から向けられる気持ちに気づけても、恋なんて自覚できたのか?)
 少し前にストーンガードで起こった事件については、サイラス本人や仲間たちから詳細を聞いた。その時の学者は生徒の恋心を察した上で、深い仲にはなれないときっちり断ったという。つまり、テレーズの件は別として、相手の好意に気づく土壌は持っているのだ。
 もしやそれは、過去にサイラス自身が似たような感情を抱いたことがあったからなのか。
「さてどうする」というようにオデットは卓の上で手を組み、その上にあごを載せた。なんだか腹が立つ仕草だ。
 やがて覚悟を決めたテリオンは喉を鳴らしてエールを嚥下すると、空いた手で己の膝頭をぎゅっと掴んだ。衝撃に耐えるための体勢だ。
「わかった……聞かせろ」
 サイラスはいいよ、と軽く答え、ほほえみながら口を開いた。



(さて、予習の時間だな)
 アトラスダム王立学院に入学したばかりのサイラスは、その日の授業が終わると、目いっぱいに本を入れた鞄を肩から提げて王立図書館に向かった。
 学院で行われる講義に際しては、科目ごとに教科書というものが指定される。教師自身が記したものか、もしくは別の学者が書いた本だ。教師一人に対して生徒は多数いるため、限られた授業時間では細やかな配慮が難しい。よって講義は基本的に教科書の該当箇所を読みながら進むのだ――とはテリオンに向けた説明である。
 教科書は購入する必要があるので、学院生活には何かと金がかかった。先輩などから譲ってもらう者もいるそうだが、新品を使いたいサイラスは、幸い懐にも余裕があったのですべて購入していた。
 真新しい本を抱えた彼が図書館へ駆け込むと、すれ違いざま入口の衛兵に目礼された。「もはや第二の家だね」とオデットにからかわれるくらい通いつめていることもあって、すっかり顔を覚えられたのだ。
 その日、彼は地理学の教師に指定された本を閲覧机の上に広げた。大判の紙面にはオルステラ大陸の詳細な地図が鮮やかに描かれており、彼は瞬く間に内容にのめり込む。
(ん……?)
 が、途中で頭の片隅に違和感を覚えた。
 次回の講義の範囲を読み終える頃には、すでに日が暮れかけていた。いつしか明かりの灯った閲覧室で、宙に舞うかすかな埃のきらめきを目に入れながら、彼は本を閉じて表紙を確認する。そして息を呑んだ。
(やっぱり……!)
 サイラスは急いで本と筆記具をしまうと閲覧室を飛び出し、入口にいた衛兵に挨拶してから、短い街路を駆けて再び学院に舞い戻った。
 本日の授業はすべて終了しており、学院の玄関ホールは閑散としていた。この時間まで居残っているのは、教師陣や研究室を持つ学者たちだけだろう。
 明かりの揺らめく廊下を早足で進む。サイラスはたまたますれ違った学友に呼びかけられても軽く手を挙げるのみにとどめ、ひたすら奥の部屋を目指した。
 やっとたどり着いた先で扉をノックして、返事も待たずに勢いよく開ける。
「先輩……オデット先輩!」
 サイラスは息せき切って部屋に駆け込み、主を呼んだ。
 研究室では、資料や本が棚からはみ出して床にまで散乱していた。サイラスの自室もかくやという有様である。床に直置きされた本の間を縫って奥に進もうとした彼は、足元に赤い精霊石の破片を見つけ、慎重に拾い上げて棚に戻す。不用意に刺激して暴発させたら大変だ。
 カーテン越しに差し込んだ陽光が壁をオレンジに染め上げる時刻だった。照明はついておらず、室内にも宵闇が迫っていたため、サイラスは本の山の上にあったランタンに手をかざして魔力を注ぎ、さっと火を灯した。
 部屋の主はというと、こちらに背を向けて机に突っ伏していた。肩にローブをかけた彼女は、サイラスの気配を感じたのかゆっくりと起き上がる。
「ふあ……なんだ、サイラスか」
 オデットが椅子の上で腰をひねり、こちらを視認して言った。ほおに腕の痕が残っているので居眠りしていたのだろう。彼女は迷惑がる様子もなく、椅子に座り直した。
「そんなに必死に呼んで……わたしから貴重な睡眠を奪うほどの用事だろうね」
 ああ、とサイラスは自信を持ってうなずき、空いた椅子を引き寄せて座る。二人の視線の高さは揃っていた。オデットと出会ってから早幾年、すくすくと育ったサイラスが彼女の背丈を追い越すのはもう時間の問題だった。
 彼は先ほどからずっと頭にあった疑問を――否、感動を口にする。
「気づいたんだ……ほら、この本はすべて同じ人物が書いているんだよ」
 サイラスは鞄をあさり、地理に歴史、算術、文法の教科書を差し出した。その表紙に記された著者名を見て、オデットは片眉を上げる。
「ああ、この著者か」
「知っているのかい?」サイラスは思わず前のめりになる。
「わたしが学生だった頃……十年前の時点で教科書によく取り上げられてたね。定番の本なんだよ」
 日々めまぐるしく変わっていく学者の世界においても、古びていない知識が記されているというわけだ。きっとこの本に影響を受けた学者もたくさんいるだろう。サイラスはこみ上げる興奮をなんとか抑えて問う。
「そうだったのか。私はこの著者がどのような人物か知りたいんだ。軽く調べてみたが、名前以外はほとんど分からなかったんだよ」
 オデットは頭をぶるぶる振って眠気を飛ばし、面白がるように口の端を吊り上げる。
「へえ、珍しいね。あんたがそこまでご執心とは」
「まあ、ね」
 サイラスは神妙な顔でうなずいた。
 複数の教科書を読んで気になった記述、知らない知識、新しい考え方――それらをすべて同じ著者が書いていた。この上ない謎を見つけたサイラスは、もう気になって仕方がなかった。
 彼の真剣さを汲み取ったのだろう、オデットは茶化すことなく相槌を打つ。
「わたしの聞いた噂によると、著者はこの学院出身の学者らしいね。わたしが来るよりもずいぶん前にいなくなったそうだが。今の学長も知っているかどうか……」
 広範な知識をあらゆる読者に向けて分かりやすく記したこれらの本は、新学長イヴォンの方針とは間逆の思想によって書かれていることは明白だ。おそらくイヴォン本人を探っても何も聞き出せないだろう。むしろ、イヴォンの圧力によって教科書への採用率が下がる可能性すらあるが、そうなっていないことからもこの本の重要度が伺える。
(一体どんな人が書いたんだろう?)
 頭を悩ませるサイラスに対し、オデットは朗らかに笑って足を組む。
「で、あんたはその著者について知って、一体どうしたいんだい?」
 心臓が小さな音を立てる。彼は力なくかぶりを振った。
「……分からない。だが、この人からもっといろいろなことを教わりたい、とは思っているよ」
 叶うならば直接会ってみたい、という言葉は飲み込んだ。自分でもらしくないほど飛躍した願望だと分かっているからだ。
 オデットは机の上に肘をついた。
「ふうん。それで、駆け出し学者君はどうやって探るつもりかな」
 表紙に書かれた著者名を熱心に眺めながら、サイラスはきっぱりと断言する。
「学院内で聞き込みをしようと思う。あとは図書館に行って、片っ端から同じ作者の本を探すよ」
 泥臭い方法だが、それしかなかった。サイラスですら読み切れていないあの図書館の蔵書なら、何か手がかりがあるかもしれない。
「まあ、やってみるといいさ。わたしも知り合いに話を聞いておく」
 オデットは興味をなくしたように机に向き直ると、背中越しにひらひらと手を振った。論文の締め切りに向けて、これから夜を徹して作業するのだろう。
「ありがとう、先輩」
 今度お礼に研究の手伝いをしよう、と心に決めて部屋を後にした。
 こうしてサイラスはしばらくの間、自由時間のほぼすべてをその著者を探ることに捧げた。
 若くして図書館通いの長い彼だが、特定の作者を意識して読む行為は初めてだった。今まではひたすら乱読するか、もしくは複数の著者をあたって一つの分野を深掘りする傾向があったからだ。
 この偏った読書により、思わぬ副次効果があった。会ってもいないのに著者の人格がだんだん見えてきたのだ。几帳面な文体からうっすらとその思想が立ち上ってくるようだった。それはサイラスがかたく信じる、知識はより多くの人に分け与えるべきという概念そのものだ。だからこそ、この著者に強く惹かれたのだろう。
 一方で、学院における聞き込みはうまくいかなかった。本の奥付からすると、この著者はサイラスたちよりも数十ほど歳上であり、今もどこかで生きている可能性が高い。だから顔見知りくらいは学院にいるだろうと思ったのに、空振りだった。
 数日経って、サイラスは消沈を隠しきれないまま再びオデットの研究室を訪れた。
「あんたが徹底的に探ってもだめか……。何か事情があって痕跡を消したのかもしれないねえ」
 ちょうど論文の締切を超えたのか、多少こざっぱりした姿で出迎えたオデットは、本の数が半分ほどに減った机に頬杖をついて考え込む。
 その可能性はサイラスも考慮していた。例の著者は立つ鳥跡を濁さず、きれいさっぱり消えてしまったのだ。
(どうしてだろう)
 学院に嫌気がさしたのか。もう会う手段はないのだろうか――
 そう考えた途端、胸が鈍く痛んだ。彼はその感覚をうまく言語化できず、黙り込む。
 舞い降りた沈黙を破るように、オデットがごそごそと机の上を漁った。
「わたしの方も大した手がかりはなかったんだが……唯一、これを見つけたんだ」
 眉根を寄せるサイラスの眼前に差し出されたのは、よく使い込まれてくたびれた様子の本だ。表紙には「輝ける知識」というタイトルが記されており、その下に例の名前を見つけてサイラスは目を丸くする。
「これは……」
「写本じゃなくて原本だよ。つまり、あんたが探していた著者の直筆だ。たまたま知り合いに譲ってもらってね」
 サイラスが所持する本はどれも写本だった。教科書となると写本は広く流通していても、原本にはめったにお目にかかれない。
 彼は震える手で本を受け取り、大事に表紙をなでた。
「先輩……! 本当にありがとう。そうだ、お礼はどうしたらいいかな」
 オデットは得意げに片目をつむる。
「次の論文は材料集めから実験まで全部手伝ってもらう。あんたの試験期間だろうとお構いなしに呼ぶから、覚悟しておくんだよ」
「ああ、分かったよ」
 あの著者に近づける本が手に入ったのだから、交換条件としては安いものだ。彼はしばらくにこにこして表紙を眺め、ページを開こうとしては「家に帰ってからだ」と思い直した。そうするうちに、弾けるような喜びがだんだんおさまってくる。
(だが、結局は会えずじまいか……)
 サイラスにしては珍しく気分が乱高下していた。挙げ句、彼はあろうことか「足りない」と思ってしまった。著者名を指でなぞり、ほうとため息をつく。
「ひと目でいいから会ってみたかったな」
 それを聞いたオデットは何故かぎくりと肩を震わせ、ついで盛大に吹き出した。
「はは、あんたそれ……まるで恋してるみたいだね!」
「……こ、恋?」
 思ってもいなかった単語を耳にして、サイラスは目を白黒させる。すると一転してオデットは穏やかな笑みを浮かべた。
「会って話してみたいだなんて、あんたがそこまで他人に執着することはそうないだろう?」
 言われてみればそうかもしれない。妙に苦しい気持ちの原因を理解して、すっと目の前が開けていくようだった。
「なるほど……こういう感情が恋なのか」
 胸にじわりとあたたかさを感じ、彼は自然に微笑していた。その様子を見て、オデットは肩をすくめる。
「ま、それが恋であれ何であれ……あんたが他人に抱く思いの中でも最上のものといったら、今回みたいなパターンなのかもしれないね」
 その命名には幸福な納得感があった。サイラスがこの著者を追い求める気持ちは、恋い焦がれる衝動とほぼ同義だ。今までは他人が抱く色恋の感情をいまいち理解できていなかったが、おそらくこういう感覚に違いない。
 感情が名付けられたことで、サイラスは不思議と落ち着いた。どうやっても著者に近づけない現実を、すとんと受け入れられたのだ。
(なるほど。焦がれる相手がいるだけで、こんなにも胸が満たされるのか……)
 だから皆は色恋に夢中になるのだろう。本を抱えたサイラスは、新たな発見に足を弾ませながら研究室を後にした。



「ちょっと待て」
 いい加減話が長くなりそうだったので、テリオンは声を張り上げた。回想に浸っていたサイラスとオデットが瞬きし、顔を見合わせる。やはり似た仕草だ。
 夜が更けてクオリークレストの酒場はいよいよ満席になっていたが、こんな不思議な話題で盛り上がるテーブルは他にないだろう。テリオンはしかめっ面になる。
「つまり……その本の作者に会いたいと思ったことが、あんたの初恋だって言いたいのか?」
「ああ、そうだよ」
 あっさりとサイラスがうなずくので、テリオンは脱力した。と同時に、何故か自分がひどく安心していることに気づいて憮然とする。それをエールを飲んでごまかした。
「今の話だと、実際の作者がどんなやつでも構わないみたいだな」
 そもそも今の話では著者の性別すら明らかでないので、本当に相手の素性は関係ないのだろう。本という文字媒体だけを介して相手に憧れを抱くというのは、テリオンにはなかなか理解が難しかった。
「たとえ予想と違ったとしても、本人に会ってみればきっと新たな発見があるだろう。それは悪いことではないよ」
 サイラスは幸福そうに笑い、ジョッキを口につける。彼は思い出話をはじめた時から妙に上機嫌だった。よほどその著者に思い入れがあったのだろう。
 そういえば、今聞いたのはテリオンがまるで知らない時代のサイラスの話だった。無邪気に平原を駆けていた子どもの姿は不本意ながらダスクバロウの遺跡における夢で見てしまったし、教師になってからの様子もだいたい想像がつく。が、学者を目指して学院に通っていた頃というのは、テリオンには馴染みのない部分だ。
 以前オデットから「その頃のサイラスは孤立していた」と聞いた気もするが、サイラス本人は何も気にせずのんきに学生時代を過ごしていたらしい。テリオンは冷えたポテトをつまみ、質問を重ねる。
「で、結局その本を書いたやつとは会えたのか?」
 サイラスは唇を引き結ぶと、真剣な顔であごを引く。
「……実は、比較的最近になって会えたんだよ」
「ほう」
 テリオンが鼻を鳴らし、オデットは「そういえば感想を聞いていなかったね」と言い放つ。彼女はサイラスが著者に会ったことを承知済みのようだ。
 サイラスは聞き手の二人に等分に視線を配った。
「ああ。スサンナ・グロトフといえばテリオンには分かるだろうか」
 テリオンはこめかみをぐっと親指で押し込む。聞き覚えのある名前だった。
「……ハンイットの知り合いだったか。スティルスノウの占い師だな」
「そうだ。ヘンルーダを探す時だけでなく、黒曜館の位置を特定する際や、ノースリーチに挑む前にはお世話になったね」
 雪深い村に屋敷を構える老婆だ。初対面のテリオンの素性すら見透かすような目をしていて、正直少し苦手だった。ヒースコートとはまた別の方面における達人であることは薄々感じていた。
 つまり、あのいやに鋭い老婆がかつては学者をしていたということか。しかも、サイラスにとってある意味で初恋の相手だったとは!
「彼女はアトラスダムで高名な学者をしていたが、隠棲して、今はあの村で占い師をしているんだ。だが、私も最初は気づけなくてね。初めてスサンナさんと会ったのは、プリムロゼ君を手伝ってスティルスノウを訪れた時だったか。その後で、クオリークレストで先輩に言われてやっと正体が分かったんだよ」
 当初のスサンナは占い師とだけ名乗ったそうだから、気づけなくても無理はない。オデットは愉快そうな顔で両手を頭の後ろに回し、椅子の背に体重を預けた。
「それで、相手に思いを伝えたのかい?」
「まさか。きっと一笑に付すだけだろう」
 そんな気はする。「サイラスが恋をしていた」と聞いて呵々大笑するスサンナの姿が目に浮かぶようだ。
 秀麗な眉を下げたサイラスは卓の上に肘を付き、両手の指を組んだ。
「だが……かつて私が名前しか知らない著者に強く惹かれていたこと、その気持ちが学者と教師を両立させる土台となったことは事実だよ」
 彼は満足気にまぶたを閉じた。
 恋がもたらすのはそういう穏やかな側面ばかりではない、というのは経験の薄いテリオンにもさすがに分かる。だが、サイラスにとってはそれが真実なのだろう。
 沈黙が訪れた。エールで喉を潤したテリオンは、惰性で豆をつまむオデットと一瞬目が合った。同時に、かつて彼女の口から聞いたある台詞が脳裏に蘇る。
 ――あんたに話しておきたいんだ。
 ボルダーフォールに最後の竜石を返した後、サイラスが突然姿を消して、テリオンたちが必死に行方を探していた時のことだ。手がかりを求めてやってきたクオリークレストで、テリオンはサイラスの過去についてこの先輩から打ち明けられそうになった。が、彼はそれを拒否した。今でも聞かなくて良かったと思っている。
 思い返せば、あの時も「過去を知ればサイラスに抱く印象が変わるのでは」という予感があった。しかし今回に限って話を聞いたのは、サイラス本人が話したがっていたことも大きいだろう。
 サイラスが薄く開いた瞳が、思い出の中にいる誰かを見つめている。いとおしむようなその視線は、一人の子どもに向けられていた。
 ダスクバロウの遺跡で彼の夢を垣間見たテリオンには分かる。その子どもはサイラス自身なのだと。
「そうか」
 とテリオンはつぶやいた。学者はいつの間にか自分の中にいる幼い存在をきちんと認め、己の過去と現在をつなげたのだ。
(だから、ストーンガードから帰ってきた時にこいつはああ言ったのか)
 私は仲間たちがいないと寂しいんだ――その言葉は、オルステラの外へ向かう長旅を終えたテリオンが、この間アトラスダムの入口でサイラスと再会した時に聞いた。学者はダスクバロウの時点では分からなかった感覚を言語化できるようになった。誰に影響を受けたのか、どういう過程をたどって変化したのかは、サイラス自身も分かっていないのかもしれない。それでも今、彼は旅に出る前とは明らかに違う視点で世界を見ている。おまけにテリオンに取るに足りない昔話を聞かせてくれるようになった。
 ならばこちらも、いつかダリウスとの話をしてやってもいいのかもしれない。
「ここまで……長かった、な……」
 ふわりと眠気が漂ってきた。肘が崩れて、一気に視点が低くなる。
 テリオンは表情を緩めながらまぶたを閉じた。
 ――ここから先は、夢うつつの中で聞いたやりとりだ。
「テリオン? ……眠ってしまったのか」
「眠気覚ましにはならなかったね。こいつを運ぶの大変だろう? 手伝おうか」
「いいんだ。いつも世話になっているから、このくらいはね」
「ふふ。それにしてもこいつ、こんな幸せそうな……子どもみたいな顔して眠るんだね。盗賊とはとても思えないよ」
「確かに、出会ったばかりの頃はこうではなかったな。だが、誰だって多かれ少なかれそういう部分を抱えて生きているのだろう。……私と同じように」

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