夜明け前が一番暗い

「あら、朝日ね……きれい」
 プリムロゼのつぶやきが、早朝の澄んだ空気に溶けていく。それは居合わせた私たち七人の思いを代弁する言葉だった。
 ヴィクターホロウの森を見下ろす丘の上で、私は木々の向こうに太陽のかけらを見つけた。差し込んだ光の筋が埋葬したばかりのナビアの墓を照らし出す。墓前には鮮やかな紅紫の花が供えられていた。踊子が持ってきたものだ。
「ナビアさんはこの光景を見られなかったのですね……」
 朝日で髪を明るくしたオフィーリアが、対照的に沈鬱な顔で言った。
 ハンイットの友人だったナビアという女性は、父を死に追いやったウッドランドの族長たちへの復讐を企てて魔物を扇動したが、ハンイットがそれを食い止めた。ナビアはその時使った力の代償により命を落としたのだ。
「夜明け前が一番暗いという言葉があるが、それぞれにとっての夜がどれだけ続くのかは、誰にも分からん」
 薄汚れた青衣をはためかせたオルベリクが、静かな視線を墓石に投げる。
 ふと頭に浮かぶことがあり、私は声を上げた。
「そういえば、私は実際に夜の暗さを確かめたことがあるよ」
 朝日を見ていた皆が一斉に振り返る。私は不思議そうな顔をする彼らに向かって説明した。
「子どもの頃、本当に夜明け前が最も暗いのか検証するため、一晩中起きて空を観察したんだ」
「サイラス先生……それって興味本位で?」トレサが目を丸くする。
「ああ。だが明るさの計測は難しかったよ」
 まぶたをつむれば、心は幼き日に飛ぶ。
 私の住んでいたアトラスダムは夜でもいくらか灯火があるため、明かりの少ない方角の空を観察対象に決めた。ずっと暗い場所にいると目が慣れてしまうので、決まった周期で明るい部屋から外に出て、特定の星がはっきり見えるようになるまでの時間を計ることにした。
 ここまで解説したところで、アーフェンが苦笑まじりに尋ねた。
「それで、結果は?」
 視界いっぱいに広がる黒っぽい森が、鮮やかな緑へと変わっていく。私はそれを眺めながら記憶を紐解いた。
「確かに、夜が明けはじめる前が最も暗順応に時間がかかった――つまり空が暗かった。ただし、あの慣用句の『夜明け前』がどの時点を指しているか不明なんだ。今のように朝日が見える瞬間の直前だとすると、むしろ夜の中では一番明るい時間だろう」
 ハンイットが感心したように息を吐いた。
「あなたは昔から自由な子どもだったんだな」
「空がだんだん明るくなることくらい、観察しなくても分かるだろ」
 呆れた様子のテリオンの指摘に、私はつい反論を試みた。
「机上の論理が正しいかどうか、実際に証明することは大事さ。無論、あの慣用句は艱難辛苦を乗り越えるための言葉であって、あくまでたとえ話だということは分かっているよ」
 私はぐるりと「仲間たち」を見渡す。つい先ほど、これから一緒に旅することを決めたばかりの者たちだ。その端には踊子プリムロゼがいた。彼女はナビアの墓を背に、眉をひそめて佇んでいる。私はそちらに目を合わせた。
「いつかは夜が明けることを信じて、じっと待つしかない……そういうことなのだろう」
「……ご講釈をありがとう、先生」
 プリムロゼは伏し目がちに言う。彼女の姿が妙にまぶしく見えて、はっとした。空は薄青から黄金のグラデーションに彩られ、朝日が完全に姿を現している。
「おっと、話しすぎてしまったね。宿に戻ろうか」
 異口同音に賛成が返ってきた。ナビアの放った魔物から町を守るために一晩中戦っていたため、全員疲れ切っているのだ。
 トレサがあくびとともに大きく伸びをしてから、隣の剣士を見上げた。
「ふわあ……あたし、もうくたくたよ。でも、この中で一番休まないといけないのはオルベリクさんよね」
「そうそう、四徹って聞いたぜ。武闘大会も結局延期するんだろ? 今日こそはしっかり休んでくれよ」
 薬師アーフェンが眉をひそめる。昨日、オルベリクは私と試合をした上、魔物との戦いでは最前線で盾となった。恐るべき体力だ。
「……分かっている」
 少し困ったように眉根を寄せ、オルベリクがうなずく。周囲で穏やかな笑いが弾け、それを合図に一人また一人と丘を降りていく。
 最後尾に続こうとして、私は視界の端にいたプリムロゼが足を止めたことに気づいた。どうしたんだい、と声をかけようとしてやめる。
 彼女は再びナビアの墓に向き直っていた。
「私は仕損じないわよ」
 風に乗って小さなつぶやきが聞こえた。私が言葉の意味を取りかねて瞬きする隙に、身を翻した踊子は早足で脇を抜けていった。まるで詮索を拒絶するかのように。
 すれ違いざま、彼女の耳に花びらのような形のピアスが踊った。



 ヴィクターホロウの町の最奥にあるコロシアムには、剣闘士が勇を競う円形舞台とは別に、選手控室を含めたいくつもの部屋がある。その一室――来賓をもてなすための豪華な部屋の前で、私は廊下の壁に背を預けて立ったまま本を読んでいた。
 足元では、雪豹のリンデが寝そべってしっぽを揺らしている。一度毛皮に触ろうとしたら逃げられたので、ほうっておくことにした。
 どれくらい時間が経っただろうか、ちょうど本の半分を読み終えた頃、扉が開いた。リンデがぴくりと反応する。
「待たせてしまったな、サイラス」
 少し疲れた顔のハンイットが廊下に出てくる。リンデが間髪いれずに飛びつき、彼女は余裕で受け止めた。
「終わったのかい?」
「ああ」
 閉じた扉に視線をやりながら私が問うと、彼女はリンデの頭をなで、柳眉をひそめて口を開く。
「……外で話そう。新鮮な空気を吸いたい気分だ」
 部屋の中にはまだいくらか人が残っているはずだが、話し声は聞こえない。コロシアムという場所柄、しっかり防音しているのだろう。
 コロシアムの入口にいた武闘大会のスタッフに声をかけてから、二人で外に出た。
 魔物に襲われた町の後片付けや、人々を守るために戦った剣闘士たちの治療のため、武闘大会の本戦は明日に延期となった。そのためか、コロシアムの周囲は閑散としている。
 ハンイットは森の空気を吸い込んで、はあ、と全身の力を抜いた。私は単刀直入に尋ねる。
「それで、族長たちの反応はどうだった?」
「わたしの話を受け止めてくれた……と思う。だが、きっかけをつくったのは族長たちとはいえ、ナビアが事件を起こしたのは事実だ。まだ『青き森』を危険視する者はいるだろうな」
 ハンイットの表情は苦い。彼女は、ナビアが凶行に及んだ理由を族長たちの会議で説明することで、青き森の一族の名誉回復を図ったのだ。当初、その会合にはサイラスもついていく予定だったが、部外者は席を外せと言われてしまった。そのため、リンデと一緒に廊下で待っていたわけだ。
 ハンイットはぎゅっとこぶしをつくってから、手のひらを開く。
「これからも諦めずに訴えていこうと思う。それに、師匠が戻ってきたらわたしに味方してくれるはずだ」
「そうだね。私たちに協力できることがあれば言ってくれ」
「ああ、ありがたい」
 ナビア一家とハンイットたち師弟は家族ぐるみの付き合いだったという。オルステラでも有数の狩人というザンターの力添えは強力だろう。それを得るためには、一刻も早く師匠を見つけなければならないが――
「そうだ。ハンイット、今後の行き先はどうしようか?」
 この質問に、彼女は軽く首をかしげる。私はぴんと人差し指を立てた。
「ほら、昨日オフィーリアと三人で目的地について協議した時、『一番近いから』という理由でクオリークレストに行くことにしただろう。だが、あれから五人も仲間が増えてしまった」
 あの時、最終的に行き先を決めたのはリンデだった。足元をゆく賢い雪豹はどこか誇らしげにしている。ハンイットは腕組みをした。
「確かに。皆それぞれの目的を持って旅をしているはずだな」
 新たな旅の連れのうち、本人から旅立ちの理由を聞けたのはトレサくらいか。何しろ出会ってからずっとゴタゴタが続いていたので、各々の事情について話し合う機会がなかった。これは大きな問題だ。
「夕食の時にでも全員で情報を共有しようか。うまく目的地を決められるかは分からないが……」
 私はあごに指を添えて考え込む。三人だけでもあれほど揉めたのだ、八人いたら侃々諤々の論争になることは容易に想像がつく。
 予定では昼間は自由行動、夕方に酒場の前で待ち合わせて全員で夕食をとることになっていた。その場で話し合いを提案してみよう。
「揉めたらその時はその時だな」
 きっぱり言い切ったハンイットは、こちらに向き直ってほほえむ。
「付き合わせてすまなかったな。だが、あなたが扉の外にいるだけで心強かった」
 彼女はこれからリンデと散歩するらしい。それが退屈させてしまった相棒への埋め合わせだという。
「少しでも役に立ててよかった。私も町を見て回るよ。ではまた夜に」
 軽く手を挙げてハンイットと別れた。
 ヴィクターホロウの町は活気を取り戻していた。石畳や家の外壁のそこここに魔物の爪痕が残っているが、後片付けする人々の顔は明るい。コロシアムがあるから住民も荒ごとに慣れているのか。武闘大会前で剣闘士が揃っていたおかげで被害が抑えられたことも大きいだろう。
 ここは平地が多いウッドランドでは珍しく高低差があり、階段が多い。その段を降りる時、私は足元にきらりと光るものを見つけた。こういうものに目が行く性質なのだ。おかげで子どもの頃から拾いものが多く、両親には呆れられていた。
「これは……」
 つまみ上げれば、それは花弁の形をしたピアスだった。見覚えがある。もしや、プリムロゼが耳につけていたものか。
 私は歩く速度を上げて宿に向かった。人のいない静かな廊下を通り、仲間の女性陣がいるはずの部屋を順番に訪ねる。
「サイラス先生? どうされたんですか」
 唯一、宿に残っていたオフィーリアが顔を出した。私がピアスを見せて説明すると、彼女はうなずいた。
「確かにプリムロゼさんのものですね。可愛らしいデザインだったので、覚えています」
「彼女はいないようだね」
「出かけているみたいです。どこに行ったかまでは……」
 二人で廊下に出て話していたところに、たまたまオルベリクが通りがかった。彼は部屋でよく寝たようで、すっきりした顔をしている。この万全の状態で試合をしたら私は負けていただろう。
 私は手を振り、彼を呼び止めた。
「ちょうどよかった、オルベリク。プリムロゼ君の居場所を知らないかい?」
「俺は見ていない。探しているのか」
「アクセサリを落とされたみたいで……。オルベリクさんはプリムロゼさんと一緒に旅をされていましたよね。心当たりはありませんか」
 私の手にあるピアスを見て、オルベリクは少し目を泳がせ、考え込む。
「見ていない。が、プリムロゼは町に滞在する間、しばしばいなくなることがある」
 その発言には引っかかるものがあった。
「ほう? あなたたちは数日前からこの町に来ていたようだが、『前回の外出』があったということかな」
「そうだ。一人になりたい時もあるだろうと思って、行き先は聞いていない。役に立てなくてすまんな」
 オルベリクはかぶりを振る。私がじっと視線を合わせると、彼はうろたえたようにまぶたを伏せた。
 彼の配慮には、おそらくプリムロゼの旅の目的である仇討ちが関係している。行方不明の本を探す、儀式のために旅をする、師匠を見つける――そのような胸を張って言える目的とは違う、薄暗い終着点だ。オルベリクは彼女の事情について、もう少しくわしく把握しているはずだった。
「プリムロゼさんはどこかで息抜きをしている、ということでしょうか?」
 穏やかに首をかしげるオフィーリアも、プリムロゼの目的自体は知っている。だが、「仇討ち」が実際どういうものかまでは思考が及んでいないのだろう。あの試合の場にいたメンバーだと、テリオンはおおよそ把握しているだろうが、トレサもオフィーリアと同じ状況と思われる。
 やはり、一度踊子本人に問いただす必要があるか。
「……分かった。私がプリムロゼ君を探してみるよ。二人とも、ありがとう」
「夕食で会うのではないか。その時に渡せばいい」
 眉を上げたオルベリクの発言に、こちらは肩をすくめる。
「麗しい彼女の両耳にはピアスが揃っている方がいいだろう?」
 すると、神官と剣士は対照的な反応を見せた。
「まあ! そうですねサイラス先生っ」オフィーリアは一層笑みを深くし、
「う、うむ……」オルベリクは何故か渋い顔をしていた。
 二人に挨拶して宿を後にした。とはいえ、プリムロゼの居場所に心当たりはない。よって、地道に通行人に聞き込みをすることにした。
 かの踊子は容姿も装束も目立つから、すぐに手がかりが見つかるだろうと予想したが、なかなか証言が得られない。あまりしつこく質問すると相手に怒鳴られることもあるため、気をつけて情報を探った。
「あ、その踊子さんなら、私見たわよ」
 最終的に答えたのは花売りの女性だった。「本当かい」と私が思わず身を乗り出すと、彼女はなぜか夢見心地のような表情でほおを赤らめる。
「え、ええ……。今朝早く、町から魔物がいなくなったって聞いて、避難先の孤児院から家に帰ろうとした時だったかしら。その人が道を横切るのを見たの」
 踊子は可憐な花を抱えていたという。目撃された時間帯からして、もしやナビアの墓前に供えたものか。
「このあたりでは珍しい花よ。フラットランドではそうでもないらしいけど。花束には向かない品種だから私の店では扱っていないのよ」
「近くに群生地でもあるのかな」
「ええと、確か……」
 私が広げた地図に、花売りが指で位置を示す。町を出てしばらく森を歩いた場所だ。花売りは「街道からは外れるけど、そのあたりだけ木がないからきっと分かるわ」と請け負った。
 きっとそこにプリムロゼがいる。聞き込みをしてもろくに情報が得られなかったということは、町の中ではなく外にいる可能性が高い。そして、彼女はナビアの墓前に供える花をさほど時間もかけずに調達してきた。もともと群生地を知っていたのだ。
 プリムロゼはオルベリクとともに町に滞在する間に、その場所を見つけたのだろう。何らかの理由で一人になれる場所を探している最中だったのかもしれない。
 私は花売りの背後に陳列された商品を眺め、籠に入った一輪を抜き取った。目に鮮やかなオレンジ色の花弁だ。
「貴重な情報をありがとう。この花をいただけるかな」
「あ、はい……!」
 代金を受け取った彼女に、そのまま花を渡す。「お礼の代わりだよ」と言うと花売りはいよいよぼんやりしてしまったので、挨拶して別れた。
 いつしか夕暮れが迫っていた。夜が来る前にプリムロゼを迎えに行かねばなるまい。私はヴィクターホロウの入口から階段を降りた場所でランタンに火を入れ、慎重に森の中に踏み出した。
 足跡や匂い、木についた傷跡などをよく観察して、魔物の気配を避けながら進む。それはハンイットから教わったことだった。そろそろランタンなしでは地図が読みづらくなってきた頃、私は木々の切れ間にたどり着いた。
 ぽっかりと開けた広場には、一面に濃い色の花が咲いていた。冬の終わりに芽を出す品種だ、と聞いたことがある。
 その花の絨毯の上で、ひらりひらりと動く人影がある。私は息を呑んだ。夕日を浴びたプリムロゼが、一心不乱に踊っていたのだ。
 葉擦れや風が奏でる曲とともに舞う彼女は、やがてぴしりとポーズを決める。指先まで行き届いた神経が、不意に緩んだ。
 私は頃合いを見計らってかかとを踏み出し、花を避けながら近寄った。
「いいものを見せてもらったよ」
「……サイラス」
 拍手して声をかけると、プリムロゼは虚をつかれたように振り返り、すぐ半眼になってこちらをにらんだ。
「のぞき見なんて悪趣味ね。私、ただでは踊らないのよ」
「あの踊りを見物できたのだから、いくらでも払うよ」
 懐の財布に手をやりながら言ったが、プリムロゼはうっとうしそうに手を振って話を終わらせた。冗談だったらしい。
「で、なんの用かしら?」
 腰に手を当てて尋ねる彼女に対し、私は手にピアスを載せた。
「キミのものだろう。町で拾ったんだ」
 プリムロゼはきゅっと唇を結んで自分の耳を触った。アクセサリがないことに気づいたようで、「ありがと」と受け取る。彼女はすぐに片耳にピアスを付け直した。鏡もなしにやってのけるとは、慣れたものだ。
 私はあたりを見回した。よく日差しが注ぐのだろう、花はのびのびと風にそよいでいる。
「ここで稽古をしていたんだね」
 オルベリクが詮索を避けていた、彼女の外出理由はこれだったのだ。
「お客さんには本気の踊りしか見せたくないの。……ねえ、もう用事は終わったでしょ? 帰ってよ、夕食には遅れないから」
 プリムロゼが邪険に手で追い払う仕草をした。だが私はその場に留まった。
「キミにひとつ聞いておくべきことがある」
「何よ」
 不機嫌そうな彼女の前に、一歩踏み出した。
「……キミが旅の目的を達成するためにとる手段は、ナビアさんのように多くの人を巻き込むわけではないだろうね?」
 一陣の風が吹き抜け、木々がざわめく。彼女は息を呑んだ。あたりの空気が急に冷えたようだった。
 頭の片隅に、ナビアの放った魔物により傷ついた人々や町の光景が浮かぶ。ナビアにとっては必要な犠牲だったのだろうが、私はあの手段を許容できなかった。だからプリムロゼにも確認すべきと考えたのだ。
 プリムロゼがうつむき、前髪で表情が隠れる。傾いた日差しに照らされて花の上で影が揺れた。それを視界の端にとらえながら、私は畳みかけた。
「私たちの仲間には年若い者も多い。さすがにそのような手段に加担させることはできないよ」
「さすがは先生ね。……いいわ、教えてあげる」
 プリムロゼが形の良いあごをくいと上げた。距離が詰まるのは一瞬だった。軽やかに肉薄した踊子が、私の首の後ろに腕を回して動けないようにする。同時に抜き身の短剣がひたりと喉元に突きつけられた。私はいつ鞘から刃が抜かれたのかすら分からなかった。
 ごくりと自分の喉が鳴る音がする。
「私の武器はこれ。こうやって、仇に刺してやるのよ。他の人には興味ないわ」
 彼女は刃先を空中でぐるりと回した。相手の体に押し込んでそうするのだ、と言いたいのだろう。
 至近距離にある翡翠の瞳が剣呑な光を放つ。
「分かった? これに懲りたら、あまり人をからかわないことね」
 切っ先が肌から離れた。冷徹な顔を崩さぬままプリムロゼが距離を取り、短剣を手でひらひら泳がせるようにした。
 私は喉をさすって、表情を緩めた。
「それがエゼルアート家に伝わる短剣術か」
 プリムロゼが眉を跳ね上げる。
「どうして家名を――ああ、オルベリクね?」
「そう、試合の前口上だよ」
 昨晩、元騎士たる彼は、試合前に自分と立会人プリムロゼのフルネームを言い放ったのだ。あの時の私は試合相手であるホルンブルグの剛剣の騎士に気を取られていたが、無論、双方の家名は頭に残っていた。
 私は降参するように両手を肩のあたりまで挙げる。
「それに、正直言うと、キミが私を旅に誘った時点でそういう心配はしていなかった。試すようなことをしてすまない」
 プリムロゼが説明を促すように唇を尖らせるので、続けて口を開いた。
「ナビアさんは一人でことを成し遂げようとして、友人のハンイットすら害することを厭わなかった。だが、キミはオルベリクや仲間の助力を求めたんだ。その上で、私に声をかけた。それはきっと――」
 昨日、私をオルベリクの試合相手に抜擢し、さらに「一緒に旅をしないか」と誘ったのはプリムロゼだった。トレサもすぐさま話に乗ったが、一番に切り出したのは踊子だ。
 私はプリムロゼにそっと近づき、「氷よ」と小さく唱えた。短剣の刃がにわかに凍りつき、プリムロゼは目を見開いた。間を置かず、氷はぱきりと音を立てて割れる。
「学者の能力があれば仇の弱点を分析できる、と考えたからだろう」
 彼女は試合直後に私を誘った。あの戦いで私がオルベリクの弱点を見極めるさまを見て、有用だと判断したのではないか。
 プリムロゼは黙ったまま、苦々しさを隠さずに顔をしかめていた。私はその耳飾りに目を留めた。
「察知のピアスか。それで回避力を高めているのだろうが、防御が薄い分攻撃があたると大ダメージだ。特に魔法は避けづらいだろう。そういう時は、オフィーリアの守護のヴェールが役に立つはずだよ」
 プリムロゼは長い夜をともに乗り越えるべき仲間を、もう自分で選んだ。暗い夜がどれだけ続くか分からないから、一人では行かないと決めた。ならば私は求められた役割を果たすだけだ。
 もともと、彼女が剛剣の騎士たるオルベリクと一緒に行動していた時点で、ある程度の人格は保証されていた。しかし、私は実際に試さなければ納得できない性質であり、本人から答えを聞いてようやく腑に落ちたのだった。
「……忠告覚えておくわ、先生」
 紅の塗られた唇が弧を描く。二人の視線が音もなく交わった。気づけばあたりは薄暗くなっていた。それに気づいたプリムロゼは、肩の力を抜いて短剣をしまい込む。
「ねえサイラス、あなたのせいで練習時間がなくなったんだけど」
 非難がましい声だった。どうやら機嫌を損ねたらしい。表面上の理由はともかく、私が原因であることは明白なので、甘んじて受けるしかない。こういう時、女性が求めるものはだいたい察しがついた。
「埋め合わせが必要かな? 夕食でも奢ろうか」
 その提案を、プリムロゼはふっと鼻で笑う。
「いいえ。今度こそ踊りに付き合ってもらうわよ」
 不意をつかれて言葉に詰まった。そういえば昨晩、初対面の彼女は開口一番に「私と踊らない?」と言ったような。
「……あれはオルベリクの試合相手を見つけるための口実では?」
「私、誘惑を断った相手のことはずっと覚えているタイプなの」
 短剣を突きつけられた時とはまた別種の、魅力的だが背筋が寒くなるような目線が刺さった。昨日私が誘いを断ったのは、よりにもよって食事中に運動を促すのが不可解だったためだ。そこまで根に持たれる理由が分からない。
 返答に窮して口をつぐむと、プリムロゼはなぜか楽しげに唇を持ち上げた。
「いいわね、サイラス?」
「……とにかく帰ろう。酒場まで送っていくよ」
 身に染み付いた作法に従って手を差し出せば、プリムロゼは私の腕に手を絡めてくる。歩きづらいのだが、と指摘しても、彼女は聞く耳を持たなかった。
 その体勢で町へ戻る道中、プリムロゼは正面を見つめたまま言った。
「あのねサイラス。さっきのあなたの推理、少し外れてるわよ」
「おや、どこがだい?」
 推理というと、プリムロゼが私を仲間に誘った理由についてだろうか。こういう指摘は貴重なのでよく耳を傾ける。
 もうすぐ冬も終わるが、まだ日が落ちると一気に冷え込む時期だ。私の持つランタンに照らされ、プリムロゼのほおは軽く上気していた。
「私があなたを誘ったのは……ただ、気になっただけなの」
 あの酒場に入って戸口でぐるりと中を見渡した時、真っ先に学者のローブが目に入った。そしてピンとくる「何か」を感じて声をかけたのだ、と彼女は語った。
「弱点を見極める学者の技術にも興味はあるけど、きっかけは『なんとなく』だったのよ。きっと、あなたがオフィーリアたちと出会った時もそうだったんじゃない?」
 ううむ、と唸り声が出る。そういう感覚には思い当たるふしがあった。私たち八人はお互いに直感で「この人ならば」と思えたからこそ、仲間になったのだ。
 プリムロゼは少し歩幅を広げると、私の腕を引っ張るように前を歩き、挑戦的な瞳で振り返る。
「最後の仇を討つまで連れて行くわよ。だって、あなたは私が誘ったんだから」
「キミが目的を遂げられるよう、私も微力をつくすよ」
 自然と唇の端が持ち上がる。一日前には出会ってすらいなかった人にこう告げている事実が、自分でも不思議なほどしっくり来た。
 木立の向こうも見通せない暗闇の中で、プリムロゼが微笑を浮かべる。その双眸には、いつか己が掴み取るべき朝日が煌々と燃えていた。

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