学者は未だ帰らず

「学者先生。あの時は……悪かったな」
 不意に背中から声をかけられ、振り向いた。
 そこにはばつの悪そうな顔をしたテリオンがいて、まっすぐこちらを見ていた。
 ボルダーフォールの定宿の一室だ。この町にはテリオンの仕事の依頼主であるレイヴァース家があり、一行は報告のために定期的に訪れている。その度に宿探しをするのも面倒なため、いつしかアクセスや値段、治安、部屋数などの条件から、町に入るとまずこの宿を目指す習慣になっていた。
 このパーティには男女それぞれ四人ずつおり、宿では基本的に二人一組の四部屋を確保している。部屋割には全員あまりこだわりがなく、したがって組み合わせが固定されないようにしていた。今日はテリオンと相部屋だ。
 彼はこれから最後の竜石をおさめにレイヴァース家へ向かうところだ。外では執事のヒースコートが出発を待っている。テリオンは部屋に荷物を置いたらすぐに出ていくつもりだろう。
 彼に呼びかけられるのが珍しい上、真正面から謝られることなんて今まであっただろうか。軽く衝撃を受けたが、平静を装って返事する。
「あの時、とは?」
「ノースリーチの……教会の地下だ」
 テリオンはそれだけ答えて口をつぐむ。灰銀の前髪が額を流れ、目元を覆った。短い返事だったが言いたいことは伝わった。
 ――この町に来る前、テリオンはノースリーチでかつての相棒と二つの竜石を争った。最終的に、彼と袂を分かったダリウスは死体となって発見された。その場所を彼に知らせに行ったのは己である。テリオンは変わり果てた姿の兄弟と再会した際、思わず取り乱してしまったことに言及しているらしい。
 しかし、謝罪するのはおかしな話だろう。かぶりを振った。
「いいも悪いもないよ。むしろ、私がキミの邪魔をしたのではないかな」
「いや……それは」
 言いさしたテリオンははっとしたように唇を震わせた。外套のほつれた裾が静かに揺れる。
 ノースリーチの地下で見た盗賊の表情が、脳裏に蘇る。すると、冷たい手でぎゅっと掴まれたように胸が苦しくなった。会話が途切れたことを幸いに顔を背け、荷物を整理するふりをしてランタンを取り出した。その持ち手を握ってしばし耐える。
 また、テリオンがぽつりと言った。
「あとはあんたの目的だけだな」
「……そうだね」
 それは仲間内での暗黙の了解だった。己以外の七人は、それぞれ当初掲げていた旅の目的を果たした。最後に残ったのは辺獄の書だけだ。
 気配を遠ざかったのを感じて顔を上げる。音もなく準備を終えたテリオンが、いつの間にか戸口に立っていた。
「レイヴァース家に行くのかい?」
 波立つ内心をごまかすように声をかけた。テリオンは肩越しに振り返る。
「ああ。……あんたは?」
 これから出かける予定だ、と答えた。盗賊は軽くあごを引く。ローブを羽織ったこちらの出で立ちから察したのだろう。
「遅くなるかもしれないから、みんなに伝えてもらえるかな」
 言ってから「しまった」と唇を噛む。テリオンよりも帰りが遅くなる可能性がある、というのはよく考えると違和感のある発言だ。怪しまれないといいのだが。顔に焦りを出さぬよう、ほおの内側を噛む。
「おい、待て」
 すると、テリオンはつかつかと近づいてきて、外套の裾から右手を出す。そこにはまった罪人の腕輪につい目が行った。この場にいる二人とも、もう鍵は外れていると知っている。先にこちらが気づいて指摘したのだった。ちょうど、同じボルダーフォールの宿での出来事だ。あの時のテリオンは動転していたが、今は冷静に事実を受け入れていた。
「何か?」
 こちらの狙いに気づかれたか――と一瞬緊張したが、違った。ふっと部屋が明るくなり、瞬きする。
 テリオンの指先に小さな火が灯っている。いつ見てもきれいな形の鬼火だ。よく魔力が制御されている証拠である。彼は魔法を扱う気はないようだが、本格的に学べばきっと大成するだろうと思われた。
 その鬼火が、こちらの持つランタンの中に吸い込まれた。明かりの芯は静かに火を受け止め、より力強く周囲を照らし出す。
「おや。まだ昼間なのだが」
 どういう風の吹き回しかと質問すれば、「自分で火をつけて山火事でも起こされたらたまらん」とテリオンは眉根を寄せた。無論火炎魔法でランタンをつけるつもりはなかったが、彼らしい気遣いを受け取って苦笑する。
 そして、改めて声をかけた。
「いってらっしゃい、テリオン」
 彼は何故か驚いたようにこちらを見返した。次いで、小さくうなずく。
「……行ってくる」
 控えめな返事が、はっきりと耳に届いた。
 出会った当初のテリオンは、こういうやりとりに慣れていない様子だった。だがレイヴァース家とのつながりができたことで、彼は変わった。それは、もともと心の奥に宿っていたものを、長い時を経て思い出しただけなのかもしれない。
 他の仲間たちも、ごく自然に彼をリーダーだと認めている。今のテリオンならきっと、この先どこに行っても大丈夫だろう。
 その背を最後まで見送り、部屋の扉が閉まったことを確認してから、行動を開始した。
 宿についたばかりなので荷物をまとめ直す必要はなかった。ただ鞄を肩にかけ直し、ランタンを持って杖を握りしめる。
 まず目指すべきはアトラスダムだ。ボルダーフォールの外に出てから、街道の人目につかない場所であの魔法陣による移動を試してみるつもりだった。一度、アトラスダムからコブルストンへの転移には成功しているから大丈夫だろう。
 がらんとした部屋を一瞥し、忘れ物がないことを確認する。それから仲間たちに見つからないようにこっそりと宿を出た。
 心の中でも出発の挨拶はしなかった。「行ってきます」というのは、帰りを待つ人がいるから言える台詞なのだ。



 まぶたを開けると、目の前でぼんやり炎が輝いていた。
 ウッドランド地方、ヴィクターホロウ近くの森に隠れるように存在する、狩王女ドレファンドの祠だ。狩人の守護神を祀る神聖な場所だが、付近の狩人たちは仕事の拠点――すなわち即席の寝床として活用するらしい、とハンイットに聞いたことがある。そのためか、内部はよく整備されていた。無論、加護により魔物は一切寄りつかない。昨晩ここにたどり着いた時はたまたま誰もいなかったため、こうして宿代わりに使わせてもらったわけだ。
 軽く伸びをして起き上がった。体の下に敷いていたローブを引っ張り出し、何度か叩いてから羽織る。祠の入り口に扉はなく、そのまま外が見えた。濃い緑の森は朝露に濡れている。通り雨が降ったのだろう。今の天気は曇り模様だ。
 傍らの地面に置かれたランタンがあたりを照らす。冷え込む朝でも炎のおかげであたたかかった。不思議なことに、あの日テリオンに入れてもらった炎は数日経ってもまだ燃え続けていた。おそらく自分で無意識に魔力を補給しているのだろう。どのくらい火が保つのか気になったので、一度燈芯を継ぎ足してしまった。
 祠内の石段に腰掛けて、鞄からパンを取り出す。アトラスダムに寄った時に買っておいたものだ。カビは生えていなかった。腐る前にこの距離を運搬できるとは、やはりあの魔法陣は人々に莫大な利益をもたらすだろう。一刻も早く、より多くの人が使えるようにしたいものだ。
「……おや」
 しかしパンは湿気ていた。手のひらに炎を取り出して、少し炙る。弱火でじっくりやるといい、と料理上手なハンイットから教わった。もしここに彼女がいれば、朝から新鮮な肉を狩ってきてパンに挟んだのだろうか。そう考えると同時に、鈍い痛みが胸を刺す。
(もうクラップフェンは食べられないかな……)
 自分は、彼女との大事な取り決めを破ってしまった。「みんなあなたの言葉を待っている」とまで言われていたのに、辺獄の書がある場所の見当がついていることを誰にも打ち明けなかった。今頃ハンイットはさぞ怒っているだろう。
 その剣幕を想像して身震いし、急いでパンを口に含んだ。水とともに嚥下してから立ち上がる。あまりのんびりしている暇はない。
 ランタンと杖をそれぞれの手に備えて祠を出た。森の澄んだ空気で肺を満たすと同時に、魔物の気配を察知する。こういう肌感覚もすっかり鋭くなった。それは机上で弱点を学ぶだけでなく、魔物の脅威を身をもって思い知ったからだろう。無論、魔法で常時気配を消すようにしているが、どれだけ注意しても事故は発生する。気づかぬうちに敵の縄張りに踏み込まないとは限らないのだ。だから慎重に進むことにした。
 ――ボルダーフォールを出発した後は、魔法陣によってその日のうちにアトラスダムにたどり着いた。そこでテレーズからエレメントブースターを借りられたのは幸運だっただろう。それからクリフランドにとんぼ返りして、今度はオデットのいるクオリークレストを目指した。結局そこでは一泊もせずに出発し、最後の目的地に向かうためこの森に入った。馬車を使わなかったにもかかわらず、たった数日での移動だ。合計の距離から考えると驚異的なスピードだった。
 これから向かうのは未踏の地、東ダスクバロウ森道だ。手強い魔物が棲むと言われており、今までは用事がなくて一度も来たことがなかった。アトラスダムで秘書ルシアのメッセージを解読した結果、遺跡の村に辺獄の書があるとにらんだため、危険を承知で一人挑んでいるわけである。
 夜の雨でぬかるんだ地面には落ち葉が散らばり、余計に滑りやすくなっている。慎重に足をおろし、木の根を避け、道行きを邪魔する下生えを杖でかき分ける。クリフランドのように滑落する危険はないとはいえ、なかなか歩き辛い土地だ。港で活気づくヴィクターホロウへの道と比べると圧倒的に人の行き来が少ないため、あまり整備されていないのだろう。
 しばらく無心で歩き、やっと地面が平坦になった。
 そろそろ東ダスクバロウ森道に差し掛かる頃だ。ちょうど街道の脇に道しるべの看板を発見し、地図と目の前の道を照らし合わせて方向を確認する。
 一人きりで旅をするのは本当に久々だった。前回というと、オフィーリアと出会う前まで遡るのか。当時はフロストランドの入り口付近で散々迷ったものだ。大聖堂の町で彼女と道行きをともにしてからは、ずっと誰かがそばにいた。不思議なことに、仲間たちとはそれぞれ旅の目的が違うのに、目的地を共有できた。
 朝からずっと歩き通しだった。疲労を感じて立ち止まり、一息つく。
 このあたりは雨が降っていないのか地面が乾いていた。聞くともなしに葉擦れの音を聞いていると、
(今頃、みんなはどうしているのだろう)
 胸に押し込めていた思いが湧き上がってきた。単独行を決意してから、何度も浮かんだ疑問だった。
 いなくなった学者を探すのか、それとも呆れて解散したのだろうか。なにせ、仲間たちに何も告げないままボルダーフォールを出てきてしまった。そのこと自体は悔やんでいないが、どういう引き際が正しかったのか未だに分からない。手紙の一つも残すべきだったのだろうか。しかし、どれだけ言葉を尽くしても、自分が一人でここにいる理由を説明できる気がしなかった。
 木漏れ日で地面が明るくなった。視線を上向けると、重なり合った葉の間に青空が見える。すでに雲は去っていた。そろそろ歩みを再開すべきかと足を踏み出した時、すとん、と音がしてすぐそばの木に何かが刺さった。石を鋭く尖らせたナイフのようなものだ。
 背筋が凍ると同時に、このあたりに巣食う魔物のうち武器を操る種の名前が脳裏に閃く。
(ラットキン……!)
 木立の向こうにその姿を認めた刹那、杖を持った手を掲げ、無意識に唇を動かして雷を放った。木の葉を揺らす衝撃と大音が響いて、焦げ臭い匂いが漂う。雷を選んだのは制御のしやすさと相手の弱点を考慮したためだ。
 前回の一人旅よりも成熟したのは地図の読み方だけではない。魔法については威力が上がり、さらに前衛に当てないよう範囲を調整するのがうまくなった、と自負している。少なくともオルベリクは認めてくれたし、ハンイットやテリオンの文句もだんだん減ってきた。
 雷の直撃を免れた木が揺れてざわざわと葉を落とす。その陰から獰猛な亜人が数匹姿をあらわした。体の一部を焦げ付かせており、先制攻撃が決まったことを示している。緑に紛れるような防具を身に着け石槍を構えるのは、森に棲む鼠の亜人ラットキンだ。ヴィクターホロウ近辺に出没する種より明らかに大きな体を持っていた。
 杖を構えながら後ずさった。反対に、相手は大股で距離を詰めてくる。
 己が得意とするのは、ある程度敵と距離をとった状況における戦術だ。すなわち肉薄されれば終わりである。旅を続けて多少は接近戦もましになったが、むしろ仲間と比べた時の己の非力さは目立つ一方だった。だから一人であっても魔法で攻める、それしかない。
 先頭のラットキンが濁った雄叫びを上げ、得物の槍を振りかぶった。そのまま突進してくるのに合わせて、こちらは水平に雷光を走らせる。うまくすれば複数体巻き込めるはずだ。かっと瞬きの間に宙を駆けた紫電が魔物を貫く。初撃からダメージが積み重なった先頭の一匹はそれで倒れた。
 だが、ラットキンの一団はまだ残っていた。じりじりと後退しながら続けて魔法を放ち――背中が木の幹に当たった。幸いにも崖地ではなく森なのでこのまま逃げ回ることは可能だが、下手をすると街道に戻れなくなってしまう。そこで一計を案じた。
「雷鳴よ、轟き響け!」
 この場にトレサがいたら多少は遠慮していたであろう稲妻を、エレメントブースターで増幅させた最大威力で容赦なく森に落とした。あたりを一瞬白く染め上げた雷撃はラットキンたちの目の前にあった巨大な幹をなぎ倒し、道を塞いだ。
 その向こうから亜人の怒声が聞こえた。声の数からして、幹の下敷きになった個体もいるようだ。
(よし、逃げよう)
 今の目的は邪魔者の殲滅ではなく、あくまでダスクバロウにたどり着くことだ。手負いの魔物は放置して、さっと森に紛れた。
 ダスクバロウのある北を目指し、しばらく道なき道を走る。すぐに街道に戻ると先ほどのラットキンと鉢合わせする可能性があった。ほとぼりが冷めた頃に方角を徐々に修正して街道に戻るのが得策だろう。
 だんだん息が上がってきたので歩調を緩めた。後ろを振り返って異変がないことを確認する。
(追ってこないな……)
 いつもしつこい亜人にしては珍しかった。たった一人を相手に壊滅しかけて、怒りも大きいだろうに。
 とにかく安全は確保できたようなので、適当な場所を探して休憩することにした。できれば魔物の姿を視認しやすい開けた場所がいい。
 小川が近くにあるのか、せせらぎの音が聞こえた。水場は魔物を含めたあらゆる生物が利用する場所なので、避けた方がいいだろう。針路を変更してしばらくゆく。すると、都合のいいことに視界に入る木の数が減ってきた。
 太陽はすでに中天を過ぎ、森の中はぽかぽかとあたたかい。あたりは静かで魔物の気配もなく、散歩と言っても差し支えないような行軍になってきた。
 穏やかな木々のざわめきも、鳥のさえずりも、木漏れ日のぬくもりも、今は自分だけが享受している。
(……どうして、私は一人でいるのだろう)
 気が緩んだせいか、また埒のあかない疑問が頭に浮かんだ。
 辺獄の書を――ルシアを追うことは己の目的であって、仲間たちには関係ない。真っ先に思いつくのはその理由だ。しかし、自分がいなくなったことを知った「彼ら」がどういう行動を取るのか、想像はついていた。迷惑をかけるのは自分がいてもいなくても同じことだ。
 それでも足は止まらなかった。己にしては珍しい衝動に突き動かされて後先考えずに行動した、というのが真相である。その理由は分からなくとも、発端だけははっきりしていた。今でも目をつむると「あの光景」が蘇る――
(あれ……?)
 そのまま眠りに引きずり込まれそうになった。いつ魔物に襲われるとも知れない屋外だ、と焦ってまぶたを開ける。
 すると眼前いっぱいに花畑が広がった。同時に、ふわりと嗅ぎ慣れぬ匂いを感じる。
 知らぬ間に木立を抜けて、一面の花畑に迷い込んでいた。後生大事にランタンを握る意味がなくなるほどに明るく、地面には黄色い花が絨毯のように敷き詰められている。知らない種だ、とついしゃがみこんで拡大鏡を取り出そうとした。
 その時、めまいを感じた。
「う……」
 くらりと視界が揺れる。花畑に突っ伏しそうになって、慌てて両手を地面についた。ランタンはぎりぎりで転倒を免れ、体のすぐそばに直立する。
 まずい兆候だ。改めてあたりに気を配れば、目で確認できるほど大量の花粉が漂っていた。すぐに袖で口元を覆う。何らかの状態異常を引き起こす花粉を不用意に吸い込んでしまった、ということらしい。
(ラットキンが追ってこなかったのは、この場所を知っていたからか)
 獲物は必ず罠にかかると判断したのか、深追いすれば自分たちも危険だと分かっていたのか。
 とにかく、どうにか立ち上がってこの花畑を脱出しなければならない。が、体に力が入らなかった。完全に平衡感覚がおかしくなっている。まぶたを閉じてもぐるぐると世界が回っているようだった。
 なんとか冷静さを保って分析する。この症状は、何らかの神経毒と混乱あたりか。治療のハーブはあるが、花粉の真っ只中で使っても意味がない。治してもすぐに新たな症状が出るだけだ。
 学者の知識の範囲では対処法などなかった。が、仲間との交流のおかげで一つだけ打開策を知っていた。それは――
「先生、大丈夫か?」
 急に声をかけられ、仰天した。顔を跳ね上げる。
「アーフェン君……!?」
 麦穂色の髪を逆立てた青年がこちらを心配そうに覗き込んでいた。彼こそ、今求めている薬師だった。
 周囲の景色はいつしか花畑ではなくなっていた。この殺伐とした岩場と抜けるような蒼穹は、ハイランドだろうか。
「サイラスさんが急にうずくまってしまったんです。アーフェンさん、お薬を調合してくれませんか」
 同じく眉を曇らせたオフィーリアが、そばにやってきて膝を折った。
 返事をしようとして、口元を覆う袖を離してしまった。その瞬間にむせそうになり、慌ててもう一度かざす。
 これは幻覚だ。花による混乱症状が引き起こしたものだろう。どうやら自分自身の記憶を忠実に再現しているようだった。いつか同じような出来事がハイランドであった。魔物の体液を浴びて、自分では判断がつかないほどの異常を体に感じたのである。
 アーフェンが腕組みをする。
「そうしたい気持ちは山々だが……今、薬が足りねえんだよな。あんまし使いたくねえけど、あれをやるか」
 彼はうんうん悩んだ末に屈みこみ、こちらの背中に手をあてた。少しして、薬師の体温以上に肌があたたかくなった。注がれた力が全身に巡っていくのを感じる。
 不思議なことに、体はすぐ軽くなった。オフィーリアが目を丸くする。
「今のは一体……?」
「健全化って言うらしい。霊薬公様のありがたい加護だとよ」
 ぱんぱんと手を叩いて立ち上がったアーフェンは、どうも歯切れが悪い。オフィーリアが小首をかしげた。
「神官の魔法と似ていました。薬師の方もこういう技を使えるのですか」
「ああ、どんな症状でもたちどころに治しちまうんだ」
「それはすごいですね! でも、どうして……」
 オフィーリアと同様、話を聞いて真っ先に「何故積極的に使わないのか」という疑問を抱いた。実際、当時はこちらから質問したはずだ。
 アーフェンは直情径行というべきか、考えるよりも先に手が出るような青年だが、薬についてはよく勉強していることもあって、学者顔負けの説明を理路整然と行える。この時もそうだった。
「だってなあ、どういう病気か分からないままとにかく治しちまうんだぞ。しかも効果は長続きしないからすぐにぶり返す。健全化がかかってる間は健康になっちまって診察もできねえから、根本的な解決にはならねえんだ。緊急時はしょうがねえけど、健全化を使いすぎて後遺症でも残ったら本末転倒だろ」
 この話をオフィーリアは神妙な顔をして聞いていた。神官の秘術――怪我があるのに、痛みを打ち消してしまう魔法――と共通する欠点に気づいたのだろう。奇跡のような力には必ず代償があり、本職が使いたがらないのは道理だった。
 アーフェンは気を取り直して、こちらに肩を貸してくれた。
「さ、先生、とりあえず今できる分の処置はした。町までがんばってくれよ!」
 その後、彼は材料を揃えてきちんと薬を調合し、複雑な症状を治療してくれたのだった。
「そう、健全化だ!」
 声を絞り出して己を奮い立たせ、幻覚を振り払う。現実の体はまだ花畑の中心でうずくまったままだった。
 あの技を使えば少しの間は花粉を無効化できるはず。その間に花畑から抜け出し、あとはハーブでどうにか治療するしかない。渋るアーフェンを説き伏せて健全化を習得していたことが功を奏した。
 健全化とは、調合と違って魔力によってなす奥義だ。口を覆っていない方の手を己の胸に当て、力を込める――が、発動しなかった。
(魔力切れか……!)
 おかげで症状の一部が判明した。おそらく「至高の毒」と呼ばれる、罹患者の魔力をも奪う毒だ。
 ぽたりと花弁の上に赤い液体が垂れた。鼻血を噴いているらしい。いよいよ時間がない。八方塞がりの状況に一瞬目の前が暗くなりかけたが、気力を振り絞って対策を練った。
 対症療法でしかないが、プラムで一時的に魔力を回復させ、すぐに健全化を使うのが良さそうだ。だんだん力の入らなくなってきた片手を動かし、鞄を探った。
 底の方にあった果実をどうにか探り当てた。口元に持っていこうとしたが、ぽろりと手のひらからこぼれてしまう。地面を転がる赤い実に、慌てて手を伸ばした。
 掴んで拾い上げたのは、真っ赤なリンゴだった。
「え……?」
 気づけばあたりは薄暗い地下室になっていた。
 石の床には自分のものではない血がにじんでいた。さらに身を刺すような寒さと吐く息の白さで、おおよそどこにいるのか分かった。
(また幻覚か。しかもここは……)
 幻覚なのに妙に臨場感があって、おまけに毒に冒された現実よりも正常な感覚に近いのだから、たちが悪い。今度は袖を離さないように注意して、ゆっくりと顔を上げる。
 すぐそこに、紫の外套を羽織ったテリオンが呆然と立ちつくしていた。こちらからは背中だけしか見えないのに、打ちひしがれていることが伝わってくる。
「ダリウス」
 小さな声は震えていた。視線の先に、物言わぬ屍となったダリウスがいた。
 ノースリーチの廃教会地下だ。廊下の行き止まりにあるこの部屋は、盗賊団の宝物庫として使われていたらしい。ダリウスは逃げ出す前に宝を取りに来て、鉢合わせたかつての仲間に殺されたのだった。
 廃教会入り口で盗賊団の残党処理のために待機していたところ、捕まえた元幹部がそう白状した。その場にテリオンはおらず、「急いだ方がいい」と判断して自ら伝えに行った。話を聞いたテリオンが矢のように駆け出したので、自分も取って返し、この場所でやっと追いついたという経緯だ。
 みるみる己が幻覚に呑まれていくのが分かる。他の記憶ならいざ知らず、この光景にはどうしても抗えなかった。落ち着きを失った心が過去にとらわれていく。
 兄弟を見たテリオンの反応は予想通りだった。その乱れた胸中を考えるほど、こちらは冷静になれた。
 ……それなのに。
 彼の表情を目にした瞬間、どきりとする。振り返ったテリオンは泣いていなかった。ただ目元を赤く染めて唇を引き結んでいるだけだ。それなのに、この上なく傷ついているとはっきり分かった。かつては兄弟として慕っていた男がいなくなったのだから当然だ――という推測は甘かった。彼にとってのダリウスがどういう存在か、自分は本当の意味で理解できていなかった。
 心臓が早鐘のように鳴り響く。今、己はテリオンとは別の意味で衝撃を受けていた。袖で口をふさぐことも忘れ、両手はだらりと体の横に垂れていた。
「彼は部下に裏切られたんだ」
 だが、こちらまで取り乱すわけにはいかない。ダリウスの死因について、学者として平常心を保って解説した。その間も、胸にじわじわと冷たい雪が染み込んでいくようだった。
 口元をおさえて瞳を揺らすテリオンに、どうしてここまで心かき乱されるのだろう。
 答えが見つけられないまま体が動いて、持っていたリンゴをテリオンに渡す。
「自分の行いを忘れず、何をなすべきだったかを考え続けること……それが、門の向こうへ去った者への唯一の手向けなのかもしれない」
 己の反省も混じった言葉を告げてから、テリオンを置いて部屋を出た。
 冷たい廊下で息をつく。地下には雪も光も入らず、薄闇が満ちていた。
 無機質な石床を見下ろすうちに、混乱した考えがまとまってきた。何が一番己に突き刺さったのか、傷口を広げるように探りを入れる。
 自分は今まで、誰が目の前で倒れようとも落ち着いて動けた。それは幼い頃から変わらない気質だった。
 でも、もしかしたらそれは間違っていたのではないか。十五年前のあの日、前学長が自分の家で亡くなっていたのを発見した時だって、普通の子どもなら打ちのめされて何もできなくなるのではないか。今のテリオンのように。
 奇しくもこの旅の中で、身近な人の死に動揺する者たちを何度も見てきた。リアナやオフィーリア、プリムロゼもそうだっただろう。残された者たちはそれぞれ、死者への思いに駆り立てられて動いていた。蘇生や仇討ちという行動を引き起こす強い衝動は、ごく当たり前の悲しみに端を発するものだ。彼女たちは、大切な人の死を認識しているからこそああなった。
(それが、私にはない)
 今でも前学長の死が受け入れられないから、その理由を知りたい。ほぼ間違いなくルシアや学長がやったであろう行為に意味を見出したい。その無味乾燥とした欲求が、あるべき悲しみを覆い隠していた。
(そうか……だから私は一人で旅立ったのか)
 単独でダスクバロウに行かなければならないと強く思ったのは、廃教会地下でテリオンの顔を見たからだった。仲間たちと自分との間に横たわる亀裂を、決して埋められない差を感じて、目を背けた結果が今だ。
 両のこぶしを握りしめる。取り返しのつかない傷を負ったことを今になって思い知り、凍てつくような痛みを感じた。
 ぎゅっとまぶたをつむって波が引くのを待った。やがて目を開けると、相変わらず廊下は薄暗がりに満ちていた。
(……いや、これはおかしい)
 こんな時でも学者としての観察眼が働いた。本来なら明かりのない地下は真っ暗闇のはずだ。だが、床や壁を視認できる程度の明るさはあった。光源はごく近い。足元に視線を落とすと、そこにランタンがあった。あ、と思った拍子につまづいて、ランタンを蹴飛ばしてしまう。
 幕が上がったようにあたりが明るくなった。炎が一気に燃え広がったのだ。
「え……うわっ!?」
 炎の向こうにはウッドランドの花畑があった。あまりに驚いたため幻覚が吹き飛んだらしい。唇が反射的に詠唱を紡いだ。
「氷よ、切り裂け!」
 己を中心に吹き荒れた冷風が周囲の花びらを凍りつかせる。幸い炎はまだ小さく、消し止めることができた。
(今、どうして魔法が使えたのだろう)
 結局プラムは口に入れなかったはずだが。
 考えている暇はなかった。炎や氷のおかげで幸いにも空中の花粉は消えていた。すぐに健全化をかける。一瞬で嘘のように体が軽くなった。
 効果時間は本当に短いので、花畑を駆け抜け、黄色い花弁が見えなくなるほど離れてから体やローブをはたいて花粉を落とした。水筒を取り出して顔を洗う。よろよろと木の根本に座って、毒と混乱を治療するハーブを口に含み、やっと肩の力を抜いた。健全化が切れたらある程度ぶり返すだろうが、その時はまた対処しよう。
 いつの間にか肌の上で固まっていた鼻血の処理をしている最中に、先ほど唐突に魔力が復活した理由に思い当たる。あのランタンの炎だ。幻覚から戻ったばかりだったので、まるで蹴り倒したランタンから花畑に延焼していったように見えたが、実際に焦げている花弁は一つもなかった。すなわち、炎は自分の体に宿ったのだ。
 ランタンの火は己の魔力によって燃やしていた。ある意味、魔力を蓄えていたということになる。それが体に戻ることで補給になったのだろう。無論普通の炎にそんな効果はないが、あれはテリオンがつけたものだ。盗賊は魔力の受け渡しができる技を持つ、と聞いたことがあった。
「サイラス、その火は大事に持っておいた方がいいよ」
 ――数日前、クオリークレストで会ったオデットが別れ際に言っていたことを思い出す。
「どうしてだい」と尋ねると、先輩はしれっとした顔で「なんとなくさ。いつかあんたの助けになるだろうと思ってね」と答えた。
 あの後、クオリークレストを出発してから、盗賊の技を求めて盗公子の祠に赴いた。だが祭壇で祈りを捧げても何も手応えを得られなかった。以前訪れた他の祠では、必ず何かしらの充足感が得られたのだが。その経験があると、仲間たちから教わった技が身につくようになることには薄々気づいていた。
(もしかして、エベル神が私に力を与えなかったのは……)
 この火があったからかもしれない。「仲間がいるのだから、素直に力を借りたらいい」とでも言いたかったのか。
 盗公子にそう思われるのも道理だった。己は勝手な理屈で仲間を遠ざけたのに、彼らの残したものがこの身を守ってくれたのだ。
 度重なる幻覚で冷えていたはずの心と体は、温度を取り戻していた。
(それでも……私はまだ、帰れない)
 空のランタンは鞄にしまった。まだ日が高いので、ダスクバロウまでもう少し距離を稼ぎたかった。
 一度アトラスダムに戻れば、再び旅に出ることはないだろう。あの町でやるべきことはいくらでもある。家で帰りを待つ「彼女」も、預かり子がほとんど顔を見せないから心配しているかもしれない。
 膝に力を込めて立ち上がる。旅の終わりはすぐそこだった。

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