決戦前夜

 外の静けさが壁越しに伝わってくるような夜だった。
 トレサは乾いた布を使って一心に杖を拭いていた。木製の柄には特殊な加工がされており、軽くて頑丈だ。先端についた宝石が魔法の威力を高めるという逸品である。
 これは今度の戦いで彼女が使うことになる大事な武器だ。決戦の時に思いを馳せながら、ひたすら布を動かした。
「……サ、トレサ!」
 急に名前を呼ばれてはっとする。顔を上げれば、左右からハンイットとオルベリクが覗き込んでいた。
「わっ。二人ともどうしたの?」
「そう訊きたいのはわたしの方だ。先ほどからぼーっとしていただろう」
 はっとして手元を見下ろせば、杖の柄はつるつるになっていた。
「ご、ごめん。まだまだ残りがあったわね!」
 彼女は慌てて次の杖を手に取った。
 三人は大部屋に敷物を広げて座り、周囲に積み上げた装備品を手入れしていた。武器の種類によって整備方法が違うので、担当者を分けている。ハンイットは斧と短剣、オルベリクは剣と槍、トレサは弓と杖だ。パーティ全員の武器を手分けしており、装備の山は相当な高さである。
 普段はもちろんそれぞれの使い手たちが手入れしているが、今回は準備する数が桁違いだった。一人あたり最大で四種類の武器を使い分けるのだ。加えて、防具やアクセサリなど他の準備もある。よって武器についてはこの三人でまとめて整備していた。
「何か気になることでもあるのか」
 眉をひそめたオルベリクに尋ねられ、迷った末にトレサはうなずく。
「うん……いよいよ明日だと思うと、ちょっとね」
「まだ明日と決まったわけではないぞ」すかさずハンイットに言われたが、
「でも門があるのは合戦場跡の可能性が高いのよね……?」
 おずおずと聞き返せば、二人は押し黙った。
 今彼女たちがいるのは旧ホルンブルグ領だ。一行はクリスの行方を追ってここにやってきた。いつかボルダーフォールで別れたきりだった彼の行き先を、以前クリスが所属していた旅芸人一座から聞いたのだ。しかも、クリスは例の魔女と連れ立って旧ホルンブルグ領を目指しているとのことだった。
 サイラスは「そこにフィニスの門があるのではないか」と以前から考えていたらしい。今回クリスたちが向かったことで、予想はほぼ確実になった。支度を整えた一行は、滅びた国の荒れた街道を進んだ。そして、一両日中にも門があると思しき合戦場が見えてくるというタイミングで、この村を見つけたのだ。
 かつて起こった内乱の主戦場に近く、村人たちはとうにいない。荒廃の激しい土地にはもはや賊すら存在せず、建物だけが残っていた。探索中に見つけた亡骸にオフィーリアが鎮魂の儀を行い、オルベリクの許可を得て、宿の看板が出ていたこの建物で休むことにした。幸い調度品はそのままで、掃除すれば一晩を明かすには十分な場所になった。
 一行はここで最後の準備をすることに決めた。いつもより幾分か豪華な夕飯を食べ、明日に向けての作戦会議を行い、準備作業を分担した。今や士気は最高に高まっていた――
 トレサは長い長いため息をつく。
「やっぱり緊張しちゃって……。二人はこういう時、どうしてるの?」
 剣士に狩人、それぞれ戦いを生業にする二人だ。きっと参考になる話が聞けるだろう。トレサが姿勢を正して尋ねれば、ハンイットは刃に薄く油を塗った斧を脇に置いた。
「わたしはいつも通りに過ごすようにしているな」
「そういえば、赤目の時もそんな感じだったわね。だから今日晩ごはんをつくってくれたの?」
 石化した師匠ザンターを取り戻すため、マルサリムで魔物の棲みついた遺跡に挑んだ際、ハンイットは自ら糧食の準備を行っていた。師匠でも敵わなかった脅威に挑むとあって緊張した様子だったが、あの時のハンイットは少なくとも今のトレサより冷静に振る舞っていただろう。
 今日の晩ごはんは、在庫が心もとなくなってきた持ち込みの食材に、村の畑跡で見つけた自生の野菜を足して、ハンイットがつくった。パンにスープにサラダに肉と、品数が揃っていて豪勢だった。
「ああ。リンデの毛並みを整えることもその一つだな」
 ハンイットはふっと表情を和らげ、そばに伏せていた雪豹の背中をなでる。魔物は心地よさそうにあくびをした。なるほど、とトレサはその意見を心の手帳に書き留める。
 オルベリクもうなずいた。
「俺も同じだ。こういう時こそ鍛錬を欠かさないようにしている」
「あ、それって朝テリオンさんと一緒にやってるやつ?」
「そうだな」
 宿に泊まった翌朝など、二人が外で模擬戦をしていることがよくあった。最初はオルベリク一人で日課の素振りをするだけだったが、いつごろからかテリオンが加わって試合形式でやるようになったらしい。テリオンは仲間たちにその習慣を隠していたが、いつの間にか全員の共通認識になっていた。オルベリクはひっそりと笑う。
「いざという時に生きるのは日頃の訓練だからな。トレサも十分に研鑽を積んでいるはずだ。心配することはない」
「それは分かってるんだけどね……」
 トレサはまぶたをつむってこめかみを押さえた。二人とも落ち着き払っていて、思ったよりも参考にならない。今度はハンイットが身を乗り出した。
「トレサこそ、商談の前は緊張しないのか?」
「まあそれなりにね。でも、あっちは慣れてるし」
 戦場では、商売で身につけた口八丁は役に立たないのだ。するとオルベリクが気遣うような視線を向けた。
「もしかして、リーダーに選ばれたことを気にしているのか?」
 その言葉がぐさりと胸に刺さった。「……うん」トレサは小さくあごを引く。
 ――夕食後にサイラスが発表した「未知に備える作戦」とは、八人を四人ずつのパーティに分けて運用するものだった。
 第一陣は商人、剣士、踊子、薬師。第二陣は学者、神官、狩人、盗賊として、何かあった場合は四人単位で対処する。これまでも任意の四人で動く機会は多かったので、組分けをすること自体は腑に落ちた。
 しかし、今回に限ってトレサが第一陣のリーダーを任されたのだ。完全に初耳だった。指名された時は心臓が飛び出そうになったものだ。
「だって、リーダーならオルベリクさんの方がずっと向いてるわよ!」
 トレサはこぶしを振り上げて力説する。なにせオルベリクは彼女の人生と同じ年月、剣を握って生きてきた人なのだ。彼女の訴えるような視線を受けて、オルベリクは傷の残る顔を少し緩める。
「俺は少し前、リーダーの件でサイラスに相談されたが、トレサなら大丈夫だと判断した。あいつはテリオンにも了承を得ているはずだ」
「そうなの!?」
 まったく知らなかった。ハンイットも目を見開いている。つまり、少なくとも男性三人はトレサがリーダーだと認めていることになる。
「えっと……オルベリクさんはなんでそう思ったの?」
 どきどきしながら質問した。オルベリクは敷物の上に座り直し、真剣に答える。
「サイラスがお前に求めているのは、人々を率いるリーダーではないということだ」
 リンデが顔を上げ、耳をかすかに動かした。いつしかハンイットも完全に手を止めて神妙な顔をしている。
 言葉の意味を必死に咀嚼するトレサの前で、オルベリクはぽつりぽつりと話を続けた。
「一軍の将には様々なタイプがいる。俺は、エアハルトよりも将には向いていなかっただろう」
「そうだな、オルベリクは人に命令して動かすタイプではない気がする」
 ハンイットが真顔で相槌を打った。オルベリクは眉を下げ、否定しなかった。
「えーっと、あたしはリーダーだけど指示はしなくていい、ってこと……?」
 トレサは頭を抱えたくなった。リーダーといえば、戦闘中のサイラスが仲間に号令をかけている姿ばかりが思い浮かぶ。
(いや、うちのリーダーといえば……テリオンさんもそうよね)
 あの盗賊はごく自然にその地位におさまっていた。が、彼は積極的に人を動かすわけではなく、誰かに「こうしてもいいか」と尋ねられて許可しているイメージだ。それでもトレサの認識としてはテリオンもリーダーの一人だった。
 オルベリクは重々しくあごを引いた。
「ああ。……悪いが、言葉ではうまく説明できん」
 トレサは口をつぐんだ。彼は剣で語る男なのだ。
「それなら、作戦を決めたサイラスや、あなたと同じパーティに入るプリムロゼたちにも話を聞いてみるのはどうだろう」
 ハンイットはそう言って、整備の終わった短剣をトレサに差し出した。無骨な見た目のもの、意匠が凝らされた鞘に入ったものなど、合計四本ある。
「アーフェン、プリムロゼ、テリオン、オフィーリアの分だ。残りの武器はわたしがやっておくから、渡してきてくれ」
 ついでに話を聞けばいい、という気遣いだろう。トレサは磨き終えた杖をぎこちなく横に置いた。
「わ……分かったわ。行ってくる」
 短剣と一緒に、武器の割当てが書いてある小さな紙切れをもらって、立ち上がる。心配そうな三対の視線――リンデの金目も含まれる――が背中に注がれるのが分かった。
 少なくとも、オルベリクたちに信頼されていることは嬉しかった。だが、その思いが重荷になる時もある。
 トレサは少し暗い気分で大部屋を出た。
 まずは厨房を目指そう。アーフェンはそこにいるはずだ。薬を練るごりごりという音が大部屋までかすかに聞こえていた。厨房はハンイットのつくった夕食を運ぶ時に入ったので、場所は分かる。
 扉を開けると、案の定作業台に薬草を目一杯広げてすり鉢にかじりつくアーフェンがいた。何故かプリムロゼもそばで椅子に座って足をぶらぶらさせている。こちらに気づいた踊子の唇が弧を描いた。
「あらトレサ、どうしたの」
 ぷんと薬の匂いが漂う室内に入り、トレサは二人にそれぞれの短剣を差し出した。
「アーフェン、プリムロゼさん。これ明日の分ね」
「おう、助かるぜ。そこに置いといてくれるか」
「ありがとうトレサ。……やっぱり一番いいものはテリオンが使うのねえ」
 プリムロゼは唇を尖らせ、受け取った武器をひらひらと空気に泳がせた。視線の先には、トレサの手元に残った「歴戦」の銘を持つ短剣がある。確かに他とは比較にならない業物だった。
「まあ、テリオンさんが一番酷使するだろうから……。ところでプリムロゼさんは何してたの?」
「アクセサリの点検が終わって暇だったから、アーフェンにちょっかいをかけてたのよ」
「正直すぎるだろー」
 とアーフェンがすりこぎを動かしながら苦笑する。
「暇、かあ……。さすが舞台慣れしてるわね」
 トレサはこのタイミングで「暇だ」なんて断言できるプリムロゼが羨ましかった。つい苦さのにじんだセリフを吐くと、踊子はくるりと髪を振ってこちらに顔を向けた。唇の端が愉快げにつり上がっている。
「あら、もしかして緊張してるの」
 トレサはむっと眉根を寄せた。
「もちろんしてるわよ! みんなは平気なの?」
 すると、アーフェンが作業を止めて背中を伸ばした。額を腕で拭いながら軽く笑う。
「俺も俺も。正直、結構やばいと思ってる。俺だけやることが多すぎるんだよなあ……」
 そうだったっけ、とトレサは首をかしげた。どうやらリーダーを命じられたことに動揺しすぎて、続いてサイラスが告げた細かい作戦内容を聞き逃したようだ。そのことにすら今気づいた。まずい。
 青くなるトレサを尻目に、プリムロゼが優美な指を折って数える。
「薬での攻撃と回復はもちろん、盗賊の技で相手を弱らせたり、手が空いたら短剣で攻撃したり……だったわよね。確かに大変そう」
「そうなんだよ。だから薬つくってねえと落ち着かなくてさ」
 アーフェンは困ったように笑みを深くした。プレッシャーを感じつつも、任された仕事を誇りに思っているようだった。彼はサイラスに頼まれた分よりも多く薬をつくるそうだ。グランポートでたっぷり買った素材がここで役に立つわけである。
 プリムロゼは改めてトレサに向き直り、首をかしげた。
「大競売も結構な大舞台だったじゃない。ほら、相手をお魚と思えばいいのよ」
「大競売の観客と違って敵はこっちを襲ってくるでしょ……?」
 こう反論してから、要するに得意分野と違うことを求められているのが不安なのだ、と気づいた。トレサはプリムロゼの隣に行き、調理台に肘をつく。
「オルベリクさんにもあたしがリーダーで大丈夫だって言われたの。サイラス先生みたいなことをやる必要はないみたいだけど、それが何なのか分からなくて……」
 我ながら、らしくもない弱音だった。踊子と薬師は顔を見合わせる。
「……ねえトレサ、あなたサイラスの話聞いてなかったでしょ?」
 プリムロゼの鋭い指摘にぎくりとした。
「ううっ。実は、緊張しちゃって聞き逃したかも……」
「あのさ、こういうことは先生に直接聞いたほうがいいぜ。俺たちもトレサがリーダーでいいと思ってるけど、オルベリクの旦那でもだめなら俺たちがいくら言っても納得できねえだろ?」
 アーフェンはうんうんと頭を縦に振りつつ、手を叩いて肌についた薬草をすり鉢の中に落とした。プリムロゼが足を組んで長いまつげを伏せる。
「サイラスの伝え方も悪かったかもね。トレサ、もう分かってるだろうけど、サイラスは完璧な先生なんかじゃないわ。ダスクバロウでのこと、忘れちゃだめよ」
 辺獄の書を求めたサイラスが、誰にも行き先を告げずダスクバロウへ行ってしまった事件は記憶に新しい。とはいえ、あの時のことを一番根に持っているのは実はプリムロゼではないだろうか、とトレサは疑っていた。
 それに、サイラスにも欠点があるのは間違いないが、今回は聞き逃したトレサ側の落ち度だ。彼を責める気にはなれなかった。
 不意に踊子は調理台に置いていた袋をつまみ上げ、トレサの胸元に軽く放った。慌ててキャッチする。
「わっ。何これ?」
「ナッツ。みんなに渡してきて。もちろんサイラスにもね」
「あ、もしかして例のやつ?」
 オルステラ大陸で育つナッツは、時折特別な効能を宿すことがある。それがナッツに含まれる栄養なのか、はたまた魔法の力なのかはまだ研究中だそうだが、食べると体に作用して、本人の様々な能力を伸ばすことができる。とても貴重なので、今まで入手したものは使わずに全部とっておいた。サイラスは、それを効能ごとに分けて仲間に配ると作戦会議で言っていた。リーダーの件よりも前の話題だったからよく覚えている。
「そう、サイラスに言われたとおり袋に分けておいたの。あなたの分はこれ」
「ありがとう、プリムロゼさん!」
 トレサはさっそく袋を開け、ナッツを一つ口に含む。かりっと歯で砕くと、たちまち力が湧いてきた。現金なもので、こんな時でもおいしかった。収穫から日が経っているのに、香ばしさが鼻に抜けていく。これは希少価値がつくのも道理の味だ。手が止まらなくなり、ついついその場で全部食べてしまう。
 プリムロゼは目を丸くしていた。
「ねえトレサ、よく『ペットと飼い主そっくり』って言われない?」
「うちのリスのこと? よく分かったわね」
「そりゃ分かるだろ……」
 呆れたようなアーフェンの発言に首をかしげたトレサは、
「二人とも、相談に乗ってくれて助かったわ。それじゃ行ってくる!」
 ナッツの袋三つ――サイラス、テリオン、オフィーリアの分だ――と短剣二本を持って、厨房を出た。目指すはサイラスの泊まる部屋だ。そこにいるはずだとプリムロゼに聞いた。
 この建物は元は宿だったが、小さな村のためか全員が一人で過ごせるだけの部屋数がなかった。「今夜はどうしても一人がいい」と希望する者もいなかったので、いつものように二人一組で計四部屋使っている。今夜、サイラスはテリオンと一緒の部屋だ。
 揚々と廊下を歩いて目当ての扉の前に立ち、深呼吸してノックしようとした時。
「もし、サイラスさんが……としたら……」
「そうだ。その時はあいつを……」
 内側から誰かの話し声が聞こえた。二人分、しかもサイラスはいない。トレサは固まった。
「ですがテリオンさんのほうが……」
「もちろん、そのつもりだが……」
 この声はオフィーリアとテリオンだ。二人が部屋の中で秘密の会話をしている!
 まさか色っぽい話ではないだろう、とすぐに確信した。深刻そうな声色もそうだが、何よりも二人はサイラスについて話しているようだ。
(ど、どうしよう)
 盗み聞きはよくない。とにかくサイラスがいない場所に用はない、とトレサはこっそり引き返そうとして――
「おい、こんなところで何やってる」
 即座に背後で扉が開き、テリオンに声をかけられた。ぎくりとして振り返る。
「ご、ごめん……聞くつもりはなかったの」
 会話を邪魔されたテリオンだが、それほど不機嫌そうではなかった。灰銀の前髪から覗く右目は凪いでいる。さらに後ろからオフィーリアが出てきた。トレサがちらりと部屋の中を覗けば、二人分の防具が床に置かれていた。整備の最中だったのだ。防具は自分の体に合わせる必要があるため、それぞれで手入れすることになっていた。
 オフィーリアは軽く首をひねった。
「いえ、大丈夫ですよ。わたしたちにご用ですか?」
「う、うん」
 話の内容には深入りしない方がいいだろうと思いつつ、トレサは二人に短剣とナッツを渡した。オフィーリアがぱっと破顔する。
「まあ、ありがとうございます」
 テリオンは無造作に歴戦の短剣を鞘から抜いた。触れるだけで指が切れそうな刀身が明かりを受けて光る。じっと剣を眺める彼がもの言いたげに見えたので、トレサは言葉を付け加えた。
「あ、武器の最終調整は自分でやってね」
「分かってる。これが用件か?」
 さっさと帰れと言わんばかりのテリオンの態度にめげず、トレサはぶんぶん首を振った。
「えっとね……実はサイラス先生を探してたの」
「あいつならいないぞ。俺が追い出した」
「えっ?」
 しれっと答えるテリオンに、驚いたのはオフィーリアだ。トレサは声もなく瞠目した。テリオンは悪びれずに言う。
「あいつがいたら話ができないだろ」
 オフィーリアはあっけにとられていた。彼女はサイラス不在の理由を知らなかったらしく、ややあって納得したように小さくうなずいた。
「ですが……いえ、そうですね。トレサさん、サイラスさんは他の部屋にいなかったのですか?」
「まっすぐここに来たから分からないわ。探してみる」
「待て、俺も行く」
 きびすを返そうとしたら、テリオンに肩を叩かれた。トレサはびくっと体を揺らしてしまう。
「オフィーリアさんとのお話はいいの?」
「ええ、だいたい終わりましたから。わたしもご一緒します」
 笑顔のオフィーリアを加えて、何故か三人組になってしまった。先ほど漏れ聞こえたサイラスに関する会話と何か関係があるのだろうか。トレサは戸惑いながら二人を連れて宿の中を探した。
 だが、サイラスはどこにもいなかった。探すうちに再び顔を合わせたプリムロゼやハンイットらも目撃していないという。
 トレサはキャットリンの額ほどの広さの玄関ロビーで立ち止まり、うーんと腕組みをする。
「先生、まさか外に行ったの……?」
 もう夜も更けて、そろそろ就寝準備に入る者がいる時刻だ。昼間、サイラスは他の建物を少し気にしている様子だったので、調べに行ったのかもしれない。ここは廃村なので当然明かりなんてない。真っ暗な中、わざわざこのタイミングで何を探る必要があるのだろう?
 すると嘆息したテリオンが前髪を掻きあげて、あたりを見回した。
「……そうみたいだな」
「え、分かるの?」
「外に出ていくサイラスの魔力が見えた。また魔法でランタンを灯したらしい」
 どういう理屈かは不明だが、テリオンは普段は隠している左目を使って魔力の軌跡のようなものを見ることができるらしい。それによって学者の行方を悟ったのだ。トレサは大きくうなずき、びしりと玄関扉を指さした。
「よし、なら追いかけるわよ!」
「先生だから大丈夫」なんて安心していられないのがサイラスなのだと、彼女はよく知っていた。オフィーリアが先ほど渡した短剣を握って首肯する。言わずもがな、テリオンもついてくる気らしい。部屋からサイラスを追い出したことを少しは気にしているのかもしれない。
 揚々と玄関を開けたトレサは背後のテリオンを振り返り、にやりとした。
「ねえテリオンさん、いっそのことその前髪切っちゃったら? こういう時にサイラス先生を探しやすくなるわよ」
「……考えておく」
 彼はぼそりと答えた。冗談のつもりだったトレサは目をぱちくりさせる。オフィーリアが小さく笑った。
 外に出ると、険しい山から吹いてきた冷たい風が三人を迎えた。今晩は月が見えているが、さすがに明かりなしで歩けるほどではない。テリオンが先頭に立ってランタンを持ち、夜の村をゆく。オフィーリアも教会から借りてきた聖火を取り出し、あたたかく足元を照らした。十年近く前に滅びた村なんておばけが出てもおかしくない場所だが、二人のおかげで心強かった。
 オフィーリアがさりげなく歩幅をトレサと合わせ、横に並ぶ。
「そういえば、トレサさんはどうしてサイラスさんを探しているのですか?」
「えっと……明日の作戦を聞き逃しちゃったから、もう一度教えてもらおうと思って」
「どうやったらあんな重要な話を聞き逃すんだ」とテリオンが呆れる。
「だって、あたしがリーダーだって言われてからそれどころじゃなかったんだもの!」
 トレサは叫んでしまってから慌てて口をつぐんだ。あまり騒ぐと魔物に見つかるかもしれない。オフィーリアが採火燈を揺らしてほほえむ。
「一応、村全体に魔除けの術を施しているので大丈夫だと思いますよ」
「でも気をつけるわ……」
 トレサがしゅんとしてうなだれると、前をゆくテリオンが肩越しにこちらを振り返った。
「それで、お前はリーダーに選ばれてプレッシャーでも感じたのか」
 挑発するような口調だ。トレサは反論する。
「そうよ。テリオンさんこそどうなの? 今はずいぶん落ち着いてるわよね。ボルダーフォールで先生がいなくなった時なんか、あんなに大慌てで――」
 直後、テリオンから背筋の寒くなるようなまなざしが飛んできたが、ひるまず睨み返した。オフィーリアが間に割り込んで穏やかに両手を振る。
「まあまあ、お二人とも……」
 先に視線を外したのはテリオンだった。彼は前を向いたままぽつりと言う。
「……どんな事が起こっても俺が対処するって決めたからな」
 トレサは言葉の意味を取りかねてぽかんとする。彼は口元をマフラーに隠し、くぐもって聞き取りづらい声で確かにこう言った。
「どうせ、サイラスはフィニスの門でろくでもないことをしでかす。何が起こってもおかしくない。いちいち動揺なんかしてられるか」
(えっ……)
 この発言には盛大に驚かされた。
 テリオンはサイラスのことを信用していないのではない。むしろ逆だ。学者の奔放な性質をよく分かっているから、自分でできる限りの対処をすると決めたのだろう。テリオンがサイラスを気にかけていることは前から薄々把握していたが、まさかこうもはっきり宣言されるとは思わなかった。
 唖然とするトレサに、オフィーリアがとりなすように言った。
「トレサさん。慰めにならないかもしれませんが、不安なのはあなただけではありません。サイラスさんも同じ気持ちだと思いますよ」
「先生も……?」
 またもや思わぬ情報を聞いて、トレサは目を白黒させる。テリオンがかすれた声でつぶやいた。
「あいつ、部屋でずっと辺獄の書を読んでたんだ。最後の確認だってな。朝まで続けそうな調子だったから、散歩して気分転換しろと言って追い出した」
 辺獄の書にはフィニスの門に関する記述があり、サイラスはそれをもとに今回の作戦を決めたらしい。発案者の彼には誰よりも重い責任がある。サイラスはあまり表に出さずとも、そういうことは重く受け止めるタイプだった。
(そっか、先生も不安なんだ……)
 トレサはぎゅっと胸元を握った。
「わたしたちは少しでもサイラスさんの荷を軽くしたいと思って、話し合っていたんです。そうですよね、テリオンさん?」
 オフィーリアが朗らかな口調で話を振ったが、テリオンは何も言わずかぶりを振る。
「……おい、あそこだ」
 その拍子に目に入ったのだろう、彼は前方を指さした。崩れかけた民家の根元に、ランタンの火がちらちら揺れている。
 きっとサイラスだ。トレサは矢も盾もたまらず飛び出し、テリオンを追い越して駆け寄った。そして、またうっかり大声を上げてしまう。
「先生……あれ、寝てる!?」
 サイラスは地面に座り込み、民家の壁に寄りかかってすやすやと寝息を立てていた。膝には古い本を載せていて、まるで子供のようだ。さらに、これほど近くで声を上げても起きる気配がなかった。
 呆れを通り越したのか、テリオンはいっそ淡々として言う。
「最近眠りが浅そうだったからな……」
「ですが、こんな場所で寝たら風邪を引いてしまいますね」
 大事な日の前に体調不良でダウンするのはさすがにどうなのだろう。「不安だ」という割に緊張感がないのでは――とトレサがもやもやした気分を抱えていたら、テリオンが眠ったままのサイラスにつかつかと歩み寄った。宿まで抱えて行くのかと思いきや、
「ええーっ」
 サイラスのほおを両側から指でぎゅうっと引っ張った。トレサは思わず叫び、オフィーリアも「まあ」と口を手で押さえている。
 ぱっと指が離れると、サイラスが身じろぎした。
「あ……テリオン?」
 まぶたを開けた彼は、ほおに手をやりながら起き上がる。だんだん目が理知的な光を取り戻していった。テリオンの所業には気づいていないようだ。
「おや、みんなも。もしかして私を探してくれたのかな」
 のんきな問いかけにトレサは拍子抜けした。
「先生、なんでこんな場所で寝てるの……?」
 膝に載せていた本を小脇に抱えてのろのろと立ち上がった彼は、次に地面にあった自分のランタンを手にとって苦笑いした。
「散歩がてら民家を調べていたら、古代ホルンブルグ語の書物を見つけてね。おそらくここは村長の家だったのだろう。何か明日に向けてのヒントはないかと思って、解読しようとするうちに……寝ていたらしい」
「そこらの本に、辺獄の書よりいいヒントがあるとは思えんな」
 テリオンの声と視線は氷のように冷たかった。サイラスは眉をひそめる。
「それは……そうだが」
「いいからさっさと休め。他人に迷惑をかけるな」
 つっけんどんな調子だが、テリオンの発言自体はごく常識的だった。サイラスは軽くうなずき、
「キミの言う通りだ。すまなかったね、みんな」
「いえ、迷惑ではありませんよ。それでですね……」
 目配せしたオフィーリアが、トレサをそっと前に押し出す。
「トレサさんが、サイラスさんにご相談があるそうです」
 思わぬアシストを受け、トレサはやにわに緊張して体をこわばらせた。サイラスはひとつ瞬きすると、先生らしい余裕を顔にあらわしてあごをなでる。
「ほう? 何かな」
「えーっと……帰り道に話すわ」
 それがいいですね、とうなずいたオフィーリアは、気を遣ったのかテリオンを促して先に戻っていった。トレサはサイラスと二人、帰路につく。
 彼女は本題に入る前に、ずっと懐に持っていた袋を差し出した。
「そうだ、先生これ。ナッツよ」
「プリムロゼ君が分けてくれたのか。ありがとう」
 彼は口元をほころばせた。このナッツは魔力を高める効能を持つはずだ。サイラスの魔法がもたらす破壊力を想像して少し緊張をほぐしたトレサは、単刀直入に切り出すことにした。
「ねえ先生。先生も明日のことが不安なの?」
 すると、サイラスの形の良い眉が憂いに沈む。年少のトレサ相手でも本心を隠す気はないようで、彼は素直にうなずいた。
「ああ。なかなか気分が落ち着かなくてね」
「そうなんだ。あたしも同じ気持ちだったの。急にリーダーだって言われてから……」
 この発言にはっとしたサイラスは、眉間を指で押さえる。
「それは……私の説明不足だろうね。分かった、もう一度言おう」
 彼は足を止めてこちらに向き合った。トレサはごくりとつばを飲み込み、心の準備をした。
「トレサ君、キミにはとにかくふんばってほしいんだ」
「……ふんばる?」
 彼女はぱちぱちと瞬きする。サイラスは真剣な顔で首肯した。
「キミは今までの戦いで厳しい局面に陥った時、何度もふんばりを見せてくれた。第一陣はキミさえいれば立て直せる、と仲間たちが思えるような存在になってほしい」
 学者らしからぬ簡潔な説明が、耳から全身へと染み渡っていく。
 商売においては逆風を耐えしのぐことも重要だ。変わらない商品価値がある一方で、流行によって大きく売れ筋が左右されることもざらにある。じっと我慢して「ここだ」という買い時、売り時を見極めること――そういうふんばりを、戦いにも応用してほしいということか。確かにトレサは強敵との戦闘中、「ここで倒れてなるものか」とぎりぎりで持ちこたえたことが何度かあった。
 だが、彼女は自信なくうつむいた。
「あたしにできるのかな……」
 最後に戦場に立っているのは自分だけ、という状態になればきっとトレサは取り乱して、「ふんばる」どころではなくなるだろう。
 視界の外で、サイラスがほほえんだ気配がする。
「キミは私のことを先生と呼んでくれるだろう。なら、その先生の言うことをどうか信用してくれないか」
 トレサは顔を上げた。サイラスの目は、いつもの生徒へ向けるものとは少し違った。今、彼女は対等な仲間として頼まれごとをしている。サイラスの真摯な表情と台詞が胸に響く。
「……分かったわ」
 トレサはうなずいた。彼だけでなく、自分をリーダーだと認めてくれたオルベリクもアーフェンもプリムロゼも、そしてテリオンも、皆信頼すべき仲間だ。彼らが言うのなら、きっと自分にはその力があるのだろう。
 商売人としてのふんばりで、何度だって立ち上がってみせる。
 暗く寒々しい廃村の中なのに、体がぽかぽかとあたたかい。トレサはやっと心が晴れた気分でサイラスを見上げる。今度はこちらが彼の不安を解消する番だった。
「ねえ、明日の作戦はサイラス先生だけが決めたんじゃないんでしょ。だったら、その責任はテリオンさんやオルベリクさん、あたしにもあるわよね?」
 サイラスは虚をつかれたように青目を見開く。トレサは勢い込んで続けた。
「そういうのはみんなと分け合ってよ。もし先生が不安で眠れないなら、あたしも一緒に悩んで、いつもよりちょっと遅く寝るから!」
「それでは二人そろって寝不足になるね……」
 サイラスは肩の力を抜いて苦笑した。そして胸元に片手を置き、改まった調子で言う。
「ありがとう、トレサ君。ここまでついて来てくれて……いや、私を連れてきてくれて」
 彼の柔らかい笑みには、言葉で表し切れない感謝がこもっているようだった。トレサはうろたえ、目を白黒させる。
「きゅ、急にどうしたの?」
「今言っておかないといけない気がしてね。……ああ、そうか!」
 突然彼がぽんと手を叩いた。よく通る音だったので、少し前を歩いていたテリオンたちが「何ごとだ」と引き返してくる。それにも気づかぬまま、完全にいつもの調子を取り戻したサイラスはだんだん早口になっていった。
「私は作戦会議の場でみんなにこれを伝えたかったんだ。どうも心がすっきりしなかったのは不安のせいだけでなく、この言葉を見つけられなかったからだろう」
 明るい表情で自分の心理を分析するサイラスに、トレサはすっかり面食らってしまった。一方で、輪に入ったテリオンが学者に胡乱な目を向ける。
「オルベリクが言っていたが、そういう挨拶はエアハルトが嫌っていたらしいぞ」
「どういうことですか?」
 オフィーリアが小首をかしげた。テリオンが身振りを交えて説明する。
「戦場に行く前、家族に改まって感謝や別れを告げた兵士は、結局家に帰れないことが多かったらしい」
 心の区切りがついたせいで緊張が途切れるか、あるいは無駄に気を張るせいで本来の実力を発揮できず、戦場に倒れることになった。むしろいつも通りに出発した方が力が抜けていい動きができる、と酒の席でエアハルトがぼやいていたそうだ。
 かの烈剣の騎士も、まさか友人経由でこんなところに話が伝わるとは想像しなかっただろう。トレサは愉快な気分になった。
「ほう。戦場におけるジンクスのようなものだろうか。興味深いが……私がみんなに感謝しているのは本当だよ」
 サイラスは眉をひそめ、控えめに抗議した。珍しく、彼の声には駄々をこねるような響きがあった。対するテリオンはまるで取り合わず、「そういうのは全部終わってからにしろ」と鼻で笑う。
 旅路を経て二人の会話が成り立つようになったのはありがたいが、こういうささやかな衝突が増えたことはいただけない。オフィーリアは仲裁する気がないらしく、黙ってにこにこしていた。
 そんな中、ひとつ閃いたトレサは、そっとサイラスに近寄る。
 リーダーの存在を頼りにすることと、その人に責任を押し付けることはまったく別の話だ。先ほどまでのトレサは気が動転してそれを混同していた。テリオンが「何が起こっても自分がなんとかする」と決めたように、彼女も自分なりに皆を支えるのだ。
「先生、こういう時は別の言葉よ」
 肩を叩いて促すと、彼は少し腰を落として高さを合わせてくれた。その耳に片手を添えて囁いてから、トレサはにこりと笑った。
 なるほどね、とつぶやいたサイラスも同じく笑顔になって、テリオンたちに向き直る。薄い唇が開いた。告げられたのは何の変哲もない一言だった。
「みんな、明日もよろしく頼むよ」
 それはきっと特別でない新しい日を予感させる、晴れやかな声だった。

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