ファーストインプレッション

 酒場の戸をくぐると、黒いローブが視界に入った。
 昨日この村で出会い、明日から一緒に旅をすることになった学者サイラスだ。彼はローブを脱いで椅子の背にかけ、一人でカウンター席に座っている。
(へえ、意外ね)
 プリムロゼは形の良い眉を少し上げた。
 このフラットランドの小さな村で、昼間ちょっとした騒動があった。八人は力を合わせてそれを解決し、大きな酒場でエールを飲みかわした。しかしプリムロゼは満足しきれず、打ち上げが終わってからこうして別の酒場を訪れた。
 まさかサイラスも来ているとは。悪くない展開だ。プリムロゼは口の端を吊り上げる。
(あの学者先生の崩れた表情……見てみたいわね)
 砂漠の酒場で働いていた頃を思い出す。あそこにいた時、しばしば学者を客に迎えることがあった。普段禁欲的な生活をしている分、彼らは一様に踊子に耐性がなかった。アトラスダムで暮らしていたサイラスも、きっと似たようなものだろう。少しからかってやろうという気が湧いた。
「先生」
 近寄って声をかけても、彼は手元に目を落としたままだ。
「お隣よろしいかしら」
 許可を得る前にするりと横に座る。サイラスはやっと顔を上げた。
「おや。もちろんだよ、プリムロゼ君」
 きちんと話をしたのは初めてだが、相手はこちらの名前を覚えていた。実に学者らしい記憶力だ。
 彼はカウンターの上に広げた本を熱心に読んでいたようだ。
「それ、例の本よね。祭りの主催者たちから取り返したっていう」
「そうさ。薬学については不案内でね、一通り読んでいたんだ」
 静かな宿の部屋ではなく、わざわざこんな場所を選ぶなんて。それほど酒が飲みたかったのだろうか?
 内心首をかしげながら、プリムロゼは自分の注文をすべく、バーテンダーに向かって唇を開く。その直前、さっとサイラスの手が伸ばされた。
「待ってくれ。お近づきの印だ、私が奢ろう」
「あら、ありがとう」
 プリムロゼは何度か瞬きした。意外と気が利くものだ。
 彼は「これと同じものを」と言って自分の酒を示す。出てきたのは淡い色のボトルだ。サイラスがプリムロゼのグラスに注ぎ、かちりと杯同士を合わせる。
 小さな泡の弾ける液体を軽く口に含んだ。爽やかな甘さが喉を滑り落ちる。
「リンゴのお酒ね」
 赤い果実はこの村の特産である。悪くない味だった。飲みやすさに反して、それなりに度数が高いらしい。
「シードルさ。お気に召したかな」
「もちろんよ」
 サイラスはまだ一杯目のようだ。どの程度飲めるのだろう、とプリムロゼは実力をはかるように横目を向ける。
「先生、今日はお疲れさま」
「ありがとう。プリムロゼ君こそ、林の中であの一党と戦ったのだろう?」
「オルベリクたちがいたから、私の出る幕なんてほとんどなかったわ」
「そうかね。キミの戦いは見てみたかったな」
「この先たっぷり見せてあげるわよ。ねえ先生、その本には何が書いてあるの。気になるわ、私に教えてくださらない?」
 思いきって相手に体を寄せ、本を持つ腕にそっと己の手を重ねた。サイラスはぱちりと目を瞬いた。
 学者を客にとる時はひたすら下手に出て、相手の知識を思う存分披露させる。概して女性経験の浅い学者たちは、最初は涼しい顔をしていても、ささやかな接触を繰り返すうちに陥落する。
(化けの皮を剥がしてあげるわ)
 プリムロゼは笑みを深める。つられたように、サイラスはにこりとした。
「そうか! ちょうど読んだばかりで誰かに語りたいところだったんだ。あとでアーフェン君を誘おうと思っていたのだが、キミがそう言ってくれて嬉しいよ」
「そ、そう……」
 サイラスは、この麗しい踊子をさりげなく男と同列にした。アーフェンは確かに優秀な薬師だが、プリムロゼが誘いをかけている場面で口にすべき言葉ではないだろう。
「もう先生ったら、私とお話する方が楽しいでしょ?」
「そうだね。キミのような美しい女性との語らいは、何にも代えられない時間だよ」
 サイラスの青目が意味深に細められた。やっと望みの言葉を引き出せて、プリムロゼは満足する。
「それではまず、一章についてだが——」
 サイラスはページをめくりながら楽しげに語りはじめた。
 プリムロゼは自分のグラスを傾ける。
(話が……長いわね)
 最初は笑顔で相槌を打っていたが、だんだん意識が散ってくる。こちらは聞くだけなので、つい口寂しくなって酒を飲んでしまい、いつの間にかグラスが空になっていた。
 このままではいけない。サイラスが一息ついた時、すかさず口を挟む。
「あら先生、お酒が減っているわよ」
「ああ、すまないね」
 実際はほとんど減っていなかったが、これでもかと注ぎ足してやる。こうなれば、先に酔わせてしまう作戦に移行しよう。プリムロゼは飲酒能力の高さには自信があった。
 サイラスはほがらかに笑いながら「キミもどうぞ」と彼女のグラスを満杯にした。余計なことをしてくれる。
「ところで、今の話についてキミの意見をうかがいたいのだが」
 ……途中から聞いていなかった。プリムロゼは一計を案じる。
「ねえ先生、もっと違うお話もしてちょうだい」
 自分からねだっておいて話題を変えた。しかしサイラスは嫌な顔一つしなかった。やはりこの方針で間違っていないはずだ。
「そうかい? ではフラットランドの歴史について話そうか。アトラスダムにいた頃、生徒に教えていたんだ」
「……ええ。よろしく頼むわ」
 相変わらず堅苦しい話題である。だんだん顔がひきつってきた。
 サイラスの話を流し聞きするうちに、ノーブルコートで家庭教師に教わった歴史を思い出した。しかし、あれは子供向けに噛み砕いたものだったと思い知る。サイラスはフラットランド八部族の成り立ちからはじめて、グランポート王国との戦争について懇切丁寧に説明を続ける。
 再び耳を傾けるばかりになってしまった。こちらの酒量はみるみる増える。このままではまずい。プリムロゼは「先生」と言って話に割り込み、相手のグラスに酒を注いだ。こうなれば多少強引にでも飲ませてやろう。
「ありがとう」
 サイラスは話の合間にするするとグラスを空ける。そこに注ぎ足す。プリムロゼも付き合って飲み続ける。
 しばらくすると、永遠に続くかと思われた長話が一旦途切れた。
「プリムロゼ君? 少し飲み過ぎではないかな」
 サイラスが眉を上げる。
「そんなことないわよ」
 誰のせいでこうなっているのだ。プリムロゼはカウンターの上にグラスをどんと置いた。淡黄色の水面が揺れる。
「しかし」
「そんなことないって言ってるでしょ?」
 腹から声を出す。サイラスは「うん……」と小さくうなずいた。
 作戦を変えてから、こちらの倍は相手に飲ませている。なのにどうして彼は一向に酔わないのだろう。
 それに、どれだけプリムロゼが距離を詰めようと、サイラスが出すのは真面目な話題ばかりだ。酒場を学び舎にでもするつもりなのか。こんなに魅力的な女性がそばにいるのに、口説き文句の一つも出ないのか?
 やけになったプリムロゼは手酌で酒を注ごうとして、ボトルが空になっていることに気づく。
「ねえ、これおいしいわ。あと一本頼みましょ」
「確かに味は良いね。だがそろそろやめておいた方が」
 何よ、と相手をにらみつけようとして、プリムロゼは体のバランスを崩した。
「あっ」
 前に傾いた上体が、サイラスによって支えられる。視界が暗くなった。どうやらプリムロゼの頭は彼の胸元にあるらしい。
(あたたかい……)
 肩に添えられた手からじんわり熱が伝わり、なんだかいい心地になってきた。
「プリムロゼ君、大丈夫かい?」
 心配そうな低声が無意識の海に溶けていく。まるで彼女をあやすように、背中をとんとん叩かれた。
 領主の娘として生きていた頃、同じ温度を感じたことがあった。
 ——おやすみ、プリムロゼ。
「おやすみなさい、お父様……」
 彼女は口の中でむにゃむにゃつぶやきながら、眠りの淵に落ちた。



「あーうん、立派な二日酔いだな。一応薬あるけど、飲むか?」
「いただくわ……」
 アーフェンは患者としてやってきたプリムロゼに正対する。彼女は頭を抱え、渋面をつくっていた。
 村の騒動を解決したあくる日、朝食をとるため宿の食堂に行く準備を整えていたら、彼の泊まる個室の戸をプリムロゼが叩いた。昨晩の一部始終を知っていたアーフェンは、納得とともに彼女を招き入れた。
 不機嫌そうな患者を見れば、ふつふつと笑いがこみ上げてくる。
「びっくりしたぜ、あんたが酒に飲まれるなんてよ。しかもあの先生と——」
「言わないで」
 ぴしゃりと遮られた。プリムロゼの眉間にしわが寄り、迫力が倍増していた。美人が怒ると怖い。
「昨日の夜のことは誰にも言っちゃダメよ」
「わ、分かったって。お大事にな」
 プリムロゼは渡した薬を引ったくるようにして部屋を出ていく。
(……つっても、誰かと話してえよなあ)
 アーフェンはうずうずしながら準備を済ませ、遅れて廊下に出る。すると、隣の部屋からサイラスが顔を出した。
 プリムロゼを酔い潰した犯人である。先ほどの患者とは対照的に、爽やかな顔だ。魔法が強くて酒にも強いなんて、反則みたいな人である。
「おはようアーフェン君」
「おはよ、先生。さっきプリムロゼが俺んとこに来たぜ」
 するとサイラスは心配そうに眉を下げた。
「そうか……彼女はどんな様子だった?」
 アーフェンは頭の後ろで腕を組む。
「単なる二日酔いだなありゃ。薬渡しといたから大丈夫だろ」
「それはありがとう。私がもう少し早く気づいていたら、ああはならなかったのだが。しかしプリムロゼ君は何度止めてもグラスを空けてしまうし……」
 サイラスは不思議そうにあごに手をあてていた。
 おそらく、プリムロゼは相当な負けず嫌いだ。サイラスを酔い潰そうとして返り討ちにあったのだろう。アーフェンも、まさかサイラスが彼女より酒に強いとは思わなかった。
「とにかく、次からはよく気をつけるよ」
「ああ。プリムロゼもそうすると思うぜ」
「そうだといいね。彼女との語らいはとても楽しかったから、また機会を持ちたいな」
 サイラスは笑顔で歩いていく。なんとなく、アーフェンはずれたものを感じた。
 食堂の前では別の仲間と出会った。
「アーフェン、おはよう」
 狩人ハンイットである。彼女は整った顔に愉快そうな色をのせていた。
「昨日の晩は……面白かったな」
 言葉を選んだ末の感想がそれなのか。しっかり者に見えるハンイットだが、なかなかとぼけたところがある。「あなたを待っていたんだ」と言う彼女は、どうやら昨日の出来事をアーフェンとともに反芻したかったらしい。
 昨晩、二人は連れ立って酒場に向かった。アーフェンはサイラスの取り戻した本について質問するため、ハンイットはなかなか宿に戻らないプリムロゼを探すために。
 村の小さな酒場には、おかしな体勢のまま本を読み続けるサイラスがいた。
「ハンイット君、アーフェン君……」
 サイラスは心底困った様子で振り返る。
 彼の膝上で、踊子がぐっすり眠っていた。その体には学者のローブがかけられている。杯を重ねるうちに酔ったプリムロゼが寝てしまい、サイラスはどうしても揺り起こすことができず、そのままにしていたらしい。
 見目麗しい男女が思わぬ距離に接近しているにもかかわらず、どこか間の抜けた光景だった。
 ——食堂に向かって廊下を歩きながら、ハンイットは真顔で言う。
「あんなに困った顔をしているサイラスは初めて見た。あの人もああなることがあるんだな」
 アーフェンも学者の涼しげな表情しか見たことがなかったので、驚いたものだ。もう一人の状態にはもっとびっくりさせられたが。
「にしてもなんでああなったのかねえ。二人ともいい大人だろ?」
「もしかして、二人は互いに会ったことのないタイプだったのではないか。それで距離を見誤った、とか」
「あー、確かに。なるほどなあ」
 サイラスは「踊子」という存在に先入観を持たず、いつもどおりに接したのだろう。反対に、プリムロゼは「学者」という肩書きに気を取られ、サイラス本人の性質が頭から抜けていたのではないか。
「ま、二人とも次からはうまく加減するだろ」
「そうだな。あの光景が見られなくなるのはもったいないが」
 心底残念そうなハンイットの声色に、アーフェンは苦笑を返す。
 昨晩のプリムロゼは、どきりとするほど安らかな顔で眠っていた。サイラスは困惑しつつも、そんな彼女を受け入れていた。
 それを見た瞬間、アーフェンの胸には感慨と呼べるものが湧いてきた。めったにない表情を引き出すことのできる二人が仲間になったのは、本人たちが想像するよりもいいことなのではないか——そう思えた。

inserted by FC2 system