眠りを誘う鐘の音

 なんだろう、気持ちいい音なのに、妙に耳に障るなあ。
 無意識から意識が飛びだし、外気に触れる。ゼルダはうたた寝から久しく覚醒した。
「んー……?」
 誰だ、安眠を妨げたのは。
 半目で犯人を探し、すぐにある物体に焦点を絞った。涼しげな青のガラスコップ。並々と注がれたサイダーの中で、氷がカラン、コロン、という透明な音をたてている。
 ああ、これ飲む前に寝ちゃったのか。
 ほのかに漂う爽やかなレモンの香りは、みるみるうちに彼女から眠りの残滓を奪っていく。忌々しくコップを睨みつけ、今更戻れなくなった愛しい寝床——枕となった長机——を撫でた。教会の礼拝堂、それもお祈り用の椅子に座って舟を漕いでいたらしい。なんて不謹慎な。でも、古い木材の机の表面はからっと乾いていて、いい枕だった。
 視界の端でまた、つうっと結露の雫がコップの外壁を滑り落ちる。口をつけないまま放置されたサイダーは、いずれ室温に戻ってしまうだろう。ゼルダはにやりと笑う。
 ざまあみろよ。氷は溶けるものなの。
 謎の優越感を無生物に対して誇りつつ、顔を上げる。本人の意思とは別に頭の中はどんどん冴え渡り、彼女はこの教会がやけに静かな理由を思い出した。
 団長たちは偵察へ、神父様は庭仕事と墓地の方にご用事。
 ——今、教会には私ひとりか。
 神々が描かれたステンドグラスを蝉の声が叩く。ひんやりした長机に頬杖をつき、ほうっと息を吐く。
 夏の午後を過ごしていると、知らないうちに時間が止まったのではないか、といつも疑ってしまう。
 もはや、ゼルダだけではなく空気そのものが微睡んでいるようだ。教会の中はいつも通りの涼しさだが、外は間違いなく炎天下、真夏日だ。どこかの窓が開けっ放しなのか、時たま誰かの汗の匂いを含んだ風が吹きこみ、停滞した空気をかき混ぜる。馬鹿馬鹿しいほど平和な、初夏のある日。
 遅々として進まぬ時計の針を眺め、代わり映えのしない日々を幾度過ごしてきたことか。一日二日くらい前後で取り替えても全く問題ないだろう。大して彼女のとった行動は変わらないのだから。退屈すぎて彼女は死にそうだった。なのに、どうしようもなく焦っていた。
 こみ上げる欠伸を噛み殺し、とうとう立ち上がる。
 採光窓から白いベールのように注ぐ光が、ゼルダの空色の瞳を射る。こうも直射であるときつい。目を細めて日陰に移動する。ステンドグラス越しの七色の光は虹のようで、とても綺麗だ。
 こーんなに平和でいいのかしらねえ。
 ゼルダは自嘲気味の笑みを浮かべる。
 アグニム達が攻め込んでくる気配は微塵もない。無論暑さに辟易したからではなく、どうやらまだ賢者の娘——特に最後のゼルダ——を悪事に利用する手段が見つかっていないらしい。だから、助け出される前は捕まったにもかかわらず、彼女は処刑も拷問もなしの宙ぶらりんの状態で放置されて、「とりあえず」といった扱いで城の地下に繋がれていたのだ。
 クーデター起こすくらいなら、そういう準備は先に済ませておきなさいよ、と彼女は八つ当たり気味に苛立つ。相手に指摘してやる気は毛頭無い。しかし、それでもそのような致命的な穴を見つけると是が非でも気になってしまう。彼女はそんな性格だった。
 それよりも。そんなに大事な「鍵」を奪われたのなら、速攻で取り戻すべきだろう。なぜ泳がせておくのだろうか?
 当初から感じていたその疑問に対し、暇な時間に巡らす推理にて、不意にゼルダは思い当たった。そこにあるのは、余裕。つまり「いつでも手中に出来る」と執行猶予を与えているつもりなのだ!
 ——気にくわない。
 眉間に皺を寄せたまま腕組みをした。これは団長からの情報だった。彼らは必要とあれば敵地にさえ侵入するのに、ゼルダはここから一歩も外に出られなかった。
 口をへの字に曲げ、唇を噛む。
 悔しい、なあ。しかも関係ない「彼」まで巻き込んじゃって。
 彼はゼルダを地下牢から救い出してくれたその人である。教会に無事送り届けてくれた後は「世話になったおじさんが亡くなった」と言ってふらりと消えてしまったが、何の因果か彼はマスターソード復活の鍵を握る「紋章」を持ち帰ってきた。しかも凶悪な魔物が巣食うという東の神殿から……。
 指名手配されて家にも帰れない。職場なんかなおさらだ。だから、そちらを手伝う代わりに、クーデターを制圧出来たら城で働かせてくれ。
 教会で再会したとき、紋章に驚いたゼルダに向かって、彼はそのような内容のことを話した。彼女はその話を承諾し、彼は団長たちとは別行動で動き始めた。一人の方が性に合っているという。
 正直、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。本当に、彼にこの重荷を背負わせていいのか? 下手をすると国の未来がかかっているのに、それを赤の他人に任せても——?
 分かってる、彼以外に適任はいなくて、これ以外の選択肢はなかったのよ。仕方なかったんだって。
 でも本当にそれだけの理由なのだろうか。
 その時、入口の扉が重い音をたてて開いた。



 ゼルダはろくに身動きもとれず、身を強ばらせていた。
 まさか、見つかった——!?
 まだアグニムが攻め込んでくることはないと確信していたのに。だから彼女は相当に無防備な状態でのびのびと退屈を満喫していたのだ。早い、まだ早すぎる!
 扉から差し込む逆光を背負って立つのは一人だけだ。日が強いほど影は濃くなる。黒く塗りつぶされた影の主は、まだ誰だか分からない。
 その人は一歩踏み出した。彼女は一歩引く。頬にひとすじ汗が流れた。
 軽く息を吸い込む音。言葉が発せられる。
「ただいま帰りました」
 この、落ち着いたよく通る声は……。
 あ、と思い当たる前に体が反応していた。緊張を引きずったまま、しかし焦りを隠して駆け寄る。
「おかえり、早かったわね」
 自分でも驚くほど素直で穏やかな声が出た。
 陽光にキラキラ輝く金髪と、薄めた墨色の瞳。良かった、「彼」だ。
 彼はちょっと眉をしかめてみせた。確かにこの前会ったばかりだけど、別に「早い」ってのは皮肉じゃないってば。
 杞憂に終わった緊張の残り香を愛想に換え、ゼルダは努めて明るく応対する。
「お疲れさま」
「……ああ、どうも」
 いつもは何を考えているのか分からない彼も、今日はさすがに疲労を滲ませていた。
 ……暑い中、歩いてきたんだものね。
 薄暗い教会内を見回し、彼は壁に装備を立てかけた。ぐっと楽になったようで、気持ちよさそうに肩を回す。
「一人ですか」
「みんな出払っちゃってね。
 ねーねー、お土産とかないの? モノでも話でもいいからさ、暇してたんだ」
 相手が疲れているのを承知の質問だ。しかも断れないのを知っている。我ながら、あくどい。
 彼はきょとんとしてから、まじまじと私の顔をのぞき込む。「何よ」「いえ別に」そして、おもむろに彼は背中の鞄から分厚い本を取り出した。
「お土産じゃ、ありませんが。しばらく預かっていてもらえますか」
「ああ……いいわよ」
 とん、と軽く手渡されたが、この本、異様に重い。ゼルダは危うく取り落としそうになった。
「え、な、何これ?」
「ムドラの書、というそうです。長老から貸してもらいました」
 長老……サハスラーラか。東の神殿で彼と会い、紋章を譲ってくれたらしい。サハスラーラも賢者の末裔で、娘を拐われていたはず。
「なんでこんなの持ち歩いてたの? 邪魔でしょ。文字どおりお荷物じゃない」
「次の紋章が眠るとかいう神殿の扉を開いて来ました。なんか古代文字を読む必要があったので」
「へえ」
 私、私なんかどう!? 人間辞書よ、自分で歩くから持ち運ぶ必要もないし!
 ……内心立候補している自分がいた。
 古代文字、というと王家では必須の教養だ。だからゼルダにも読める。何せハイラルの公文書は全て古代文字で記される。理由は知らないが、ずっと前からそう決まっていたらしい。ゼルダはややこしい文法を頭に叩き込む度に「こんなくだらない制度、即位したら絶対廃止してやる!」と決意を新たにしていた。
 ちなみにムドラ、というのは人名である。何代か前の王家に仕え、不完全だった古代文字の体系を整え、完璧な辞書兼文法書を作った。今のハイラルはこの本無しでは成り立たない。しかし、もしゼルダの治世する時代に彼が生まれたのなら、一生その才能は日の目を見なかっただろう。ムドラには幸運だが、ゼルダには実に残念なことだ。
 そういえば、城の図書室にはこれの写本が数冊眠っているが、原本は紛失したままだった。ゼルダは何気なく裏表紙を確認する。ずいぶん古いもののようだが、これは……。
「あのさ、これ、まさか原本!?」
「そうなんですか。大事にしろとは言われました」
 彼は小首をかしげて見せた。あ、今の仕草はいいな。私がやれば、可愛らしさをアピールできるかもしれない。後で真似してみよう。
 ——って、そうじゃなくて!
 表情を繕い「ありがとう」と礼を言うと、彼は少し照れたのかお辞儀してきた。……何故このタイミングで? 相変わらずよくわからない人だ。
 ぼんやり考え込んでいると、途中で彼と目があった。何か言いたそうだ。
「何?」
「水をくれませんか」
 虚を突かれた。全く思い当たらなかったが、そりゃ喉も渇くだろう。ゼルダは温くなったサイダーを差し出す。
 ……口はつけてないから問題ない、一応。
「これ飲む?」
 無言で奪い取られる。彼はくいっと一気に呷った。透明な滝が流れ込み、一滴残らず喉の奥に消えた。
 彼はしばらく後味を楽しんでいたが、ふと不思議そうな表情になった。
「これ、なんですか。水じゃないですよね」
「炭酸。知らないの?」
 首を振る。どうやら知識になかったらしい。
「上流階級で流行っているんですか」
 その壁をつくるような物言いに、ゼルダはむっとした。
「そーよ。悪い?」
 これは嘘だ。教会の地下にたんまりため込まれていたのを偶然見つけ、神父様のいない今こそチャンスとちょこっと拝借してきたのだ。炭酸の存在自体は知っていたが、現物は初めて見た。輸入物だろうか。うーん、彼の表情からして、そこまでおいしくないのかもしれない。期待はしないでおこう。
「いえ。ありがとうございました」
 上下関係はよく理解しているようで、それ以上彼が逆らうことはなかった。溜飲を下げかけて、彼女は顔を曇らせる。
 ——私に感謝しているのではない。私の背中の向こうに見える王家に頭を下げているのだ。ゼルダはそう自分に言い聞かせた。勘違いで悲しい思いをすることだけは嫌だった。
「何か感想はないのかな」
「温くて変に甘かったです」
 あ、そう、と鼻白む。ゼルダは椅子を引き出した。
「……座ったら?」
 今初めて気づいたように、彼は納得の表情で頷いた。
 折しも、開けっ放しの扉から涼しい風が舞い込み、彼の太陽を思わせる金の髪を揺らした。新緑の色の服もはためく。
 ああ、意外と夏が似合うなあ、この人。
「あー涼しいー……」
 途端に背もたれにもたれかかって寛ぐ。こら、一国の姫相手に何和んでるの。
「……扉、閉めてきてよ。不用心でしょ」
「教会に一人でいるのは不用心じゃないんですか」
 ゼルダは意図的にそれを無視した。
「キ・ミ・が、開けたのよね?」
 彼は面倒くさそうに立ち上がり、扉を閉めて内鍵をかけた。教会の内部は再び昼の闇に閉ざされる。そして振り向き、提案してきた。
「ちょっと寝ていいですか?」
「今日泊まっていくの?」
「いや、次の神殿砂漠にあるんで……昼間に攻略するのはちょっと」
 砂漠! というと西のゲルド砂漠か。今日なんか、あんな場所うんざりするほど暑いに違いない。それは引き返してくるのも仕方ないよ。ムドラの書だって持ってたしね。
「団長たちが帰ってきたら一緒に行けば?」
「そうしたいのは山々ですが、長老は一人で行けとおっしゃってました」
 サハスラーラ、意外と厳しいんだ……。物腰穏やかで、いかにも「おじいちゃん」といった表情しか記憶に無いのに。
「いいわよ、私の部屋のベッド空いていたはずだから」
「いや、仮眠とるだけなんでここでいいです。日没には出立しますから」
「え、ここって」
 彼は長椅子に横になった。襟元をゆるめ、帽子を脱ぐ。男の子にしては長めの髪が投げ出された。なんと無遠慮な。
「堅くない? シーツ持ってくる?」
「もう、なんか、どうでもいいです……」
 声は消え入り、やがて穏やかな寝息にとって代わられた。羨ましいほどのスムーズな移行だった。
 その寝顔を眺めつつ、ゼルダは欠伸をしかけて——はっとした。あー、眠気うつってる。
 重々しく柱時計の針が動き、ちょうど真上を指した。ゆっくり数えるように、三回教会の鐘が鳴る。メトロノームを想起させる音に、首が揺れ、目蓋が重くなる——。



「いいのかい、泊まっていかなくて」
「一雨降りそうよ、大丈夫?」
 教会の生垣に囲まれた門の前で、ゼルダは偵察から帰ってきた団長と並び立ち、彼の見送りに出ていた。無理を言って出してもらったのだ。
 鐘の音を聞いた後、彼女は知らず知らずのうちに二度寝していた。しかも最悪なことに、彼に肩を叩かれて目覚めた。
「起こしてもらえるはずでしたよね? なんであなたまで寝ているんですか」
「そう簡単に他人を信用しちゃいけないの。私はキミに世間の厳しさを教えてるんだからねっ!」
 という会話を実際にしたわけではないが、目線のやりとりでほぼ同じ応酬を行ったことは確かだ。
 必死に冷たい視線に気づかないフリをして沈黙の数瞬が過ぎた時、ナイスタイミングで団長が帰還した。それは信仰心に問題のある彼女にすら「これぞまさしく福音!」と思われた。これで責任問題はうやむやになった、はずである。
 そのような経緯があり、やっと出立の準備が整った頃にはすっかり日は暮れかかっていた。夕日はオレンジとピンクの色を溶かして光に透かした色の帯をたなびかせ、山あいに沈んでゆく。真っ黒な山の端を縁取るように、空との境界線は一際明るく輝いていた。
 ゼルダは涼しい風に自慢のブロンドの髪をなびかせ、目を細める。
「まあ、なんとかなります」
 彼は遠い目をして言う。遥か砂漠に想いを馳せているのではなく、これは単に眠気が抜けきれていないだけだ、とゼルダは推理する。こう見えて、彼の寝起きは彼女より悪かった。ちょっと親近感が湧いたのは内緒だ。
 手を振りかけて、はっと思いついた。
「そうだ、ハイリア湖の東に寄ってみて」
「湖へ? 反対方向ですけど」
「知ってるわよ。
 ……お父様が昔言ってた、そこに一年中氷に覆われた洞窟があるんですって」
 あれはゾーラとの和平条約の延長会議の時だったか。件の洞窟には、入口近くまでびっしり氷が張りついていたらしい。一体どこからそんな凄まじい冷気がやってくるのだろうか。ゼルダは出来れば自ら赴いて謎を解きたかったが、彼になら譲っても不思議と悔しいとは思わなかった。
「ああ、あそこか」
 団長が頷いた。まだまだ若い我らが騎士団長殿は端整な顔立ちなので、腕組みしながらのその動作は堂々としていて様になる。
「団長も知っているのね。凍りついた宝箱のこと」
「へぇ……」
 夕日色に染まった彼の瞳が動いた。多少興味がそそられたようだった。
 そう、ハイラル王と護衛隊が意を決して踏み込んだ先には、城でも滅多に見れないような、やたらと装飾の施された宝箱が眠っていたのだ。鍵穴まで氷が侵入し、松明程度の炎では全く溶けない。普通そんな状況なら中身もダメになっていそうだが、いつの時代だってお宝探しはロマンなのだ。
「いかにも涼しい宝物が入ってそうじゃない? でもあんなにビッシリ氷張り付いてたら、開けようとしても霜焼けになるのが関の山よね」
 さあ、キミならどうする。ゼルダは彼を試すつもりだった。
「気が向いたら寄ってみます」
 特に表情を変えることもなく、彼はごくアッサリと承諾した。次いで、ちらりと後ろを見る。
 また、しばしの別れだ。
「じゃあ、気をつけてな」
「はい」
 団長がごく軽い調子で重みのある言葉をかけた。彼も神妙な顔で首肯する。
 さ、私の番だ。
 何と言って送り出そうか、彼女は一瞬迷った。
 「頑張って」という言葉は聞こえはいいが、実はこれほど無責任な言葉はないのではないか、とゼルダは考えている。そんな言葉をかけるなんてできない。団長みたいに、それなりに気を遣って、でも心の込もった言葉。でも彼女にしか扱えない言葉を——。
「あんまり怪我しないで、無事に帰ってきてね」
「分かりました」
 相変わらずの無表情のその奥に、私の言葉は届いたのかな。
 あ、忘れてた。
 早くも遠くなりかけていた背中に急いで呼びかける。
「キミが紋章を集めてる間、どうにかしてアグニムを打ち負かす作戦をたててみせるわ! だから、期待しててもいいのよー!」
 その宣言は、彼への目一杯の誠意と自分への決意の証だった。ただ教会に閉じこもっているわけではなく、必ず彼と釣り合う働きをしてみせる、と。停滞していた思考に扉を開け、確かに風を通してくれた彼への精一杯の感謝の気持ちだ。
 彼はすっと手を挙げる。期待しているとでも言うように。
 ゼルダのすべてはこれからだった。

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