未来のために、貴方のために

「彼女を見かけませんでしたか?」
 少年は今、このような質問をあちこちでして回っていた。精神を患った患者がベッドから脱走したとか、そういうわけではない。「彼女」とは少年の上司だった。
 ハイラル城の廊下で、そう問いかけられた背の高い男性は、うなずいた。
「ああ。朝に一度」
「じゃあ今どこにいるかは分かりませんよね。様子がおかしかったりは……」
「特には。いつも通りだったと思うよ」
 彼こそがこの国が誇る騎士団長だ。動作ごとに、身に帯びた剣がかすかな金属音をたてる。体力的にも地位的にも円熟期を迎えた彼は、しかし権力志向など微塵も感じさせない。平民出身で極められる栄華の限りを味わいながら、ごく穏やかな性格をしていた。
「そういえば……」
 団長は視線を落とした。ハイラルの「勇者」たる少年が目の前にいる。どことなく居心地悪そうに。
「大きな本を抱えていたな。少しうきうきしていらっしゃったかもしれない」
 少年は礼を言い、別の人物を捕まえて同じ質問を繰り返した。
 恰幅の良い——と公に言ってしまうと気分を害されそうだが、少年の倍は体が厚い女性が相手だ。彼がいかにも頼りない体躯をしている分、余計に比較されやすい。
「ゼルダ様を捜しているのかい」
「ええ、まあ」
「最近忙しかったからねえ。きっと教会あたりで一休みしておられると思うよ」
 ゼルダの乳母インパは「おいたわしや」と豊かな頬肉をつかむ(手を添えているだけだが、そう見える)。
 少年は納得した。閑散とした午後の教会は、読書に最適な空間の一つだろう。
「呼び出されたのはこっちなんだけどな」
 伝書バードに託されたメッセージを見て城に駆けつけたのだが、彼女は執務室にいなかった。王族に頭があがるわけもないので、こちらから出向くしかない。ゼルダだって公務の合間を縫い、雀の涙のような時間をやりくりしているのだ。
 この忙しさはいつから始まったのだろう。かけずり回る日々は慢性化してしまい、もはや感覚は麻痺している。
 もちろんクーデターの最中はてんてこまいで、雨の日も風の日も走り回っていた。余計なことを考えている余裕などいっさいなく、緊迫した日々が続いた。しかし、司祭アグニムを倒し、魔王再臨を阻止さえすれば平和な世界が取り戻せるかというと、それは大きな間違いだ。
 今となっては事件解決の前と後、どちらがより大変なのかは比べられない。魔王が倒されてからも、王国はずっと走り通しだった。
 もともと少年は事務的な処理能力を持ち合わせておらず、また期待されてもいなかった。ゼルダに後始末をすべて押しつけるつもりで、魔王を討伐した。これは彼女に向かって明言している。だが、砂の山を積むようにゼルダが疲労をため込んでいく様子を見ていると、さすがの厚顔無恥なハートにも、罪悪感という穴がうがたれるのだ。
 山積された数々の戦後処理——亡くなった兵士に対する賠償金、内戦後のゴタゴタに他国が付け入らないよう策を練ることなど——に対して、ゼルダは恐るべき手腕を発揮した。
 はじめから割り切っていたことだが、少年は暴力によって悪を打倒することしかできなかった。国をつくり、動かすことは他の誰でもない、もはやゼルダにしか出来ないのだ。それは誰もが薄々思っている。だからこそ、彼女の双肩にのしかかる重さを考えては、やりきれなさを感じていた。団長も、インパも。
 少年は、城の玉座の間から教会へとつながる隠し通路での出来事を思い出した。クーデターが起こった当日、二人で薄暗い通路を抜けたあの時の事を。
 背中の方で「振り返らないで」と懇願した時の、今にも崩れそうな声。もしかすると、彼女はあのときすでにこの状況を予期していたのかもしれない。父がいなくなった国を背負う覚悟を、密かに固めていたのかも——。
 少年はきびすを返した。ゼルダが待つであろう、教会へ。



「探しましたよ」
 少年の声はがらんどうの教会によく響いた。少し前まではしばしば、こんな黄昏時にここを訪れたものだ。もっとも当時は兵士の詰め所としても活用されていたので、どんより空気が濁っていた気がする。
 祭壇を書見台替わりに使用するという罰当たりな行為をしていた王女は、顔を上げた。
「あら」
 広げた本に丁寧にしおりを挟み込んで、立ち上がる。
「よくも僕をたらい回しにしてくれましたね。自分で呼び出しておいて」
「まあまあ、怒らないでよ」
 軽口を叩きながら、少年はゼルダの表情を探る。気を張っているようにも、リラックスしているようにも見えた。
「いったいどういう了見なのか、教えてもらいましょうか」
「はじめはね、君とゆっくり話がしたかったのよ。この本について」
 ゼルダは重たい布表紙の本を、持ち上げて見せた。
「これ、知ってる? ハイラル・ヒストリアっていうの。ムドラの書に負けずとも劣らない国家機密よ」
「そんなものホイホイ持ち歩いていいんですか」
「いい悪いじゃなくて、単に重くて大変かな」ゼルダは苦笑した。
 どこからともなく夕餉の香りが漂ってくる、そんな黄昏時だった。ステンドグラス越しに、黄金色の光が射し込む。
 どこまでも続く黄昏の世界——二人がかつて体験した「あの場所」を想起させた。
「で、それがどうしたんです」
「この本には、ハイラルの歴史が王国からの視点で描かれているの」
 話の続きが読めた。つまり、今回のクーデターから発展した魔王再臨事件も、編纂してここに載せられるというわけだ。
「……僕の名前が載るんですか」
「嫌?」
「いい悪いじゃなくて、単に面倒くさいです」先ほどのゼルダの口調を真似て言う。さざめくような笑いの波動がかえってきた。
 ゼルダはメモのために用意していた羽ペンを、行儀悪く振り回した。
「キミはさ、正直なところどう思ってるの。もっと英雄として大々的に祭り上げられたくは、ない?」
「ありえませんね」
 言語道断とばかりにスパッと切り捨てると、質問者は「やっぱりね」という顔をした。
「もったいないと思わないの。立派な勇者を輩出したってことで、私の名前だってずっと歴史に残るし」
 ゼルダは手のひらにこぼれた黄金の光を拾う。瞳はどこか遠くを見ていた。 
「僕の事を利用しなくたって、トライフォースを手にした王女としてなら、永遠に刻まれるでしょうに」
 はっ、とゼルダが身構える気配を感じた。
「トライフォース、ね。あの光を——万能の力を使えば、本当にハイラルは豊かになるのかな」
 少年は確信した。これこそが、彼女がずっと心に秘めていた問題だ。
「どういう意味です」
「昔、聖地に神々が残された力。ふれそめしもの、すべての願いを叶えるトライフォース。もちろんヒストリアにも記されていたわ。きっと、望めばいくらでも国を豊かにすることができるのでしょうね。
 さて、ここからが問題。果たしてあれを使った王政は成功するのかしら」
 難しい話だ。少年は目を伏せた。
「僕があれに触れたとき、トライフォースの精にささやかれました。得られる世界は望み次第だと」
 そして、少年は自身の望みを叶えた。伝説が本当だったことはお互いに知っている。
 思わぬところで王国の管理下に入った聖三角は、どう考えても人の身に余る力だ。ゼルダは、このまま王家で管理しても大丈夫なのか、危惧しているのだ。
「でも、あなたは使わないのでしょう?」
 悩みにうずく眉間のあたりを、少年の言葉が一直線に突き抜ける。
 弾かれたように向き直るゼルダ。髪の毛の上で、黄昏色の粒がきらきら輝く。
「だって、あんな力使わなくても、あなたにならできますよ」
 言葉が胸へと染み渡っていく。「何ができる」という目的語が抜けていたのは、言う必要がないからだ。
 ゼルダは自嘲気味に呟いた。
「……あーら、ずいぶん買いかぶってくれちゃってるわね」
「ハッパをかけさえすれば頑張れる人ですから」
「冷たいなあ」
 少年の静かな目は、雄弁にものを語る。燃え盛る炎を凍らせて閉じこめたようなこの瞳が、ゼルダは好きだった。
「この際ですから、教えてください。あなたは、このハイラルをどうしたいんですか」
 すうっと伸ばした白い指の先に、光が集まっていく。
「私は——私はね」
 一息ついて、
「キミみたいな普通の人が、勇者にならなくても済むような、そんな国をつくりたいの」
 少年の唇が、半開きになった。
 そうか、ゼルダは長い間責任を感じていたのだ。自ら望んで身を投じたといえど、彼は本来ならば多くの国民と同じく、クーデターの真相を知らずに済んだはずの人間だった。なのにゼルダの「声」を聴いたせいで、お尋ね者として手配され、たった一人で数々の試練を乗り越えなくてはならなくなってしまった。
 その罪の意識に、ずっと苦しんでいたのだ。
 少年は表情をゆがめた。唇が突き出る。
「なにを、水くさい」
 え。聴き間違いかしら、ゼルダはきょとんとする。
 彼の眉はつり上がり、どうやら怒ってさえいるようだった。
「今更なんですかそれは。僕はこの人生に後悔なんてしていません。余計なお世話です」
 いっそ冷たいくらいの視線だったが、突き刺さった当人は呆然としている。
「え、あのー、ちょっと」
「あなたは堂々としていればいいんです。……まあ、たまには」
 少年はニヤリと笑顔をひらめかせた。
「泣いたりしても、いいんじゃないでしょうか」
 薄暗い地下道がフラッシュバックする。あのとき彼女は「振り向かないで」と願った。でも、今は——
 ゼルダの手のひらから光がこぼれ落ちた。
「ありがとう……!」
 衝動的に、少年の胸元に飛び込んだ。二人の影が重なる。交差した肌は、日だまりの成分を含んでいるかのようにあたたかい。
 繁栄の時代は、自分の力で築ける。トライフォースに頼る必要なんてない!
 満面に笑みを浮かべながらゼルダは、
「あのね、提案があるの」
「何ですか」
 距離の近さに今更拒否反応を起こしたのか、少年はわずかに身をよじった。
「ラブレンヌに留学してみない?」
 聞いたことがある。ラブレンヌとは海を越えた大陸にある国で、ハイラルのような旧態依然とした文明からは脱し、大層栄えているらしい。
「あそこは政治が進んでるのよ。ハイラルのこれからのためにも、ちょっと探ってきてくれないかなーってね。こっそり人選を進めてたんだけど……」
 軽く目線を下げてゼルダを伺えば、生きた宝石のようなまなざしが迎えた。
 ああ、やはり彼女はこうでなくては。躍動こそ、王女ゼルダの真骨頂だ。
 少年はふっと表情をゆるめると、ゼルダの手をとった。
「いいの?」
「ええ」
 目を閉じれば、これからあの分厚い歴史書に刻まれていくだろう文章が浮かぶようだ。黄金の力によらない黄金の時代は、すぐそこだった。
「僕みたいなやつが普通に暮らせる、あなたの国のために」

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