気まぐれ相談室

(今日は……教会、かな?)
 古ぼけた木の床に、清潔感のある白い壁。塵一つなく掃き清められた部屋の真ん中には、見覚えのある机がぽつねんと置いてある。そこが「彼女」の定位置だ。
「あら、いらっしゃい」
 シスターの服装をした女性が、椅子ごと振り返る。その形の良い唇は、幻の中で小さく動いた。
(おかえり、早かったわね)
 強烈な既視感に不意打ちされて、少年は一瞬めまいを覚えた。踏みしめたはずの足は、ふわふわとおぼつかない。心が、懐かしいあの教会へといざなわれていく。
 ステンドグラスの前に立つ、水色ワンピースの女の子。思い出の中で、彼女は自慢の金髪を元気に翻していた。しかし、その顔は別人の——海の似合う少女のものにすり替わってしまっている。なぜだろう、あれだけ鮮明だった記憶が頼りにならないなんて。
 デジャビュは、「現実」に存在する、偽シスターの黒い瞳がにやりと細められたことによって、終わりを告げた。
「どうしたの。わたしの魅力にクラっときちゃった?」
 偽シスターもとい家主は、さも楽しそうだった。少年はぶすっとする。
「違います。ちょっと知り合いを思い出しただけです」
「教会に知り合いかあ。意外と隅に置けないのねっ」
 妙な方向に曲解されたことを悟り、
「そういう意味でもありませんから!」
 強く否定すると、ずいと左腕を差し出した。長袖をまくり上げれば、所々に擦り傷ができている。
「いつものお願いします。それと水ください」
「はいはい。それにしても、無感動になったわねえ。毎回気合い入れて模様替えしてるのに、反応が薄くて寂しいわ」
「いちいち驚いていたら、心臓が持ちませんから」
 女性は肩をすくめて棚を探り、「トレーシー特製ヒミツのくすり」というラベルが貼られたビンを取り出した。
 彼女は人呼んで(むしろ自称して)気まぐれトレーシー。コホリント島の人里離れた場所で、薬屋を営んでいる。
 名前の前に形容詞がつくほど、その気まぐれさは尋常でない。同じ薬の値段がコロコロ変動するどころか、来る度に家主の服装及び部屋の意匠が大幅に変わるのだった。
 少年はトレーシーが用意したコップを手に取った。冷水を喉に流し込む。一瞬、口の中で炭酸が甘く弾けた気がした。正しくは記憶のどこかで弾けたのだ。
 手近な椅子に腰掛け、部屋の内装遍歴に思いを馳せる。
「この前は図書館でしたっけ。教会って、この島にありませんよね。どうやって再現したんですか」
「だから、メーベ村の図書館で資料を探したの」
「なるほど」
 得心がいった少年に、トレーシーが顔を近づける。甘ったるい芳香が鼻をくすぐった。
「さあ、ヌリヌリしましょうね!」
 少年はしかめっ面になる。
「いい加減、そのいかがわしい雰囲気を醸すの、やめませんか。白昼ですよ」
「もう。からかい甲斐がない子ねえ」
 頬をふくらませつつも、しっかり仕事は果たすトレーシーだった。
 彼は動じた様子もなく、大人しく肌に塗り薬がしみるのを待つ。痛みがみるみる引いていくのが分かった。調合者の気まぐれと破天荒っぷりからは想像もつかない、安定した効き目だった。
 トレーシーは黒のたっぷりした巻き毛を揺らす。
「毎度毎度、こそこそやってきちゃって。喧嘩でもしてるの?
 あ、分かった。カノジョに内緒で来てるんでしょ!」
 少年は口に含んだ水を吹きだしかけた。
「ちっ違いますから!」
「図星ね、さっきまでと明らかに反応が違うわ」
「……!」
 ムキになって開きかけたその唇に、そっと人差し指をあててから。トレーシーは必要以上に体を近づけた。
「恋にお悩み? 相談ならのるわよおん」
「あなたに話すことなんてありません」
「ふうん。わたしどころか誰にも喋ってないんじゃないの。打ち明けたら、きっと楽になるでしょうねえ」
 ごくりと喉を鳴らす。短いが深刻な思考の後、ふっきれた。
「似てるんです。友達と、”とある人”が」
「へえ」
「その友達には……一応、好意を持っているんですが、それは”あの人”と見た目がそっくりだからなのかもしれない。本当に彼女自身に心を寄せているのか、よく分からないんです」
 トレーシーは相槌を打ちながら、大人っぽい仕草でコップに口を付ける。少年がぎょっとした。
「それ、僕が飲んでいたんですけど」
 抗議は堂々と無視された。
「その”ある人”とはどういう関係なの?」
「主従関係です、あちらが上で」
「なあるほど」
 ひとしきり首を縦に振った彼女は、とっておきの秘密を口にする時のように、小声になった。
「きっと、答えはね。その友達と一緒にいる時に見つかるわ。こんなところで頭を悩ませていても解決しないのよ」
「でも、一緒にいたら見た目に惑わされて、よけいに混乱しそうで……」
 うじうじ悩む少年に、いきなりトレーシーは抱きついた。
「うわっ!? ちょっと何するんですかっ」
「これはほら。見た目に惑わされない訓練よ。わたしからのサービスってことで」
「ごめんくださーい! トレーシーさんいますか」
 出し抜けに、明るい挨拶が部屋を通り抜けた。少年はぎょっとして、家主の体を押し退け玄関を見つめる。
「お客さん来てるの。おジャマしちゃったかなー。
 ——あれれっ?」
「ま、マリン……」
 ぽかんとして立ち尽くしたのは、マリーゴールド色の髪が印象的な女の子だ。彼女こそ、少年がここに来ていることを執拗に隠し、かつ先ほどの相談の焦点となった人物だった。
 うまく言葉を紡げない。両者にとって不本意な沈黙が膨れ上がった。
 漂う空気の意味を一瞬で理解し、トレーシーはにこやかに、
「いらっしゃーいマリンちゃん。いつもありがとね」
「ああいえ。こちらこそお世話になってますから」
 マリンは話も半ばに、首を傾げた。
「えっと、なんでキミがここにいるの? 今朝帰るって聞いてたのに。遅いから心配してたのよ」
「それは」
 ぐっと詰まる。それを傍目にニヤニヤするトレーシー。
「帰る前にここに来て、怪我を治していくのよ、彼。マリンちゃんに心配かけまいとね」
「ええっ!」
 マリンはびっくりして涙目になってしまう。少年は、余計なことを口走ったトレーシーを睨みつけながら、同時にうろたえるという器用な動作をやってのけた。
「……遅くなったのは、悪かったよ」
 こう弁解する。ぶっきらぼうな調子だった。
 少女は彼の手を取り、目の端に涙を滲ませて心の内を訴える。
「もう、帰ってこないかと思った。島にやってきた時みたいに、突然海の向こうに行っちゃったのかもって。不安だったのよ、とても」
「僕はそんなことしないよ」
 ぼそりと放たれた一言だが、信用させるに足るだけの何かは持っていた。マリンは目元を拭った。
「そうだよね、約束は守る人だもの。……今晩はキミの分も、たっぷりご飯を用意しなくっちゃ」
 雨上がりの太陽のような笑顔が眩しい。
 ほっと一息ついた少年の視界に、マリンの右手にぶら下がっているものが引っかかった。
「マリン、それは?」
 皮袋につつまれた、一抱えはある物体だ。彼女は紐を解き、中身をお披露目した。
「コッコよ。夕飯にどうかなって。トレーシーさんには定期的に持っていってるの。風邪引いたときなんかに、よく薬を融通してもらってるから」
 天衣無縫そのものの表情で、皮まできれいに剥かれた生肉を抱えている姿はシュールである。少年はポーカーフェイスを貫きつつ、
「それって、家で飼ってたあれかな」
「ええ。言ってなかったかしら、わたしコッコ捌くの得意なの! 今晩はうちもこれだからね」
 台所で、鼻歌交じりに肉に包丁を入れているマリン——そんな映像が容易に思い浮かんで、肝が冷えた。
 当事者はいたって無邪気だ。
「ところで、キミはさっき何をしてたの」
「ハートが満タンになるおまじないよ」
 トレーシーが即答する。少年に口を挟む隙を与えない。
「どうやるのかしら?」
「それはこうやって……」
 と、再び調子に乗り始めたところで、
「マリン、もう用は済んだよね。一緒に帰ろう」
「あ、うん」
 少年は強引に退出するつもりだ。これ以上長居すれば、あることないことマリンに吹き込まれてしまう。素早くサイフを取り出してトレーシーを牽制した。
「代金、いくらですか?」
「コッコもらって、面白い話も聞けたもの。タダでいいわ」
 とんだ交換条件だ。タダより高い物はない、と少年は苦い顔。
「二人とも、お・気・を・つ・け・て!」
 果てしなく含みのある台詞を背中に受けながら、二人は戸をくぐった。
 肩を並べてメーベの村に帰る途上、マリンが俯いた。
「怪我しないのは無理かもしれないけど、無事でいてね。ただ待ってるのって、つらいんだから」
「うん」
「こればっかりは、トレーシーみたいな気まぐれは嫌だからね。絶対よ」
「分かってる」
 二人は指切りを交わした。彼女はこういう儀式を重んじるタイプだった。
 少年は、「ともに過ごせば分かる」というトレーシーの言葉の意味が、少し分かった気がした。今この時、”彼女”とマリンの面影が重なることはなかった。
 彼は覚悟を決めて、そっと隣を歩く少女の手を握った。白い指は少し迷っていたが、すぐに握り返してくれた。
 誰かさんの気まぐれは、二人の距離を近づけたのかもしれない。

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