夕日の涙

 本の中には英雄、勇者などと呼ばれる者は数多くいるけれど、現実世界でその称号を持ち、なおかつ家出した女の子を保護者の代わりに迎えに行かなくちゃならない奴なんて、まあ僕くらいのものだろう。
 夕焼けで蜜柑色に染まった海に、熟れた林檎のように真っ赤な花びらが浮いていた。すくってみると、表面には水滴がぽつぽつついている。まだ水を弾いているから、この花びらは新しいものだな。
 ばらばらになった花びらから、原型の花を思い浮かべる。燃えるようなハイビスカス、彼女の柿色の髪にはよく似合っていたのに。やっぱりタリンが摘んできたから気にくわなかったのか。
 タリンというのは、彼女の保護者だ。つまり彼女の家出の原因。彼女とはひとつ屋根の下に住んでいるが、その関係ははっきりしない。彼女の柿色の髪に空色の瞳、すらっとした身体に対して、タリンは海老茶色の髪と墨色の瞳、お腹がぽっこり出ていて背が小さい。こんなにも容姿が似ていないから、血が繋がっているかどうかすら怪しいのだ。
 ちなみに、僕は彼女の家出の理由についてはほとんど知らない。タリンと喧嘩したらしい、ということくらいしか。
「悪いけど、お願いがあるんだぁよ」
 タリンのにへらと笑った顔を見た時の、あの背筋が寒くなる予感。いつも他人は僕が頼まれたら断れない質なのを承知していて、「実は……」と切り出すのだ。
 しかし、タリンは決して悪い人ではない。彼らが住むメーベ村にいるときにはいろいろと世話を焼いてもらっているのだ。正直、僕はタリンよりも、人の良すぎる自分のことを嘆いていた。押しつけられた『お仕事』をはねのけられない自分を。
 だから、勇者なんてわけのわからない、一文の得にもならない『お仕事』ができたのかもしれない。



 ——長々と考え込んでしまった、今は彼女を探さなくては。
 とはいっても、既に居場所の検討はついていた。推理の証明はこの花びらがしてくれる。彼女が好んで訪れ、このコホリント島でメーベ村に一番近いトロンボ海岸だ。僕が流れついた場所でもある。
 ——いた。彼女だ。先の嵐で海岸に流れ着いた流木の中でも、とりわけ大きいなものをベンチ代わりに腰かけていた。うつ向いているので表情は読み取れない。
 さて困った。一体ここからどうすればいいんだ。喧嘩の理由が曖昧だから説得のしようがないぞ。
 心の迷いがすぐ足に出た。じっくり様子を見ようと思っていたのに、じゃり、とブーツの底が砂とこすれる。彼女はがばっと身体を起こした。まずい。
 僕と目が合う。
「あ……」
 ほとんど彼女の言葉は息だけだった。僕は答えない。黙って彼女の顔を見る。
 日に焼けた肌につたう光る水滴。水の跡をたどった先、夕日に染まった空色の目には塩辛い水が一杯に溜まっている。髪の柿色が夕焼けに映えてとても綺麗なのに、表情だけが悲しい。
「どうしたの?」
 とりあえず、偶然を装ってみた。彼女は「何でもない」と言いたいのか、何度も首を横に振る。唇をキッと引き結び、新たなオレンジの流れを頬につくりながら。
 はあ。心の中でため息をつき、彼女の隣に座った。流木は見た目よりも滑らかな感触だ。
「ねえ、マリン」
 自分でも気がつかないうちに、僕は口を開いていた。そうだ、彼女の名前はマリンという。小さなコホリント島を囲む、広い海の名前だ。
「これ食べない?」
 咄嗟の思いつきでポケットに手を突っ込む。取り出したのは、ここに来る途中で見つけた木苺だ。ルビーのように赤くて、たくさんの小さな粒がひとつの実をつくっている。小腹が空いたときにでも、と思い摘んでいたものだ。
 ひとつ、実を彼女の前に差し出した。
「あげるよ」
 はい、と膝の上に置いてあげた。
 ……わざとらしいだろうか。仕方ない、ここまできたら最後まで演技しきってやる。
 気合いを入れて僕も木苺を頬張った。ぷちぷちと口の中で果実が弾ける……うわ! 渋い、酸っぱい!
 必死の思いで歪んだ表情を矯正しようとするが、さぞかし奇妙な顔になったことだろう。現に、彼女だってきょとんとこちらを見て——。
「……やっぱりね」
 笑われるかとも思ったが、妙に納得した表情で頷かれた。
 一体何なんだ。
「この実ね、黒くなった時の方が熟れてておいしいの」
 彼女は自ら実を口に放り込む。ゆっくり噛んだのちに顔をしかめ、うん、酸っぱいね、と笑った。だったら何故食べたんだろう。
 彼女は身を乗り出して、僕と目線を合わせた。
「ね、どこに生えてたの、これ?」
「ん? どうしてそんなこと訊くの」
「もうちょっとしたらこの実も食べ頃でしょう? いっぱい摘んできて、一緒にジャムつくろうよ。うん、そうしよ」
 一人で嬉しそうに頷いている。その顔に、もう涙は見えない。
 僕は軽く息を吐き、
「いいよ」
 と答えた。ぱっと彼女の顔が輝く。つられて僕の頬も緩んだ。



 今回の件については——変な失態を犯してしまったが、まあ良しとしよう。何より、彼女の笑顔が見れたんだし。うん。
 代わってくれと言われても、代わるつもりは断じてないよ。何だかんだ言っても、僕は、どうやら自分の性質も含めて、コホリント島での生活が気に入っているのようなのである。

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