空たまご

 不規則な波の音はごく近い。そよ風がマリンのオレンジ色の長い髪を拐い、髪飾りのハイビスカスがさざめくように揺れた。
 日が暮れてから数時間。夏至が近づくにつれ日に日に滞在時間を延長していく太陽も、今は地平線の向こうで待機している。静かな海のすぐ上には宝石箱をぶちまけたような星空が広がっていた。
 彼女はこちらに気づいているようで、背中を見せたまま話しかけてきた。
「あれ、どろぼー? 遅かったわね」
「それはこっちが言いたいよ。なんでこんな所に?」
「当ててみて」
 マリンは振り向きながらいたずらっぽく笑う。星明かりの下でもお天道様の下と変わらず、輝かんばかりの魅力的な笑顔だ。
 僕は顎に手を当てて考える素振りをする。
「うーん、海を見てたのかな」
 危険も恐れず村を抜け出し、トロンボ海岸の外れにいたということは、この理由くらいしかないだろう。
 しかし、彼女はより笑みを深める。
「はずれ。星に願いをかけてたの」
「また?」
 彼女は縁起を担ぐのが好きだ。てるてる坊主に始まり、よく分からない雨乞いの儀式までこなす。お願いごとをするときは徹底的に様々なものに願をかけて回り、実現させるためには万全の準備を整える。どうやらそういう「言葉で説明できない」ものが好きらしい。
 この前も「お守りだからこの木の実を持って行って」と半ば強要された。のちに分かったことだが、実はそれは「守りの木の実」といい、ピンチの局面で不思議な力を発揮し大いに役立ってくれた。
 他にもコッコを苛めると祟りが起こる、お店で盗みをはたらくのはやめておいた方がいい——などなど。これらは実際身をもって知った。詳しくは語らないけど。結論としては、彼女の優れた「生活の知恵」にはお世話になってばかりだ。
 星に願いをかけるのは一般的だし、これも彼女の守備範囲だろう。
 って、なんで夕飯前にわざわざそんなことを……。そうそう、おかげで僕が呼び戻す羽目になってしまったんだった。ん、前にもこんなことあったような?
「まーね。どろぼーも一緒にお願いする?」
「いや、僕はいいや。願いは自力で叶えるし」
「いいね、私もそう言いたいわ」
 素直に尊敬の目を向けられた。ちょっと照れくさい。
 格好いい方面に誤解されていそうだが、僕は願いを叶えてくれる「お星さま」やそれに準じる存在をあまり信用していないだけだ。それよかトライフォースの方がよっぽど確実だと思う。実際叶えてもらった例は、ろくでもないものばかりだが、多数あることだし。
 僕らは何となく言葉を失い、揃って海を見る。月の光をちらちら反射している波は、至って穏やかだった。
「……マリンは、何をお願いしてたの?」
「あのね、こういうのは人に教えない方がいいんだよ」
「そうなんだ」
「あっさり引き下がられると逆に話したくなっちゃうわよ!」
 え、何故だろう? その心理はよく理解できない。
 首をひねる僕に構わず、マリンはまさしく夢見心地で勝手に話し始めた。
「卵焼きよ」
「はあ?」
 今までの会話の流れに食べ物は関係ない。夕飯の話かな。
「目玉焼きでもスクランブルエッグでもいいわ。
 私ね、『風のさかな』のタマゴでお腹いっぱいの卵料理を食べるのが夢なの!」
 ……なんと答えていいのやら、よく分からずに僕はすごくつまらない反応をしてしまった。
「あのタマゴは確かに大きいけど、『風のさかな』が眠っているわけであって、コッコみたいな鶏の卵ってわけじゃないんだよ、マリン?」
 言った直後に失敗を悟った。夢の欠片もない話をしてもる興ざめさせるだけだ。しかし、彼女はからっと笑い、それから悩ましげに息を吐いた。
「分かってるわよ、もう。だからあくまで夢なの!
 ……ふふ、どろぼーって結構面白いこと言うわよね」
「そうかな?」
「うん。話してて飽きないよ」
 それは本心からの言葉だったようで、マリンは少し頬を染めた。
 ふと、胸に疑問が生じる。なぜ叶うはずのない夢を彼女は願うのだろう。
「私、思うの。私たちコホリント島の人たちは、『風のさかな』の守り人みたいなものなんじゃないかってね」
 ……なるほど。そういう考え方もあるかもしれない。
「だから、どろぼーが『風のさかな』目覚めさせてくれたらお役御免でしょ! そしたらみんなで分けあって卵をたくさん食べるの」
 空想してみる。『風のさかな』の祭壇に集まる人々、種々雑多な卵料理、そしてそれを配り歩き、ウェイトレスとして忙しく駆け回るマリン——。
 僕の顔はいつの間にか綻んでいた。
「いいね、それ。僕も混ぜてよ」
「当たり前だって! 特等席を用意するね」
 とりとめもない会話がどうしようもなく愛しくて、マリンを連れて帰るのを少し躊躇してしまった。
 折しも、海からの風がびゅうっと吹いた。それはよく海水に冷やされていてちくちくと肌を刺し、僕は一気に我に返る。
「うわ、さむ」
 今にもくしゃみをしそうな顔でマリンが震える。その間の抜けた顔がおかしくって、どうしてもこらえきれず笑ってしまった。
「帰ろ、冷えるよ」
「うん」
 さりげなく差し出した手を、さりげなく受け取ってもらい、僕らは家路についた。頭上を往く天の川は静かに空の果てを目指して流れ、道しるべのように『風のさかな』のタマゴまで続いていた。
 僕は空を見上げ、ぼそっと呟く。
「マリンの願い、叶うといいね」

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