月の虹かかる朝

 大きな大きなお月様は溶けるように崩れて、浜辺の砂のようなきらきらした粒になりました。それは風に乗り天を駆け、朝日に煌めく虹になりました。



「あの虹、いつまでかかってるんだろうね」
『さあね。でも空に浮かぶものとしては、あんな月より遙かにいいじゃない。いつまでも眺めていたいわ』
「そうだね」
 リンクはくすりと笑いました。チャットがすぅっと空を切って飛びます。
 たんぽぽ色に光る彼女を見て、リンクは前と比べて随分柔らかくなったもんだ、とつくづく感じました。人間と妖精は相棒としてあるべきなのに、彼女は当初リンクを利用することしか考えていませんでした。しかし、今では明け方の決戦でちょっと足を悪くした彼をいたわり、ムイムイが這うようなスピードで飛んでくれています。何も言わないけれど、さりげなく心配しているのです。
「このコンビも、もう終わりだね」
 遠く青い空と、今は見えない月に思いをはせながらリンクは呟きました。「もう秋だね」とでも言うようにあっけらかんとしていて、別れの寂しさはその表情のどこにもありません。
 ぽかぽか陽気の平原はいつになく静かです。
『そうね、これでコンビ解消よね。短い間だったけど』
「そうだね」
 さして感慨も無さそうな返事です。明後日の方向を見ています。投げやりな態度です。
 チャットはいぶかしげな視線を注ぎます。彼の横顔は答えません。
『……何よ、さっきから。話題ふっておいて適当な返事しかしてないじゃない』
「そう、かな?」
 それでもリンクは上の空です。一体何を考えているのでしょう。
『まさかリンク、カーニバルに浮かれてる?』
 そこで、彼は初めてチャットに振り向きました。しかも、まじまじと見つめてきます。冬の空と同じ色の瞳の中に、雲はひと欠片も浮いていません。どこまでも青いのです。
 リンクは真剣そのもので尋ねます。
「チャット、もしかして今初めて僕の名前呼んだ?」
 妖精はきょとんとしました。
『あ、あれ、そうだった?』
「そうだよ。あは、ちょっと嬉しいな」
 小さな勇者は湧き上がるおかしさに肩を震わせます。チャットはいらいらしてむくれます。なんだか面白くありません。
『なんで。何がそんなに嬉しいのよ』
「まあまあそんなにツンケンしなくても。さー、早いとこロックビルに行っちゃおうよ」
 今吹いた風のように、さらりと流されてしまいます。彼女はむすっと押し黙りました。リンクはからからと笑いました。白い朝の日差しを受けて、背中の盾は鏡のように輝きます。
 タルミナは平和になりました。廃れかけていた数々の観光地も徐々に復活するでしょう。もともと他地方からの観光客が多かったですし、避難していた人たちが帰ってきたら、すぐにそこらじゅうが人、人、人で溢れかえるのではないでしょうか。
 しかし、それでも淋しい場所はあります。例えば、今向かっている谷です。
 谷にはイカーナ村という人里がありますが、もとは丸々全部お墓だったのです。その昔栄えたというイカーナ王国の最後の王様、イゴース・ド・イカーナの大きなお墓でした。
 イカーナ村はその跡地に出来た村です。土地に染みついた亡者の嘆きのせいか、空気は澱み、日当たりは悪く。瘴気のようなものが溜まっているようにも思えます。リンクたちも、陰気くさくて、いるだけで気が滅入る場所、という嫌な印象を抱きました。
 さらには滅びた王国の亡者が、ムジュラの仮面の呪いによって蘇り、歩き回っていたのです。生と死が逆転したこの地でもリンクたちはなんとか勝利を収め、光と青空を取り戻したのですが——。
 記憶のノートには苦戦した時のことばかり残っています。あまり好んで訪れたい場所ではありません。
『町長さんだって忙しいのは分かるけど、何もアタシ達に頼むことないじゃない!』
 威勢のいい声に、リンクは我にかえりました。
 そうです。二人はクロックタウンのドトール町長さんに、イカーナ村の人々をカーニバルに呼んできて欲しい、今人手が足りないから、と頭を下げられたのでした。
「別にいいじゃないか。僕ら暇だし。人って言ってもパメラとお父さんの二人だけでしょ。
 ……そういえば、チャットは何でついてきたの?」
『厄介払いされたのよ。スタルキッドもトレイルも変なカンジで、リンクと行けリンクと行け〜って。なーんか妙に白々しかったの』
「ふーん?」
 リンクは面白そうに目をくりくり動かします。からかわれていると思ってチャットはぶぶぶ、と蜂が耳元にいるときのような音を鳴らしました。
『なんか、アンタ、さっきからやけにつっかかってくるわね』
 リンクは白々しく笑いました。
「気のせいだよ」
『……アンタってガキンチョのくせに生意気よね』
「ありがとう」
 何を言っても涼しい顔です。彼女は悔しくて彼の後頭部めがけて飛び込みますが、すいっと避けられました。
「ほらほら谷に着くよ。フックショット使うから帽子の中に入りなよ」
 結局、チャットはリンクにはちっともかなわないのでした。



「おや、旅の方ですか? こんなへんぴな所に一体どうしたんですか」
 オルゴールハウスの可愛らしい呼び鈴を鳴らすと、穏和そうなパメラのお父さんが出てきました。当然ですが、リンクたちのことは覚えていません。
 何度も何度も繰り返していた、カーニバル前の三日間。タルミナで月に脅かされていた人々の中で、リンクとチャットの二人だけは『時のオカリナ』の力によって全ての三日間を記憶しています。しかし、まわる時の内側にいた他の人々の記憶は、三日ごとにリセットされます。つまり、リンクたちの冒険は、本当の意味ではお互いしか知らないのです。多くの人は、神話の巨人がやってきて月を消してくれた、と思っているはずです。おそらく、パメラもお父さんも今朝の日の出と共に月の消滅を確認したのでしょう。その時の光景と虹の話をしつつ、熱いコーヒーを淹れてくれました。
 リンクは手早く事情を説明しました。今日と明日で途中で放棄されていた準備を完了させ、明後日からカーニバルを行うことになりました、と。
「そうか。わざわざすまなかったね。町長さんも忙しいとはいえ、キミみたいな子に任せるなんてね」
 自分で淹れたコーヒーを飲みながら朗らかに笑う彼に、前会ったときの面影は少しもありません。リンクはぼんやりと思い出します。
 お父さんは「幽霊研究家」という珍しい職業に就いています。ムジュラの仮面の呪いによって地上に溢れかえった亡者を研究するために、パメラと共にイカーナ村へ引っ越してきたのでした。しかし呪いは彼の身にもおよび、外の亡者と同化しかけていて、パメラが物置に必死に押し込めていました。それもリンクの奏でた『いやしの歌』という曲で呪いを解くことで解決したのですが——。
 呪いを受けていた彼は、包帯の隙間からのぞく血走った目を持ち、だらしなく開いた口からだらだらよだれを垂らしていました。ふと気を抜くとあの顔と今の顔が重なりそうで、リンクは怖気を震いました。
「……コーヒーは嫌いだったかい?」
 カップに添えた手が止まっていたことに、彼はやっと気がつきました。
「い、いえ。猫舌なんです」
『あら、ホットミルクはよく飲むじゃない』
 すかさずチャットが突っ込みます。リンクは初めて子供らしくむっとして切り返します。
「ミルクは別なの。特にシャトーロマーニは、ね」
 秘密めいた響きです。そばの妖精に聞こえる程度に呟いただけでしたが、お父さんには聞こえていたようです。
「おお、キミにもあのおいしさが分かるのか!」
 がたんと派手な音を立ててイスが倒れました。お父さんが勢いよく立ち上がったのです。二人はぽかんとして空色とたんぽぽ色の視線を交わしました。
「お父さーん? 床薄いんだから一階で騒ぐなっていったの誰だったのよー!」
 階下からパメラの可憐な声が聞こえてきます。
 あはは、とお父さんは舌を出しました。



『で、なんでこっちにまで来たのよ』
 ずっと昔からここに存在し、この地を見守るものとして威風堂々たたずむお城。イカーナ古城です。二人はそこの、正門前に来ています。
「やっぱり気にならない? ちゃんと王様と側近の二人、成仏してるかなって。
 それに……」
『それに?』
「ここに来るのも、最後だからね」
 チャットは素早くリンクの横顔を見ます。子供が決してまとうことのできない雰囲気でした。別れの寂しさ、愁い、過去への想い。すべてがない交ぜになった複雑な感情を、彼女は感じとりました。
 しかしその雰囲気は、ほんの一瞬で霧散します。
「ふぁ……ねむ」
 あくびまじりの呟きが聞こえます。チャットは呆れました。
『そりゃそうよ。三時間も寝てないじゃない』
「イカーナ古城でベッド借りようかな」
『リーデットかギブドあたりが乗ってそうね』
「うへえ……」
 心底嫌そうな顔をしてから、あれ? と首をかしげます。
『どうしたの?』
 初めて来たここに時は、枯れ井戸の抜け道を通って侵入しました。その帰りは正門から閂を外して出ています。それから三日以上経ち、時間のリセットが起こりました。つまり——。
「閉まってるはず、だよね?」
 そうです。しかし不思議なことに、正門は開けっぱなしでした。
「自然に壊れたのかな」
『蹴っても叩いても無理だったじゃない。大歓迎なのよ、きっと』
「そうかなあ。埃の歓迎ならご遠慮願いたいな」
 前回の侵入時にかなり緑衣が汚れたことを思い出し、ため息をつきながら正門をくぐりました。
 見上げる古城は降り注ぐ光の中で、堂々たるたたずまいです。
 二人は顔を見合わせました。
「静か、だね」
『確かに変、ね』
 違和感です。前に来たときの経験のせいで、トラウマになりかけたからでしょうか。ぬぐいきれない嫌な予感がするのです。リンクの鋭い勘とチャットの特別な感覚に、何かが引っかかります。
「大歓迎、来るかもよ?」
 それでもあえて余裕の態度で臨みます。しかも茶目っ気たっぷりに、妖精に向かってウインクまでして見せました。
 そして、躊躇なく一息に古城の扉を開け放ちます。
 彼らが見たものとは。
『ア、イラッシャイマセー』
 いつものひからびた包帯の代わりに、鮮やかなオレンジ色のリボンを巻いているミイラ男のモンスター——ギブドでした。



 ぞうきん程度じゃ拭えそうにない、年月という埃がこびりついているからでしょうか。イカーナ古城の謁見の間の大広間は、どこもかしこもセピア色がかって見えます。昔はここに大勢の人々がひしめき合い、夜な夜な煌々と灯が焚かれ、贅を尽くした舞踏会が行われていたのでしょう。
 その夢のような光景が今、ここに再現されました。ただし、踊っているのはいずれもリンクたちが散々苦しめられたモンスターばかり。何故って、かつての王族貴族たちは誰も彼も死霊になってしまっていたのです。
 あちらではタキシードを着込んだリーデットがコサックダンスを舞い、数百年前は人間の貴婦人だったギブドを釘付けにしています。またこちらでは、色あせたグランドピアノの鍵盤が軽やかにステップを踏み、七色の音を奏でています。ふと目をやると、ある元婦人の蜜柑色のドレスの胸元には、彼女がはめている指輪のルビーとほぼ同じ大きさ、という規格外に大粒の真珠をちりばめたネックレスが揺れていました。ううん、さすがの大イカーナ王国。目につく貴金属には、どれも頭に「世界で有数の」とか「名高い職人が作った」という修飾語がつきそうです。どんなに小さい採光窓にも必ず金の縁飾りがついているようなお城ですから、出入りする人がきらびやかなのは当たり前だったのでしょう。
 リンクの座る玉座付近に設けられた来賓用のソファは、年季の入った見た目が嘘のようにふかふかでした。モンスターがひしめき合っている、という常人なら見るもおぞましい光景を前にしているのに、何故かくつろいでいる自分を見つけて、彼は苦笑します。
 骨にマントを羽織っただけのイカーナ王は、見た目がほとんど変わっていないにもかかわらず、前よりも穏やかになっていました。彼は、身長が彼の二分の一ほどしかないお客さんを見て、わははと豪快に笑いました。
『どうだ、びっくりしただろう』
「しましたよ、充分……。肝が潰れました」
『そうか、苦労して用意した甲斐があったというものだ』
 こっちはぜんっぜん良くないっつーの。こっそりチャットが悪態をつきました。
 本当に、今まで恐怖の対象としか見ていなかったモンスターに、友好的な視線を投げかけられた時は、驚きすぎてどうすればいいのか分からなくなってしまいました。その後、なぜか城中のモンスターに賓客待遇を受け、接客係とおぼしきオレンジリボンのギブドにうやうやしく案内された場所が、ここでした。
「何かおめでたいことでもあったんですか?」
 各所にある窓は開け放たれ、以前と違って随分明るい印象です。
 イカーナ王は壁も舞踏会も通り越して、遙か遠くを見ています。
『いや、風の噂にカーニバルの話を聞いてな。懐かしくなったのだ』
『そっか、カーニバルって神話並みに古い行事だったわね』
 アンジュのおばあちゃんがいつかの夜に語ってくれた話を思い出します。物思いにふけっていると、遠くの方からかすかな雑音が聞こえてきました。
「どうしたんだろう」
 広間の入り口付近、玉座と正反対の方向がざわついています。よくよく目をこらすと、翼を持った黒い染みのようなものがこちらへ飛んできています。やがて王の元にひらりと舞い降りてきました。
『王サマー。もうひとりお客サマです』
 真っ黒いコウモリのモンスター・キースが、きいきい声で報告します。
『あら、アタシたちの他にも犠牲者がいたのね』
「物好きだね」
 二人は王に聞こえないようにぼそぼそ愚痴りました。
 そこで出し抜けに、広間に怒号が響き渡りました。
「おーい、客置き去りにするとはどういう了見だっ! 案内くらいしてくれ!」
 ホールに流れる上品な音楽がピタリと止み、会場はしんと静まりかえります。
 声の主はなんだかかなり怒っているようです。二人にはなんとなく聞き覚えがありました。必死に喉元まで出かかっている答えを掴み取ろうと、うんうん唸るチャットを尻目に、先にリンクがピンときました。
「もしかして……カーフェイ?」
「リンク! ここにいたのか」
 そう、大股で入ってきた人物は、大人の姿に戻ったカーフェイです! しかし、いつも綺麗に整えていた紫紺色の髪は乱れ、息も切れ切れのようです。なんでこの舞踏会を見ても平気なんだろう、という疑問が頭をかすめましたが、それを指摘した途端倒れられても困ります。リンクは余計なことは言わず、冷静に切り返しました。
「こんな所までどうしたの? 結婚式の準備は?」
「お面、返してくれ」
『は?』
 何のことか見当もつかないチャットはとぼけた声を出しましたが、リンクの顔には勇者らしからぬ文字が浮かびました。すなわち、「やばい、まずい」。
 どうやら本当に焦っているようで、カーフェイは矢継ぎ早に言葉を紡ぎます。
「ほら、夫婦のお面。結婚式で使うんだよ。気づいてから家飛び出して来たんだぞ? さっさと返してくれ」
 ……そういえば。確かにリンクは彼からお面をを預かっていました。月が落ちる間際にアンジュとカーフェイは結婚の誓いを立て、その際に「証明に預かっていてくれ」と頼まれて。結局そのまま時間がなくて、決戦の地まで持って行ってしまい、よりによって、月の平原で他のお面と一緒に鬼神に捧げてしまったのでした……。
 よし。
 リンクの中で、これからやるべき行動がひとつにまとまりました。
「ごめん、無理だ」
「はあ!? どういうことか説明——」
 首根っこを掴もうと伸ばされたカーフェイの手をするりとかわし、リンクは脱兎のごとく駆け出しました。
「王様、楽しかったです! ありがとう! またねっ」
 豊かだけどセピア色を帯びた色彩の海の中を、細かく縫うように逃げていきます。
「逃がすか!」
 しかしカーフェイは元紳士淑女に阻まれて、思うように身動きが取れません。それでもかき分けかき分け、半ば泳ぐように広間のあちら側へ渡っていきます。
 ——チャットは、一人だけぽつんと取り残されてしまいました。
『ちょ、ちょっと、アタシを置いかないでよ!』
 もう後の祭りです。しょうがないやつらなんだから、とぶちぶち言いつつも追いかけようとしたとき、
『妖精よ』
『ハイ?』
 それまで傍観していたイカーナ王が話しかけてきたのです。いつになく、低い声でした。
 チャットはごくりと息を呑みます。
『彼に伝えてくれぬか。王国を救ってくれたことは感謝している、ありがとうと。そして迷惑をかけてすまなかったと』
 ハッと息を呑みます。彼女がヒトならばあんぐりと口を開けている所です。次いで、言葉が溢れてきました。
『まさか王様、記憶があったの!? じゃ、じゃあこれってお礼のために——』
 振り向いてチャットは絶句しました。大広間が、着飾ったモンスター達が、窓から差し込む清浄な光に溶けかけています! 華やかな舞踏会が、過去の夢に再び還ろうとしているのです。
 それは、イカーナ王も同様でした。滅んだ国への切なさに、妖精にはあるはずのない胸がきゅっと締まるような思いがします。彼女がもっと王様と親交があったならば、もしかすると泣いていたかもしれません。
『頼んだぞ』
 しかし彼女は消えていく広間と王国の記憶を後ろに、高く高く飛びました。決して振り返らず、祈りの言葉を口にながら。
『どうか、安らかに……』



「チャット、追いつくの遅かったね」
『そんなことないわよ』
 タルミナ平原に伸びる二つの影。谷からの帰り道です。すっかり日も暮れかかっているのでした。
 上手いことカーフェイを巻くことに成功したリンクは、勝利に酔ったのか珍しく鼻歌なんて歌っています。いつもより無口な妖精にも気づいていないようです。
「これで町に帰りにくくなっちゃったね。これからどうしよう。どこか行きたいところある?」
『ないわよ。でも……』
 続きを促すように、空色の瞳が瞬きます。さながら、顔を見せ始めた星屑のように。
 そして、彼は幻を見ました。チャットが人間のように微笑む姿を。
『アンタが行くとこだったらどこにでもついて行ってあげる』



 星の欠片で出来ているように昼の空にかかっていた虹は、やがて、東の空に消えていきました。

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