記憶を奏でて

 古井戸を覗くと、遥か眼下の水面に、ちらりと自分の顔が映った。小さく揺れる向こう側のわたしは、こちらを見てやんわりと微笑んでいる。そこに一瞬光が反射して、瞳が紅色に光ったように見えた。——どきりとする。
 いつもの正装とは違って城下町でそろえた軽やかな上下を着込み、わたし——ハイラル女王ゼルダ——はカカリコ村を調査しにやって来た。といっても、大層なことをするわけではない。村の古井戸の様子を確認するだけの、実質上のリフレッシュ休暇だった。
「あの、危ないですよ」
 乗り出してじっと井戸を覗き込んでいたら、咎めるような声がかけられた。身投げでもするのか、と間違われたのかもしれない。
 振り返ると、後ろに立っていた、怪訝そうな顔をした女性と目が合った。
 あっ、と声を上げそうになる。彼女の短めの茶髪には見覚えがあった。
「町の方から来た人ですか?」
「ええ、まあ」
 嘘は言っていない。確かに城下町の、奥の方から来たのだから。
 ——去る日、ここカカリコ村からハイラル王家に宛てて、とある手紙が寄せられた。それは、血塗られた歴史を持つ、村の古井戸の調査を依頼するものだった。
 それを知り、わたしは一人で調べに行きたいと主張した。無論初めは城の皆には反対された。けれど諦めずに粘り続け、無理矢理に納得させてみせた。「働きすぎて疲れたから」「村で休みをとりたくて」、などと理由をこじつけて。今ごろはきっと、インパがいなくなってからゼルダ様はますます奔放になられてしまった……なんて皆に嘆かれているのだろう。
 あの時許可をもらえたのは、きっとわたしが「シーク」という人物を経験していたからだ。城に閉じこもって真面目に政務をこなしていただけでは、これほどの信頼は決して得られなかったに違いない。男に化けて七年間も魔王の追跡を逃れた、あの記憶。それは他人の評価を築いただけでなく、確実にわたし自身の大きな力となっている。
 でも、実を言うと、あれは「わたし」の経験ではなかったと思っている。あのときのわたしは、確かに「シーク」という一人の青年だったのだ——!
 だから、だろうか。今になって、彼を失ったことがどうしようもない寂しさを呼んでいる。胸に穴が開いて、冷たい風が吹き抜けているようだ。日が経つにつれ、シークの時の自信に満ちた感覚が薄れていく。それは自分が自分でなくなるようで、何よりも苦しかった。
「あなたは……」
 思考が途切れ、記憶が蘇った。そうだ、この人とは一度会っていたんだ。シークが。
 あれは時の勇者が目覚める前だった。勇者の役に立つ道具が墓地に眠っているという噂を聞きつけて、まだ不気味な雲に覆われていたデスマウンテンの麓へとやって来たときのことだ——。
 動揺を悟られまいと目をそらす。どうしよう、急に話しづらくなってしまった。
 そのとき、タイミング良く「あるもの」が目に入った。それを指差し、
「あなた、あのコッコを飼っている家の人でしょう?」
「そうですけれど……?」
「開けっ放しになっているわよ、柵の扉」
「まあ!」
 振り返った彼女の顔が青くなる。柵の中にいるはずのコッコは、全羽、忽然と姿を消していた。
 相変わらずのようね、と苦笑する。シークとして出会った時も同じような出来事があったのだ。
「コッコを探すの、手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
 しかし女性は想像よりも冷静だった。おもむろにポケットから小さな笛を取りだし、ピィーッと勢い良く吹き鳴らす。
「コケーッ!」
「あっ」
 その途端。ばさばさという音が風に乗って聞こえてきたと思えば、何羽ものコッコたちが翼を広げ、舞い戻ってきたのだ! 次々と柵の中に飛び込んでいく光景は圧巻である。
「すごい、よく躾けられているわね!」
 わたしは興奮して早口になる。彼女は照れくさそうに笑った。
「私、コッコアレルギーなんです。でも以前——魔王がいた頃に、村に立ち寄った吟遊詩人様が、今のような状況に居合わせて。ハープを奏でてコッコたちを戻してくださったの。それにヒントを得て、笛の音で帰ってくるようにしたんです」
「吟遊詩人……」
 魔王の支配時にハープを嗜む吟遊詩人なんて、他にそうそういるわけがない。わたしの顔色が変わったことにも気づかず、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「あの方、今どこにいらっしゃるか分からないの。お礼を言いたいんですけど……」
 彼女の瞳にどこまでも広がる青空が映る。しかし、同じ空の下に、彼はもういない。
 ——でも、わたしがいる。シークの代わりではない、わたしが。
 たとえ歳月が彼との間を隔てても。あの七年の月日は、ハープの調べとともに、しっかりとわたしの記憶に刻まれている。
 そう、わたしがいるということは、シークがこの世から消えることと、イコールではない!
 決意、という程のものでもなかった。わたしはごく自然に、彼女にこう言っていた。
「知ってるわ、その人。よろしければわたしが言付けましょうか?」
 瞬間、ぱっと向日葵のような笑顔が咲く。その花を咲かせたわたし自身を、少し誇らしく思った。
「お知り合いなんですか!」
「まあ、そのようなものね」
「お願いします!」
 癖なのかペコペコ頭を下げる彼女に苦笑しつつ、
「優しい女性がコッコのことでお礼を言いたい、ってね。しっかり伝えるわ」



 城への帰り道についたわたしは、馬車に揺られながらぼんやりと考える。御者を上手く説き伏せて、寄り道の許可を取る算段を練っていたのだ。
 城に帰る前に、楽器屋に寄りたいわ。何故って? わたしだって負けていられないもの。ハープくらいすぐに弾きこなして、またあの女性に会いに行くわ。
 ——ね、シーク?

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